マシュー・ボーンの『ドリアン・グレイ』
TBS
Bunkamuraオーチャードホール(東京都)
2013/07/11 (木) ~ 2013/07/15 (月)公演終了
満足度★★★★★
マシュー・ボーン『ドリアン・グレイ』を,Bunkamuraで観た。
マシュー・ボーン『ドリアン・グレイ』を,Bunkamuraで観た。
パンフレットによれば,マシュー・ボーンは,イギリス人だ。現代バレエと,現代ダンスのいわばクロス・オーバーする分野で最高の仕事をし,高く評価されているようだ。ダンスを始めたのは,意外と遅い。22歳となっている。バレエでは,『白鳥の湖』『くるみ割り人形』も見える。ミュージカルでは,『オリバー』が目に付いた。振付家であり,いわゆる演出家でもある。1960年生まれである。
オスカー・ワイルドは,芸術作品には,倫理などはさほど意味もないと言い切っている。今回の上演作品には,原作『ドリアン・グレイの肖像』の名残は薄い。一番の変化は,肖像画を捨てて,カメラの世界に持ち込んだことだ。その方が,現代的な感じが出るからだろう。さらに,ドリアン・グレイが翻弄し,死んでいったロザリンド(シェークスピア)役が得意だった娘のイメージも一変している。しかし,バレエでもあり,ダンスでもあるマシュー・ボーン『ドリアン・グレイ』も確かに,本質としては,原作がきわめて忠実に生きている。すごいことだと思う。
作品全体で目立ったのは,ほとんど下着姿で大ベッドの周辺を動き回る男女の集団といった感じだ。だから,これをそのまま子どもに見せて良いものではないだろう。しかし,ショッキングな演出を越えるものは,そのダンスの精緻なこととか,スピード感だ。これが実現できる理由のひとつは,全員が鍛えられた身体を持ち,ものすごくエネルギッシュだからだ。普通のひとは,ほんの少しの演技も真似できない。しようとすれば,心臓が破裂してしまいかねない。
原作『ドリアン・グレイの肖像』は,私の読んだ印象では,さほど不道徳な物語ではない。むしろ,ロマンチックな点もある。しかし,オスカー・ワイルドは,確かに異常な世界が好きだ。『サロメ』は聖書からヒントを得たものかもしれないが,好きになった男につれなくされたから,王にクビをはねてもらいキスをするなどというクレージーな物語を平気で書く。さらに,作品を公開するにあたって,おそらく性倒錯作家として攻撃されやすかった人なのだと思う。でも,やっぱり『ドリアン・グレイの肖像』は傑作だと思う。
素晴らしいものが観られて良かった。これを越える感動は,また,一から探すしかないだろう。
不思議の国のアリス
公益財団法人日本舞台芸術振興会
東京文化会館 大ホール(東京都)
2013/07/05 (金) ~ 2013/07/07 (日)公演終了
満足度★★★★★
22,000円は高かったが,一度くらいはこんなぜいたくもいいものだ。
バレエ・リュッス(Ballets Russes)の衝撃というのがバレエ界ではかつてあった。今回の英国ロイヤル・バレエも少し関係がある。
1909年,ロシア人セルゲイ・ディアギレフが,登場する。以後,20年間彼の人気は続く。ロシアのバレエは,どのようなものだったか。
ナポレオン三世の治世は失敗だったが,フランスでのバレエは発展した。かつて,絶対王政期に宮廷バレエが成長したことと似ているかもしれない。
ロシアとフランスは,歴史的に非常に親密な時代があった。ロシアという国は,アジアでもある地域を抱えているので,その分ヨーロッパの人たちにも神秘的なのである。一方,ロシアという国は,公的なことばはフランス語にした方が良いのではないか,というくらいフランス趣味の国でもあった。
というわけで,ロシアとフランスは,相思相愛の仲良しだった時期がある。ことバレエに関しては,フランスがダントツであったが,ロシア人のセルゲイ・ディアギレフによる,バレエ・リュッス(Ballets Russes)は衝撃的であり,バレエ史の中でもその影響力は20年間も継続された。今回の,英国ロイヤル・バレエも実は,そこで活躍した人が,イギリスにわたって一派を起こしたものなので,演劇手法等似たようなところが見える。
セルゲイ・ディアギレフは,自分自身で,音楽・振付・装置を180度変えた。さらに,肉体派の男優を初めてバレエの中で使うなど,改革を実行し,時代の先端を走った。『不思議の国のアリス』においても,その手法が継続されていた。
バレエ・リュッスが,衝撃的で,歴史にも名を残した理由は,いろいろある。彼は,少し変な人で,立派な仕事仲間も演出を斬新に進めるためか,次々手を切っている。バレエの地位は,少しずつ安定し,高尚な総合芸術として世界的に評価され愛されていくのだが,ひょっとすると,オペラなどでは,まだことばに頼る部分が大きいが,バレエになると,ただ観ていれば良いということが大きいのだろうか。
今回,コンダクターとほとんどキスできそうな場所,中央の一番前で観劇した。なんどもなんどもブラボーといってしまった自分がいた。
いずれにせよ,オペラと,バレエの歴史は錯綜している。オペラ=バレエなることばもあったようだ。概して,バレエは,オペラの添え物で,副次的な意味しかなく,次第に勢いをなくしつつあったのかもしれない。そのような時に,セルゲイ・ディアギレフという人は,20年間やりたい放題やってしまう。『牧神への午後』なども有名だが,そういう流れに中で存在したようだ。
セルゲイ・ディアギレフは,1916年には,アメリカ合衆国にわたっている。1919年には,パリ・オペラ座で,活動を再開している。バレエ・リュッスは,海外公演で人気を得て名をあげていく。劇場にいったらストライキに会う時代となる。英国ロイヤル・バレエについて,まだ,本になったものを知らない。しかし,パフォーマンスの時代にさっそうと新作のレパートリーを広げているとのことだ。22,000円は高かったが,一度くらいはこんなぜいたくもいいものだ。
参考文献:バレエの歴史(佐々木涼子)
不思議の国のアリスより
劇団パラノワール(旧Voyantroupe)
サンモールスタジオ(東京都)
2013/06/20 (木) ~ 2013/07/01 (月)公演終了
満足度★★★★★
楽しい時間をありがとう・・・
不思議の国のアリス:奇妙などっかのウサギ・奇妙な狂った帽子by劇団海賊ハイジャック
オックスフォード大学の数学講師,チャールズ・ラトウィッジ・ドットソンは,1862年,三人の少女たちとボート遊びをしました。その中に,アリス・プレザンス・リドル(10)が含まれていました。
この時の手づくりの本が,ウサギの穴に落ちた『地下の国アリス』で,ドットソンが,ルイス・キャロルその人です。物語のアリスは,設定では,7歳になっています。
白ウサギは,何をあらわしていたのでしょうか。ドットソンは,白い手袋を愛用していたようです。
