満足度★★★★
そうか、これは睡眠障害だったのか
と、いうのは極々個人的な感想。
舞台で行われていたのは、「ネムリへの旅」。
夢なのか、まどろみなのか、起きているのか、混沌の中に入り込んでいく。
ネタバレBOX
爆音から始まるものの、劇中で流れる音楽は、環境音楽のごとく、ゆるやかなもの。
それは、まるで眠りに誘うよう。
「眠ることができない」男たちが「取材」をするという形式で、物語は進行する。
舞台は、「ネムリへの旅」でもある。
「寝る」「眠る」こととは一体どんなことなのだろうという素朴な疑問を「眠ることができる人」「寝ている人」に問い掛ける。
その疑問は、「眠ることができなくなってしまった」ことが高じてしまったことに端を発する。
例えば、長い昼寝をしてしまったり、頭は疲れているのに身体がそのレベルに達していないことで起こる「不眠」のときには、いろいろなことが布団の中で頭をよぎる。
それが病のレベルまで達してしまったときには、「そもそも[眠る]ということとはなんぞや」にまで及んでしまう。
そこに達した男たちは、ひたすら「眠り」について追い求める。
「世界でいちばん眠い場所」とは? と。
しかし、それは、寝つけないときに、まるで手品でシルクハットから次々と万国旗が出てくるように、記憶を次々とたぐりよせるような感じとなり、記憶の前後も曖昧であやふやになってくる。
劇中では「chapter」の順番が曖昧になっている。
彼らの「取材」はビデオによって行われており、それが舞台の大画面に映し出される。
しかし、それは画像になった途端に、答えから遠ざかっていまうこともあり得る。タイムラグで表現されたりもする。
眠ることのできない男たちの目から見えている世界は、取材される側の世界との隔たりがある。
「眠る」という行為がその2つを薄いベールで隔てているのだ。
いつも眠っている男が言うシェイクスピアの引用のような台詞。「オレ起きているよね、寝ている? それとも死んでいるのか?」。
夢なのか、起きているのか、死んでいるのか、誰が? 誰と誰が? 次第に混沌としてくる。薄いベールで隔てられていたように見えていたのだが、そのベールのどちら側に誰がいるのかも判然としなくなってくる。答えを本当に求めているのかどうかも不明になる。
まるで、まどろみの中のよう。
誰も「起きて」とは言ってくれない。永遠のまどろみ。
外に向かっているのではなく、内に向かっていく
それは、パンフレットの写真にあるように、森の中へと手探りで進む姿である。
映像の使い方が巧みで、重なるchapterが、ストーリー的なものを浮かび上がらせていく構造になっているわけではなく、ひたすら、ベールを重ねていく。
それによって得るモノと失うモノがあると思うのだが、あえてこの方法を選び、それをすっきりとした形にして見せてくれた手腕には驚かされた
全編、豊かなイマジネーションが溢れ出していた。まるで遊びのように。
個人的なことだが、パンフによると宮沢章夫さんは、睡眠障害だと言う。それって、今の私とまったく同じ症状だ。てっきり加齢によるものかと思っていたのだが、ええ! これって睡眠障害だったのか! と少し驚く。
満足度★★★★★
いつのまにか忘れていたかもしれない柔らかいトコロなどを突っつかれて第三小学校
これは個人的なことなんだけど、疲れていたんだな、この日は。
身体もだけど気持ち的にも疲れていた。
でもって、「若さ」が眩しかったりして、優しく接してくれた舞台だった。
なんか、みんな優しい人たちだ、なんて感じたりして。
ネタバレBOX
なんだか変なことになったりしているのだが、あっさりとその世界に入り込めたし、とても穏やかな気持ちで観ることができたのだ。
それはなぜか?
いや、ま、それは考えたけどわからない。
でも若さは眩しい感じがした。
そして、誰もが優しいのだ。
今思えば、眩しくて優しいのは、小学生のとき世界でもある。
どこかに忘れてきてしまった世界。
自分の身の回りだけが「世界のすべて」で、それで一杯一杯だった。
「運命」なんて言葉は感じたことがないぐらい、一杯一杯。
ま、個人的には彼らよりもガキだった私にとっては、中学生とか高校生の頃を思い出してしまう(だからと言って、「懐かしさ」とともに観たわけではない)。
それは、理不尽なことをずっと浴び続けていたと、思い込んでいた、ある意味「お楽しみ」の時代だ。
その「理不尽」の象徴はいつも先生である。まさにいきなりエーデルワイスを歌われたり、ブタ呼ばわれをされても、生徒さんたち(私もそうだったが)は、(そういうもんだからと思い)ハイハイと従っている。
舞台を観て、それに郷愁を誘われたわけでは、まったくない、と言えばウソになるが、ひとつだけ言えるのは、やっばり今も自分の身の回りだけで一杯一杯であり、結局、今も第三小学校にいるんじゃないかよ、という私なのであった。
かつて「必死なこと」は「カッコわりー」と思っていたはずなのに、必死に歌ったりする姿が「いいな」と感じたりするのは、「大人」になったのかなと思ったり。先生の演じるマグロのように。
よくよく考えたら、好きだという気持ちを外に発散できるっていうのが凄いよね。私は、そんなことは、もちろんできなくて、内側にフツフツと溜めに溜めていて第三小学校だったんだな。
それにつけても、電気仕掛けのエンプティがなくなるのはフルになったからのか。つまり、置き去りにされてしまった「哀しみ」で一杯になってしまったということなのか。
エンプティとかのエピソードは、小学生のときには、あまり深く考えてなかったから、世の中のダークさとすれすれにあったりしたんだなあ、ということなんだな、たぶん。
満足度★★★★★
これはもう、舞台でしか味わえない感覚
計算された、役者と登場人物の重ね方が物語に重層感と深みを与え、飛び越え方が独特のおかしさ(笑い)を含みつつも、丁寧に物語を形作る。
ネタバレBOX
時間軸を自由に移動する話(場所も含めて)は、よくあると言えばあるのだが、それだけでなく、性、種まで移動させる話はそうない。
しかし、それが飛び道具的に使われているかと言えば、そうでもなく、それによっての面白さが醸し出されているのは確かなのだが、そうであることにより、物語の本質のようなものが丁寧に表現されていたように思える。
特に、チャーボーと呼ばれるペットのニワトリが、勝良の父となって現れたときには、会場には笑いが起こったが、その時点ですでに海の底にある父であることがわかっただけに、反射神経的に笑っても、切なくて本当は笑いたくないシーンだったりする。
また、観客として、これから死んでいくという結果を知りながら見る、アメリカの子どもたちのはしゃぎようや、牧師さんを揶揄する姿も、実は笑いながら切ないのだ。
そんなシーンがとてもいい。
そんな感じの「役の重ね方」がうまいと思った。単に少人数で何役もこなすということではなく、意図があっての重ね方なのだ。
ペットというよりは、勝良の唯一の友人であるニワトリのチャーボーと、徴兵されて軍艦に乗せられた勝良の父と兄。チャーボーは出征する下宿人のために潰されて、父と兄はお国のために戦死する。そんな状況が重なる。
壊れかけた夫婦の和彦と沙織、そして、ちょっとしたことから永遠に分かれてしまった親友のトキ子とハマ子、さらに夫を励ましつつ、非業の死を遂げてしまうジェーンとその夫アンディ、この3組の役をそれぞれ同じ役者が演じていくことで、時間だけでなく、世界の重なりまでも見えてくる。
こういう深みがたまらない。
和彦だけがトキ子を演じるときに、背広姿のまんまというのも、驚きつつも、うまいと唸る。祖母の自伝を追体験していることがわかるのだ。
そして、最初のほうで、看護婦を男性が演じ、何回も出てくるところは、その後のトキ子の登場のための水慣らし(プールに入る前に身体を濡らすような)みたいな役割であったと気がついたときに「ああ、うまい」と思った。
物語の軸になっている風船爆弾の話については、特に目新しいことはないものの、風船爆弾という兵器を通じて結ばれてしまった、市井の人たちの生活がそこにあった。
