満足度★★★★
正直、まずフライヤーが目を引いた
それは、思わずベッドの下に隠したくなるようなモノなのだ。
それと、長ったらしいタイトルにも惹かれた。
そして、面白かったのだ。
ネタバレBOX
物語の舞台となるのは、フライヤーどおりの弱小エロ本出版社。
舞台の上の出版社は、どちらかと言うと、普通の零細出版社の様子であったと言える。扱っている内容がエロだというだけのこと。もっとも、実際、そうなのだけど。
仕事に対する熱意はあるけど空回りしているような、そんな印象。
主人公は自分で自分のことを「ダメだ」と思っている。「もう何もできない」とも。
こういう人は、多いんじゃないだろうか。「こんなはずじゃない」あるいは「なかった」と思っていて、ウジウジしている人。
彼の物語ではあるのだが、ちょっと変化球が加わる。どうやら未来から来た彼の娘らしき女性が、ストーリーの終盤あたりでいきなり現れるのだ。
最初は単なる言い訳かと思っていたが、どうやらホントらしい様子。しかも、彼の結婚によって世界を破滅から救うことができるらしいということ。それによって、娘は産まれてこなくなってしまうのだが。
この設定を、娘の言うとおりに信じていいのかどうかは微妙なセンなのだが、それぐらいの微妙さがいいバランスにあると言える。
ぐっとSFチックに舵を切らず、リアル風なそれまでの舞台を壊さない程度な感じがいいと思うのだ。
全体的に下ネタ満載で、それは設定がそうだから仕方ないのだが、と言っても、それほどそれはキツくない。
まあ、隣に女性が座っていたら大笑いするのをやや控える程度か。
その感じもなかなかいいアクセントになりつつ、ラストに向かうのだが、そのドタバタ感もいいのだ。
ただし、一緒になってイケナイはずの主人公とリナが同じ会社で働いている、という波乱をまだちょっと含んでいるのだが、それをもう少し匂わすほうがよかったように思える。
つまり、最後の写真撮影で主人公を舞台に呼び込むのだが、リナを呼び込んだほうが、と思ったのだ。
どちらかと言うと、問題を抱えた主人公を周囲が受け入れるという、ややお決まりな収まりのいい感じになったのは、心地良いのだが、ラストにもう一捻り欲しかったというところだ。
なんか逆ギレ的な雰囲気で、マネージャーの男が悪者っぽくなっていたのは違う気もするし。
役者はすべての人が、きちんとキャラが立っていて好感度高い。
主人公・鈴木を演じたはやし大輔さんの、いつも伏し目がちで自信のなさと、ラストあたりの身勝手さが、ダメな感じを見事に表していたし、佐藤を演じたアダチヒロキさんの、いかにもいそうなノリがよい男は、身体のこなしと機転の効き方(ドアを閉めるときの)がなかなか見事だった。
そして、編集長を演じていたしまさきまちこさんも、いるよなーこういう頑張っちゃう人って、という感じが良く出ていた。山田を演じた長島慎治さんの風貌と彼が言いそうな台詞をきちんと見せてくれていたと思う。
主人公・鈴木が思いを寄せるマヒルを演じた花岡芙美子さんは、物語が進むにつれて不思議な魅力が見えてきた。鈴木が惚れているのがわかるような感じだ。鈴木とリナの娘だと言う古賀を演じた池田あいさんは、この中にあって、1人頑なな役であり、それをうまく保てていたと思う。
さらに、AV嬢のリナを演じていた町田歩美さんは、ちょっと色っぽい雰囲気から、弱い姿、そして普通の人となるのを、短時間で見事に演じ分けていた。営業の山田を演じていた加藤を演じた島影昌彦さんの元気が取り柄のような雰囲気もいい。
リナのマネージャー・山本を演じた青山雅士さんの、人を見下したような、ちょっとしたヤな感じはなかなかいい。
そして、忘れてならないのが、マンガ家・マシュマロを演じていた中峰健太さんは、もう、面白い、タイミングや雰囲気すべてが面白いのだ。彼の出番が一番笑ったのではないだろうか。
そうそう、あと絶対に忘れられないのが、山田の奥さん・くるみさんを演じた方だ。存在自体が面白いとしか言いようがない(それは演出のうまさだと思う)。なぜかキャストに名前がないようなのだが。
ちなみに、たまたま中小&弱小エロ本出版社に数多くの知人、友人がいたことがあるので、その実情(周囲からだけど)を見たことがあるのだが、もっとダメダメな人が多くいた。
それは、社会人としてダメな人たちばかりだった。高校野球の頃には、すべての試合が終わるまで出社してこない人とか(もちろん録画してるのに)、麻雀のメンツを集めるだけでのために出社している人とか、取材費を使い込みすぎた人とか…、そんな感じだった。
でも、何かに関しては、強い思い込みと、執念がある人ばかりでもあった。エロとかマンガとか、ね。
そういう雰囲気があれば、なお良かったかも。
…って言っても、そういう雰囲気がウケる層は限られてはいるけど。
とにかく、お気に入りの劇団がまたひとつ増えたような気がする。
……。
残念というより悲しい気持ち。
こういう言い方は適切ではないかもしれないが、前回初めて観た、阿佐ヶ谷南南京小僧には、楽しいB級感のようなものを感じていた。もちろん、B級というのは悪い意味ではない。
チープだけどなんとなく楽しい雰囲気があるというところで。あ、チープもそれほど悪い意味ではない。
しかし、今回は残念なのだ。
ネタバレBOX
『フランケンシュタインの婚活』は、そのタイトルからアメリカ映画『フランケンシュタインの花嫁』を彷彿とさせる。
『フランケンシュタインの花嫁』は、博士がフランケンシュタインに花嫁の人造人間を作るという話だったが、こちらの『フランケンシュタインの婚活』は逆に博士の花嫁を見つけるという話だ。
舞台がスタートしたときに、なるほど本歌取り的な、そういうストーリーかとわくわくしたのだが、そのわくわく感は徐々に冷えてきてしまった。
その理由は、端的に言ってしまえば、演出の問題だろう。
やけにごちゃごちゃしすぎて、さらにどの出演者も変なテンションの上げ方なのだ。役者をバタバタさせすぎではないか。ポイントがぼけるというだけでなく、役者の良さが見えてこない。
ごちゃごちゃしたストーリーでも、きちんと交通整理さえしてあれば、そのごちゃごちゃ感が楽しめるということも多い。
しかし、今回は単にごちゃごちゃしているだけで、面白みにまで達してこない。
テンションの上げ方も、耳障りだったりする。悲鳴の上げ方ひとつにしても、もっと考えたほうがいいのではないだろうか。
ストーリーについては、あまり言いたくないが、ラスト近くになってからの、博士たちが死んでいくという展開は、ちっとも面白くない。
死んでいくのも結構だが、そこに面白みをきちんと見せてほしい。
バカバカしさでも、おふざけでもいいのだ。笑わせろ、というわけではなく、こんなふうにストーリーが展開してきたのだから、きちんとその落とし前をつけてほしいと思うのだ。
そして、ラストにたこ揚げするという、意味ありげな終わり方も、それがおふざけならば、面白いと思うのだが、どうやら本気のようであり、こんなふうに終えるのはいかかでしょうか、と見せられたようで、あまり愉快ではない。
それまでの話とのバランスが悪い。
冒頭にたこ揚げについて、博士の台詞がひとしきりあるのだか、それが活きていないように感じる。博士のたこ揚げとラストの2人のたこ揚げとの関連性や、込められた感情などが感じ取れない。
そんな中、役者の中では、メリルリン子さんだけが、1人気を吐いていたと思う。あの雰囲気の中でよく自分を出していたと思うのだ。でも、もっと見せ場が作れたのではないかと思うと、やっぱり残念。それと、伊藤昌子さん出てなかったのも残念。
と、いろいろ書いてきたけれど、次回は『グラマー天狗』というタイトルで、居酒屋が舞台らしい。
もう、ホントにタイトルだけは(失礼!)面白そうなのだ。また、見てしまいそうな気がするのだよ(笑)。
満足度★★★★★
『WALTZ MACBETH』やっぱり東京デスロック、面白い!
