人間なんてラララのラ
東京アンテナコンテナ
「劇」小劇場(東京都)
2016/05/18 (水) ~ 2016/05/22 (日)公演終了
満足度★★★★
泣いて笑って...【WHITE】
泣けるコメディ...思い出に向き合うことが出来れば、記憶の中で死者は死んではいない。記憶を大切にすることは、悲しみを乗り越えて生きている人の明日に繋がる。現世と幽界を往還し、人の機微に触れるようなヒューマンドラマ。この公演は11年振り...旗揚げ公演時のような雰囲気を彷彿させる制作になっているという。筋書きとおりなのかアドリブなのか判別がつかないような演技、その観せ方は観客へのサービス精神、楽しませるという感じである。(上演時間1時間45分)
ネタバレBOX
セットは簡素、中央上部に何枚かの平板が吊るされている感じで、その色は上手から黒・白・黒...まるで鯨幕のようである。そして白色の可動ベンチ椅子2つ。
梗概は、白・黒に2死神のゲームのような勝負事から物語は始まる。なぜか死神にも活動領域のようなものがあり、黒死神が白死神の領域を侵犯し...。黒死神は、死にたがっている者の現世への未練を断ち切ることで、死の旅路へ誘う。一方、白死神は生きる希望を持たせられるか。その勝敗の対象となる人間模様が面白く、そして切なく描かれる。ラスト、勝負の意味は別のところにあることが明らかになる。妻に先立たれた男が死にたがっている男の夢を叶えるよう手助けする。そのことで自身の生きたいという気持が再生するところは人間讃歌そのもの。
この公演は「死」を扱っているが、それは荘厳なイメージではなく、自然な成り行き「運命」として受け止める。死という掴みようのないものに、謙虚に向き合う。その様相をコミカル丁寧に切り取り、語りの視座は、それ自体伸び縮みして人間と死神、現世と幽界の間を行き来しながら絶えず揺らぎ移動している。その自由度の大きさが、この芝居の魅力だと思う。その中で即興的な演じが心地良い。演技...現世はある程度テンポよく、そして幽界はゆったり浮遊する感じで異次元の雰囲気を出す(松村沙瑛子サン)。
生死を繰り返すしかない人間の営みも、必ず繰り返し甲斐(がい)があると...だから傍にいるのかもしれない。実に余韻のあるラストシーンである。
次回公演を楽しみにしております。
許されざる者
シンクロ少女
OFF OFFシアター(東京都)
2016/05/17 (火) ~ 2016/05/24 (火)公演終了
満足度★★★★
艶笑譚...男女の卑小な欲望が見える【ハッピーエンドVer】
この物語は、コミカルな演出にしつつも人間(夫婦)の在り方を冷徹に見直す、そんな普遍性を盛り込んでいるように感じた。それは上辺だけを見ていない。夫婦である前に「女」、「男」という生殖が先立つような色気を漂わせる。その匂(臭)い立つような空気は、ケンカでもすれば臭い冷気、仲が良ければ匂う暖気という寒暖がしっかり観てとれ、なぜか頬が弛んでくる。その笑いを誘う演出と役者の息の合った(シンクロするような)演技が実に心地よい。ケンカはしているが、一本ネジが弛んだような脱力感溢れる夫婦、元妻と現妻との間を行ったり来たりしている割には、地べたに足が着いた男を中心にした奇妙な夫婦。この2組の夫婦の生活観(感)、呼吸、リズムが伝わるような錯覚に陥る。
ネタバレBOX
舞台設定(セット)は、マンションの上下階の2組の夫婦。同じマンションといっても間取りは異なるようだ。上手は上階...ダイニングセット、中央にこの上階のベランダをイメージした手摺。下手が階下...和室(畳)に座卓。周りは家屋の木枠組みのようで、意思疎通の良さか心の隙間風か、どちらであろう。
上階に、下階の夫婦ケンカ(不倫原因)の声が筒抜け。そしてその妻が腹いせに上階の夫と関係を持つ。そのうち互いの夫婦は公認して、互いのパートナーを変え嫉妬を煽るような性感覚をもって交情を重ねる。性欲と生殖が綯い交ぜになって生存を主張してくる。この描きが官能的であり濃密である。夫婦の交情という外装の内に秘めているであろう台詞の数々が、笑いの中にあっても魔術のような陶酔感を与えてくれる。
夫婦の存在が相互不信に根ざす限り将来は危うい。また一見ものわかりの良い夫、都合の良い妻を演じたところで、いずれは夫婦関係は破綻を招くと思う。それを繋ぎとめるのが子どもの存在。このハッピーVerでも懐妊した子の父親(夫か相手の男は判らないという苦悩はある)が救いのようである。
さて、この後日談が気になる。子の成長に伴い、夫に似ていない現実を前にした時、子は鎹(かすがい)ではなく、夫婦関係を危うくする原因になることは容易に想像がつく。本当にハッピーか...。
次回公演を楽しみにしております。
兄弟の都市
MICOSHI COMPLEX
OFF OFFシアター(東京都)
2016/05/12 (木) ~ 2016/05/15 (日)公演終了
満足度★★★★
観応え十分
兄弟都市という友好都市提携というハッピーイメージではない。どちらかと言えばブラック・コメディという印象である。何よりも都市という名があるが、その根幹には人間の有り様が描かれる。国(行政)益と個人(家族)の思惑がいつの間にか融合し、立体的な物語として展開する。そのさりげない交錯(耕作)劇は、演出こそコメディタッチであるが、多くの示唆を含んだ社会派ドラマのようである。
ネタバレBOX
セットは、上手に段差のある舞台...別場所(国)を表わしているようだ。特徴的なのは、ピクトグラムのような絵文字・絵単語と呼ばれるパネルが掲示され、さながらユニバーサルデザインの様相を示す。そこに兄弟都市という国際互恵が感じられる巧みさ。
梗概は、輝かしい未来のため、某密約を伴って互いを「兄弟」と認め合った2つの都市。 時は流れ現代日本が舞台。 一人の少女と一人の青年の交換留学をきっかけに 兄弟都市提携に亀裂が生じる!もっとも都市提携ではなく、企業提携といった商業ベースの話のようでもあった。
この芝居では二国間という設定...タンバヤマ市(日本)とアノコク市(途上国)であり、タンバヤマ市の支援と、一方アノコク市の農産物(似ブロッコリー生産)耕作が、いつの間にか発展と途上国の立場が逆転していく。そしてこの両国を擬人化した男女カップル(国際結婚)の話へ摩り替わっていく。この夫婦(妻が途上国の人のようだ)の生活・歴史・文化感を通して、人間本質が炙り出されるようだ。二人の間に出来た子は混血児。妻は母国語を忘れ、今生活している国の文化(例えば「言葉」)に同化していく。なぜ自分が生まれた国の言葉を子供に教えない?どちらの言葉で話させるのか?を意地悪に問う。アイデンティティはどうか。それらは子供による選択であるという。偏狭な信仰、考え方に対する痛烈な回答であろう。歴史や文化の異なる人々がどのように感じ、考え、行動しているか。国家は人の集合体。その最小の構成単位は家族かもしれない。その漠然とした器である国家を個という人の内側から生き生きと描いた芝居だと思う。
演技は、役者陣が登場人物のキャラクターを魅力的に体現するが、演出としては、どこにでも居るような典型的な人間像を描いている。
少し気になるのが、物語全体の流れ。場面毎は、含蓄ある台詞もあり観応えがあるが、全体を貫く主張したいことが分かり難くなった。場面が張り合わせのようで、メリハリが感じられないような…。人間というミクロの視点は面白いが、都市(国)というダイナミックなマクロ視点が暈けたように感じた。
次回公演を楽しみにしております。
昭和歌謡コメディ~築地 ソバ屋 笑福寺~Vol.5
昭和歌謡コメディ事務局
ブディストホール(東京都)
2016/05/12 (木) ~ 2016/05/15 (日)公演終了
満足度★★★★
懐かしく楽しいひと時
今年は昭和の元号で言えば、90年にあたる。社会的には昭和20年までは軍事戦争、戦後は経済競争(高度成長期)、バブル時期を経て失われた何十年。時代環境は等しく人々の生活に影響を与えるが、その時に聞く歌は人によって受け止め方が違う。歌謡はその時代の人に寄り添うものであり、その思い出は千差万別であろう。と言っても、この公演の歌は昭和50~60年代が中心で、TV、ラジオで歌謡番組が多くあった時代のもの。その頃が青春時代であった人たち(今やりっぱな中年紳士・淑女)が、舞台に向かって声援、ペンライトを振り、テープを投げ、笛を鳴らす。時代が一気に40年ほど遡(若返)り、楽しいひと時を過ごした。
この公演はVol.5であるが、Vol.6を2017年1月に予定しているとの案内があった。次回公演に向けて気になることが...。
ネタバレBOX
梗概は、ネタバレに記すまでもなく、説明の通り...築地のソバ屋「寛兵衛(かんべえ)」前で、国籍不明の謎の美女(グレース美香)が行き倒れ。そして記憶を失っているらしい。 記憶を失いながらも、時々、突然に狂ったように踊り出す彼女。記憶を取り戻すカギは「ダンス」らしいと気づいた寛兵衛達だが...。 彼女を付け狙う中東人の影。いったい彼女の正体は...