声高にならずにじっくりと迫り、明るさもありつつ、美しい話となっていた。
目頭が熱くなる場面も多々あった。
人と人とのつながりがとても自然で美しいのだ。
そして、この物語をわずか7名で演じきった役者たちに大きな拍手を送りたい。
満足度★★★★
見応えある3本立て
短編3本なのだが、その内容は濃い。
単なるストーリーというよりも、物語としての広がりを感じさせる。
ネタバレBOX
『きぼうのわだち』
軽妙さがあり、途中まで観客に見せていた、新郎新婦と友人たちの関係が暴かれ、その「挑戦」を受けるという話が、新婦の兄の登場で、一気にガクッとなる感じがいい(あまりにもバカバカしすぎるのだが・笑)。しかし、それを単なるオチにしないところがうまいのだ。バカバカしすぎるネタばらしなのに、ちょっといい話になっていくところは強引だけど、いい感じだ。
『LoveLetter from …』
会社員の男の軽さがいい。そのために小説家志望の友人との対比が鮮明になる。また、男が心を寄せる女性に、ほとんど台詞がないというのもうまい。それによって、話が引っ張られるのだ。会社員の男と友人の関係性がちらりと見える脚本がうまいなぁ。
『リグラー』
一気に空気を重くさせ、その世界に突入した。見事だ。単純な話なのだが、これも単なるオトシ話にしない手法がよい。
男たちの間に流れるギスギスした雰囲気は、実は別の意味の恐怖だったりするというところの、観客の気持ちを大きく振る脚本がうまい。
3本ともに、話の筋ではなく、「物語」としてきちんと見せてくれた。
もちろんそれは、脚本(台詞)や演出のうまさもあるのだが、役者のうまさが際立っていたように思えた。
テイストの異なる3本にそれぞれが出演していて、衣装もそれほど大きく変わるわけでもないのに、わずかな時間で、見事にその世界にはまっていた。前の役は、すっかり抜けているのだ。いい役者が揃っているな、とつくづく思った。もうこれは「カッコいい」と言ってもいいほど。
JACROWは、まだ数本しか観ていないのだが、根底にはいつも「語り口のうまさ」を感じる。そしてそれを支える役者たちの力量も感じるのだ。
満足度★★★
素材は素晴らしい
寺山修司の「星の王子さま」に、サン・テグジュペリの「星の王子さま」を融合させたそうである。そこに黒色すみれの演奏と歌。
さらに、ゲストたちが加わる。
ネタバレBOX
気合いが入っている舞台である。
(チケットのもぎりから舞台装置、衣装などまで)
登場人物たちそれぞれが強い印象とともに現れる。
黒色すみれの演奏に従い、並行して進む寺山版「星の王子さま」とサン・テグジュペリ版「星の王子さま」。
サン・テグジュペリ版では、人形の王子さまとパラが演じる。
物語の途中に、ストーリーとほとんど関係なく、ゲストの短い芝居や歌が挟まる。
寺山版「星の王子さま」のエンディングは破棄され、サン・テグジュペリ版「星の王子さま」で幕は閉じられる。
いろいろな要素が、次々と現れてくる。
しかし、結局それら、つまり、寺山修司の「星の王子さま」、サン・テグジュペリの「星の王子さま」とゲストたちの歌のパートは、有機的につながることはなく、それぞれに存在し、それぞれに完結していったようだ。
それにしても、この日のゲストだった、カルメン・マキさんと中山ラビさんの存在感は凄いものがあった。
実際、それぞれをライブ会場でも観たことはあるのだが、演劇的色合いを濃くし、短時間にそれを凝縮したことにより、強さが一段と増して見えた。情念ともいえるような炎が燃えているようであった。
これを観ただけで、満足と言いたくなるようなライブだった。
役者も人形もゲストも素晴らしいと思った。特に女優陣の美しさは光るものがあった。
これだけの素材がありながら、もうひとつ心をつかまれることがなかったのは残念。すべてがきちんと結びついていればな、と。
普通に寺山修司版「星の王子さま」を観たかったな、というのが感想である。
2時間45分(休憩時間含む)なのだが、休憩が前半1時間50分終了後に入るということもあり、前半の体感的な長さには閉口した。後半はあっという間だったが。
満足度★★★★
私が、おねえさんやおばさまだったら、きゃーまゃー言っちゃうかも
大仰で豪華な感じがいい。
1シーンが3分~5分程度に構成されていて、休憩もあるので、飽きないようにうまくできている。
狂言回しとして、ルキーニがシーンの内容を解説するという構造もうまいと思う。それによって、物語がとてもわかりやすくなっている。
ただし、ストーリーは…
ネタバレBOX
ただし、ストーリーには共感がまったくできない。
少々意地悪く書くと、「后になったら自由はない」と皇帝に言われて納得したのにもかかわらず、実際に結婚したら「自由がない」と嘆き、皇帝も国民も捨て城を出てしまうエリザベート。
しかし、彼女は、すべてを捨てて出たのではなく、大勢の家来を連れての家出であり、結局のところ、国民と国家のお金を散在しながら(スイスに自分の貯金を隠したりして)、18年もヨーロッパを遊び回り、特に理由もなく、ひょっこりと戻ってくる。
そして、母に捨てられたのに、まだ母を慕う皇太子を、また捨て死なせてしまう。
結局、特に自分の人生を悔いることもなく(さすがに息子を死なせてしまったことは悔いるが)、死の皇帝トートに請われて、死の世界に旅立つという物語。
自分にまつわるすべてを捨てて、めでたし、めでたし、なのだ。
つまり、単にキレイなだけで后になり、権力と金を手にした、世間知らずのわがままに女の話にしか思えないのだ。
そして、そんな女に振り回された2人の皇帝の話というところか。
でも、会場にいるおねえさまやおばさまたちは、うっとりとしながら観劇している。楽しそう。
どうやら、山口祐一郎さんのファンが多いようだ。
彼の歌は、びっくりするぐらい甘い。そして、舞台に現れると、独特のオーラのようなものがある。キメの感じがなかなか絵になるのだ。どう見ても主人公はトートに思えてしまうほど。
この雰囲気は誰かに似ているな、と思い、思い当たったのは杉良太郎。ああ、そう言えば、杉良太郎も、おねえさまやおばさまのファンが多かったなと。
時代が変われども、彼女たちのアイドルの好みは同じなのだ、と納得するのだった(これで流し目とかあれば完璧・笑)。
3度、4度とカーテンコールが続くのだが、山口祐一郎さんがちょっとお茶目なところを見せたりしていた。それにおねえさまやおばさまたちは、きゃーきゃー言っているのだ。
それは、わかるなあと思った。私がおねえさまやおばさまだっら、やっぱりきゃーきゃーいいそうなぐらいの、サービス精神に溢れているのだった。
これでダンスがうまかったら、言うことないんだけど。
それと、トートのテーマの旋律が、トートの歌のあちこちに散りばめられているせで(同じメロディの歌も多いし)、どうも歌がワンパターンに聞こえてしまうのは残念。今もサビの部分だけは耳に残っている。
そう言えば、トートの登場シーンは、ロッキー・ホラーショーのフランクフルターの登場シーンとダブって見えたなあ。独特の引っ張りというか、わくわくさせ感のようなものが。山口さんフランクフルターやってくれないかなあ(笑・パルコで来年ロッキー・ホラーやるみたいだけど)。
『エリザベート』は、宝塚版もあるようだ。観た人に聞くと、宝塚版は、ダンスを楽しむものらしい。
この物語がなぜ人気があるのか、イマイチわからないのだけれども。
とは言え、単純に雰囲気と歌などを飽きずに楽しめたことだけは確かだ。
満足度★★★★
籠の鳥は楽なのか
「楽」な仕事であるはずの、研究施設での人間関係を描く。
彼らの「居場所」はどこなのか、そして、それか安全で安心な場所なのか。
さらに、いつまでもその場所はそこにあるのか。
ネタバレBOX
絶滅危惧種のトリを無人島で繁殖させるための研究施設。
研究施設で生活する人々は、まるで籠の鳥のような様子だ。
籠の外(世間)では生きるのが得意ではなさそうな人たち、とも言える。
彼らこそが、世間に出たら絶滅してしまう危惧種なのかもしれない。