最初はどうなることかと思ったけれども、確かにマクベス。
ネタバレBOX
まず多田さんがマクベスのあらすじを話すところから舞台はスタートする。
何もない舞台に、次々に着物の正装姿で役者が現れる。手に椅子を持ったり持っていなかったり。
冒頭の数十分は台詞がない。
椅子に座るか座らないかの駆け引きのような様子が描かれる。
どうやら椅子を媒介することによって、「空気(いわゆる「気」)」とか「気配」のようなものを表現していたようだ。
誰が座るのか、どう人に譲るのか、あるいはどう人に接して、自分がどう思われたいのか、などである。
そこから、明治時代に翻訳されたままの台詞のマクベスが始まる。
椅子を取り合ったり、椅子を何かに見立てたりということに使うのだ。
つまり、椅子は、やはり、「見えないモノそのもの」や、特にそれを媒介することで「見えないモノ(関係など)」を見せるためのツールとして活用されていく。
マクベスやマクベス夫人、ダンカンやマクダフが置かれている立場や、その感情を椅子を通し、さらに台詞がそこに加わることで巧みに表現されていく。
単に椅子を取り合っているだけでなく、そうした企みが徐々に見えてくることによって、マクベスの物語が立ち上がってくるのだ。
うまい。
もちろん、マクベスの台詞を喋りながら、椅子を取り合っている人々という見方もアリだろう。
それができるのも、冒頭にあらすじの説明があるからなのだ。
なかなかこのあたりは用意周到と言える。
そして、役者がとてもいい。もの凄くいいのだ。
偶然のように、椅子を動かし、倒し、取り合い、座ったり、座れなかったりという様が見事なのだ。
狭い舞台なのに、思い切り良く手足を動かし伸ばす。相手の気配をきちんと察知し、それをやってのける。普通に考えると、周囲のことばかり気になって(ぶつかりそうなので)手足が縮こまったりしそうなものなのに。
汗だくになって、息も切らしながら走り回り、踊りまくる。
人と人との距離感と、気配と感覚、さらに安心や不安などを舞台の上で見せることにより、マクベスの物語は現代に生きてくるのだ。
それにしても、『平成二十二年のシェイクスピア』が見られなかったのが残念。夜の回もあればなあ。
満足度★★★★
プロの大人のお楽しみ
とにかく濃い人たちがドタバタ楽しげにやっているのを観るのが楽しい。
歌も入るし、ダンスある。そして、セットも多彩。
もちろん、豪華な出演者たちは見ているだけで楽しい。
ネタバレBOX
戦後間もない頃が舞台。
傷痍軍人なども街角にいる(後で違うとわかるのだが)。
元は3人組(柄本明・ラサール石井・藤山直美)のペテン師たちだったのだが、そのうちの1人(藤山直美)が裏切り、金を持って逃げてしまった。
残った2人は、流れ流れてある温泉街にやってくる。
その温泉街のある旅館では、温泉採掘とそれに伴う大型レクリエーション施設化の計画があった。採掘のためにブローカーが入り、いくつもの穴を掘っているのだが、温泉はなかなか見つからない。
女将の妹で、旅館でダンスを踊っているダンサー(小池栄子:姉はそっくりな姉妹だと思っている)は、姉はそのブローカーに騙されているのではないかと思っている。
そこに2人のペテン師がやってくる。彼らは、そこで逃げた元の仲間の女ペテン師と出会うのだが、彼女に女将を助けて、プローカー相手にペテンを仕掛けようと持ちかけられる。
女将とブローカー、3人のペテン師、そして、もともとこの旅館の跡取りだったはずの息子(ベンガル:戦中に部下を死なせてしまったという悲惨な体験から戦争がまだ終わっていないと信じている男)たちが絡み合っていく、そんな物語。
芸達者な主軸となる役者陣が、自由に楽しくやっているように見せる技術が素晴らしいと思う。
ランドセル背負ったタイガーマスクも意味なく登場するし。
特に、それぞれがいろんなことを仕掛けてくるのだが、それをきちんと吹いてみせたりするプロの仕事がある。
ベンガルさんのアドリブのような台詞や、柄本さんがセットから出てしまったりすることに吹いてみせるなどだ。
ドタバタしてみたり、現代のネタを入れてきたり、くだらないことをしてみたりと、それらを見ているだけで楽しい。
ただ、そこに勘三郎さんもいたらなあ、と思ってしまう。
ラストは、戦争をバックボーンにしているということで、やや教訓(説教?)臭い感じがするのが、どうなのか、と思ってしまうのだが(「戦争は男がした」「これからは女の時代や」という感じの)。
戦争の悲惨さを、戦争体験で変になってしまった男(ベンガル)のヘンテコな笑いをまぶしつつ、ちょっと垣間見せて感じさせるだけで十分だったのではないか、と思うのだ。
満足度★★★
SFなのに、どこか懐かしい
原作が古典的名作マンガであり、その舞台化である。
あの時代の少女マンガ的美形をそのまんま舞台に登場させる、ということはは無理なのだが(失礼・笑)、原作のストーリーを紹介するという意味では成功している舞台だと思う。
実際、まったく飽きずに最後まで楽しめたのだから。
ネタバレBOX
しっかりした原作なので、ストーリーとしては破綻もないし、それを丁寧に上演しているという点においては好感が持てる。
プラスアルファの部分は笑い的要素が加えてあった。それほど笑えるものではないものの、嫌な感じはせず、控え目であったところがいいのではないか、とも思った。
セットはシンプルながら、宇宙的なというか、そんな感じのものであった。
ただ、全員が、もしくは登場人物たちが、横にずらっと並んでいる印象を受けるシーンが多くて、その配置を考えると、高低差なども考慮すべきではなかったかと思う。
また、このストーリーを今なぜ? という思いが浮かんでしまい、それが最後まで拭いきれなかった。
ストーリーの面白さはあるものの、宇宙大学国に入学できれば、すべてバラ色というような世界観、みんな頑張ってるいい人(宇宙人含む)たちというところで、つい口を挟みたくなるのだ。
ただ1点だけ意味があると思えるのは、この舞台を支えてくれる主たる観客たちにとって、この原作の懐かしさは、彼女たちが過ごした昔日を思い出したりするには大いに役立つであろうということ。
公演前に古いマンガを取り出してみたり、買い直して読み直してみたりという行為自体が公演の楽しさにもつながるわけであって、そういう意味においては、とてもキャッチーな演目であったとも言えるのだ。
ダブルキャストというのも憎い仕掛け。
にしても、この物語は、どこかBL風味なんだよなあ。スタジオ・ライフだからというわけではないけど。
そのあたりが「今風」だったりして・笑。
満足度★★★★★
ウェルメイドなコメディ、な印象
関西からやってきた劇団で、東京公演は今回で2回目となる。
前回の『今宵、宇宙エレベーターの厨房で』がとても面白かったので、じゃ今回も、となったわけだ。
結果、今回も満足した。単純に波長が合うからかもしれない。
