満足度★★★
寺山修司のラジオドラマをコラージュした作品
確かにそうだったが、単純な構造に見えてしまった。
ダイナミックでボリュームのある舞台ではあったが。
ネタバレBOX
真空管を思わせる透明な筒が数本立ち、中央の高い場所にはDJブース。下手後方にはバンド演奏用の楽器の一群。
舞台は立体的であり、客席の通路も使うというのは、万有引力ならでは。劇場全体を舞台とするということだ。
寺山修司さんがかつて作ったラジオドラマの数々をコラージュした作品であり、ラジオ番組の中で、それが次々と演じられる。寺山さんの声も流れ懐かしい。
劇中ラジオ劇の中心になるのは『青ひげ』で、これはラジオの生放送という体で行われる。そのほかには『ガリバー旅行記』なども演じられる。
確かに、コラージュ作品なのだが、この構成はいささか単純ではなかっただろうか。ラジオの放送を軸にラジオドラマを演じるという形態が、だ。
つまり、劇中劇として順番に見せただけという印象が強い。
意味ありげな登場人物も多々あるのだから、単なるラジオとドラマではなく、それもさらに重層的にするような深みや絡まりが見たかったのだ。
とは言え、J・A・シィザーさんの音楽は、いつも素晴らしい。生演奏もその意味があった。せっかくの生演奏なのだから、バンドは舞台の中央にセッティングしてもいいのではないかと思った。ドラムの位置が中央のほうが聞きやすいということもある。
もっと言ってしまえば、劇中劇の中心になっている『青ひげ』はとても面白く、ラジオという形式ではなく、これを舞台の中心に据え、J・A・シィザーさんの音楽劇(ロックミュージカル?)にして、そのほかのラジオドラマをそこから波及させたほうが面白かったのではないかと思った。
つまり、ラジオの設定であり、劇中劇からいちいちラジオのDJに戻るところが、物語の世界から引き戻されるようであり、さらにディレクター、作家、プロデューサなどが出てきて、物語世界が薄められてしまう感じがしたからだ。それはもったい。
彼ら、ラジオ制作側の登場人物はそれぞれの主張を代弁するのだが、それが少々鬱陶しい。ラジオとは? という講義を聞きに来ているわけではないからだ。いろいろな立場の意見を満遍なく聞かせる必要はなく、独善的であったとしても、1つの意見・主張をハッキリさせたほうがよかったのではないだろうか。
また、ラストでプロデューサとディレクターが、まるで「この舞台まとめ」のような語り合いを行う。それは第三者からの視線で、他人事のようであり、舞台の熱気を興醒めさせてしまうには十分であった。
そんな台詞で語り合うのではなく、舞台の上でそれを見せてほしいのだ。
舞台自体は、とてもボリューム感があり、濃厚。そしてダイナミック。
舞台上の構成も素晴らしい。
ラジオDJと青ひげの第7の妻を演じた森陽子さんの、DJぶりや歌の説得力がとても印象に残った。シャープなダンスを踊っていた、石森・加藤・佐藤・園原の4人はカッコ良く、印象に残る。
ラジオという設定ならば、例えば、ビジュアルなしで、真っ暗でほとんど何も見えない中でのラジオドラマだったりしたら、どんなに面白かっただろうか、とも思った。いや、無理なのはわかるけど。
万有引力好きなんで、次回には期待したい。
満足度★★★★★
ホチキスの最高傑作(当社比)
ホチキスの舞台にはロマンを感じるときがある。
今回はその部分が少々弱かったかもしれないが、個人的にはホチキスの最高傑作と言っておく。
大いに笑って、とてもいい感じに楽しんだのだ。
ネタバレBOX
これから始まる面白を予見させるようなオープニング。
もうこれだけで、顔はにんまりと緩んでしまう。
かっちり作り込まれたストーリーが気持ちいい。
それを役者たちが丁寧に作品へと仕上げていく。
物語の中心にいる女将役の渡邊安里さんがきちんと物語を背負いながらも無理なく、観ている者を楽しませてくれる。
役者はすべての人がきちんと仕事をしていて気持ちがいい。うまい、と思う。
中でも、ストーリー的には脇の位置づけなのだが、やはり小玉さんの怪演が光る。
圧倒的でカッコいいと言ってもいいほど。
それに対する柿からの客演、村上誠基さんのはっちゃけてぶりが楽しい。また、演技や台詞のタイミングが抜群で、笑いのいい波を確実に起こしていた。
小玉さんと村上さんとの対決は、一見似ている雰囲気だが、明らかにタイプが異なり、両者のバトルは目がまったく離せない。笑いの怪獣大戦争だ。
ストーリーは無理がなく、しかもわかりやすい。つまり、そう観客に思わせることに、脚本と演出の巧みさが感じられた。
エンディングも好きだ。
とてもいい感じに笑えて、終演後も気分がいい。
こんな舞台ならば、また観たいと思うのだ。
満足度★★★
学生とプロのコラボで、面白いものが生まれていく素地が出来ていくのではないかということを、予感させる公演
前回公演があまりにも素晴らしかった、8割世界から鈴木雄太さんが参加して、出身の学生劇団の演出をする、というので期待して観に行った。