アリスが,若さ,大胆さ,元気を象徴しているのに比べ,白ウサギは,年齢,臆病,よわよわしさを,あらわしているのではないでしょうか。白ウサギは,めがねをかけています。
「三日月ウサギのように,いかれている。帽子屋のように,頭がおかしい。」昔からの英語表現がそこに再現されています。
ことば遊びは,とても大事で,想像力を刺激するでしょう。少し,常識を逸脱した会話やら,とりとめもないやり取り,なぞなぞ,そういうものにこそ,おもしろいものが隠されいる。ときには,そこから哲学が始まる。
クロムウェルの共和制が崩壊し,王政が復古した17世紀後半から,上流階級の楽しみだった観劇は,19世紀なかばから,一般大衆の娯楽となっていきます。上演特許も開放されます。劇場は大衆の娯楽となり,少し品がなくなります。
1855年頃,『不思議の国のアリス』は,キャロル自身によって,舞台化が意図され,彼は,喜劇の本質,劇的効果,を一生懸命に考えました。
魅力的なかわいいアリスを,劇のかたちで,大衆に紹介したい。うまくはまり役になってくれる少女がほしい。『不思議の国のアリス』は,舞台化することによって,知的な大人の間にも浸透していくにちがいない。ただ,音楽にも,歌詞・台詞にも上品さを求めたい。子どもは,とても記憶力が良いので,詳細に物語を覚えているものである。
あの,もし,ウサギさん。今日はなんて,へんな日なんでしょう。
昨日までは,いつもと同じだったのに。
夜のうちに,私が変わってしまったのかしら。
猫さんありがとう。
あなたは,本当に物知りだわ。
お話も上手だし。
罪だとすると,妃や。処刑はできないのだよ。
不思議の国のまぼろしは,終わり。
あの哀れな帽子屋は,きっと悪いやつにちがいない。
目をさましなさい。夢の芝居は終わりです。
人は,だれでも,何かしらにこだわっている。
何にこだわるべきか。
後世に残る傑作とはどういうものか。
作品に「愛情」があったのか。
児童文学としての『不思議の国のアリス』に少女は,作品中で友達は見つからない。感銘を受ける大人も出て来ない。性格も結構ゆがんでいて,まわりとの軋轢も多い。ただただ,ほこり高く,好奇心は旺盛である。私はだれなの,どこにいるの。不思議な冒険が魅力だ。自分がだれだかわからない。今朝から,何度も大きさが変わっている・・・アリスは,いもむしに会う。さなぎから,蝶へ,形態が変わる。そういう生き物もいるのだ。きのこを食べると,からだの一部が変化する。相手が自分のアイデンティティを決める世界。
森の中で,帽子屋と三月ウサギとネムネズミの茶会で,自分の入っていけない閉鎖社会に愕然とする。ただただ無視され,疎外されていく。アリスが去ってもだれも,気にもとめない。
自己のアイデンティティの決定権を,ほぼ完全に他人にゆだねる。そのようなメッセージが浮かぶ。
Be what you would seem to be.
あなたが,そうであると,おもうものに,なりなさい。
我慢ならない「不条理」の世界。
キャロルは,娘に上流社会に無理してはいっても,そこは,不毛な世界かもしれない,よと教えたのかもしれない。人は,個人の価値で判断されるもので良い。社会的身分など瑣末なことにちがいない。
『鏡の国のアリス』につづく・・・
君の明るい笑顔も 笑い声も,遠くなる。
私のことなど君はやがて,忘れてしまうだろう。
でも,いま,君はぼくの物語を聴いてくれる。
それだけで十分なのだ。
参考文献:不思議の国のアリス(角川文庫)&出会いの国のアリス(楠本君恵)
無欲の人―熊谷守一物語―
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2013/06/20 (木) ~ 2013/07/02 (火)公演終了
満足度★★★★
『無欲の人:熊谷守一物語』は,仏教的無の世界
劇団民藝『無欲の人:熊谷守一物語』は,仏教的無の世界
西洋には,「無心」はなくて,東洋にはそれがあるという。逆にいうと,キリスト教のひとたちには,「心」がすごくいっぱいある世界なのかもしれない。知識があって,論理があって,理屈をいいたくなるものである。あるから信ずるのでなく,信ずるからある,というのが,宗教だろうが,これが,東洋では徹底している気がする。
ことばに表して,だれかに,何かを伝えようとする。そうする場合,論理とか,理屈で,その内容がつたわると思われる。一方,寓話などのたとえで,直観的に,意図するものが他者につたわっていくことも多い。演劇でも,これは同じであろう。ほとんどの演劇は,どちらかであり,直観的なものでは,形式美に重きを置いて,内容的には比較的単純なのだが,感動できる演劇もあるだろう
論理・対立の世界には,それはそれで良いところもある。にもかかわらず,論理・対立の世界に執着し過ぎると,善悪などの価値も絶対のものに思えてしまう。ある,とか,ない,とか言うことを,どこかで超越したい。西洋的論理では,すごくたいへんで,聞いていても,思考のための思考みたいなものに陥る。
その点,仏教のひとたちは,昔から,論理・対立の世界に埋没するのは,束縛だったり,窮屈だったりとあっさり,思考に埋没しないところがあると思う。絶対的に他者に身をゆだねるとか,自分の意志をもたないこと。そういう仏教徒なら意外とあたりまえに持っている姿勢だ。
見方かえると,なんだか,いい加減で,無責任にもみえそう。しかし,漠然とそこに自分はいる。でも,人格とかそういうレベルまではいかないかもしれない。つまり,論理とか,文字ばかりにべったり頼ることは,そこではないのだ。こういうひとは,能率至上主義なんか嫌う。なんでもゆっくりやる。
でも,だからといって,死んだ世界が仏教の世界だともいえない。仏教観では,みんな生きているんだ。庭の中で生きている虫や,花も,確かに生きている。だとすると,ものを考えたり,しゃべったりするような命ではないけれど,広い意味の生きるって意味あるはずです。なので,人間が死んでも,生はどこかに継続されちゃうていうことで,死んでいる人も,死んでいく人も生きている。
論理・対立の世界観では,まっこと,生きる・死ぬが最大のテーマでもあるが,必ずしもそれだけじゃない。だいたい,その西洋的見方では,客観的に考えたいけど,科学などそういう傾向があるが,自分の見るもの以上に見られないという意味では,真の客観なんてなくて,大なり小なりの主観ばかりが人間。
というわけで,大胆に,対立の世界を完全に否定すると,どういう人になるかとというと,それは菩薩だったりするわけです。天地とともに,生きるんだ。死んだといっても,まあ,上記のような生は連環して,生きて続いているかもしれないのだ。だれもそれを,確認できないだけなのだと。