あまりガチャガチャしてなく、ハイテンションでグイグイくるわけでもなく、暑苦しいこともないからだろうか。関西の劇団なのに…偏見失礼(笑)。
今回は、過去の作品2本を改訂した作品ということもあり、ウェルメイドなコメディという印象が深まった。
私の観た回は、残念ながら空席が目立っていた。
しかし、また是非来てほしいと心から思う。
今回、観られなかった方も、シアターグリーンのチラシの棚には、無料のDVD(30分の短編が収録されている)があるので、それを観てみるのもいいかもしれない(まだ観てないけど)。
ネタバレBOX
子ども文化フェスティパルに出演予定の、人形劇『カチカチ山』を行う劇団が集団食中毒(のようなもの)になり、上演ができなくなってしまう。
丁度そのときに、人形劇劇団の控え室の上の会議室では、劇団樹海が稽古を始めようとしていた。
人形劇が行われなくなることで、自分の身が危ないと思っている、子ども文化フェスティパルの企画担当・小坂は、劇団樹海に人形劇を手伝ってくれとお願いに来る。
しかし、劇団樹海は、明後日に迫った公演の脚本がまだ上がっていおらず、2人しかいない俳優の1人、女優の北村は、そのことに怒り退団するとまで言う。
当然、劇団樹海としては、人形劇どころではないのだが、小坂からの施設運営に関するある情報や提示された条件により、人形劇を手伝うことにするのだ。
そして、その劇団樹海には、怪しい男、滝口がやってきており、話の流れで樹海のオーディションを受けると言い出していた。人形劇の上演には人手が足りないので、オーディションを受けに来た滝口もあっさりと入団を許可されるのだが、どうやら彼はその場にいたくないらしい。
人形劇劇団は、集団食中毒で全員がダウンしたはずだったが、演出家の安原だけは大丈夫だと言い張り、点滴をしながらやってくる。
さて、人形劇の開演まであと1時間程度、いろいろな不測の事態や仕組まれた出来事に阻まれなが、彼らは人形劇の開演に間に合うのか。
と、いう公演時間と劇中の時間の進行がまったく同じ中で進むストーリー。
ちょっとした設定が効いていて、ストーリーの進行が楽しい。
タヌキの劇中歌もいい(笑)。
多少の誇張はあるものの、素直に観ることができるキャラクターばかりなので、無理がない。
とんでもないボケがいるわけでもなく、変なギャグなどもない。
実にスマートに見せてくれる。
そのあたりがとても好印象なのである。
小坂(上田泰三さん)の、いかにもいそうなおじさん風なところや、人形劇団の演出家・安原(佐藤あいさん)のとぼけた感じ、安永(永井悠造さん)の物語を回す感じが印象に残る。あとの出演者も、それぞれが自分の役割をきちんとこなし、さらに、ちょっとした、何気ない表情の変化や視線の具合なども、みんないいのだ。
ただし、今回の問題を引き起こした黒幕が、なぜそこまでしなくてはならなかったのか(小坂と入れ替えになるはずなのに)や、せっかく時計が観客から見えるところにあり、時間が迫っているのにもかかわらず、それに対してのプレッシャーがかかっていなかったのが、少々残念ではある。
もっと、時間を気にしつつ慌ててもいいのでは?
さらに言うと、劇団樹海では脚本ができないことに対して「とにかく自分にウソをついても…」のような台詞があり、主宰がそれに納得する形で書き始めるというのは、実際に、劇団としてはどうなのかと思わざるを得ないのだか(笑)。「えっ何? そんな感じでやってるわけ?」と観客が思ってしまうのではないかということ。演劇を扱っている舞台なので。
ちなみに、劇団樹海の2人芝居は、あまり観たいとは思わなかった(笑)。
それに対して、隕石少年トースターは、次回もまた観たいと思う。
ついでに書くと、最後のシーン(劇団樹海の主宰の機転)は、大笑いした。
満足度★★★★★
「女優」は、千年を走り抜け、千年を生きる
あのアニメ『千年女優』が見事に舞台化されていた。
しかも本当に5人だけで演じきるのだ。
アニメとほぼ同じ95分の上演時間で。
舞台を観て、改めて今敏監督の凄さをも実感した。
アニメのほうのファンも、舞台を観ながら映像が1カット1カット脳裏をよぎり、満足できる作品ではないだろうか、とも思った。
ネタバレBOX
映画の台詞は全部入っていたようだ。
追加されていたのは、舞台では見せられない、映像的なシーン(姿形とか、何が起こっているとか)の説明と、「笑い」の部分。
この「笑い」の部分に関しては、賛否が分かれるのではないだろうか。
それほど大きくは笑えなかったということもあるし(もちろん笑ったところもあるのだが)、何もそこまで追加しなくても、とも思うのだ。
もう、これは関西人の血のようなものなのかもしれない(笑)。関西人のサービス精神の現れかも。
サービス精神と言えば、途中でキャストの設定が破綻し、観客に誰が誰を演じるかを指名させるという、 ナマの舞台であることを活かしたスリリングな仕掛けも加えられていた。その設定に従って配役が決まり、そのパートを演じていくのだ。つまり、その場シャッフルだ。
5人の女優たちは、それぞれがもともといろいろな役を演じていて、主人公の千代子も当然5人が演じているのだから、シャッフルと言っても、単に役を変わるだけではく、次のシーンでは、その役をやった人が担当する別の役までも含めて演じなくてはならないので(5人しかいないのだから、役割は割り振りどおりに行われないと先に進まないので)、その困難さは相当のものであろう。
5人の女優さんたちは、それぞれがとてもバランスが良く、コンビネーションもさすが。容姿の違いなどもうまく活かしていたと思う。
しかし、一番感心したのは、緊張感があることと一生懸命であることだ。もちろん、これだけ細かく役割が設定され、同時に動作を行う場面も多いのだから、緊張するのはあたりまえとしても、舞台の数をこなすと顔を見せる、慣れからくる流す、というようなことは微塵も感じなかったのだ。
それが、観客の胸にストレートに届き、この感動を生むのであろう。
お芝居の醍醐味は、そう設定されれば、時間も場所も、年齢、性別、そして生物、無生物さえも自由自在なことである。
そういう意味で、この作品はまさに舞台向きであったとも言える。
その芝居のルールとテクニックとをすべて動員してこの舞台は組み上がっていた。
それらをすべて取り込んで、舞台は一気に加速していく。アニメであった細かいカット割りもすべて再現されていたと思っていい。
文字どおり、千代子が(アニメ同様に)舞台を走り抜けるのだ。
もっとも、舞台の冒頭は、そうした「お芝居のルール」を観客にわからせるために、やや説明的すぎるきらいもあるのだが、これは、アニメからのファン(たぶんお芝居を観る経験の少ない方)のための配慮でもあるのだろう。ちょっとしたルール説明が済めば、あとはアニメの情報を持っている観客ならば、一気にその世界に飛び込むことができるからだ。