本当にトリが好きなのは、ジロウぐらいで、あとは楽な仕事と割り切っている。
仕事はそこそこで、あまり良好とは言えない人間関係。
どこかトゲのある日常風景が、ひしひしと伝わってくる。
そこへ、怪我をした人の代わりに一人の女性ノグチがやってくる。
彼女の登場と、その本性により、研究施設内での人間関係が露わになってくる。
そして、崖から落ちて怪我をした男の理由も判明してくる。
非常にオーソドックスな雰囲気で物語は進行する。
バランスが悪いながらも、どうにか立っている人間関係の表し方がうまい。
そして、怒濤のラストへの展開。
窓の外の風景は、どこか歪な印象だったが、なるほどそういう意味だったのかと理解する。
ジロウとクロコシが、トリたちを殺戮する姿は恐ろしくも美しい。鳥肌モノ。うまい演出だ。
そして、物語はこちらにフォーカスされていたことに気づくのだ。
それは、醜さを露呈する人間関係と呼応し、凄まじいカタルシスを呼ぶ。
この展開には舌を巻いた。
「居場所」がキーワード。その居場所にさえいられなくなってしまうダメな男さえいる。妻がいるのに、愛人がいて、さらに…という男だ。
ダメな人間はどこまでもダメなのだろうか。
しかし、彼らを突き放してしまうことだけはせずに、方法は間違っていても、自らの居場所を勝ち取るために戦うことを選択した者もいるというラストでもあった。
さらにラストにジロウとクロコシとが血まみれで舞台に登場したときは、「蛇足だな」と思ったのだが、2人の元いじめられっ子でありながら、彼らの中での温度差、ヒエラルキーみたいなものがじんわりと出てきながらの共感、そして最後に希望を見せてくれた(それが「希望」と呼べるものかどうかは不明だが)。
そのときに、こちらにフォーカスされた物語が見事に収束していくのを見たのだった。
実際のところ、多くの人は、自宅と会社と少しの趣味などの場を範囲とする、「居場所」の中にいる。
それは「安心で安全な」「籠」なのかもしれない。
しかし、その籠はいつまでそこにあるのかは、わからない。
その前提が崩壊しようとするときに、自分たちはどう振る舞うのか、ということを示しているような舞台だったとも言えるのだ。
ノグチ役の角替和枝さんは、あまりにも強い。どんなシーンでも強い主張を必ず突っ込んでくる。さすが、としか言いようがない。ジロウ役の伊藤俊輔さんの台詞回しが素晴らしい。うまい。クロコシ役の柄本祐さんの、どこか冷めた普通な雰囲気も良い。親子対決(笑)は冷え目だったけど。
コウノを演じた林和義さんのむさ苦しいくて、イヤな男もなかなかだった。
そして、女性陣は強く印象に残った。
満足度★★★★
好企画!
まず、この企画に万歳三唱。
最初に仮チラシで、参加団体とテーマを見て、「これは行きたい!」と思わず叫んでしまうほどのインパクト。
そして、実際に目にして、耳にして、「行ってよかった」と心から思える公演だった。
アフタートークを入れて2時間という時間配分も、気が利いている。
ネタバレBOX
■広田淳一『HUMANLOST』
ひょっとこ乱舞でいつも見せているような言葉や動きのアンサンブルが美しい。しかし、いつもの「ひっとこ乱舞フォーメーション」と思わず呼んでしまうようなほどのスタイリッシュさまでには昇華しきれてない恨みが残る。
つまり、いつものように、ダンスや言葉の重なり合い(音楽のようなリズム感)を、グルーヴにしてこちら側に届けてほしかった。
題材自体が、淡々とした日記形式ということと、広田さんが一から書き上げたものではないので、世界の広がり方が足りなかったのかもしれない。
それは、狂人たちの「脳内」へ広がりを見せるような方向へ、広田さんが持つであろう、理系のチカラで、原作を再構築(破壊した上で)してほしかったということでもある。
金魚鉢に石を放り込み、突き抜けるような声で日付を刻むスタイルは秀逸だった。
■吉田小夏『燈籠』
独自の手法による、時間と空間の構築と交錯が見事で、それが美しいと感じるまでに仕上がっていた。それはいつもの小夏ワールドと言っていいだろう。
そして、短編とは思えない濃厚な世界が広がっていた。
太宰の作品なのに、女性ならではの視点が効いていて、強い意志と根底に流れる情念を見事に表現していた。
着物での所作もきちんと計算されていたし、文楽を彷彿させるような動きや、シーンごとのキメ(見栄)も美しい。
福寿奈央さんの一気呵成の台詞には「凄い」の一言。感情の高め方というよりも、内側への籠もらせ方が見事。
しかし、前後に流れたエゴ・ラッピンだけはしっりこなかった。彼らの曲は主張が強すぎて、せっかくの余韻をわざわざ消してしまったようにしか思えない。
■松枝佳紀『ヴィヨンの妻』
先の2本に比べると、ごく「普通」に、ストーリーを見せてくれた印象。
猥雑の裏側にある、「聖」なるものが、ときおり顔を出す演出がうまい。
ただし、『燈籠』の後だったせいもあるのだが、動きなど、全体的に雑さがつきまとっていたのが残念。
また、衣装は、ヤフオクで「本物」を落札して使ったとのことだが、本物使うのならば考証も「本物」にすべきではないだろうか。本物を使えば本物になるわけではないのだ。
■谷賢一『人間失格』
構造がうまい。
現代に物語を寄せつつ、いつの時代にでもある、普遍性を露わにしていた。
主人公の陰にいる男の設定が効いていた。照明などが効果的で、登場人物たちの動きにより、舞台に広がりが見えていた。
主人公を女性が演じるという設定は面白いと思ったが、彼の時間(年齢)の経過が(表現・演出として)イマイチ伝わらなかったのが惜しい。
4つの演目を観て感じたのは、やはり、ひょっとこ乱舞と青☆組の舞台が自分には合っているということだ。それを強く再確認したと言ってもいい。
今回の企画の目玉の1つでもある「順位付ける」については、順番ではなく、持ち点10点を配分するほうが、好きだったものとそうでなかったものとにはっきり差が出たし、どっちもよかったものに対しては、同点を付けたりできたので、もっと気持ちを反映できたように思えた。
とは言え、4者4様で、その要素を凝縮した舞台が観られたのはよかった。ぜひこの企画を続けてほしいと思う。
Project BUNGAKU というタイトルではあるが、そのときには、文字だけで作者のイメージを広げやすいBUNGAKUではなく、マンガなどをテーマにしてはどうだろうか。とても困難なものになりそうなだけに、観る側の期待も高まるのではないだろうか。手塚治虫とか藤子不二雄とか梅図かずおとか岡崎京子とか、水木しげるとか(笑)。
満足度★★★★★
まさに「主演女優」の佇まい
主演ヘッダ・ガーブレルを演じる大地真央さんがいい。背筋をピンと伸ばして、自らの存在を「主演女優」として、大きく感じさせる。
それは、まさに気高く美しいヘッダ・ガーブレルの姿にダブるのだ。
ネタバレBOX
舞台全体を額縁で囲み、その中で演じられる。ヘッダ・ガーブレルは、その絵画の中での主題であり、他の役者たちは、主題を引き立てるために存在する。
主題であるヘッダ・ガーブレルを引き立てる脇がいい。
誰もが自分の頭の上のハエを追っているだけで、精一杯なのだ。ヘッダ・ガーブレルにはそれが我慢できない。なにしろ主人公なのだから。
父親である将軍の陰(影響)を強くその背後に感じながら(下半身しか見えない将軍の肖像画による「陰」の演出が憎い)、ヘッダ・ガーブレルは自分を生きようとする。
自由に生きようとしているのだが、自分が何を求めているのかがわからない。たぶんそれは、彼女にとっての「美」なのだろう。
彼女は、普通に(たぶん)憧れているけど、退屈は大嫌い。自意識をうまくコントロールできない様(つい過剰になってしまう様)は現代にも通じるものがある。
親や自分にさえ、がんじがらめになっている閉塞感が重い。
そして、ラストの悲劇は美しくもある。
イプセンが繰り返し上演されるのは、そういう普遍性を見事にとらえているからなのだろう。
それにしても、イプセンは面白い。この座組だから面白かったのかもしれないのだが。
2時間45分はあっという間だった。
満足度★★★★
「力業」で笑わされたぜ!
