浮足町アンダーグラウンド
大野城まどかぴあ
大野城まどかぴあ(福岡県)
2016/09/10 (土) ~ 2016/09/11 (日)公演終了
満足度★
浮足立ったまま埋もれて
公演前から、作者の名義交代というトラブルが発生していたことで、どんな出来になっているものやらと危惧していたが、それでも先入観を持たないように、虚心坦懐に観ようと心掛けた。
しかし実際に舞台上に展開されていたのは、悲惨としか言えない「演劇もどき」でしかなかった。ともかく、ストーリーも台詞も、空回りしまくっている。今、舞台上で何が行われているのか、それが次の展開にどう作用していくのか、それが皆目見えない(「予測が付かなくて面白い」ということではない。芝居から読み取れるはずの「意味」「解釈」が拒絶されているのである)。おそらく、そう感じた観客の方が大半だったろう。
なぜそんな惨状になってしまったのか。公演パンフレットの池田成志×内藤裕敬の対談を読めば、原因は明白である。詳細はネタバレの部分に書くが、結論だけを述べれば、役者がみな演劇の基礎すら理解しておらず、そのくせ我流の演劇経験だけはあるから「根拠のない自信」はあって、問題を指摘されても改善できずに、「守りに入る」演技しかできなくなる。会話と演技は硬化し、ますます使い物にならなくなる。結局、内藤裕敬は、中島かずきの脚本をこのまま演出することは不可能と判断し、彼らにも演じられる程度のものに改訂せざるを得なかったのだ。そのために、「物語」の部分が大幅に犠牲になってしまったのだ。
作品の最終的な責任は、演出家にある。その意味では、内藤裕敬と池田成志(内藤が改訂作業に集中している間、実質的な演出は彼が行っている)が、この悲惨な舞台の責を負うべきかもしれない。しかし、糞ったミカンを(取り除くのではなく)腐る前に戻すことが可能なのかどうかを考えてみたらいい。演出家両氏は、負け戦と分かった上での戦いに挑まざるをを得なかったのだ。これを簡単に責めることは、私にはできかねる。
実は池田と内藤の必死の努力によって、役者たちの演技自体は、これまでの彼らの学芸会演技(簡単に言えば生きた「間」を取れない棒読み演技である)よりもはるかに向上している。しかし、それがこの舞台の限界であった。
内藤や池田が指摘した九州演劇人の「根拠のない自信」に対する批判は、これまでも再三、行われてきたことだが、彼らはそれが一番痛いところを突かれるがゆえに、一切無視してきた。おそらく、彼らは公演を終えて自分の劇団に戻っても、また学芸会演技に戻ってしまうだろう。既に、この誰の目にも明らかな悲惨な舞台すら、Twitterを見ると彼らの「取り巻き」は絶賛しているのである。もちろん、お世辞でそう言ってるだけなので、どこがどうよかったなんてことは具体的に言えやしない。役者を甘やかして増長させるだけである。そんな「誉め殺し」の環境の中で、今後もマトモな舞台が作れるはずがない。
本当に役者たちに学習能力があって、演劇の道に進む本気があるのなら、巡演が終了したのち、上京して劇団に入り直すことから始めるだろう。賭けてもいいが、これまで片手間でしか演劇をやって来なかった彼らに、そんな勇気はないと思う。
ネタバレBOX
『浮足町アンダーグラウンド』がどういう物語か。一言で言えば、「ホランド」とは何かを問い質していく物語で、要するにベケットの『ゴドーを待ちながら』の変形である。
浮足町に唯一残った「浮足炭鉱」の秘密、「ホランド」は初め、戦前に開発された人造採掘人間のことだと提示される。炭鉱買収を目論む三津繩総研の目的も「ホランド」であった。しかし、その秘密を明かされたくない炭鉱の人々は、口々に「ホランド」とは全く別の存在であることを言い出す。曰く、炭鉱に隠された財宝だ、あるいは「ほら吹き」のことで、この町には「ほら祭り」の伝統があるのだ、等々。
ところが、各人が適当に口にした「ホランド」の「正体」に、それぞれが真実であるかのような「証拠」や「証言」が付随してくるようになる。果たして「ホランド」とは何なのか? 「ホランド」は実在しない。そう結論が出かけたところに、炭鉱の竪穴櫓を破壊して、巨大な「ホランド」が姿を現す――。
ストーリーをおおざっぱに書けば、こんなところだが、この物語の骨子自体は、中島かずきの原作のままではないかと思う。SF設定が不条理劇へと移行する意欲作と言えるが、これをいつもの中島テイストで、軽妙な会話で繋いでいくものだったのではないかと思う。
ところが実際の舞台では「軽妙な会話」が微妙に「会話にならない会話」にずらされていた。一人一人の「説明台詞」が異常に長いのである。誰かが一通り、台詞を言い終わらないことには、相手の台詞に移行しない。つまり「受け答え」の回数が、いつもの中島脚本に比べて、極端に減らされているのだ。橋田寿賀子の『渡る世間は鬼ばかり』の長台詞シーンを思い出していただければどんな台詞のやり取りだったか、見当は付くと思う。
要するに、役者が「台詞の受け答えができない」「会話に自然な間を取ることができない」ことが判明した時点で取られた苦肉の策だということである。
「ホランド」とは何か? 一人一人の証言が食い違い、その正体が混然としていく展開は、まるで黒澤明『羅生門』(原作:芥川龍之介『藪の中』)を彷彿とさせるが、観客を混乱のままに置いてきぼりをさせないために、脚本の橋本忍と黒澤明は、語り手である杣人、僧侶、下人を用意する。彼らが混迷の意味を整理し、その疑問点を提示する役割を担うことで、観客を放置せずにちゃんと次の展開に導く働きをしているのだ。
しかし、その「物語」どころか「台詞」を受ける基本的な技術すら、福岡の演劇人にはない。彼らにできることは、今、目の前に与えられた台詞をただ暗唱するだけだ。最低限の「受け」の演技の基礎を教え、鍛えることが時間的な限界だったとすれば、物語の「構造」は犠牲にならざるを得ない。
おそらく、中島かずきの元のシナリオの中には、混乱の中で正気を保とうとし、懸命にその不条理を解き明かそうと悪戦苦闘する「主人公」がいたはずである。浮足町に巣食う魑魅魍魎に対抗し、彼らの跳梁跋扈を「受けて立つ」キャラクターが存在したはずである。それがスラップスティックを混乱のままで崩壊させず「物語」として成立させるための基本的な方法であるからだ。
そして、そんな主人公を演じられる役者は誰一人いなかったのだ。
漫才的なボケツッコミは中島かずきの十八番だが、要所要所でそれを担当していたのは殆ど池田成志である。絶妙の間でツッコむのはプロにしかできない技だが、全ての場面に池田成志が出るわけにもいかない。他の役者にボケツッコミを任せざるを得ないシーンでは、格段にレベルが落ちてしまう(池田が出ていた場面でも、相方の役者が間を外して、池田が「コントってのはなあ!」と素でガックリする場面すらあった)。
地元の役者の中で、特に演技力のないある俳優は(でも福岡ではそれなりにキャリアがあって巧いと勘違いされている)、特に受けの演技ができず、間を外してばかりで、何度ツッコんでもまるで笑いを取ることができなかった。最後は一人ボケツッコミを三回くらいやらされていたが、それも完全にハズしていた。
池田成志にしたところで、稀代の名優、とまではいかない。舞台によっては、役どころを間違えて中途半端な演技に終始することもある。しかし、今回は、舞台上でもリーダーシップを取っているのが彼であることが明白に分かった。他の役者が、懸命に池田成志に追随しているのが分かるのだ。福岡演劇に自分あり、みたいな根拠のない自信を捨てた分だけ、これまでの彼らの舞台に比べれば、まだマシになっていたと言えるだろう。
『浮足町アンダーグラウンド』の公演パンフレットは前代未聞だった。
池田成志と内藤裕敬との二人で、今回の出演役者陣をディスりまくっていて、九州演劇人がいかに演技の基礎も知らないままに「客から金を取れる芝居を作っていないか」を具体的に指摘した資料であり、『浮足町』を批評する上では必読であり、福岡演劇の事情を知る上でも、広く読まれてほしいと思う。
これを引用するだけで『浮足町』について充分語れるほどなので、批評も必要ないくらいだが、ある程度詳細に説明すれば、福岡の演劇人の最大の欠点は、「関係性を考えていない」点にある。
演劇のドラマは「関係性」を無視しては成立しない。これは基本中の基本だ。演劇の勉強を少しでも齧ったことがある者なら、誰でも理解しているし、それを舞台で再現することを目的としている。ところが福岡の演劇人は、それを全く知らないまま、舞台に上がっている。そりゃ、学芸会にしかならないのも当然だ。
(前略)
内藤:役を自分に近づけるんだよ、みんな。自分の許容範囲でどうこなすかということを考えている。その方が無難だし、自分がだめだというレッテルを貼られないためにはそうやっていくのをどっかで身に付けてる。今のお前じゃだめなんだよ、今のお前以上でやらないと成立しないんだよ、そこまでいけよってことを言ってるんだけど、まだ…(この対談は8月16日ごろ)。
池田:しかもそうやるためには、内藤さんもいつも言ってるんだけど、人の話を聞かなきゃいけない。たとえばこう押す力が強かったら、強く返される。反作用を利用しないで、自分一人でやってる。それは大基本だけど、今までどうしてきたんだろうって、こっちもイラッと来ちゃう。
内藤:そうやってこなかったら残って来れなかったというのが状況として福岡はあると思うんだよな。ちょっと目立つとかちょっと人と違うとか。結局、だから自分が何をやるかってことばっかり見てて、相手役から何をもらうかってことを見てない。
(中略)
池田:そう。本当は一番面白いのは相手の反応を体験して自分が変わるってこと。そう語ってるけど感応しないんだよね。
内藤:それは稽古中に認識してくるとは思うんだよね。個人差がある。押しなべて全員にダメ出しをして、みんな人のダメ出しも聞いてるんだよ。自分のダメも人のダメも共有している。だけど結局、それでハッと本人が気づくかどうかが問題なのであって、なんぼ言っても気付かないやつはいつまでも気付かないからね。気付けるかどうかが才能なんだよ。
池田:今回ね、こんなに怒るつもりは全くなかったんですけどね。僕は「もう一回」って言われたらなるべく次は変えて演じてて、こう変えても成立するんだとかなるべく見せてる……。
内藤:やってんだけどな(笑)。
(中略)
内藤:「表現すること」と「されてしまうこと」ってあって、今、成志君が必死に言ってるのは、お前らが準備して頭でこねくり回して用意してるっていうのは「表現されている」んだと。表現しようと思ってもなかなか表現できない。自分が表現されてしまう。人前に立ったならば、他者に対して自分が表現されてしまうから、例えば誰かが演説してるの見たら、こいつインチキだとかうさんくせえとか表現されてしまうわけよ。自分ってものが表現されてしまうものならば日常的に俳優として自分を磨いていかなければ、自分は底が浅いとか安直に考えているとかが表現されちゃうよと。
池田:今日も言ってましたよね。「俺よりも優れている人はいっぱいいるんだ」と。でもあまりにも当たり前だから、俺、途中まで聞いて「そんなやついなかった」と言うかと待ってたけど(笑)。
内藤:根拠のない自信で現在があるんですよ。ここまで来れたから。自信は持ってなきゃいけないんだけど、だけど根拠がないわけだから物凄く不安なわけよ。だからこういう企画に応募してきてチャレンジするわけよ。だけどやってみると根拠のない自信の部分を指摘されると逆に守りに入っちゃって、そっから出てこない。一番痛いところだから。
池田:私がこうやっちゃいけないという真面目さがあるのね、九州の役者は。でも真面目って言うより、臆病なだけだとしか俺には思えないけど。
(後略)
役者陣、相当、厳しいダメ出しをされたらしいが、それでも公演までに「間に合った」レベルにまでは達していない。
同じくパンフレットの「稽古場日誌」では、役者の一人が(これまた30代で経験がないわけではない)、「何でその動きをしたのかと言われます。細かい反応を一から確認していく作業。それが基本なんだなと最近分かり始めた」。なんてことを口にしている。
こいつ、おんなじことを以前、うちの妻から言われてたはすなんだが、その時もよく分かってなかったようだから、今度もどうせ忘れるだろう。これが「演劇は関係性から生まれる」という基本も理解できていない、福岡の演劇人の実情なのである。
役者の演技に期待できない「引き算の演出」だから、ある一定以上のレベルには達しようもない。内藤裕敬の演出を批判する気になりにくいのはそのためである。
福岡の演劇人に、「自浄作用」を求めるのは難しいのだろう。繰り返すが、マトモに演劇を志したいのなら、この不浄の地を離れることだ。福岡にいたって、「取り巻き」の言うことをハイハイと聞いていなけりゃ足を引っ張られる。特に「あの連中」、自分の気に入らないやつらには容赦ないからね。そんなこんなで、福岡はすっかり「福岡演劇村」になっちゃってるんだから。
これでもう完全に、福岡の演劇はどこも観に行く価値はなくなったと判断した(今回も義理で観に行っただけである)。
大野城まどかぴあも、地元から演劇の活性化を、なんておこがましいことは考えずに、普通に東京から芝居を招聘するにとどめた方がいいんじゃないか。コンクリートの上に種を撒いても腐るだけである。
注:ネタバレ部分の引用はお避け下さい。パンフレットの詳しい内容を確かめたい人もいるでしょうが、そこはツテを探してください。
グッドバイ
キューブ
J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)
2015/10/03 (土) ~ 2015/10/04 (日)公演終了
満足度★★★
喜劇という名の悲劇
太宰治の原作は定番の「なりすまし」の喜劇であって、つまりこれを面白く見せるための手法も、自ずと定番のものにならざるを得ない。
それでは脚本の書き甲斐がないと考えたのか、ケラリーノ・サンドロビッチは、新設定を次々に導入、状況を二転三転させるのだが、そうなるとそもそもの原作の設定自体が無意味なものになってしまい、話も笑いも後半に行くほど沈滞化してしまう。
全体としては焦点の定まらない脚本だが、小出しのギャグには冴えたものも少なくなく、結構笑いは起きている。もっとも「笑い屋」の客が多いから、本当に可笑しいのかと言われると、実態は「そこそこ」と言ったところだろう。客はここぞと待ち構えてはいるのだが、すべってしまったギャグも少なくない。「受け」や「ツッコミ」の間の取り方が巧い役者の場合、笑いはどんどん高揚していくが、そうでもない役者との落差が激しかった。小池栄子のコメディエンヌとしてのセンスが抜群に光っている。
ネタバレBOX
その小池栄子の舞台映えの良さは、生で観ると一層驚嘆すら覚えてしまうほどのナイスバディに起因しているものではあるが、もちろんそれだけではない。美人の演出というのは案外難しいもので、そこに佇んでいるだけで魅力が生まれるというものでもない。完璧な美人などというものを目指すと、かえって無個性化した、生気のない人形のようなキャラクターになってしまう危険が生じる。どこかを「崩す」ことで、その美を反作用的に演出しなければならない。
怪力、鴉声で無知無教養、ガサツで上品さのカケラもない永井キヌ子。口さえ利かなければとびきりの美人で、誰もがその正体には気がつかずに済みそうだが、何しろ根が正直だから、すぐにお里が知れそうになる。
素で振る舞おうとするキヌ子=小池栄子と、それを見て血の気が引く田島周二=仲村トオル。このコントラストが生み出す笑いはまさしく「喜劇」のもので、太宰治の喜劇的センスのよさを感じさせる。
「おそれいりまめ」と太宰自身もゲスでつまらないと称する駄洒落を口にする小池栄子と、それにとほほとうなだれる仲村トオル。この息の合い方が素晴らしい。ギャグは受けの良さがあってこそ笑いを生む。それを熟知した二人のやり取りが実に楽しく、これが「芸」の持つ力と言ってよいであろう。
以降、小池栄子の爆発ぶりはいちいち書き起こすとキリがないほどに舞台を攫う勢いを見せる。
大股開きで飯を次から次へと平らげていく大食、迫ってくる仲村トオルを気合で投げ飛ばす怪力、「曲者」を「まげもの」、「所以」を「しょい」と読んでしまう無学さを恥じることもなく、逆に開き直って「私は『日直』を『ひじき』と読んだ女よ!」と啖呵を切る小気味よさ、いずれも貪欲を体現したような大胆さで、小池栄子以外にこれを演じられる女優がいるだろうかと思えるほどのハマリっぷりである。。
これまでの数々の映画、ドラマ出演で、彼女の演技力の確かさは世に知れ渡ってはいたけれども、正直、これほどまでに他を圧倒していては、「共演者殺し」と言われても仕方がないかもしれない。
他の女優陣も、水野美紀、緒川たまき、夏帆、門脇麦と、錚々たる面々で、何とか彼女たちにも見せ場を作ろうと脚本は苦慮しているのだが、それがかえって舞台を沈滞化させてしまっている。
小池栄子が出ていないシーンは、ただ台詞が流れるだけで、演劇としての躍動感が生まれていない。唯一、小池栄子に拮抗し得たのは、田島の娘の幸子や、「だいたい」占う街の女易者など、その他大勢を引き受けていた池谷のぶえだが、コメディ・リリーフとしての彼女が目立っていたということは、つまりは他のキャラクターは殆ど書割になっていて沈んでしまっていたということである。
妻・静江(太宰の愛人の太田静子がモデルか?)役の水野美紀、本来は彼女が田島の「本命」であるはずなのだが、全体を通して、女たちの中心にいる感じがしない。田島に愛想を尽かして捨てるのは当然としても、田島に愛人を切るための策を授けた(つまりはメンタル的に田島と同好の)作家の連行(山崎一)に身を任せてしまう急転直下の転換に、説得力がないせいだろう。
女医の大櫛先生役の緒川たまきは、クール・ビューティーな役回りで、静江から田島を「譲られる」のだが、最終的にその申し出を断ることになるのは見見当が付くが、その結論に至るまでに、静江に対して何一つ心の葛藤を覚えないというのは理解しがたい。それが氷の女の氷である所以かもしれないが、全体的に、女たちが「仲が良すぎる」ので、これでは、ドラマの生まれようもないのである。
挿画家・水原ケイ子役の夏帆、農家の娘・草壁よし役の門脇麦に至っては、何のためにいるのか、賑やかし以外に役に立っていない。女性を描くことに定評のあったケラリーノ・サンドロビッチの舞台としては、これは失敗作と言わざるを得ないだろう。
そもそも太宰治の未完の原作、これがたいして面白くもない。
主人公の名前が「田島周二」であるから、これはもちろん太宰治自身(本名・津島修治)を模している。
自身を戯画化するのは小説家にはよくあることではあるが、『グッド・バイ』(舞台のタイトルは『グッドバイ』でナカグロがないが、原作にはある)は特に露悪的で、一見、ユーモア小説のように仕立てているところに太宰のゲスさが現れている。
二十数人の愛人を抱えていて、ちょっと手いっぱいになってきたから、妻子とまっとうな家族生活を送ろうと、要らない愛人たちを穏便に身を引かせようとするのは、何だか最近の岡田斗司夫騒動に共通するものがあるが、もちろん、不逞文士と言われた輩は、昔からそんなことをやっていたのである。太宰治は代表者の一人だろう。
死の直前、彼には美知子夫人のほかに、太田静子(作家・太田治子の母)、山崎富栄という二人の愛人がいたことが確認されている(もちろん他にももっといたらしいことを太宰本人がほのめかしている)。
『人間失格』『グッド・バイ』の担当編集者兼秘書として付き従っていたのがその山崎富栄だった。
戦争未亡人で、美容師でもあった富栄は、『グッド・バイ』に登場する青木さん(舞台版では「保子」と名前が付けられていて、町田マリーが演じている)のモデルになっている。田島の策略であっさり捨てられる役どころだから、原稿を読んだ富栄は、自分も太宰に捨てられるのかと気を揉んだに違いない。そこをどう太宰が誤魔化したかは記録が残っていないが、ほどなく二人は玉川上水で入水して果てる。もしかしたら『グッド・バイ』は、太宰が富栄を死の伴侶にいざなう材料の一つとして書かれたのかもしれない。
とてつもない美人を妻と称して連れ歩き、愛人たちの方から自然と身を引かせようとするなんてアイデアは、土台、成功する見込みのない机上の空論でしかない。太宰の他愛のない夢想と言ってしまえばそれまでだが、「富栄に読ませる」ことが第一の目的であるなら、小説としての完成度など二の次で良かったのだと考えられるだろう。もちろん、それで富栄が身を引くはずもなく、かえって富栄は太宰の死の旅に付き従う決意をする。太宰がそこまで計算していたかどうかは憶測でしかものを言えることではないが、充分に考えられることだろう。
女を弄ぶことに関して、太宰は天性の才能を持っていた。「目的」を果たした太宰が、『グッド・バイ』の完結に未練を残さなかったのも当然だろう。
そんな太宰をケラリーノ・サンドロビッチがどう料理したかというと、正直、よく分からないのである。