しかし、この冒頭の説明的なシーンを入れたのは、そうした観客への配慮もあったと思うのだが、アニメでも感じた、ラストへ向けての凄まじい疾走感からくるカタルシスを演出するための助走となり、さらにスピード感を感じさせるためには必要なパートであったのではなかったかと思う。
そういう意味まで含めて、実にうまくできていた脚本と演出であったと思う。
そして、彼女たち「女優」は、千年を走り抜け、千年を生きるのだ。
満足度★★★★★
故郷と家族
舞台からグイグイきて、引き込まれっぱなしの160分(休憩除く)。
笑い涙する素晴らしい舞台。
終演とともに、強く強く拍手を続けた。
ネタバレBOX
通称「焼肉ドラゴン」の店内と、そこにつながる路地、そして共同水道がある。
冒頭から焼く匂いで客席が包まれる。
日本が一番熱かった時代、すなわち、高度成長期の華、万博前後の在日の町が舞台。
高度成長の陰に、かつて日本に利用され、切り捨てられ、忘れられ、差別されている在日の人たちや韓国から来た人たちが暮らしていた。
焼肉ドラゴンの店主夫婦は、自らの人生を「宿命・運命」として、嘆きながらも受け入れざるを得ない。彼らは、懸命に働きながらその宿命や運命から抜け出したいと思っていたのだが、結局はそうはならなかった。それは、「故郷を捨て、家族を捨てたときからの」と主人は言う。それも彼らの意思であるとは言えないものなのに。
彼らは、息子や娘に自分たちの希望を託す。娘には良い夫を、息子には学問を。しかし、それも、彼らの思い通りにはならない。
娘たちは、あちらこちらにぶつかりながらも、なんとか自分たちで人生を選択していく。しかし、息子はその期待の重圧に耐えきれず、自らの気持ちを伝えられないことから、言葉を失ってしまい、さらなる悲劇へと進む。
3人の娘たちは、それぞれ韓国人、在日の人、日本人に嫁ぐことになる。そして、韓国、北朝鮮、日本へと散り散りになっていく。彼らの将来はやはり、宿命や運命に翻弄されていくのであろうか。
在日の一家という、一見特別な姿を描いているようで、実は普遍的な家族(特にその時代の)を描いているのではないだろうか。両親は子どもたちのことを想い、子どもたちは両親に反発しながらも、家族の絆を深めていく。
働いて働いて、家族を幸せに、子どもに学問を、という姿は、自分の両親の姿とダブるものがあり、それだけで、もう胸が一杯になってしまうのだ。期待に応えられたのだろうか、とか。
物語では、家族と彼らを取り巻く他人の生活に首を突っ込む人々が暮らすコミュニティは、子どもの結婚・独立と生活の場としての町の立ち退きで壊れていく。
子どもたちは、それぞれの事情で両親のもとから、距離的、あるいは気持ち的に離れていってしまう。
つまり、これは高度成長期での、(帰るべき場所としての)故郷の喪失、(子ども世代の独立というだけではない)家族の離散、そして(人々が生の姿で対峙する)コミュニティの崩壊であり、現在進行しつつある無縁社会のスタートではなかったのではないだろうか。
それは、高度成長に浮かれつつ、核家族化が進み、そうした姿は都市部を中心に日本中で起こっていたことなのだ。
家族の絆は、本当は絶対に切れないものである、と信じつつも(父親のラストの台詞がそれを強く感じさせる)。
時代の熱気とともに、舞台の上には生きることの熱さがあった。
ときにはぶつかり合い、罵り合いながらも、相手を想ったり、共感したりそれがストレートに伝わってきた。ときおり聞こえる飛行機の爆音。
そして、四季の気配がとても美しかった。
また、ラストの情景には、涙を禁じ得なかった。娘たちとの別れの抱擁と息子の両親への想いとで。
ラストの父親が発する台詞がとてもいい。宿命だ、運命だ、と言いながらも、明日がいい日であることを強く信じることこそが、生きていくための糧となるのだから。
満足度★★★★
今、考えなくてはならないこと
さまざまな演出により、アゴタ・クリストフの戯曲が現代に発したモノが伝わってきた。
ネタバレBOX
SFであり、一種の不条理劇であるとも言える。
初めに登場する高速道路の設計技師は、明らかに現代の人である。高速道路上で事故に遭い、ガソリン缶を持ち、高速道路をさまよう。
しかし、そこは、彼のいた時代でも場所でもなかった。
まるで、パラレルワールドのような近未来の世界。文明も自然も人々の希望も目標も何もない世界だったのだ。
「道路(道)」とは、多くの場合、「人生」と読み替えることが可能であり、今回の舞台でも、それを暗示する台詞やシークエンスが多く見受けられた。
しかし、「道路」は、社会主義の計画経済に対する象徴(効率化などの)でもあるのだが、実のところ資本主義の象徴でもなかったのだろうか。
一方向にしか進むことが許されず、立ち止まることも許されない。そして、立ち止まることは「死」を意味するということも、社会主義的(あるいは全体主義的)ではあるのだが、それは、「発展」しか道筋がない資本主義社会にも通ずるものでもある。「死」は他人の「糧」となるということに至っては、資本主義そのものではないのか。
すなわち、作者のアゴタ・クリストフ氏は、50年代にハンガリーから亡命し、西側に出たのだ。したがって、西側での生活のほうが長く、そこで出会った「資本主義」の姿に、大いに驚き、戸惑い、落胆もしたのではないだろうか。
資本主義の名の下に、破壊される自然や人々の暮らし、そして希望や感情。それは、かつて、社会主義の自国で感じたものと、姿は変わっていても、同じではなかったのだろうか。
そいういったものが、「道路」の世界に込められているのではないのか、と思ったのだ。
また、冒頭に出てくる男は、ラストに実は交通事故で死んでいたことがわかる。つまり、冒頭の彷徨自体の場所は、死ぬ前に見た幻覚かもしれないし、あるいは死の世界だったのかもしれない。
その世界で彼は「もう道路は作りません」「庭師になります」と神に告げる。それは、取りも直さず、彼の口を通して、現代に生きる人々が考えなくてはならないことが発せられたのである。
つまり、今なら、希望も何もない世界になる前に、経済の発展に隠れたむやみな開発などを押し止めることができるかもしれないということなのだ。
台詞回しの雰囲気は、ややクラシカルな印象があるものの、舞台の設置方法や、さまざまな演出を加えることで、現代によりマッチさせていた。
特に、映像の使い方は空間と台詞に深みと奥行きを見せていた。台詞やそのシークエンスに関係する文章が壁面に現れることで、それが実現されていたと思う。
また、生演奏の効果もあったし、観客席の後ろを歩かせるということで、観客席を「道路」で囲み、舞台への臨場感はより増していた。
若い演出家の手によることの効果は十分にあったと言えるだろう。
満足度★★★★★
なんちゃら~の私としては大満足
恒例のフライヤーの長文も、やっぱり、あひるなんちゃらの世界なのだ。
あひるなんちゃらにしては、さくさく話が進んだ気がする。
…ん? ひょっとしてこのテンポに身体がなじんじゃったからそう感じるワケ??