うまくまとめ上げたな、というのが一番の感想。
上演時間1時間50分と聞いたときには、一瞬クラクラしたが(笑)、その時間は無駄ではなかったと思う。
笑って楽しい時間だった。
それにつけても、フライヤー(チラシですかね・笑)に「面白いコメディ」と書く勇気!
ネタバレBOX
実家の家業を手伝っている長女。漫画家として成功している次女。役者を辞めてお笑いの道に進もうとしている三女の三姉妹の物語。そして、父親は「じ」で入院中。
三女は、男とコンビを組んでお笑いを目指そうとしているが、長女はそれを諦めさせようとして、策を練っていた。
三女はそれをすでに感じていて、長女を説得するための策を練っていた。
そんな中、漫画家の次女が数年ぶりに家に戻ってくる。
どうやら、結婚して漫画家を辞めるらしい。それを止めるために編集者がひそかにやってきて、家族や叔父たちと策を練るのだった。
ところが次女もそのことをすでに察知していて、策を練っていた。
そんな「策」と「策」が思いがけない登場人物の出現や、思い込み、勘違いで滑り出していくというストーリー。
これが、なかなか面白い。
濃〜いキャラクターを次々と放り込んできて、話が広がり出す。これをうまい具合にまとめ上げる力業に拍手を送りたい。エピソードの絡まり具合がなかなかいいのだ。観る側をわくわくさせ、物語の先へと強く引っ張っていく。だから、2時間近い上演時間であっても飽きることなんてない。
脚本を、時間をかけて練ったであろうことが伺える。こういうしっかりと作り込まれた面白さは好きであり、支持したい。
それは、決してスマートではなく、力業なのだが、面白いのだ。
力業だけど、細かいところにも気を配っているところが憎い。例えば、机の上の煎餅を、その前に座る人が必ず食べるなんて、どうでもいいような設定も楽しいのだ。
テンションが高すぎるキャラクターが多すぎるところが、少々辛くはあったが、まあ、そのあたりは、勢いっていうか、そんな感じなんだな。
初日ということでの固さもあるのだろうが、あまり上手いとは言えない役者も、上手い役者も同等に演出していたのだと思う。しかし、あんまり上手くない人については、それを逆に持ち味にするぐらいの、図太さがほしいと思った。
また、ちょっとコミカルなシーンに出てくる「ここはコミカルですよ」というようなBGMは、はっきり言ってあまりいい印象はない。そういう音楽の使い方で、面白くなることは、まずないからだ(あえて、それをギャグとして使うのならば別だが)。
全体のトーンはテンション高めだが、それをクールダウンさせるシーンもあることにはあるのだが、その緩急がうまくリズムに乗っていれば、さらに面白くなったのではないかと思う。
とは言え、スピードが乗ってきて、笑いが増してくるところは、なかなかの快感だ。そのスピード感というか、ドタバタ感も良い。特に2代目が登場してからの一連の展開は(三女のお笑いの相方役の石丸将吾さんが叫ぶ、2代目の行動の解説なんかがいいアクセントになりつつ)、とてもいい感じで笑った。
ラストは、想像の範囲内ではあったが、とてもいい雰囲気であった(夕日が唐突すぎるけれど)。
ただし、「三姉妹」の物語である以上、ラストは三姉妹が揃って話をするシーンのほうが効果的ではなかっただろうか。
そして、もっと「姉妹」という関係性が熱く語られても(もっとストーリーの端々に感じられても)よかったと思う。
さらに言うと、妹たちの自由な行動にストッパー的な役割を果たす長女であったが、その長女は、本当は何をしたくて、何を目指しているのかが、少し見えてきたほうがよかったのではないだろうか。彼女が「幸せ」について語るときに、それが見えてこないので、単に寂しくなってしまうのだ。
三女のお笑いに対する意欲も、もっと見えたほうがよかったと思う。ツッコミとは言え、お笑いに対する(無理にやってる風な)どん欲さで、長女たちにアピールする、みたいな。彼女は、ずっと不機嫌な印象なのだ。
長女役の嶋木美羽さんの動いて叫んで、その健闘が目立つ。次女役の奥村智恵野さんがなかなかクールでうまい。2代目のプロフェッショナルを演じた高宮尚貴さんの、プロフェッショナルぶりが笑いを誘う。初代の小林守さんの不安げな佇まいもいい。守銭奴な嫁を演じた宮澤ちさ恵さんは、今回もうまく脇を固めていた。
どうでもいいことだけど、言葉の定義に敏感な編集者の台詞で気になったのが「ストラテジー」。「ストラテジー」は作戦ではなく戦略で、作戦は「オペレーション」なのだ。
あと細かいことだけど、アンケートを書くともらえる「こぱや紙」は、なんでA3サイズなんだろう。しかも片面しか書いてないし。B5ぐらいにして、裏表にしたほうが経済的なんじゃないかなと、余計なことを思ったり。あのサイズ、帰りの電車の中で広げて読むのはナンですし(笑)。
…そして、「お尻だけにぃ」を感想のどこかに盛り込もうと思ったが、無理だった(笑)。
満足度★★★★★
ギラギラした中に一筋の優しさ
これが東京ヴォードヴィルショー? と思わず言ってしまうほどのハードなタッチだったが、とにかくストーリーが面白いし、何よりキャストのなりきり方が素晴らしい。
130分の上演時間だったが、集中して観ることができ、とても楽しめた。
ネタバレBOX
一見すると、こんなに登場人物が次から次へと出てきて、なんとなくがちゃがゃっしてくるのだが、それが魅力的に活きてくるのだ。「がちゃがちゃ」ではなく「ギラギラ」しているのだ。
生命力溢れるこのホテルの様子が見事に切り取られたと言っていいだろう。
ギラギラした中で、強引にでもまとめていく演出の腕の確かさ(強引さ?)を感じた。
登場人物は、どれも魅力的だ。
特に、欽次を演じた、まいど豊さんの、2面性の表現は抜群で、狂犬のようなヤクザと妹思いの兄との差は素晴らしいと思った。
東京ヴォードヴィルショーの本公演では、超個性派揃いの古参勢の中にあって、渋い役どころしか見ていなかっただけに、その姿には新鮮さを見た。
また、ホテルのオーナー、ジャスミンを演じた高山奈央子さんの、押し出すような迫力と、韓国語を基調にしつつ、英語と、カタコトの日本語の台詞がうまく、実在感を感じた。
さらに、韓国人の姉弟(金澤貴子さん・黒川薫さん)の2人も、ほぼ韓国語だけの台詞ながら、姉弟の感情を細やかに表現し、実際には何を言っているのかわからないが、その情感はしっかりと伝わり、ぐっときた。
観客に言葉の内容を伝えたりせずに、その雰囲気と勢いを壊すことなく(字幕や誰かが訳したりすると勢いが削がれるのだ)、あえて韓国語だけで通した演出には拍手を送りたい。
そして、ヒバリに心を寄せるヤクザを演じた植田裕一さんも、不器用だけど、誠実な男を演じ、印象に残った。
本間剛さんも、「自分の持っているものは何でも大切にしないと」なんていう憎い台詞があったり、チルを演じた芹沢秀明さんも、欽次に対する友情以上の強い絆を感じさせたりと、他の役者さんたちも、誰もが、印象に深く残る、濃さが素晴らしいと思った。
KAKUTAの持つ、人間への洞察(時には辛いほどの)、生きることの厳しさと、東京ヴォードヴィルショーが持っている、人間の弱さと強さのようなものが見事にミックスされて、素晴らしい作品になったのだろう。
また、ルードビアーを飲んで欽次がもとに戻ったと、観客の誰もが思っていた中で、実はそれはウソだったということがわかるラストも粋だと思った。
「性分」というキーワードが出てきたが、欽次のヤクザなところは、ある意味優しさと不器用さであった。
一緒に住んでいたときに妹には優しくできなかったのは、それの現れであったのだろう。
その優しさを知っているからこそ、古い知り合いであるチルは、仕事の前に妹の死を伝えるのだ。欽次が想いを残さずに、暗殺に向かうことができるように。
それがチルの友人としての優しさだったのかもしれない。