ケラさんが、原作の設定を面白いと思っているのなら、未完に終わったものの結末をこうはしないだろうというオリジナルな展開が、後半は目白押しなのだ。けれども、最後にはいかにも太宰的なご都合主義的なラストが用意されているのだから、ケラさんは太宰が好きなのか嫌いなのかと首を傾げたくなってしまう。 太宰の入水をネタにしてからかってもいるから、人間としての太宰治のことは嫌っているのかもしれない。愛人問題に悩む田島を、連行が何度も「入水するなよ」と窘め、田島が「なぜ入水に拘る」と怒るのだが、客席の受けは今一つであった。太宰治が入水自殺したことも知らない客ばかりだったのかもしれないが、知っていたとしても笑えるギャグではない。
先述したとおり、太宰が『グッド・バイ』を小説として完成させる意識がちゃんとあったかどうか分からない。今でいうメディアミックスの走りで、新東宝での映画化も決まっていたが、もちろん原作権料は受け取り済みである。脚本の小国英雄、監督の青柳信雄は、ほっぽりだされた原作に何とか結末を付けて映画を完成させた。それは実は「とんでもない美人」の高峰秀子も実はある策略を田島に仕掛けていたという落ちであったが、今回の舞台版は映画版とも違う展開を辿る。
実は、太宰の原作は未完ではあったが、その落ちを朝日新聞の末常卓郎に語っていた。愛人たちに「グッド・バイ」した田島だったが、結局は計画が露見して、最愛の妻子に「グッド・バイ」されてしまうのである。普通に脚色するのなら、その落ちまでの紆余曲折を描くのが自然だろう。ところがケラさんは、原作を消化した直後に、連行から事の次第を聞いた妻・静江に、田島への三下り半を書かせてしまうのである。永井キヌ子の素性がバレるかどうか、そのあたりの展開を期待していた観客には、今までの設定は何のためにあったのかと呆気に取られてしまう展開である。
しかも目的を失った田島は、他の愛人たちからも次々と別れを告げられる「逆グッドバイ」状態になる。さらには、いきなり暴漢に襲われて記憶喪失になり、米兵に逮捕されて強制労働に送られてしまうのだ。『恋空』もびっくりの記憶喪失ものへの急激な路線変更だが、これをケラさんは「スクリューボール・コメディ」だと認識しているらしい。「意表を突く展開」のつもりなのだろうが、定番の展開が、別の陳腐なアイデアに移行しただけでは、「脈絡のなさ」が目立つだけである。しかも一年後に帰還した田島は、あっさり記憶を取り戻してしまう。何のために記憶を喪失させたのか、意味が分からない。まだ三谷幸喜に書かせた方が、ちゃんと伏線も貼った喜劇に仕立ててくれたんじゃないかというほど雑然とした脚本であった。
ラストは、妻や愛人たちはそれぞれに新しい恋人を見つけ、田島は嘘から出たマコトの永井キヌ子との新しい愛に生きる決意をしてみんな丸くハッピーエンドとなるのだが、これは映画版の落ちと全く同じで工夫がないだけでなく、結局は太宰の「好き勝手やっても最後は自分に都合の良い相手が見つかる」という身勝手な妄想を後付けで肯定したようなものである。なのに、カーテンコールでスタンディングオベーションする女性客が多いったらなくて、何に感動したんだか、これまたよく分からない。女性としては、むしろ怒るところじゃないのかと思うが、やっぱりイケメン(この場合は仲村トオルか)が出てるんなら、何をされようが、女として馬鹿にされようが、許しちゃうものなのだろうか。それとも、女として舐められているってことが分かってないのだろうか。
田島の一周忌(暴漢の死体が田島と誤って荼毘に付されたという展開にも無理がありすぎるが)に、喪服で集まった一同が、生きていた田島とキヌ子の結婚を「たかさごや」をワーグナーの結婚行進曲に乗せて歌うのは、『エノケンの法界坊』で榎本健一が同曲を歌ったことへのオマージュだろう。けれども、あれは亡者になったエノケンが生者の二人を祝福するから、もの悲しくも可笑しくて笑えてしまうのである。単に喪服を着ている人々が婚礼の歌を歌うというだけなら、ギャップの可笑しさはそれほど生まれない。
総じて、ケラリーノ・サンドロビッチの舞台は、純粋に喜劇を目指したものには失敗作が多い。前回の『社長吸血記』も、下手なタイトル通りの下手な喜劇であったが、今回も喜劇としてのツボを外しまくっている。ご本人は喜劇こそが自身の原点であると感じているのかもしれないが、小出しのギャグはまあまあだが、総体としてのシチュエーションコメディ、スラップスティックコメディは、どちらにもたいした才能は見いだせない。劇場で笑いが起きるのは、殆どが演者の喜劇的センス、タイミングの巧さに依拠している(あとは「笑い屋」とラポール現象のおかげ)。
笑いにはさっさと見切りを付けて、ホラーな方向での新作を書いてほしいのだけれど、しばらくは喜劇志向が続くような気配なので、傑作に出逢えるのはもう少し後になりそうである。
博多千年まんじゅうの旅/ななつ星号の冒険
ギンギラ太陽's
JR九州ホール(福岡県)
2014/12/22 (月) ~ 2014/12/23 (火)公演終了
満足度★
余興ならまだしも
「シリーズ第一弾」と銘打っているからには、観ておかないと次作との繋がりが分からなくなるかもと思って観てみたのだが、残念ながらpart2を期待させる要素を見出せなかった。
博多銘菓や列車・駅舎などが擬人化された「かぶりもの」で表現されるのはギンギラ太陽'sの定番。ここで好き嫌いが分かれてしまえば、人によって面白さを感じる度合いも違ってくるだろう。以前はチープなところもまた味わい、といった好意的な見方もしていたが、今回のように、役者の演技が宴会の余興レベルにまで堕してしまっていては話にならない。
お客さんがそれなりに受けているように見えるのは殆どラポール現象だ。それもまた「演劇の在り方の一つ」と言われればそれまでだが、仮にも福岡を代表する「劇団」として一定の評価も得ているのに、常連さんに「受けてもらって」悦に入っている状況は情けないのにもほどがあるのではないか。
お客さんが「協力」してくれるから、底の浅いパロディにも笑いが起きはするが、「子供騙しの手品」に乗せられてあげる義理のない人間にとっては、何の感興も起きない。脚本家がドラマツルギーを理解していないから、短編なのに後半は退屈さが弥増してくる。イチゲンさんには到底お勧めしがたい内容だ。
「福岡の宣伝隊」を自称されているようだから、駅前広場で無料公演すればいいんじゃないかな。どう考えても普通の客には3,500円を払って満足できるレベルの芝居ではない。「ドラマとしての演劇」を期待して木戸銭払って観るお客にしてみれば「何じゃこりゃ」な出来でしかないのだ。
ネタバレBOX
ネットの感想を散策してみると、概ね好評である。絶賛に近いと言ってもいい。ところがそれらの批評が全くあてにならないのは、実際に舞台を観てみれば判明する。
確かに、客席に笑いは起きている。善悪二つの心に引き裂かれた紅白饅頭を一人二役で演じる中村雪絵は、向かって右半身が赤、左半身が白で、向きを変えるたびにキャラが変わる定番のギャグで客席の爆笑を誘っているし、出落ちの音楽で現れるひよこ侍(ギンギラのレギュラーキャラで、今回は壊れやすいひよこサブレ侍から頑丈なひよこ侍へと二弾変身を遂げる)の大城真和も拍手喝采を受ける。
ところが演出の大塚ムネトは、これらのギャグを執拗なほどに繰り返す。そしてそのたびに笑いが沈静化していくのだ。そりゃそうだろう。同じギャグが一つの芝居の中で繰り返されれば観客は確実に飽きる。最初の笑いが7くらいだったとすれば、最後は3くらいに落ちてしまっている。
ヒーローがBGMを背負って登場するのは『遠山の金さん』でも『暴れん坊将軍』でもクライマックスと決まっているのに、ひよこ侍(ほかの助っ人キャラも含めて)は、中盤から二度も三度も登場する。客席はだんだん白けていく。
蟻のサラリーマンたちが「蟻のままでー」と歌うパロディも一部にしか受けていない。それもそうだろう。もうこのギャグはネットでも演劇でも何度も繰り返されていて(鴻上尚史も『朝日のような夕日をつれて2014』でやってた)、「旬を過ぎている」。大塚ムネトのギャグセンスのなさはここでも露呈してしまっている。
この確実に引いたり白けたりしている状況を、本作を絶賛しているネット住民(殆どが福岡の演劇人、つまり「関係者」だ)は、意図的にか無意識的にか無視しているのだ。もちろん大塚ムネト自身も。
ルーティーンのギャグはエスカレーションを必要とする。そうでなければ受けない。それはギャグの基本なのだが、それを大塚ムネトは習得していない。繰り返しのギャグを思いつかないのなら、他の種類のギャグをもっと詰め込む必要があるが、基本、かぶりものの出落ちギャグしかない大塚ムネトには、そこまでの引き出しがない。そのために後半、ドラマの勢いはどんどん失速していくのである。
はっきり言って、どの銘菓が勝とうが敗けようがどうでもよくなっていくんだよね。ネットには「演劇として面白い」という感想も見受けられたが、いったいどこがなんだ。そりゃあ舞台に大根を置こうとハムを置こうと「これは演劇です」と言い張ることは可能だが、それは普通の客が期待する演劇ではない。「ドラマ」を演出したものとしての演劇はギンギラからは失われてしまっているのである。
もっともギンギラは福岡・博多の宣伝ができればいいんだろうから、文句を付けたって仕方がないんだが、福岡の歴史を知りたければ、本を読んだ方が早いので、私は今後はそうします。
一時間半で情報をちょこっとつまみ食いしたい人だけ、シリーズを観続けていればいいと思います。それに毎回3,500円を支払うとは何てお大尽なんだと思いますが。
なにわバタフライN.V
パルコ・プロデュース
嘉穂劇場(福岡県)
2012/08/11 (土) ~ 2012/08/12 (日)公演終了
満足度★★★★
花から花へ
一人芝居とは何か? そこから出発した舞台だ。
劇団の人数が少ないから一人芝居、という「引き算」の判断で仕方なく一人だけの舞台を作る“劇団ひとり”な俳優は少なくない。しかしその場合、「なぜ一人で演じなければならないのか」「一人だからこそ表現できるものは何か」という問題は忘れ去られがちだ。
前日の一人芝居フェスティバルでは、九州勢の殆どが、劇作の時点からその問題に真剣に取り組んでいるとは言えず、「演劇もどき」に成り果てていた。それらとは対照的に、三谷幸喜は戸田恵子という逸材を使って、様々な一人芝居のありようを提示してみせた。近年、佳作もあれど全体としては粗製濫造がとみに目立つみたにではあるが、腐っても三谷、というべきか。
三谷も戸田も一人芝居は初めてであるから、原点から出発せざるを得なかった。それがかえって功を奏したのだろう、舞台はシンプルで小道具も少なく、戸田一人しかいないにも関わらず、実にバラエティに富んだ、ある「喜劇役者」の一代記が展開されることになる。
ミヤコ蝶々をモデルにした、ということになっていて、「なにわ“バタフライ”」というタイトルにもそれは確かに明示されている事実ではある。しかし、「モデルである」ということは、決してミヤコ蝶々と戸田の演じるキャラクターがイコールであるという意味にはならない。舞台上の「役者」はあくまでも戸田が演じている「名前の明かされない一人の女優」なのだ。
戸田が蝶々に似ていないから、そういう作りにしなければならなかったという、これも「引き算」の判断で設定した面はあるだろう。だがこの舞台の場合、蝶々のエピソードはあくまで「素材」であって、そこに戸田の持つ芸の力をいかに発揮させるか、という「肉付け」を行うことによって、確実に「ある女優一代記」を構築することに成功している。引き算をしたままでは終わらない工夫が、しっかり施されているのだ。
ミヤコ蝶々に似ている、似ていないという表面的な視点だけでこの舞台を見てしまっては、その本質を見誤ることになってしまうだろう。
ネタバレBOX
嘉穂劇場の花道を、「戸田恵子」が客席にお辞儀をしながら、小走りで舞台に駆け上がる。息を整えながら、「戸田恵子です」と挨拶。「一人芝居ですから、前説から小道具の準備まで、全部一人なんですよ」と笑いを誘う。
中央には背丈ほどもある風呂敷包みがあるが、その結び目を“取る”(ほどくのではない。結び目ごとスポッと抜ける仕掛け)と、中から鏡台や卓袱台などの小道具が取り出せる。
最初は、これまでの公演の流れなどを、戸田恵子は「戸田恵子」として語っていく。「嘉穂劇場はいいですね。この雰囲気。このお芝居のモデルになったミヤコ蝶々さんも何度か立たれたところで」「三谷さんが、古本屋でミヤコ蝶々さんの自伝を見つけまして、こんなに面白い話はない、芝居にしようと……」など、これらは今までにも何度も語られている成立の経緯。蝶々さんの名前が語られるのは、この前説の時だけだ。
一人芝居とは、と、様々な一人芝居のパターンも実際に演じてみせる。ある人物を演じた後、立ち位置を変えて別の人物を演じる。一人で喋りながら、相手の台詞も自分の台詞に組み込んで喋る(これを古畑任三郎=田村正和の声マネで演じたが、あまり受けていなかった。世間的には古畑も既に忘れ去られているようである)。
「今回のお芝居は、そのどれでもありません」
戸田恵子はそう言って、ふと虚空を見つめたかと思うと、すっと“別人”になる。その“別人”と、戸田恵子が会話する。
「あんたが、私をやりはるんか。似てまへんな」
「似てなくていいんですよ」
しかしもう「蝶々」の名前は語られない。そこにいる「幽霊さん」は、ミヤコ蝶々かも知れないし、そうでないかも知れない。しかしこの時の「幽霊さん」の口調は、晩年の蝶々さんの、あの落ち着いてはいるがどこか突き放したような、それでいて優しさを失わない関西弁の口調、そのままだ。巧い。既に虚実冥合の境に戸田恵子はいる。
立ち位置を変えての演技は、台詞と台詞の間にどうしてもタイムラグを産むが、ここは相手の台詞を受けて喋る間と長さを一致させることで不自然さを無くしている。これも巧い演出だ。
勝手にやりなはれ、と幽霊さんは言うが、怒ってはいないのが客席に伝わる。そして、戸田恵子は羽織を脱いで、子供の格好になっていく。
全体は三部構成。
第1部は、幼少期から、最初の結婚の直前まで。
芝居好きの父親の肝煎りで初舞台、劇団を作り、漫才を始め、筑豊の劇場主の息子「ぼん」と初恋をする。しかしこれは巡業先のこととて、すぐに破局。
第二の恋は、漫才の相方「兄やん」と。知識の豊富な彼に、彼女は私淑するが、読み書きは不得意なままだった。自由のない暮らしがしんどくなり、彼女は兄やんと駆け落ち。しかし度胸のない兄やんは、すぐに逃げ帰ってしまう。仕方なく彼女も父の元に帰るが、それ以来、子供だ子供だと言われていた彼女は、めっきり女らしくなったと評判になる。
一人何役もどのような形で行うかと思ったら、基本は相手の声は聞こえず、自分の受け答えだけで会話を想像させる、一人芝居の定番パターン。
日常会話は殆どその形だが、問題はない。しかし、漫才シーンになるとさすがに無理が生じる。相方がどうぼけているのか分からないから、彼女がただ突っ込むだけで、何がなんだか分からなくなるのだ。ナンセンスを狙ったつもりだろうが、客席からの笑いもなく、これは失敗していた。三谷幸喜も気付いているはずだが、上手いアイデアが思い付かずに放置したようである。
時折、木枠を相手に見立てて会話をする。「ぼん」や「兄やん」の枠は普通の大きさ、父親の枠は小さい(歳を取ると二段構えで更に小さくなる)。戸田恵子は、たまに枠の中から顔を覗かせて、相手の台詞を喋ることもある。この「枠を使った一人芝居」が、この劇の最も優れたアイデアだ。人形劇のアレンジではあるが、戸田恵子の指の動きが、男達一人一人の“表情”を自在に創り出している。
「兄やん」から、笑いの極意として「緊張と緩和」を教わる件は、本作唯一の「笑い論」。
第2部。
落語家の「師匠」と恋仲になり、師匠を座長にした劇団を旗揚げする彼女。問題は、師匠には妻がいたことだった。「取ったもんは取られる。覚えときぃや」。そう捨て台詞を残して師匠の妻は去る。
晴れて夫婦となった二人だが、師匠の浮気癖は治らない。薬(ヒロポン)に逃げる彼女だが、そんな彼女を支えて、薬からも何とか脱出させることに成功したのは、彼女の弟子の「ぼくちゃん」の存在があってこそだった。
師匠と彼女は離婚し、そして彼女はぼくちゃんと結ばれる。
師匠の下から逃げ出して、ぼくちゃんと泊まった宿屋が、兄やんと駆け落ちした時の宿と同じ、という設定。どちらも、相手ににじり寄られて身を任せてしまうのだが、「それは違うと思うンよ」と同じ台詞を彼女が言うのが可笑しい。
こういうルーティーン(繰り返し)のギャグは、三谷幸喜は昔から巧い。この巧さがあるから、他に難点があっても、三谷の舞台は一定水準を保ってきた面がある。
ぼくちゃんの木枠は普通で、師匠の枠はひときわ大きい。これは彼女から観た「人間の器」の象徴でもある。師匠はたとえ浮気をしようと、彼女にとっては「大きな人」だった。父親は本当にこぢんまりとしてしまったが、それは卑小なのではなく、彼女にとっての父親は、本当に「かわいらしい人」だったのだ。
第3部。
ぼくちゃんとの漫才コンビも軌道に乗り、テレビ出演も増え、一躍人気者になった彼女。しかし、芸の甘さが目立つぼくちゃんに、彼女は“師として”厳しく当たる。それがぼくちゃんを浮気に走らせるきっかけになった。
「取ったら取られる」。ぼくちゃんの愛人を睨みながら、師匠の前妻の言葉を思い出す彼女。結局、二人は離婚し、ぼくちゃんは愛人と結婚したが、漫才コンビは人気が落ちない以上は解消するわけにもいかず、その後も続けることになった。ぼくちゃんが死ぬまで。
糖尿病が悪化したぼくちゃんは、妻とも離婚し、面倒を見られるのは彼女だけになっていた。ぼくちゃんの死の床で、歌を歌う彼女。「タコに手無し、ナマコに眼無し」。それは、子供の頃、父親から教わって、舞台で歌っていた歌だった。
一人になっても、彼女は、舞台を続けた。舞台に出る前にはいつも、彼女は恋してきた男達と想像の中で会話をして、それから舞台に立った。
今もそうしている。
鏡台が平行になって、ぼくちゃんが横たわるベッドに「変身」したのには感心した。初演は観ていないが、セットもきちんと作っていたのと違い、現在は最低限の小道具だけで演じる形に変化してきたらしい。その中でのこの「鏡台の変身」である。何もない空間で、衣装を替えるだけの一人芝居もありえるだろう。しかし、このベッドの側に頬杖をして寄りそう戸田恵子を観れば、これがあった方が、観客はそこに横たわるぼくちゃんの姿を連想しやすくなることに気付く。「見立ての変化」の驚きが、我々の想像力を刺激しているのだ。
師匠のモデルが三遊亭柳枝で、ぼくちゃんのモデルが南都雄二であることは知っている人は知っている。南都雄二の芸名の由来が、文盲に近かったミヤコ蝶々が、台本を読みながら「これ、何と言う字?」と相方にしばしば訊いていたから、という俗説がマコトシヤカに囁かれている。ギャグとして使おうと思えば使えるネタだ。
しかし、三谷幸喜は、そういう「ミヤコ蝶々であることをはっきり示せば笑いを誘えるネタ」を一切使わなかった。前説で戸田恵子が口にしていた「ミヤコ蝶々」の名前も、舞台を観ているうちにすっかり忘れていた。そうさせたのはまさしく戸田恵子の「芸の力」である。
三谷幸喜の、戸田恵子への信頼が、小手先のギャグを封印しても構わないという判断を三谷にさせたのだろう。戸田の造形した「彼女」は、表面的にはミヤコ蝶々から遠く離れたが、「芸の力」という共通点によって、ぴったりと重なった。これはそういう舞台であったと言える。
大千秋楽ということで、カーテンコールの後、三谷幸喜のナレーションが突然奈がされた。「戸田さーん、三谷です。探してもいませんよ。録音です。後ろを見て下さーい!」。
「祝 100回、目指せ1000回(200という数字を消している)」という垂れ幕が下りる。観客が一斉にクラッカーを鳴らし、ダンサーたちが現れて踊り、花束が贈呈される。全てサプライズの演出。
実は100回公演を果たした後、地方を廻る時の前説で、戸田さんはいつも「100回記念でもクラッカーが鳴るわけでもなく」とネタを振っていたのである。突然のお祝いに喜びながらも、戸田さんはどうやら仕掛けに気付いていたようだった。「何となくみんなの動きが怪しかったので」だそうだ。でも「1000回は難しいけど、200……150回なら何とか」と観客に期待を持たせて幕。「またこの劇場に呼んで下さい!」
今回、観ることが出来たのは、一人芝居の「進化」の形の一つなのだろう。まだまだ甘いところ、もっとシンプルに出来るところ、更に台本を改訂する余地もあろうと思う。
『12人の優しい日本人』もそうだったが、三谷幸喜が再演を掛ける時には、台本を大胆に書き換えることも少なくない。今回の「N.V」が最終形態というわけではないだろう。戸田恵子の「底」も、まだ探ればもっと大きな広がりが見えるのではないかとも思う。それが数年先になるか、十年先になるか。
たとえミヤコ蝶々の没年に近くなっても、観てみたいと思わせる舞台だった。
INDEPENDENT:FUK
NPO法人FPAP
ぽんプラザホール(福岡県)
2012/08/11 (土) ~ 2012/08/12 (日)公演終了
満足度★★
あなたはそこにいますか
今回の一人芝居フェスティバルの内容が、「九州公募枠4組」+「東京・大阪招聘2組」と聞いて、首を傾げた。