ネタバレBOX
いつもは病的なほどの困ったちゃんたちが延々、もう弱っちゃったなぁという言動を繰り返すのだが、今回はその度合いは低かったかもしれない。
…あれ? これもまた、この空気感に慣れちゃったからそう感じるワケ?
ああ、でもいいんだよなあ。
「どうでもいい」とは言えないようなコトが、いろいろ起こっていたりするけど、それの解明や解決が物語の中心にはない。結局、他人から見れば「どうでもいいじゃん」ということのオンパレード。
当人たちは、困りつつも、それを粛々とこなして楽しんでいるのだろう。…か?
人と人が出会って、たわいのない会話をして(とても大変な出来事だったりするけど、それは会話の中のスパイス・笑)、なんとなく時間が過ぎていく。拷問に耐えるために、ミカンの皮で鍛えたりなんてどうでもいいコトをただやっていくだけ。その本気度はわからない。ま、本気だと思うけど。
発明の毎日で年収100万。なのに人を2人も雇って、毎日が過ぎていく。
お湯が冷めないヤカンは意外と凄かったりするし、テタツなんていうどうでもいい発明も素敵だ。
結局、いろんなことはどーでもよくって、人が集まり会話することに意義がある。発明家のアラキ宅に人が集まってくるように。
「雪の設定なのに」「台本の2頁前のことだ」「ここは下北沢じゃない」「回想シーンまでやったのに」なんていう台詞が好み。
独特の突っ込み具合もたまらない(誰もツッコミ聞いてないんだよなあ)。
普通のコメディの劇団だと、なんとなくボケ役とツッコミ役は固定化しているところが多いのだが、あひるなんちゃらは公演ごとにその役割を替えてくる。「ここんとこ、笑ってくださいよぉ〜」的な演技もないし、結局、役者がうまいんだと思う。
普通これって、「不条理劇」と言っていいのかもしれないけど、そう言ってしまうのは逆にもったいない気がする。単に「面白い芝居」に置いておきたいのだ。
別の劇団から客演している役者も含め、舞台の上では、あひるなんちゃら独特の話法(以下「あひる話法」と呼ぶ)になっていき、その空気感を見事に作り上げていく。これって、とても大切なことだと思う。
1つの作品にきちんと仕上がっているということなのだ。演出もいいということなのか。
あひる組の黒岩三佳さん、根津茂尚さんは、淡々としていてさすがに面白い。あひる常連の異儀田夏葉さんはさすが! 堂々としていてきちんと自分の世界を見せてくれる。テンションの上がり具合がいいんだ。三瓶大介さんの素っ頓狂な台詞も楽しい。全体的にダウナーな(笑)感じの中で、このテンションは大変だったと思う。堀靖明さんのクイクイくる突っ込みのタイミングもいい(いつもだったら、関村さんの役回りだった気がする)。常連組の篠本美帆さんも面白いし、川村紗也さんや永山智啓さんの変なのに普通ぶりも楽しいし、もちろん日栄洋祐さんもいいのだ。みんないいんだよ。
あ、以下「あひる話法」と呼ぶと書いたけど、以下に1度も出てこなかった。
あと、ハガキ持っていくの忘れちゃった。
満足度★★★★
「若さ」は能力だと思う
「若い」、つまり、「今」に対して誠実に向かい合っている姿を観たように思えた。
それは、決してカッコよくなんかなくって、がむしゃらだったり、もがいていたりする。
カッコ悪いけど汗とかも流したりしてしまう姿だ。
ネタバレBOX
思い切って言ってしまうと、「若さ」は能力だと思う。
そして、「若さ」は、青臭くって、惨めで、薄汚れていて、情けない。
さらに、混乱している。
マコトは、ミラクルオとともに時間に閉じ込められている。つまり、来る日も来る日も同じことの繰り返し。毎日毎日、同じ時間に学校に通って、の繰り返し(毎日毎日、会社に通って、も同じだ)。飛びたいと思うが飛ぶことはできない。「今」の自分は「別」の自分とは違うと叫んでも、繰り返しからは抜け出すことはできない。1年や1カ月や1日さえも長く感じる若い時間にとって、それは永遠の苦痛かもしれない。
セツナサは、博士に身体のパーツをいろいろ付け加えられてしまい、どれが自分なのかわからない。自分の不確かさからくる不安。
博士の側からすれば、自分の好み(セツナサの好みと言うけど)を相手にストレートに投影してしまうことの快楽。
そして、ハルカは、無臭であると言う。それは、「人の記憶」に残らないことにつながってしまう。自分が「ここにいる」ということの証がないのだ。自分の匂いを探して、匂いのないロボットと出会う。
こうした彼女たちが抱えている不安は、若い時間にあって、いつでもどこにでもあることなのだ。
かつて誰にでもあって、それは(たぶん)ずっと同じだったはずだ。
もう十分に年齢を重ねた私だって、若かったときは同じことを感じていたし、今だって、うっかりするとそんな気持ちが、ひょっこり顔を出すことだってある。
クールにと思うイチコと、何かにいちいち首を突っ込んでしまうマコトは、どちらも本音であろう。熱くなることも、もちろんある。
ロロと言う劇団は、そうした、若い時間にありがちな、なんとも言えないモヤモヤ感に対して、誠実に向かい合っているのではないか。
評論家が言う「○○世代」なんていうウソっぱちな世代論から導き出された、「このへんでいいや」的な落としどころに着地させたり、適当に答えを出したりするのではなく、もがいて、混乱して、今考えられる方向に顔を向けたのではないだろうか。
そんなことを感じた。
もうちょっと思い切って言ってしまうと、これは、ドロシーだけの『オズの魔法使い』だったり、ドロシーと一緒に旅をする、心の無いブリキの木こり、脳のないカカシ、臆病なライオンだけの(ドロシーのいない)物語とも言える。
「やっぱりお家が一番」というラストにいたるまでには、後何年も歳を重ねる必要があるのかもしれないが。
多賀麻美さん、望月綾乃さん、山崎明日香さん、森本華さんの4人は、それぞれに託された、役割をきちんと前向きにこなしていて、好感度が高い。また、シロウマルを演じた板橋駿谷さんがとてもいい味。
満足度★★★★
中編不条理劇
ロシアの現代戯曲。わずか65分の上演時間ながら、なかなか味わいのある作品。
スケール感もあるし、テーマもはっきりしている。
ネタバレBOX
ストーリーは、フライヤーにあるとおり(公演をリンクしているサイトに飛ぶと読める)。