また、弟のために働きに出るヒバリと、どんな仕事だかわからないのだが、不安を抱え、それを健気に表に出そうとしなかった弟、そして姉弟が互いを思いやる姿には涙を禁じ得なかった。
ラストで、欽次は、妹がこの世にいないということを知り、自分が守るべき者は、自分を慕う子分たちということと割り切り、彼らのために、もとの自分を演じて死地に向かうという姿、つまり、それがその場所にいる全員への「優しさ」であったというところが、まさに任侠の世界だったと思う。
欽次は、自らの運命に従うのではなく、自から選択したということなのだ。
東京ヴォードヴィルショー(京極圭プロデュース)+KAKUTAは、とても面白かった。是非またこの組み合わせを見たいと思った。
そう言えば、ルードビアーって飲んだことないなぁ。
満足度★★★★★
生命を巡る永遠のサイクル
別劇団による3本立てでありながら、単なるショーケースになっていないことにまず拍手を送りたい。
単なる3本の短編を上演したのではなく、きちんと1つのループの中にそれぞれが存在していたように思える。
それはプロデューサーの意図がきちんと伝わったことではないかと思う。
その意味で、今回の企画は成功したとも言える。
ネタバレBOX
「結果的に」なのかもしれないが、3つの短編が「生・性・死」というきれいな「生命」の連鎖になっていた。
それが当初からの企てかどうかは問題ではなく、プロデューサーの意図(あるいは感覚)が他者にも伝わったということの証だと思う。
また、3本ともに貫かれているのは、私がMUを観るときにいつも感じる「虚無」のような「穴」であった。
連続している生命のサイクルには、「人が生きる」ということにつきまとう「埋まらない何か」がいつもある。
それがどのようになっていくのか、あるいは何なのかを、そっと指さすような物語が並んでいたのではないだろうか。
また、今回の企画は、「短編1本だけでは上演できないので」というハセガワさんの発言は横に置くとして(笑)、「少人数、どこでも上演可能なスタンダードを目指す」というコンセプトは素晴らしい。演劇全体のことを視野に入れての公演、つまり、劇団の主宰とはまた違うレベルの発想になっていたことも、ハセガワさんがきちんとプロデューサーとしての役割を果たしていたのではないかと思うのだ。
==================
ミナモザ『スプリー』
異様な緊張感で、女医が患者にまたがり胸を押すという行為と、その行為の意味がつかめてこないことへの不安が、密集した観劇状況と相まって、一種息苦しさを醸し出していた。
ときおり、挟まれる笑いの要素には救われはするのだが、その構造は男性医師が登場しても治まらない。
そして、患者の突然の独白になるのだが、これが唐突すぎて、たぶん笑いに変わっていく(すべてが「苦い笑い」に変わっていくというオチ)のだろうと思う自分がいた。そう思って見ていたので、結果「あぁ…」ということに。
ラストの台詞はちょっと短編っぽく、いい感じの幕切れ風にになっていたのだが。
絶対に埋めることができないとわかっている自分の心の穴を他者の痛みで埋めようとする女医の物語。
痛めつけようと思っていた患者が、女医の行動から、自分の「痛み」の「意味」を見出す。そして、そのことと、女医の行為とが偶然に交錯することで、1つの光が見えてくる物語になっていくものだと思った。
つまり、患者が、自ら「痛み」を差し出して、女医の心の穴を埋めようとする犠牲的精神を見せるラストにつながるということだ。「犠牲」に「暴力」で応えるというラストに。
この一瞬の光を見せるには、やはり、患者の「生き様」のようなものを、全編の台詞の中で感じ取れるようにすべきではなかったのだろうか。そして初めて、2つのベクトルが交差するという構造になっていくべきではなかったのだろうか。
短編だからこそ、うまく省略し、観客にある部分をゆだねながらそれは可能ではなかったのかと思う。それが、「長編の舞台ではできない醍醐味」ではなかったのか、と思うのだ。残念。
鵺的『クィアK』
これも息苦しい雰囲気を持った作品だった。
中盤までは「プレイなのか?」という言葉が頭をよぎったが、そういう「余裕」がない。強い言葉と、それに惨めに従う女性と、それを不快に見ている男性の3人がいる。
その3人の関係が、微妙な力関係にある(力関係が移動しつつ)、三角形を描いていることが終盤に見えてくるという趣向がうまい。
こちらは、「愛」という言葉はタブーのごとく、それをひたすら「肉体」と「お金」に置き換えて進行する物語。
逆に「愛」と言ってしまえば、すべてが崩れてしまうことが恐ろしい3人が、結局埋めることのできない心の穴を「肉体」で埋めていこうとする。
言葉にしないことで、逆に言葉に縛られてしまった3人なのだ。
常に大声を出している男が一番弱く、ほとんど口をきかない女が一番強いという構図も見えてくる。
ただし、大声は、全編でなくて、静かな怖さのようなものも感じたかったというのが本音でもある。
MU『無い光』
「死」もって心の穴を埋めようとする(した)物語。
「死」は最後の手段である。逆に最初の手段でもあろう。したがって、3本ともがこうなっていなかったことは、幸いでもある。下手をすると3本ともそんな方向に進みかねないからだ。
死をもって心の穴を埋めようとしながらも、「光」がほしいという欲望は、いいと思う。「生」への「光」もそこに同居しているからだ。
ほんとうにすべてに絶望していたら、「光」なんてどうでもいいことかもしれない。
「光」が救いのある話のもとになっている。
事故を起こした女性は、すでに「穴」は埋まらないことを知っている。それは、淡島通りを鎌倉通りあたりまで行ったところで、車がスピンするなんていう、正気の沙汰ではない走らせ方をしていたことでわかる。つまり、死んでもいいと思っていたということだ。
その事故ですべて終わりにすることができなかった女性は、運命にいろいろなものを奪われていくように見え、その実、手にしているモノが、確実にあるということが見えてくる。
彼女が手にしているのは、「自分を気に掛けてくれる人がいる」ということだ。
それが本当の意味での、彼女にとっての「光」であり、彼女はそれに向かって進むということなのだ。
これは、何ごとにも代え難い。
実は、前2本ともに、それが「隠れた」キーワードになっている。
横に誰が「いるのか」「いないのか」それが大切であり、それが「光」でもある。
「光」の前には「闇」はない、なんて陳腐なことは言わないにしても。
て、言うか、最初にかかっていたVelvetのSunday Morningでネタバレしてたってことだったりして(笑)。
ヘヴィになりがちな物語に、恋愛模様をうまく絡ませるあたりが、ちょっとおしゃれでMUっぽいかもしれない。
やはり短編を多く手がけているからか、手際がいいし、締まりもいい。観客への興味の持たせ方を心得ているようだ。1つひとつの動きに無駄がなく、うまい具合に引っ張っていく。
==================
3本のうち、2本上演後、休憩が入ったが、全上演時間や準備を考えてもその必要はないのでは、と最初は思っていたが、前2本の重苦しさで、休憩に救われた感がある(笑)。
「少人数、どこでも上演可能なスタンダードを目指す」のであれば、何をもってスタンダードになり得るのか、というレギュレーションも必要だったのではないだろうかとも思う(実際は、そんなことは、誰もわからないのだが・笑)。
また、「どこでも」ということはあるのだが、一番上演される可能性がある「劇場」を意識した作品であったほうがよかったのではないか、とも思った。というか、劇場で観たい。
今後、この企画はどのようになっていくのか興味津々である。
満足度★★★★★
ミ、ミ、ミ、ミ、ミュー、ミュー、ミュー、ジカル!
