視点 vol.1 Re:TRANS(MU×ミナモザ×鵺的) 満員御礼、審査発表をblogにて公開しました! 公演情報 視点「視点 vol.1 Re:TRANS(MU×ミナモザ×鵺的) 満員御礼、審査発表をblogにて公開しました!」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    生命を巡る永遠のサイクル
    別劇団による3本立てでありながら、単なるショーケースになっていないことにまず拍手を送りたい。

    単なる3本の短編を上演したのではなく、きちんと1つのループの中にそれぞれが存在していたように思える。
    それはプロデューサーの意図がきちんと伝わったことではないかと思う。

    その意味で、今回の企画は成功したとも言える。

    ネタバレBOX

    「結果的に」なのかもしれないが、3つの短編が「生・性・死」というきれいな「生命」の連鎖になっていた。
    それが当初からの企てかどうかは問題ではなく、プロデューサーの意図(あるいは感覚)が他者にも伝わったということの証だと思う。

    また、3本ともに貫かれているのは、私がMUを観るときにいつも感じる「虚無」のような「穴」であった。
    連続している生命のサイクルには、「人が生きる」ということにつきまとう「埋まらない何か」がいつもある。
    それがどのようになっていくのか、あるいは何なのかを、そっと指さすような物語が並んでいたのではないだろうか。

    また、今回の企画は、「短編1本だけでは上演できないので」というハセガワさんの発言は横に置くとして(笑)、「少人数、どこでも上演可能なスタンダードを目指す」というコンセプトは素晴らしい。演劇全体のことを視野に入れての公演、つまり、劇団の主宰とはまた違うレベルの発想になっていたことも、ハセガワさんがきちんとプロデューサーとしての役割を果たしていたのではないかと思うのだ。

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    ミナモザ『スプリー』
    異様な緊張感で、女医が患者にまたがり胸を押すという行為と、その行為の意味がつかめてこないことへの不安が、密集した観劇状況と相まって、一種息苦しさを醸し出していた。
    ときおり、挟まれる笑いの要素には救われはするのだが、その構造は男性医師が登場しても治まらない。
    そして、患者の突然の独白になるのだが、これが唐突すぎて、たぶん笑いに変わっていく(すべてが「苦い笑い」に変わっていくというオチ)のだろうと思う自分がいた。そう思って見ていたので、結果「あぁ…」ということに。
    ラストの台詞はちょっと短編っぽく、いい感じの幕切れ風にになっていたのだが。

    絶対に埋めることができないとわかっている自分の心の穴を他者の痛みで埋めようとする女医の物語。
    痛めつけようと思っていた患者が、女医の行動から、自分の「痛み」の「意味」を見出す。そして、そのことと、女医の行為とが偶然に交錯することで、1つの光が見えてくる物語になっていくものだと思った。
    つまり、患者が、自ら「痛み」を差し出して、女医の心の穴を埋めようとする犠牲的精神を見せるラストにつながるということだ。「犠牲」に「暴力」で応えるというラストに。

    この一瞬の光を見せるには、やはり、患者の「生き様」のようなものを、全編の台詞の中で感じ取れるようにすべきではなかったのだろうか。そして初めて、2つのベクトルが交差するという構造になっていくべきではなかったのだろうか。

    短編だからこそ、うまく省略し、観客にある部分をゆだねながらそれは可能ではなかったのかと思う。それが、「長編の舞台ではできない醍醐味」ではなかったのか、と思うのだ。残念。


    鵺的『クィアK』
    これも息苦しい雰囲気を持った作品だった。
    中盤までは「プレイなのか?」という言葉が頭をよぎったが、そういう「余裕」がない。強い言葉と、それに惨めに従う女性と、それを不快に見ている男性の3人がいる。
    その3人の関係が、微妙な力関係にある(力関係が移動しつつ)、三角形を描いていることが終盤に見えてくるという趣向がうまい。

    こちらは、「愛」という言葉はタブーのごとく、それをひたすら「肉体」と「お金」に置き換えて進行する物語。
    逆に「愛」と言ってしまえば、すべてが崩れてしまうことが恐ろしい3人が、結局埋めることのできない心の穴を「肉体」で埋めていこうとする。

