満足度★★★★★
特異なタイトルに惹かれて観る気になったのだが、この直感は正しかった。同時にとても重い宿題を負わされることになったが、このような問い掛けこそ望む所である。花五つ☆
ネタバレBOX
舞台は町中にある公園、ここには何人かの住所不定、無職の人々が暮らしている。1人はヒカルと呼ばれる若者。幼少の頃、母に捨てられ、以来この公園を根城に母の帰りを待っている精薄児で声が出せない。捨てられた時、母から貰った物が2つ。しろつめくさの花冠と四葉のクローバーである。それで、公園の片隅に咲くシロツメクサを摘んでは花冠を作り、戻ってきた母に捧げようとしているのだ。ここにそんなヒカルを庇いつつ生活をしている古くからの仲間が2人居る。独りはTVで大々的に報道されるような横領事件の主犯格、もう1人はかつてラグビーの花形選手としてもてはやされ、偶々起こした交通事故で他人を引き殺してしまった男。だが、ここに第3の仲間が現れる。親にも兄にも見捨てられ、最早帰る場所を失ってしまったと信じている若者である。世間は、彼らの事情も、一人一人が個性を持った人間であるという極めて当たり前の事実をも無視してホームレスと一つに括り、差別しても恬淡として恥じない。というのも差別する彼らにあるのは、働きもせず、社会のセーフティネットの善意に甘えて生き延びる屑だと決めつけているからである。だが、本当にそうだろうか? 無論、実際ホームレスの人々に心を開かせるのは難しい。彼らはなるべく目立たず、生きていきたいのだ。自分の調べた範囲で彼らの人となりを挙げれば、他人の連帯保証人になって全財産を失くした結果、家族を失くし失踪した者、犯罪歴が在る者、底辺労働者として働いてきたが、体を痛めて働くことができなくなったらお祓い箱にされた者、家族らの荷物として縁を切られた者など各々の事情は様々であるが、共通項が無い訳ではない。その共通項とは、一度は自殺しようと試みたことがあるということだ。だが、自殺に失敗したりいざその時になると、どういう訳か何かしたいことをして居なかったことに気付き、その小さな目標を果たす為に生きてみようとする。生き残った後は、一つの目標が叶えば次の目標を追いかけ、いつしか死のうとしたことを忘れて生き延びるに至ったという。(この部分は、今作に描かれた部分である)何れにせよ、彼らは傷つき、その傷の故に敏感であるが、その敏感に気付く一般人は少ない。そのことが差別に繋がることすら殆どの人々が知らないのが実情である。
然し、今作で描かれるヒロイン役、すみれは珍しく被差別者の側に在って彼らの力になろうとする。すみれは結婚を控えており、ブライダルサロンも訪ね、挙式の段取りも着々と進めている最中で相手は企業の御曹司、シンジである。このシンジがすみれが浮かない様子なのを見て原因を確かめ、彼女がホームレスに出会った為に悩んでいることを知る。そして実際にホームレスの棲家である公園を訪れ彼らと話をし始めたのだが、シンジの地がバレてしまう。つまり差別者としての側面が露骨に表れてしまったのである。それまで同棲を始めていたすみれであったが、これを機に主治医の下に身を寄せることになり、ホームレス達と関わることも止めなかった。在る時、シンジが包丁を持って現れ、その包丁を意味の分からないヒカルに持たせる。ヒカルは訳も分からずキラキラする包丁を振り回していたが、そのシンジの行為を止めさせようとしたすみれと三つ巴にぶつかりあった時に包丁はすみれの体を貫いてしまった。出血して倒れ死にゆくすみれにホームレスたちの診療を無料でやっている地域の女医がヒカルに教えた言葉「だいじょうぶ」をヒカルが繰り返すうち、彼の口から音声が漏れる。母に捨てられて以来のトラウマによって発声を失っていた音声が、彼の精神の母、すみれの死を前に甦るのである。その有様を見ていたのは、新入りのホームレス塚本とシンジの知り合いソウタ。そして塚本は、ヒカルを庇う為、落ちた包丁を拾いしっかりと握りしめる。無論、彼は恐らくこのまま自首したのだろう。ヒカルが犯人とされても知的障害の顕著なことから罪には問われまい。
が、塚本は、それが分かった上で弱者であるヒカルを庇うことで自らの人間性に立脚した実存的アイデンティティーを獲得する為に敢えて地獄を引き受けたのである。シンジはフケ、ソウタもフケタ。ラストでは、ヒカルと元々のホームレス仲間が登場、ヒカルは相変わらず、シロツメクサで花冠を紡ぎ、一輪、折っては、他人に捧げる。シンジは、相かわらずエスタブリッシュメントとしての人生をのうのうと送っていることが、当然のこと乍ら示唆されている訳だ。これ以外にもサブプロットとして、ヒカルの本当の母親が、公園を何度も訪れ、ヒカルが花冠を捧げようとするシーンがあったり、母の連れ合いが警察に不審人物としてヒカルを拘留させたりで物語自体は膨らんでいたので、シンジによるこの救いようの無い欺瞞の現実は、示唆されるだけで終わっているのである。そして差別・被差別の重い宿題が観客に残されたという訳だ。シナリオ、演出、演技何れも気に入った。
満足度★★★
キミハドコニイルは、日本劇作家協会の戯曲セミナー2016年度修了生有志によるユニットによって立ち上げられたそうだ。記念すべき第1回公演のAチーム4作品+AB両チームの共通作品1作を拝見。玉石混交。(各作品の評価はネタバレで)
ネタバレBOX
「STEREO TYPE」:役者の言い間違いか脚本自体の間違い或いは誤植か、日本語として正しくない表現がいくつもあって幻滅。この時点で話にならない。役者の演技も稚拙なうえに噛むシーンもあって評価は2.