今までの公演は、第1部「芝居」、第2部「歌謡」を完全に切り離していたが、今回は社交ダンス(シャル・ウィ・ダンスがやってきた!)というコンセプトで観せていた。第1部では芝居の中でもダンスシーンを入れ、第2部ではプロの社交ダンスを堪能した。
さて、気になるのは、舞台上で「でんぐり返し」を3人(江藤博利、石尾吉達、志子田憲一)で行っていたが、特別の理由(例えば、劇「放浪記」の森光子サン)がなければ、マットも置かずに行っており危ない。足にテープが絡まっていた。この公演は「昭和時代」を感じさせてくれる貴重なイベント。ぜひ長く続けてもらうためには「でんぐり返し」を止めてもファンは怒らないだろう。むしろホッとするのではないか。
次回公演も楽しみにしております。
NoiseGate
CASSETTE
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2016/05/12 (木) ~ 2016/05/15 (日)公演終了
満足度★★★
これ喜劇か...己劇のようにも思えるが
冒頭に書いておく。意欲的で好感は持てる。意識的に取り組んだ公演であり、その志向は良いと思っている。
しかし演劇は観(魅)せる、劇団と観客との関係が大切であろう。その意味で、少なくとも自分は物語の展開を追うだけで、そこで訴えたかったものが浮き上がってこない。確かに現代社会に対する問題提起は垣間見えるが、そのテーマなりを物語りの中に十分落とし込んでいるとは思えない、そこがもどかしく勿体無いと思う。
内容に寓話性を感じるが、寓話の教訓的な要素は記憶に残りそうであるが、色々な場面を張り合わせる内に話が複雑になり、観客(自分)が置いていかれるような感覚に陥る。寓話は後知恵ですり込まれるようなところがあるが、それでも神話や諺が長年、人々の経験の中に取り込まれ、身体的な記憶として強化して行く。だから多少の不自然・未消化は、その余白が余韻のように感じられるのではないか。この芝居には余韻が...
ネタバレBOX
舞台セットは、中央に不思議な形の天体望遠鏡をイメージさせるオブジェ、上手寄りに集積したガレ場。上手・下手には宙に浮いたドア...それは透けており、その向こうには煙のようなもの。台詞にある”海霧”であろうか。アンドロイドという人工・無機質イメージの割に、セットは自然・和テイスト...周りに竹、枯山水をイメージさせる絵画風オブジェ。そして真ん中に1脚。
舞台美術と音響・照明という技術は素晴らしく、物語をより印象付ける役割が話を上回ったようだ。
タイトル...NoiseGateは、インターネット先生によれば音楽の「音」に関する用語のようである。しかし自分は、ゲート(入り口)という訳から、サルトルの「出口なし」を想起した。捉える意味合いは別であるが、観る(読む)側には難しいという表層においては同じ。さて折角サルトルを引き合いに出したので、この物語を強引にも当てはめてみた。
プロローグは登場人物が会して不自然に歩く...そしてエピローグは同じようにまとまって冒頭のシーンへ回帰する。そうなる必然が用意されている。人間は、「意識」であれこれ判断する。この物語に登場するのはアンドロイドがその地域で(経済)活動している。そこには人間の働きとは違う対応がされている。そして経営者は反社会的な行為を...。そして恋愛、家族関係などがアンドロイドを交えて描かれる。人は閉ざされた部屋が鏡張りになっていると、自分の姿が様々な角度から見える。それは紛れもなく自分である。さて、「自分」を「真実」という言葉に置き換えると、様々な角度から真実が照らし出される。しかし、そこは意識=精神がないアンドロイドのこと、真偽は問わないという怖さが生じる。
一方、「他人は地獄」は、様々な角度から映された真実に対し意識でもって否定していく。いつの間にかどれが本当か「真実」を失う。さて、持って回った言い方だが、この公演の印象である。アンドロイドは人間との対置にしている。終盤になるとアンドロイドであることが次々と明かされる。どれが本当の人間であり実在しているのか、そしてアンドロイドという存在は何を表すのか...まさか虚無という訳ではないだろう。これだけ人間社会にロボットが利用されているのだから。
芝居の雰囲気は幻・実の混在、視点が人間なのかアンドロイドなのか、視座が現在なのか過去なのか、そして未来を暗示しているのか。
この独特な感性は必要かもしれないが、その観せ方に工夫が必要だと思う。
次回公演を楽しみにしております。
傘をさして嘘をつく
ユーキース・エンタテインメント
STUDIOユーキース(東京都)
2016/05/14 (土) ~ 2016/05/22 (日)公演終了
満足度★★★★
若さ溢れる芝居【傘チーム】
未見の劇団、初めて行く劇場(スタジオ「ユーキース」)である。そのはずである、この劇団のVol.1旗揚げ公演、この劇場は、この上演が こけら落としになるという。この脚本は、2015年佐藤佐吉賞優秀脚本賞を受賞した大石晟雄 氏が作・演出ということで興味を持った。
ハガキサイズの公演チラシの一行目...「俺お前のこと、すきなんだよね、けっこう」とあるが、自分はこの芝居、結構好みである。8回公演(Wキャスト)であるから、同じチームの上演は4回しか観られない。
この芝居、第153回芥川賞を受賞した又吉直樹の処女小説「火花」を少しイメージした。かけがえのない時間の共有。日本独特の話芸・漫才の世界で生きることの現実と夢を謳い上げる。その人間(若者)讃歌がうまく表現できている。
ネタバレBOX
この脚本は4年前、大石氏が19歳の時に書いたと説明にある(本公演は大幅書き直し)。台詞が当時のままのようで、観客によっては分からない所(安めぐみ の件)がある。
物語は面白いが、その本筋と脇筋が同じ比重のようで、描きたい内容が暈けてしまったようだ。
舞台セットは、上手に通路、中央はテーブルと低本棚、下手は台所という和のワンルームのようだ。客席はベンチシートでその部屋を覗いている感覚である。自分の中では、若手漫才コンビの将来への不安...売れるか(食える)のか、その漠然とした焦燥感を描いた芸道。別の意味でゲイ的(正確には違う)も告白するが...。