若い頃の井上ひさしさんは、ちょっと攻撃的で、やや下品で、少々荒っぽく、とても過激で尖っていた。これは、初演時(1969年)には、かなり刺激的だったと思う。
時代の空気感のようなものがそこにあった。
ピアノの生演奏付きの音楽劇。
2幕2時間40分(休憩15分)。
楽しくて飽きなかったなぁ。
ネタバレBOX
五十音を物語にした(あいうえ王が…らりるれ牢に、というような)、面白い吃音矯正の練習らしき発声で幕は開く。
吃音矯正を研究している教授によると、吃音のある者、つまりドモリの人は、歌を歌ったりするときには吃音は出ず、また外国語を話すときにも出ないという。
つまり、自分と関係のない言葉を話すときには吃音が出ないということなのだ。
そこで、吃音者たちを集め、自分と関係ない言葉である台詞を言わせ、お芝居をさせることで、吃音を治療しようということになる。
12人の吃音者たちが集められ、教授の脚本により、浅草で一世を風靡したストリッパー、ヘレンの半生を、ヘレン本人を主人公にして上演することになるのだ。
それが、劇中劇、吃音症患者による吃音治療ミュージカル「浅草のストリッパー、ヘレン天津の半生記」だ。
岩手から集団就職で上京し、最初のクリーニング店では店主に言い寄られ、それを袖にしたことから、ヘレンの物語が始まる。
水商売や風俗などを、男に失敗しながら転々とし、浅草のストリップにたどり着くヘレン。そして、ストリップ小屋での踊り子や従業員のストライキのときに、スト破りに現れたヤクザとつながり、さらにヤクザの親分の囲われ者となり、ついで右翼の大物のモノになり、そして与党の代議士の東京妻となっていく。
そんな中、代議士が短刀で刺されてしまう。
そして2幕へ。
この1幕と2幕のつながりが面白いし、あれれっという展開も楽しい。
「吃音」という着眼点自体からもわかるように、「コトバ」へのこだわりを、全編に感じる。言葉遊びも多く出てくるのだが、後年のようななめらかな感じではなく、ちょっとごつごつ、ぼそぼそした印象で、少々野暮ったいかもしれない。
そして、その内容が、かなり刺激的なのだ。
例えば、「ぱちんこの玉とは別のタマを…」とか「男に惚れて、惚れて、掘ったらオカマ」とか「物干し竿を立てて」とか、意外とお下品なのだ(笑)。
トルコ風呂で働くヘレンとか、女と女、男と男の関係なども出てきたりして、ちょっと戸惑ったりする(笑)。
また、スラム出身の幼なじみが、かたやヤクザの組長で、かたや組合の専従という皮肉や、日本の軍隊は明治時代は強かったが、大正、昭和と進むにつれて弱くなったのは、天皇陛下の…なんて右翼が聞いたら激怒しそうな台詞まであり(舞台の上でも右翼の大物が激怒していたが)、過激さもある。
また、農家の出稼ぎや、集団就職で住み込みで働いている女性の扱い、学生運動などの当時の状況や、日本人的な、「顔」にこだわる右翼の大物や「腹」にこだわる代議士なんていう言葉の遊びも楽しい。
男が男を愛するならば、機動隊と学生のぶつかり合いは、集団デートになる、なんていう発想も愉快。
全般的には、初演が上演された1960年代の世相でもあるので、たぶん若い世代にはピンとこないものもあったかもしれない。
また、過激さも今の尺度から見るとたいしたことはないのかもしれない。
ただし、これは、井上ひさしさんが初めて手がけた芝居の脚本で、このテアトル・エコーのために書き下ろしたものを、同じテアトル・エコーで再々演した舞台という意味は大きいと思う。
今も現役の熊倉一雄さんを軸に(演出も兼ねて)、十年以上の中堅、そして、入団したばかりの若手などをバランス良く配し、若さと老齢のしたたかさがミックスされていたと思う。
劇場の入り口に、今回の再々演にあたって、井上さんから熊倉さんに宛てたはがきのコピーが飾ってあった。そこには「2幕は薄いので、(熊倉さんが演出をするので)加筆しても構いません」ということが書いてあった。
お二人の関係が見えてくるし、加筆したエコー版の『日本人のへそ』も観てみたいと思った。
そして、テアトル・エコーのために書き下ろした、残りの5本も是非観てみたいと思うのだ。井上さんの新作はもう観られないのだから。
満足度★★★★★
そうか、ゴジゲンはさらに先鋭的になっていたのか!
私は慄然となりながらも、それを強く支持する!
…いや、なんていうか、笑いながらだけどね。
ネタバレBOX
高校生のボクシング部での話。
ヒロイックな「主人公」たちと、そこには加われないと最初から諦め、自ら「空気だから」と言う高校生たちの物語。
当然、圧倒的に私は後者に含まれる人間だ。
だから「スポーツできるやつはみんな死んじまえばいいのだ」(そんな意味の台詞)には、笑いながら思わず拍手をしてしまう(笑)。
ヒーローには、まずは肉体が必要だ(ビジュアルも)。そして、頭脳もあれば言うことはない。だからボクシングのうまいナオキは、ヒーローになって、クサくて熱い台詞を吐いて、モテモテ(先生と付き合ってるし)になって当然なのだ。
それがな〜んにもないボクらは、空気になりつつも、ヒーローを、ちょっと小馬鹿にして、卑屈にイヒヒと笑うぐらいしかできない。さらにヒロイックな姿は恥ずかしいというポーズも忘れない。そして、その卑屈さは、ヒーローへのウラヤマしさを通り越して、いつか引きずり降ろしたいなんて、ココロの中では思ってたりする。
しかし、それはあくまでシャレの中だけで、本気ではない。だって、ヒーローのことは、ホントは好きなんだから。そしてそちら側にも行ってみたいと、どこかで思っていたりする。
だから、実際にグローブに画鋲を入れたり、醜態を写メに撮ってばらまくなんてことには、本当は気持ち良さを感じない。
しかし、本気で痛い目に遭っている者たち、もっすーや優太郎には、そういうシャレは通用しない。なぜならば、彼らの境遇はシャレになっていないからだ。彼らを痛めつける者たちにとっては、シャレであったとしても。この対比が、きついし、なんてうまいんだろうと思う。
つまり、「空気」であるはずの彼らにも、実はもう1段ヒエラルキーが存在していたのだ。気がつかないけど。高校生でなくても、そんなことがあるなんてことには鈍感になっているのだが、「いざ」というときには、それが露わになる。
そして、「いざ」というときが、訪れてしまう。互いにぐちゃぐちゃしているうちにだ。
いろんな気持ちが渦巻いて、出口なしの状態にある。誰かに追い詰められたのではなく、自分に追い詰められてしまった。それは、前作、前々作でも同様だった。そして、ゆるく(あるいは軽く)爆発していくというプロセスも同じ。
しかし、今回は、その爆発がまったく違うのだ。
身体の中のガス成分は、登場人物たちがそれぞれに違う意味で発酵させていて、すでにパンパンになっていたのだ。だから、爆発するきっかけさえあれば、連鎖的に誘爆して、でかい、とてもでかい爆発になっていくのだ。
その爆発には、ある種の連帯感さえ生まれる。「負」の連帯感がお得意の、ゴジゲンらしい発想だ。
集団心理も相まって、より「薄っぺらく」明るく、そして恐怖する一瞬が訪れる。
もう「童貞をこじらせた」なんてことを、軽く突き抜けてしまった。
突き抜けて、女子トイレの壁まで破壊して、いろんなルールも無用になってきた。
ヒロイズム=ミュージカルという短絡さも素敵だ。
そして、最後にロッカーが語り、ピンクのウサギが現れる、空虚な明るさは、メルヘンでもファンタジーでもない。そこに感じるのは、ただの恐怖以外の何モノでもない。
ま、横滑りし出してからのすべては「常に妄想の中で生きているであろう」、「覚醒」した、もっすーのアタマの中のことなのかもしれないけれど。
その境界線のなさ、曖昧さには、単純に戦慄を覚えてしまうのだ。
そして、そのすべては観客が「笑いながら」の中で進行しているのだ!
