昏睡
青年団若手自主企画 山内・兵藤企画
アトリエ春風舎(東京都)
2009/08/17 (月) ~ 2009/08/26 (水)公演終了
満足度★★★★
昏睡の中で見た(悪)夢7編
丁寧、精緻に演出されていると感じた。
役者も熱演で、エピソードとエピソードを、まるでモーフィングのように繋いで、テンションや設定を変化していく様は凄い。
ちょっとした仕草や視線、髪の毛による表情の見せ方などで、見事に変わる(粉を使っての白髪表現は、もうひとつだったが)。
固唾をのんで見入る私だったのだが、私の日常的なものには響いてこなかったように思う。
好みが大きく分かれる舞台ではないだろうか。
ネタバレBOX
男女間(あるいは人と人の)の7つの話(エピソード)で構成された2人芝居。それは、あえて言えば、重−軽−重−軽−重−重−重という印象の7つ。それぞれにエピソードには表面的な繋がりはないようだ。
離れている者たちがエピソードが進行するごとに、より近づいていき、交差し、最後は混じり合うよう。
それは、それぞれのエピソードに登場する人物は同じ人物ではないものの、硝煙の中にいる基本的に理解し合えない2人が、最後のエピソードでは一緒に灰になるように。
最初のエピソード「戦場」は、近年の民族紛争を描いているようであり、その不気味さと重苦しさが際立っていた。このテイストで90分続くとなると、かなり厳しいと思ったほど。
このエピソードを観ただけで、すごい本であり、演出であることは感じた。
他の、一見軽そうに思えた、例えば「結合」という、ダブル不倫で抜き差しならない状態にある男女が、まさに文字通り抜き差しならない状況にあるような、コメディテイストのあるエピソードであっても、笑いの中、ラストは不条理劇のようなビターな印象がする。
全編を覆う重い空気が、切り裂くようなアラームと黄色の回転灯で、さらに加速していく。
男女の間って、というか、人間同士の間って、こんなに緊迫して重いものだったのだろうか。
脚本家の脚本とそれに共感した演出家、その両名の男女観(人間観)の反映なのだろうか。
初演では14名が演じたというのだが、2人で演じ切る今回の舞台を観て、その14名の影すら微塵も感じなかったというのも凄い。
こうなると見比べてみたいと思う。
観客の拍手後、俳優が舞台を去るときに、女優が発する台詞が、とにかくカッコよかった。ちょっと出来過ぎだけど(表情にもちょっと現れていた)。
ただし、残念なのは、観ている私の「日常的なもの(存在)」には響いてこなかったことだ。それは舞台の上で完結してしまったような。
-改訂版-汚れなき悪戯
劇団桟敷童子
西新宿成子坂劇場(東京都)
2009/08/12 (水) ~ 2009/08/16 (日)公演終了
満足度★★★★★
夢中で観劇! さすが桟敷童子!
とにかくうまく構成されているな、と感心してしまう。
いくつかの「?」がうまく話をつなぎ、見事に独自の世界を描き出す。
役者たちの温度の高さもいい。
夢中で観劇した。さすが桟敷童子。
ネタバレBOX
映画の『汚れなき悪戯』は、私も劇中の少年たちと同様の小学生のときに観たのだが、捨て子で孤児になってしまったマルセリーノが、親切をした結果、天国に召されてしまうという、あまりにも理不尽な内容に涙し、憤りを感じたのを今でも覚えている。キリストに「マルセリーノ・パンと葡萄酒」なんて名前を付けてもらっても、うれしくないのだ。
「奇跡」を起こしてくれるのならば、天国にいる母親を生き返らせるべきだろうと思った。
しかし、劇中の山崎少年たちは、そうではなかった。映画に出てくる大男(キリスト)に願い事を叶えてもらいたいと思うのだ。
今でも、映画音楽を聞いたり、一場面を思い出しても涙しそうになる私は、「えっ、そっち?」「それはおかしいよ!」と思った。しかし、彼らが本当に惹かれていたのは、実はさらに違うものだった。
映画では、キリスト像が置かれている屋根裏部屋は、入ってはいけない場所であった。その禁を冒し、マルセリーノは入ってしまう。
舞台では、マルセリーノと名付けた、少年たちがつくろうとしているモノは、扉の向こうにあり、山崎少年しか入れない。他の者は見ることすらできない。
山崎少年は、映画の向こう、扉の向こうに何を見たのだろうか。
なぜ、マルセリーノをつくろうとしたのだろうか。
それは、「死」だったのではないだろうか。映画のマルセリーノが扉の向こうに行き、「死」によって希望を叶えてもらったように。
山崎少年は意識していなかったと思うのだが、死に魅入られてしまったのだ。
そして、その「死」の磁場のようなものに引き寄せられて、戦争が終わったのに、戦争の爆薬で大勢が死んでしまった、ひまわりが咲く地下倉庫に行き着いたのだ。
ほかの少年たちも、それにうすうす感づいていたのかもしれない。
少年たちにとって、「死」とは、身近でないだけに魅力的だったりするからだ。
だから、マルセリーノ(少年たちがつくっているモノ)は、とても危険な方法、つまり、電車に10円玉を潰させた板でつくられるわけだ。轢かれてしまえば、人なんかはひとたまりもない電車に、10円玉を轢かせてつくるのは、刺激的であるはずだ。死と隣り合わせにある刺激。
山崎少年は、マルセリーノについて、直感的によくないものであると気がつくのだろう。それを確かめるために彼のブリキの飛行船を欲しがった丸尾少年に、交換条件を持ちかける。
そして、丸尾少年は死んでしまう。山崎少年は、マルセリーノの真実、自分が魅入られていたモノに気がついてしまい、恐ろしくなり、マルセリーノを妹とともに葬ろうとする。
しかし、山崎少年は、大人になっても、マルセリーノの「死」と丸尾少年の「死」の呪縛から抜け出せず、マナルセリーノをつくり続けるのだが(周囲からはノイローゼと言われてしまう)、やはり死んでしまう。
かつて山崎少年と一緒にマルセリーノをつくっていた重田も、会社を辞めさせられてから、山崎のマルセリーノづくりを受け継ぐ形でつくり続ける。
かれも「死」の磁場にとらえられてしまったのだろう。
山崎も、妹がときどき見に来るぐらいに、孤独だったのだが、それと同様な状況に重田もいたのだろう。
かつてマルセリーノをつくった仲間たちは、普通の生活の中で満足しているので、マルセリーノは必要ではない。
何か「負」の要素を持つ、少年や主婦、女性たちが、重田とマルセリーノの発する匂いに惹かれてマルセリーノづくりに加わる。
しかし、彼らには「居場所」と「仲間」が必要なだけで、重田のように切羽詰まったところまでは行ってなかったのだ。
死に魅せられた重田は、闇の中に飲み込まれていく。
いないはずの丸尾の妹は一体誰(何)だったのだろうか。何を求めてやってきたのだろうか。山崎、重田のことを考えると怖い存在だ。
切ない話である。死に魅入られてしまった者を救うことはできなかったのだろうか。
「死」が「奇跡」であり、「幸福」なことであるという映画のラストとは違う、「死」から遠ざけることができるようなラストこそ、今、必要だったのではないかと思う。
今回の舞台では、その点が唯一、残念である。
山崎と丸尾の、それぞれの妹役が熱演であった。目がよかった。
少年たちがつくっていたマルセリーノの不気味さもいい。
セットの感じもいいのだが、10円玉を磨くときのギミックも素晴らしい。