わずか65分の中編ながら、うまい役者の台詞バトルによって、観劇の楽しみは十分に味わえたと言っていいだろう。
現実的な世界から、不条理な世界にするりと滑り込み、主人公と同じに苛立ち、不安になっていく。
主人公をそうした世界に導くのは、バーバと言う女性。
この「バーバ」とは、「バーバ・ヤーガ」(ムソグルスキー『展覧会の絵』)のような魔女のことなのかもしれない。ロシアではそれを想起させているのだろうか、ちょっと気になった。
シンプルな舞台だが、バーバの存在感は十分で、いきなり壮大なスケール感に襲われたりする。
そして、さらに、自分の存在への不確実感、不安感を増大させていく。
設定は、ロシアではなく、ソ連時代のようなので、その不条理さは、体制そのものなのかもしれないと、深読みをしてみたり。
ロシアでは、愛称の語尾に「チカ」を付けて呼ぶときには、(異性間だけでなく)愛情を込めているらしいのだが、台詞の中でバーバが主人公を最後に呼ぶときにそれを付けて呼んでいた。これって、日本語にうまく訳さないと(「愛しの〜ちゃん」とか)、少々ニュアンスが伝わりづらいのではないだろうか、と思った(皮肉さを含めて)。
にしても、ロシア人は相手の前を呼ぶときには、愛称以外はフルネームで呼ぶようだ。この間の『ニーナ』もそうだった。名前を入れて会話するの大変そう(笑)。
「ロシア現代劇連続上演シリーズ」の第3作だったのだが、これからも10人の作家を予定しているとのこと。今回観て、少々気になってきたのだ。
満足度★★★★★
偉大なるグダグダ感、なのに挑発的
&チープな雰囲気が漂う。
ポーズをとって大げさだったり、アドリブっぽい見せ方をしたり。
そんなところが、とても素敵だ。
ネタバレBOX
くすくす笑いがとても似合う。
わざとらしい笑いシーンを散りばめて、(たぶん)観客を挑発している。笑ったら負けだ。いや、負けだ、というのはウソだけど。
「見終わったあと、心に残るのは愛か、それとも無か。無だ!」とか「かなり何も考えない調子で描かれた」などと言う「煙幕」をフライヤーでも当パンでもしきりに張っていた。
これも観客への挑発と受け取った。
「物語を疑え」と言うこと。
そこには何も無いのだから。
テレビドラマってこんな感じなことを、真面目にやっているんだな、と思ったり。
つまり、どこまでも続けることができる舞台で、どこでも終えることができる舞台でもある。
その微妙なところを、なかなかのさじ加減で終えたところがうまいのだ。
アドリブにちょっと笑っちゃった的な演技と「装った脱力感」。
あえてグダグダなダンス。
そして、挑発を受けて立って、深読みしての、星の数。
「お尻から音楽」なのと、カジヒデキの役名には参った。いやマジで。
あ、あと星のホールに緞帳あったのね。
満足度★★★★
演劇的な世界と虚構
世界は物語で形作られている。
そして、戦争は近視眼的な世界となる。
ネタバレBOX
戦争という厄介なものは、人を近視眼的にしてしまう。
自分のこと、あるいはせいぜい身の回りのことのみにしか気が回らず、いつの間にかずぶずぶの泥の中にいるという印象だ。
何のために穴を掘っているのか、どうして隊長を探しているのかもわからなくなっている兵士たち。隊長はどうなったかを知っている者たちだって、自分たちが何をしてどこに向かうのかわかっているのかどうかは怪しい。
「運命」と言ってしまうような境遇の中にいて、どっちに向かっているのかがわからないままとにかく進んでいる。
国民傘という制度だって、なんだか変な制度なのに、それをどうこう言う前に自分のことだけで精一杯なのだ。
お国のため、のような大義名分を無条件で受け入れて、その後の厄介なことをなんとか避けようとするだけで精一杯。それは「しょうがない」としか言えなくなる。
つまり、近視眼的にならざるを得ない。
戦争のへの道はそうして作り上げられていって、近視眼的な人々によって、それは固められていく。
それらが、虚構の中にさらに物語を構築して、進行していく。
世界は物語によってのみ形作られていくのだ。
岩松了の溢れるエネルギーを感じた。
台詞もいいが、役者がとにかくいい。
満足度★★★★
楽しいにゃ~
カラフルな衣装とピアノによる生演奏。
歌が楽しいし、すぐに舞台に引き込まれていく。
ネタバレBOX
ネコの国がある。
国王は后を亡くし、気持ちが落ち込んでいたが、国民とともに労働することでそれを癒していた。
しかし、「何か足りないにゃ〜」と感じていたのだ。
そこへ、船に乗って兄と妹がたどり着く。
彼らは、歌と踊りをネコたちに伝える。
そう、ネコの国には歌と踊りがなかったのだ。
ネコたちは歌い踊り楽しむのだが、それを伝えた兄妹は仮面をしていた。
それを取ってくれとお願いすると、嫌々ながら彼らは仮面を取った。
そこに現れたのはネズミだったのだ。
そして…。
ネコとネズミの関係から、「争い」とかそんなことを想起させ、さらに「かつて地上にいた人間」(!)という台詞から、人間たちの行ってきたことを考えさせる。そういう展開はややありがちだけれども、うまい見せ方で、印象はとてもいい。
この演目を持って学校を回ったりするのだろうから、子どもたちにとっても、いろいろと考える糸口にはなるのではないだろうか。
大臣たちの古いネコと若いネコたちの関係もうまい折り込み方だと思うし、ラストにとって付けたような教訓などの押し売りがないところも好感が持てる。
階段のようにシンプルなセットを、動かしながら見せていくのも面白いし、何よりキャストが魅力的だ。
学校などを回るのであれば、ラストなどで、観客も手拍子等で参加できたりするとなお楽しいのではないだろうか。
55分+15分休憩+22分という上演時間も、子どもたちを退屈させないアイデアだろうし、開始のベルの代わりにトイピアノを弾きながらネコが場内を歩くというもの楽しいのだ。
もちろん、とっくに子どもではない(年齢的に・笑)私も十分楽しんだ。
満足度★★★
全体的に良くも悪くもクラシカルな印象
チェーホフの『かもめ』の登場人物の15年後を描くという、とても魅力的なコンセプトの作品。
基本3人芝居。
ネタバレBOX
ニーナを巡る2人の作家の物語。
チェーホフの『かもめ』のラストから15年後、そこに設定したのには、訳があった。つまり、ロシアの2月革命が起こった年であるからだ。