ある程度の回数を重ねて、一人芝居のノウハウが九州の演劇人たちに蓄積されているという確認が出来てからならともかく、今回は「第1回」である。ただでさえ、九州は演劇人の養成システムが確立していないのに、この配分はおかしかろう、招聘作品5組、九州公募作品が1組、ここから始めるのが妥当なのではないか、そう思ったのだ。
不安は的中して、九州4組の出来はかなり酷いものだった。いずれも「舞台で台詞を喋っているだけ、動いているだけ」で、演技の体を成していない。これでは観客はおいてきぼりだ。たとえ一枠に絞ったとしても、東京の劇団「柿喰う客」の足元にも及ばない。
なぜこんな構成にしたのか、単に各地から劇団を呼ぶには予算がなかったからなのか、それとも本気でフェスティバルが成立すると考えていたのか、製作の思惑が後者だとしたら、脳天気にもほどがあろう。
観客席を埋めていたのも、会話を聞く限りでは殆どが劇団関係者や身内客であり、一般客の姿はたいしていないようだった。こういう集客は「マッチポンプ」と言うのであって、もっと厳しい言い方をすれば、「一般客の排除」である。何をやってるんだとしか言いようがない。
地元劇団を偏愛するあまり、地元劇団をヨイショするような企画ばかり立てていたのでは、地方演劇の振興には何一つ寄与はしないだろう。そんな余計なことを考えている暇があったら、中央の劇団をもっと呼んできて公演を増やした方が、よっぽど「井の中の蛙」たちに「地元でやったっていつまで経っても蛙のまま」という認識を持たせることになる。それをしないのは、福岡の演劇人たちは「蛙のままでいい」という認識なのだろう。決して貶さずただ誉めよう、という幼稚園のお遊戯会である。
実のところ、こちらの目当ては「柿喰う客」だけだったから、他のとこの出来云々はどうでもよかったのだけれど、私らフツーの客の「時間」は、彼らの非力のためにしっかり殺されたのである。
ネタバレBOX
Aブロック:
■「従営獣」
[出演:井口誠司 ]×[脚本・演出:仲島広隆](福岡)
満足度:★
ト書きをいきなり語り始める演者。何かの店のバイトらしい、ということが分かりはするが、別に不必要。演じている中でそれは見えてくるもので、既に冒頭から観客の想像を減殺させてしまっている(これは次の『みぞれ』も同様)。
同じバイトの秋田(♀)に、自分の恋(=ストーカー)バナを嬉々として語る演者だが、これが全く面白くない。現実でも「自分語り」は聞き手の興味関心を惹かないのが相場なのに、なぜこんなつまらない題材を選んだのか、理解に苦しむ。
演者に技術があれば、つまらない話でも聞かせられるが、これもつかこうへい式の怒涛の喋りで演技になっておらず、しかも滑舌が悪いから、何を言っているのか分からないこともしばしば。
さらになぜか演者は飛んだり跳ねたり、内容と動きがちぐはぐで、これはいったい何をしたいのか、皆目見当が付かなくなる。店先でそんなことをしていていいものか、と疑問に思っていたら、「こんなところで飛んだり跳ねたりしてるのって変ですよね」と自分突っ込み。十分以上もそれをやって、今さら言うかよ、と白けるばかりで、ギャグになり損ねている。演者も下手だが、脚本段階から設定と構成を間違えているのだ。
それから話は秋田と店長の話題に移って、ようやく展開らしい展開を見せ始めるが、時既に遅し、タイミングを外してしまっている。ふざけすぎた前半の演技が影を落としたまま、演者と観客の間のシンパシーは形成されず、バイトを解雇される彼の悲哀も伝わっては来ない。
前半、陽気なバイトくんが、後半、理不尽に解雇させられていく無情とを、対照的に描きたかったのだろうが、ならば前半の人物造形を、もっと観客の感情移入できるものにして、演者も「バカだけれど憎めない」キャラとして演じなければ、効果は生まれない。観客がバカに感情移入できるのは、「こういうバカは自分もやっちゃうよなあ」と思えるからだ。ストーカーレベルに設定してしまっては、「ここまで俺はバカじゃないよ」と、観客はそっぽを向く。バカの造形は、案外観客との「釣り合い」を取るのが難しいのだ。
終始、照明が暗く、演者の表情が見えにくかった。特に表情を読ませない演出意図がある話だとも思えないし、細部に拘る姿勢が欠如しているのだろう。
■「みぞれ」
[出演・脚本・演出:山田美智子](鹿児島)
満足度:★
喫茶店を営む要子と、恋人の荒戸、要子の姉や、近所の小学生などを、演者は一人で演じ分ける。
ならばどうして実際にキャストを四人なり五人用意して、普通の芝居として仕立てなかったのか、一人芝居にしなければならない意図が、台本からは一切伝わってこない。逆に一人芝居にしてしまったことで、ある役からある役に移行する時に、どうしてもタイムラグが生じて、その間、“観客が素に戻らされてしまう”。
一人で演じるための脚本を書けなかったのか、あるいは「演じ分けを見せたいから」、一人芝居の形式を選んだのか、どちらにしろ、「一人芝居とは何か」「一人芝居だからこそ表現できるものは何か」、それを一切追求していない、「演劇以前の舞台」と断定せざるを得ない。
主人公の「かき氷はみぞれしか出さない」という拘りも、これもまた嬉々とした「自分語り」になっていて、感興を殺ぐことこの上ない。「なぜかこの店ではみぞれしか出さない」という「謎」を提示して、話を引っ張る手法(映画で言う「マクガフィン」というやつだ)を撮ればいいものを、それを作者は取得していない。戯曲は「解説」ではないのだ。
解説ばかりの脚本だから、ドラマが生まれない。雀を殺す異常行動に出ている荒戸や、彼の狂気を救いたいと願う要子も、その心理を台詞で全部説明してしまうので、観客の想像力を誘うものにはならない。シリアスな内容だけに、これはできるだけ過剰な演技は抑えて、ナチュラルな演技を、それこそ現代口語演劇の手法が求められるが、演者は無意味に声に抑揚を付けて、要子を無駄に色っぽく演じている。
こんな喋りの女が現実に喫茶店を経営していたら、客は二度と足を運ばなくなるだろう。アタマが逝っちゃってる、としか見えないのである。
■「いまさらキスシーン」
[出演:玉置玲央(柿喰う客)] × [脚本・演出:中屋敷法仁(柿喰う客)](東京)
満足度:★★★★
他のがあまりに酷いので、思わず反作用的に五つ星を付けたくなってしまうが、冷静になって考えてみると、これは一人芝居としてはかなり「禁じ手」を使っているのである。正攻法が常によいとも言えないし、面白ければどんな手を使おうが構わないのだが、中屋敷法仁の潜在能力は、まだまだ発揮されていないのではないか、という思いもあるので、四つ星に。
玉置玲央(♂)が、「せ・す・じ、をピーンと伸ばして」と言って、女子高生姿で仁王立ちした瞬間から、劇空間が屹立したのには舌を巻いた。
これも「自分語り」であり、説明台詞のオンパレードであり、怒涛のつか喋りである。つまり、「一人芝居でやっちゃいけないこと」をやりまくっているのだ。なのに面白い。中屋敷法仁は、恐ろしいことに、今回、“やったら失敗することをあえてやって成功させるためには、何をどうすればよいか”という、とんでもないことに挑戦したのだ。読んでも全然面白くない教科書とか六法全書とか般若心経を面白く読み聞かせようとしているようなものだ。
この時点で、既に他の劇団とは、目指しているものレベルが全く違う。
玉置玲央は女装をしているが、実はこれは女装ではない。彼は一切、女言葉で喋らないし(わざと「ぶる」時を除いて)、女演技をしない。それをすれば「オカマ」になってしまうことを、中屋敷氏は熟知している。それは観客の感情移入を阻害する「虚像」でしかない。だから、「彼女」は“あの姿こそが素の姿”としてナチュラルだから、自然に観客の意識にすりこまれる。だからあれは女装ではない。“男にしか見えない女”が自分の制服を着ているだけなのだ。だから全く気持ち悪くない。
彼女の恋バナも、その異常な姿とは相反して、実に普通である。「先輩と一緒の大学に通いたい」。これだけで、観客が引くようなストーカー的な行為を取らない。その直前で「寸止め」してある。過剰な表現とは対照的に、内実はとことんリアルなのだ。だから、「あるある」と観客は感情移入ができる。グロテスクなその容姿も、いつの間にか受け入れてしまっている。
つか式の過剰な喋りも、リフレインを多用したリズミカルな台詞に乗せることによって、青春の怒涛を表現することに成功している。彼女は、一見、自分の心理を説明しているようであるが、これも本当は「自分語り」ではないのだ。自分の感情に溺れてはいない。彼女は自分に対しての冷静な客観者である。恋と、勉強と、部活と、その三者のバランスを取ろうとし、それに失敗していく過程を、「行動」をメインに描写していく。これはハードボイルドの手法だ。「自分語り」を他人に聞かせるためには、ハードボイルドに徹する必要があるのだ。
心理描写が客観描写と合致しているから彼女が走る国道が舞台上に“見える”し、彼女が乱暴される暗い原っぱが広がって“見える”。
極めつけは、彼女と先輩の最後の出逢いだ。罵倒した部活の仲間たちから乱暴され、血まみれになった彼女のおでこに、先輩はキスをする。彼女の血まみれの姿に先輩は驚きもせず、キスしたその唇は彼女の血で濡れる。その様子を、彼女は、自分ではその意味を理解しないまま、淡々と語る。だから観客だけが気付くのだ。彼女を乱暴させたのは先輩なのだと。
これが“ドラマのある”戯曲の書き方なのだ。台詞に説明はない。しかし描写はある。だからその台詞の意味を、観客が想像することができる。こういう台詞を書けるか書けないかが、プロとアマの差なのである。
番外上演
■「キネマおじさん」
[出演:江口隼人(劇団空中楼閣)]×[脚本:永松亭(劇団空中楼閣)]×[演出:FALCON(劇団空中楼閣)](福岡)
満足度:★★★
予選落ちしたが、観客の評判がよかったので、急遽幕間にロビーで上演することになったもの。
『タイタニック』『借りぐらしのアリエッティ』『テルマエ・ロマエ』をそれぞれふとっちょのおじさんが、BGMにCDを流し、お客さんに話しかけつつ、パロディーにしていく。
このおじさん、普段はストリップ劇場の幕間のお喋り漫談なんぞをやっているそうで、何のこたあない、喋りのプロなのである。
『タイタニック』は、ケイト・ウィンスレットが、レオナルド・ディカプリオを斧で殺して自分だけが「ヘルプ・ミー!」と助かるオチ。
『アリエッティ』は、小さくなった女子高生はアリエッティは、南くんのポケットに入っていつも一緒だったけど、車に轢かれて死にました、という『南くんの恋人』に話がすり替わるオチ。
『テルマエ・ロマエ』は、ルシウスがタイムスリップしたのが現代のソープランドで、花時計とかいろんな技を上戸彩ちゃんに教えて貰って、古代に帰り、トルコ風呂の創設を始めたという……おお、パロディなのにちゃんとSFになっている!(笑)
下品な人間の、下品な人間による、下品な人間のための漫談だが、誰のため、何のためにやっているのか分からない芝居に比べれば、はるかに満足度は高い。公募枠に受かった他の劇団の方がよっぽど幼稚だ。
この企画が、九州の若手の小劇場をヨイショするだけのもので、一般の観客のニーズに答えるものではないことが、この選考の仕方でよく分かる。
Bブロック:
■ 「Comfortable hole bye.」
[出演:野中双葉(劇団ノコリジルモ)]×[脚本・演出:熊谷茉衣子(劇団ノコリジルモ)](福岡)
満足度:★
さまざまな自殺を試みる少女。しかしなかなか死ねない。というよりも、本気で死ぬ気が少女にはない。首を吊っても苦しくて、手首を切っても痛くて、死に至ることが出来ない、と言い訳する少女。
死ぬつもりはないのになぜ死を望むのか。“純粋に死にたいのだ”という意味のことを少女は言う。“死ぬのに理由がある死”は、自分の求める自殺とは違うのだ、と。
こうした最初の設定は面白いのだが、まず演者の演技が典型的な「演技している演技」で、嘘っぽさしか感じられないのが観ていてつらくて仕方がなかった。特に中盤以降の「死についての一人語り」になるともういけない。完全に、舞台と客席との間に障壁を築いてしまっている。
台詞は、覚えてそれに抑揚を付けるだけでは「演技」の域には達しない。それは「よく長い台詞を覚えましたね」とセンセイや親などの身内から誉められるだけの「お遊戯」だ。しかしそもそもの脚本自体が演劇の体を成していないのだから、演技云々を忖度したところで意味はない。
物語は結局「やっぱり生きろ」というところに落ち着くのではないかと思っていたら、やはりそうだった。自殺防止キャンペーンの一助になればという思いで書かれた作品なのかも知れないが、本気で死のうと思う人間がこの舞台を観たとしても、その決意を翻させることは不可能だろう。
■「スパイラルベイビーのおと」
[出演:守田慎之介(演劇関係いすと校舎)]×[脚本・演出:平林拓也(ユニット成長剤)](行橋)
満足度:★★
九州勢の中では、これが一番マシだった。
しかしそれも「一応、一人芝居として成立させるためのアイデアがある」ということであって、面白かったというほどではない。
舞台は白いラインで三分割されており、シャツをはみ出させた男が、ラインを越えて場所を移動する度に、別人を演じていく。一人は、死にかけた妻のために、他人を笑わせようとする男(なぜか他人を笑わせると妻の寿命が延びるのだそうだ)。一人は、就職難で、面接を受けまくっているが、頓珍漢なことを言っては落ちている男。もう一人は、妻に浮気を疑われて離婚したものの、子供の親権で係争中の男。
この全く無関係に見える三人は、どんな関係があるのか。とかくといかにも大層な謎のようだが、この手の話は概ね次の三パターンのいずれかだ。
(1) 三人が出遭って、新たなドラマが始まる。
(2) 三人がぶつかって、人格が入れ替わる。
(3) 三人と見えて、実は一人の人間の多重人格である。
一人芝居だから、(3)の可能性が高いなあと思って観ていたら、やっぱりそうだった。発想が悪いとまでは言わない。しかしこのネタは、もう手垢が付きすぎているのである。「あれっ、そこにいた人がいない」と一人が言いだして、多重人格ネタであると確信してから後が長くて退屈なこと。
こういうワン・アイデア・ストーリーは、短編で、最後の最後に意外な結末で「落とす」のが心臓のようなものなので、途中で大半の観客にネタが割れてしまうのは、致命的と言われても仕方がないのである。
■「暗くなるまで待てない!」
[出演:横田江美(A級MissingLink)]×[脚本演出:土橋淳志(A級MissingLink)](大阪)
満足度:★★★
主人公は盲目の少女である。かつては母親が教祖であった新興宗教団体で、盲目の巫女として神託を告げる役割を果たしていた。しかし母親が死んで、今は細々と占い師をして暮らしている。
ある時、かつて教団にいた男が現れて、隠し財産を寄越せと強要してくる。拒む少女。さらには、近くで虐待に堪えかねて父親を殺してきた少年も、少女のところに転がり込んでくる。久しぶりに人に触れ合って、優しさを取り戻していく少女。だが、破局はもうすぐそこまで来ていた。
ある晩、いきなり留守宅に上がり込んできた男が、強盗と化し、少女を殺そうとした。恐怖に駆られ逃げまどう少女。電灯を壊し、暗闇の中で対峙する二人。しかし少女が有利だったのは最初だけで、じきに男に掴まってしまう。殺される寸前、男を引き離し、彼女を助けた「誰か」がいた。それは自首するために出ていったと思われていた少年だった。少年は男を倒す。そして再び、少女の下から去っていく。
翌日、少女は驚くべき事実を警察から聞かされる。少年は、昨晩、“少女の部屋に帰ってくる以前に”川に落ちて死んでいた……。
タイトルで、オードリー・.ヘプバーンの最後の主演映画である『暗くなるまで待って』を連想した観客は多いだろう。
盲目の女性の屋敷に、強盗が忍び込んで、しかし明るいうちは、強盗に有利、でも暗くなれば、敵と自分と、条件は同じ、逆転勝利の可能性はある……というシーンは確かにラストに存在するが、そこに至るまでの話が長い。「暗くなるまで待てない」のは観客の方だったりする。
もっともそのあとに、強盗から女性を守ったのは、“眼には見えない”ある少年の幽霊だということが明かされる。主人公の盲目が、しかも一人芝居であるため、少年の姿は“観客にも見えない”ことを巧く利用して、よくあるオチではあっても、最後まで少年の正体に気付かせないトリックは秀逸。実際、私も引っかかった。だって「見えないのが当たり前」と思っていたのだもの。これは「演劇だからこそ仕掛けられる叙述トリック」である。
確かに、そこに至るまでの過程は長い。しかしその長さは、全てこのラストの意外性を生かすために必要なドラマだった。演者の演技が生硬で、平板な印象を与えてしまうのはマイナス点だが、この一人芝居をミステリーのトリックとして使用した点において、前の「スパイラルベイビーのおと」よりも優れている。同じく一人芝居の裏技を仕掛けた井上ひさしの『化粧』に匹敵するものとして、高く評価されるべきだと考える。
一人芝居の演者が、客席に向かって語りかける。
語りかけている相手は、一見すると我々観客であるかのように見える。
漫談ならそうだ。しかし「演劇」においては、演者の対象は必ずしも観客に限定されるものではない。ドラマの中の相手だろう、という解釈も、「設定」としてはそうなのだが、正確を期するならそう断定は゛きない。
「演劇空間」というのは、端的に言えば、そこにその時だけ存在する「異空間」、一種の「別世界」を創り出すことだ。それが最もプリミティブな形で構築されるのが「一人芝居」である。
演者が対峙しているのは、「世界」あるいは「宇宙」そのものだ。茫漠として具体的な形を備えてはいない「概念」そのもの、しかしそれは確実にそこに存在している。
他の演劇、即ち対話劇の場合、「相手」は具体的な形を伴うがゆえに、世界の構築もまた二者間の距離と、演技の内実によって、舞台上に形成されるのが基本だ。しかし一人芝居の場合は、演者と観客が“見ている”対象は「同じもの」だ。即ち、「世界」は実は舞台上に留まらない。ともすればそれは一気に劇場から外に飛び出し、宇宙にまで拡大する。
一人芝居と通常の舞台との明確な違いはその点にある。
言い換えるなら、普通の舞台の場合、ドラマは舞台上にあり、それを観客は見たままに解釈するが、一人芝居の場合はそうではない。我々が見ているものは、いや、「見ようとしているもの」は、演者の演技、言葉を通した「向こう側」にある「世界」なのであって、我々もまた想像力を駆使しないことには、その世界は決して見えては来ないのだ。
そんな「得体の知れないもの」がなぜ演者ばかりでなく、我々にも共有することが可能なのかというと、我々の脳が行う「認識」「理解」という作業自体が、基本的には「得体の知れないものに言葉を与える作業」だからなのだ。
従って、「世界」を構築できない一人芝居は、演劇として成立し得ない。宇宙が見えていない演者に、観客にも宇宙を感じてもらうことは不可能である。今回の一人芝居フェスティバル、彼ら彼女らに、宇宙は見えていたのだろうか。
間取り図ナイトツアー
「間取り図大好き!」コミュニティー(mixi)
FUCA(福岡県)
2012/06/22 (金) ~ 2012/06/22 (金)公演終了
満足度★★★★★
もしも私が家を建てたなら
好き者が集まって、ただひたすら「家の間取り図」を見るというだけのイベントだが、これがとんでもなく面白い。奇妙奇天烈摩訶不思議、何をどうやったらこんな間取りになるのやら、廊下しかないとかトイレだらけであるとか階段がワープするとか一階より二階が広いとか六畳しかないのに九畳と書いてあるとか、訳が分からない物件のスライドがおよそ200枚すも見たっけか。この全国ナイトツアー、主催のmixiコミュ管理人さんによれば、各地で紹介した内容にダブリは殆どないとのことだ。てことは全部で千件以上! よくもまあ、これだけ変な物件があるものだと驚き笑うばかりだ。
中には単純な書き間違いもあるのだろう。今回のイベントで初めて知った事実だが、「間取り図の専門家」というのは存在しないのだ。マニュアルもない。家を売りたい大家なり地主なりが自分で書いたり仲介業者が書いたり。不動産屋がクリーンナップする場合もあればしない場合もある。手描きのものはたいていが適当だ。描き手もどう描けばいいのか分からず、枠だけ描いて「現地参照」とか書き込みしている。間取り図の意味がない(苦笑)。かと思えば、やたら精密に縮尺まで書き込んだものまであって、まさに千差万別百花繚乱な物件が取り揃っている。
言葉で説明してもこの面白さ不可思議さは表現しきれない。次のツアーを待つか(ただしチケットは即日完売なのでご注意)、mixiコミュにご参加頂けば、百聞は一見に如かず、あなたの心はあなたの体を離れて、目眩く間取り図ゾーンの中に誘われることだろう。
ネタバレBOX
もちろん全部の物件は紹介しきれないのでサワリだけ。
これも描き間違いかと思ったのは、ダイニングキッチンのすみに洋式便器があるもの。ところが現地の写真を見ると、本当に流しの向こうに便器が! 便器を見ながら食事するってどんな気分?
浴室と更衣室の間にダイニングキッチン。脱いだら家族が食事してる横をまっぱで通ってかなきゃならない。「お父さん、また裸で!」
部屋の真ん中に「金」の文字。
:何?