ネタバレBOX
学生演劇ならば、という視点で見れば、とてもとても面白かった公演である。
会場は、とんでもなく蒸し暑く、汗がだらだら出、いい観劇環境とは言えない中で観たのにもかかわらず、面白かったのは確かなのだ。
しかし、プロの演出家の手によるものと考えると、いくつかの点で残念ポイントが挙げられてしまう。
ストーリーは、家に来る人を取り違えてしまうという、よくあるパターンのコメディで、誰がどう揃うのかということが徐々にわかってきてからは、それをどう取り違えるのかが楽しみになってくる。
そして、いい感じに取り違えてくれるので、楽しいのだ。
しかし、冒頭のテンションの高さだけで引っ張っていくシーンは、正直辛かった。役者の表情見ていても、「この演技必死すぎて、この役者には向いてないんじゃないのか?」と思ってしまうほどだからだ(アフタートークで素顔の役者さかんたちを見て、この普通な感じのほうが素敵に見えたのではと余計に思ってしまった)。
若さと元気はわかるし、もちろん意図もあろうとは思うのだが、演出はもっと役者を信頼してもいいのではないかと思うのだ。
つかみとしてのテンションの高さはありだとは思うのだが、ここはテンション高いことを、でかい金切り声一本槍でなく、トーンを落として(つまり、別の部屋の兄弟姉妹に聞かせたくないのだから)、それでもトーンが上がってしまう、というほうが効果的ではなかったのではないか。
正直、このトーンで全編行くのであれば、辛い90分となりそうだと思ってしまった。
結果から言えば、そういうトーンが全編にあったものの、中盤以降、ストーリーが転がりだしてからは、笑いも多くなり、楽しい舞台になったのでほっとした。そして、それはラストまで続いた。
また、とても気になったのが、古畑任三郎のモノマネシーン。古畑の音楽に古畑の劣化モノマネ(モノマネをモノマネしたモノマネ)で、今どき笑えるわけがない。2001年だって笑わなかったと思う。今どきこのモノマネ? というスベリ笑いを目指しているのならば、きちんとすべってほしい。正直、あのテーマ音楽が聞こえて、顔から笑みが全部消えた。百歩譲って、何回も出てくるこのモノマネが、いろいろあるモノマネの1つであったとしたら(2001年に流行った諸々のモノマネとか)多少は印象が違うとは思うが、それにしても、こんな安直なところに寄りかかる感じは好きではない。たとえ学生だとしても、だ。
さらに、気になったのは、「2001年」の戯曲であり、舞台の上は2001年という設定になっていることだ。どうやら、すれ違いなど諸々の設定が使えなくなってしまうので、現代ではなく、2001年にしたということらしいのだが、どうも積極的に2001年ではなかったようで、途中にそれをギャグにするような個所もあったのだが、積極的な意味での2001年ではなかったことがずっと気になってしまった。正直どうでもいいことなのだが、気になってしまうのだからしょうがない(笑)。
つまり、2001年でなければならないことが、単なる設定だけであり、積極的に物語りに荷担することがなく、酷な言い方をすれば、言い訳にしか見えなかったことが残念でならない。
せっかく当時の新聞のコピーを入場時に配ったりしたのだから、それが活きてきたりなど、2001年とリンクしていく物語であれば、いや、リンクしていく物語でなければならないと思うのだ。それは、古典というには近すぎるから10年前が。
例えば、10年前の風物や社会のことなどをバンバン入れていったりしたらまた雰囲気は違っていたかもしれない。
コメディに限らず演劇は、当時の風物や社会を反映していくものだが、特にコメディは、その要素があるなしで、笑いになるかならないかの境目になるのだから、確かに難しいとは思うのだが。
コメディの演出は難しいと思う。脚本がいくら面白くても、演出と役者がダメであれば、まったく笑えない舞台となることも多々ある。
今回は、手練れである鈴木雄太さんが、うまく笑いのツボを押さえ、手際よく仕上げていたので、きちんと笑いに結びついていた。
ただし、8割世界で見せてくれる、息の合った畳み掛けるようなテンポまでには行かず、不発ともいえる個所があったのは残念であった。それはしょうがないとも言えるのだが…。
それは、学生たちには、そのレベルはまだ無理だったのか、あるいは役者と演出が息を合わせていくのには時間がかかるということなのかはわからないが、コメディ(または舞台)は、難しいものだということなのだろう。
とは言え、少々上から目線で言わせてもらえば、今回、両者ともに学んだ点は多かったのではないだろうか。
今回の企画、学生とプロのコラボは面白いと思った。OBに限らず、コラボしていくことで、面白いものが生まれていく素地が出来ていくのではないかということを、予感させる公演であった。
満足度★★★★
その設定だけでご飯何杯でも食べられるという好企画!!