死んでからの往生に留まらず,現在も生きていて,「往生」というものあるかもしれないわけですね。葉が落ちたり,花が散るのを見る。春になれば,また,花が咲く。見るものと,見られるものの間に,「無心」がある。人間は,生物を殺して生きている。でも野菜だって,生きていると考えたら,食べられない。
春になれば,花が咲き。秋になれば,草や,木の葉が落ちる。天地の心に背きながらも,背かない。有心も,無心もなく,道徳すらも超越する。だいたい,「我」なんて意識は,人間だけにあるのでしょう。これを捨てちゃうと,人間でもなくなってしまうのかしら。いや,仏教は,この「我執」を捨てることをすすめる。仏教の世界は,西洋哲学系のそれともちがうけど,ある種の心理学にほかならないようですね。
参考文献:無心といふこと(鈴木大拙)
マクベス
東京二期会
東京文化会館 大ホール(東京都)
2013/05/01 (水) ~ 2013/05/04 (土)公演終了
満足度★★★★
この『マクベス』は,史実からプロットを取ったと言われています。
1605年,国王ジェームズ一世の時代のことですが,政府転覆をはかる事件が起こります。これは,ガイ・フォークスが首謀者です。彼は,カトリック弾圧に腹をたて,国会議事堂を爆破計画をたて,逮捕され,八つ裂きになりました。
このとき,共謀者で,ガーネット神父という人がいるのですが,『マクベス』に登場する「二枚舌野郎」のモデルになったといわれています。
国家的危機を回避して,ジェームズ一世にシェークスピアが何か作品をプレゼントしようとします。ジェームズ一世は,とても,悪魔好きだったのです。
この『マクベス』は,史実からプロットを取ったと言われています。
スコットランド王ダンカンは,とてもばかだったようです。悪政が続き,マクベスとバンクフォーは,協力して,この王を倒したようです。しかし,シェークスピアは,武将バンクフォーは良い人にして,マクベスを暴君に仕立てていくのです。
実際のところは,1040~1057年の治世において,善政が施された。17年間は,前の王のダンカンよりは,落ち着いていたとされています。国王にささげた作品は,史実をかなり歪曲したものだったということになるでしょう。
また,この『マクベス』は,年代記に出て来るダフ王と,ドナルドの話からもヒントを得ています。ダフ王は,かつて,ドナルドの一族を処刑したことがあって,ダフ王とドナルドの関係が良好になっても,ドナルドはこれを忘れませんでいた。
ダフ王は,ドナルドに褒美も与え,今後とも仲良くやりたかったにちがいないのですが,ドナルドの妻は,もしかして,過去処刑された一族の血縁だったかもしれませんね。そういうわけで,楽しげに立ち寄った宴会の席が修羅場になるのです。
だれが,王になっても,世の中が平和ならそれで良いのかもしれませんが,ドナルドという人は,悪に徹することができない凡人だったので,罪の意識に苦しむのです。そもそも平和裏に,政権についた王などいない気もしますが。
王妃様がお亡くなりに。
何も,今死ななくてもよかったものを。
そう聞かされるにふさわしい時がもっとあとにあったはずだ
明日,また,明日,そして,また明日と,
記録される人生最後の瞬間めざして,
時は,とぼとぼ毎日歩みを刻んでいく。
そして,昨日という日は,あほうどもが,死にいたるチリの道を
照らし出したに過ぎぬ。
消えろ,消えろ,束の間のともしび。
人生は,歩く影法師。あわれな役者だ。
出番のあいだは,大見得切って騒ぎたてるが,
そのあとは,ぱったりさたやみ,音もない。
白痴の物語。なにやらわめきたててはいるが,
何の意味もありはしない。
参考文献:新訳マクベス:河合祥一郎
オペラ座の怪人
劇団四季
電通四季劇場[海](東京都)
2011/10/01 (土) ~ 2013/03/31 (日)公演終了
満足度★★★★
パリ・オペラ座は,『オペラ座の怪人』では,怪人以上に主役
パリ・オペラ座は,『オペラ座の怪人』では,怪人以上に主役
ガストン・ルルー(1868-1927)は,密室殺人の古典的推理小説です。『黄色い部屋の秘密』で有名です。
彼は,パリ大学法学部出身で,弁護士,「ル・マタン」で裁判記事も書きました。書く。その後,作家に転身しています。「司祭館は,その魅力をいささかも失わず,庭の輝きもまた昔のまま」という謎の詩句で,一世を風靡しました。
ガストン・ルルー『オペラ座の怪人』は,1910年に出版されました。ほぼ80年後にやっと,日本語に翻訳されました。これは,ロイド=ウェーバーのミュージカル時代になるまで,されも翻訳しなかったということです。
『オペラ座の怪人』には,ガストン・ルルーが,ミュージカルにするまでに歴史があります。
まず,1916年,ドイツで,映画化されました。残念ながら,フィルムは残っていません。1925年に,ユニヴァーサル映画が取り組みますが,この映画作品では,怪人は,セーヌに投げこまれて死にます。
1942年になると,カラー映画が作られました。エリックは,クリスティーヌの父ですが,娘のレッスン代に頭を悩ませています。これは,今でも同じ悩みを持つ親御さんもいるから,共感できることでしょう。お金の問題で,楽譜会社の社長とケンカになって,なぜか,劇薬を自分自身が浴びてしまうのです。顔全体が醜く崩れ,人前に出られないようになったエリックは,クリスティーヌを地下につれこみ,最後,瓦礫の下敷きになるところで終わっています。
1962年になりますと,イギリスで,ホラーで有名な,ハマー映画によって作品化されました。ガストン・ルルー『オペラ座の怪人』も,ホラー系を引いていますね。ここでは,作品中に,架空作品『ジャンヌ・ダルクの悲劇』が挿入されています。
1983年になりますと,オーストリア・ハンガリー帝国末期のブタペストを舞台にマクシミリアン・シェル主演のCBSテレビ映画が人気になります。指揮者サンドアは,愛妻に手を出し,死へ追いやった評論家ともみあいになり,結果硫酸を被ります。歌劇場の地下で,妻と良く似たマリアの教育係になってみますが,あわれ,最後は,シャンデリアとともに落下して,死ぬのです。
以上が,ロイド=ウェーバーのミュージカルが出現するまでの,『オペラ座の怪人』ということになります。
芸術は,どこまでオリジナルであるべきなのでしょうか。ロイド=ウェーバーがミュージカルを手がけていますが,同時期に,1937年,作曲家ではなく,劇作家であったケン・ヒルの試みが有名です。
ロイド=ウェーバーは,続編も作りましたが,今その作品の存在は忘れられています。「劇場には,魔物が住んでいる。」怪人とは,劇場に棲みつく魔物。ファントムは,生ける骸骨。目が黒い穴。鼻がない。顔全体がひどく歪んでいる。声がひどい。でも,最近では,これは,老醜の話と感じる方も多いようです。