そのシチュエーションがルームシェアしている女漫才コンビとの恋愛や才能に見切りを付けた先輩芸人の哀切が絡むものと思っている。この芝居では前半から中盤にかけて、後半に浮き彫りになってくる「若者気質」、そして「漫才のコンビ」としての苦悩が伏線にあるが、脇筋(恋愛話)が重たくなり過ぎた。また劇中劇としての漫才シーンも、ネタ合わせに苦慮、面白くない、売れないというイメージで止め、その悩みの部分を強調した方が後半に繋がる(前・後半の描く落差を意識したか?)。中盤(相方の彼女との未交情シーン)以降は、緊張・切実という人の感情が動いた。この場面転換は絶妙で、しっかり計算されている(暗転時間が少し長い)。漫才相手への男色、女漫才コンビとの誤解愛、錯誤、片思いなどの恋愛沙汰が脇筋、ネタ書の苦悩、才能への疑問(相手を巻き込むだけに懊悩)、家業を継ぐという逃げ、先輩の熱弁などが本筋だと思う。その観せ方のバランスが行儀良すぎ、または均等しており印象的でない。
演技は、5人とも等身大の芸人、特に先輩役が濃い(恋)出汁のようで、ハイテンションにして味わい深い台詞の数々。
ちなみに、観劇した日(5月14日)は、上方漫才大賞が発表され、「オール阪神・巨人」が受賞したと...その苦節も語られていることから、不思議・因縁を感じる芝居。
「嘘チーム」も観劇し「傘チーム」との違いを観たいところ。
次回公演を楽しみにしております。
錯覚、して、沈黙。
feblaboプロデュース
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2016/05/10 (火) ~ 2016/05/13 (金)公演終了
満足度★★★★
自分と他人の間には...
初めて聞く「カプグラ症候群」...その心療内科用語は、親しい関係にある人ほど、本人であるか否か疑いだす。もっとも話の内容から自分の置かれた状況が一時的にブルーになっているようにも思える。本当にこの人でよいのか?もっと違う誰かがいるのでは、という不安定な精神状態のようでも...。
話の展開は、哲学めいたところもあるが、その観せ方は最近見かける演出手法のようで、あまり新鮮さは感じられなかった。
ネタバレBOX
自分の存在(本当の自分とは)の証明が難しいように、親しい人が本音、考えていることが偽りでないかと疑う。疑問が不安に、不安が疑心暗鬼へと悪循環に陥る。この状態を心療内科の聞きなれない症名を用いて興味を持たせる。繰り返し症状を説明することで、その意図を強調しているかのようだ。
舞台セットは、上手・下手に各3脚のパイプ椅子が向かい合わせに置かれている。中央は、テーブルを挟んで椅子。喫茶店内のイメージ、その奥に一段高いところに客席に向かって椅子1脚。上手・下手は人格の入れ替わり。中央奥は俯瞰するような位置付けか。中央下手側にスクリーンボードが立てられている。
主人公にあたるカップル、成嶋やよい(小畑はづきサン)と柴田剛(大垣友サン)は近々結婚することになっているが、やよい が 剛を本人でないと言い出す。その根拠は定かでなく、原因を心療的なこととして決める。生涯の伴侶はこの人で...世間でいうところのマリッジ・ブルーのような気もする。
本筋に絡めて大学時代のサークル(映研)の仲間、やよいの勤務先(小学校・教師)の同僚が、それぞれの関係性を面白く観せる。演出は、映像でスマホの画面を映し、そこにLINEのやり取りを見せる(少し長い気がする)。
映画でも同じように用いられる。最近では、花嫁に関連付けるのであれば「リップヴァンウィンクルの花嫁」(2016年の邦画)でも冒頭から出てくる。
自分自身の存在をどう証明するのか、そして本当の自分の気持とはという自問自答。ある程度、他人の評価で外形付けられているかもしれない。そしてその他人の目、評価が気になりだす。直接会っていても、直視し本音で話せない。そこに携帯電話、スマホ等の媒体が介在してくる。街中でよく見かける光景ではないだろうか。素の自分であっても、知らず知らず演技をしているかも、というシュールな切り口は観応えがあった。
次回公演も楽しみにしております。
同想会
劇団ヨロタミ
ウッディシアター中目黒(東京都)
2016/05/11 (水) ~ 2016/05/15 (日)公演終了
満足度★★★★
ヨロタミらしい笑って泣いて...ないけど面白い
劇団の特長...本公演もシリアス、コメディのシーンが混在する。もう少しで落涙する、もしくは爆笑する一歩手前で異なるシーンへ転換する。
物語は、あえてリアリティにするわけでもなく、あくまで社会で課題・問題もしくは話題になっていることを盛り込んだ娯楽劇という感じである。だから挿入される歌やダンスも、失礼ながら本格志向ではなく物語の中の緩衝的な役割であり、イメージ構築といったところ。それでも飽きさせることなく、観せる”力”がある...ということは不思議な魅力があるということ。
また、この劇場は入り口から客席奥には行き難くなっているが、中央に通路となるスペースを確保する。集客数からすればもったいないところであるが、観客本位の気配りが好ましい。
本公演は、高校時代のクラスメイトが同じ想いを抱えて生きていること。その15年という歳月を邂逅する、ミステリー・コメディである。
ネタバレBOX
セットは、いつもながらしっかり造り上げている。まず、下手に舞台となる山奥のヴィレッジ、中央にはヴィレッジのテラスのような瀟洒なテーブルと椅子。上手は他のヴィレッジへ通じる小路があるようだ。この舞台とは別に回想シーンに当たる高校の屋上が下手に張り出して設けられている。始まる前、自分はそこが大きくスペースになっていることから、何らかで使用すると思い、真中の席を確保した。座る場所によっては観にくいだろう。また些細なことだが、自分が観た回(初日)は髭が落ちそう、ダンスで椅子を倒すなど気をつけるところあり。
芝居は、高校時代に仲が良かった6人が集まるところから始まる。もっともこの同想会メンバーとの恋仲にある人物(2人)も現れる。この2人は前説も担当した湊未来(坂本直季サン)と黒枝芙奈美(南井貴子サン)であり、劇団歴が長い人。この2人が濃い冒頭シーンを演じて...。
梗概はチラシ説明を借り「高校時代イケてなかった男たち、D6のメンバーが15年振りに再会する、ただ一人、自殺してしまった男を除いて。 恋人が出来たと浮かれる者。収入格差に嘆く者。持(痔)病に悩む者。本当の自分をさらけ出す者-未だに納得の出来ない者。 そんな彼らに疑問が生じる…」というもの。