「古希くれないに」:お締めの頃からの幼馴染が古希を迎えた頃、今まで過ごしてきた日々と仮に二人が結婚していたら、などの話を女の生きる意味を失ったような倦怠についての相談ごととして描く。役者(男、女各1)の演技も上手く、シナリオも中々こなれた作品であった。因みに男は生物学者、女は薬剤師をしていた。評価4
「おおかみと7匹だった子やぎ」:無論、童話をベースにした作品で、面白さという点では、これが本日NO.1 。笑いが多い作品なのでネタバレはしない。但し1点だけ気になったのが、狂言回し役のTVの子供番組に出て来そうなお姉さんキャラの発声が、小屋のサイズに対して大きすぎる。シナリオ、演技共によし。評価5
「オーディション」:状況設定が、余り明確に示されているように思えなかった為か、作品自体の印象が薄い。評価3
「ひとりぶんの嘘」:2016年度劇作家協会新人賞受賞作家、南出 謙吾の作品だが、印象は薄い。評価3
満足度★★★★
終演後、ロビーで出演者と観客が挨拶などをかわす際、興業としての全体を見て統括する制作が居ないのか、団子になって通路を塞いでいる演者・観客に対し、帰る客が通れないのを注意するスタッフは1人も居なかった。エンターテインメントを自認するのであれば、こういった点にも注意を払うのが当然。舞台レベルでの技術が高いだけに、そしてこれだけのパフォーマンスを展開する為にどれだけの修練を必要とするかが分かるだけに残念至極である。舞台は評価5だが、反省を促す為、この点で-1、総合点☆4つとした。
ネタバレBOX
昔話の桃太郎を脚色したダンスパフォーマンス。エンターテインメントを謳っているだけあって、鍛錬された身体を用いてのダンスは華麗で躍動的且つ美しい。鬼たちの振り袖衣装や、桃太郎グループVS鬼たちの争闘シーンで用いられる白布・黒布の舞いも流麗である。更に奥のスクリーンに映し出される映像と効果音のコラボも上手く機能しており、照明も適確でダンスパフォーマンスの質の高さに興を添える。
一応、この辺りでざっと内容を俯瞰しておく。桃太郎たちが鬼ヶ島に乗り込む迄、人間と鬼の間に闘争が無かった訳ではない。発端は、人間の住む里に出掛けた鬼の子が人間たちに襲われ半死半生の状態に陥ったことだ。鬼たちは復讐の為、子鬼を襲った集落を焼き、住民を殺害した。その後暫く平穏な時が流れ、鬼たちは宝の山を発見し自分達の集落に持ち帰っていた。この章では、鬼たちの日常、即ち若い鬼たち同士の遊びや恋、長と長老との確執、人間たちに対する戦略・戦術論の差や、人間と変わらぬ情愛と日常の生活風景が描かれる。
次章では桃太郎の誕生譚と道連れとの邂逅、鬼ヶ島道行が描かれ、愈物語は最終章へなだれ込む。正義が桃太郎サイドにあることは、彼らの残虐非道な行為にも拘わらず、戦いの最中に持つ武器の象徴として用いられる白布で明らかである。実際の戦闘・戦争でもこのような印象操作が行われていることは言を俟たない。対する鬼達の布は必然的に黒である。敵たる成人の鬼総てを虐殺して宝を奪い、鬼の遺体から金目の物を略奪して引き上げようとする桃太郎一派に対して子鬼が戦いを挑むが、軽くあしらわれてしまう。桃太郎が最後に子鬼を突き飛ばしただけで帰ってゆくのであるが、ここは、後顧の憂いを絶つ為に三国志の曹操のように情け容赦なく子鬼をも虐殺してしまう方が演劇的にはインパクトがあろう。まあ、エンターテインメントと銘打っているのでやらなかったのであろうが。
以上感想と概要である。各演者の身体能力の高さと舞台美術や効果のコラボレーション、科白が殆ど無い中で物語を紡ぐ技術レベルの高さは見事である。
満足度★★★★★
兎に角、演出するのが極めて難しい作品である。
ネタバレBOX
シーンが37もあるので場面転換が大変なのが、その理由の一つ。内容的にも作家の狙いが何処にあり、何を描きたいのかが中盤まで殆ど分からない。各シーンで登場する人物が複数であっても発される科白は、通常のダイアローグというより、どこかよそよそしい行き違いがある科白が多い為、モノローグの集積のように感じさせられる等々。原作がドイツで上演された際にも演劇作品として高い評価は受けたものの、何が表現されているのかについては理解した者が極めて少なかったという。確かに難物である。演出家の苦労は推して知るべしである。更に今作は、大事な役柄にかなり想定年齢の若い人物が設定されている為、日本の演劇状況では、中国や韓国のように演劇を演じる為の方法にティーンの頃から徹底的にアプローチし、技術を習得するシステムがまだまだ弱い為、若手には、基礎の基礎から仕込まなければならないという事情もある。(無論、能や歌舞伎、文楽などの伝統芸能は別であるが)
以上のような様々な困難にも関わらず、中央に設えられた斜面の両サイドに設けられ線路の上を前後にスライドさせることのできる舞台セットの発明が場転の煩雑さを解消し、舞台上演の流れを寸断せずに物語を紡がせることに成功している点、公演開始後にも追加で行われた稽古などによって、役者陣の演技に喝が入ったことにより作家の意図を表現することが可能となっている。その結果、作家が表層で表現したことを通じて表明したことが、透かし見えてくる。何故、登場人物相互の間に不如意や擦れ違い、ぎくしゃくしたようなよそよそしい感じが流れるのか? に対する納得のゆく理由として。