そして、桟敷童子らしい、オリジナルの歌がいい。
それにしても、桟敷童子は、ひまわり好きだなぁ。
雨の一瞬前(再演)
ユニークポイント
ザ・スズナリ(東京都)
2009/08/14 (金) ~ 2009/08/16 (日)公演終了
満足度★★★
人が人と出会うには苦しい時代
偶然に人と人とが出会う。
始めて会う人たち、数十年ぶりに会う人。
出会った人たちのタイミングは、「時代」という理由のために、決して最良ではなかった。
なんでもない時代ならば、なんでもない出会いだったかもしれない。
人と人が出会って、何かが生まれ、別れていく。
別れてしまえば、二度と会えない。
しかし、それぞれの中に何かが残っていった。
それは、強く残ったものであった。
舞台ならではの、人がそこにいる、という実感。
とてもいいテーマと設定だと感じた。
ただし、どうも今ひとつ、のれない自分がいた。
ネタバレBOX
のれないのは、登場人物の行動に対する動機が、観ている側(私)に迫ってこないからだ。
例えば、旅館の女主人がなぜ、そこまであからさまに戦争を悪く言うのか、そして、なぜそこまでして旅館を再開させたいのかが、わからない。
戦争によって、普段の生活が奪われてしまったことを憎んでいるのはわかるし、両親の残してくれた旅館を大切に思っているのもよくわかる。
しかし、時代背景から言うと、その想いが強すぎはしないか、ということだ。
20年ぶりに会った友人の心を傷つけてしまうほど、戦争を嫌だという気持ちがあったり、逃げてきた朝鮮人たちを使ってまで旅館を再開したいというのは、常軌を逸しているとしか思えないのだ。
もちろん、本当に戦争を嫌だと思っている人は大勢いたと思うのだが、相手がどんな考えなのかもわからないのに(なにしろ20年ぶりに会うのだから)、自分の主張を述べたり、警察に追われている朝鮮人たちを匿うだけでなく、彼らを使って旅館を再開させようとする行動は、簡単には納得できない。
たとえどんなに大きな旅館であったとしても、姉妹2人住まいの家に、見知らぬ男性2人がいて、仕事をしているのは近所でもわかるだろうし(薪割りまでさせているのだから)。
そういう行動をとるのはなぜなのか、匿うことを決意したのはなぜなのか、ということをもっときちんと観ている側に納得させてほしかった。
困っている人がいたから助けた、ではすまない時代と設定だと思うからだ。
女主人の妹の犯す殺人もそうだ。姉を助けるために果物ナイフが都合良く置いてあったから、刺してしまいました、では納得できない。
姉を助けたい一心はわかるのだが、普通に暮らしている女性が、たとえ戦時下という状況であったとしても、めった刺しまでするだろうか? たとえ、それがしょっちゅう家に押し掛けてくる嫌な相手であったとしてもだ。
普通の女性が、殺人までしなくてはならない理由がわからない。
そもそも、妹に殺人をさせる物語の意図もよくわからない。
そして、朝鮮人を匿っていることを警察に密告する女教師の行動もわからない。
20年ぶりとは言え、かつての友人が見なかったことにしてくれ、とお願いしているにもかかわらず、簡単に密告してしまう。
友人として、匿っている理由ぐらいは訊ねるのではないだろうか。普通はその上で、密告ではなく、まずは説得しようとするのではないだろうか。
30後半の年齢で、まさか戦場に行かされると思っていなかった夫のことを、まるで侮辱されたように感じたから、あるいは、教師という職業柄させた行動なのだろうが、それでもなぜそうしたのかを理解させてほしかった。言葉では「いろいろ考えたが」とは言っていたが、それは伝わってきてないと思うのだ。
女教師がスカートだったのもちょっと気になったし。
そして、戦時中の緊迫感をなぜ感じないのだろうと考えてみたが、それは、空襲があるにもかかわらず、灯火管制を一切しておらず、電灯が明々と点いていることだ。せめて、それぐらいはするべきだったのではないだろうか。女主人の主義主張はともかくとして。
同居しながらの交流は、歌や言葉を教えたりというシーンで少しは垣間見られたのだが、もう少しそこのところが欲しかったと思う。
いろいろ書いてみたが、そういう意味では見入っていたのだと思う。だからこそ、いろいろと丁寧に描いてほしかったのだ。
「物語」の「ストーリー」ではなく、「深さ」を感じたかった。
3月10日の大空襲がラストの山場になるのだが、たぶん旅館のある本郷界隈は焼け残ったのであろう。あえて残った本郷を舞台にしたのは、なにもかも焼けて灰になってしまうのではないように、すべての罪も消えてなくなってしまってはならないのだ、というメッセージであるととらえた。
つまり「戦争はすべて奪い去ってしまう」のと同時に、重いモノを確実に残していく。そしてそれを消し去ることはできない。
なんでもない普通の平和な日に出会ったのならば(戦争なければ出会わなかったということもあるが)、こんな不幸なことは起きなかっただろうし、妹に殺されてしまった男も戦争に行ったことで人が変わってしまい、命を縮めてしまった。
日本人に憎しみを強く抱いている、チョン・ヨンサンが、ラストで「日本の歌を覚えたい」と言った台詞は、救いであると思った。
野外パフォーマンス『果物夜曲』 *入場無料
FUKAIPRODUCE羽衣
東京芸術劇場 アトリウム前広場(東京都)
2009/08/11 (火) ~ 2009/08/16 (日)公演終了
あぁ、楽しかった!!
池袋西口の空に、恋の妙ージカルが響く。
声は、ビルにほんの少しは響くけど、ほとんどはそのまま、空へのぼっていく。
だから、歌詞は聞き取れないところもあったのだが、とても満足(そこにストレスを感じる人もいるかもしれないのだが・・・私は満足)。
歌う端から空に消えていく、唄。
役者は目の前の観客へ、恋の想いを届かせようとして一生懸命に歌う。だから、短い上演時間なのに汗だく。
もっと観たかった!・・・大変だっと思うけど。
20分だけのイベントだから、星は付けないでおきます。
ネタバレBOX
1人と1人が果物屋で出会い、野菜炒めが肉野菜炒めになっていく、愛の物語。
池袋の街にふさわしいような、不器用な2人。
客入れのときから、サービス精神が発揮されていた。
まず、出演者が自らお出迎え、お客さんを呼び込んでいた。
お客さんは、出演者かスタッフの後に従い、入口からぐるっと回り、舞台の後ろを通り、観客に姿を見せてから着席する(舞台をよく見てなかったのだが、てっきりスタンデイングかと思っていた)。
その間、「お待ちしてました!」などという声が出演者から飛ぶ。どこに座ろうかとしていると、「ここがいいですよ」とか「いい場所に座りました」などという声もかかる。それがとても楽しい。
舞台の上にも雑踏があり、カップルがいて、さらに私たちの舞台全体を取り巻く池袋の街にも、雑踏があり、カップルだったり1人だったりする人たちが歩くという感じはなんだか面白い。
芸術劇場前にある木組みの舞台そのものが、格子のようになっていて、池袋の街が見える。歩いたり佇んでいたりする人たちが見える。カップルだったり、1人だったり、親子だったり。その人たちから私たちも見えるという状況は、観ているはずの私たちを含めて、イベントであり、出し物のようで愉快だ。
"Are You Experienced?"