この公演には、家庭内暴力...というか犯罪、その被害者がこの6人の憧れの女生徒・土屋恭子(西園ゆうゆサン)であり、家庭内の(父からの性暴力)相談を受けるが、当時はどうすることも出来なかった。この女生徒に親身に相談に乗った教師が退職させられるなど、父親は学校(PTA会長)など、地域や教育現場での影響力を誇示していた。6人の中で施設からの通学者・浅井慎一(大矢三四郎サン)、このメンバーのリーダー的存在を自認する鳥谷猛(中澤隆範サン)が、彼女との関係を巡り争うようになる。そして土屋が死に、浅井が自殺した。その(卒業)後、メンバーは15年間会うことがなかった。この同想会の発起人は誰、そして何の目的で、何がしたいのか...その緩いミステリー感が面白い。
公演には、オカマ・性転換をした人など微妙に表現が違うが、そのマイノリティの人達も登場し存在感を示す。
また正規・非正規社員の待遇の差がもたらす問題、貧富の拡大、詐欺まがいの仕事など、今社会へチクリと批判する。本筋はしっかり観せるが、その中には、笑いというオブラートに包んだ批判の数々。そこが押し付け教訓ではないが、単なる笑いだけにしない、強かさがある。
次回公演も楽しみにしております。
「あたま山」×「ひたすら一本の恋」
みどり人
【閉館】SPACE 梟門(東京都)
2016/05/06 (金) ~ 2016/05/11 (水)公演終了
満足度★★★★
優しさを求めて…
江戸落語「あたま山」(上方落語では「さくらんぼ」)と芝居「ひたすら一本の恋」を強く関連付けることがなくても、その緩く甘い、そして切ないイメージは感じられた。
落語は、自分の頭の一本のサクラ見物、芝居はサクラという女性との一途な恋を描く。サクラの時期は短く儚い...そんな切ない物語。そのイメージは、池に身を投げたのではなく、恋に身を焦がしたようなもの。
この芝居...その内容から5年ほど前に話題になった映画を思い出した。それはサクラのように淡色ではなく、原色でその映像シーンは印象的であった。
ちなみに、その映画は「頭山」というアニメとは違うもの。
ネタバレBOX
ヒマワリ、好きな役者は西田敏行、そして犬の名前が「ハッピー」となれば、「星守る犬」(2011年6月公開)の鮮やかなシーン...黄色い向日葵畑を思い出してしまう。その映画は6月公開であるから、この物語に出てくる12月24日は公開直後の話題作という設定ではないことが分かる。
淡いサクラ色がヒマワリという原色(黄)の濃い印象へ転じる。この濃さは、主人公・宮崎一郎(そぎたにそぎ助サン)の自信がなく、気弱な男であるが、その演技では存在感を示す。
梗概は、引越のバイトであるにも関わらず風俗店に通いつめ180万円の借金を抱える。そんな宮崎一郎が風俗嬢サクラ(西澤香夏サン)に惚れて通い続けている。同じバイト仲間もサクラに惚れており、どちらも店外デートを望んでいる。このサクラ、店では優しい母性愛、高慢な女王様と客の好みに応じて演じ分けているが、本当のところは人との関わりが苦手なようだ。だからこそ、クリスマス・イブを一人で映画(星守る犬)を観て過ごす。この映画館に偶然にいた宮崎一郎と喫茶店で話をするが、接客業の割には今ひとつ盛り上がらない。そんな所に人間関係の不器用さが垣間見える。
公演の底流には、強気に見える独りよがりも、裏を返せば人恋しいという矛盾した描き。しかし、だからこそ人間らしさが表れ、ラストはサクラが行方不明に...。サクラを諦め切れない一郎は、犬が出ている映画を観るのが好きという言葉を頼りに捜す日々。そう言えば「星守る犬」のキャッチコピーは”希望”だったような。
最後に役者陣の演技は見事。特に面白いのは、猫または犬(芝居的には犬のような)に模した辻川幸代サン、宮本愛美サンのコミカルな仕草が可笑しい。
次回公演を楽しみにしております。
アンコールの夜★ご来場ありがとうございました★
KAKUTA
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2016/05/07 (土) ~ 2016/05/22 (日)公演終了
満足度★★★★
【女を読む。】…堪能した!
生産に関して「分業」と「協業」という言葉があったが、「読み」と「演じ」という制作においては、その役割が明確で面白い観せ方だと思った。自分が鑑賞したのは「女を読む。」であるが、それは女性作家の4短編小説である。その全編を貫く背景は、離婚しようとしている夫婦の目を通して描かれる。知っているようで、本当は何も知らない夫と妻が、離婚するにあたり部屋を整理する。その際、手にした相手の愛読書...そうか、こういうジャンルの本が好きだったのか。そしていつの間にか本を「読む。」...
この夫婦の関係を通して、普遍的な男女の「愛」、「燃え(萌)の愛」、「母性?の永遠」、「結婚とそれ以前」を突きつけてくる。
朗読はその「音読」から情景を想像し、「演じ」はその「視覚」から物語を具象する。どちらも楽しめるが、本公演では朗読で、話筋を理解し心情・感情を楽しむ。一方、「演じ」はその外形・外景でよりイメージを鮮明にする。心身の二面性を別々の手法で表現しており、心象形成は深いように思う。
ネタバレBOX
朗読は登場人物・私の一人称で語る。こんな話(筋)であるという説明、そして心情も聞こえる。芝居は、貴方という二人称、彼ら・彼女らという三人称となり立体的になることで魅力が増す。朗読の行間が埋まり想像の範囲が狭まるが、視覚による理解度は深まる。
女性作家の目線による話
①「エイコちゃんのしっぽ」( 川上弘美)
②「生きがい」(小池真理子)
③「炎上する君」(西 加奈子)
④「いつか、ずっと昔」(江國香織)
この朗読、そして演技を行う役者の力量は凄い。約2時間(前説では、1時間55分)が短く感じられるほどである。また、話ごとに舞台セットも変化し、観ることの楽しさもある。この企画は12年目を迎えるという。ぜひ、長く続けてほしい。
正直、「男を読む。」「猫を読む。」も観劇したいところである。
um~潮龍伝~
super Actors team The funny face of a pirate ship 快賊船
ブディストホール(東京都)
2016/05/04 (水) ~ 2016/05/10 (火)公演終了
満足度★★★★
時の刻みが歴史になるような...