それは現代の極度に数式化され極大化された利潤を追求し続ける資本によって、生きとし生ける者が、本来の生にとって最も本源的で、その生物としての振る舞いに相応しい大切なもの・ことを収奪されたことをあてこすっているように思われる。収奪されたもの・こととは、本能としてのラブであり、大切な人々との心地よい関係であり、命の喜びである。この点に気付いた時、実に苦い認識が、ヨーロッパで最も勤勉で合目的的な生活形態を持つドイツで顕著に意識されるに至ったのではないかと思われる。洋の東西の様々な異質性にも拘わらず今作が上演対象として選ばれているのは、これまた、この劇団の意識の高さを示しているであろう。つまりアメリカ流の収奪資本主義に同調する日本とEUの牽引役としてある程度この潮流に合わせざるを得ないドイツの状況との類似を見抜いている証を。
満足度★★★★★
ノー・サイドとは無論ラグビー用語だ。通常は試合終了の意味で用いられるという。唯試合後は敵味方と分かれていた面々が、もう陣地の境も分からなくなって互いの栄誉を称え合うか否かは兎も角、健闘を祝すなんてことができたら素敵には違いない。こんな意が籠った今作、結果として所期の目的を果たせているのではないか。
ネタバレBOX
内容は3つの短篇を組み合わせその一部を関連させて全体を纏める構成を取っている。第1話が、タイムマシン発明とその余波の顛末。第2話は、入管で別室に連れて来られた2人の日本人壮年男性を襲う入国管理法違反容疑の顛末、ラストがハワイで明日挙式という新郎・新婦を巡る愛の危機とその克服譚。ということになろうか。全体として落ち着いた大人の演技がベースになっているのだが、その重みを軽減するような様々な笑いが芝居全体に軽味を持たせ男と女が協力し合えば、憂き世も何とか乗り越えられるという希望を持たせてくれる作品に仕上がっている。笑いに関して少し例を挙げておくと、桁外しは無論のこと、初心な人間をちょっとからかうような悪戯心に発する意地悪、オーバーな物言いや所作、そぐわない所作で笑わす、間の伸縮のおかしみで笑わす等々様々なバラエティーに富み、決して派手ではないものの手練れのテクニックがそれとなく用いられ効果を上げている。更に、1か所だけ、肝を上げておくなら、子供だった新婦を置いてふらっと居なくなってしまった父親が、実は記憶を喪失しており、訳も分からず失踪していたのが、新郎の計らいで再開することができたシーンなど心底胸を撃つ。初日が終わったばかりなのでネタバレは此処まで。人生、昏いことばかりのように見えても、男と女がキチンと協力すれば、様々な難題も何とか乗り越えることができる、そんなメッセージを感じ取ることができる作品であるのは先ほども記したとおり。
満足度★★★★★
この劇団の座付き作家、笠浦 静花さんは、かなり音韻に敏感な作家で、今作のタイトルにも、その特性が現れている。「すずめのなみだ」は微小なことを表す表現だが、それに「だん」を加えることで、単語相互の連関を通常のそれとは切り離し、同時に意味を一旦砕いた上で、新たな意味を付与している。もう一つの発明は、「だ」を重複的に用いてアクセントの位置をずらし、通常の意味とは別の新語を作り出していることだ。つまり「だだん」という耳慣れないことばに彼らの信仰対象である地面の意味を与えると共に、大地と対話する際に用いる掛け声としても用い、オープニングでその独特な所作と共に作品の中に観客を引き込んでいるのである。
言葉に対するこのようなチャレンジは、前々作「根も葉も漬けて」でより徹底して用いられていたのだが、今回は、観客にとってずっと分かり易く平易になっている。その分、だだん以外は総て平等な、だだんに対してのみ垂直社会を構成していたメンバー相互の徹底的な平等が、彼らの自由を保障し、戒律の絶対的自立と同時に自分の頭で考える為の思考方法を齎していた。即ち、我々の社会のように知を他者から伝えられ、他者に伝えてゆく横社会の方向への振れを大きく取っている社会の対極として想定されているのだ。一見、平等に見えるこの横型社会にヒエラルキーが生じている点も興味深い。社会構造の異質性をこのような形で提示すること自体、頗る哲学的な主題を含みいくらでも議論を深めることができるであろう。この辺りの作品の構造的な深さも注目に値する。とはいえ前置きはこれくらいにして、物語の概要を見てみよう。
(追記後送)
花五つ☆
満足度★★★★★
いつも心に残る作品を作り、観客に提供してくれるえのぐ。今回も心に沁みた。(追記2017.9.12)
ネタバレBOX
男女の微妙な念をその切なさに於いて描いて心に沁みる。その淡い念と同時に純度の高い愛の受難、優しさと恋に於ける倫理の相克がこの作品の緊張感を生み出している。シナリオも演技もかなり自然な感じを出しており好印象だ。
このような構成が可能になっているのは、幼馴染の仲良しグループを中心とした淡い恋心の生々流転を通した成長に、外界が関与した時に顕在化する激しく強い衝撃が描かれているからである。
言語に於いて最も重要な要素は、代名詞を含む名詞と動詞であるが、この主語・述語の関係が実にバランス良く作品化されている。即ち個々のキャラクターが主部を、各々の行為が述部を為して結果としてのっぴきならないドラマを形作っている。実際、各々のキャラクターが迫られるのは、実に非常な実存的選択なのである。にも拘らず、各々は各々の選択をせねばならない。この切実さが、切なさの感情を痛烈に刺激するのだ。
満足度★★★★
これから観劇する観客の為に
今作は表層を描いていない。
☆は花四つ☆。何故なら
作家の優れた知性故に、
大衆の心理の憶測に未発展な
部分を感じるからである。
故に、敢えて最高点を今回つけない。
自分の評価は実質10段階なので