また思い出したら追加して書きます。
飛び加藤 ~幻惑使いの不惑の忍者~
東宝
福岡市民会館(福岡県)
2012/07/10 (火) ~ 2012/07/10 (火)公演終了
満足度★
飛べないアヒル
カーテンコールで出演者の誰かが「こういう純粋なエンタテインメントな作品は最近少なくて」という発言をしていた。エンタテインメントも随分安っぽくなったものである。
脚本は陳腐で矛盾だらけ、役者の演技は質がバラバラで噛み合っておらず、手妻や和琴もドラマに有機的に関わっているとは言い難い。部分部分としては見るべきものもあるが、総合的には雑、としか言いようがないのである。結局、これらの欠点を見過ごした演出の河原雅彦が無能なのである。
ところがネットの感想を散策してみると、これが案外、評判がよい。どういうこっちゃ、とよく読んでみると、「涼風さんがよかった」とか「手妻が素敵だった」とか、まさに部分的なことばかり。だったら「涼風真世ショー」や寄席を観に行けよ、という話にしかならない。"演劇として"作品を観ようとする姿勢が皆無なのだ。
8,000円も払ったんだから、満足した気分に浸りたい気持ちは分からんでもないが、作り手はその料金に見合うだけの内容のものを提供しようなんて誠実さはカケラもないぜ? レストランで腐った料理が出されたら「シェフを呼べ!」ってことになるだろう。なぜ作り手に媚びなきゃならないのか、世間の演劇ファンの(本当にファンなのかどうか怪しいが)「誉めなきゃいけない症候群」もかなり重症だ。
河原雅彦にも『鈍獣』という傑作があるから、つい期待してしまうのだが、前作『時計じかけのオレンジ』のメリハリの無さを想起すべきだったか。目端の利いた観客なら、この脚本家と演出家とキャストではたいした作品にはならないと判断するだろう。それが集客の少なさに如実に表れている。
あえて旬でもない中年俳優を主役にして盛り立てようって企画意図は評価したいが、だったら作品の内容や宣伝戦略を根本から練り直す必要があるだろう。劇団☆新感線の『五右衛門ロック』のような冒険活劇のシリーズ化を狙ったような作りだったが、どうやら続編は難しそうである。
ネタバレBOX
『五右衛門ロック』『薔薇とサムライ』と二作続けてアウトロー・ヒーロー石川五右衛門を演じた古田新太は、「今さらこんな古臭い設定の話が受け入れられるのか、と思っていたら、案外、お客さんが喜んでくれたので、やる気が出た」と発言している。
その通り、時代はいつでも救いのヒーローを求めている。中年ヒーローが活躍するドラマや映画もひっきりなしに作られている。元気のない時代のだからこそ、オジサンが"もう一度"再起する冒険活劇を、という発想は間違ってはいないのだ。
設定が定番過ぎるのも、そのこと自体は問題ではない。と言うより、基本的なアイデアはルーティーンである方がいいのだ。アイデアの組み合わせと展開次第でドラマを盛り上げることがいくらでも可能になる。
『飛び加藤』はアンデルセンの『人魚姫』をモチーフにしたと謳っているが、それは楓(佐津川愛美)視点で見た場合で、加藤段蔵(筧利夫)視点なら、「お姫さまのための自己犠牲」と来れば、これはもう『シラノ・ド・ベルジュラック』であり『ゼンダ城の虜』であり『ルパン三世カリオストロの城』である。真実の恋に気付いた楓が段蔵を看取るシーンなどは『シラノ』そのまんまで、そのあまりに工夫のない堂々としたパクリっぷりは、かえって清々しく感じるほどだ。伊賀忍者・服部与三郎(三上市朗)の追う者と追われる者の関係は、これまた『逃亡者』『カムイ外伝』他枚挙に暇がないし、段蔵に裏切られ、醜い老婆と化し、復讐の念に駆られる桔梗(涼風真世)は、これはもう『四谷怪談』のお岩さんだ。
おかげで筧利夫は一人でシラノとカムイと民谷伊右衛門の役を兼任する羽目になったが、これは詰め込みすぎというもので、おかげで段蔵のキャラが複雑になりすぎて、鬱陶しさが前面に出過ぎて、物語自体を沈鬱なものにしている。筧利夫の演技がまた、つかこうへいの悪影響が残った一本調子の絶叫型だから、段蔵のキャラを全く表現できていない。つか演技はつか戯曲のつか演出でしか成立しないことを、演出の河原雅彦は理解していない。だから筧の臭い小芝居に駄目出しが出来ない。
シラノを演じるには、騎士道精神が必要になる。その本質は男のストイシズムだ。つか演出はそれを真っ向から否定するところから出発している。つまり筧利夫をキャスティングしたこと自体が失敗なのである。
ドラマに殆ど絡まない無駄なキャストが三上市朗の与三郎で、抜け忍となった段蔵を追いつつもその立場に同情し、陰日向に支える。だったらこの男は段蔵亡き後、楓を見守る役割を担わせるために生き残らないと意味がない。ところが中盤で唐突に段蔵に決闘を挑み、命を落とす。わざと斬られたと言うがなぜ? 最後の決闘は普通、ラストで、城から脱出した後でやるものだ。なぜこんなタイミングの間違いをやらかしたかと言うと、ラストでシラノをやりたかったから、そこに対決を入れられなくなったのだ。脚本の蒔田もバカだが、改訂しなかった河原がやっぱりもっと大バカ。
称賛の声が多い桔梗役の涼風真世だが、あれはヅカ演技が浮いているだけである。呪いによって老婆となった怨みを段蔵に抱いている設定だが、妖術で美女にも変身できるようになったのなら、かえって得したんじゃないかと思うが、一度抱いた憎しみはそう簡単には消えないってことだろうから、それはよしとしよう。
理解不能なのは、楓まで坊主憎けりゃ袈裟まで憎しで、その声を奪ったことだ。綺麗な声と優しい心の持ち主はみんな憎いって、そこまで逝っちゃったら誰も桔梗に同情しない。段蔵の自業自得を描くのなら、桔梗を嫌われるキャラにしてはいけないのだ。
これも自分勝手な嫉妬心を持つお伽噺の魔女と、男に翻弄される哀れなお岩という相反するキャラをこきまぜたために生じた失敗だ。
桔梗は死んだと見せかけて、ちゃっかり生き残るが、ならば楓にかけた呪いを解いたのはいつでなぜなのか、これも不明瞭だ。
物語の進行役として、手妻師の鈴川春之助(藤山新太郎)と江戸町奉行・大野久信(俵木藤汰)を配したのも頂けない。要するに舞台で藤山新太郎の芸を見せたいだけだ。だったら語り手なんて役ではなく、段蔵の手妻の師匠とか、物語にちゃんと絡む役で出演させた方がよい。この二人が出てくるたびに、話の流れが中断されて、テンポが狂いまくっていた。
しかし、一番どうしようもなかったのは、クライマックス、段蔵と楓の脱出行だ。
敵に囲まれ、絶体絶命の危機に陥り、段蔵は「取り寄せの箱」を示して、楓に中に入れと言う。「中に入って100数えたら、城の外に出ているって寸法だ」。
しかし楓は段蔵の手妻が全てインチキだととうに知っている。段蔵が単に楓を守り死地に血路を見出だすために、箱の中に入れようとしているのだと気付いている。なのにあっさり箱の中に入るのだ。ちったあ逡巡しろよ、と言いたい。
段蔵は楓の入った箱を背負って敵と戦うが、もちろん本当に楓を中に入れていてはアクションができるはずがない。佐津川愛美は舞台裏にすり抜けているが、おかげで筧利夫が空の箱を背負っているのは丸わかりなのだ。これまでの段蔵の手妻が全てインチキだった以上、ここは観客に「本当に楓を中に入れてる!」 と錯覚させなければ感動は生まれない。せめて箱が空とは分からない程度の重しを入れられなかったものだろうか。
「素敵に騙してよね!」とは、楓が段蔵に言った台詞だ。正しくその通り。下手な手妻では、「何でも誉め屋」の客は騙せても、普通の一般客は騙せないのである。
立川志らく 独演会
福岡音楽文化協会
イムズホール(福岡県)
2012/07/13 (金) ~ 2012/07/13 (金)公演終了
満足度★★★
酒と泪と男と女
『談志・志らくの架空対談 談志降臨?!』(講談社)を上梓したばかり、これで著作は何冊になるかってくらい、志らくの文筆活動は落語家随一だ。今回はもちろん談志の死去に伴って出版されたものだが、他の弟子たちの「追悼本」が、概ね師の回顧録になっているのに対して、"才人"志らくは一風変わっている。師匠の生前、実はそんなに腹を割った会話をしたことがなかったという志らく、師匠ならあのことについてこうも言うか、ああも言うかと、勝手に想像して一冊をでっち上げたのだ。
「死人に口なし」で自分に都合のいいことを書き放題なわけだから、師匠への冒涜、不遜な行為だと捉える人もいるだろう。しかしそれこそが志らくの眼目なのである。
不世出の落語家である立川談志を超えられる存在などあるはずがない。あるとすれば、それは"談志の幽霊"にでも出てきてもらうしかし方がない。志らくは談志を地獄の釜から召喚したのだ。これは「憑依」である。それができるくらいに自分は「談志を知っている」という自負の表れでもある。
志らくは高座で談志の形態模写を披露した。似ていた。単に声や仕草が似ていたということではない。いかにも談志が言いそうなことを志らくは言った。客席で一瞬息を呑んだ観客が大勢いたことを私は確認した。これほどのそっくりぶりを見せてくれた例を他に挙げよと言われれば、私はタモリの寺山修司のモノマネくらいしか思い浮かばない。
これほどの至芸を観られたのだから、充分満足で、あとの落語は付け足しのようなものであった。
と書くと志らく師匠に失礼だが、落語がそこまでの出来ではなかったのは本当だから仕方がない。
ネタバレBOX
【演目】
前座『転宅』(立川らく次)
『親子酒』(立川志らく)
仲入り
『子別れ』(立川志らく)
『転宅』
大雨で電車が遅延し、10分ほど遅刻、後半しか聴けなかったが、泥棒が義太夫の師匠にまんまと煙に巻かれる噺で、普通に演じて普通に笑えるもの。らく次は特にそつなく演っていた。
『親子酒』
マクラは殆ど談志のエピソード。
大雨で遅刻者が私の他にもいて、客席がチラホラ空いている。「東京では満席なのに空席があると、ヤフオクに出されてるんです」と言って談志の話に移る。「ヤフオク? なんだそりゃ、ダフ屋じゃねえか!」
ある時、チケットに八万円の値が付いたことを知った談志、高座に上がるなり、客席に向かって怒鳴って言った。
「この中に八万円出して来てるやつがいる! 落語なんてものぁな、八万も出して聴くもンじゃねェンだ。タダでもいいんだ。頭に来たから、今日は八万出したやつが損したって悔しがるような酷い噺をやる!」と言って、本当に酷い噺をしたそうな。
「他のお客さんこそ、いい迷惑で」とは正にその通り。しかし、そんな風に客としょっちゅう喧嘩していたのが談志の持ち味だったと、志らくはしみじみと語る。
他には、師匠が病室で弟子たちに遺した最後の言葉が「オ○ンコ」だったとか(志らくは遅れて来たので一人だけ別の言葉を貰えて嬉しかったとか。「ドアを閉めろ」だそうだが)、談志話だけでおよそ30分。マクラの長い落語家も少なくないが、これは格別だった。
お互いに禁酒の誓いを立てた父親と息子が、結局は二人とも呑んだくれてしまう噺。
親父が何だかんだと女房を丸め込んで酒を注がせるのをいかに自然に見せるか。これはかなり難しく、たいていの落語家は不自然さを誤魔化すために、女房の反応を描写しなくなる。志らくも同様。親父と息子の演じ分けもあまり巧くない。
『子別れ』
人情噺の大ネタで、これもかなり難しい。笑わせるのがではなく、泣かせるのが、である。談志は昔はこの噺をバカにしていたそうだが、どういう心境の変化か、晩年はよく演じるようになったそうである。
若いころはバカにしていた、というのはポーズだろう。「落語は人間の業を描くもの」、と生前語っていた談志である。熊五郎の放蕩と改心に「業」を見出ださないはずはない。談志をして、若き日には演じることを躊躇わせた難しさ、それが『子別れ』にはある。
熊五郎は勝手な男だ。吉原で散々遊んで帰って来て、女房に馴染みの遊女とのやり取りの一部始終を自慢げに語るような男である。女房もついに愛想を尽かして、息子の亀坊を連れて出ていってしまう。これ幸いと、遊女を身請けして新しい女房にするが、これが酷い女で、所帯を持った途端に我儘放題、挙げ句に男を作って逃げてしまった。すっかり懲りた熊五郎、真面目に働くようになって2年の月日が経つ。ひょんなことから前の女房と亀坊に再会したが……。
放蕩時代の熊五郎、これはまあ何とかならないでもない。女房をないがしろにする身勝手さ、その癖、女房が我慢してくれると思い込む甘えた根性、大なり小なり、男にはそういう部分がある。
難しいのは「改心」する描写だ。『芝浜』もそうだが、男の改心を説得力をもって演じることのできる落語家は滅多にいない。なぜなら、本心から改心する男など、現実には存在しないからだ。
『子別れ』も『芝浜』も、後半はファンタジーなのである。ファンタジーに現実感を持たせるためには、どれだけの技量が必要となるか。再会したがそこに「業」を感じさせ、客の泪を誘うにはどれだけ研鑽を積めばよいか。
志らくはまだ「型」をなぞるのが精一杯である。客は誰一人泣いてはいなかった。
志らくに『子別れ』は、そして恐らくは『芝浜』も、「早すぎた」ということなのだろう。
【福岡公演間近!9月末は鳥の演劇祭!】アルルカン(再び)天狗に出会う
ディディエ・ガラス×NPO劇研
ぽんプラザホール(福岡県)
2012/07/14 (土) ~ 2012/07/15 (日)公演終了
満足度★★★★
ガラスの仮面
「仮面劇」とは人間の多重性を象徴化した演劇である。
観客は仮面がその人物のペルソナの一つに過ぎず、その後ろには「真実の顔」があることを知っている。しかし、劇を観ている間は、その仮面こそが「真実の顔」であると「見立て」て、全く別の顔が隠れているとは、あえて考えないようにしている。
だから「仮面劇」において「面を外す」ことは本来は絶対の禁忌である。いったん、その仮面を被れば、俳優はその人物になりきらなければならない。天女の面を被れば天女に、魔物の面を被れば魔物にならねばならない理屈だ。その時、仮面のペルソナが人間の肉体に憑依する、それが「演技」の本質だ。
その「憑依」経験が度重なった時、俳優の心に奇妙な心理が働く。「自分がこの面の人物を演じているのか、それともこの面が自分を演じさせているのか」という思いだ。
故マルセル・マルソーは、代表作『仮面』において、そんな俳優の逡巡を具象化してみせた。゛仮面が顔から離れなくなった男゛の物語である。日本の「肉付き面」の伝承を想起させるが、根底にある思想は共通している。男は面の「魔」に魅入られたのだ。
これはマルソーによる「演劇論」であったと言ってよい。優れた舞台は、それ自体が一つの俳優論なり演劇論になる。
ディディエ・ガラスは当然、マルソーを意識していただろうし、日本の能にも通暁しているので、「肉付き面」の逸話も知っていただろう。自らの「仮面劇」を創作するに当たって、マルソーとは全く逆のアプローチを行った。
その結果、浮かび上がったことは、「人間は誰でもない」という冷徹な真実である。仮面の下にあるものが「見えない」のであれば、どうしてそれが存在していると断定しえるだろうか。存在していると同時に存在していない、「シュレジンガーの猫」のようなものとしてガラスは人間を捉える。
これもまた演劇が表現しようとしているものは何かというガラスによる「演劇論」であり、その問い掛けに答えなければならないのは我々観客なのだ。自分が本物か、それとも足下の「影」の方が本物なのか。ポーの『ウィリアム・ウィルソン』のごとき難問に答える術は、我々にはないのかもしれない。
ネタバレBOX
アルルカンの仮面は黒い。
それは彼がアダムとイブを惑わした張本人の末裔であることを示している。
「お前たちは俺のことを道化だと思っているだろう? そうじゃない! 俺はアルルカンだ!」
箒を使ったマイムで、ひとしきりクラウンを演じた後で、黒仮面のガラスはたどたどしい日本語でそう叫ぶ。
確かにその通りだ。黒い仮面は道化には全く相応しくない。アルルカンがどんなに滑稽な仕草を見せても、客席からたいした笑いが起きなかったのは、仮面が象徴している「闇」が笑いを疎外していたからだ。
初めはなぜこんな「不似合い」な仮面を着けているのかと訝しく思ったがそうではなかった。アルルカンはアイデンティティー・クライシスを起こしていたのである。
本来のアルルカン=アルレッキーノ=ハーレクィンは「魔」である。人の心の安寧を乱し、物語を混沌へと導くトリックスターである。演劇の歴史の中で、いつの間にか身に纏った闇の意味を忘れた自分に苛立ち、「本当の自分」を取り戻そうとする、それがガラスが造形したアルルカンなのだ。
アルルカンは黒い仮面を剥ぐ。しかしその下にはまだ「肉色の仮面」がある。アルルカンはまだ気付いてはいないかもしれない、しかし観客には一目瞭然だ。アルルカンは゛まだ本当の自分゛を取り戻してはいないのだ。
アルルカンはたくさんの面を被り、そしてそれを次々に剥いでいく。しかし「本当の顔」はどこにもない。次第に狂気に駆られていくアルルカン。そして彼は「もう一人の自分」に出会うのだ。やはり同じ「魔」である「天狗」に。
最初にこの芝居のタイトルを見たときに気になっていたのは、アルルカンがどのように天狗に会うのか、一人芝居でそれをどう表現するのかということだった。簡単なことである。そこには「一人」しかいないのだから、天狗はアルルカンのもう一つのペルソナであったのだ。面を被り「天狗」となったアルルカンは、歩みもまた能のごとく「地擦り」でゆるりゆるりと参る。「動」のアルルカンに対して「静」の天狗であるが、彼を中心に円陣を組むように配置された仮面の数々が(中にはヴェンデッタの面もある)、「真実」を物語っている。
「天狗」もまた憑依された「仮の顔」に過ぎないことを。「真の顔」などどこにもないことを。「彼」はアルルカンですらなく、何者でもないことを。
「彼」は観客に語りかける。フランス語で、イタリア語で、スペイン語で、中国語で。日本人である私たちには当然、通じない。「彼」は焦るがどうしようもない。
ようやく日本語で観客に問い掛ける。「今、何時ですか?」
時間を確認して、「彼」は呟く。「おしまいです」。
肉色の仮面も取り、「彼」はディディエ・ガラス本人に戻る。そして先ほどまでとはうってかわった穏やかな口調で、子供の頃の思い出話を母国語のフランス語で語り始める(バックに日本語字幕)。
それはガラス氏の父親が体験した不思議な話だった。ある日、山に登った父親は、霧の中を向こうからこちらに向かって歩いてくる男がいることに気がつく。
誰だろうと目を凝らした父親が見たその顔は。
自分そっくりの男だった。
ガラス氏が語ったのはそこまでである。そのあと、父親とその男がどさうなったか、何も言わないままガラス氏は退場してしまったので結末は分からない。しかし我々は、ポーの『ウィリアム・ウィルソン』で自分そっくりの男に出会った男がどうなったか知っている。ドッペルゲンガーに出会った人間がどうなるかという伝承を。
「演劇」に関わる人間がどれだけ自覚していることだろうか。数多くの仮面を被り続けることの危険さを、その恐怖を。そして我々一般人も果たして自覚しているのだろうか、自らのアイデンティティーなどは妄想に過ぎないことを。
ドッペルゲンガーは私たちの中にある。そして自分が何者でもないという絶望から立ち直ることは、人間には決して容易なことではない。しかし「自分が自分である」 ことに固着すればするほど、ドッペルゲンガーの絶望の陥穽は、その穴の入口を大きく開けて、我々を呑み込むのである。
スプラウト~小さな種のお話~
北九州芸術劇場
J:COM北九州芸術劇場 小劇場(福岡県)
2012/07/21 (土) ~ 2012/07/21 (土)公演終了
満足度★★★
児童演劇のあり方について
ロシアのサラトフユースシアターによる児童劇。「スプラウト」とは「種」を意味するロシア語で、一粒の種を人と自然が協力して育てていく過程を象徴的に描いている。
この劇団が「国立」だという事実にまず羨望を覚えた。あちらの子供たちは定期的にハイレベルな芝居を観て育つんだろうなあ、チェーホフの、スタニスラフスキーの国だけはあるなあという羨ましさである。
もっとも、「子供のための演劇とは何か」という問題を考えた時に、どうしても「教育的効果」を優先して、「演劇としての面白さ」に欠ける面が生じていたことは否めない。具体的には「笑い」の要素の少なさだ。俳優たちの演技は洗練された上質のものではあったが、観客の子供たちの中から、ついに「笑い」が起きることはなかった。
子供向けの演劇に笑いを必ず盛り込まなければならないという決まりはないし、この劇団が笑いを全く否定しているわけでもないとも思う。しかし、「この芝居はもっと笑いの要素を付加した方が、テーマもより明確になるし面白くなる」ことは確かだ。
そもそもロシア文学は、そのユーモアによって世界の文学を牽引してきた事実がある。『イワンのばか』のトルストイ然り、チェーホフもゴーゴリも見ようによっては全作がコメディであるし、あの辛気臭いドストエフスキーの作品にすら『罪と罰』のマルメラードフのような喜劇的な人物が登場する。
40数年前、わが国の長編アニメ『長靴をはいた猫』(脚本:井上ひさし・山元護久/監督:矢吹公郎/作画・森やすじ/宮崎駿)に、゛その類い稀なるユーモアによって゛、「子供のための最優秀アニメーション賞」を授賞したのはモスクワ映画祭だった。
生命への賛歌を訴えることはもちろん悪いことではない。しかし、その「教条主義」が、つい子供の大好きなギャグやナンセンスを排除する結果になったとすれば、いささか残念なことである。
小劇場での公演だったが観客は40人くらいか、後部二列はガランと空いていた。「スプラウト」という原題通りのタイトルも作品の内容をストレートには伝えてはおらず、集客を疎外していたように思う。
ネタバレBOX
「児童文学に笑いは必要か」という問い掛けについては、何を今さら、と仰る向きもあるかも知れない。世界的な動向を見れば、文学、映画、演劇を問わず、児童向けの作品はユーモアとギャグに満ちあふれている。ギャグのないディズニーアニメーションなど、想像できるだろうか。
しかし、かつて一時期、おそらくは意図的なのであろう、わが国は、児童向けの作品から「笑い」の要素を極力排除しようとしていたのである。
マルクス主義は決して「笑い」を否定するものではなかったが、それに「かぶれた」人々は、実作の中で「反権力闘争」を描いていた。ロシアのギャグが何一つないアニメ『雪の女王』に魅せられた高畑勲、宮崎駿は『太陽の王子ホルスの大冒険』を作ったが、そのアニメーションとしての技術の優秀さを賞賛されながらも、そのあまりの笑いの要素の少なさに、評論家・荻昌宏に苦言を呈されることになった。興行収入は東映動画始まって以来の不入りとなった。
日本の児童文学者たちが、戦後一斉に共産党に入党したのは周知の事実である。その時期、山中恒は『赤毛のポチ』など、いかにも思想的な小説を書いていたが、やがてそんな小説は「子供の心に届かない」と気付き、『おれがあいつであいつがおれで』や『あばれはっちゃく』のような「児童読物」の世界に移行した。
児童文学に笑いを入れなければならないという法則はない。しかし笑いを無視すれば子供たちはそっぽを向く。子供に媚を売れと言いたいわけではない。大人の惑を子供に押し付けても、それは独り善がりに過ぎないということなのだ。