物語(脚本)は、史実、伝説、話題になった映画など、いろいろな要素を盛り込んだ、少し大袈裟に言えば叙事詩のようなもの。それだけに内容(筋)が複雑になっているように思った。できれば、当日パンフに あらすじ 相関図 が書かれていると分かりやすく、物語に集中できた。何しろ「説明文」こそが叙事詩のような...。
演出は、劇団の特長である殺陣はもちろん、笑いネタも所々に散りばめて飽きさせない工夫をしている。役者は熱演しているが、22名という登場人物は多く、役名も難しくて...。
ネタバレBOX
「源平、壇ノ浦の合戦」で海に沈んだ 三種の神器 を引き合いに、それを手中にし天下を治めることを目論む。この三種の神器のうち、「かがみ」を海から探し出す方法が釣り、この件が「龍宮・乙姫伝説」のようである。そして時空を越えて、時は戦国時代に終わりを告げる天下分け目の合戦(敗軍は豊臣氏?=役名は桐羽秀国である。「桐」の家紋は豊臣家を示す)、さらには映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズの海賊・幽霊船のイメージである。月の光の下の忌まわしい姿を晒す。永遠に死なない生ける屍...。黄金のメダルがその呪いを解くが、この芝居では伝説が、龍の洞窟にいる龍に自分の心臓を預ける、メダルが勾玉など、その重なる部分が多い。それはそれでロマンを感じる。ただし、物語の筋が入り組み、それを追うのが忙しい。
芝居の台詞にもある『荘子』の「胡蝶の夢」の認識に誘われる。時空を越えた世界観であり、全ては夢の中の出来事のようであると。その先にあるのは「生きることが大切」を思わせる重要なシーン。その割には殺陣でバッサリ切るのだから...。
舞台セットは、上手・下手に段差を設け、中央に殺陣スペースを確保している。そして衣装や音楽は沖縄(琉球)を思わせ、化粧(メイク)は、この世の者ではない独特な怪(妖)しげを醸し出す。
この主人公・平子教知-晴嵐将軍(清水勝生サン)、源東/三島 潮(金村美波サン)は恋仲になるが、名前から敵の子孫のような、ここにもシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」をイメージしてしまう。この芝居は、いわば古今東西のフィクション・ノンフィクションを融合し、悠久の時の流れに壮大な物語を紡いだか。それゆえ、雰囲気は幸若舞「敦盛」の一節...「夢か現(うつつ)か幻か」のようであり、アッという間の2時間(上演時間)、楽しめました。
次回公演を楽しみにしております。
ライブ・ファンタジー「FAIRY TAIL」
「FAIRY TAIL」舞台製作委員会
サンシャイン劇場(東京都)
2016/04/30 (土) ~ 2016/05/09 (月)公演終了
満足度★★★★
演技に連動した、最新の映像技術...
原作は同名の漫画(作・真島ヒロ 氏)であるが、自分は読んだことがない。説明では、魔法・超能力を駆使して仕事(今回は闘い)をすることになっているらしい。映画であれば造作もなく、最近はCGも発達しているから迫力ある映像を提供できるだろう。しかし、芝居でこの”力”をどう表現させるか難しい。やはり演じるという身体表現と映像を融合させた制作になっている。漫画では体感できない迫力と臨場感(役者の運動量が凄い)を得る、そんなエンターテイメント作品に仕上がっている。映像は、単に映写するだけではなく、役者の動き(演技)に合わせる必要があり、緻密に練り上げている。
ネタバレBOX
梗概...自分が理解したのは次のようなものであった。実に壮大な冒険譚。
世界中にいくつも存在する魔導士ギルド。そこは、魔導士達に仕事の仲介をする組合組織である。その1つ、「妖精の尻尾(フェアリーテイル)」は個性豊かで力ある者が集まるギルドである。そんなメンバーが集まるギルドで、主人公ナツ(宮崎秋人サン)はチームを組んで仕事をしている。
本「ニルヴァーナ編」は、闇ギルド「六魔将軍(オラシオンセイス)」を壊滅させるため、、「妖精の尻尾(フェアリーテイル)」のメンバーは、「青い天馬(ブルーペガサス)」、「蛇姫の鱗(ラミアスケイル)」、「化猫の宿(ケット・シェルター)」の3つのギルドと共に「連合」を組むことになる。
「六魔将軍」はワース樹海に封印された光と闇を入れ替える超反転魔法ニルヴァーナを手に入れて光の世界の崩壊を目論み、彼らの元には生死不明になっていたジェラール(荒木宏文サン)の姿もあった。
公演(原作)の根底には信頼・友情、平和の希求など普遍的なテーマが据えられ、それを善・悪という分かりやすい対立構図(戦闘)で観(魅)せる。物語の展開は少し複雑になるが、大筋は理解できる。そして、物語(原作)を力強く牽引しているのが、演技はもちろん、技術・美術が効果的である。技術は映像の挿入、レーザービームの多用、陰影をつけた照明が素晴らしい。また音響は、心地よいテンポを助長するようだ。
また美術、特に衣装やメイクは架空の世界観を表現しており、ビジュアルとして印象に残る。
気になったのは、ジェラールの過去。仲間から恨みを買うような行為、そして何故記憶が消えたのか?ジグソーパズルのピースが合わさるように謎が解ける中で、この大きなピースの部分だけが空白になっている。たぶん、他の「編」で描かれているとは思うが、本公演では、この過去シーンの重要性が強調されていたと思う。それだけに、この場面を割愛しているのが残念であると同時に、回想シーンがあれば...勿体無い。
次回公演を楽しみにしております。
DADDY(増席しました!)
TEAM空想笑年
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2016/05/01 (日) ~ 2016/05/08 (日)公演終了
満足度★★★★
旅立ちの季節…【こどもの日 観劇】
幅広い客層が楽しめる、そんな丁寧で分かり易い物語である。それは、ある街の自転車屋(オカモトサイクル)の家族と近所に住む人たちのヒューマンドラマ。この市井の日常生活...それだけに大きな事件・出来事もなく坦坦とした展開である。そして説明にある家族に起こった出来事も仄々としたもの。観(魅)せるという芝居としては、物足りないかもしれない。フィクションとして芝居、その意味でもう少し盛り上がりがあって印象・余韻が強くてもよかった。
そして確認は出来なかったが、気になることが...。
ネタバレBOX
舞台セットは見事に作り込んでいる。この美術を見ただけで丁寧な公演作りであるという好印象。セットは中央奥に両開きの襖(後ろに和紙「希望」が貼られている)、客席側がこの岡本家の居間・卓袱台(和室8畳ほど)、そこに食器棚・和箪笥、その上に仏壇、壁には神棚。上手には電話台・TV・掃除機が置かれている。その上手に引き込み口(張出しセット)が自転車屋の店内になっている。下手も同じように張出したところに台所(流し、冷蔵庫など)。カレンダーは2011年4月。このセットにある小道具はほとんど使用する拘り。自分が観た回は神棚だけが利用されなかった。