    言葉にしないことで、逆に言葉に縛られてしまった3人なのだ。

    常に大声を出している男が一番弱く、ほとんど口をきかない女が一番強いという構図も見えてくる。

    ただし、大声は、全編でなくて、静かな怖さのようなものも感じたかったというのが本音でもある。


    MU『無い光』
    「死」もって心の穴を埋めようとする(した)物語。
    「死」は最後の手段である。逆に最初の手段でもあろう。したがって、3本ともがこうなっていなかったことは、幸いでもある。下手をすると3本ともそんな方向に進みかねないからだ。

    死をもって心の穴を埋めようとしながらも、「光」がほしいという欲望は、いいと思う。「生」への「光」もそこに同居しているからだ。
    ほんとうにすべてに絶望していたら、「光」なんてどうでもいいことかもしれない。
    「光」が救いのある話のもとになっている。

    事故を起こした女性は、すでに「穴」は埋まらないことを知っている。それは、淡島通りを鎌倉通りあたりまで行ったところで、車がスピンするなんていう、正気の沙汰ではない走らせ方をしていたことでわかる。つまり、死んでもいいと思っていたということだ。

    その事故ですべて終わりにすることができなかった女性は、運命にいろいろなものを奪われていくように見え、その実、手にしているモノが、確実にあるということが見えてくる。
    彼女が手にしているのは、「自分を気に掛けてくれる人がいる」ということだ。
    それが本当の意味での、彼女にとっての「光」であり、彼女はそれに向かって進むということなのだ。

    これは、何ごとにも代え難い。
    実は、前2本ともに、それが「隠れた」キーワードになっている。
    横に誰が「いるのか」「いないのか」それが大切であり、それが「光」でもある。
    「光」の前には「闇」はない、なんて陳腐なことは言わないにしても。

    て、言うか、最初にかかっていたVelvetのSunday Morningでネタバレしてたってことだったりして(笑)。

    ヘヴィになりがちな物語に、恋愛模様をうまく絡ませるあたりが、ちょっとおしゃれでMUっぽいかもしれない。

    やはり短編を多く手がけているからか、手際がいいし、締まりもいい。観客への興味の持たせ方を心得ているようだ。1つひとつの動きに無駄がなく、うまい具合に引っ張っていく。

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    3本のうち、2本上演後、休憩が入ったが、全上演時間や準備を考えてもその必要はないのでは、と最初は思っていたが、前2本の重苦しさで、休憩に救われた感がある(笑)。

    「少人数、どこでも上演可能なスタンダードを目指す」のであれば、何をもってスタンダードになり得るのか、というレギュレーションも必要だったのではないだろうかとも思う(実際は、そんなことは、誰もわからないのだが・笑)。

    また、「どこでも」ということはあるのだが、一番上演される可能性がある「劇場」を意識した作品であったほうがよかったのではないか、とも思った。というか、劇場で観たい。

    今後、この企画はどのようになっていくのか興味津々である。

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    2010/09/26 10:47

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  • みささん

    コメントありがとうございます。

    気合いというよりは、深夜のテンションで一気に書いてしまった(笑)感じです。
    ですから、後から読むと結構恥ずかしいかもしれません(読んでませんけど・笑)。

    ミナモザと鵺的も「短編」を体験して、たぶん何かをつかんだと思います。
    ですから、もし今後この2団体が短編を上演すると面白いものができるのではないか、とも思っています。

    >次回の視点も今回のような粋なプロデュースを期待してしまいます。

    同感です。1とあるので2も当然あるでしょうね。
    今回かなり好評でしたから、次は大変かも(笑)。

    2010/09/30 08:54

    お久しぶりです。お気に入りのユーザーのチェックをしているとこんな時間に。笑
    ものすっごく気合を込めて書きましたね。読みごたえがありました。
    今回の.MU×ミナモザ×鵺的のタッグは実に満足な結果になりました。
    ミナモザは拝見したことはなかったかと思いますが、面白かったですね♪
    鵺的は今回が2度目ですが、相変わらずの歪み具合に感無量でした。
    っていっても全体的にどれも歪んでましたが。笑

    実は鵺的『クィアK』に出演されたキャストがアニメの主人公にそっくりなので、彼の顔ばかり見ていました。ワタクシの中でアニメの物語と『クィアK』が同時進行してました。笑
    ついつい、次回の視点も今回のような粋なプロデュースを期待してしまいます。

    2010/09/29 01:07

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