パリ・オペラ座は,『オペラ座の怪人』では,怪人以上に主役なのです。地底湖は,本当にあったのでしょうか。ガニエル宮建設中,大水が出て,オペラ座の地下にあのような無粋な世界が発生したというのが,真実らしい。
バレエ映画『白鳥の死』には,この地底湖が出てきます。ローズと言う娘は,は,ひいきのバレリーナのために,別のバレリーナに大怪我をさせます。逃げるには,地下の水槽を利用するしかない。そういう場面もあったわけです。
なお,1896年,『エレ』上演中,恐ろしい事故がありました。四階席で爆発事故があったのです。確かに,シャンデリアが一人の観客の命を奪ったのです。
参考文献:オペラ座の迷宮,鈴木晶(新書館)
マクベス
東京二期会
東京文化会館 大ホール(東京都)
2013/05/01 (水) ~ 2013/05/04 (土)公演終了
満足度★★★★★
短剣を頂戴。眠っている人も,死んでいる人も,絵のようなもの。
マクベスは,サラリーマンかもしれない。ある日,自宅のアパートに戻ろうとする。と,近所の三美人ママから,イケメンだってほめられる。きっと,将来は,出世するわよ・・・とか,お世辞を言われる。このお追従に,のぼせあがったマクベスは,家にもどるのが待てず,その話を愛妻にメールする。妻は,そうよ。あんたは,まじめ過ぎるからだめなの,もっと汚い手でもなんでも使って,同僚を次々につぶしていけばいいのよ。そうすれば,社長だって,夢じゃないわよ。
というような話になって,二人は,三人の魔女の預言に振り回され,人生の歯車を狂わせていくのだ。マクベスは,もともと仕事の鬼でもあったので,何人かは,会社から追い出せた。まだ,残っている連中は,逆に,組織の上層部に訴えでて巻き返しをはかろうとする。負けてなるものか,買収でなんでもやってやれ。夫婦の結束は,こうして,素晴らしく深くなるのであったが,没落の日が突然やって来るのであった。
シェークスピア演劇では,結婚はあまり肯定的に描かれていない。これは,シェークスピア自身家庭生活に満足していなかったから,といわれる。18歳のときに,8歳ちがう姉さん女房をもち,すぐに女の子,さらに何人かの子どもを持ったとされている。しかし,その結婚生活は,ほとんど別居であったとされる。結婚後,俳優をへて,脚本を書き始め,ヘンリー六世などを書く。劇作家としては大成功するが,円満な家庭を演じることはなかったのか。
しあわせな結婚生活を,ほとんど書かない作家が,『マクベス』という作品で,仲の良い夫婦を初めて書いた。それは,王位簒奪を計画し,連続殺人にいたる,グロテスクな物語だった。真っ赤になった血の手袋が,オペラ『マクベス』の小道具では一番印象的だったと思う。音楽も素晴らしかった。また,いつの日か。
短剣を頂戴。眠っている人も,死んでいる人も,絵のようなもの。
絵に描かれた悪魔を怖がるのは,子どもの目です。血を流していたら,護衛たちの顔になすりつけてやればいい。なすりつけるのよ,護衛たちに罪を。
オセロ
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2013/06/09 (日) ~ 2013/06/23 (日)公演終了
満足度★★★★
演出家の仕掛けた罠
19世紀までの,シェークスピア上演史の特徴はというと,そこでは,演出家というのは,実質的には存在していなかったのである。19世紀末に,近代劇が生れ,シェークスピアは,時代によってちがう理解がされ,上演の仕方もバラエティに富むようになる。シェークスピアだから,何をやってもシェークスピア,それはそうなのだが,おもしろいものもあれば,さほどでないこともあったと思われる。
シェークスピア劇を,シェークスピアの生きたエリザベス朝時代に戻そうという動きもあった。そこでは,ごく一般的な「額縁舞台」でなく,エリザベス朝時代の「突き出し舞台」を再現することもあった。
演出家の時代に突入する。まず,ゴードン・クレイグは,照明装置でみなを驚かせた。次に,グランヴィル=バーカーは,劇全体の速度をあげて,演劇をだらだらとやらないようにする。1938年には,タイロン・ガスリーが,その時代の洋服で初めてハムレットを上演した。
何もない空間で有名な,ピーター・ブルックは傑出した演出家にちがいない。彼は,原則的に,シェークスピア劇の台詞をなるべくそのまま残して,それでもなお,まったく違う演劇を提示する。ピーター・ブルックのシェークスピア演出をもってして,シェークスピア体験が,現代人にとって,リニューアルされ,より身近な解釈ができるようになっていく。
日本では,最初,戦前であるが,千田是也のイアーゴ(オセロ)が有名である。戦後になると,芥川比呂志が,福田恆存の演出で,ハムレットをやるようになる。また,浅利慶太が,民藝で,S43ヴェニスの商人を手がけた。文学座では,出口典雄が十二夜に挑んだ。
ピーター・ブルックという人は,舞台と映画を峻別した。根本的にちがうメディアであると力説する。彼の,何もない空間は,とても魅力のある著書のひとつだろう。ピーター・ブルックは,あくまで,演劇に,シアトリカリティ,すなわち,演劇性を忘れない演出をする。そこでは,見るものを圧倒するような演劇が多い。
この点,モスクワ芸術座で,スタニスラフスキーが,チェーホフの桜の園みたいに,静かで,気分の演劇,泡だつような作品で実践したシステムと対極をなすと思われる。スタニスラフスキーの友人は,むしろ,演劇性は残るべきと争う。ただ,演劇は,ハイレベルになると,演じているのでなく,化身というか,憑依というか,なりきりだから同じ事かも。
興味深いのは,スタンダールが,シェークスピアをどう評価していたかだ。少年時代にひととおり体験したシェークスピア劇が,後年自分の作品に少なからず,インスピレーションを与えたことを述懐している。
役者が,演出家に飼いならされ,一糸みだれず特定の方向に動くのは困ったものだ。そうでなく,役者と演出家が対等に取っ組んで,初めて痛みわけになる。
だから,演出が決まったあとで,演出の型にはめて,役者を決めて良いものだろうか。白紙の状態で,ある技術を持つ役者を募集し,そこに賭けてみるのは,シェークスピア劇では大事なのかもしれない。
やったことない役作りで,抵抗はあるだろう。しかし,そこに,緊張感が生れれる。その緊張感が功を奏して,演出家の仕掛けた罠にはまり,舞台上で劇的な効果が生まれるのだ。
For example, in my opinion Othello is the gree-eyed monster.Desdemona has eaten the leek.But it’s foregone conclusion.Having no love, she has made a virtue of necessity by working hard.It’s cold comfort.