(ただし、毎回その笑った口の中に、得体の知れないナニかを投げ込んでくるんだけど)
ああ、なんと素晴らしい舞台!
これに共感(…か?)できるってことは、「どうなのよ」とは思うけど、しょうがない。
この地点に立つということは、次回は大変なことになりそうな予感がする。確か、次回は『神社の奥のモンチャン』の再演だったはず。これを初演より遙かに大きな高円寺の舞台で、さらに破壊するのか、原点回帰になるのか興味津々なのだ。
役者では、コーチを演じた加賀田浩二さんが、おいしいポジションでいい仕事をしていた。また、ナオキの弟役の東迎昴史郎さんの、後味に残るようなイヤな感じはなかなか。さらに、3年生の服部を演じていた本折智史さんの卑屈さがよかった。
ゴジゲンの2人は、いつもの感じで確実感。
満足度★★★
さらさらと手から滑り落ちる不条理劇
私の勝手な思い込みなのだが、青年団は「ある設定の中で、その世界をきれいに切り取り、洗練された台詞と演技でリアル風に描写する劇団」だと思っていたのだか、どうもここには、その「リアル感」があまり感じられなかった。
そのリアル感を、この中で実感できれば、この不条理劇は、さらに深まり、心に刻み込まれたのだと思うのだ。
ネタバレBOX
劇場に入ると舞台が一面砂である。これはいい。
最初と最後に上からさらさらと砂が流れ落ちる。そこはあたかも、砂時計の中のよう。時が刻まれるのだが、まったく進んではいない。
時間があるようで、ない砂の中での物語。
メビウスの輪のごとくねじれつながり、終わりのない物語の中にいる登場人物たちは、砂に足を取られつつも歩むだけ。
そういう物語であれば、「本部の命令で目的地へ向かう兵隊たち」「母を捜す家族」「夫を訪ねてきた妻」の存在は、理解できる。彼らには、「目的(地)」があるのだ。
ただし、「新婚旅行のカップル」と「敵」にはそれがない。
そこがどうも全体のテーマから少々逸脱しているように感じてしまった。
「続く」ことがテーマであるとするならば、「敵」は必要ないし、ましてや死人が出るドラマもいらないのではないかと思ったのだ。
「生きる」ことは「続く」ことであり、ぼんやりした「目的」に向かって歩くことが我々の毎日なのだ。
そして、戦う意味も理由も失ってしまうのが現代の戦い(戦争)でもある。それもまた我々の毎日でもある。
「目的がない」ことも、見せたかったのならば、はっきりと「ない」ことを提示したほうがいいのではないか、とも思ったのだ。
ただし、「生の継続」が「歩く」ことで表現されているのであれば、「死」が唯一の目的地でもあるわけで、我々は「死」に向かって歩いているわけでもある。
したがって、撃たれて死んだ男だけで終止符を、まさに打たれた。
それを観客に気づかせるために、そのエピソードを入れたのかもしれないが、そうであったとしても、それは余計で、語りすぎではないだろうか。
とにかく「続く」ということがすべてなのだから。
また、「敵」は、単に全体の(下手から上手への)動きを、「逆からの動き」(上手から下手へ)として、見せたかっただけに設定したのではないかと勘ぐってしまう。
微妙に砂漠の場所を地名で明らかにするのだが、それはまったく必要なかったのではないかと思う。「砂漠」であることだけでよかったと思うのだ。
もっとも、フランス人が演じるときには、その地名がノスタルジックな感じも持ちつつ効果はあると思うのだが。
いつの間にか始まり、いつともしれぬエンディングを舞台に残しつつ、観客はそこを去る(私は最後の観客して、ずっとそれを眺めていたが)。
そのエンディングは、とてもよかった。「これは元に戻るな」という予感が、後半になるに従って強くなってきたので、しっくりきたとも言える。
兵士が持つ、明らかに携帯ゲームプレイヤーの、ピコピコ音がする、本部との連絡や検索をする携帯端末というのも、不条理で面白かった。そんなアイデアがもっといろいろあればさらに面白かったとも思った。
この舞台は、『麦と兵隊』をモチーフしたらしい。てっきりその字面から、同じ作家の『土と兵隊』がモチーフなのかと思っていた。
それは、横に置くとして、いつ終わるともしれない行軍の物語としては、先の戦中の小説とは別に、奥泉光氏の小説『浪漫的な行軍の記録』がある。この泥沼感はたまらなかった(怨念・執念のような意味も含めて)。しかし、この舞台には、実際は、砂の上ということだけでなく、そんな湿気や粘りけを感じなかった。生への執着が希薄なのだろうか。そこが現代(的)ということなのだろうか。
どうでもいいことだが、兵士たちの銃の扱いがぞんざいすぎる。たとえ交戦しないつもりにしても、自分たちの命を守る銃に砂が入れば、命取りになるのだが、そのあたりをきちんとするだけで、リアル感は増したのではないだろうか。
さらに言えば、匍匐前進には、用途別に何種類もある。兵士たちは、舞台の見栄えとして、2種類の匍匐前進をしていた。本来ならば1つにすべきでは。ま、これはホントにどうでもいいことですね(笑)。
満足度★★★★
重厚長大にたっぷり浸る
この人数で、壮大なスケールの物語を演じる凄さ。
このメンバーだからこそできる。
この人数だから熱いというか、熱っ苦しい(笑)のが丁度いい具合になっているのかも。
ネタバレBOX
「戦い」と「運命」の物語。
「なぜ戦うのか」が麻痺してしまった10年戦争の幕切れが舞台。
台詞だけで戦場を見せる。ただし、そこには戦いの、ヒロイックさとカタルシスが快感としてだけ存在する。
しかし、その戦いが、個人のところに降りてきて、はじめて「血」が匂い、感情がほとばしる。
そこが物語の本質である。
会話というより、モノローグのようで、詩編のような台詞が、壮大な物語を形づくり、さらに役者の肉体がそれを支える。
肉体の、命の、そんなありようが、広い舞台の上から感じられた。
内野聖陽さんの、肉体を誇示するような熱さがとてもいい。また、平幹二朗さんが、いつもながらあまりにもカッコいい。大きな舞台が似合う。後半での、彼の慟哭は胸に響いた。
また、新妻聖子さんの歌というか声が素晴らしい。男たちの肉体と台詞のぶつかり合いに声で広がりを見せてくれた。いろいろな役を担った女性たちの歌もよかった。そして、チョウソンハさんの、特に後半の動きがとにかく美しい。
さらに、金子飛鳥さんの曲と生演奏が演出の効果を増していた。
私の観た日は、3回のカーテンコールで、スタンディングもあった。内野さんファン多いんだろうなぁと実感したのだった。
満足度★★★★★
単なる2本立て以上の、うまい組み合わせ
コメディの2本立て。
2本とも観客の引っ張り方がうまく、とにかく笑わせてもらった。
コメディとしてのスピード感や、ストーリーの組み立て方には、センスさえ感じた。
ネタバレBOX
『みんなのへや』
定石どおりとも言えるような、「そこで出会ってはイケナイ人たちが、1つの場所で鉢合わせして、右往左往する」というシチュエーションコメディ。
登場人物たちが、次々部屋に現れてくることから、さらに混乱していく様がうまい。そして、おきまりとも言える。勘違いの連続が気持ちいい。
互いに浮気をしているカップルにストーカーの女性などが絡んでいくのだが、無理のある展開になっていきつつも、ギリギリのところで、完全なウソにならないところの、ストーリーが面白い。
ただし、押し入れに隠れている体の人物たちや、お風呂場などで、そこにいてはならない人物と会話すると言う設定のときの声が、あまりにも大きすぎて「いくらなんでも部屋の中に聞こえるだろ」とツッコミをいれたくなるほどだった。
会場があのサイズならば、もっと声を落としても聞こえるので、そうしたほうがよかったのではないかと思う(あるいは声を潜めた雰囲気の芝居で)。
『無縁バター』
同じマンションの一室の設定ながら、こちらは、がらりと雰囲気が変わる。
孤独死というテーマから、やや重めで、ブラックな展開になっていくかと思いきや、次々に繰り出されるワザには、思わず笑ってしまう。