演劇の場合、笑いの要素は特に重要になる。大人の俳優は、子供にとっては「生身の巨人」なのだ。四、五歳くらいまでの子供を相手に芝居をしようと思うなら、自分がそこにいるだけで「恐怖の対象」になることを自覚しなければならない。
サラトフユースシアターの俳優たちが、子供たちの目線にまで下がって演技をしていることには好感が持てるし、種を育てる四大元素が(地水火風)が擬人化されながらも抽象的でそれと分かりにくいのも、「あれは何?」と子供が自ら考えることを促すための意図的な試みだろうと好意的に解釈することもできる。
しかしブレイクダンス風の踊りを取り入れたりするのは、「表現が目的に先行している」のではないか。また地水火風が擬人化されているのに、肝心の「花」が擬人化されないのはなぜなのか。
ひとつひとつの演技は優れているのに物足りなさを覚えないではいられない舞台だった。
観劇後は、子供たちと俳優たちとの交流会あり。好きなキャラクターの絵を子供たちに描かせていたが、そんなにキャラ立ちしていた人物もいなかったから、子供たちも苦労していたことだろう。
カミサマの恋
劇団民藝
ももちパレス(福岡県)
2012/07/24 (火) ~ 2012/07/31 (火)公演終了
満足度★★★★
“けっぱる”東北の神武たち
奈良岡朋子の津軽弁芝居を堪能できる舞台。
何のこっちゃと思われる方もあろうが、「方言芝居」で成功している例は決して多くはないのだ。コトバはもちろんイキモノであるのだが、地方の土俗と密接に絡んでいる方言は、たとえその地方出身の俳優の発声であっても、文化に対する深い理解がなければ、演技として昇華されたものにはならない。その巧拙は、喋りが自然であるかわざとらしい部分がないか、他地方の人間が観てもそれと気付くものなのだ。
奈良岡朋子は東北出身の俳優ではない。しかし父君(洋画家・奈良岡正夫)が津軽出身で、戦時中、弘前に疎開した経験がある。慣れぬ田舎暮らしに馴染むため、彼女は必死で弘前弁を習得した。それが今回の舞台に生かされている。
大滝秀治が舞台に立つことが困難になっている近年の劇団民藝は、奈良岡朋子一人で持っている印象がある。中堅どころに実力がないわけではないから、奈良岡朋子一人が突出していると言った方がよいだろうか。その結果、奈良岡朋子が袖に引っ込んだ時には、「舞台が持たない」状況も生まれてしまうこともしばしばであった。勢い、外部から奈良岡に拮抗しうる役者を招聘するしか手はなかったわけだが、彼女も既に82歳。後継が育たなければ、いずれ民藝は、屋台骨が倒壊する危険に晒される。
畑澤聖悟に戯曲を依頼したのは、作品の面からも「新しい血」を注ぐ必要があるとの判断ゆえだろう。青森を拠点とし、地方と伝統文化を見直しつつ、中央に打って出る畑澤氏の姿勢は、「演劇の温故知新」と呼ぶに相応しい。
今回の舞台で驚いたのは、「カミサマ」という超自然的な存在が、東北の日常に何の違和感もなく存在していることだった。誰も「カミサマなんてインチキだ」とは言わない。信仰と言うよりは習俗である。
「神降ろし」を行う道子(奈良岡朋子)は、「カミサマ」を媒介して相談者にアドバイスを与えるが、新興宗教のような金儲けに走るわけではない。その役割は町のカウンセラーであり、鋭い人間観察力がなければ、到底やりおおせるものではない。
津軽のその町に、「カミサマ」を中心とした小さなコミュニティが作られていることはその通りなのだが、これは閉鎖的なムラ社会とは根本的に性格を異にしている。「カミサマ」はその地の人々にとっては「故郷」の象徴である。日ごろは遠きにありて思うもの、つまりは非日常であるが、いったんそこに帰れば懐かしき我が家であり、心を休めることが出来る。そして、相談者は再び「日常」という名の「戦場」に戻っていく。
彼らに道子がかける「けっぱれ」という津軽弁。これを「頑張れ」と直訳しても、そのニュアンスは決して伝わらない。「頑張れ」はともすれば無責任な放言となり、相手にプレッシャーを与えるだけの暴言ともなる。しかし奈良岡朋子は、この言葉を相手の「魂」に向けて問い掛けている。相手が「けっぱれる」ことを信じている。そしてその判断は間違ってはいない。
だから観客もまた舞台から「力」をもらえる。劇場という非日常の空間から、「現実」へ立ち戻るための力をである。
津軽弁でなければ成立しない舞台、それがこの『カミサマの恋』なのだ。
ネタバレBOX
「カミサマ」遠藤道子の下へ相談にやってくる人々による群像劇。
小さな悩み相談事はいくつもあるが、大きなものは三つ、一つは工藤家の嫁姑問題、久米田家の離婚問題、そして道子自身の家族の問題である。
「カミサマ」が実在しないことは、物語の途中で観客には見当が付くようになっている。全ては道子による「演技」なのだ。神託のように見せかけてはいるが、道子は相談者たちの状況を詳しく聞き出し、人間関係を掴み、問題解決の糸口を探っている。そして最も適切なアドバイスを与える。それが“外れない”から、相談者たちは「カミサマの言うことに間違いがない」と納得する。たまにアドバイスに失敗することもあるが、その時は相談者は「自分が悪い」と言って、決して道子を責めようとはしない。道子はいつだって真摯だ。その誠実さが「カミサマ」を「カミサマ」たらしめている最大の根拠となっているのだ。
時には、道子はいかにも「カミサマ」風に大仰な「演技」もしてみせる。
工藤家の嫁姑の問題については、だらしない婿に「蛇が憑いている」と言って、嫁姑を慌てさせ、仲違いを中断させてしまう。そして婿には「二人の話をただ聞いてやりなさい」と、それだけで問題が解決することを示唆してみせる。
いくら東北とは言え、蛇憑きだの狐憑きだの狸憑きだのを信じる人間がこうもたくさんいるものなのだろうか、と疑問には思うが、非現実から現実へと回帰する道子=奈良岡朋子の真摯な演技が、最終的にはこのわざとらしい小芝居にも説得力を与えることになっている。
久米田家の問題はいささか厄介だ。
娘を死産した玲子(飯野遠)は、夫との仲を修復できず、テレビで紹介されていた道子の下に弟子入りを懇願する。既に弟子が一人いる道子はこれを拒むが、思い込みが激しいタイプの玲子は頑として帰ろうとはしない。
そこで道子は、ある条件を出して、彼女を家に住み込ませることになるが、ここから問題は道子自身の家族とも深く関わっていくことになる。
道子の養子・銀治郎(千葉茂則)は、病気で余命わずかの宣告を受けていた。死別した妻との再会を望む彼は、治療を受けないことを「カミサマ」に告白する。“本当はカミサマではない”道子は、その事実を知り狼狽する。そして、玲子に頼むのだ。「死んだ嫁の“生まれ変わり”を演じてくれ」と。
玲子のウソを信じた銀治郎は、妻に再会できたことを喜び、治療も受けるようになる。しかし玲子は、自身の思い込みの激しさゆえに、“本当に自分が銀治郎の妻の生まれ変わりである”と信じ込むようになる。さらには、玲子の夫が、玲子を連れ戻しに現れて、道子の計画は次第に崩壊していく。
道子は、所詮は人間である。「カミサマ」にはなれない。彼女の浅知恵が、かえって銀治郎の心を傷つけることにもなった。「カミサマの声を聴く」という行為が、全ての人の心を救えるわけではない、と熟知しているのは、道子自身なのだ。それでも道子は、「カミサマ」に頼ることでしか生きられない人々がいることもまた知っている。
彼女が弟子を取りたがらない理由はここにあるのだろう。この二律背反の矛盾の中で生きていくことは、いかに「けっぱる」道子とても、安らぐ間のない過酷なことなのだ。
最終的に、道子は「人間としての言葉」を銀治郎に投げかけて、彼の自暴自棄をたしなめる。「死ぬな」という「母」の言葉に、放蕩の限りを尽くしてきた銀治郎は、ようやく「家族」を意識して、死の淵から立ち直る。彼を救ったのはまさしく「人間」なのだが、ついさっきまで神託を無邪気に信じていた体の銀治郎が、簡単に「人間の側」に戻っていけたのは、彼もまた“自分をあえて騙していた”ことの証左である。
人間は、自分に都合のいいことだけを信じる。その心理が「カミサマ」に実効を与えていたのだ。それが巧く行ったケースが工藤家の場合で、虚は実となった。そうは問屋が卸さなかったのが道子たちの場合で、虚は結局は虚でしかなかった。
「信じること」が全て正しいわけではない。「信じたこと」に裏切られる場合もある。「こんな自分にでも、何かできることがあるなら」、それが道子が生きていた原動力であるが、それもまた「思い上がり」であることを、「現実」は彼女に冷徹に示してきたのである。
ラストの意外な展開は、苦悩の人生を送ってきた道子への「救い」であるが、作劇的には蛇足と見なす批評氏もいるだろう。
和解した道子と銀治郎だが、突然、銀治郎に、死んだ道子の夫が憑依する。道子を残して早世したことを侘び、息子を立派に育てた道子に感謝し、「けっぱって」生きてきた彼女を慰労する。
単純に考えれば、「カミサマ」なんていないのだから、これは銀治郎の演技だ。しかし二人だけの過去を知っているのだから、これだけは真実の「神降ろし」なのかもしれない。どちらとも取れるように、というのが畑澤聖悟の意図だろう。しかし演者の千葉茂則の演技が「どっちつかず」だったために、「どちらともとれない」中途半端な印象のラストになってしまった。
その演技のまずさを置いておくとしても、このタイミングで道子に「救い」を与えるというのは戯曲の時点で既に安易な方法であったように思う。奇跡はそう簡単に起こらない。仮に奇跡が起きたとしても、それは「人間の努力が起こしてこそ」価値があることなのではないか。
「奇跡」がなくとも、道子は充分に価値ある生き方をしてきたのだ。安手のドラマにありがちな結末を付けることは、かえって道子の人生をないがしろにすることになっているように見える。
畑澤聖悟の創作力がある一定のレベルに達していることは確認できたが、情熱が勝るあまり、まだまだ自作に抑制を利かせる域には達していない。奈良岡朋子に助けられていなければ、かなりつまらない印象で終わっていただろう。今後はもう「思い上がった」戯曲は書かないよう、願うばかりである。
イッセー尾形のこれからの生活2012 in 小倉
森田オフィス/イッセー尾形・ら(株)
J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)
2012/07/28 (土) ~ 2012/07/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
さようなら、そしていつかまた
「小倉には、三、四歳のころ住んでました」
アフタートークで、開口一番、イッセー尾形はそう語った。
父親が転勤族だったため、福岡を「故郷」と感じることはあまりない、と著書『正解ご無用』に書いている。
「子供の頃は、坂道を、電車を追いかけるのが好きでした。電車の『匂い』が好きで。そんな小倉に、こうして戻ってきて舞台に立っているのが何とも感慨深くて」
故郷とは思えなくても、「何か懐かしい空気」を感じているのだろうか。「休眠」前の舞台で、イッセー尾形は恐らく初めてではないかと思われる「博多のサラリーマン」を演じた。それが故郷への「恩返し」のつもりなのかどうか、それはよく分からない。「恩」とか「義理」とか「絆」とか、そんなものは「しがらみ」程度にしかイッセー氏は考えていないようにも見える。しかし、「受け手」である観客は、確かにあの傲岸不遜な「博多んもん」の活写に、逆説的な「愛」を感じるのである。
イッセー尾形の一人芝居に、最初に「感服」したのは、もう20年も前のことだ(「お笑いスター誕生」に出演していた頃にも観ていたはずだが記憶にない)。満員電車で姿勢を変えることができずに身体を歪めたまま固まってしまったサラリーマンのスケッチで、その身体表現に舌を巻いた。
日本において一世を風靡したスタンダップコメディアンと言えば、古くはトニー谷、そしてタモリの二人を挙げることが出来るが、小林信彦は『日本の喜劇人』の中で、この二人に共通する欠点として、「腰から下の弱さ」を挙げている。彼らに限らず、日本の「ピン芸人」と称する喜劇人たちは、概して自身の身体性に無頓着である。
イッセー尾形の身体のバランスのよさは、同時代の喜劇人たちと比べて突出していた。特に「腰から下」が強かった。演出家の森田雄三と知り合ったのが建設作業の現場だということだから、そこで鍛えられたものだろう。
もちろん、それだけでイッセー尾形の芸の真髄を語れるわけではない。これもまた稀有と言うべき彼の人間観察眼によって捉えられた、フツーだがちょっとヘンな人々の姿が、その身体を媒介として再現される時、「現代日本」の様相が象徴的に浮かび上がる。その点が、イッセー尾形の一人芝居を、他の一人芝居と隔絶した孤高なものにしてきたのだ。
イッセー尾形の一人芝居は、観客を大いに笑わせつつ、明確な批評性を持っている。休眠後、映像を通しての活動は続けていくとしても、舞台に復帰するかどうかは未定だ。あの300を超えるという一癖も二癖もあるキャラクターたちと会えなくなると言うのは何とも寂しい。ゆっくり休養していただきたいと思う反面、早期の舞台復帰を望むのはワガママに過ぎるだろうか。
九州では、あと8月3日から3日間、福岡天神のイムズホールで公演予定。小倉とはまたネタを変えるそうである。
ネタバレBOX
親戚の結婚式帰りの男。しかしこれから彼が行く先は別の親戚の葬式。つい飲み過ぎてしまったので、酔っぱらったまま喪主の夫人に挨拶する。新婚夫婦も付いて来ているが、喪主にどう挨拶していいか分からない。夫人も「こんな時に死んで・・・…」とひたすら頭を下げる。
映画『お日柄もよくご愁傷様』と共通したアイデアだが、わずか10分程度に凝縮されたスケッチは、観客の笑いを連続して引き出し、休む間を与えない。今回の公演は、どのスケッチも、ともかく「ギャグの多さ」によって支えられている点が特徴的だ。
多少の「ダレ場」があった方が、観客は一息つけるものだが、それは着替えの幕間で充分と判断したのか、今回は爆笑ギャグのつるべ打ち。
遺体を見ながら、男が新婚夫婦に向かって「こいつもこんなにニコニコお前たちを祝福して」とTPOがどんどんわやくちゃになっていくのには抱腹絶倒だが、ここには「とっさの時ほど人は頓珍漢なことをする」という演出家森田雄三の意地悪な人間観察眼がある。
休憩中のОL。バドミントンのラケットを持っているが、特に遊ぶ気配もなく、ウワサ話に興じる。
「目の前に見えるものについて語る」のは、森田雄三演出の特徴。OLから“少し離れて声が届かない距離”にいる同僚たちは、井戸端会議の格好のネタとなる。
この“距離“を利用したスケッチは数多いが、そのいずれもが傑作となるのは、我々もまた、“最も想像を働かせられる他人との距離”を有しているからに他ならない。今ここにいない人間の噂話や陰口は「罪悪感」を産むが、人間の心理とは不思議なもので、“もしかしたら本人に聞こえしまうかもしれない微妙な距離”にいる相手の話題は、その罪悪感が薄れる傾向にある。Twitterで、本人に見られるかも知れない悪口を気軽に書けてしまう人が多いのも、この心理の表れである。
あまりにも自然な演技なので、明確に語られることが少ないが、この「近くにいる人の噂話」シリーズは、余人にはそうそう真似のできない、イッセー尾形をイッセー尾形たらしめている最大の「武器」であり、最も先鋭化された「演劇」の表現形式の一つなのだ。
博多から東京の大手町にやってきたサラリーマン。
道に迷った同僚を待っているが、その間ずっと東京の悪口など。「東京モンは二枚舌たい」のギャグは、こちらでは大受けだったが、東京では「シーン」だったそうだ(笑)。
福岡出身ではあるが、イッセー尾形は博多弁は不得意だ。しかし「とっとーと」などのカリカチュアされた「わざとらしい博多弁」を駆使し、東京に対抗する無意識があえて行わせているものとして表現することによって、その違和感を払拭している。
同僚は小倉出身という設定で、道に迷っているのを「小倉の田舎もんが」と罵倒して、それが小倉で大受けしているのだから、自虐ギャグを楽しむ素養は、博多人、小倉人の方が東京人より持っているのではないのかと思わされた。
ポーカーをしている中年の女、負けが込んではいるが、相手たちへの口調は馴れ馴れしく横柄。実はあとで正体は保険屋であることが分かる。既に契約はすましているらしく、カモられていた相手を本当はカモっていたという意外な展開、しかも「次の犠牲者」も女は虎視眈々と狙っていた。
女の「武器」は「誘導尋問」である。しかもこれが高度なのは、女は決しておべんちゃら、追従などは言わないところだ。世辞には引っかからないぞと構える相手に、それと気付かせず、ポーカーに「負けてやっている」のである。
イッセー尾形は熱心な読書家であるが、ミステリーも数多く読んでいるのであろう。最初から犯人が割れていて、探偵が追い詰めていく過程を描く形式を「倒叙型」と呼ぶが、相手を契約に誘導するやり口は、倒叙ミステリーの探偵たち、『罪と罰』のポルフィーリィ判事や、刑事コロンボと同質のものである。
ミステリファンにとっても、イッセー尾形は胸を躍らせられる存在なのだ。
部長宅を訪問したサラリーマン、一転して「お世辞ばかり」のヘコヘコサラリーマンを演じるそのギャップが楽しい。もちろん落語の『牛ほめ』『子ほめ』同様、誉めなくてもいいものまで誉めるから、どんどん苦しくなる。「廊下がこんなに真っ直ぐで」って、家が広いと言いたいんだろうが、ちょっと表現を間違えると、何を誉めているのかわけが分からなくなる。
そのおかしさを弥増しているのが、妙に冷静な部下の山田。男が何か失敗する度に何やら突っ込んでいるらしいが、男が激怒するとすぐに部長に窘められる。ちょうどこの立ち位置は、映画「社長」シリーズの森繁久彌社長と、三木のり平、小林桂樹3人の関係に比定できる。
部長は見え透いたお追従を連発する男に嫌気がさしてきたらしく、だんだん無理難題を男に押しつけて、手品をやるから宙に浮け、なんて命令するのだが、真に受けた男が懸命に浮こうとするのがおかしい。完全に森繁・のり平の関係の再現である。
「社長」シリーズのようなサラリーマン喜劇はとんと作られなくなってしまって、舞台でも三宅裕司が「伊東四朗一座」で軽演劇の復活を試みているが、イッセー尾形はずっと一人で、伝統を継承していたのである。
かなりボケが進行しているらしい爺さんが、夏休みで田舎に来ている孫たちに、薪割りなどを見せてやる。でもどちらかというと、孫が爺さんを思いやって、つきあってあげている感じの方が強い。別れの時間が来て、もう一度薪割りが見たいとせがむ孫。車が見えなくなるまではと薪割りを続ける爺さん。おかしいが、なぜか胸にジンときて涙がホロリと流れる一幕である。
「ミミズ踏んだら霧に巻かれっぞ」という「迷信」に爺さん自身が捕えられていくラストはシュールですらある。
ウクレレを持った歌手、なんと今年で100歳。豪華客船のディナーショーに呼ばれてステージに立っている模様だが、声もガラガラで、とても歌がこなせそうにない。
ところが、歌い始めた途端に、その声は観客を感嘆させる美声に変わる。歌詞もかなりいい加減で「アロエ、アロハオエ~♪」なんて調子だ。
イッセー尾形の公演の掉尾を飾るのは、必ず歌ネタだが、歌手は毎回、シャンソン歌手だったりクラシック歌手だったり吟遊詩人だったり千変万化。なのに歌い方は「今日はいつもと違って」と「イッセー尾形の歌」になる。
この歌が聴けるだけでも、毎回の公演に足繁く通う価値があるのだ。
最後の博多公演は都合で観られないので、誰かレポートをアップしてくれないものかと思うのだが、期待するだけ無理だろうな。
福岡の演劇ファンは、日ごろ、何を観ているのかと、嫌言の一つも言いたくなるというものである。
ハンドダウンキッチン
パルコ・プロデュース
福岡市民会館(福岡県)
2012/06/05 (火) ~ 2012/06/05 (火)公演終了
満足度★★★
我々は夢と同じものでできている
あるレストランの厨房を舞台にしているが、これはいわゆる「バックステージもの」の変形である。
華やかな舞台、スターやアイドルが煌めき、絢爛たるロマンやサスペンスが繰り広げられるその裏で、スタッフたちの地味な姿、現実の愛憎が描かれる様は、演劇が生み出す虚実皮膜の境を冷徹に表出する。「バックステージもの」が表現しようとするものは言わば「演劇とは何か」という本質論である。なぜ我々は、演劇という「虚構」を生み出さなければならなかったのか、という問題提起だとも言える。
もちろん、舞台上で展開されるストーリーは純粋なエンタテインメントであるが、この舞台の面白さを支えている本質が「我々は自らの作り出した虚構の中にしか生きられない」という認識論に基づいていることを指摘しておきたいのだ。
レストランのホールという表の世界は、実は裏のスタッフたちが創り出したウソの世界である。しかし物語はそれだけに留まらない。彼らが裏の世界で語る言葉もまた、その裏にまた別の「真実」を孕んでいる。即ちこれは、表と裏の二重構造の物語ではなく、表と裏とそのまた裏の、ウソを吐く人間の本質もまたウソに塗れているという、三重構造のドラマになっているのだ。
我々が虚構を求めるのは、あるいは虚構に救われようとするのは、真実があまりにも我々の「夢」を裏切っているという、現実の不条理に根ざしている。現実を認識することくらい、辛いことはないのだ。これは「人はなぜ騙されるのか」という心の問題とも密接に関わっているが、我々は悲惨な現実に打ちひしがれて、それでもなお生きていこうとするなら、虚構にすがらざるを得なくなるということなのだ。一見、現実のように見えるそれが、実は見え透いたウソだと見当が付いても、それを認めるのが辛い時、人は自己暗示を掛けてウソをホントウだと信じようとしてしまう。
我々の虚構への射幸性を「夢だっていいじゃない」という言葉で表すことがある。しかし作・演出の蓬莱竜太は、そんな「甘え」を許さない。演出としては極めてリアルで、幻想的なシーンが数カ所挟まれるくらいである。数日間の出来事を描いているので、場面転換も少ない。外連味には乏しいが、演劇の基本に忠実な極めて実直な演出だと言える。
だからこそ、ホールの「真実」が次々に暴かれていく展開には容赦がない。そこで観客もまた、冷徹な現実を突きつけられるのである。「あなたもまた、誰かの夢の中にいる虚構の存在ではないのか」と。夢から醒めた方がいいのか、醒めない方がいいのか。登場人物たちの行く末に答えがないように、我々にも具体的な答えは与えられない。虚構と現実のせめぎ合いの物語は、こうして我々に投げ渡されたのであった。
ネタバレBOX
蓬莱竜太の舞台は、所属する劇団モダンスイマーズのものは多分、観たことがない。記憶に残っているのは『世界の中心で、愛をさけぶ』や『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』など、映画も『ピアノの森』『ガチ☆ボーイ』と全て原作付きのものであった。脚色、演出だけでも、その作家の資質を図ることは不可能ではないが、恐らくは本人の意向ではなく「依頼」によって行った仕事で、しかもこうも「人情もの」ばかりでは、そういう方面の仕事しかしない人なのかと錯覚してしまいそうになる。完全オリジナルの本作で、蓬莱竜太が現代というキャンバスに何を描こうとしているのか、それが見えるのではないかという興味が一つ。