私にとっては,シェークスピアは,良くわからない。たとえば,オセロって,嫉妬の話かもしれない。デズデモーナってさ,ハンケチひとつで,あんな屈辱を受けた。でも,オセロは,そろそろ無用の時期だったから,最初から自滅していくって,わかっていたような物語。デズデモーナは,本当の愛が得られないから,余計にもがいただけで,それだけ空しいってこと。まったく,どこにも慰めなんかないんだ。
参考文献:現代演劇シンポジウム英米文学三(学生社)
マクベス
東京二期会
東京文化会館 大ホール(東京都)
2013/05/01 (水) ~ 2013/05/04 (土)公演終了
満足度★★★★
シェークスピア文学は,人生を肯定的にとらえるもの。
シェークスピア文学は,人生を肯定的にとらえるもの。
シェークスピアが愛されるのは,人生に対し肯定的である点かもしれない。演劇そのものは,必ずしも明るいとか,わかり易いとかいえないが,意外と,前向きなのだ。逆にいえば,太宰治みたいに死ぬことばかり考えながら,生き,最後玉川上水で入水自殺した人もいて,そっちは,お世辞にも人生を肯定的には観ていないだろう。
どのみち死ぬから,同じじゃん。という人は,遊園地で遊んでいてください。
シェークスピア演劇は,人生をありのままに写すことが狙いになっている。人生とはこのようなものだ。人間は,こんな風に生き,そして,死んでいくんだよ,といった感じだ。それを,五幕とかに上手にまとめる。
シェークスピアは,36歳頃から,続けて,四大悲劇を作った。『ハムレット』『オセロ』『マクベス』『リア王』。彼は,人生に悲観し,悲劇を作ったわけでは,まったくなかった。悲劇的要素の,演劇における効果に興味を持っていた。だから,悲劇的な人生を作ってみて,悲劇が人の心に与える力とか効果をさぐっていた。
シェークスピアの作品には,厳密にいうとオリジナルはない。元になる脚本は必ずあって,それを,少しばかり脚色するのが,彼の腕の見せ所だった。自然に対し,鏡を掲げて,民衆に演劇として提示していく。彼の作品は,人物の性格が生き生きしているのだ。人生を劇場にたとえた。だから,『マクベス』でも,人生が,歩いている人の影,影法師だっていうんだ。人間の影なんて,月の光がなくなれば,いとも簡単に消えちまうものさ。
『マクベス』は,野望に駆りたてられた男の物語だ。良心の呵責はあるものの,まっすぐ,破滅につき進む。各場面は,比較的シンプルでもある。展開するスピードも,恐ろしく速い。加速度を増す。魔女の呪文。殺人事件の連続。マクベスという一人の凡庸な将軍が,生き,死んでいくのをどう評価してもかまわない。とにかく,一人の男は,生き,そして,死んでいったのである。
やっぱ,死んじゃうんだね。
まあね。
参考文献:福原麟太郎著作集(研究社)
オセロ
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2013/06/09 (日) ~ 2013/06/23 (日)公演終了
満足度★★
『オセロ』は,少しおもしろかった。
『オセロ』を観て,遠いヴェネチア共和国での,瑣末な事件をいまさら鑑賞して,なんかおもしろいですか?ということになると,まあ,シェークスピアは偉大だし,いろいろな発見もある,と答えたい。しかし,いくつか見て退屈で,人物関係が複雑過ぎて,終わって良かった。と思うことがないわけでもない。しかし,『オセロ』は,おもしろいところもあった。それは,一般に言われるような嫉妬=ジャラシーの問題としておもしろかったわけではない。恋愛経験が貧困な人生を送って来たと私には,嫉妬って,さほどピンと来ない。要するにヤキモチだと思われるのだが,三角関係の恋愛なんかに全く陥ったことないので,理解できない世界だ。でも,『オセロ』は,少しおもしろかった。雇われ軍人が,出世してみたが,用がすんだらよそものだからと,居場所を失ったといった話にも見えるので,そちらの方がおもしろいのだ。これなら,自分の人生でも何度も体験している。いくらがんばってやっても,地元の人でないとかで,疎外されちゃうのは共感できるのだ。
また,『オセロ』に出て来る「イアーゴ」のような悪臭をはなつ人物にも私は何度もあっている。社会は,そういうツワモノに結構引っかき回される。一時的には,彼は,まちがいなく多数派の代表なのだ。でも,どこかゆがんでいるので,やがて自滅していく。彼が舞台から退場するまでが長過ぎて窒息しそうになるのは,現実でも同じだ。『ビョードロ~月色の森で抱きよせて~』を,ほかのみんながどう観ていたか,私は最初まったく理解できなかった。美しいものを,オペラでも鑑賞するようにただ見ている人も多かったらしい。また,作品理解も,何とおりもあり,ずばり何かを批判する社会派的な演劇とはちがい,ずいぶん人それぞれなんだな,と感じたものだ。
そこにいくと,葵と楓は,わかり易くていいな。一応,歌劇団なので,劇団なのだが,高踏な作劇法も取っていなくていい。そもそも,私の頭は,からっぽなので,あまりむつかしい5000円以上の高いチケットを予約して観ても,ムダかもしれない。ということで,そろそろひととおり観た気もするので,この分野も撤退しようかな。『マクベス』どうでしたか?よくわかんなかったけど,おもしろかったよ。でも今度は,ライオン・キングでも誘ってね。ストレスで円形脱毛症にならないものがいいね。あのね。オペラ『マクベス』観てから,美人ママが三人いると,あ!魔女だ,気をつけよう・・ってなちゃうんだよ。
ガリレイの生涯
文学座
あうるすぽっと(東京都)
2013/06/14 (金) ~ 2013/06/25 (火)公演終了
満足度★★★★
科学の問題性が見える演劇を作ることが大事なのだ!