フライヤーで企画内容を知ってから、心待ちにしていた公演。
やっぱり面白かった。
ネタバレBOX
上野友之(劇団競泳水着)→関村俊介(あひるなんちゃら)→下西啓正(乞局)→野坂実(クロカミショウネン18)と順番に脚本を書いていくという、その設定だけでご飯何杯でも食べられるという好企画。
実際に面白い。
前の作者たちがいい感じに設定をばら撒き、ラストで締める。
ただし、3幕だけは、あまりにも異質すぎた。その異質さが笑いにちきんと結びついていくのであれば、面白かったのだが、1幕での登場人物との関係など、まるでなかったような展開なので、いささか面食らった。
ダークな雰囲気でありながら、最初は観客も笑おうと思っていたのだが、あんまり笑える雰囲気になってこなかった。
ちょっといい感じで1幕に登場した、バイト役の勝平ともこさんが、ラストにしょぼんとした感じで出てくるのは少々忍びなかった。
まあ、予定調和からうんと外れたという点は良いとは思うし、コメディの作家さんたちだけにしなかったというところも面白いと思った。
結果、すべてを拾ってラストでまとてめることはできなかったが、いい感じに笑いに昇華していたことは評価できる。
「外し方」もなかなか無茶でいい感じであったし。
また、各パートについても、それぞれの持ち味が出ていて、それも見どころとなっていた。
そしてそれらが違う演出家の手によると、こうなるのか、と感心もした。
そして、全体のテンポがとてもいいのだ。
考える間もなく、どんどんと進み、わははと笑わせる。
この演出は、この企画にマッチしていて、巧みだ。
役者は、各パートごとに振り幅が大きく、冷静な考えれば、まったく別人のようになっしまう人もいて、それだけで破綻してしまいそうなのだが、役者がそれに見事に耐えたと言っていいだろう。
特に、川本亜貴代さんの健闘が光っていた。彼女がもの凄い力で、物語を引っ張っていったことで、俄然面白くなったと思う。
それと、個人的には、中村早香さんと異儀田夏葉さんだ。
ひょっとこ乱舞から参加の中村早香さんは、声がよく通る。舞台が明るくなり、コメディに向いている人だなあとつくづく思う。
そして、異儀田夏葉さん(ヨシロォの夏は夢叶え冒険団)。特に関村俊介さんの担当パートでは、いつもあひるなんちゃらで観せる突っ込みが気持ちよく決まっていて、「やっぱ、こう突っ込ませないと」と観ていて楽しかったのだ。
とにかく、中村&異儀田は、目が離せない。
とにかく、好企画で面白かったことは確か。
面白いから、今後もこの企画続けてほしいと思う。…無理か。
満足度★★★★
(極々個人的に)イライラしてムカツク
なんだろうな、この感じ。
ムカツクんだよな。
テンション?