通常の4ではなく、その上、花よつ星。
これは、作家の将来を信じてそのポテンシャルの
高さに賭けた。濃密な60分である。(追記後送)
ネタバレBOX
ところで今作解釈(筆者流の)ヒントをいくつか与えておこう。24時制が用いられている。それで75時。屈曲は説明を要すまい。更に、渋谷という街は蟻地獄型の空間、即ち擂鉢構造の街であり、最底辺には、少女地獄をはじめ、幼年地獄、幼少年地獄、被管理地獄ほか様々な地獄が蜷局を巻いている。因みに評者である自分は、被害者にならず寧ろ、そのような地獄を作り出す連中と敵対関係にあった一匹狼、所近の育ちである。そんな自分が、知的な作家に共鳴すること自体面白い。
満足度★★★★★
東京近郊(とはいえ東京駅から電車を乗り継いでたっぷり100分ほどだから芝居1本分の尺)にあるうどん屋の名店「たまや」の名物おかみ、アキの顔色が最近、優れない。周りは注意しなけりゃ、とそれなりの配慮を促すのだが、頑固で自分の仕事に自信を持ち、しっかり者と自他共に認めるアキは、ちょっとした会話の行き違いも冗談を装ってやり過ごす。然し(少し追記9.9 更に追記9.19)
ネタバレBOX
事態はそう甘くは無かった。還暦を迎え誕生を祝って貰った翌朝、アキは、皆の前で頓珍漢なことを言いだしたのだった。この日は冗談だと言い張り、一応の収まりは着いたのだったが、その後もアキの言動がおかしかったり、食事を摂ったことを忘れて食後間もなくまた食事の準備をしたり、自慢の饂飩作りで味が悪くなったりと兆候は誤魔化しようがなくなる。偶々、近所の病院に転院してきた脳神経科の女医がこの店の饂飩が気に入ってしばしば立ち寄るようになって居た為、皆の説得もあって受診することになったが、若年性認知症と診断されてしまった。
高齢化が進み、日本の現代社会で、認知症の家族・親族を抱える家庭は多い。実際、どの家でもその家系に認知症になった人が居ないというのは珍しいだろう。認知症の主たる症状は、兎に角、忘れる、ということだ。丁度、耳の上辺りにある海馬と呼ばれる部位が記憶を司る中枢なのだが、この部位に縮小が起こったり、脳全体が委縮することで起こる。他人事ではない認知症の進行と、患者が自分の誇りを傷つけられることを恐れる余り、様々に取り繕ったり、素っ頓狂なことを言いだしたり、財布の置き場所を忘れた結果、出会った誰彼を泥棒扱いしたり、他人は愚か家族の顔も見分けられなくなって、家族の方が傷ついたり、徘徊を繰り返すようになったりと、兎に角、独りにさせておけないので、家族の誰かが必ず家に残っているか、施設に預ける外に道が失くなってしまう為、家族の心理的・経済的負担も並大抵ではない。
一般的には以上のようなことが言える訳だが、その辺り、光希らしい内容になっているのは、アキの周囲が極めて温かく彼女を見守りサポートする姿が描かれているからである。忘れっぽくなったとはいえ、アキの人を見る目の確かさがスワ食い逃げ! と疑われた時にも、また詐欺に引っ掛かって店を失うという懸念が生じたときにも結局は見込まれた客の善意が返ってくるという展開で終息する。同時に彼女の認知症は増々進行し徘徊や、夜中に天麩羅を揚げだしてぼやを起こすなどが入れ子細工に演じられるので、観客は、展開に引き付けられ飽きることがない。またここで描かれることが、人を信じることの強さ・尊さに繋がってゆくので、庶民の生活感覚を伴いつつ描かれる顛末の温かさ、優しさが心を撃つ。光希劇団員の他、客演の役者陣も力のある役者が多く脚本、演出、演技もバランスが取れている。舞台美術もしっかり作り込まれ、ぼやのシーンでは屋台崩し迄表現してあったのもグーだ。無論、音響・照明の効果も良い。
満足度★★★
板をコの字で客席が囲み、長辺下部をAコーナーとして、ここから時計回りにBCDと名付けたとするとB,Dには、ドアに見立てた白枠が組み建てられ出捌け口として機能している以外には、何ら舞台美術はなしの素舞台形式である。
ネタバレBOX
描かれるのは高校時代から、その8年後までの地方高校同級生の変遷だが、心中だの、苛めとその復讐としての殺人事件だの、教師との心中事件を起こし落命した女高生に恋していた男子生徒と女高生の霊との邂逅だのとかなり異常な世界が盛り込まれているにも関わらず、何ら劇的でない点、ドラマツルギーが成立するというより、TVドラマの出来損ない、といった体で今作の視座が設定されているのが特徴的である。各々の役に主体性が感じられず、生きている実感が感じられない。他者の目線で総てが処理されているので演劇である必要が感じられない舞台であった。
満足度★★★★
謂わずと知れたつか こうへいの大ヒット作だが、戯曲を脚本化しないことを続けていたつか作品はバージョンが極めて豊富である。
ネタバレBOX
何れにせよ、つか作品上演の難しさは、ずっと高いテンションを保ち続けなければならないことだと思っている。それだけ、体力・気力の充実が必要とされる舞台なのだ。チャイコフスキーが大音量で流れるオープニング、エンディングに負けないテンションの高さが必要なのは無論だが、その途中も含め一瞬の気も抜けないのが、つか作品の特徴であり鍵である。従って役者達に要求される熱量、瞬発力、集中と拡散の妙を使い分けることから来る落差によって示唆される社会の歪み、差別されることのひりつくような傷みと作家の共感がパッションの奔流となって降り注ぐ必要がある。これができる脚本だからこそ、様々に用いられる差別用語が決して表層でなく、寧ろ差別される者への温かい支えとして、作家の人間的温かさとして受容されるのだ。