また、前川知大の舞台に連続して主演し、成長著しい仲村トオルへの関心、大病の後復帰した江守徹への応援の気持ちなど、それらが鑑賞の動機になった。
実際に鑑賞したあと、一番に感じたことは、作者が演劇に対して、そして現代社会に対していかに真摯に向き合っているかということであった。当たり前のことではあるのだが。
蓬莱竜太は、このドラマの発想をテレビショッピングのスタッフたちの会話から思い付いたという。商品を売るための口八丁、手練手管、どうでもいいものを高く売るそのやり口は、一歩間違えればそれは「詐欺」にもなりかねない。しかし、それはどの業界についても言えることなのではないかと。そう考えると世の中はどれだけのウソに溢れているのか、想像も付かないほどだと。そして作者の想像は更に発展する。なぜ人はこれほどまでに虚構を求めるのだろうかと。
舞台となるレストラン「山猫」にはモデルがある。
恐らくその一つは昨年(2011年)までスペイン・カタルーニャの片田舎にあった三つ星レストラン「エル・ブリ(エル・ブジ)」である。映画『エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン』でも紹介された実在のこのレストランは、フェラン・アザリアというカリスマ料理長の名前とともに有名になったこと、全ての料理が創作料理で、一度出したメニューは二度と出さないこと、その料理はデザインが奇抜で、ものによっては「料理に見えない」ほどであること、予約で客が入りきれないほどの人気絶頂(年間200万人!)のさなかに突然閉店したこと(舞台の方は閉店するかも、で終わるが)など、共通項が多い。
もう一つのモデルは、劇中でも触れられていた通り、宮澤賢治『注文の多い料理店』に登場する「山猫軒」である。料理する側が客に「注文」を付け、最後にはその客を食ってしまう化け猫の罠。劇中の「山猫」も、客を騙してとんでもない料理を食わせるところは“人を食っている”。
その通り、レストラン「山猫」は客を詐欺に掛けているのである。カリスマシェフと言われている七島誠(仲村トオル)は、学生の頃交通事故にあって右手が使えなくなり、料理人の道を諦めた。従って、彼が父・勇次郎(江守徹)の跡を継いで「山猫」のオーナーシェフになってやったのは、路上画家の海江田恵介(宮崎敏行)に前衛画のような料理の絵を描かせ、その絵に合わせた料理をでっち上げることだった。味付けなどデタラメだが、「ここでしか食べられない料理」が売りになって、「山猫」は店舗を広げるほどに繁盛することになった。
そこにやってきたのが、東京のレストランから都落ちしてきた関谷直也(柄本佑)である。修行のつもりが、誠の姉・梢(YOU)から「あなたがこの店のオーナーシェフになって」と依頼され、困惑するが、やがて店の秘密に気付くことになる。憤慨する直也だが、誠から「ここの客は美味い料理なんか望んでない。客はここでしか食べられない料理を食べ、この店で食べられたことに満足する。それのどこが悪い」。直也は反論できない。
「人は虚構の中でしか生きられない」という事実が、この台詞に凝縮されている。人がベストセラーを読みヒット映画に群がるのは、本や映画が面白そうだからではない。それがベストセラーでありヒットしているからである。有名大学を目指し、大企業に勤めたがるのは、学を修めるためでも社会貢献のためでもない。その大学や企業が有名だからである。一度、その「流れ」が出来てしまえば後はスタンピード現象を起こすだけだ。
誠は、直也に、床に落ちた野菜までもそのまま材料にして客に出させる。「隠し味が利いてたよ。美味そうに食ってたぞ」と誠は嘲笑し、直也の反発を抑える。悪辣だが、観客はなかなか誠に反感が抱けない。物語が進むにつれて、誠の主張に真実を見出さずにはいられなくなるからだ。仲村トオルが実に楽しげに誠を演じていることも、理は誠の方にあると観客に感じさせる要因になっている。
しかし、現実をウソで塗り固めようとする誠の行為は、「山猫」の取材にやってきたライターの前橋真紀(佐藤めぐみ)が、店の秘密を知ってしまったために瓦解し始める。諍いの中で、海江田はショックのためか、絵が描けなくなる。海江田の絵がなければ料理を作ることは出来ない。父・勇二郎は優しく「店をやめたっていいんだぞ」と言うのだが……。
誠は梢に指弾される。「あなたは寂しかっただけだ」と。そういう梢も、誠の暴走を止められなかったのは、誠の右腕の故障の原因を作った車の事故、誠を乗せた車を運転しいたのが、他ならぬ梢だったからだった。
「もう一度、初めから話しましょう」。梢の誠への問いかけで物語は終わる。印象的なのは、このラストシーンが、このリアルな舞台でほぼ唯一、幻想的な味わいを持っていることだ。見つめ合う二人を、直也を初めとして、その場にはいないはずのコックたちがいつのまにか現れて、彼らを見守る。さながら幽霊のように沈黙したまま。
最後に明かされた「真実」もまた、幻想の中の一シーンとなるこの幕切れが意味するものは何だろうか。果たして「山猫」は存続して行けるのか否か。解釈は多様だろうが、描かれざるこれからの物語がもしあるとすれば、それはやはり「虚構」と「現実」のせめぎ合う物語になるだろうということだ。我々は結局は虚構の上に更に虚構を重ねていくしかないという、「自分探し」とは全く無縁の「真実」を受け入れざるを得なくなるのである。
百年の秘密
ナイロン100℃
J:COM北九州芸術劇場 大ホール(福岡県)
2012/06/02 (土) ~ 2012/06/03 (日)公演終了
満足度★★★★
世界樹の木の下で
木と話をする家族の物語である。
伝説、寓話の時代から、ドラマの中心に「無生物」が配置される物語は決して少なくない。たいていの場合、それは物語のテーマを象徴している。『白雪姫』の「鏡」は人間の欲望そのものの象徴ではなかったか。そして「木」とは、「生命」の象徴であり、全てを内包した「世界」そのものでもある。北欧神話では世界の中心には宇宙樹があり、聖書においてエデンにあったのは知恵と生命の二つの樹木であった。
ベイカー家の人々は、等しく、庭園の中心にある楡の木に執着する。その理由は、劇中、明確には語られない。語られないからこそ、それが不動の存在であり、「世界の中心」であることが明示されているとも言える。ベイカー家の興亡を「百年」見続けていたのもこの木だし、その「秘密」を抱き続けてきたのもこの木だった。しかし木は決してベイカー家の守護者であったわけではない。人間たちの生の営みも見てきたのと同時に、木はその死も、看過し続けてきた。過去も、現在も、未来も知り尽くしていながら、木は、人間たちに関与しようともせず、神のごとく沈黙し続けている。
我々観客はまさしく「木」と同じ視点で、ベイカー家の人々の動向を見せられて行く。早い段階で、彼らの「結末」は観客に提示され、時間が過去と現在を行ったり来たりするうちに、我々はそもそもの「秘密」の始まる「発端」へと誘導されていく。そして我々は気付かされるのである。
我々こそが「神」であることに。人類はなぜ「神」という概念を創造したのか。それは我々がまさしく「神」と同一の存在であったからなのだ。我々は、あの震災に対しても、今なお続く国家間の戦争や、人間の経験してきた全ての悲劇に対して、ひたすら「神」であり続けてきたのだ。
即ち「神」とは、世界の運命に対して、あの木のごとく「傍観者」であることしか出来ない我々の「無力」を象徴している存在なのである。ベイカー家の「悲劇」に責任を負っているのは、実は「我々」なのである。
ネタバレBOX
ケラリーノ・サンドロビッチは、この戯曲を執筆するに当たって、影響を受けた作品として『背信』(ハロルド・ピンター)、『セールスマンの死』(アーサー・ミラー)、『夜への長い航路』(ユージーン・オニール)、『わが町』(ソーントン・ワイルダー)を挙げている。
ことに『わが町』との類似性を指摘する識者は多かろうと思われる。ある街の、数世代にわたる長い歴史を、主に二つの家族の物語に象徴させる手法は、演劇においてはワイルダーが最も鋭角的な構成で表現していた。それをケラ氏はそっくり踏襲している。
「街」を象徴するものはいろいろある。城下町ならそれは城であるし、学校だったり教会だったり鐘楼だったり塔だったり灯台だったり。「木」もまたその一つであるが、前者との決定的な違いは、「木」が「自然物」であり、人間の埒外にある存在である点だ。ケラ氏が、人の営みと歴史を描きつつも、そこにこのような「天」の視点を織り込んできたことには、物語を「人間だけのものにしてはならない」と判断した強い意志があるように思われる。
それはやはりあの震災を経て、ケラ氏が「人の力ではどうにもできない自然の力」を痛感したせいなのだろうか。
あの「楡の木」が無かったなら、ティルダ(犬山イヌコ)とコナ(峯村リエ)の二人の少女は、カレル(萩原聖人)の手紙をその根元に隠そうとは思わなかっただろう。木がなくても何らかの形で秘匿しただろうという解釈は、その可能性はあっても、この戯曲の訴える「真実」とは無関係である。
これは一種のプロファイリングであり、我々が何らかの行動を起こすのには、自分の意志のみならず、その行動を誘導する環境条件が揃っている時にのみ起きるという「真実」を示唆した物語なのである。
そこに「木」があったから、悲劇は起きた。人が「神」を創造したから、その神によって「人」は作られた。人の思いなど、運命という大木の前では木の葉のように吹き飛ばされていく。それでも我々は、「木」から、「神」から逃れることは出来ない。なぜならもうそこに「木」はそんざいしてしまったから。
この舞台はそういう物語なのだ。
運命は絡み合うと言うが、この物語の登場人物たちは、それぞれに数奇な運命を辿りながらも、何かの偶然が更なる偶然を呼んで、突拍子もない結末を迎えるというような展開にはならない。
全ての結末への予兆は、二人の少女が手紙を隠した瞬間から始められ、予め貼られた伏線は一切の破綻を起こさないままきちんと回収されて物語は収束される。物語を支配するのは「必然」以外にはないと主張しているかのように。
カレルはアンナ先生への恋に破れ、彼女によく似た面差しのコナと結婚する。もちろんアンナ先生への思いか消えたわげはないから、「悲劇の種」は温存されたままである。
ティルダもまた隣人の弁護士ブラックウッド(山西惇)と結婚し、二人の親友はそれぞれ別の道を歩いていくことになる。しかし、ブラックウッドがコナと“過ち”を起こしたことから、二人の人生は次第に狂いを生じさせていく。
「必然」とは即ち、全ての「秘密」はいつか白日の下に晒されるという「悲劇」のことなのだ。
ティルダの息子フリッツ(近藤フク)とコナの娘のポニー(田島ゆみか)は恋仲になる。もちろん、二人が兄妹である可能性を捨てきれないブラックウッドは、二人の結婚に強硬に反対する。その不自然な態度が、ティルダたちに疑念を抱かせないはずはない。コナから真実を打ち明けられたティルダは、絶望のあまり失踪する。
カレルと、彼と再会したアンナ先生は、少女時代のコナとティルダの裏切りを知り、アンナ先生とともに心中(事故死?)する。
ティルダの兄のエース(大倉孝二)は、バスケット選手としての将来を嘱望されていたが、父・ウィリアム(廣川三憲)が、母・パオラ(松永玲子)を裏切って不倫していることを知ってから次第に荒んでいき、傷害事件を起こし獄中死する。
この兄のエピソードは、「家族の悲劇」を描くために必要だとしても、ややとってつけた印象があって巧くないが、全体的に伏線として張られた「悲劇の種」は、全て好転することなく、お決まりの結末をもたらすのである。さながら「運命の糸」からは逃れられないと我々に向かって主張するように。
彼らを見つめる「木」の影は、場面が転換するごとに舞台に広がり、闇となり、地獄へ誘うかのように人々を飲み込んでいく(この映像処理は、ケラ氏の『わが闇』でも見られたが、あの作品もまたワイルダー『わが町』にインスパイアされた「家族の物語」であった)。
運命は変えられない。ある原因は、それに相当する結末を必然的に用意する。木の陰はその「逃れられない運命」としての象徴だ。
そこで思い至るのは、ケラ氏がこの戯曲の時間軸を錯綜させた理由はなんだったのかということだ。物語のラストは、少女二人が、木の下にカレルの手紙を埋める瞬間で締められる。彼女たちはそれが悲劇の始まりになるとは夢にも思っていない。むしろ、アンナ先生に騙されたカレルを救った気になっている。ティルダは言う。「カレルにかけられた催眠術を解いてあげなくちゃ」と。夢を見ているのは、彼女たちの方なのに。
「真実」を知る「神」である私たち観客は、そこに胸を締め付けられるほどの切なさを覚える。彼女たちは何も知らない。何も知らないから夢を見ていられる。彼女たちは愚かで哀れだが、同時にこうも感じられる。夢を見ていられた12歳のあの頃が、彼女たちが人生で一番美しく輝いていられた、「幸せの瞬間」であり、「黄金の時間」であったのだと。
これは、通常の時系列に沿った物語展開では、あまりにも「悲惨」を強調することにしかならないと判断したケラ氏が、観客に与えてくれた、これも一つのハッピーエンドなのではないだろうか。生から死へと向かう儚い人間の物語の中で、そしてどんな悲劇的な人生であったとしても、人にはほんの少しくらいは、「幸せな時」があったのだ。それがたとえ少女時代の一瞬であろうとも、微笑みに満ちた瞬間というのは確実にあったのだ。それ故に人は生きられるのだと、ケラ氏はそう謂わんとしているのではないだろうか。
「始まりの時」が結末になる物語は、たとえば夢野久作『瓶詰の地獄』があり、桜庭一樹『私の男』がある。そのラストシーンは、実はファーストシーンであり、いずれも「幸せ」に包まれているのである。
キャスティングは、犬山、峯村の両女優が、12歳から78歳まで、さらにはひ孫まで演じて、その実力のほどを見せつけてくれる。その分、他のキャストが「弱く」見えてしまうのが難ではあるが、最近、旧作の仕立て直し公演などでお茶を濁していた感のあったナイロン100℃の舞台の中では、人間の「業」を冷徹に描いて、久方ぶりに見応えのある舞台となった。
かたりたがりのみせたがり
Love FM
西鉄ホール(福岡県)
2012/04/13 (金) ~ 2012/04/14 (土)公演終了
満足度★★★
春爛漫!山田広野の活弁天国
前座としては最悪と言ってよいほどにつまらない(←本気で扱き下ろしてます)、月光亭の落語モドキのせいで、果たしてこれから先の“濃い”1時間半を乗り切れるだろうかと不安に感じたが、三つ揃いにハンチングの、いつもの「活弁」スタイルの山田氏が登場すると、沈滞していた会場の雰囲気もさっと明るくなる。あとはいつもの下品で脱力系のとことん下らない(←こちらは誉め言葉です)、自主短編映画の数々、これに山田氏が、だみ声だけれども明るい作り声で、ナレーションを付ける。
正直なことを言えば、たいして笑えないネタ、作品も結構ある。しかし、山田広野の場合、笑えない、面白くないというのが、決して貶し言葉にはならない。素人が作ったとしか思えない(と言うか監督も素人なら出演している役者も実際に殆ど素人なのだが)チープさ、適当さと言うよりはいい加減さ、これが観客の脳髄をクラクラさせるドラッグ的作用を施すのだ。観ようによっては、山田広野は現代における最も先鋭的なアングラパフォーマーであるかもしれない。
しかし、毎回思うことだが、映画の楽しさを、山田氏のMCが台無しにしてしまっている、とまでは言わないが、いささか足を引っ張っている嫌いがないわけではない。映画はバカだが、山田氏はバカではない。基本的に理知の人なので、映画を作るまでの「解説」が映画の「計算されたバカ」を暴露してしまうのだ。「みせたがり」が本質で「かたりたがり」の方は不得意だということなのかもしれないが、「活弁」を名乗る以上は、多少は合間の語りにももう少し熟達してほしいと思うのである。
ネタバレBOX
前座の月光亭、四人の女性が代わる代わるに、あるいは台詞を重ねて、輪唱するような合唱するような調子で『饅頭こわい』を演じるが、初心者の落語家が陥りやすい落とし穴に、しっかりハマってしまっている。
落語は「芸」であって「演技」ではないということが理解できていない。どの演者もテンポはいいが、それは役者が勝手に思いこんでいるテンポであって、「観客のためのテンポ」ではない。観客との間に「阿吽の呼吸」を作らないまま演じているので、客からは彼女たちが自分たちを置いてきぼりにして、「ひとり」で喋っているようにしか聞こえない。落語の前座で、下手な人、座布団を引かれて中ほどまでで引っ込んじゃった人を寄席で何人も観てきたが、これは開始後3分で引っ込まなきゃならないくらい、最低の前座である。一応、噺は定番の「お茶が怖い(=お茶がほしい)」で終わるが、そのあとに「お客さんの拍手が怖い(=拍手を頂戴)」と付け加えるとは下手くその癖に、思い上がるのも甚だしい。それが客をバカにした態度だと謂うことに気付かんのか。
客席でも全く笑いが起きなかったが、本人たちは「巧く演じているつもり」らしいのが失笑ものである。余計なお世話ではあるが、このように落語を根本的に勘違いしているようでは、到底、これから先の芽はないから、さっさと亭号は捨てて本名に戻り、普通に俳優をやってた方がまだマシなんじゃなかろうか。
今見たものはなかったことにして(そうアタマを切り換えなければその場にいられない)「本編」の山田広野の登場を待つ。
今回の会場、例年のイスを並べただけの観客席ではなく、テーブルが設えられていて、後方には簡易バーがあり、枝豆やお菓子などの軽食、ジュースやカクテルなどの飲食が可能になっている。嬉しい試みだが、映画を観ている最中に枝豆をぽりぽり食うわけにもいかないので、合間に慌てて口の中に頬張る羽目になる。別に必要なサービスでもないのではないかな。
記憶だけで書いているので、抜けるネタもあると思うが、最初の映画は、山田氏の人気シリーズ、『実験人形ダミー・オズマー』の新作。もちろん元ネタは小池一夫・叶精作の漫画『実験人形ダミー・オスカー』なのだが、もうお客さんを常連と踏んでいるのか、山田氏、一切の解説をしない。
嫉妬深くて優柔不断な彼とソックリの別人に、うっかり付いていってしまったヒロイン。しかしその別人さんはヒロインの初恋の相手だった。自分の彼女が、自分によく似た男と仲良さそうに喫茶店に入るのを見て、怒りに狂った彼氏は、そっくりさんをぶん殴る。しかしそれはダミー・オズマーが二人の仲を結ぶために用意したダッチワイ……もとい、実験人形だった! という落ち。
今どきのダッ○○○○は、人と見間違うほど精巧なものも多いが、ダミー・オズマーが使っているのは風船式の旧型。それがなぜかリアルな人間に、しかも老若男女なんにでもなれるのがいい加減。オズマー役のホリケンさんは、他の映画にも一応出演している役者さんらしいのだが、濃い顔なのに殆ど見かけたことがない。山田氏の話によると「背中だけ写っていた」パターンが多いそうだ。
山田氏が上海だったかどこかで貰ってきた漢方薬のチラシ。頭痛や胃痛など、様々な病気に効くことが、イラスト入りで説明されている。その絵を適当に組み合わせて、勝手にドラマをでっち上げる。結果、二人のOLの間で不倫に悩むハゲ(カツラ)の上司が、結局二人ともに振られてしまうが、それは二人がレズだったから、というむちゃくちゃなストーリーに。
全てのイラストを使わなければいけないから、上司がハゲでくしゃみをしたらカツラが飛ぶという、無理やりな展開をするところが面白い。
これもシリーズ、人呼んで「版権無視シリーズ」。
昔々、「少年チ○○○○○」に掲載されていた、あのドギツイ絵柄の、昔は二人で一人の名前だったマンガ家さんのオカルトマンガが下敷き。つか、そのイラストをまんま使っているから、著作権侵害は承知の上。ダミー・オズマーみたいにパロディにすればいいものを、わざと訴えるなら訴えてみろな挑発的なことをやらかすのが山田氏の悪趣味なところ(←だからこれも誉めてるんですってば)。
主人公のマ太郎くんは、その恨みがましいご面相のせいで女の子に全くモテない。ところがなぜか今回は、両手に花で、美女を二人もはべらせている。けれども二人の女から口を吐いて出た言葉は、「臓器売らない?」逃げるマ太郎を助けた第三の女、しかしこの女も「もう日本にはいられないでしょ、波止場で船が待ってるから!」。
女たちに騙されたと知ったマ太郎くん、得意の「恨み念法」で、金の亡者の女たちを、みんなお札に換えてしまったのでした。
毎回、「女がらみ」なのが、原典の中学生からオトナになったマ太郎くんのルサンチマンの強さ、業の深さを感じさせて、笑えるけれども切なくなります。
今回、白眉だったのは、友人に頼まれて作ったという、結婚披露宴での「二人の出逢いビデオ」。
普通は、二人のアルバムなどを元にして作るものだろうが、山田氏は完全再現ドラマとして、役者を使ってドラマを作る。けれどもその内容が全てでっち上げ。「二人は店のマスターと客だった」ということだけ聞いて、あとはお嫁さんを勝手に「男の尻フェチ女」にし、恋のライバルに別の尻フェチ女と尻フェチ男(笑)を配して、3人バトルを繰り広げる。最終勝利は、お婿さんの犬が決めたといういい加減な落ち。
実際に、披露宴で流したところ、尻フェチ女にされたお嫁さんのご家族はかなり立腹されたそうだが、瓢箪から駒、あとで山田氏が聞いたところによると、このお嫁さん、本当に尻フェチだったそうだ。関係者がこの映画を見た時の反応を想像しながら見ると楽しい一本。
ほかにも、居酒屋の臨時店員になった女たちが借金取りを始末していく話とか、少女雑誌のモデルになったヒロインがポルノを撮らされてしまう話とかもあったが、長い(と言っても10分程度)作品になると、脱力し続けるのにも疲れてしまう(苦笑)。
殆どの作品がワン・アイデア、くだらない一発ギャグみたいなものだから、それを面白く見せるためには、あまり長く撮らない方がよかろうと思う。
山田映画はアイデアとそのチープさがうまくハマると面白い。しかし単にチープなだけに終わる作品も少なくない。先述した通り、MCが説明的すぎると作品自体がつまらなく見えてくるし(妙に自作を卑下して語るのである)、MCの時くらい、だみ声の作り声でなく、普通に喋ればいいのにとも思う。今回は、後方のバーのところに何度も「飲みに行きたいがガマンする。みなさんは飲んでていいんですよ」と繰り返していたのが客席の空気を読めておらず、鬱陶しかった。
自主映画と言えば、知る人ぞ知る存在であろうが、『聖ジェルノン』シリーズや『浅瀬でランデブー』などの驚異的な“天然”作品で、観客を茫然とさせ続けている伊勢田勝行監督がいる。
完全なド素人で、ドラマ作りも画面作りも糞もない駄作しか作れないのに、なぜか観客の爆笑を呼んでいるあの破天荒さと情熱、まだまだ理に勝ちすぎている山田氏に必要なものはあの伊勢田監督の天然さなのではないのかとも思う。
もっと天然になって、それで客が来るかどうかは分からないが(苦笑)。
シャボン玉とんだ宇宙(ソラ)までとんだ
音楽座ミュージカル
ももちパレス(福岡県)
2012/04/09 (月) ~ 2012/04/15 (日)公演終了
満足度★★
SF? いや、トンデモSFだ!