ルーマニアからフランスへ亡命した作家の手による作品なので、この舞台の背景にある2月革命の足音に対しては、ある種の感情があったのではないだろうか。
それが雪に閉じ込められた家にいる3人と、さらに凍った兵士に込められていたように感じた。
すなわち、「溶けるのは100年先」という台詞にもあるように、3人の不思議な関係と、それを取り巻く雪に代表される、避けることのできないモノ。世界を覆い尽くそうとしているような、革命の影。
その不気味さが凍った兵士にさらに象徴されていた。
ただ、観ていて感じたのは、「ニーナはこんなにエキセントリックだったのか?」ということだ。さらに言えば、「なぜ、『かもめ』のキャストが必要だったのか?」ということだ。
自殺したはずのトレープレフを生き返らせてまで(2回目の自殺も未遂という設定)、このキャストたちが必要だったのだろうか。観客にとって、登場人物をすぐに認識しやすいということなのだろうか。そして、なぜニーナはわざわざトレープレフのもとに戻ってきたのか、ということもある。
それが最後までどうもすっきりしてこなかったのだ。
「15年後に私はこの場所に帰ってきた」みたいなモノローグで幕開けし、説明的な台詞&モノローグが挟まりつつ、朗々と歌い上げるように台詞を言うニーナなど、とてもクラシカルなつくりになっていた。
さらに、時間とニーナの揺れ動く心の象徴のような、舞台中央の振り子や説明的(情緒的)な音楽の選択も含めて、この作品の世界が作られていたと言っていいだろう。
それは、演劇であることを強く意識させるのだが、心地良さもあるのは確かだ。例えば、ニーナの台詞回しは、役者にとって気持ちのいいものではなかっただろうか。どうやらそれは観客にも伝わってきた。
満足度★★★★
面白かったよ!
なかなかいい感じで笑った。
とても楽しい時間を過ごせた。
出入りのドタバタ感がとにかく楽しい。
ネタバレBOX
一幕一場で、それはちょっとどうかな、という個所もあるものの、そのあたりは、なんて言うか、温かく見守りつつ観劇した。
若さ溢れる、なかなかいいテンションで、2時間近くを見せきった力は素晴らしい。
もう、拍手ものである。
いつ誰と誰がどのように鉢合わせするのかが、ワクワクさせる。展開も楽しいし、思わず笑みがこぼれてしまう。
台詞のタイミングとかうまい。イラっとされるキャラの造形も楽しい。
ただし、ラストはやや予定調和的でもある。もちろんそれが悪いわけではないが(安定して観劇できるという意味では)、せっかくの等身大に近い登場人物たちなのである。
しかも、主人公は、演劇をやっていた、なんていう設定なのだ。
だから、自らを否定せずに肯定し、受け入れていくというようなラストは、ひょっとしたら「甘い」のではないか、と思うわけだ。ほのぼのすぎて。
つまり、コメディのラストは、大団円でポジティブに、なんていう固定観念があるのではないかと思ったわけなのだ。
等身大の登場人物なのだから、もっと自分たちの姿を投影させ、ヒリヒリさせるか、あるいは、自分たちの夢を無理矢理託して、あり得ないほどのとんでもない、ハッピーなラスト(ハッピーすぎるラストは逆に哀愁が漂ったりするし)にするか、もっと冒険というか、自分たちらしさを爆発させたほうがよかったのではないかと思うのだ。
過激になれ! と言っているわけではない。自分たちの姿がそこにあるべきではないかと思うのだ。
これだけの時間を楽しませる力があるのであれば、そこまでも可能であろうと思うからだ。
何と言うか、登場する全員が日向にいて、光を全身に浴びているようなスクスク感があるのだ。それがこの劇団持ち味なのかもしれないが、そうなのか? 本当にそうなのか? とついつい思ってしまう。ずるさや適当さなどはあるものの、基本、いい人たちだ。
もっと影とか陰りとか、陰影により、人物を造形できれば言うことはないのではないのか、と思うのだ。もちろん、「悪い人」を出せ、と言ってるわけではないのだが。
ちょっといろいろ書いてしまったが(なんとなく的外れなところもあるとは思うけど)、とにかく楽しんだし、いい感じに笑わせてもらった。
だから、もちろん、また東京に来て、楽しませてほしいと思う。
この日は、MONOの土田さんがアフタートークに登場した。さすがに面白く、大笑いしした。このアフタートークはさらに観劇の印象を良くたと思うのただ。
満足度★★★★
暗黒のジェットコースター
いつものように力まかせで、ぐいぐい来る。
これはもう全力疾走。
どこに向かうかわからないから「全力失踪」か。
ネタバレBOX
いつものミワさんたちの前説からすでに舞台は始まっていると言っていいだろう。
ここは見逃したくない。
ので、10分ぐらい前には着席して、ニヤニヤしながら待ちたいものだ。
で、本編は、まるで脈絡がないと思うほど、どんどんいろんなモノを放り込み、突っ走る。
ただし、場所は診療所の待合室だけだったので、意外と落ち着いていて、普通風(あくまで「風」)の演劇だった。
のも、途中までで、ジョン&ジョージらしき2人(微妙に台詞が被り、その超有名なバンド名は明らかにならないが・笑)が登場したあたりから、ちょっとした歪みが現れてくる。ま、平たく言えば、人形様たちの登場だ。
ただ、ここに至るまでが、いささか長く感じたのも事実。
場所が固定であったために、よけいにそう感じたのかもしれない。
前半からもっと走ってもよかったと思う。たとえ誰もついてこれないぐらいの速度でも。
人形たちが次々と現れ出してからは、悪夢が怒濤のようにやって来る。細かいネタも仕込みつつ、とにかくどんどん進む。なんだかどこに終着点を決めないまま、突っ走っているような様は、爽快である。
サイボーグのマネージャーとか、サザエさんタラちゃんにしたくって、男だと吹き込まれて中学生になった末娘とか、刺されるとバカボンのパパになってしまうウニとか、ウニ味の不味いサイダーとか、意味も説明もなくとにかく、情報過多が素敵だ。その過多の情報は満載にしつつ、とにかく走る、走る。
声も枯れるかと思うほどがなり、役者の唾が飛び交う、飛び交う(笑)。
今回は、特に、相当頑張りました、という印象がする。
濃くて、アクが強くて、ネジれて、ヒネクレていて、とにかく最高だ!