今回は、Stage Companyによる熱海初日だったのだが、若干、このテンションが下がる部分があった。笑いを獲りにきた場面が多用されたということもあろうが、寧ろここは、トラジェディック・コメディのようなニュアンスで演じさせた方が効果的だと思われる。その方が、自然に更に切なく差別の実体を浮かび上がらせるのではあるまいか。
満足度★★★★★
20世紀世界演劇の代表作とも目される今作は、今も世界中で上演される人気作品の一つであり、ベケット以降の世界中の演劇人に多大な影響を与えた作品であるが、ジャンルとしては、悲劇にも喜劇にも属さぬ所謂悲喜劇の傑作ということになるだろう。
ネタバレBOX
悲劇の只中には、自分達自身をシャレノメすことによってしか生きられない次元が存在する。その極めて微妙で而ものっぴきならない世界を描いたのがベケットという作家だったのではないか。その世界観は単純には表せない。
今作でもこの悲喜劇の持つ哀しいのに寂しく笑える空気が満喫できた。登場人物は無論多くない。ウラジミール、エストラゴンの両名にポッツオ、ラッキーそしてメッセンジャーの少年のみであるが、シアターXのかなり広い劇空間をしっかり満たして迫ってくるホリゾントの使い方や、風の音の実に効果的な使い方、各俳優の出身地の差(発音や各地域相互の歴史的関係を)芝居全体に内包させるような演出によってホントに空気としか言えないような濃密な雰囲気を醸し出している。演出家の言によれば、ベケットに指定されたオリジナル通り、基本を守って演出すると作品の深みがより濃く出てくるような作品だということであったが、実際そうであろう。日本の劇団が演じると個々の演出家や役者の職人芸は見事だが、作品の本質は脇に置かれる場合がまま見受けられるのだが、流石にベケットの地元でも活躍する劇団だけあって、作家の本質を良く表現した舞台である。
満足度★★★
短編2編の上演。(Aティームを拝見)
ネタバレBOX
1本目は、姉弟と被害者の経営する会社の経理、そして健康保険制度を悪用して金をくすねてきた弱みを握られた為この社長の愛人にされている女医の4人による社長殺人計画を巡る話。完全犯罪を目指し利害を共有する4人がタッグを組んで犯行は実行される。無論、完全犯罪を目指したので本人直筆の遺書も入手しているが、被害者は自分が殺されることを既に知っておりそのことを記したもう一通の「遺書」が残されていた。最も冷徹なハズの姉が、最後に罪の意識に苛まれるのだが、女性は、男などより遥かにリアリストである。而も彼女は冷静で冷徹でさえある。その女が、高々、父が本当 のことを知っていたからとて泣き崩れるハズはない。また、板上で科白では救急車を呼ぶことが話されながら、而も携帯は在りながら、誰もその所作をしない。これは演出に問題があろう。全然、訴えかけて来なかった作品。細かい所で詰めが甘くリアリティーを失ってしまった作品ということができよう。
2作目は、深夜喫茶の話なのだが、喫茶なのに酒を出す。これは、法的に明らかにオカシイ。まあ、作品自体は一種のファンタジーなので目を瞑るにしても、大人相手の芝居をやるのであれば、この辺りは設定をスナックにすれば良いだけの話なので少し常識の勉強をした方がよかろう。ファンタジーとしての内容自体は占い師の言説のような物言いで客を誑かすママの科白が、様々な不可能を現実化していき嘘が嘘として成立しているので、それさえ理解して観るならば楽しめよう。どのようなファンタジーであるかは観てのお楽しみだ。
ところで、こんなに小さな空間で馬鹿でかい声を張り上げる必要がどこにあるのか? 無論、最近は、あたり構わず大きな声を張り上げるバカアマをよく見掛けるが、それをそのまま真似ればいいというものではあるまい。もう少し芸を見せて欲しいのだ。
満足度★★★★★
この日光の三猿の「国」らしき普遍的真理観の欠如がストレートに表現された作品。
ネタバレBOX
良く海外の一神教信者が、信仰なしにどのように倫理が保たれるのか? と疑問を呈すると言われるが(自分は直接そのような疑問をぶつけられたことはないが)、在る意味彼らの質問は必然であろう。日本人の多くが、一定程度のレベル迄は自己規制するのは、この国の歴史が、相互監視社会であったからであろう。どういうことかといえば、豊臣 秀吉の太閤検地と刀狩りによって、国民の大多数を占めた農民は人別帳を為政者に把握された上、抵抗権を剥奪された。その後江戸時代には儒教の中でも殊に為政者にとって有利な朱子学が体制側の指導原理として採用され、思想的にも徹底して押しつけられた。重税などにより抵抗せざるを得ない状況に追い込まれても武器を持たぬ農民の反乱(農民一揆)が体制側に痛手を齎すことは基本的にできず、御上に逆らうことは即ち犬死を意味した。一方、五人組制度などによって罪は連帯責任を取らされたので、当然のこと乍ら、親が子を愛すれば、御上に逆らうことを止めさせることが愛情の発露であった。同時に連帯責任を負わされることが無いよう、人々は互いに互いを監視し合った。このことによって日本の大衆は、奴隷根性を身に付けたのである。この間の数百年、日本人の体質は変わらなかった。その結果が、今作に描かれたようなアリバイ作り、共同の隠蔽工作、証拠隠滅、生活を理由の社会的正義扼殺、人倫否定及び差別構造の正当化である。この態度は、大日本帝国の戦後処理にも表れていた。ドイツは地続きということもあり、敗戦後直ぐに占領軍が入った為、自分達が大戦中、連合国側に与えた様々な打撃についての証拠を処分する時間が充分無かった。