この家族は、父(母は亡くなっている)、3男・1女という構成である。カレンダーには4月20日に娘・真知子(篠崎友里サン)が婚約者を連れてくることが書き込まれている。
梗概は、自転車屋「オカモトサイクル」、 家を飛び出したきり連絡が取れなかった次男が10年ぶりに帰ってきた。 その日は、娘の婚約者が家に来る日だった。 娘の結婚を認めたくない父。 近所のラーメン屋や子供達の幼なじみも巻き込むドタバタが楽しい。 そして現れた婚約者の口から、思わぬ言葉が...同居します。
登場人物は全員が善人。その夫々の家族なり近所の人への接し方が不器用なだけである。そこは観ている観客(自分)の姿に重ね合わせて苦笑するところもある。その思い遣りの表れを「良かれ」という台詞が光る。相手を思っていることは当事者にも分かっているが、それが時として善意の押し付けのように感じる。それだけに始末が悪い。
さて、気になるところ...自分は最前列中央で観ることが出来たから気にならなかったが、上手の店内、下手の台所のシーンは、後列のそれぞれ上手・下手の客席から観えたのだろうか。見切れになっていないか。もちろん対角にあるシーンは観えるであろうが...。
この劇団の代表である武倉創太郎氏が、「今回のテーマ『変化』。恋愛、就職、出会い、別れ、そして結婚・・・いくつもある、選択の時」...を芝居では、子供達の思いの告白・自立(旅立ち)として描いている。ハイライトは、1年後(カレンダーは2012年5月になっている)父と娘が歩くバージンロード。ただし、1年間の季節の移ろいはなく、エンドへ繋げるだけ。
時代・環境・状況の変化はあっても家族の絆、近所との付き合いは温かく続きそうな、そんなハートフルドラマは微笑ましく、ちょっぴりセンチメンタルになる。
次回公演を楽しみにしております。
シュワロヴィッツの魔法使い2
メガバックスコレクション
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2016/04/29 (金) ~ 2016/05/08 (日)公演終了
満足度★★★★
非寓話のような…
命の継承...、しかし、命は限りあるから懸命に生きる。その”限り”を自分の意思で他の者へ。もっとも魔法であり、そういう設定であることを踏まえて見ると、何と重い十字架を背負わされたことか。この芝居もラストは激白するシーンがあるが、それは心情というよりは誓詞のように思える。
ネタバレBOX
梗概...シュワロヴィッツの魔法使い・マグ(キリマンジャロ伊藤サン)。 彼は永遠の命と一つの魔法を持っている。 その魔法は、自分の持つ永遠の命と引き換えに人間の死んだ魂を甦らせること。その魔法を何時、誰のために使うか140年苦しんでいる。 疫病のため故郷の島を離れた少女 リージャ(未悠サン)は、死んだ妹を甦らせるべく魔女に心を売り、毎日生きた人間の心臓を差し出す。 魔法使いの苦しみを解放する出会いでもある。
自分の妹を助けるために罪を重ねる。その許されない行為をしている者・リージャへ魔法使いが自らの命を受け継がせる。マグが140年間(それまで生きてきた自分の年齢も合わせると200年近い)悩んだ末の決断。自分より先に子や孫が死に、それを見送るのは辛いであろう。そして今また曾孫が落命しようとしている。
苦しみを受け継がせる者、受け継ぐ者という両者の覚悟のほどが解らない。それゆえ、「生」という恩恵(光)のように思える苦業(闇)を強いることが、今までの殺人に対する贖罪をさせるという矛盾で描いているのか。そして「この魔法は使わない」という帰結に繋がるのか…など疑問が残った。
この芝居でも衣装に注目した。架空の世界観(寓話的)を表現させるため、敢えて時代や国・地域の特定をイメージさせず、旅人風にしている。そうすることで、観客に自由に想像させる巧みさ。
舞台セットは、少しづつ変えているが、基本的な造作は同じである。その中で、今作は中央にリンゴの木のオブジェを置く。北欧神話ではリンゴは不老不死の象徴と言われており、その意味でも含蓄あるセットだと思う。
実は観終わった後は面白いと思っていたが、時間の経過とともに指の間から記憶が零れ落ちる。そぅ、記憶がかき消されるような魔法をかけられたようだ。
次回公演を楽しみにしております。
AQUA
メガバックスコレクション
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2016/04/29 (金) ~ 2016/05/08 (日)公演終了
満足度★★★★
憑依するような…
二重人格という言葉を思い浮かべる。ネタバレになるかもしれないが、自分の中では一番しっくりする表現だと思う。このサスペンスは感情の振幅度合いが見せ所。4公演のうち、コメディ以外は、心情を吐露するシーンがある。その表現如何によって芝居全体の良し悪しが決まると言っても過言ではないだろう。本公演は、心の美醜、愛憎がしっかり表現していたと思う。
ネタバレBOX
梗概は、事業の失敗から3歳の娘を教会の前に置き去りにした。その娘が母親と死に別れたことから、引き取ることにした。その手続のため住んでいる家を訪ねるところから物語は始まる。舞台は人里離れたところでの隠遁生活のようである。この部屋は内側に鉄格子のようなものが嵌め込まれ、施錠出来るようになっている。隔離部屋といった印象でもあり、怪しげな雰囲気が漂う。この時点でいくつかの伏線がある。そして、タイトルの主人公の名にして、「水」(ラテン語等)も出てくる。
前半、自分を捨てた父親に対し、恨み言もいわず愛らしく振舞う姿がいじらしい。が、この部屋で醜業で生計を立てていること、行為の結果、子供が生まれるが精霊と称して埋葬する。その墓が家の周りに...。この事実が分かった以降、和やかな空気が冷気に変わる。実は、憎しみ復讐?父を逃さない?を目論んでいたようだ。前半の楽しい空想日記が、一転、時系列に怨嗟の言葉を浴びせる。反転した狂気への感情表現が上手い。
もう一つ効果的な演出は、衣装であろう。教会での養育ということから修道女(シスター)をイメージした衣装は、清純そのもの(カトリック教か否かは不明)。この神聖のシンボルともいえる衣装(ウィンプルが無いだけ)の下に育んできた憎しみ。その正邪の振れ幅の大きさが狂気を倍加させている。
この狂気の表現...AQUA役(杉坂若菜サン)が小柄ながら、大きな感情で魅せてくれた。もちろん、ロックウェル役(キリマンジャロ伊藤サン)は、その兇器に倒れ、のた打ち回る。この役者陣の安定した演技が素晴らしい。
次回公演を楽しみにしております。
楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~
道頓堀セレブ
梅ヶ丘BOX(東京都)
2016/05/02 (月) ~ 2016/05/03 (火)公演終了
満足度★★★
関西流「楽屋」か...