CASTAYA PROJECT
こまばアゴラ劇場(東京都)
2009/08/10 (月) ~ 2009/08/25 (火)公演終了
満足度★★★★
ほぼ期待通り
な90分。
そうきたか・・・というほどではなく、前回ほどの衝撃もなかったが、それでも十分楽しめた。
ネタバレBOX
前回のパロディというより、ちょっとしたギャグでスタート
空気を読む&顔色を見る
まるでコミュニケーション研修
集団と個人
偽りの、幻のコミュニティ崩壊
ヒビが入れば絶対に戻らない
声は届かず
轟音に汗
肯定&肯定&肯定・・・・
でも・・・。
年寄りが1人いたらどうなっていたのだろうか?
しゃがむときに、膝が鳴るのがちょっと哀しい。
ジミヘンではなかった。
・・・ネタバレ自由とのことだが、全ステージ終了までは細かくは書くまいと思った。もっとも「ネタバレ」してどうこうという内容ではなかったし、だから? と思うのだが、だったら書かないと決めたのだ。
そして、字幕はウケ狙いだけのようで(挑戦的であってもウケ狙い)、余計だと感じた。結果、ミスリードになっしまうのではないのだろうか。
ドリトル先生と動物たち
NPO法人アートネットワーク・ジャパン(ANJ)
にしすがも創造舎 【閉館】(東京都)
2009/08/04 (火) ~ 2009/08/12 (水)公演終了
満足度★★★
『ドリトル先生航海記』前編・・・。
『ドリトル先生航海記』(井伏鱒二訳・・それは知らなかった)を原作とした、主に子どもたちを対象とした演劇。
チラシがとても楽しく、期待は高まる。
ただ、今回の趣旨からも、観客には子どもが多く、中にはむずかったりする子どももいるだろうな、ということは覚悟の上での観劇だった。
ところが、席の配慮のためか、そういう子どもはいたとしてもあまり気にならず、楽しく観ることができたのだ。
ネタバレBOX
とはいえ、来ているこどもたちの親でもなく、ましてや劇団の関係者でもないのだが、子どもたちはこれをどう観ているのか? が結構気になってしまい、舞台の上だけでなく、ついつい子ども席のほうに視線が行ってしまった。
ドリトル先生シリーズを読んだのも、ミュージカル映画の『ドリトル先生不思議な旅』を観たのも、太古の昔の小学生の頃だったので、あまりよく覚えてはいないのだが、次から次へといろいろなことが起こり楽しかったのは覚えている。
さて、今回の舞台なのだが、まずなんと言っても、音楽が(ほぼ)生演奏なのが楽しい。しかも、電気楽器ではなく、オルガンも最近目にしない足踏み式だ。それにアコーディオンやトランペット、太鼓などの楽器が加わり、優しく楽しい音楽を役者たちが奏でる(と言うより、メインの楽器については、ミュージシャンが演奏し、役もこなしているのだろう)。
役者たちも、丁寧に演じているのが好感が持てる。
ただ、個人的に少しだけ残念だったのが、『ドリトル先生航海記』が原作なのに、波瀾万丈の航海の部分が話の中心でなかったことだ。もしそうだったのならば、子どもたちの目はもっと輝いていたのではないだろうか。もちろん私の目も。
どちらかと言うと、航海に出かけるまでが話の中心で、航海は急ぎ足で述べられたのみだったのだ。
今回の舞台で一番感心したのは、子ども席の設置だ。ある程度の年齢の子どもたちは、親と離れて、小さな子どもは親と一緒に、前方の桟敷席での観劇となっていた。親や一般の大人の観客は、桟敷の後ろの階段状の座席に座る。
そうすることで、舞台が近くなったり、小さい子どもが途中でトイレに行ったり(今までなかったと思うのだが、おしめ替えもできるようなトイレが設置されていた)、飽きてきて外に出たとしても、普通に座席に座っているよりも、周囲に迷惑がかからないし、桟敷なので、椅子にじっと座っているよりも身体の体勢を崩すことも可能なので、子どもや親のストレスも少ないと思う。
また、適度に子どもたちが参加する場面があり、80分程度の上演時間なのだが、集中して観ていることができたようだ。その塩梅もうまいと思った。
かなり高低差のある舞台で、演劇的お約束(例えば、衣装を変えて出てきたら別人であるとか、時間の経過とか、場所の変化とか)がどの程度子どもたちに理解できたのかはわからないが、食い付いて観ている子どもが多かったので、今回の観劇で、舞台の面白さは大いに感じたものと思う。
そういう意味で、今回の舞台は成功だったのだろう。
観客の送り出しで、役者全員が舞台衣装のままずらっと並んでいる様子は、子どもたちにとっても、本当にうれしい瞬間ではなかっただろうか。
さて、来年は何を上演してくれるのか、とても楽しみになった。
花とアスファルト
青☆組
アトリエ春風舎(東京都)
2009/08/01 (土) ~ 2009/08/09 (日)公演終了
満足度★★★★
たとえクマが来ても日常は繰り返され、続く
吉田小夏さんの、というか青☆組の雰囲気は肌に合うようだ。
やっぱり、前作と同様に「品の良さ」を感じた。
そういう視線で観ているから、そうとしか見えないのかもしれないが、生成りの衣装や木材そのものの装置の色合い、役者の会話、立ち居振る舞いなどにそれを感じる。
ゆるやかな、日常の時間が過ぎていく。
ネタバレBOX
団地に現れたクマという異質の者は、いわゆるガイジンに他ならないと単純に読み替えることも、できそうだ。
例えば、明治生まれの一世に厳しく育てられた、日系ブラジル人の三世が、団地にやって来たという設定だ。
妙に丁寧な日本語と物腰だけど、細かいところでの表現がイマイチわからない。見た目は日本人なのだが(ここがクマとは違うところだが)、どこか外国人の印象があり、住民からすると、理由はないのだがなんとなく恐ろしい(猛獣のクマという見えている怖さとの裏返し)。
そして、結局、その三世は日本には馴染めず、故郷が恋しくなってブラジルに帰ってしまう、と、いう話に読み替えられそうである。
ただし、そう単純に読み替えてしまうと、身も蓋もないし、この物語の面白さがぼけてしまうかもしれない。
クマはクマなのだ。
観ていて思ったのは、「母」だったり「妻」だったりする人が、「三者三様ではない」ということだ。しかも繰り返す。
ひょっとしたら、作者の吉田小夏さんは、団地の主婦は、毎日同じことを、単調に繰り返している、と思っているのではないだろうか。
あるいはそういう単調さに「日常」を込めたのだろうか。
いずれにしても、クマなんかが現れなくても、日常は単調ではなく、刺激に満ちあふれているということを見せてほしかった、とも思ったりした。
ただ、どんな異質なモノが侵入してきても、日常は盤石であり、そう簡単には揺らぎはしないということなのでもあろう。
アスファルト(団地の日常)にあっても、花(心のよりどころみたいなモノ)を見つけられる者は幸いということなのだろう。
追いつめられて、雨の夜に団地の屋上に上がってしまう男のように、絵を描いているのに、「見る」ことができない者が多い。
たぶん、「よく見る」ことでそれができるようなるのだろう。
例えば、クマという外側じゃなくて、内側を・・・というのはベタすぎるたとえかもしれないが。
クマにはそれができるのだが、日常に埋没してしまっている団地の人々にはそれができなかった。唯一、独身女性の鈴木さんは、その一端に触れることができたのだが、自らだけではそれ以上先には進めなかった。