こういった事情もあったことから戦後現在に至る迄、その負の歴史の清算をし続けて現在に至っている。だが、島国の日本は、連合軍が入って来るまで約2週間時間があった。この間、日本がやったことと言えば、自分達に不利な証拠を、昼夜分かたず焼き尽くすことであった。現在、証拠が無いものが多いのはこれが理由である。戦後日本史の実資料は、個人所有のものを後研究者が発掘したものが殆どなのである。後は、日本の支配を脱却したエリアから関係資料が発掘されたことも無論ある。何れにせよ、都合の悪いことは、嘘や詭弁、利害を同じくする者同士の共謀による秘匿及び証拠隠滅、口裏合わせ、アリバイ作り及び忘却という言い訳によって面々と受け継がれてきたのである。この事実をある小学校の苛めをテーマとして描くことで、F1人災以降の被ばく者差別、苛めと、苛めを苦に自殺を図った小学校6年の男の子の残した明確な証拠を焼くという恥知らずな行為迄描くことによって告発した問題作である。
満足度★★★★
開演前から、板上に設けられた高座では落語が演じられるサービスぶり、自分は開演10分前に小屋に入ったのだが、一席30分程度だとすると半時間前に行っても全然退屈せずに済む、ということになろう。かなり上手な話ぶりであった。(追記後送)
満足度★★★★
普段は関西で上演している劇団の初関東上演。舞台美術も総て関西から持ってきている。そんな事情もあって実に良く考えられたものであった。(花四つ☆)
ネタバレBOX
舞台正面奥には平台が設けられて、一段高くなっており、其処に背の部分だけ高くなった立方体が3つ。それは時に椅子になり階段にもなる。開演前は、これらの装置が見えないよう前面に衝立が左右に設けられているのだが、衝立にはタイトルが記されている。この衝立も話の進展に合わせてバーカウンターになり、或いは通路を際立たせる建造物の一部になりと実に合理的な使われ方をしている他、ラストに近いシーンで設置される木枠に嵌め込まれたスクリーンが、非常に効果的に用いられているなど、感心させられた。
お笑い芸人の芸については、まだまだ修行の余地ありと観たが、それでも脚本の骨太な構造は揺るがず、芸道の厳しさを追及するという点、一途な恋を描くという一点では強く訴えるものがあるのも事実。殊に脚本・演出をこなし今作で主役・浅井を演じた“ひみつのみつき”君の演技が素晴らしい。脇を固めたミサ役、相方の友田役もキャラが立ってグー。
若干、粗さはあるものの、その本質に於いて描かれている世界は、芸の為とはいえ、人の心を弄ぶ芸能のノリが人倫そのものを問うような深さを秘めて、上記二つのプラス価値(芸の厳しさ追及と一途な恋)と対立する構図となっている点で頗るドラマチックな作品になっている。
当然のこと乍ら、この対立が投げ掛けている問題の深さは観客に向けられた問いかけでもあり、この点が成功しているからこそ、この作品を観た者はこの物語の深化を己の心の中で果たすのである。創る側と観る側が、作品を通して一体化できる舞台であった。この劇団の今後に期待したい。
満足度★★★★★
十周年を記念しての月いち座布団劇場だが、今回のネタは3本。{ところで次回の宣伝をしておこう。10月11日午後3時と午後7時の予定だ。(行く場合は必ず自分で確認するように。)}
ネタバレBOX
序に「天狗裁き」破に「らーめん屋」そして急に「たちぎれ線香」の順で演じられた。元ネタが関東なのは破のらーめん屋、これを挟むようにして2本は上方落語である。何れも傑作という評価のネタばかりだが、この選定が良い。むろん、関西もものを関東に持ってくるわけだから、場所の名の変更や如何に上方の元ネタの持っている味を損なわずに関東風の味に仕立てるかは、詩を翻訳するような難しさがあり、大変な作業なのだが、この辺りの翻案も見事であり、本来が落語という独り芝居の権化のような作品をとても良いキャスティングで各キャラを立たせた通常のストレートプレイに仕立てている手際も良い。江戸の下町方言への転換もリズム感も見事である。(まっつぐ行ってしだり等々)
元ネタのセレクトの素晴らしさは、人間の本性というものを何れも良く描き出した作品であるということがある。誰しもが持つ感情の深部に分け入ってその魂を掴みとり夢中にさせたり、しみじみ感じさせる作品ばかりであるのみならず、天狗裁きでは、下げを少し変えて原作の笑いより、更にぐっと怖い無限ループを現出させて見せ、永劫回帰のような恐ろしさを表出させた。また、音響・照明などの効果も実に上手に使い役者達の演技を盛り上げている。
真ん中を占めたらーめん屋は、故柳家 金語楼が、五代目古今亭 今輔に書き下ろしたという人情噺の傑作。原作の良さを見事に演じた面々の演技が素晴らしい。各キャラを演じる役者たちの間の取り方も絶妙で随所に笑いを誘いつつ、深くしんねり、人の心を撃つ。見事な演技であった。
たちぎれ線香は、遊女と大店の若旦那の悲恋を描いた作品だが、これだけ性描写が流行る昨今だからこそ、この純愛の美しさ、哀れが際立つ。今作でもキャスティングが見事である。番頭役の厳しくも品のある佇まいが素晴らしい。無論、倉に監禁された若旦那への恋文が、八十日で途切れたことの意味する所、百か日の監禁中は、愛しい小糸(この名も恋とに掛けてある)からの手紙のことも一切知らずに過ごした若旦那ではあったのだが、解き放たれるや否や直ぐに置屋を訪ねた若旦那は、残酷な事実を知る。小糸の祀られた仏壇に手を合わせる若旦那に小糸の為に作らせ、今では供え物となった三味が鳴りだす。奏されるのは、若旦那の大好きな曲。だが、中途で音が途切れた。その訳は、線香が燃え尽きた為であった。