現代社会の通信技術の進歩は目覚しい。たとえ局地的な現象でも瞬時に地球規模で拡散する。それは情報構造の画一化を招いているかもしれない。さて、この「楽屋」は多くの劇団で上演されているが、同一の脚本でありながら、上演のたびに表現の豊かさ、奥深さを感じさせてくれる。この「『楽屋』フェスティバル」は、画一化に対抗し、連綿として続く「演劇」表現にスポットを当てた企画のように思う。
この「楽屋」(道頓堀セレブ)は、このフェスティバルだけのために結成された関西の演劇ユニットだという。開演前からずっと話しており、そのまま本番上演へ...。自らハードルを上げ観せていたが、開演前の饒舌の印象が強く、「楽屋」の”女優”という職業への情念があまり感じられなくなったのが残念である。肩の力の抜けた作品、何か突き抜け感が欲しいところ。
ネタバレBOX
1977年の初演以来、日本でもっとも多く上演されているようである。その意味では、現代劇の”古典”となってきた作品であるがネタバレ覚悟で設定を書く。
ここに登場する女たちのうち2人は、戦前から戦後を生きて不遇のうちに死んだ女優である。死後という言わば一定の距離感を保ち、客観的な視点に転じているはずであるが、それでも「生」を感じさせる不可解さ。そこに登場人物の死者である魅力が立ち上がってくる。「女優」という職業の凄まじい業を描き、舞台裏を表舞台化した作品。女優2人の戦前の訳と戦後の訳の違いや、戦前のリアリズムと戦後のリアリズムなどという台詞の説も面白い。
梗概...役に恵まれずに死んだ自らの境遇を呪い、舞台に対する羨望の念を抱きながら、劇場の楽屋に巣喰っている戦前・戦後の2亡霊(女優A・B)である。あとの2人は現代を生きている女優で、片や、自らの肉体の老いや感性の劣化に危機感を抱えながら舞台に立ち続け、片や、若さと才気にあふれながら、プロンプターに甘んじることに行き詰まりを感じ、精神を病んでいる。何故か、お可笑しみが感じられる…そんなところが関西流なのかもしれない。
楽屋。亡霊になった女優AとBが楽屋で念入りに化粧をしながら、永遠にやっては来ない出番にそなえている。今上演中なのはチェーホフの「かもめ」。主役のニーナ役の女優Cが楽屋に戻って来ると、プロンプターをつとめていた女優Dが病院衣姿でマクラを抱えて現れる。彼女は精神を病み入院していたが、すっかりよくなったから、ニーナ役を返せと女優Cに詰め寄る。言い争いになり、女優Cは思わず女優Dの頭をビール瓶(張りぼて)で殴ってしまう。女優Dは起き上がってふらふらと出て行くが、女優Cが楽屋を出ていった後に戻ってくる。今度は亡霊のAとBが見えている。打ち所が悪く死んでしまったようだ。ニーナ役が欲しくて精神異常になった若い女優がまた一人死んだ。
3人になった楽屋の亡霊は、やって来るかもしれない出番のために稽古(三人姉妹)を始める。「わたしたちだけがここに残って、またわたしたちの生活を始めるのだわ。生きていかなければ…」
死んでも「女優」に執心する姿...終わりのない時間の中でもがき苦しみは続く。「女優」という言葉に潜む魔物は何か?その魔物は、上演するごとに姿が異なり正体が掴めない。そこが上演数日本一の魅力なのかもしれない。
この道頓堀セレブの公演は、関西弁こそ出ていないと思うが、その台詞の発声に気をとられたか。死後においても女優でありたい、その自己顕示欲にも通じる想い、その凄まじさが感じられない。前説とあわせると「楽し屋」という喜劇かも...。
このような企画を続けて欲しいと願っております。
サミュエル・ベケット「芝居」フェスティバル
die pratze
d-倉庫(東京都)
2016/04/27 (水) ~ 2016/05/08 (日)公演終了
満足度★★★
見巧者向けの公演か...
サミュエル・ベケットの作品を東京、名古屋、台湾の8団体が、それぞれ演出する趣向である。自分は、名古屋の双身機関、台湾のTAL(Theatre Actors Lab)の上演を観た(上演順)。
同じ脚本であっても、演出の違いで印象も異なる。改めて演劇という創作の幅広さと奥深さを感じるもの。
一方、観ること...そこには演出という手法と同時に、それを理解する上で大事な要素があることも痛感した。
ネタバレBOX
脚本...真っ暗な舞台に3つの巨大な壺があり、そこから3人の人物の首が出ている3人(男、女1・女2)は、スポットライトが当たるたびに、3人の間で起こった色恋沙汰を語っていく。そこに「真実」があるかどうかは誰も分からず、ただひたすらに、終わることなく3人は喋りつづける。そぅ、各人は対話をするというより勝手に自分の主張を言い張る。
●名古屋の双身機関
双身機関は、脚本にほぼ忠実に演じる。壺は、円柱のように縦長く布を垂らすことでイメージさせ、下の方を紗幕(レース)にして足が透けて見えるようにしている。もちろん足を演じる役者は足だけを演じている。
●TAL
壺その物を使っていない。各々がスーツケースを持って登場し、その中に自らの着ている衣装を脱いで収める。次いで役者が舞台を回り始め、さながら轆轤で壺を作り上げるようだ。まさに身体・動作で壺をイメージさせる。その後、各々は立ち止まるり、片足立ちを続ける。長い時間のため浮かしていた足が床に着くが、そこに壺の歪みと人間臭さが表れる。
当日は、アフタートークがあり難度の高い作品に挑戦していることと、仮面について話があった。この作品を観て、壺という外形は一種の仮面のようでもある。人間..肉体と意思を持つ人と、それを取り巻く世界の境界にあるのが仮面であり、その具象したのが壺のようでもある。だから物語の登場人物は壺(仮面)に隠れ、、それぞれが思いのたけを話ことで、自分と仮面(=他者)という両方の力を併せ持つ存在になろうとする。そこに、肉体・精神、自己と他者という二重に意味で「人間」が存在するのではないだろうか。
さて台湾・TALは、母国語で表現する。演じる内容はイメージ的に理解可能であるが、やはり言語(台詞)による理解は必要である。演劇は、五感の総合芸術であることを改めて認識した。
そこには日本語で理解した日本語でのものの見方と、外国語で理解した外国語でのものの見方では、同じ概念を示すはずの言葉が、言語によって意味が異なり世界の捉え方が異なる可能性があるから…。難しい!
次回、このような企画を楽しみにしております。
ガイラスと6人の死人
メガバックスコレクション
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2016/04/29 (金) ~ 2016/05/08 (日)公演終了
満足度★★★★
面白い、楽しめた~!
