各団体の採点
太宰治の原作は特に読んだ経験も無かったので、素直に作品を拝見しました。ポストトークもあり、それで理解できたこともありましたが、トークでの人柄が伺えるような、丁寧な作品でした。惜しいと思ったのは、作品の世界観に対して、劇場の空間が上手くマッチできていない感じがしたところでしょうか。もっと、小さく緊密な空間で上演されていたら、感じ方が異なったのではないかと思いますが。
また、ポストトークでお話しをお伺いしたかぎりでは、福島の劇団などのと交流もそれなりにあるようで、地方の演劇シーンの実態を垣間見ることができて良かったです。
観劇してからだいぶ時間が経ちますが、観た直後よりも、現在のほうがいろいろ思い出せる部分が多いです。それは同時に良かったと思える部分も増してきているような気がします。初見でしたが、今回はチャレンジングな公演だったとのこと。分かりやすさを回避したり、不条理劇のテイストを盛り込んだところがそうだったのでしょう。作家が作家を描くということに、観る側はどうしても意味を持たせたがるもの。さらには太宰治の世界観も持ち込んでいるだけに相当な覚悟で臨んだように思えます。3人の登場人物の奇妙な人間関係は、常に明確な形を持たず(持たせず)、その”ぐにゃり”とした感覚に浸ることができるのは演劇の為せるところではないかと。アフタートークも作家や制作の方の作品に対する真摯な姿勢が感じられて、好感が持てました。
太宰治の世界を換骨奪胎した埋葬と再生の物語。
時代設定は現代で、家族を失ったらしい女と、家族がバラバラになっているらしい男(二人は長い付き合いで、男の兄弟をめぐっての因縁もある)の会話を軸に舞台は進行します。
女の夥しい<思い出>が埋められた庭での何気ないコミュニケーションが、彼らの絶望や自己憐憫をちょっとずつ和らげていく過程に、鳥を探す「作家」というなぞの男との詩的なエピソードが差し挟まれ、ベタなりがちな設定や物語をギリギリ回避しつつ、膨らみのあるものにしていると感じました。
また、「作家」のかもし出す不条理感も得がたいですね。この「作家」、「作家」かどうかということも含め、全体に対してどう位置しているのか、若干追いきれないところもあり…なんとなくもやもやもする部分もあるのですが、一方でむしろこの不条理、時間間隔を「分かりやすさ」ではない方向にもっともっと
演出も含め)鋭く磨くことで、「日常」の場面が引き立つのではないか、さらに舞台としての面白みもまた増すのではないかという大きな期待を感じもしました。
冒頭、男女が会話するあいだに、何をするでもなく「作家」が舞台を横切るのですが、これはちょっとチェーホフなんかも思い出す遊びというかほのめかしで、個人的に好きです。
最後に舞台とは直接関係ないのですが、前説で本番中に連日続いた地震に触れて、非難誘導の話をされたこと、終演後、劇場出口で知り合いだけでなく、すべてのお客さんに挨拶されていたこと(出演者の人数が少ないからできることではあるでしょうが)、好印象でした。
太宰治の短編小説「燈籠」をモチーフにした三人芝居。原作があるとはいえ、セリフに「コンビニ」「週刊少年ジャンプ」などが出てきますし、設定も大幅に変わっているようで、現代を舞台にした新作と受け取ってもよさそうな作品でした。全編に作・演出の生田恵さんの美意識が息づいており、エンディングに静かな思索の時間としての余韻が残りました。
ただ、美術や照明などの空間全体の演出にはまだ上が目指せる余地があるように思いました。劇場の舞台の横幅が広いので、客席との緊密な関係が生まれづらいのもあると思います。東京でいえばアトリエ春風舎(約50席)のような劇場で拝見したかったですね。
生田さん、プロデューサーの森忠治さん、福島の劇団満塁鳥王一座の作・演出家である大信ペリカンさんの3人によるポスト・パフォーマンス・トークで、色んな謎が解けて大変助かりました。生田さんは「別役実研究会」という名の会を開き、月2回、別役戯曲を読んでいるとのこと(もう13本は読まれたそうです)。作家さんはお2人とも別役さんやイヨネスコなどの不条理劇に興味があるそうで、貪欲に戯曲を研究されているのが素敵だなと思いました。
太宰治の短編小説「燈籠」が原作だと知って驚いた。時代が違うだけでなく、ありとあらゆる面で生田恵のオリジナルと言っていい作品に仕上がっている。むしろあの「燈籠」を原作にこの作品を書いたということに生田恵の想像力の豊かさ、発想の斬新さを感じた。
しかし、確かに作品の中に漂う独特の空気感は太宰の世界に近いものであり、退廃と気品が同時に成立する世界は太宰そのものとも言える。そう、この作品にはえも言われぬ気品があるのだ。
そして「ことりとアサガオ」というタイトルの付け方が絶妙だ。ひらがなとカタカナが若干の違和感とともに混じり合う。どちらも和風のイメージでありながら、どこか異質なものが混じっている感じ。それがこの芝居そのものであり、その違和感の中に不思議な情緒があるという劇構造が見事だった。