これが下げだ。何とも切ないではないか。
満足度★★★★
奇妙な舞台設計である。建築家が好きに作った建物は使い勝手が悪くて仕様がない、というのは現代建築業界の常識であるが、この学校も建築家としては面白い建物なのであろうが、生徒が廊下で良く転ぶなどという話題が入ってくるので使い勝手は良くなさそうである。
ネタバレBOX
外装を目立たせないと人目を惹かないので、使い勝手が悪いなどということも良く起こるのだろうが、外装の無理は自ずと内部構造にも関わってくる。何れにせよ校舎の屋根の形や連山のように連なる屋根の波は斬新ではある。ところで、この建築家が設計した机は、組み合わせ方にフレキシビリティーがあってかなり自在に配置できる。この長所を有効利用しながら、話の展開に合わせて机が様々に組み替えられるのも面白い。
ところで、現在この植民地の劣化は目を覆うばかりであるが、その原因は、吉田茂以降踏襲されてきた自民党保守派のイエスマン指向にあるだろう。今作では、そのイエスマンキャラが教頭に振られている。
序盤の演技は作り過ぎてわざとらしさを感じたが、中盤以降自然な演技になったように感じられた。終盤、新任教師の論理性によって急速に問題群が繙かれQ.E.Dに至る展開 は見事だ。因みにQ.E.Dとは、数学や哲学で用いられる略号でラテン語の Quod Erat Demonstrandum(かく示された)が略されたものだ。今作では“証明された”と解釈している。
物語の内容については、他の人のネタバレで明かされていよう。先述したが、日本の劣化の大きな原因の一つにイエスマンの組織内での出世があろう。能力が同等ならば、当然イエスマンが有利な訳だし、ノーマンの能力が上司たちの能力を遥かに超えていれば、上司たちにはノーマンの優れた能力は見えないことになる。この植民地社会では一歩先を見ただけで評価されない。評価されるのはせいぜい半歩先までである。従って本当に能力のある人々の多くが海外へ行ったまま戻らない。つまり頭脳流出である。この問題が気付かれてから既に長いのだが、アホしかいない植民地では、根本的な対策が取られてこなかった。現に、3.11人災を起こした東京電力で人災時、社長を務めていた清水が、政府に対して現場から逃げ出すことについて打診していたニュースを覚えておいでの読者も多かろう。清水はイエスマンの代表のような男で、彼の妻は、当時会長だった勝俣の娘である。その勝俣は人災発生時、多くのメディアOB、関係者を連れて中国外遊をしゃれ込んでいた。この事実も報道されていたからご存じの方々が多かろう。その他、人災時の副社長らも、人災後、長きに亘って海外逃亡していた。この辺りのことも知っている方々がかなり居ると思う。こんな無責任がまかり通り、のみならず再稼働だの、推進派である田中をトップに据えての茶番組織、原子力規制委の立ち上げ及び既成事実化など総てが、アメリカの意向にイエスと答える日本と言う名の植民地を牛耳る輩、つまり下司野郎どもの責任なのである。アメリカにとって植民地の人間などどうなろうと関係ない。それは、広島・長崎の被ばく少年。少女たちのデータが、米ソ冷戦体制下で、アメリカに敵対する総ての地域に対する核爆弾の投下によって、相手の戦闘能力を無化する為の基礎データとして用いられていたことを観ても明らかである。狂牛病でも押し切られ、自民党政府は、異議を唱えなかった。家畜人ヤプーそのものと化した日本の為政者どもは、アメリカに対して何らの盾にもなっていないどころか、進んで日本国民を売り渡している売国奴である。現在の地位協定の前身である日米行政協定を結んだ吉田 茂も無論国賊。そして、現在もアメリカの軍事行動に何も言えない判決(統治行為論によって、その後この最高裁判例を根拠に総てのアメリカ軍の組織的犯罪に対し、日本は判断を下していない)を下した、田中 耕太郎もアメリカの犬であった。彼はその後東大総長を務め、さらに国際司法裁判所判事迄勤めている。アメリカの犬であったればこその出世である。この事実は、アメリカサイドの公文書から明らかである。
現在、教育の癌と言われるPTAもアメリカ流のものではなかったか? 示唆的なタイトルである。
言っておくが、未だにアメリカの犬はたくさんいる。安倍などがその最たるものであることは言うを俟たない。
満足度★★★★★
今回、寛一役で初の主演を務める中瀬古 健、二場で泣かせる科白を吐く宮役の古野 あきほ、演技の質がひと回り大きくなり存在感を増した女高利貸し・赤樫 満枝役のゆうき 梨菜、マッドサイエンティスト・大門 雷電役の座長・丸山 正吾らをはじめ、履物屋の娘・神田 細魚を演じた野村 亜矢、亜矢の世話役・葦原 甚八を演じた川又 崇功、新聞記者、秋津 金五役の岡田 悟一、女侠客&XX役の石井 ひとみ、その娘鯛子を演じた大岸 明日香、華麗なバトン技術を見せた小間 百華等々、芸達者が多く楽しみ満載。