クマはそれを伝えに来たわけでもないのだが、自分の居場所はここではない、ということに気がついて去っていったのだろう。
青☆組は年齢の幅があるのがとてもいい、年齢を増すことでの落ち着きだけでなく、繰り返しの日常からはみ出てしまった、いらだちのようなものも現れてくる。
なんと言っても、クマ役の方が、「人のよさそうなクマ」を演じていたのがとてもいい。彼の、その存在で、この舞台の、異質なんだけど、異質じゃなくて、異質じゃないところが、実は違和感というような不思議な空気が生まれたと思う。
そして、観ながら思ったのは、これって、パペットアニメで観たら、うんと楽しかったのでは? ということ。と言っても、舞台で役者が演じることを否定するわけではないのだが。
ばべるの塔の僕とガイジン【ご来場ありがとうございました】
ザ・プレイボーイズ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2009/08/01 (土) ~ 2009/08/05 (水)公演終了
満足度★★★★
ばべるの塔以降の人間たちの、世界平和(?)コメディ
それまで1つの言語だった人類は、ばべるの塔事件以降、多言語となってしまった。
結構大上段っぽいタイトルを冠した、(おおげさに言うと)異文化交流コメディ。
なんだかな〜というところはあったりするのだけれども、結局、ガイジンさんとはうまく言葉が通じないから、笑っちゃうよね、という話なわけで、それなりに楽しめた90分。
「どちらかといえば黒人に見えるチーム」のほうを観たのだが、このストーリーで考えると「どちらかといえば白人に見えるチーム」とは脚本は違うのだろうか、ちょっと気になるところだ。時間があればこの目で確かめたいのだが、無理。
ネタバレBOX
ガイジンの描き方については、う〜ん、と思ってしまうのだが、ま、いいかとさらりと受け流すことにした(名前は笑ったけど)。
出演者は3人だけなので、特に気になったのは、大家さん。
大家さんは、シンイチ(20代・たぶん)の父親の兄であるという設定なのだが、そうすると、50代以降のはずで、その年齢設定であの格好はないんじゃないかなあと。
役者の実年齢と比べて無理があるのならば、せめておじさんっぽい衣装とメイクぐらいするべきではないのだろうか(髪は銀髪っぽくなっていたけど、それだけじゃね)。そうするとおじさんなのに、強すぎるという設定になったと思うのだが。
それでも無理がありそうだから、いっそのこと従兄弟という設定にしてもよかったのでは、それならば見た目には全然問題ないし。例えば、同い年なのに大家と家賃を溜めている店子という関係ならば、別の面白さが増したのではないのだろうか。
終盤のメッセージは、だてに(たぶん)「ばべるの塔」をタイトルに入れていないことがわかるし、言葉の通じないガイジンとの関係なんかもうまく包括していて、なかなかよかったと思う。
笑わせるだけでおしまいでもよかったのだが、そんなコトを入れたりして、ちょっと舞台の空気が変わるのが面白かったのだ。
ま、人によっては、そんなメッセージじみたものは、ウソっぽいと感じるかもしれないが、私は本気とみた。
ラストのオチは、その照れ隠しのように思えて、笑えるオチでは全然ないけど、いい感じであったと思う。
・・・ひょっとしたら「何をそんなマジになって」っていう笑いだったりして・・・。
このオチ、先日観たホチキスの「アルバトロス」と、同じなんだけど、偶然なのか、単に安易なのか・・・。とりあえず、「そんなに面白いオチではない」と声を大にして言っておこう。
ばべるの塔は、高い塔を作ることで、神の怒りをかい、それまで1つの言語だった人類は、いろいろな言語に分けられ、世界に散って行ったという話だったと思うのだが、シンイチは、「天国まで届くような高い塔を作って、その一番上で一緒に住もう」なんて言っているのだ。
人は結局は同じ過ちを繰り返してしまうのだ、ということなのか、それとも、その台詞を何もそこまで深く考える必要はないのかな。
ラーメンすすって、泣いちゃって!
悲願華
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2009/07/31 (金) ~ 2009/08/02 (日)公演終了
観劇後、ラーメンが食べたくなったか?
ラーメン屋が舞台だったのだが、残念ながら、そうはならなかった。空腹だったのに。
だって美味しそうに見えなかったんだもの。
「悲しくも楽しい物語」という説明から人情喜劇と思っていたのだが、意外と喜劇の要素が少なかったし、悲しくは全然ならなかった。もちろん多少は笑えるところもあるのだが、熱演が結果に結びつかないという印象。
学生とは言え、「大阪からやってきた」ということだけで、こちらの期待値(特に会話のテンポ良さや笑いの期待値)を上げてしまったようだ。
ネタバレBOX
ラストはまるで人情モノのように収束していくのだから、そこまでの道程は、やはり笑わせてほしかった。笑わせようとしている要素はいくつか散りばめてあったのだが、残念ながら笑えなかった。
例えば、高校生のことを調べる=探偵=黒スーツにサングラス=探偵物語のテーマ音楽という発想と見せ方が安易すぎてつまらない。一見、安易な方法を使うのはまったく構わないと思うのだが、使うのならば、あえてベタにしました、と開き直るぐらいに、全体的にもっとどんな卑怯な手を使ってもいいから笑わせて、あるいは楽しませてほしかった。
そして、ラストにいくつかのストーリーが、もっとキュッと締まる感じ(すべてが別々にあるエピソードにしか見えなかったので)もほしかった。
例えば、ラーメンが不味くなったのだが、それが美味しくなることの要素とすべての話が解決する要素が混ざり合うようなことがあれば、きっと面白くなったのではないだろうか。
師匠役の人がかなりいい味を持っていたと思うのだが、それをうまく活かせてなかったように見えた。
物語を半ば強引に引っ張る、人助けが生き甲斐の女性も、どう考えても何かを抱えているようで、彼女にも「救い」が必要なはずにもかかわらず、ラストにそれが解決されないのが不思議。この人はがんばりすぎで、空回りに見えてしまったし。がんばりすぎで空回りなのが演出で、つまりその根底にある心の悩みが解決されるのかと思ったのだ。
ラーメン食べるのが重要な要素なのだが、そのラーメンのうまさがイマイチ伝わってこない。ラーメンを食べているシーンでは、単に食べているだけにしか見えず、中途半端な間が空いてしまうだけにしか見えなかった。そのシーンが多すぎて、どうも間が悪い。
そして、やっぱりラーメン屋の話だから、たとえお腹が減っていなくても、帰りにラーメン食べたくなるようにさせないと、ダメなのではないだろうか。
あえて、上から目線で言わせてもらうと、全体的には「伸びしろ」みたいなものは感じた。脚本と演出次第ではかなり面白くなるのだろうと思う、と言うか、思いたい。
ねずみの夜 【公演終了・御来場御礼】
殿様ランチ
サンモールスタジオ(東京都)
2009/07/29 (水) ~ 2009/08/04 (火)公演終了
満足度★★★★★
文句なしに楽しい、幕末(?)シチュエーション・コメディ
