実演鑑賞
満足度★★
鑑賞日2025/03/16 (日) 15:00
座席1階1列3番
価格2,800円
■コトリ会議❘おかえりなさせませんなさい
http://kotorikaigi.starfree.jp/2024/okaeri-nmns/
キビるフェス3本目にしてラスト公演。「コトリ会議」は関西を中心に活動している劇団だが、全国展開も熱心で、福岡公演もこれが3度目。結成から18年を経ているので、もはや新興劇団とも言えない。
にも関わらず、この舞台から感じる「素人臭さ」「青臭さ」は何なのだろう。好意的に解釈すれば、それはコトリ会議が未だ発足当時の新鮮さを失っていないのだと言えなくもない。もっともそれは、この劇団の初期作品を私が観ていないがゆえの推測に過ぎない。やや悪意的に見るなら、単に「進歩がない」だけなのかもしれないのだ。
その判断を下すためには、戯曲を子細に吟味しなければならない。でもこの戯曲、かなり「ずるい」作りをしてるんだよね。舞台をある喫茶店に限定しながら、背景に戦争やら何やらを匂わせて、いかにも「壮大なテーマ」があるように見せかけている。でも見せかけは見せかけであって、決して本質ではない。うっかり「外見(外面)」に引っかかると、何だか「褒めなきゃいけないような気にさせられる」のである。ある意味、「批評を錯覚させる」または「批評を拒絶する」作りになってると言えばよいか。
もう少し詳述すると、これ、作品の設定的には「演劇」には全然向いてないんだよ。時代背景は百年後の未来なんだそうな。でもって、世界は第八次(半)世界大戦の真っ最中なんだそうで。
でも時間と空間に制約された舞台では、そんな「大世界」を表現することは困難(というよりは無理)だから、結局、舞台はどこぞの喫茶店で、登場人物も一家族に限定して展開されることになる。
いや、個人や一家族のある時期を切り取って、それを象徴として、彼らを取り巻く「世界」そのものを描くって手法はもちろんあるよ。NHKの朝ドラがよくやる手だ。『虎に翼』も一弁護士の半生を描いて、戦争から復興し、全体主義社会から脱却して「自由」を勝ち取っていく「日本社会」そのものを描出することに成功していた。
でもコトリ会議のこの舞台はどうか。はっきり言って、大失敗してはいないか。
第八次半世界大戦って何だよ。その間、どことどこの国が戦って、どう決着したか、作者はちゃんと設定してるのか。してないよな?
適当に言ってるだけなのはバレバレで、要するに戦争云々は「世界設定」としてすら機能していない、ただの言葉遊びに過ぎない、他の設定でも置き換え可能なものなのである。
どうしても「戦争」を描きたいのなら、アニメ映画『風の谷のナウシカ』とかを参考にしろよ。「風の谷」って限定された舞台で、説明的になりすぎない台詞で、わずか2時間の尺で、地球規模の戦争を描いてたろう。でもあれはアニメだからな。演劇とは表現手段が全然違う。ならば演劇で「世界」はどうしたら描けるのか?
みんな、そこで大いに苦労してるんだけどね。この作者はかなり「楽な道」=安易な設定を選んではいないか。
演劇・舞台で戦争を題材にすると、ともすれば『肝っ玉おっ母とその子供たち』みたいにストレートに反戦主義・社会主義的なイデオロギー優先の芝居にな里がちだ。それが悪いとは言わないが、いささか偽善的で「鬱陶しい」ことは否めない。
そうした「思想臭さ」から脱却する方法の一つとして、「SF」としての完成度を高めていくというやり方がある。思想の読み取りは受け手に任せて、表現そのものを抽象化する方法である。
『ナウシカ』が面白いのは、作者の宮崎駿は社会主義イデオロギーの人でも、作品が「SF」として傑出してるから、結果として「思想臭」が払拭されてるからなのね。
設定だけではなくて、ドラマの面でもこの舞台は失敗していると思う。SFになりきれてないって点もそうだが、作者は「演劇」ってものが何をどう表現するものなのか、根本的なところから勘違いしているのではないか。
20年近くかけて辿り着いた舞台がこの出来では、そう判断せざるを得ない面もあるのではないかと思う。