ロクな死にかた 公演情報 アマヤドリ「ロクな死にかた」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    素晴らしい! 素晴らしい! 素晴らしい! 本当に素晴らしい舞台!
    演劇でしか為し得ない世界がそこにあった。
    しかも、素晴らしい完成度。
    巧みな構成。

    もう、「素晴らしい」以外には何も言えないほど。

    ネタバレBOX

    亡くなってしまった恋人に語る「死」にまつわる物語。
    それは、「物語」による死者を悼むことでもある。

    そして、設定が興味深い。なぜならば、メインの物語は架空(作り話)であることを宣言し、さらに物語の中心にいるのは、死んだ男の元カノということ。今の彼女ではなくて。

    「死の物語」を通して、再生していくことも、亡くなった者を悼むことでもある。
    「語る」ことで生者は再生し、「語る」ことで死者を悼むという構図。

    これは、今、現時点で彼らの世代(年齢)において考えられる「死」との向き合い方、「死」との共存、「死」との納得の付け方が語られていると言っていいだろう。
    それは、本気で「死」について考えてみたということ。当然、世代が異なればその感じ方も異なる。と言うか、人が違えばその人ごとに考え方も異なる。

    デジタルな世界では、死の後も記憶がデジタルの中に鮮明に残ってしまう。人の記憶はアナログだ。薄れ、ぼやけていく。だから、死んだ後にブログを更新されることには大いなる違和感を感じるのだ。本当は自分の記憶のほうが正しいはずなのに、ネットの世界にある記憶のほうが鮮明でリアルなことへ苛立ちを感じてしまう。

    いつの世であっても、そこに「いた(存在した)」人の「いた」という事実を「言語」として記憶にすることは、すなわち死者を忍ぶこと、追悼になっていく。ネットの上でも同じ。言葉は記憶になり、そして消えていく運命にある。
    さらに、「命の灯り」もきちんと灯しつつ。

    この舞台は「死」について語っていたのだが、その実、その根源には、(自分が)存在すること、(自分の)存在への不安感というものがあったのではないだろうか。

    つまり、「死」というわかりやすいテーマから、「私は本当にそこにいるのか?」「私は本当にそこにいたのか?」という問い掛けがなされているということだ。それは、ひょっとこ乱舞の舞台を観るたびに感じていることなのだ。
    それが今回も別のアプローチから語られていたという印象を受けた。

    また、前回「『ブリキの町~』で笑いも手にしてしまった」と感想を書いたのだが、やはりそうであった。「笑い」はその塩梅が難しいのに、この深さのある舞台に見事にねじ込んできた。そして、笑いをきちんと獲得していた。

    そして、個人的に「ひょっとこフォーメーション」と勝手に呼んでいるダンスシーンも、物語に見事に溶け込み、効果を上げていたと思う。美しいと思うシーンが幾度も訪れた。

    役者もすべての人が素晴らしい。本当に素晴らしい。当然なのだが、完成された姿でそこにいたと言っていい。
    中でも、妹のチサト役の笠井里美さんのギリギリな感じの台詞回しには息を飲んだ。タケダ役の西川康太郎さんの佇まいがいい。関西弁の女性を演じた田中美甫さんの台詞の呼吸感、鞠井の恋人役、寺田ゆいさんの切ないエピソード、たっくんを演じた中村早香のさらに切なさが特に印象に残る。
    忘れてはならない、伊藤今人さんは、一見、飛び道具的な使い方なのだが、それが嫌みにならずに、きちっと物語にはまっていたのは、演出もさることながら、この人の身体的なセンスの良さがあるのではないかと思った。

    今回、特徴的に感じたのは、「3人による会話」のシーンだ。その数も多い。それは「常にそばにいて2人の会話を聞いている者がいる」という状況が生まれていて、単なる2人の会話よりも、さらに奥行きを感じることができたのだ。2人の会話は、第三者がいることで、その存在を感じつつ、つまり第三者にも聞こえていることが前提で話される会話であることが、演劇という枠の中にあることで、さらなる効果を上げていたと言っていいと思うのだ。

    そう言えば、広田淳一さんの、『プロジェクト・ブンガク』の罰ゲームであったバンジージャンプでの体験が、台詞のひとつとして輝いていたのも見逃せない(笑)。

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    2011/02/04 08:33

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