うまく話を繋いでいくなーと感心しつつ、結構笑ってしまう。とてもいい感じに笑った。
とにかく面白かった。それは、なんだったら声に出して「面白かった」と言ってしまってもいいほど。
なんといっても、フライヤーやHPでの解説にあるシチュエーションにわくわくする。つまり、フライヤーやHPの解説にある「今夜誰かが切られる」「幕末の志士が駆け抜けた激動の時代」「龍馬暗殺」というキーワードで観劇しょうと、わくわくしていたのだが・・・。
(というか、昨日、キャラメルボックスの『風を継ぐ者』で新撰組を観たばかりだったし・・・)
ネタバレBOX
ときは幕末であり、場所は龍馬が暗殺された近江屋の隣の家・・・だと思っていたのだが、なぜか舞台の上にはどこかの昔の家を展示してあるような様子。
「水瓶」や「傘」に説明書きがあったり、非常口のライトが点いていたり、消火器が置いてあったりと。
「ん?」と思っていると舞台が始まる。観光客が訪れる。そこは確かに近江屋の隣の家らしいのだが・・・。
あれれ、そういう話だったのかとちょっと驚きながらも笑う。でもやっぱり暗転して幕末に・・・はならない様子にまた笑う。
龍馬が暗殺された近江屋の隣の家を、現代に再現した場所を舞台として行われるイベント、つまり、再現ドラマ(あくまでも隣の家の)のような芝居という設定なのだが、その設定を忘れてしまいそうになるほど、つまり「この舞台は幕末なんだ」と勘違いしそうになるほどよくできているのが楽しい。
役者の後ろには、電気で点いている行灯や火鉢があったり、消火器も置いてあったりするのにだ。
芝居に集中しながらも、やはり時々はそれらに目が行き、元の設定を思い出してしまうのも面白い感覚。
とにかく、最初からよく笑った。
どうなっていくの? どういうことなの? という興味を少しずつ明かしながら、すかさず次の疑問を置いていくストーリーには「うまい!」の一言。
ねずみが意味する2つの内容に気がつくのも楽しい仕掛けだ。
ただ、最後に元の設定に戻す何かがもうひとつあるのではないか、と思ったのにそれがなかったのが少々残念(舞台の上での芝居が終わって観客に礼をした後に)。
とはいえ、役者それぞれのキャラクターもよかったし、元の設定のために、あえて(たぶん)現代用語のまま使用している台詞の塩梅もよかった。
そして、「イメージ通り忠実に再現」とか「コンピューターで再現した肉声」なんていう言葉の遊びも楽しかった。
この舞台、実際に京都の町屋で夜に上演したらもっと楽しいだろうな、なんて思ったり。
風を継ぐ者
演劇集団キャラメルボックス
サンシャイン劇場(東京都)
2009/07/11 (土) ~ 2009/08/09 (日)公演終了
満足度★★★★
手堅く安心して観られる。
史実云々ということではなく、新撰組の沖田や土方、近藤についての最大公約数的なキャラクター設定をもとに、池田屋や蛤御門などの史実を少し交えながら、物語を手堅く見せてくれた。
笑いも適度に散りばめられていて(決して好きなタイプの笑いではないが)、物語の進め方がうまく、退屈はしない。2時間ちょっとの上演時間もあっという間だった。
ネタバレBOX
小金井から見た(つまり日記が物語の中心となっての)、群像劇なのかと思ったが、どうもそうではなかった。立川が主役としては、その人となり等が伝わってこなかったし、扱いが薄い。
沖田のエピソードが際立ちすぎてしまったと思う。沖田の恋よりは、主人公であろう立川の恋のエピソードにすれば、立川がもっと活きてきたように思える。
沖田や土方、近藤という、すでに名前だけですでにキャラが立っている者たちの描き方は、もっと控えめにして、立川や小金井など、名もなき隊士たちにスポットを当てるべきではなかったのか。
いや、沖田や土方、近藤を知らない若い世代には、今回のほうが丁寧なのかもしれないが。
それにしても、立川は文字通り走っていたが、時代を走り抜けた、という感じがしないのが一番残念。
確かに、爽やかで楽しい舞台だったのだが、中心となる軸を明確にして、じっくりと見せてほしかった。
また、医者の家庭では明るく楽しい雰囲気を出そうというのはわかるのだが、あまりにもはしゃぎすぎで、ドタバタで、ちょっとなぁ、という感じ(変に踊ったりはないだろうと)。
『容疑者x』でも思ったのだが、物語を進行させるため、あるいは後日談を知らせるのに、誰かが何かを読んで話すというスタイルは、たまにならばいいと思うのだが、ちよっと安易な印象を受けてしまう。
アルバトロス
ホチキス
王子小劇場(東京都)
2009/07/23 (木) ~ 2009/07/28 (火)公演終了
満足度★★★★
確かに濃かった。「笑いのハードル」を自ら高く設定してしまったのかも
だけど、あのフライヤーのイラストから想像していたのは、もっともっと濃いもの(笑)だった。
いい感じに笑いもあり、役者たちの熱演は好印象。役者の表情を観ているだけで楽しかったし。
上演時間が少々長い(2時間少々)のにもかかわらず、舞台に集中して楽しく観劇できた。
ネタバレBOX
フライヤーの「薔薇を咥える男たち」・・・で、どんな内容かと思ったら、漫才の相方の話。
無理矢理決められた相方のサラリーマンと、相方に逃げられた漫才師の、その相性がいかに良いのか、あるいは良くなっていくのかが、この舞台の決め手だったと思うのだが、それがイマイチ感じられなかった。そこはもっと強く欲しかった。
また、例えば、「漫才の相方はこうである」というこだわりみたいなものも欲しかった。
今まで逃げた相方たちが悪夢の中で現れるのであれば、その相方たちとの違いや、男女関係のように、もつれて絡まり合うストーリーもあったのではないだろうか。つまり、フライヤーの薔薇を咥える男子たちのような、ちょっと危ない関係に陥りそうなものだ。
キーポイントとなる漫才は、最初は、それなりにテンポがあって面白いと思ったのだが(舞台の漫才が終わったときに、観客からも思わず少しだけど拍手が起こったりしてた)、ラストの一番大事な漫才が、意外とありきたりでそれほど面白くなかったのは残念。確かに息は合っているように見えたのだが。
全体が1週間の話であり、漫才コンビの関係が徐々に良くなっていく様とともに、漫才も面白くなっていくようにならないとダメであり、そういう意味でかなり高いハードルを自ら課してしまったようだ。
最初の漫才が面白ければ、観客は、ラストにはもっと凄いものを期待してしまうのは当然。
例えば、逆に、漫才は下手だけど、とにかくコンビの相性が良く、「俺たちはこれでやっていくんだ!」という強い意気込みが最後に示される、という方法もあったのではないだろうか。
これからどうなるかわからないが、家族も周囲のみんなも応援してくれる、やる気だけは満々、とにかく2人で新しい人生をともに進もうという前向きな話だ。1週間促成のコンビの話だからこのあたりが妥当だったのでは。
つまり、「漫才」の話ではなく、あくまでも「相方」の話として。
いろいろな要素、キャラクターがたくさん散りばめられていたのだが、それが集約されることもなく、別々のエピソードとして走っていたのも少々残念。
特に、サラリーマンと奥さんとの会話がかなり面白かったので、これが漫才または物語にも活きてくるのかと思うとそうでもなく、そこはもったいないと思った。