さて、原作の「金色夜叉」は尾崎紅葉の名を現代に迄伝える通俗小説だが、雅俗折衷体で書かれている為、現代の人が読むと殆ど途中で投げだしてしまうようだ。無論、明治時代の社会通念や価値観、今では廃れてしまった風俗・風習の違いによる分かり難さもその原因の一つだろう。更に、事件の顛末に論理的必然や因果究明を求める現代日本人には、不徹底と思える展開もあるであろう。その原作を換骨奪胎する為の前説として、一種の女義太夫に見立て、口三味の囃子で演じる石川 美樹の歴史解説演技もグー。その台詞は、日本の古代史から大化の改新、壬申の乱、戦国時代の朝鮮出兵、更には日清・日露戦争を経ての近代迄の歴史をも視野に入れ、単に歴史的視点のみならずジェオポリティックな視点まで組み入れて展開する。実に面白いエンターテインメントであると同時に、優れた社会時評にもなっている。ところで、様々な要素を織り交ぜた今作だが、物語に広がりと深みを与える秘訣がサブタイトルの”ゴールデンデビルVSフランケンシュタインに表れている点も見逃せない。(追記2017.8.21 05:33。8.24更にほんの少し追記)
ネタバレBOX
「フランケンシュタイン」は、詩人、パーシー・シェリーの妻、メアリー・シェリーの作品だが、原題のタイトルは「Frankenstein: or The Modern Prometheus」である。プロメテウスは、ギリシャ神話に出てくる、人間に火を与えた神だ。一方シェリーの小説に出てくるフランケンシュタイン生みの親、ヴィクター・フランケンシュタインは、今作に登場するマッドサイエンティストの原型を為すキャラクターだと言えよう。何れも先駆者ということになろうが、ここでプロメテウスの名を分解してみると、プロ(先に)メテウス(考える者)と分解できるので、先見の明を持つ者という意訳ができる。つまり、今作のタイトルは、金色夜叉をゴールデンデビルと訳し、フランケンシュタインと等価で対置することによって先見の明を持った科学者の視座とそのような科学者によって発明・発見された科学的技術の成果は、それを用いる他の多くの人々の判断や社会、地球環境或いはヒトが生きている環境の開発(宇宙や深海なども含む)にとってどのような結果を齎し得るのか? という実に現代的な問題提起にも繋がり得るものなのである。
今作では、新たにフランケンシュタイン製作に成功するのであるが、原作をもとにした映画などで描かれているのとは異なり、様々な遺体の継ぎ接ぎと雷を利用した電気ショックなどによる遺体刺激だけでは、活性化し得なかった死者を、富を象徴するダイヤと人間の生への執着を表す祭りを加えることによって再生させて見せる所に意味がある。そしてそのような結論を導く為に用いられているのがヒンドゥー教の最高神・シヴァと欲に目の眩んだ宮である。先ずは、日本人には余り知られていないシヴァから。シヴァは破壊と創造そして再生を司る神であり、それは、軍によって破壊が齎されれば、破壊後に新たに創造し、失われたものを再生すると読み替えることができる。このシヴァの日本的代替が、大黒天である。この遷移は、インド密教にシヴァの化身であるマハカーラが取り入れられ、巡り巡って日本の密教に取り入れられた際、大国主命と神仏集合されて崇拝の対象になったと考えられる。宮に関するくどくどしい説明は不要であろう。ところでこれら総てを担う者としてマッドサイエンティストが機能しているとすれば、彼は当にシヴァ+宮と言う事になるが、そうはなって居ない所に今作の面白さが隠れていよう。
実際、軍部によってフランケンシュタイン計画はフォローされる所であった。然し1体を創る為に必要なダイヤの量が余りにも多いので、費用対効果の面で採算が取れない、というのがその結論であった為に研究は中止されたのだ。その代替として登場してくるのが靖国システムである。亡くなった兵士を神に祭り上げることで、殆ど金を掛けることなく(実際には1銭5厘(昭和)・召集令状の切手代)神として祀るという触れ込みによって兵士になるインセンティブを高め、一般人を調達できるシステムこそ靖国だ。(この事実がさりげなく示されている点、実に頼もしいではないか)現実には、共謀罪が既に施行されている訳だから、この指摘も予めマッドサイエンティストの独白「右翼でも左翼でもなく、自分は真ん中で云々」によって政治的イデオロギーではなく、庶民の実体感覚として示されている訳である。当然のことながら、寛一の宮に対する妙に純なメンタリティー(それはストイシズムに由来してでもいるかのようだ)や、高利貸し・満枝の寛一に対する一途な愛、甚八・細魚の純愛(大店の娘とその使用人の恋・心中)という今作の底流を為す愛の形にも繋がる。
そして、メインプロットである寛一・宮の恋譚が、甚八・細魚の悲恋、更には満枝の一途な愛というWのサブプロットで愛の奔流を為し、物語に深みと広がりを作り出していることにも作家の力量を見ることができよう。大団円に至る終末部は、観てのお楽しみ。
早目に行っても、いつものようにサービス精神満点の愉しみがあるし、休憩時間の10分の間に流れる添田 唖蝉坊の演歌が、エンコの良さを偲ばせる。この辺りの演出も流石と言わねばなるまい。
満足度★★★
序盤、わざと関係性を分からないように組み立てようとしている手際の余り良くない
ネタバレBOX
シナリオ・演出の展開を見せられて、眠気を誘われてしまった。ここは、観客を引き込むべきである。それには、擽りや考え抜かれた伏線を張ること、テンションンの高低差、現実から観客を引き離し、劇的世界に連れ込む仕掛けを用意しなければなるまい。
わざと意味不明にしようとしていることから、感の良い観客は、そこがキリスト教流に言うならば冥界であることは直ぐ見抜いてしまう。従ってそのあとの登場人物たちのやり取りも退屈としか映らない。結果として眠らせてしまう。シナリオを練り直すことから始めるべきだろう。当然、演出や演技も変わらざるを得ない。
ただ、役者として面白い味を出していたのは、バーテンダー役であった。若い人ばかりの劇団のようなので、今後、自分達をどんどん磨いていってほしい。