ブレヒト(1898-1956)は,文学青年とか,演劇青年というレベルを超えたところにいた人である。ブレヒトの仕事の意味を,直観的に見抜いていたのは,ベンヤミンだったという。自らの才能をどこに向けるべきか自問する人物と評している。そういうブレヒトにとって,この『ガリレイの生涯』は,彼の特徴を明確にしめした作品という。 ブレヒトは,1922年に演劇界にデビューした。ブレヒト自身,第一次世界大戦に衛生兵として参加している。彼は気がついていた。戦争はどのようなものより,科学を前進させる。1927年には,リンドバークの大西洋横断単独無着陸飛行(ニューヨーク→パリ)があった。この頃,ブレヒトは,『三文オペラ』で名を挙げていた。彼もまた,新しい演劇を求めていた。空を飛ぶことはできるのか,劇中でもそのような会話があって,印象的だった。
ブレヒトは,現代物理学におおいなる関心を持っていた。科学が,目に見える生活とどう結ぶか,そこから何が生れるか。第二次大戦後,原子力の平和利用として,理論的には,原爆と同じことが日常に発生する。すなわち,核分裂を起こして,そのエネルギーで,発電を起こそうとする。これが,世界に普及した。現代宇宙論も,アインシュタインの相対性理論に始まる。人工的に原子核反応を起こさせ,エネルギーを取り出す。現在の地球上で,その生態系では,ありえない現象が始まる。ブレヒトは,このことを非常に気にしていた。人類の新たな挑戦は,もしかして,悪魔との賭けになりかねない。『ファウスト』の世界だ。
1932年,ヒトラー政権下で,ブレヒト一家は亡命を余儀なくされた。服毒自殺したベンヤミンに比べ,ブレヒトは身を潜めて作品を書いた。300年のときを,歴史を,現在に演劇のかたちで表現する。1941年,ナチスに追われてブレヒトは,アメリカ・ロスにいた。英語版の第二稿中に,広島・長崎に原爆が落ちた。アインシュタインは,原子力の平和利用を訴えながら亡くなる。ガリレイを,ひとつの先例として作品を書く。ガリレイの自己断罪や,科学者の社会的責任。ガリレイの生涯は,結構長い。1564~1637年で,73歳まで生きている。46歳のとき,ヴェネツィア共和国のパドヴァ大学数学教授になる。科学は神学のはしため(侍女)であった。ガリレイは,後日近代科学の父となる。 好奇心のまま,観察し,記述し,論理で思考する。実験,観察を繰り返し,証明する。これが,科学だ。科学のことばは,ラテン語でなく,民衆のことばで書くべきだ。知識を人類のしあわせだけに使いたい。結局は,原爆にいたったのは,近代科学の敗北なのだ。ガリレイの伝記はどっちでもいい。むしろ,ガリレイ=科学の問題性が見える演劇を作ることが大事なのだ。
参考:ブレヒト『ガリレイの生涯』光文社版解説から,谷川道子
サロメ
虹創旅団
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2013/06/20 (木) ~ 2013/06/23 (日)公演終了
満足度★★★★
「神は善なるものと同様に,悪なるものの中にさえ存在する。」
オスカー・ワイルド作『サロメ』になって,それまでのサロメと決定的にちがう点は何か。それは,それまでのサロメ像は,母親のいいなりの小娘であったが,ワイルドのサロメには意思がある。一人の女としてのあふれんばかりの,欲望がある。それは,自然なものであって,押し殺そうとしても,隠そうとしても,結局はどこかで爆発するのである。
そういう意味で,貞淑な女などどこにもいないのだ。芸術家にとって,この奔放なサロメ像が魅力的であったのだ。最後で,あっけなく,サロメは殺されてしまう。しばらく監禁でもされて,後日放免という軽い処分もあったであろう。そもそも王が,悪いのだ。すけべ心を起こして,裸同然で小娘が踊るのをにやけて眺めたかっただけだから。結果的に,王は墓穴を掘った。いくらヨカナーンが,うるさい正論を述べても王位を奪う力はない。しかし,イエスの弟子でもあるものを,さほどの罪もないのに,単にのぼせあがった小娘の機嫌を損ねたという理由で命まで奪うのは後味も悪いのだ。
エロチックに踊る女は,みなサロメとみなされる。女性解放の象徴に祭りあげられる。 一人のありふれた純真な女性こそが,無邪気であるがゆえに,残酷さもあわせもっているのか。新訳聖書に出て来る小娘は,もしかして,まだ子どもだったかもしれないのだ。そういえば,反復の多いたどたどしい子どもならではの会話がならんでいる。
美しい処女,サロメの残忍性,それを,文学では,散文にすべきか,詩にすべきか,はたまた,演劇にすべきか,ワイルドは悩んだ。というわけで,サロメは,演劇のかたちは取っているが,ある部分小説的であり,詩的であるのだ。
「神は善なるものと同様に,悪なるものの中にさえ存在する。」これは,マクベスで魔女が呪文で,きれいは汚い,汚いはきれい,と似たような文章である。ということは,魔女の呪文は,そのような聖書の世界から導かれたものなのかもしれないということになろうか。
ユダヤの預言者ヨカナーンと,ヘビライ語でいうと,これは,旧約聖書の世界になり,イエス・キリストの先駆者的な意味になるだろう。ヨカナーンは,神の国を絶対視する。善と悪の二元論を貫こうとする。
参考文献:光文社『サロメ』田中裕介解説
ガリレイの生涯
文学座
あうるすぽっと(東京都)
2013/06/14 (金) ~ 2013/06/25 (火)公演終了
満足度★★★★
何のために,科学はあるのか。
ブレヒト『ガリレイの生涯』を観た。これは,今までのものと,少しちがった科学の世界を描いたもので,そういう点で新鮮だった。まず,最初に,ガリレオが,半裸で顔を洗いながら,科学の話を始めた。科学とは,何だろう。科学と人間はどうおつきあいしていくべきか。そういった現在において,生々しいテーマが背景にある演劇だったと思う。
何度か出て来た印象深いことばは,次のようなものだった。
真理を知らぬものは,ただのバカだ。しかしながら,真理を知っていながら,なお,それを隠して,世に広めないのは,うそつきであり,犯罪者にちがいない,といったもの。
何のために,科学はあるのか。それは,人間が生きていくうえで,その辛さを少しでも緩和するためにあって,科学者は,そこで生きるべきだ。地位・名声・金への手段,あるいは,研究という名目で,趣味的に没頭してゆくようなことでは困るものにちがいない。
オセロ
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2013/06/09 (日) ~ 2013/06/23 (日)公演終了
満足度★★★
かっこいいものだった!