2重3重にワナが仕掛けられているのだ。
観客は、台詞のやり取りから、アレコレと想像しながら、その物語に乗っていく。例えば、幼女誘拐的な話の展開は、「どうせネコか何かなんだろう」と思いつつ見ていたら、それをうまい具合に裏切ってくれたりした。
そして、単なる人情話にしないあたりがうまいと思った。
We are not aloneからの、MIB的なラストは、まったく想像がつかなかった。これって、自分たちだけで清掃したいと強く言うぐらいで、しつこく伏線を入れないことの成功だと思う(逆に不動産屋と名乗る男が、清掃を見届けたいと言い張るところが、その設定と対になっているのがうまいのだ)。
それにつけても、『無縁バター』というタイトルは、よくよく考えるとかなりグロい(笑)。部屋で染みになっていたし。
この2本の組み合わせ自体がなかなか巧みだと思う。
同じように、人が一部屋に集まっていても、かたや、いろんな人とかかわっていることが明らかになっていくことでの、ドタバタであり、もう片方は、孤独な者同士が出会い死んでいったことにより、人が引き寄せられるという物語。
つまり、単に、短編のコメディを2本やりました、というわけではない。きちんと意味のある2本立てだったと思う。深読みすればいろんなメッセージが出てくるのだ。
いずれにしても、コメディとしての、「笑いの疾走感」が感じられ、十分に笑わせてもらった。
満足度★★★★
ストーリーの収束が巧み
笑いをまぶしつつ、観客を飽きさせない演出は、やはりうまい。
役者たちは若々しく、その勢いに溢れていた。
ネタバレBOX
いくつかのストーリーが並列し、それが1本に収束していくのだろう、ということは、観客の誰もが予測しているはずだが、それを「気持ち上回る展開」にしていく様は「さすがっ!」と声が出るほど。
特に、小説の主人公だったはずの女性が、その著者の前に現れるところにそれを感じた。
女性が現れる、その前提に、ガシュマルの木の妖精が出てくるという「作り話」的な部分があるので、女性の登場は、小説からキャラクターが現実に染み出してきたのだと、観客は受け取るのだが、実はそうではなく、それを逆手にとるあたりは巧みだ。そして、その女性が結局何であったのか、のあたりまでの展開もうまい。
全編、各エピソードにそんな仕掛けがあり、そこに細かい伏線が張ってありつつ、それを細かく拾っていくのは見事。
インターネットについては、特別、新しい視点はないものの、物語への取り入れ方や、twitter、mixi、2ch、youtube、 Ustreamなどにも軽く触れていくセンスもいい。
役者は、全体的に若々しく、元気が溢れていた、というより、溢れすぎていて、一本調子になりがちだったような気もする。
ただ、その初々しさはとてもいい。
演出は、観客を飽きさせない術をよく知っているだけに、折り返しのところで、無理矢理のダンスを入れたり、客席の通路を役者が通ったり、客いじりがあったりと、まったく飽きさせることはなかった(少々ベタな感じもあるが・笑)。
そして、いいタイミングで笑いも入る。
当パンに挟み込まれていた鴻上さん手書きのコピーのようなプリントの内容は、センチメンタリズムに溢れていて、舞台でのイメージをちょっとだけ、さらにプラスした。
満足度★★★★
大人げないのが大人
会場の使い方がなかなかで、臨場感抜群。
キャラもはっきりしていて、わかりやすい。
ネタバレBOX
もう、なんと言うか、保護者会である。
その場に参加してしまった感じ。
演じる場所を囲むように観客は座り、照明は普通の会議室のままなので、まるで保護者会に観客全員が参加しているようだった。
照明が明るいので、観客も緊張しながらの観劇で、いつ担任の先生に指されないかびくびくしたりして(笑)。つい、役者の後ろに見えてしまう観客の様子にも目がいってしまう。
せっかくそういう状況なのだから、例えば、途中でプリントを配るのだけど、それを観客にも配るなのどの、観客とのスリリングな関係があったりしても面白かったのではないかと思ったりもした。
そして、簡素ながら教室への作り込みが面白く、特に黒板のセンスはなかなかだ。
ややステレオタイプ感があるものの、キャラクターははっきりしており、役者は演じやすかったかもしれない。
今回は、女優さんたち(青木花さん、川本亜貴代さん、森南波さん、薬師寺尚子さん)が、どの方もよかったと思う。中でも園田を演じた川本亜貴代さんの普通さと、後半の感情が溢れる感じが印象に残った。
また、二階堂先生のしっかり者の様子と、榎本先生の、どことなくある頼りなさの源泉が彼の家庭事情と結びついていくという見せ方がとてもいいと思った(合点がいく感じ)。
ただ、番外公演なのだが、コメディを上演する劇団であるというを活かして、観客の緊張を解くような、ふっとした「笑い」がもっとほしかったと思う。
と言うか、前半は爆笑の連続でもよかったのではないかとも思うのだ。それによって後半がもっと締まって見えたのではないだろうか。
ストーリーは、予定調和的で、こうなるだろうなという方向に収束するのだが、それでも、そうなることに違和感はなく、とてもいい気持ちになれた。
また、ラストで、子どもの陰にいた親たちが、本人に戻るというあたりは、うまいなと思った。
この舞台に関して言えば、ここの場所はよい設定だと思うのだが、今、都内では公立学校の廃校で、教室を一般に貸し出しているところもあると思うので、そういう場所を使えばさらによかったのではないだろうか(にすがも創造舎など)。
満足度★★★★★
星々と生命の煌めき
今回の「銀河鉄道の夜」は、タイトルにもある通り、北村想さんの戯曲によるものだ。
宮沢賢治のオリジナルを踏襲しつつ、物語やテーマとなる軸を、よりわかりやすくさせていた。
それは、独自の銀河鉄道であり、同時に宮沢賢治の銀河鉄道でもあった。
そして、生演奏による歌がいいし、役者が魅力的だった。
こんにゃく座は、とても好きになった。
ネタバレBOX
舞台を見下ろし、囲むようにコの字型に客席が設置されていた。
床に投影される影や光がとてもいい効果を上げていた。
また、シンプルだが、効果的な装置やセット、衣装も印象に残る。
役者たちは、どの人もよかったのだが、特にジョバンニ(島田大翼さん)の、にじむ哀しみは記憶に残る。また、尼僧と教師を演じた梅村博美さんには、包み込むような魅力があった。
来年40周年を迎えるこんにゃく座だが、宮沢賢治の作品を数多く取り上げているという印象がある。
しかし、「銀河鉄道の夜」の上演は始めてだと言う。
理由はいろいろあるようだが、それだけ正面から取り組むには大変な作品だったということなのだろう。
今回、北村想さんの戯曲によって、それが始めて実現した。
物語の骨組みは、ほぼ、宮沢賢治作の『銀河鉄道の夜』である。
しかし、微妙な点で異なっている。
一番大きな違いは「銀河鉄道」の位置づけである。
銀河鉄道にはカムパネルラは乗るのだが、ジョバンニは乗れない(ジョバンニは、車掌に「あなたは、どこまでも行ける切符を持っているのだが、まだ乗れない」と告げられる)。つまり、そういうことなのだ。
したがって、原作に出てくる鳥取りや尼僧とのやり取りは銀河鉄道を待つホームで行われる。
そういうことで、物語がわかりやすくなったと思う。
また、カムバネルラがいなくなった翌日の教室のエピソードも加わっている。
さらに、冒頭で行われる、銀河の星々と生物の話などに多くの台詞を割いていた。
これらのことなどで、この物語のテーマを、よりくっきりさせてきたと思う。
つまり、宇宙の多くの星々と、地球に生まれた生命の奇跡、そして、「死」。
さらに、遺された者たちは、カムパネルラの喪失とどう向き合っていくのか、ということだ。
ここが今回の舞台での、とても大きなポイントではないだろうか。
星々とカムパネルラと遺された者たち、それらが美しく引かれ合って、夜空を巡るような舞台だったと思う。