原作に忠実だとしても、脚本は乱雑だと言う他はない。
せっかくの設定が、後半で台無しにされる、伏線がうまく利かない、その繰り返し。基本、SFなのだが、ストーリーの大半は、これ別にSFにしなきゃならないお話じゃないよなあ、と首を傾げるものばかり。
ところがそれでつまらないかと言うと、そうでもない。予測が付かない展開に笑いを堪えながら食い入るように観て、要所要所ではホロリとさせられる場面もあったのだから、演劇というのは単純に出来不出来だけでモノが言えるものではないとつくづく思う。ただ、作り手の意図と、受け手の面白がり方にかなり乖離が生じているのも事実だろう。演出効果とは何なのかをもう少し考えてほしい舞台だった。
ミュージカルとしては、音楽が曲想の似通ったものばかりで一本調子、メリハリに欠ける面が多々ある。ダンスは公演を重ねているだけあって、観られはするが、ブロードウェイミュージカルほどの粋には到達していない。その点でもお勧めはしかねるはずなのだが、自己陶酔型の独り善がりなものになってはいないので、不快感はない。
役者では、やはり不幸な境遇から立ち直っていくヒロインの佳代を演じた髙野菜々が、関西弁を駆使し、時にはぶっきらぼうに、時には愛らしく、その魅力を一番に発揮していた。
美術セットの工夫も含めて、見所は満載なのである。だからこれで脚本がもっとマトモだったらねえ(苦笑)。
ネタバレBOX
冒頭、UFO(宇宙船)の事故がナレーションで語られる。
後にこれがラス星人の地球探査船であることが判明するのだが、これが物語にどう関連していくのか、最初の伏線の張り方としては悪くはない。
物語は、最初の緊迫した展開がなかったかのように、音楽家を夢見る普通の青年・三浦悠介(小林啓也)の遊園地での初デートの様子を描く。スリの折口佳代(髙野菜々)が悠介のサイフをスったことがきっかけで、彼のデートはおじゃんになるが、悠介には何となく佳代のことが、佳代は悠介のことが気に掛かる存在になる。
この時の遊園地の「迷路」のセットが素晴らしい。人力で方柱が自由自在に動く仕掛けだが、それが組み合わさって時には道になり壁になり、悠介と佳代の行く手を閉ざし、姿を隠し、二人の心が彷徨う様子を象徴的に表現している。これはクライマックスでも効果的に繰り返された。
二人は、悠介のバイト先、喫茶「ケンタウルス」で再会する。スリを辞めることを心に誓った佳代は、悠介と出会った頃の蓮っ葉な印象が少しずつ薄れて、乱暴な関西弁も段々優しげになっていく。悠介の作曲家への道も開けて、二人の仲も接近、順風満帆か、といったところで、お決まりの「逆境」が訪れるのだが、これがどうも定石を外しまくって、どんどんおかしくなっていくのだ。
実は佳代は、13歳の時に、ヤクザの義父の虐待に遭って、死んでいた。しかし、たまたまその時、宇宙船の事故で死んだラス星人の女性・オリー(野口綾乃)の「生命素」を保管するための「入れ物」として、蘇生させられていたのだ。
いったん、帰星していたラス星人たちは、8年後に再び地球にやってくる。オリーの生命素を取り戻しに。しかしそれは、佳代の死を意味することでもあった(この「8年」は、ラス星が地球から4.3光年離れたアルファ・ケンタウリであることを示唆している)。
こういう事態になれば、物語は当然、限られた佳代の命をどうするか、あるいは悠介がラス星人から佳代をいかにして守るか、そういうドラマが始まるのだろうと誰もが予想するところである。ところが話は全く意外な展開を見ることになる。
ラス星人たちは、二人の間柄を知って同情し、オリーを取り戻すことを待つことにするのだ。「私たちの寿命は君らの百倍長い。君たちが死んだ後、生命素は取り戻すよ」。
逆境が実は逆境でも何でもなく、悠介も佳代も何の努力もせずに助かっちゃったという、これはドラマじゃないよ、アンチ・ドラマだ、いったい何のために「生命素」なんてアイデアを持ち込んだのだ、と思っていたら、今度は、別の逆境が二人を見舞うことになる。
佳代の義父・小野源兵衛(石山輝夫)が現れて、佳代に、スリの過去を悠介にバラされたくなかったら自分の元へ戻ってこいと告げる。佳代の処女を奪ったのも実はこの源兵衛だったというドロドロの人間関係の果てに、佳代は思わず源兵衛を刺殺、なぜかそこに現れたラス星人のゼス(広田勇二)も巻き添えを食らって絶命。何しに出てきたラス星人。優しいけれど全くの役立たずである。
下敷きになってるのは、『レ・ミゼラブル』やオー・ヘンリー『よみがえった改心』なんだが、元ネタの急展開のさせ方が普通じゃない。たいてい、主人公の過去の罪は許されるものだが、佳代はしっかり罪を背負って刑務所行きになってしまうのである。作り手としては、ドラマを盛り上げたいのだろうが、こうも予想の斜め上を行かれると、驚くよりも悲しむよりも、笑ってしまうのを如何ともし難い。しかも、急展開はさらに続くのだ。
獄中結婚をすることにした佳代の元に、突然、悠介の訃報が届く。なんと悠介は飛行機事故で死んでしまったのだ。嘆く佳代。しかし、ここでは都合よく、ラス星人が現れて、悠介を助けていた。
もうね、ツッコミどころが満載なんだけど、そんなにささっと動けるんなら、事故が起きないように宇宙人力でなんとかできなかったのか、これまでの役立たずぶりは何だったのかとか、知り合いだけ助けて他の乗客は見殺しかよとか、文句をつけるだけ詮ない気になってくる。しかもラス星人。ここでまた大チョンボをやらかすのだ。
悠介をうっかりラス星に光速の宇宙船で連れ帰っちゃったために、ウラシマ効果(相対性理論で、光速に近づけば近づくほど宇宙船の中の時間の進み方が遅くなる現象)で、船内では一週間しか経っていないのに、地球上では8年の歳月が流れていたのだ。悠介と佳代との年齢差が8歳、佳代の方が年上になってしまったのだ。
うっかりしたラス星人は、とんでもない提案をする。「じゃあ、今度は佳代をラス星に連れて行くから、そうしたら年齢差は元通りになる」。
確かに計算上はそうなんだが、それでいいのか、本当に? でもこの申し出を悠介は受け入れ、「8年待つ」ことにするのだ!
私も、男と女の機微なんてものには疎いのだが、相手が老けたら自分も老けたいとか、そういう心理になるものなんだろうか。もしそうだとしても、ラス星人から提案されてそれに従うのではなく、悠介が自分から言い出した方が納得できる展開になりそうだけれども。
で、これが落ちではなくて、先がまだあるのだ。
悠介と佳代の二人はめでたく結婚、子供も生まれて平穏な家庭を築く。しかし、その子どもが成長した頃に、二人揃って交通事故で死んでしまう。もうどんな急展開にも驚かないが、息子は、空を見上げて妻に向かって言うのだ。「親父もお袋も、あの空のどこかで生きてるような気がするんだ」。
そして、ラス星では、今まで「保管」されていたオリーとゼスの遺体が甦り、二人の恋人は手に手を取って、やはり星空を見上げると。
いや、オリーの生命素は佳代の中にあって、それが戻ったんだとしても、ゼスの生命素はどこに保管してたの? 悠介の中だとしか考えようがないが、とすると、悠介は本当はあの飛行機事故で死んでたわけ? でも、ゼスが死んだのと悠介が事故に遭った時って、タイムラグが何ヶ月もあるんじゃないの? その間、裁判もあって、佳代は服役してるんだから。
それに、ここで蘇生したのはあくまでオリーとゼスであって、佳代と悠介が生まれ変わったわけじゃないんだが。
タイムラグに多少は眼をつぶるとしても、わざわざゼスの生命素を保管するために悠介を選んだんだから、これはあの飛行機事故を起こしたのはラス星人たちなんじゃないかという疑問すら浮かんでくる。ともかくこの落ちはデタラメすぎるのだ。
数々のトンデモ展開、楽しめはした。ドラマ作りの素人が、天然だからこそ作れる物語なんだろうなあ。
かと言って、「なかなかこんなトンデモ作品はないよ!」とオススメするのも、制作者の意図に反することだろう。制作者は観客を感動させたいのに、それがひっくり返っちゃって爆笑されてしまう点では、これは明らかな失敗作である。
公演を重ねる度に尾鰭羽鰭が付いて、こんなトンデモ作品になってしまったものかとも推測する。盛り上げようと思って、無理やりドラマを作っても、かえっておかしなことになる、特にSFのセンスがない人間がSFのアイデアを中途半端に持ち込むと、大失敗しちゃうよという一つの例として観るのが妥当なところだろう。
イッセー尾形のこれからの生活2012 in 茅野/in 春の博多
森田オフィス/イッセー尾形・ら(株)
イムズホール(福岡県)
2012/03/31 (土) ~ 2012/04/01 (日)公演終了
満足度★★★★
震災から、一年を経た後に
前回の小倉公演から、何となく“違和感”のようなものを覚えていた。
相変わらず、イッセー尾形は面白い。面白いが、どこか「おとなしく」感じてしまうのである。
イッセー尾形の一人芝居で演じられるのは、滑稽でどこか歪つなところはあっても、基本的には「フツーの人々」である。一つのスケッチ(イッセー氏ほかスタッフは「ネタ」と呼ぶ)は、一般的なコントのように、破壊的な終わり方をするのではなく、なだらかにフェードアウトする場合も少なくない。還暦を迎えられて、あまり攻撃的だったり、毒舌的だったりするキャラクターを演じるのを控えるようになったのかとも思ったが、それとも感触が違う。
思い返すに、これまでの公演との違いが生じたのは、イッセーさんが相手をする人々に、穏やかで優しい人が増えてきたからではないのか、という点に思い至った。もちろんこの「相手」というのは、観客の眼には見えない、イッセーさんの「隣」や「向かい」にいる人々のことである。
東日本大震災は、イッセー尾形と森田オフィスの人々にも大きな心の転換を促したのではないかと思う。多くの劇団や劇場が公演を中止していく中で、森田オフィスは殆どの公演を予定通りに敢行していった(実際には劇場側から安全面での不安を指摘されて断念したものもありはしたが)。
作品の中に震災や、あるいはそれを想起させる出来事を盛り込まなくても、イッセー尾形と森田オフィスは、この一年、「演劇ができることは何か」を追求してきた。それが前回、そして今回の福岡公演での、イッセーさんが演じるちょっとだけ世の中からはみ出してしまった人物を取り巻く人々の「優しさ」に繋がったのではないだろうかと推測しているのである。
ネタバレBOX
前回まで、シリーズとして続いていた「天草五郎」は、今回は演じられず。
絵師の天草五郎が、長崎奉行から踏み絵を依頼されたことから始まって、地底国から地獄への道行まで、一大スペクタクルを展開していたSFシリーズだったが、前回、「いつ終わっても再開しても構わないような」と仰っていた通り、いったんの小休止に入ったのかも知れない。
DVDとして一本に纏められたらしいが、4月1日時点のロビー販売では、既に完売していた。人気のスケッチであるから仕方がないのだが、森田オフィスはあまりソフトの再販はしないので、この傑作シリーズを再見することはもう叶わないかも知れない。
スケッチは全部で8本。全てのネタは紹介しきれないので、特に印象に残ったものをいくつか。
作業服にマスクを付けた男が、機械の点検をしている。
工場はかなり広く、相当、騒音がしているらしい。男はほぼ何も喋らず、周囲の仲間、同僚たちと、ジェスチャーで合図をし合っている。けれども時々、マルの合図を出しても相手にうまく伝わらず、思わずマスクを取って大声で叫んでしまう。でもやはり頓珍漢な対応をされたらしく、「もういい」と点検に戻る。
ここまでは、イッセー尾形のマイムの巧さを堪能させてくれる展開だが、話は急に変化を見せる。どうやらこの男、結婚間近らしい。すれ違う仲間たちが、みな一様に男を冷やかしていくようになる。最初はよく聞こえずに、耳を欹てる男であったが、やがて冷やかしばかりだと気付いて、「もういい」。
年寄りの渡し守が、若い民俗学者らしい客を舟に乗せている。
学者は渡し守に向かって、この近くの伝説について問い掛けているらしい。渡し守は「伝説? 無えよ」と冷たくあしらうが、「昔話ならあるけどな」と言って、河童の話を始める。学者は喜び勇んでいるようだが、渡し守の話は「昔、このへんに河童がおった。話はそれだけだ」と、なんとも尻切れトンボ。
そのあとも次から次へと昔話をしてくれるのだが、全て中身がない。拍子抜けして、しょぼくれている学者の(恐らくは若者の)姿が見えてくるようだ。
イッセー尾形の一人芝居の非凡さ、他の一人芝居の追随を許さない孤高さは、この「見えない相手」が、観客の眼に鮮明に見えてくる点にある。
ライブのラストは、ほぼ必ず歌物になるのだが、今回は「パリの酒場でいつもはシャンソンを歌っているのだけれど、今日は日本人観光客の貸し切りなので、全て日本語の歌を歌う」という設定。
どうしてパリに観光に来ているのに、日本人をわざわざ日本人歌手の店に案内するのか、旅行代理店は何を考えているのか、と疑問に思うが、案外「里心」を刺激させることが目的としてあるのかもしれない。
この時も、聴衆たちの笑い、驚愕に当惑、そういった姿が見えてくる。見えるだけではなくて、私たち自身も、その「見えない観客」と融合していく。いつしか私たちは、イッセー尾形の世界に取り込まれて、あたかも今、自分が登場人物の一人となって、本当にパリにいるかのように錯覚させられていくのだ。
「福岡のお客さんを相手にする時には、特に緊張します。何というか、今、自分がこの舞台にちゃんといるんだと、強く意識してなきゃならないような。何を言ってるんだかよく分からないかもしれませんが、本当なんですよ」。
イッセーさんの、公演終了後のコメントである。福岡の一般客たちの演劇鑑賞スキルは極めて高い。そういう客がこぞって観に行くのは、イッセー尾形の一人芝居ような、文句の付けようのない舞台なのであって、地元小劇場の自己陶酔型のつまらない芝居ではないのである。
ピーター・ブルックの魔笛
彩の国さいたま芸術劇場
J:COM北九州芸術劇場 中劇場(福岡県)
2012/03/31 (土) ~ 2012/04/01 (日)公演終了
満足度★★★★
ぱぱぱぱぱぱぱぱ、ぱぱげーの
誤解を招くことを承知の上で、あえて書くなら、ピーター・ブルックには、アマデウス・モーツァルトが全く分かっていない。
しかし、モーツァルトが皆目分からないと知っているのは、他ならぬブルック自身なのである。彼の非凡は、まさしく「無知の知」によって支えられている。
ブルックが『魔笛』の演出に当たって、確信していたのは、「理解不能でも、面白いものは面白いのだ」というこの一点にあって、だからこそ、オリジナルの『魔笛』を自由に解体し、他作品からの引用も行い、再構築することが出来たのだ。
言い換えるなら、オリジナルの持つ「強さ」を信頼しているからこそ、ちょっとやそっとの改作で、モーツァルトの面白さが損なわれるはずがないという「敬意」の表れである。
そのおかげで、今回の『魔笛』は実に軽妙である。軽妙であるがゆえに、かえって観客はそこに何かの「意味」を深読みしたがるものだろうが、そういう客をこそ、ブルックは「退廃観客」と呼んで嫌悪していた。難しく考えることはない。パパゲーノとパパゲーナが「ぱぱぱぱ」と愛の交歓をし合っているのを聞いて、そこに何かコリクツをひねくり出そうとしたところで無駄だろう。われわれはそこで大笑いしておればよいのである。
ネタバレBOX
ブルックにはモーツァルトが分からないと書いたが、もちろん、現代人で、モーツァルトが分かる人間なんているはずがない。
モーツァルトの遺作である『魔笛』について、昔からマコトシヤカに語られ続けている都市伝説として、「モーツァルトは『魔笛』でフリーメイソンの秘密の儀式をバラしたために暗殺された」というものがある。フリーメイソンがカルト的な集団だと認識されるようになったのはモーツァルトの死後なので、もちろんそれはただの伝説に過ぎないが、後世、そのように喧伝されるようになったのは、当時のオペラの殆どが、「実在人物をモデルにしたパロディ」だったことに起因している。
当時の観客たちには、夜の女王が誰であるか、ザラストロが誰なのかは一目瞭然であったろう。だから大いに受けたのだ。モデルにされた当人たちは苦虫をつぶしていたことだろうが。
時が経ち、国も違えば、モーツァルトが仕掛けたそんな最初の「仕掛け」は全く分からなくなる。モーツァルトの意図が正確にはどうであったか、現代人には分からないと書いたのはその意味でだ。
では、その物語は死んでしまうのかというと、そうはならない。その時代のみの特殊性を放棄した後、作品が再生される時には、新たな価値が付与されるのが常だ。よく引用される例としては、風刺文学の『ガリバー旅行記』が、現在ではファンタジーとして受容されていることが挙げられる。
『魔笛』もまた、現在ではファンタジーの一つとして再演され続けているが、オリジナルのままの上演は、オペラとしての性格上、どうしても現代のスピード感覚に付いていけない面は残っている。元ネタの意味が分かるならともかく、オリジナル3時間の舞台は、オペラファンであっても、現代人にはいささかキツい。
ブルックは、結果的に物語を1時間半に短縮した。
フリーメイソンを彷彿とさせる儀式的な部分はまず殆ど省いている。しかし、主要人物までは、いくら元ネタが分からなくなっているからと言って、省いてしまえるものではない。
しかし、ブルックは、脇キャラを除いて、主要人物たちに改変を施す意志はなかった。タミーノはタミーノとして、パミーナはパミーナとして、男と女を入れ変えたりとか、全員を男にするとかあるいは女にするとか、モーツァルトから離れるとか、一般的に「大胆」と言われるような改変は一切行ってはいない。
どんなに「解体」し「再構成」しても、『魔笛』は『魔笛』のままだったのである。
パロディの本質を知っている人間には、その理由がなぜなのか、お分かりだろう。パロディは、たとえオリジナルを知らなくとも、“なぜか面白い”ものなのだ。それは、優れたパロディには、オリジナルに対する徹底的な観察が行われていることが常だからである。当時の「文化」に対する、辛辣な批評が行われているからである。そしてその「批評性」は、それだけで独自の価値を生み出す。優れた批評文が、たとえその対象である作品を知らなくとも、面白く読めるのと同じだ。
また、「古びたパロディ」は、その元ネタが分からないために、逆にシュールな面白さすら生まれてくる場合もある。実はブルックが「眼を付けた」のは。まさしくこの点にあった。