ただし、奥さんもそうだが、女性ディレクターの独特のテンションもとても面白かった。
ドタバタでいくのであれば、もっと「相方探し」に固執して、例えば、悪夢の中の元相方たちも含めて、舞台に出てくるすべてと組んでみる、なんというムチャさでも良かったように思える。
ラストの「どっきりオチ」は意外とつまらなく、もうひとヒネリ、というかもうひと笑いほしかった。どっきりで始まった話だから、どっきりできれいに終わらせるということなのかもしれないが、最後は「きれいに」ではなく、どんな手を使っても「笑わせて」終わってほしい。また、その後の酔っぱらってみんな寝ていて、というのも、すっきり「オチ」のようにしてあればいいのだが、そうではなかったので蛇足だったかも。
最初の物語の滑り出しがかなり面白かっただけに、残念だった。
そうそう、前作でも感じたのだが、前作よりもサイズの小さな会場でありながら、独特のホチキス色の強いセット(斜めだったりする)の使い方はやっぱりうまいと思った。
明けない夜
JACROW
サンモールスタジオ(東京都)
2009/07/17 (金) ~ 2009/07/26 (日)公演終了
満足度★★★★★
<外伝>張りつめた緊張感
確かに、本編ではすっきりしない感が残っていたので、外伝は見てみたいと思ったのだが、スケジュール的にはかなり厳しいので、完全に観るのをあきらめていた・・・。
ネタバレBOX
みささんの「ああ、成る程!と納得する」「観たほうがいいです」という悪魔の囁きコメント(笑)に負けて(背中を強く押されて)、なんとか都合をつけて観に行った。
そして、「みささんありがとう」とまず言いたい。
決断をさせてくれたおかげでとても良いものを見逃さずにすんだのだ。
出演者が1人5分ずつ語る、ということだったので、てっきりそれぞれが舞台の真ん中に立って、モノローグを語るのだと思いこんでいたのだが、それはうれしいほうに外れた。
それぞれが短い1人芝居で、出演者それぞれの、それぞれの時間帯(1年前から2日後まで)における大切な状況を見せてくれるというものだった。
1人芝居を演じることで、その人がどういう人だったのか、ということだけでなく、その場にいる(という体の)物言わぬ相手(1人芝居なので、相手の台詞は一切観客に聞こえない)の状況や心情が浮き彫りになるというところが素晴らしい。
1人芝居は、その人が話をするシーンだけではなく、聞き手側にいるシーンが多く、間や沈黙によって、表情がよりクローズアップされることで、特別な時間を作り出していた。
まさに役者の力量が試されているようで、迫力も緊張感もあった。
その瞬間は、役者としても気持ちよかったのではないか、と思ったりもした。
中でも、お手伝いさんの人柄と娘の優しい気持ちが表れるシーンや、ほとんど無言ながら母親の心情を見せてくれたシーンには感動すら覚えた。
そして、ラストの台詞には、先のお手伝いさんとの会話が伏線になっていたり、父親の所行も外伝で明らかになっていただけに、思わず落涙してしまいそうに。
改めて、子どもが事件に巻き込まれるという、苦しい話を思い起こしたのだった。
本編と外伝で合わせて1本だ、と簡単に言ってしまえないような力強さと「舞台を観た」感がそれぞれにあった。
いい舞台だった。
旅がはてしない
アマヤドリ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2009/07/17 (金) ~ 2009/07/21 (火)公演終了
満足度★★★★★
「私」とは、どこからどこまでなのか? 「私という存在」はどこにあるのか?
前作『プラスチックレモン』からこの劇団を観始めた者としては、今回も前回同様に、観劇後、私を深い思考時間に連れて行ってくれた。
火花が出るようなと言うか、切れ味が鋭いと言うか、そんな会話の応酬にひょっとこ乱舞の凄さを観た。台詞の1つひとつが深く、うなってしまう。
ダンスはもとより、すべてにおいて無駄がないし、レベルが高い。
中でも、チョウソンハさんは、あいかわらず凄いし、笠井里美さんと中村早香さんの独自のリズム感ともい言える台詞回しも素晴らしい。
もちろんそれは他の役者さんたちの仕事ぶりがあるからのことでもある。
ネタバレBOX
2009年7月14日、改正臓器移植法が成立した。
未来なのかどこなのか、そこでは臓器だけでなく、身体の各部位の交換、さらには身体そのものの交換まで簡単に行えるようになっていた。
しかも、ファッションとして。
例えば、私の手は「私」のものである。その手を誰かに付けたら、それはまだ私の手なのだろうか、それともその誰かの手になってしまったのだろうか。
他人に渡すのが、「脳」だったら、その脳は一体「誰」なのだろう。
「私」は一体どこに存在するのだろうか。脳なのか、生命そのものなのか。脳であったとしても、例えば、私が「私である」という記憶を失ってしまったら、「私」は「私」であり続けるのだろうか。
ミチは、人と人を繋ぐ。好きな人、想っている人に繋がることもできるし、離れることもある。
ミチは、通路であり、同時にコミュニティでもある。
地面からの高さ30センチ〜60センチにあるコミュニティ。
立ち上がって動き回る者には関係ないというところがミソ。
どんな時代になっても、人は人と触れていたいと思うのは変わらない。
自分という存在が不確かで希薄であればこそ、他人の存在が重要になる。
大勢の人の中に埋もれつつも存在する「私」。ミチでシャッフルしながら、人と文字通り交わりながら、希薄になっていく「私」。だけどそこに「存在」している。
「他人」があるからこぞ「私」があるという感覚。他人の言葉で私が私を確認できるような感覚。
また、他人は、自分の持ってないものを必ず持っている。自分の持ってないものは欲しくなるし、手に入れることができる立場や状況にあるのならば、手に入れる。
しかし、手に入れても、それは自分のもの(あるいは、自分そのもの)になるわけではない。
欲望には終わりがない。
人は、手に入れられるものは何でも貪欲に手にしてきた。これからもそうし続けていくであろう。
舞台を観て、人はこんなところまで来てしまったのかと思うのだが、過去の人から現在を見ると、同じように、人はこんなところまで来てしまったのかと思うに違いない。
3人のミチの管理者は、それぞれが表裏に持つインプラントに代表されるように、人が進むときの要素のようなものを、象徴的に示しているのだろう。
便利だったり、快適だったり、健康だったり、安全だったりという名目の下、実はかけがえのない何かを失ってきているのかもしれない。
もちろん、後戻りはできないし、後戻りしようと言うわけでもないし、立ち止まって考えてみようということでもない。
「ミチ」は、まだ先に続いている。そして旅はまだまだ続くのだ。
ラストの「海」。「海」はから進化したモノたちにとって、それは希望なのか、さらへ先に進むことだけを示唆しているのか、余韻があった。
・・・サナギ版を観られなかったことを悔やむ。
明けない夜
JACROW
サンモールスタジオ(東京都)
2009/07/17 (金) ~ 2009/07/26 (日)公演終了
満足度★★★★★
物語と演出の巧みさに引き込まれた
よくぞこの時間内にうまく収めたと思う。無駄がない。