タイトルから内容が分りそう…そんなストレートさが、物語の展開とテンポの良さにも現れている。その観せ方は、コメディではよく見かける手法であり、その演出に新鮮さは感じられない。逆に見慣れている分、そこにシャープさがなければ、数多ある公演の中に埋没してしまうだろう。
さて、メガバックスコレクションは、この時期4作品を同時上演しているが、阿佐ヶ谷アルシェという小空間に、しっかり物語を外形付けるセットを作り込んでいる。それは、どの公演も同じであるがスタッフ、キャストの手作りである。このセットの建築的なところから、この公演で気になるところを連想したが…。
ネタバレBOX
「ガイラスと6人の死人」であるから、登場している役者のうち、6人は死人。生きているのは、ガイラス(三村慎サン)とその殺人犯を逮捕したいと追っているレディ(鈴木ゆんサン)。この生きている人の会話に、死人達の台詞は直接繋がらない。しかし、そこはコメディ、何気に会話が成り立つさまが面白い。声なき声のシンクロ、生きる者と死者の異空間というか異次元における会話の共鳴が、タイミングよく成り立つ。
梗概は、アメリカの某州の山間にある館。 そこに連続殺人鬼ガイラスが住んでいる。 彼の周りには6人の死人(しびと) がまとわり憑いている。死人はガイラスによって殺された被害者である。 「心配するな、お前の分まで俺が人生を楽しんでやる」 そんな言葉を真に受けて、ガイラスに纏わり館(部屋)に居座る。ガイラスだけにその姿が見えることから、先に記した不思議な出来事が楽しく観られる。会話は他愛無い、卑小な欲望が平然と繋げられる。艶笑譚と云(逝)ったところであろう。
気になるのは、建築用語として用いられる動線…視覚を敢えて遮断する。ガイラスにしか死者(6人)が見えないということは、その死者の姿を意識せず演技をすること(見えないという前提で動線をしっかり体得して、自然な演技ほどレベルの高さを感じる)。しかし、見えているような動き(歩く直先を避けるなど)、意識した行動のようで不自然さが残る。生きている者と死者にある異空間、そこから醸し出される独特な雰囲気(部分的なリアリティという不均衡)と何気なく合致する会話の妙味、この両方があると良かった。
一方、死者は死して自由奔放に振舞う。それゆえ演技も大らかであるが、その分噛みが連鎖するようだが…。
そして、狭い空間にもかかわらず、舞台中央に集まって演じるシーンがある。前後に立ったり座ったりした場合、後ろの役者の顔・姿が見えない。奥行きを逆手にした縦並びで笑いを取っていた。演技では、横展開した立ちのほうが重なり合わず、しっかり観てとれる(例えば、レディが下手の壁に寄りかかるほど空間利用している)。
次回公演を楽しみにしております。
Hit or Miss
メガバックスコレクション
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2016/04/29 (金) ~ 2016/05/08 (日)公演終了
満足度★★★★
脚本・演出は良かった…
4月は入学シーズン...小学校の新1年生の心細さ、親に引かれた手を離して他人の中に入っていく幼子も試練をくぐり、親も手を差し伸べるところをグッとこらえる覚悟が必要。その親子の距離は永遠の難問であるが、その距離こそが自立の証と思えば心強い。
この公演では、その親子(父・娘)、というよりは自立した人間同士の魂の咆哮のようである。
冒頭は、古典的なフィルム・ノワール(退廃的な犯罪画)のように、善・悪という鮮明な対立軸で描かれるような感じであったが、そんな単純な捉え方ではなく根底には人の幸福...特に経済的な貧富の知覚が絡むもの。描き方は、表面をなぞる空っぽな表現から段々と訴えたい本質に迫る、その展開が実にシャープにしてスリリングである。そして最後まで観客(自分)に予想をさせない、むしろ予定調和ではなく予想外な展開に驚いた。怒涛のラストシーンには高揚し鳥肌が立った。
ネタバレBOX
誘拐というシチュエーションであるが、今まで観たメガバックスコレクションの緊密した状況・空間は感じられない。どちらかと言えば、社会的な問題の提起のようだ。しかし、そこはこの劇団の特長…日本の問題として、直截的に描くのではなく、一定距離を置くような客観的な観せ方にしている。
物語は、アメリカ大企業の社長と幹部社員2人(男女)が誘拐されて監禁されているところから始まる。そしてあっさりと犯行グループ「ボス」の正体が明らかになる。それは何と社長の実の娘だった。
その要求は、誘拐の実行犯となっている2人(男女)の①祖国における幹線道路計画の撤回。②病院と学校の建設。③それに係る重機の提供と資金援助の3項目である。
娘はその国に2年間留学し国情を把握しているという。乱開発による貧富の助長など、問題の深部を説明する。
一方、父親は娘の要求を受け入れるが、一度富という蜜を味わうことによって、欲望という原動力が国の発展を促すこと。それは知らないという無知覚からの脱皮が大切である。この父・娘の会話(応酬)が心魂揺さぶるほど見事である。
話の展開には途上国の発展という名目で希少資源の採掘、幹部社員の裏切りなども盛り込まれるが、そこは話の魅力を豊富化するようなもの。
日本の経済援助(ODAのようなもの、本公演は私企業である)も感じられる。物質的な援助が中心であったが、その後の人材育成などのソフト面の充実が言われている。自分たちで考え行動する姿勢が大切であると...。なお、舞台の設定をアメリカにしているところに妙がある。なにしろ、アメリカは日本の援助形態より幅広いこと、距離を置いて客観的になれるのだから。
夢と現実の間の軋轢は、やがて深い哀切を漂わせる。そして、鎮魂の思いへ偏重していく見事な内容であった。
さて、気になるのが役者の力量差(端的に言えば、キリマンジャロ伊藤サンと他の役者)が大きいこと。脚本の論理性と現実とのギャップを見事に突く。それを芝居という仮社会の中で表現させる素晴らしさ。しかし、それをしっかり体現しきれないところが残念である。
次回公演も楽しみにしております。
BAR アルマ
劇団光希
シアターKASSAI【閉館】(東京都)
2016/04/28 (木) ~ 2016/05/01 (日)公演終了
満足度★★★★
古き良き時代を彷彿とさせる
Barアルマのマスターとその娘、そこに集う人達によるヒューマンドラマ...しかし、その物語の展開がストレート過ぎるような気がした。
舞台セットは、Bar店内を思わせる作りで、この話の重要な位置付を担っている。(上演時間125分)
ネタバレBOX
セットは、上手に少し高い段差のあるBox席、下手はカウンター席、中央は客席側を空けた囲み席。もちろん、多重空間を演出するため、客席前のスペースを店外の道に見立てること、店内の段差あるBox席は外の公園か広場のベンチ、または料理教室先生・森宮香苗(森下知香サン)の家(室内)をイメージさせる。そのシーンの雰囲気は照明の切り替えという演出の巧みさ。
Barアルマはスペイン語で「魂または心という意」であることは、ラストのナレーションで紹介される。その言葉を彷彿とさせるような物語であるが、説明文にあるマスターの件ついては、すぐ解る。
主人公は店の20歳の娘・内川たまき(村松幸サン)、みんなから好かれる娘に育っている。この父親、体は男であるが、心は女という性同一性障害。母親は主人公が2歳の時に浮気をして家を出たままという設定である。表層的に捉えれば、設定の特異性と家出した母(実は森宮香苗)との対面に至るストレートな感動物語(予定調和であるが、それがこの劇団の特長で心温まる秀作を創り出している)。それを際立たせる常連客の恋愛騒動という彩り。この彩りの小話が本筋を霞ませるほど色濃い。
この店に集う常連客が、自分の思い思いのスタイルで飲んでいる。大人の隠れ家的存在が、このBarである。しかし近いうちに再開発で取り壊しになるという時限要素を取り込むことで、話にテンポを持たせる。
さて、観念的であるが、「母」であることより「女」の道を選び、自分(たまき)を置いて家出した母に対して簡単に心が氷解して行くのか。それほど会いたい気持が強かったのか。そして店にさり気なく通ってくる、それを知った時、心境は相当複雑で堪えられないように思えるのだが...。この娘の寛容さに違和感を覚えたというのが正直なところ。
筆を進めて、フッと父”性”の妙味が効いているのかも...そんな気もする。
毎日と言っていいほど、アメリカ大統領選に関する報道がされている。その候補者の一人であるヒラリー・クリントン候補は、米国東海岸にあるセブン・シスターズと呼ばれる名門女子大一つ、ウェールズリー大学(マサチューセッツ州)卒である。最近、この女子大学群のうち2校は共学化し、心と体の性が一致しないトランジェスターの受け入れを決めた。それほど社会的認知と寛容さが広がってきたということ。このBarマスターにして父の存在が受容の伏線であったとすれば、随分と思慮深い作品である。そして、この店が母そのもの…その内に父、兄姉のような常連客に支えられて“いい子”に育ったのだろう。店こそが人の「魂」なのだから。
最後に、自分が観た回は噛みが多いような…。舞台という板の下は、地獄かもしれない。それ故、そこは踏ん張って欲しい。
次回公演も楽しみにしております。