シェークスピア『オセロ』を観た。これは,オセロというムーア人が,ベニスに雇われ気にいられて,登り詰めていくところから始まる。しかし,すぐに台風で,彼らの敵は撤退した。オセロはほどなく居場所を失っていく。そのために,彼自身少しばかりいらだっていたのだろう。部下の策略に落ちて,転落していくのだ。
どうして,オセロは,かくも憎まれたのか。よそものは,よそものであった。ほどなく去るべきであった。誰も彼がそのままベニスでトップに留まるのを望んでいなかった。そのために,彼をみなでわなにはめ,転落させることは容易であった。今回の,演劇では,一人の大悪党がすべての諸悪の根源だったが,そうともいえるが,オセロはベニスに不用だった。
テレビで良く見る顔が遠くから眺められた。人気がある俳優だから,若い女性がたくさん来ていた。比較的早く座席を取ったはずだが,行ってみると,三階になってしまった。でも,さらに後ろで立って観ているひとたちもいた。こういう演出もあるのか,と思うような,かっこいいものだったので,一度こういうのも観ておくのは良いと思う。
サロメ
虹創旅団
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2013/06/20 (木) ~ 2013/06/23 (日)公演終了
満足度★★★★
『サロメ』は,聖書の中にもあるお話である。
『サロメ』は,聖書の中にもあるお話である。
王は,かつて,自らの兄弟の妻を簒奪して,王位についたものである。聖者ヨハネは,この経緯を許さず,批判し,獄につながれた。娘サロメは,あるとき聖者ヨハネを垣間見て,恋に落ちる。しかし,相手にされないとわかるとこれを憎むようになる。あるとき,気分の良かった王が,娘に何でも望みのものを与えようという約束をする。
后は,もともと聖者ヨハネのことを疎ましく思っていた。母の教唆により,娘サロメは,この際聖者ヨハネの殺害を企てる。首尾よく,聖者ヨハネは首をはねられるが,これに口付けする娘の異常さに愕然とした王は,娘を殺害してしまう。
オスカー・ワイルドによる戯曲『サロメ』(1893年)が有名。これはフランス語で執筆され,1896年にパリで初演された。イギリスにおいて,上演禁止が解かれたのは,1931年。1905年には,歌劇化されていて,こちらの方も有名であるが,戯曲としても世界中で読まれている。
見事だった。見事に,踊ってくれた。褒美をつかわす。
なんなりと,お前のほしいものをつかわそう。
今すぐここへ,銀の大皿にのせて・・・
わけもないことだ。一体なんなのだ。何をほしいというのだ。
聖者ヨハネの首を。
ならぬ。それはならぬ。サロメ。
マクベス
東京二期会
東京文化会館 大ホール(東京都)
2013/05/01 (水) ~ 2013/05/04 (土)公演終了
満足度★★★★★
オペラ『マクベス』魔女の呪文の謎を解く!
オペラ『マクベス』魔女の呪文の謎を解く!
先日,オペラ『マクベス』を観た。感想は,というと,これは,難解な作品だ。たとえば,魔女が出て来て,「きれいは,汚い。汚いは,きれい。」などと,意味不明の呪文が出て来る。シェークスピアには,ハイレベルの技巧がある人で,子どものミュージカルの方が,気が楽ですね。でも,オペラ『マクベス』どうでした?わかりましたか,とかいわれちゃうと,気になりました。
で結局,この魔女のことばの意味は,なんでしょうか。埴輪雄高の説明によると,トルストイと,ドストエフスキーの視点を対比するとわかるという。彼の「表現者とは何か」という文章から推察する。
トルストイには,『復活』のような宗教的な作品が印象的で,『アンナ・カレーニナ』も良い作品だ。それらは,背景に,神の視点というか,全的視点がある。そういう「表現」があって,哲学・思想がある。それは,まっすぐな,子どものような視点でしょうか。
これに対して,ドストエフスキーは,『地下生活者の手記』というへそまがりな作品があって,そこでは,終始変なおじさんがぶつぶつ言っているわけです。こっちの作品は,複雑で,屈折したプリズムの世界であって,全的視点(まっすぐな)ではないというわけです。
この「地下室的視点」というのは,世の中には,正しいことが,すぐに,まちがいになったり,まちがいであったものが,正しいことでもあったりする。正しいとも間違いともいえず,次に進むことも多い。(これは,難しく言うと,ヘーゲルとか,マルクスを読むとき出て来る弁証法的な考え方,というのでしょうか。)
で,問題は,こういう考え方は,さかのぼると,シェークスピア『マクベス』で,魔女の呪文にちゃんと出て来たという。つまり,ヨーロッパの人は,『マクベス』を読み,気がつくと,哲学にめざめたことになりますね。(ちなみに,ブレヒト『サロメ』によれば,善が悪,悪が善という聖書からの引用もあった)
PS
原作とオペラのちがい
「Fair is foul, and foul is fair.」は,演劇『マクベス』では,抜群に有名ですが,オペラ『マクベス』になると,この魔女の呪文は,fairとfoulという形容詞が確認できるだけで,直接台詞にはなっていなかったようですね。
ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました!
おぼんろ
d-倉庫(東京都)
2013/05/29 (水) ~ 2013/06/16 (日)公演終了
満足度★★★★★
シェークスピアと,イプセンと,メーテルリンクと,チェーホフと,そして,『ビョードロ』
シェークスピアと,イプセンと,メーテルリンクと,チェーホフと,そして,『ビョードロ』
シェークスピアは素晴らしい作家で多くの作品を残しましたが,全作品には,ヒントになる事件,逸話があって,現代でいうところの,創作的なものはひとつもありません。その点では,いまいちです。イプセンは,人形の家を書いた立派な作家ですが,シェークスピアの偉大さを,せせこましい居間におしこめた人といわれました。メーテルリンクは,青い鳥で,はしか・しょうこうねつなど病気を運命に持ちながら生まれくる未来を暗示する傑作を残しましたが,最初犬・猫がわんわん吠えてうるさいと,バカにされました。チェーホフのかもめは,モスクワ芸術座の紋章になった作品ですが,当初その奇抜さに誰も評価できませんでした。
『ビョードロ』は,おそらく,劇団おぼんろで『かもめ』のような代表作品となると良いと思います。何度も何度も演じて,日本中を感動の嵐に陥れてください。作品はどこにもムダがないので,そのままの形を維持すべきです。チェーホフの手を離れ,『かもめ』ほか代表作が,さまざまに演出をされたように,もはやこの作品は一人歩きしはじめています。いつの日か,世界中の多くの演出家によって,いろいろなアプローチがさらに作品の世界を拡げるかもしれません。今回の役者・観客の全員が,タネになり,死んでしまったあと100年後,われわれの子孫は,非常におもしろい傑作を残してくれたと,いずこの劇場・倉庫で涙するでしょう。
東日本の地震で,福島の方たちが苦労しているのに,何を言っているのか,と申し訳ないけど,次のような感想を私は,持ちます。演劇などを自由に体験できる良い日本に生まれたと。現在日本演劇の源流は,私の考えでは,ロシア文学系だったり,フランス文学系だったりすると思われます。
一方のモスクワ芸術座では,スタニスラフスキーと,メイエルホルドの話があります。スタニスラフスキーは,システムを作ってみようと考えたり,メイエルホルドは,逆に演劇は,「演劇性」をどこまでも残せばいいじゃないか,とくいちがいました。しかし,心の中での対立はなく,二人は,最後まで演劇を愛する友人でした。しかし,メイエルホルドはスターリンに睨まれ,演劇人として粛清(殺害)されていきます。
フランス文学系は,浅利慶太さんが大好きな世界で,むしろ,ロシア系をきらうのですが,こっちにもいろいろな話があります。サルトルの『汚れた手』を最近俳優座で観たりしたのですが,調べてみると,サルトル自身,このような話は,反共政策に利用されるだけであると,ずっと上演を認めなかったようです。つまり,随分あとになって,傑作を観られる時代になったのです。
『ビョードロ』を観られる時代,このような美しい演劇を自由に,観られる時代に生まれて,われわれは幸せです。ぜひ,一人でも多くの日本人にしあわせを与えてほしいものです。この作品は,二度楽しめます。ひとつは,形式美としての演劇です。何も深く思考しないで,劇場をあとにしても良い印象がずっと残ります。もうひとつは,象徴の言語・寓話の世界として,何かを感じとり,想像力の世界に遊ぶ見方ができます。その場合,「ジョウキゲン」を,原子力と感じる人もいたり,あるいは,演劇愛と感じる読み方も自由です。あとは,親子の情愛は,結構深いが,また,それが,難しい状況を生むものだ,という見方もできます。
私は,しろうとなので,みなさんの愛するこの傑作『ビョードロ』をどのようにほめても,ご不満がでることは承知ですが,二回観劇させていただいて,以上のような感想を抱くものです。私自身は,子どものミュージカルでも観ていた方がしあわせな人間なので,この劇団を今後応援するというより,見守ることに専念し,深く干渉はしないと思いますが,よろしくご発展されるように祈ります。以上,最後の感想とします。
ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました!