この時代設定だからこそ、なしえた物語でもある。
ネタバレBOX
現在から過去、それが徐々に現在に近づきつつ、物語の核心に迫ってくるので、観る者を釘付けにしてしまう。
自分のことと今回の事件をダブらせて、血気にはやる若い刑事がいることで、緩急もついた。緊迫感もある。子どもの誘拐という、やるせない物語に、さらにそれぞれの想いや感情や思惑が交差し、やるせなさが倍増してくる。
ちょっとした台詞などで、登場人物1人ひとりのバックボーンや関係性が徐々にうっすらと見えてくるのも素晴らしい。
足りないとすれば、「汗」と「扇風機」か。
汗をにじませたり、扇風機にあたったりという演技・演出が加われば、「暑さ」も獲得できて、このやるせない話がさらに辛くなったように思えるのだ。
一番の問題は、「外伝」があることだ。
観客としては、この本編だけということであれば、舞台で観た情報だけを頼りに自分の中で整理して、鑑賞するのだが、すでに「外伝」があることを知ってしまっているので、いったん頭で構築したものを、できれば答え合わせのように確かめてみたいという欲求が生まれてしまうのだ。予定に組み込めなかった観客には、ちょっと酷。本編がよかっただけに、できれば観たいと思うのが人情だ。
だから、この2本は、できれば1つの作品として上演してほしかった。
平日の20時開演はありがたい。
- 初恋
世界名作小劇場
シアター711(東京都)
2009/07/15 (水) ~ 2009/07/20 (月)公演終了
満足度★★★★★
恋をすれば、いつだって初恋
面白かったなあ。
物語を進めるリズムがいいから、舞台に見入ってしまった。
ネタバレBOX
世の中の偏見に立ち向かうはずの、強い意志を持った人が、実は、そういう偏見の根底にあるのと同じ固定概念に最も縛られていた、という展開はとても面白いし、うまいなと思った。
舞台の左右前後のの使い方もうまいし、役者さんもみんなよかった。
中でも、ズボン女の素っ頓狂さは素敵すぎる(笑)。声はでかすぎだけど。
2人でいるときのしおらしさ、スカートになっていた様子なんかは、とても微笑ましい。
また、管理人さんの若いのに落ち着いた雰囲気もとても良かった。
世界名作小劇場は、今回で当分お休みということだ。もちろんそれとは全然関係ないだろうが、ラストの下宿を出て行く男に、管理人さんが「一緒に行っていいですか」と言って断られるシーンに、ついそれをダブらせて観てしまった。
そういえばタイトルの「- 初恋」の「-」ってどういう意味なんだろう。最初は、「一」(いち)かと思っていたけど。
どうでもいいことだが、昨日観たplay unit-fullfullの『罪とハネムーン』でも、親の後を継いで下宿屋をやっている若い女管理人と、男ばかりの下宿人たちの話で、しかもオカマが出てくる。偶然なのだろうが、続けて観たので変な感じ。
罪とハネムーン 7月17日18日20日完売!
play unit-fullfull
調布市せんがわ劇場(東京都)
2009/07/17 (金) ~ 2009/07/20 (月)公演終了
満足度★★★★
みんな不器用なんだよなぁ、ホントは。
チラシにあったように「不器用な人達の愛のお話」。
そしてそれは、決して他人事ではないような「不器用さ」を感じさせてくれる会話劇だ。
無理に大笑いさせるのではなく、日常にあるような、「くすり」とする程度のちょっとした笑いが所々に散りばめてあるのも好感度が高い。
ネタバレBOX
台詞の中には、紋切り型と感じてしまうものもあったが、会話劇の気持ち良さ、テンポ&リズムのいい感じがずっと続くので、観ていて飽きない。
深読みすれば、そういう紋切り型の言葉を言うことで、劇中の人物は、自分の中のヒロイン感を高めているようにも思える。例えば、「私だって苦しいのよ」と言い放つ台詞など。
もし、そういう理由で、あえてそうしたのであれば、凄い脚本だと思う。あえてそうしたのでなくても、会話劇としては不足はないのだが。
舞台の上での男性側は、やや類型的な印象。ただし、嫌味にはならない程度なのがいい。女性側にも多分にそういう要素はあるのだが、気持ちの振れ方など、女性の観客からの共感度は高そうに思えた。
一種の心の病(何もおおげさなものではない)を抱えている女性たちは、常に何かに身構えて生きている。そして、「この家がなくなる」こと「ハネムーンに行く」ことで、自分自身の呪縛(本人たちは「自分自身の」とは思ってないが)から逃れられると思い込んでいる。ただし、その先どうするのか、についてはあやふやなままだ。
単なる通過点でしかないものが、まるで最終目標のように思えてしまうことはよくあることだと思う。
ある意味、何も深く考えてない男性陣が、その呪縛を解くことになる(「解く」と言うとおおげさだが)。
そんなストーリーはわかりやすいし、劇中の女性たちと同じように、いろいろなストレスや呪縛を抱えている観客側からしても、そういう「外から」の「救い」があることは、観ていてありがたいものかもしれない。
そういう心地よさもある。
冒頭、オカマの人が出てきて、「これは、笑いのためだけの設定か?」と一瞬身構えた(笑)が、そうではなく、彼(彼女)がいるおかげで、男女間の微妙なところをうまく台詞に込められていた。彼(彼女)は、とてもいいポジションであり、役者もそれによく応えていたと思う。
結局登場人物の誰もが恋愛だけでなく、生き方にも不器用で、だけど前向きに生きていきたいと思う姿がとてもいい。
それは、劇中の登場人物たちだけでなく、観ている自分もそうなんだよなあ、と思ってしまうところもいい。
そして、すべてが大げさではなく、程よく、さらに話の落ち着き先にも無理はなく、観ていて安心できる。それが予定調和であっても、いい気持ちなのだからしょうがない。
心ざわめかせる、厳しい舞台もいいのだが、こういう舞台も捨てがたいと思わせてくれたのが、play unit-fullfulだった。
ジプシー
ゲキバカ
新宿シアターモリエール(東京都)
2009/07/11 (土) ~ 2009/07/20 (月)公演終了
満足度★★★
うーん・・・好みの問題かなぁ・・・。
役者は熱演、踊りもダイナミック、物語の構成も、演出も手際はいいんだけれど・・・。
ネタバレBOX
そもそも、笑いのためだけに「醜い」という(容姿だけで笑わせようとする)設定で物語が進んでいくのは好きじゃない上に(今回は笑いのためだけじゃないんだけど)、今回のメイクは酷すぎ。ブスコーは、かなりの熱演なのにちょっと冷める。
しかも、「醜い」というだけでいじめられ、虐げられて最後は火あぶりなんて・・・。
「どんなきれいごとを言っていても、実際はみんなそんなことをやっているんだよ」ということがテーマならば話は違うのだが、どうもそういう文脈は見えてこない。
ブスコーは鐘つきであるけれども、カジモドと重ね合わせたストーリーとも思えないし。
もっと、納得できる、うまいおとしどころがあったのではないだろうか。
しかもタイトルは『ジプシー』である。ジプシーはジプシーであるということだけで迫害されてきた民だ。そして、ジプシーという名称自体が、差別的ではないかということで、最近ではあまり使われなくなっている。