基本、バジリコFバジオのメンバー4人(木下実香さん、武田諭さん、三枝貴志さん、あと新人の1人・笑)は、とってもうまい。そして、いつもの吉田麻生さんのあまりと言えば、あんまりな子役っぷりは、大層好みである。
3人姉妹だから、そしてロシアがらみだからと言うことで、チェーホフの三人姉妹の役名をそのまんまもじった役名なんていうのも捨てがたいじゃないか。
満足度★★★★★
素晴らしい! 素晴らしい! 素晴らしい! 本当に素晴らしい舞台!
演劇でしか為し得ない世界がそこにあった。
しかも、素晴らしい完成度。
巧みな構成。
もう、「素晴らしい」以外には何も言えないほど。
ネタバレBOX
亡くなってしまった恋人に語る「死」にまつわる物語。
それは、「物語」による死者を悼むことでもある。
そして、設定が興味深い。なぜならば、メインの物語は架空(作り話)であることを宣言し、さらに物語の中心にいるのは、死んだ男の元カノということ。今の彼女ではなくて。
「死の物語」を通して、再生していくことも、亡くなった者を悼むことでもある。
「語る」ことで生者は再生し、「語る」ことで死者を悼むという構図。
これは、今、現時点で彼らの世代(年齢)において考えられる「死」との向き合い方、「死」との共存、「死」との納得の付け方が語られていると言っていいだろう。
それは、本気で「死」について考えてみたということ。当然、世代が異なればその感じ方も異なる。と言うか、人が違えばその人ごとに考え方も異なる。
デジタルな世界では、死の後も記憶がデジタルの中に鮮明に残ってしまう。人の記憶はアナログだ。薄れ、ぼやけていく。だから、死んだ後にブログを更新されることには大いなる違和感を感じるのだ。本当は自分の記憶のほうが正しいはずなのに、ネットの世界にある記憶のほうが鮮明でリアルなことへ苛立ちを感じてしまう。
いつの世であっても、そこに「いた(存在した)」人の「いた」という事実を「言語」として記憶にすることは、すなわち死者を忍ぶこと、追悼になっていく。ネットの上でも同じ。言葉は記憶になり、そして消えていく運命にある。
さらに、「命の灯り」もきちんと灯しつつ。
この舞台は「死」について語っていたのだが、その実、その根源には、(自分が)存在すること、(自分の)存在への不安感というものがあったのではないだろうか。
つまり、「死」というわかりやすいテーマから、「私は本当にそこにいるのか?」「私は本当にそこにいたのか?」という問い掛けがなされているということだ。それは、ひょっとこ乱舞の舞台を観るたびに感じていることなのだ。
それが今回も別のアプローチから語られていたという印象を受けた。
また、前回「『ブリキの町~』で笑いも手にしてしまった」と感想を書いたのだが、やはりそうであった。「笑い」はその塩梅が難しいのに、この深さのある舞台に見事にねじ込んできた。そして、笑いをきちんと獲得していた。
そして、個人的に「ひょっとこフォーメーション」と勝手に呼んでいるダンスシーンも、物語に見事に溶け込み、効果を上げていたと思う。美しいと思うシーンが幾度も訪れた。
役者もすべての人が素晴らしい。本当に素晴らしい。当然なのだが、完成された姿でそこにいたと言っていい。
中でも、妹のチサト役の笠井里美さんのギリギリな感じの台詞回しには息を飲んだ。タケダ役の西川康太郎さんの佇まいがいい。関西弁の女性を演じた田中美甫さんの台詞の呼吸感、鞠井の恋人役、寺田ゆいさんの切ないエピソード、たっくんを演じた中村早香のさらに切なさが特に印象に残る。
忘れてはならない、伊藤今人さんは、一見、飛び道具的な使い方なのだが、それが嫌みにならずに、きちっと物語にはまっていたのは、演出もさることながら、この人の身体的なセンスの良さがあるのではないかと思った。
今回、特徴的に感じたのは、「3人による会話」のシーンだ。その数も多い。それは「常にそばにいて2人の会話を聞いている者がいる」という状況が生まれていて、単なる2人の会話よりも、さらに奥行きを感じることができたのだ。2人の会話は、第三者がいることで、その存在を感じつつ、つまり第三者にも聞こえていることが前提で話される会話であることが、演劇という枠の中にあることで、さらなる効果を上げていたと言っていいと思うのだ。
そう言えば、広田淳一さんの、『プロジェクト・ブンガク』の罰ゲームであったバンジージャンプでの体験が、台詞のひとつとして輝いていたのも見逃せない(笑)。
満足度★★★★
神社の奥に人情のオブラートに包まれた「闇」
前々回の『アメリカン家族』から前回の『美しきラビットパンチ』へ続く壮絶な世界観。
さて、次はどちらに進むのかと思ったら、再演の『神社の奥のモンチャン』。
ネタバレBOX
初演のときには、単に「泣いた赤鬼」的なテイストの物語と思っていたのだが、その後のいつくかの作品を通じて感じていたことが、どうもここにも現れわれていたことを知るのだ。
今回の公演で、それが白日の下に晒された印象を受ける。
つまり、その根底には、例の、なんとも言えぬコンプレックスのような暗黒、闇が渦巻いている。
それは一貫して同じテイストであり、その見せ方が違うのだ。
誰もがつい涙腺を弛めてしまうような、つまり、「泣いた赤鬼」的な世界なのだが、実はゴジゲン(たち)が感じている、どうしようもない(たぶん)自分の惨めさや辛さのような世界を描いており、その終演は、破滅的な方向にしか見いだせていないということなのだ(たぶん)。
他の作品では「童貞」がそのキーワードになっていたりしたが、根本は、そういうものではなく、もっと、根源的な、何かを抱えているように思えるのだ。
それは、彼らだけのものではなく、誰もが(特に一時期の年代特有の)抱えているものでもある。
だから、そこのところに(無意識的であっても)共感点があるのかもしれない。笑いながらであっても。
その自分たちの惨めさ、辛さ(あるいは闇のようなもの)をモンチャンにすべて抱えてもらい、彼が毒キノコを食べ静かに去っていく姿に託したのではないのか。
しかし、何度葬り去っても、それは消えることなく続いていくのだ。
だから、彼らの公演は続くであろう。
そして、なんとなく感じるのは、迷いがあるのではないかということ。
迷いがあるのかゴジゲン。
そのまま迷いつつ、突っ走ってくれ!
と思う。
初演のときは、劇場が小さかったということだけでなく、もっとプリミティブな意味でも、ごちゃごちゃしていた印象だ。
混沌と言ってもいい。
しかし、今回は妙にすっきりしている。そのため「闇」が薄まった印象さえある。もっと、その「闇」を追求してほしいのだ。その闇を拡大して闇のまま、あるときは醜く見せてほしいと思うのだ。
今回は、オブラートのようにそれを包むことで、彼らもうまくなったのかもしれない(笑)。
今回もモンチャンを演じる目次立樹さんがとてもいい。やや誇張気味なのだが、彼が出るシーンはとてもいいのだ。彼に救われる。
ただし、現代の3人の若者たちは…少々微妙か。特に素っ頓狂な声の張り上げ方にはやや興醒め。そんなに声張り上げなくても十分に聞こえる。