おぼんろ
d-倉庫(東京都)
2013/05/29 (水) ~ 2013/06/16 (日)公演終了
満足度★★★★★
芸術は,みんなのもので,もっと,心広くやってください。
劇団も小さな集団から,大きな集団に飛翔するときがあると思う。
そこで,小さなお金にしばられて,その活動が停滞するのなら,それは,あらゆる芸術活動の敗北であると思います。Corichのコメントする場合も,たくさん行って,たくさん落書きした人間ばかりが目立つのは問題に思います。その演劇に関わっている人間は,本当に良いものをめざしているのではないでしょうか。そこに,お金はたくさんあって,暇もあるおじさんたちが大挙して,東京都内を夜な夜な走りまわり,内容もないような書き込みを書き並べ,その数をCorichが集計して,評価させるのは,少し変だと思いました。
芸術活動を指向するのであれば,そのあたり少し考えないとダメな時期に来ているのではないでしょうか。
たとえば,おぼんろは,私の理解では,写真を撮って,どうぞ,宣伝して欲しいと言いました。しかし,その判断は,少しあいまいで,フラッシュをたく失敗があって,それを本人も十分あやまりました。劇団も,少し問題があると,思ったものの,なんとか我慢してくれました。しかし,一部ファンを代表してか,大変な攻撃をする輩がいました。彼は,劇団の判断を越えて,そのような批判ができるのでしょうか。確かに,一ファンなのであれば,人のまちがいをあげつらうのでなく,次回からは,頼むから,静かな世界を守りたいというべきです。劇団側から,最初にまよいこんだ観客に向かって,二度と来るな!というようなことを言うファンがあって良いのか,たいへん疑問です。
Corichのコメント,もっとちゃんとやってください。何度観たかとか,観客にバカがいたとか,そういうことばかりやっても何の発展もないのではないかと思います。二行や三行のコメントでなく,常連なら,少し内容をまとめてください。小学生のいたずらでもここまでひどくはないと思います。
お金がある人が,芸術を買い占めたのは,歴史的な事実です。でも,たとえば,このおぼんろには,本当このあといろいろな試練を経て,演劇の根底を覆すような夢の実現があろうかと思うものです。その場合,いろいろな劇団の失敗を研究して欲しいのです。でないと,大衆劇団の中には,結構新しい良いものを目指す演劇をやっている,とか思われちゃいます。くりかえします。芸術は,みんなのもので,もっと,心広くやってください。
ビョードロ 終演いたしました!総動員2097人!どうもありがとうございました!
おぼんろ
d-倉庫(東京都)
2013/05/29 (水) ~ 2013/06/16 (日)公演終了
満足度★★★★★
うしゃしゃしゃしゃ・・・ぼぉくジョウキゲン
うしゃしゃしゃしゃ・・・ぼぉくジョウキゲン
ぼくは,ちゃんとやってるよ
みんなタネにしちゃたんだもの。
なのに,どうして,ぼくをきらうの?
ぼぉくジョウキゲン
ビョードロは,ぼくのぱぱ。
ぱぱが,ちちの日に,ぼくを殺しに探しまわっている。
ぼくは,逃げるよ。シーランなんか,し~らん。
ぼぉくジョウキゲン,うしゃしゃしゃしゃ
おぉ~おぉ~
みんなぼくのことを忘れないでね
また,いつか,ぼくは輪廻転生しちゃうからね
よくやった!末原拓馬!最高の童話をありがと!みんなタネになっちゃったけど,みんなネタは理解できたかな。
鹿鳴館
劇団四季
自由劇場(東京都)
2013/06/02 (日) ~ 2013/06/29 (土)公演終了
満足度★★★★★
三島由紀夫『鹿鳴館』を観た。
三島由紀夫『鹿鳴館』を観た。これは,どのような物語なのだろう。核になるのは,男二人と,女一人の三角関係だ。子どもがひとりいるが,実の父と決別し,母の嫁ぎ先で世話になる。
影山伯爵には,愛する妻がいる。この妻は,前の旦那であった,清原といつまでも心の絆を持っている。影山伯爵は,どうしてもそこが許せない。実際に二人の間には,子どもがいた。影山伯爵は,策謀を練って,清原殺害を企てるが,清原の子どもが,父を憎んでいたので,これを利用しようとする。しかし,結果的には,清原の子どもは,父親に返り討ちに会って死んでいく。
このような物語が終わってみて,さて,四者は何を失ってしまったのだろうか。影山伯爵は,政敵である清原を生ける屍と化して勝利を得る。清原は,もはや,政治的な活動をする気力もない老人になる。朝子は,子どもを,さらには,愛する清原も失い,伯爵家から出ていく。久雄は,実の父親への怨執を解くこともできず,貴族社会に同化することもできず,恋人を残し他界する。
この作品も,サルトルの『汚れた手』と似ていて,少々汚い手を使うことが,政治の王道なのだ,というメッセージがある。しかし,サルトルの方が,登場人物がみな高潔なのに比べ,三島由紀夫の『鹿鳴館』は,かなり卑劣な展開になっている。影山伯爵は,要するに何でもありの,ろくでなしなのだ。明治維新が進む中で,起こったかもしれないような事件。そこで,三島は何を本当は描きたかったのだろうか。