それを承知でタイトルとしてあえて使ったということであり、さらに醜いということだけで迫害を受けたブスコーにかかっているのであれば、また印象は違うかもしれない。ただし、そうならば、それは観客には伝わったのだろうか。かなり疑問だ。
意識的に使用したとすると、ラストに「ジプシーのように・・・」の台詞があるのだが、それとの関係がわからなくなる。
どうも感動的風なラストを、単に無理矢理くっつけたようにしか思えない。私はそんな感じは好みではない。また、ラストの「ジプシーのように・・」の台詞も、劇中ではジプシーたちはひとつの役割であるだけで、その生き様や姿にスポットが特別当たるのでもなく、それほど目立つわけでもないので、残念ながらこれもタイトルに無理矢理合わせてように思えてしまった。
周囲のお客さんは、ブスコーのメイクだけで笑っていたように、意外と受けていたようにも思えるので、この舞台もいいと思う人はいるのだう。とはいえ、私にはまったく合わなかったし、あまり楽しめなかった。
新宿ジャカジャカ
椿組
花園神社(東京都)
2009/07/11 (土) ~ 2009/07/21 (火)公演終了
満足度★★★
フォークゲリラと挫折の雄叫び
新宿花園神社でのテント公演である。
懐かしのフォークソングが随所に挟まり、雰囲気はあったが・・・。
ネタバレBOX
先日観た『ベンガルの虎』に比べるとケレン味や猥雑さはない。また、スペクタクル感も特にない。テント公演で行う意味があるとすれば、舞台の上で繰り広げられる新宿とまさに皮一枚で地続きであることと、救急車やパトカーのサイレンが鳴り響くのがひっきりなしに聞こえることぐらいか。
舞台の作り込みを見ても普通の劇場でもよかったような気もする。
国鉄新宿駅のホームに新宿西口広場から流れてきたフォークゲリラたち。しかし、本気で音楽で世界を変えようと思っていたのは、歌声喫茶のマスターただ1人だった。
ラストに全員が「普通」の人々になって(戻って)いつものように満員電車に乗るのだが、マスターだけは「友よ!」と叫ぶ。
この叫びは、自分だけは純粋だったということなのだろう。友とともに一緒に活動できなかったこと、あるいは友さえもこちら側に連れてくることができなかった嘆き、自分だけは違うという思いが、この叫びに込められているように感じた。
ただ、その「自分だけは違っていた」「自分だけは本気で考えていた」というのは、結局、その当時、誰しもが思っていたことであろう。「自分だけはそう考えていたのに」と。
フォークゲリラに参加した人たちには、それぞれの「友よ!」の叫びがあるのだろうと思う。
そんな中で、結婚目前で未来への不安を感じている女、先立ってしまった夫に何か言いたい女の2人は、なぜか、未来か過去かわからない、今ではないどこかに自ら行ってしまう。これがよくわからない。
未来も今も不安なのは誰しも同じはずなのに、なぜ、その現実を受け入れることができないのかわからないのだ。現実を受け入れることができない人が、未来や過去に行ってしまう(逃避してしまう)ことを許してしまったストーリーにはイマイチ納得ができない。
未来はこちらから行かなくてもやってくるのだし、過去を振り返ってもしょうがない。この、未来へ、過去へ、の想いは、歌でも運動でも何も変えることができなかった、という挫折感からくるものなのだろうか。しかし、未来に行って、未来の自分を見ても安心などできないだろうし、過去に戻っても何かあるとは思えない。何の解決にもならない。
また、今に絶望し、死ぬことを考えていたホームレスも未来らしきところへ連れ去られてしまう。これも納得しにくい。
結局、1969年から見た未来(つまり現代)は、陰々滅々な状況にあって、結局自分(たち)は無力であったことを知り、挫折感をさらに味わい、不安を抱える者は、現実逃避をしてしまう、というのがこの舞台の結論なのだろうか。
サブタイトルの「その日、ギターは武器になったのか」は一体何だったのかと思ってしまった。
今の状況に淡々と生き、今の境遇を受け入れること。それができない者だけは「叫び続ける」しかないのだろうか。それは、「歌い続ける」というのではなく。
ただし、淡々と今の普通の生活を歩んでいる人々も、胸の奥では叫んでいるのだ、なんてカッコいいことは言わせたくない。また、そう思えないし。
さらに、未来からやって来たらしいホームレスたちを、まるでゾンビか何かのように表現していたのには違和感を覚えた。
劇中では、懐かしのフォークソングが、言葉をきっかけに次々と歌われていたが、花たち(歌手の人たち)が歌う個所が何カ所かある。これだけが、役者が声を張り上げて歌うのとは違っており、ちょっとしたアクセントになっているのだが、何度かあって、どうもかったるい。
フォークソングを歌手ではなく、普通の人々が歌うというフォークゲリラの芝居なのだからこそ、フォークゲリラのフォークソングだけでよかったのではないだろうか。
また、国鉄殉職者の妻が駅の売店をやっているという設定なのだが、彼女たちに「恋の山手線」を歌わせて踊らせるのは悪趣味にしか見えなかった。ちょっとポップで面白くしたつもりなのだろうけど、ストーリーからも浮いていてちっとも楽しくはなかった。
歌ということで言えば、歌唱指導をしながら観客も一緒に、いにしえのフォークソングを歌わせたほうが楽しめたと思う。たぶんある程度の年齢の観客たちはそれを望んでいたのではないだろうか。
同じ中島淳彦さんが作・演出で、やはりフォークを軸にして物語が進む、東京ヴォードヴィルショーの『見下ろしてごらん、夜の町を。』と比べてしまうと(もちろん劇団のカラーは違うにせよ)、軸足が69年にあっただけ、こちらのほうがもやもやしてしまったということなのだろうか。『見下ろしてごらん・・・』はとても面白かったというのに。
「細かい話は抜きにしてお祭りの余興を頼まれたつもりで」って中島淳彦さんがフライヤーに書いてるけど、まさにそのとおりだったのかなあ、この舞台は。
ま、こまごま言うより、テント公演は、「お祭り」のような雰囲気を楽しむものかもしれないのだけれど。
ケモノミチ
ブルドッキングヘッドロック
ザ・ポケット(東京都)
2009/07/08 (水) ~ 2009/07/12 (日)公演終了
満足度★★★★★
無駄も容赦もない台詞の応酬に、言葉なく、ただ座って震えて観るのみ
観終わったあとは、「あ〜」という深いため息。
ブルドッキングヘッドロック、その名前はしかと心に刻んだ。
ネタバレBOX
冒頭の雰囲気で、これはそういう物語かと思っていたら、まったく違っていた。
思わぬところに笑いも潜む。
外から見れば、まったく普通のどこにでもある人々。しかし、ちょっと触れてしまえば、崩れてしまうような、人と人、あるいは人そのものが危ういバランスで立っている様が見事に描かれる。
デパートの屋上にいる高校生をちょっと押したら落ちていまうんじゃないかというような感覚。
腹の中で燻りつつ、ときどきさらに弱いモノに当たったりしてしまうような弱さ。
そして、収まるべきところへ収まっていくであろう予感(解決ではなく)。
日常とか普通とかというものは、何も海からの巨大生物なんていう強い力がなくても、崩れてしまうようなバランスで構成されているのかもしれない。当たり前だけど、大都市よりもはるかにもろいのは人間なのだ。