またまた識者の神経を逆なでするようなことをあえて口にするが、『魔笛』のオリジナルを観て聞いて、その筋に納得している人間が本当にいるのだろうか。「分かった気になっている」人間が、意外と少なくないのではないか。
そもそもザラストロと夜の女王が憎しみ会う必要があったのかとか、試練とか儀式とか意味あるのかとか、パパゲーノ、お前は何のためにいるとか、突っ込みだしたらキリがない。
それを何とかリクツを付けて現代人はむりやり解釈しようとするが、本来それはあまり意味のあることではない。物語上の数々の齟齬は、元ネタとなった昔話に、「現実のモデル」を当てはめたために生じたものが殆どだからだ。
先日、いわき総合高校の舞台で、『ファイナルファンタジー』の設定にむりやり実際の原発事故のキャラクターたちを当てはめていたが、まあ、あんな感じだ(あの舞台も、百年経って上演されたら意味不明な喜劇になることだろう)。
ブルックの「再構築」は、そういった「よく分かんないが何か意味がありそうだ」という部分を「拡大」させていった点にある。
即ち、ブルックが目指したものは、徹底的な「ナンセンス」なのだ。だから観客はいったんは混乱させられるが、そのうちに「何だかへんてこだが妙に可笑しい」気分にさせられるのである。
中には「退廃観客」で、「分かんないものを脳内で補完する」手合いもいるだろうが、まあ勝手にしなさい、といったところであろう。
もう物語は出だしから分からない。
蛇に襲われたタミーノを、パパゲーノが「自分が助けた」と嘘をつくのだが、オリジナルでは彼の嘘を見破るのは夜の女王の侍女たちだ。ところが、その蛇と侍女たちを、ブルック版では黒人俳優が一人で演じているのだから、やられて床に倒れた蛇がいきなり立ち上がって、パパゲーノを嘘つき呼ばわりするのだ。
この黒人俳優(もう一人いて、計二人)は、主要キャラクター以外の役を殆ど全て演じることになる。夜の女王とザラストロとの和解も、タミーノとパミーナの試練と恋の成就も、パパゲーノとパパゲーナの邂逅も、全ては黒人たちの「計らい」による。時には黒子的な行動すら取る彼らは、果たして物語を混乱させるためにいるのか収束させるためにいるのか、どちらとも判別がつかない。しかし、先述した通り、オリジナル自体、キャラクターたちの行動原理には不可解なものが多いのだ。
オリジナルでは明確ではなかった物語を転がしていくトリックスターの働きを、この黒人俳優二人が担うことで、混乱は無理やり終焉を迎えることになる(役名も「俳優」だ!)。さながら、シャラントン精神病院患者たちの混乱を収束させたマルキ・ド・サドのように。
今回のブルック演出の最大の特徴が、舞台美術とその活用にあることは論を俟たない。林立する竹のスティックのみ、オペラにありがちな豪奢なセットは全く用いられていないが、これを「シンプル」とだけ言ったのでは説明にならない。このシンプルさは舞台空間を平行横移動にのみ限定する目的でなされたものだ。
舞台はそもそも、奥行きも含めて横の空間にのみ広がりを持っていた。現代の演出家、舞台美術家は、懸命になってそれを縦の方向に変化させようとしてきた。舞台上に山を作り、階段を作り、地下室を作り、窓から外に飛び出し、時には俳優は観客席の上空を飛びさえした。
そんなことまでしなければ、演劇は、観客の想像を喚起することが出来ないのか、というのがブルックの謂いだ(もっともブルックがこれまで「縦の演出」を全く試みたことがなかったわけではない)。
竹は全て、「天」を指している。時にはそれは黒人俳優たちによって横向きにされたりなぎ倒されたりするが、基本的には縦の向きのまま、森や門や壁を表現する。そしてそれは全て「横移動」によって行われる。その間をキャストが行ったり来たりするだけで、「演劇」は成立するのだ。
そうして出来上がったのは、小味の効いた、ナンセンスな「軽演劇」である。そしてそれは、オリジナルの『魔笛』が持っていた楽しさを、再現したものになっているはずである。
どうしても、この舞台を「小難しく」解釈したい人に。
たまに日本語の台詞で、パパゲーノのが「オカアサン!」と叫んだり、舞台から降りて、お客さんをナンパしようとしていたが、ああいうベタなギャグって、「大衆演劇」の定番でしょ?
今回のブルック演出は、日本で言えば「浅草軽演劇」である。森繁久彌なのである。全編、その精神で貫かれてるところが楽しさの所以なのである。
ある女
ハイバイ
西鉄ホール(福岡県)
2012/03/24 (土) ~ 2012/03/25 (日)公演終了
満足度★★★★
それ行け、不倫、不倫、不倫
戯曲を単独の文芸作品として読む場合と、戯曲はあくまで実際の舞台の叩き台として、実際の舞台を観て評価する場合と、それは自ずと変わってくる。
しかし、小劇場のオリジナル公演に関しては、その判別が明確でないことが少なくない。キャストが当て書きで、「その劇団でしか成立しない」と思われる(他劇団での再演が難しい)状況が多々あるからだ。
だから、先に戯曲を読んで、それから舞台を観ても、ああ、この役はやっぱりこの人が演じてたのね、と、たいてい予想は当たるものなのだが――。
『ある女』については、その予想は思い切り裏切られた(以下、具体的にはネタバレを参照のこと)。
これは、「戯曲のみ」を鑑賞する場合と、「舞台」を鑑賞する場合とでは、評価が正反対というほどに違ってくる。そしてそこには、近代以降、女性が苦悶してきたジェンダー(社会的性差)の問題が大きく横たわっている。ここでは当然、「舞台」の評価を中心にして語らざるを得ない。
「不倫」という題材を通して、作・演出の岩井秀人は、「なぜ、女性は不幸になりやすいのか」を提示してみせた。恐ろしいのは、その理由が分かっても、女性は、不幸から完全に脱却することは不可能なのである。岩井秀人が描いて見せたのは、「ある女」がまさしく「貴女」であるという、普遍的な真実なのである。
ネタバレBOX
主人公の「ある女」、タカコを演じているのは岩井秀人である(東京公演では菅原永二とのWキャスト)。
前説で、岩井秀人がカツラにスカートを履いて出てきた時から、観客はもう笑わされている。場内での飲食禁止、「食べてもいいんですけど、アメの袋も破る時音がしますから、どうせなら一気にびゃーっと」と、アナウンスをするその口調は、岩井秀人本人の口調で、普通の(でもちょっとキモい)男性のそれだ。
そしてそのままタカコは物語の中に入っていくのだが、口調は特に変わらない。男のままだが、そこではたと気付くことがある。特に女言葉を使ってはいないが、台詞だけを取り上げるなら、それは女が喋っていると想定してもおかしくないということだ。
女言葉が消失して、男言葉により近くなってはいても、その差はまだ完全に失われているわけではない。しかし、岩井秀人は、非常に緻密に言葉を選び、タカコの台詞を「男とも女とも取れる」ように構築している。
さて、となると、この戯曲を実際に舞台化するとなれば、二つの方法を取り得ることは容易に想像が付くだろう。一つはタカコをそのまま女優に演じさせる方法で、もう一つが実際に岩井秀人が舞台化した「自らタカコを演じる」方法だ。
この二者を比較することで、何が見えてくるか。もちろん前者は実際には舞台化されているわけではないから比較のしようがないようにも見えるが、必ずしもそうではない。この物語は「近代的自我を獲得した女性が社会的性差の中で不幸になっていく過程」を描いたものである。これは明治以降の近代文学、演劇、映画の中で再三再四創作されてきた、一つの潮流である。
それこそ、有島武郎の『或る女』の早月葉子以来、彼女たちは男たちの間で翻弄され、身を滅ぼしていった。まるで彼女たちが「自我」を得たことが罪であるかのように。林芙美子『放浪記』や『浮雲』の頃には、女の不幸はまるで運命であるかのように諦観と共に描かれることも珍しくなくなった。もちろん、演劇における森本薫『女の一生』も同様である。彼女たちは概ね、病に倒れ、ある者は客死し、ある者は自殺する。近代女性文学を並べていけば、さながら「日本女性被虐残酷史」が編めそうな案配なのだ。
フェミニズムの観点から言えば、現実における女性の社会的な進出を讃える一方で、文学や演劇は「女性の敗北」を延々と描いてきたと言えるだろう(心情的な勝利を得ている作品も少なくないが、その分析はひとまず置く)。
たとえば、この『ある女』のタカコを、『嫌われ松子の一生』の中谷美紀が演じてみたら、と想定してみたらどうだろうか。あるいは『恋の罪』の神楽坂恵であったらと。
岩井秀人のタカコは、始終笑われっぱなしであった。しかし、中谷美紀や神楽坂恵なら、おそらく笑われることはない。むしろ、その薄幸さに、涙を誘われるであろう。実際に、『松子』や『恋の罪』は、彼女たちの薄幸に同情を寄せる批評が大半を占めた。これまでの「女が不幸になる物語」には、男女ともに、読者や観客は袖を濡らしてきたのだ。題材が不倫で、女が愚かで、自業自得であったとしても、女性は常に「涙を誘う存在」であった。
しかし、女を男が演じるだけで、状況は一変するのである。タカコが男から男へと渡り歩くのも、不倫の末に、デートクラブで売春するようになるのも、まあ自業自得だよな、としか思われない。実際に、観客は「笑っていた」のだから。だが、最後にタカコの「死」が暗示されるに及んで、観客は何となく「居心地の悪さ」を感じることになるのである。
「笑い」、特に「嘲笑」の要素によって成立するそれは、差別意識と不可分であり、笑われる対象が絶対的な「他者」であることが条件である。いや、他者と言うよりも、自分と同レベルの「人間」であってはならないのだ。一段も二段も低い、「人間以下」であるから、人は愚者を笑い飛ばせる。マイノリティを差別できる。
だが、人間に共通して訪れる「死」が暗示されることで、たとえ男が演じていようとも、タカコもまた「人間」であり、「女」であったことを、観客は思い知らされることになる。この異化作用こそが、今回の舞台の最も演劇的な効果であった。
戯曲上のタカコは、実際は男でもなければブスでもない。多少、トウは立ってきているようだが、まだ28歳の、不倫相手の森(小河原康二)から「美しいなあ」と呼ばれる美人である。もっとも森は何にでも「美しいなあ」と口にする男だが、デートクラブのセクリ小林(平原テツ)は最初からタカコに眼を付けるし、森の部下の吉本(坂口辰平)も「やっぱりタカコさん、いいですね」と言う。定食屋の娘・花子(上田遥)は、タカコが父・等々力(猪股俊明)に近づくことを警戒している。まあ、破滅するまで、平田くん(坂口辰平)やら大久保くん(吉田亮)やらと付き合っていたのだから、少なくとも男そっくりのドブスであるはずはないのだ。
そしてタカコは嫌な女である。森の部下の村田(永井若葉)が、実は森を誘って振られたことを知り、森にこう言う。「わたしと村田って、そんなに、なんか違うかねえ?」 見た目が違うに決まっている。自分が美人であると意識していなければ、これは言えない台詞だ。
この「勝利意識」こそが、歴史上、女を不幸にしてきた正体なのだ。見た目の「美」だけではない。知性や、情愛や、キャリアや、女が自立するために必要だとされてきた諸々の要素が、全て、反作用的に女性を貶めろための要素になっていたことを、岩井秀人はみずからタカコを演じることで証明してみせたのだ。
女が女を演じれば、流す「涙」に紛れて観客は気付かないだろう。「同情」はそこで完結し、差別と戦う意識を女から奪う。殆どの「女の不幸」を描く作品は、実は女性のレジスタンスを懐柔するために作られていた。この「男系社会」の中で、男が女に求めるものは「従順」であり、もっとはっきり言えば「隷属」であり、それを受け入れることを女性たち自身に、無意識的に納得させてきたのが、これまでの「女性文学」だったのだ。
舞台上のタカコを観ればよい。
あの醜い女は貴女である。あの愚かな女は貴女である。
たとえ貴女が若くて美しく、知的で男を手玉に取る技術を身につけていたとしても、それは「表面的なこと」にすぎないのだ。最終的な勝利は、常に「男」が手にする。
貴女はまず、自分の美しさも若さも知性も武器にはならないことを自覚しなければならない。まだ男と「戦った」経験がないのなら、戦わなければならない。既に「戦っている」人は、もっと戦わなければならない。
では、何を武器に? そこまでは岩井秀人は語らない。しかしヒントはある。タカコは結局、どこにも居場所がなかった。自分の生きていくための空間を持ち得なかった。それが「男」であると錯覚していた。
女の幸福は、「男のいない場所」にあるのである。
季節のない街
Co.山田うん
J:COM北九州芸術劇場 小劇場(福岡県)
2012/03/24 (土) ~ 2012/03/25 (日)公演終了
満足度★★★★★
狂おしくも切なく
そもそもダンスの公演を言葉にすることは普通の演劇に比べてもはるかに困難なことだが、山田うんのそのオリジナリティを、到達点の高さを、いかに表現すればよいか、考えるだに、これはもうお手上げと言わざるを得なくなる。
山田うんのダンスは、これまでのどのダンスとも違う。過去の様々なダンスの影響を受けてはいるのだろうが、それをいったん解体し、一つの題材を表現するのに最も適切な振り付けを瞬時に選択し、組み合わせていった、そんな印象を受ける。
緊張と解放が演劇のカタルシスを生むものならば、それが山田うんのダンスの中には凝縮されているし、常に断続的に異化作用が施され続けて一つの流れを作り出している、そんな気もしてくるのである。
と、何とかその本質を掴まえようとしても、言葉は抽象化するばかりだ。「すばらしかった」とありきたりな一言で済ませてしまった方がよっぽどマシな気すらしてくる。
しかし、これだけは明言できる。ダンサーたちが演じていたのは、たとえ言葉は一言も発せずとも、紛れもなく山本周五郎の原作『季節のない街』に登場するあの懐かしい人々なのだと。
ネタバレBOX
映画監督・黒澤明は、生涯に三本の山本周五郎原作による映画を残している(『椿三十郎(原作『日日平安』)』『赤ひげ(原作『赤ひげ診療譚』)』『どですかでん(原作『季節のない街』)』)。
山本周五郎が原作を提供するに当たって、黒澤明に語った言葉が「私の小説は映画にはならない。およしなさい」だった。
周五郎文学は、ヒューマニズムで括られて語られることが多いが、子細に読んでいけば、そんな単純な見方ではすまないことが知れてくる。『季節のない街』の登場人物たちも、電車ばかの六ちゃんは痴呆症だし、京太は実の姪のかつ子を妊娠させてしまうし、乞食の父親は息子を死なせるし、平さんは心を壊したままだ。悲惨なエピソードも決して少なくない。よろずまとめ役のたんばさんの話ですら、「それで終わりにしていいのか」という疑念を読者に残している。
ウィリアム・フォークナーの影響もあると指摘されている周五郎文学は、基本的に“渇いて”いるのだ。そしてそれは周五郎のリアリスティックな筆致によって生み出されているもので、確かに映像化する時に往々にして雲散霧消してしまう。『どですかでん』には“余韻”がなかった。
黒澤明をもってしても、映像化は困難だった原作を、山田うんはいかに舞台化したか。
ダンス・パフォーマンスであるから、もちろん台詞は殆どない。小説の台詞は一行たりとも使用していない。舞台に登場する十数人の演者たちは、よくこのようなポーズを人間が取れるものだと驚くばかりに身をくねらせ、屈伸するかと思えば反り返り、飛び上がったり床をのたうち廻ったり、一人孤独に佇むかと思えば他者とねちっこいほどに絡み合っている。
それはまるで、自らの関節と筋肉を酷使すればするほど、何かから解放されると信じているような、奇妙だが切実なダンスだ。
一人一人の動きを観ていると、そこに自然と「ドラマ」が浮かび上がっていることが感じられる。
恐らくは誰かからいじめられている可哀想な子どもがいる。その子を優しく包んであげている“仲間”がいる。一人の女を取り合っている男たちがいる。女は男達を翻弄して喜んでいるようにも見えるし、逆に戸惑っているようにも見える。「ああ、ああ」と声にならぬ声を上げる“狂人”もいる。ギターを持って、フォークソングを奏でる若者もいる。鍋ややかんをちんちん叩いている連中は乞食だろうか。彼らの衣装はどれも簡素なもので、どんな人物であるかはいかようにも想像が可能だ。
彼らの中には、『季節のない街』に登場する人物らしき人間は誰もいない。「どですかでん」の六ちゃんも、夫婦交換のカップルも、顔面神経痛の島さんも、子だくさんの父ちゃんも、それらしい人物は見かけない。しかしそこは原作通りの「奇妙な街」であり、そこにいるのは「奇妙な人々」である。肇くんとみ光子さんも、倹約家の塩山一家も、きっとどこかにいるのだろう。
この「どこかに」、「あなたに(私に)似た人」がいると感じさせることができていることが「演劇」なのだ。
そして舞台には、踊り狂う彼らを静かに見続けている「普通の人々」もいる。彼らはその街の「通りすがり」で、ただそこをチラ見しながら移動するか、一休みするかだ。しかし彼らが我々観客の“もう一つの目”となることで、観客は街の人々の、無数の喜びと哀しみをより切実に想像することが出来るようになっているのだ。
そして、ベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」。
フルオーケストラで演奏されるその曲が、街の人々の「魂」を歌い上げる。この歌を彼らのために歌っているのは「我々」だ。彼らの中に偉そうな上流の人々は誰もいない。どこかの小さな街の片隅で、世の中の動きとも政治とも大事件とも無関係に、歴史の流れから取り残され、細々と暮らしている庶民たちの姿であり、「我々」なのだ。
それは原作がそもそも持っている力であるが、山田うんが、「原作から離れることで」、原作に肉薄することが出来た、稀有の手法によるものである。
アフタートークで、山田さんの演出が、「粘菌」にたとえられていたのが面白かった。粘菌には頭脳がないが、迷路における最短距離をなぜか選択できてしまう(マンガファンは『もやしもん』参照のこと)。
山田うんの頭の中にも、常人には分からない「粘菌ルート」があって、それがこのようなオリジナルのダンスを生み出していくのだろう。彼女の舞台に接することが出来た幸運もまた、観客の直観によるものであるとすれば、我々にも「粘菌ルート」があると思っても構わないだろうか。