なんだろ。
って思って観た。
ネタバレBOX
最初に副担任が出てきて、「ここだけの話」と言った後の、あたりを気にする演技にムカツイた。
ところが、「ああこの人はこういうキャラなんだ」と納得しつつも、その動きとテンションにいちいちムカツク。
そして、小学生の親たちの登場にイラつく。
なんか中身のないイヤなテンションなのだ。
で、「ああ、そういうところがネライだったりしたわけね」と思いつつ、やっぱりイラつく。
彼らのテンションが高いくせに平板というか、それにムカつきつつ、「あっ」って気がついた。
何に対してこんなにイラついて、ムカついているのかが。
それは「先生」だ。これにムカついているのだ。
先生、教師というものは、すべて使命感を持って仕事をしている。その「使命感」がどんなに独善的であったとしても、「私は正しい」「私は正義」ということについてまったく顧みることもなく、平然と生徒にぶつけてくる。
「私の指導方針」「私の教育方針」と言い放ち。
密室の、特に小学生のときの教室は、担任と児童の密室だから、児童は先生の言うことがすべての世界で、まだ社会を知らないので、自分たちの前で偉そうなことを宣っている先生が、どんなに社会からかけ離れた存在なのかは知らない。すべての先生がそうだとは言わないが、ほとんどの先生はバカだ。しかも無自覚のバカ。
…もっと汚い言葉を使いそうになるが抑えておく(笑)。
そんなバカが使命感という錦の御旗でもって、生徒や児童を「指導してあげる」と思い上がっている。自分は生徒や児童を「良い人」になるように育てているのだ、と思い込んでいる。しかもタチの悪いことに、「愛情」とともに、と先生ご本人は思っているのだ。
そんな輩にいろいろ吹き込まれる生徒・児童はたまったものではない。
この舞台にいる担任の先生は、なんだかステレオタイプな教師像なので、ゾッとした。ああ、これだこれに対してイライラして、ムカツイているのだ!
先生役の久保亜津子さんがうまいんだよな、その雰囲気。
あの「5分だけあげます」という指導のようなもの、また、毎回机と椅子を倉庫から教室まで児童本人が持ってくること、そんな儀式めいた「(トンデモ)教育方法(メソッド)」を体験したことのある人は多いのではないだろうか。一見意味がありそうで、実のところまったく何もあるわけのない、そんなことを。そして、ご本人は悦に入って。
だから爆弾で児童やその親たちを爆死させるのも、彼女にとっては、「私がやってあげる指導の一環」程度のことであろう。
もちろん、比喩的な意味でもいい。そんな爆弾を指導の名の下に児童やその保護者たちに降り注いでいるのだ。
児童も保護者も「先生様の言うとおり」なので、文句すら言えない。言えば「モンスター」と呼ばれてしまう。
「あなたの闇なんて知ったことではない」という先生の台詞がすべてであろう。自分しかいないんだろもの。ご本人は「愛情」があると思っているのにね。
確かに、親たちにも問題はある。それは普通。
それを乗り越えるのは子どもの務め。
子どもたちの設定が健気すぎ、やけにナイーヴ。
MUの舞台ではナイーヴな登場人物が必ず出てくるが、この2人は群を抜いている。
まあ、小学生だからということもあろうが。
小学生を演じた今城文恵さんの、目、表情は刺さった。
で、この2人の存在は、年齢的にも「未来がある」ので、MUらしからぬ灯りがあるように感じた。先があるというか、どん詰まりではないということ。
つまり、彼らは「大人になること」を信じているからだ。それはこの日上映された過去作品『90%VIRGIN』とも共通している。こちらは「音楽」を信じているのだ。「未来」(信じるモノ)がある者にとっては、「希望」があるのは当然で、それを感じた舞台と上映であった。
ハセガワアユムさんは、2008年ぐらいにはそれなりに希望があったんだ、と思ったりした(笑)。この設定を使ってそれを見せたと。
全般に流れる空気は、激するのに乾ききった感じ。乾いているのにゴリゴリやってくるのでヒリヒリしてしまう。
あいかわらず台詞に細かく気を遣っていて、気が利いている。
ただし、(初日の)全体のテンションについては、まったく支持しない。じっくり内に秘め、じわじわ責めてきたのであれば、もっと響いたと思う。台詞の効き方も、届き方も違っていたと思う。
意図とは言え、イヤなテンションについて考えると、★3つ。ただし、上に書いた感想、特に先生を巡る感想はあまりにも個人的すぎるかもしれないが、そんなイヤな想いを喚起させてくれたこと、つまり、私のムカツキ(笑)対して★1つプラスとなった。くそーっMUにしてやられたぜ(笑)。
MUって面白い。
初日は、上演後、過去作品『90%VIRGIN』の上映があった。この台詞の感覚は素晴らしいと思った。しかし、機材トラブルで、何らかの事件が起こって、それがどう解決されたのか、という大事な2点が飛んでしまい。不発でモヤモヤ。
※上映後、機材トラブルについて主催者からお詫びがあり、そのDVDを送るというアナウンスがあった。早い対応は素晴らしい。観客は納得するだろう。私は申し込まなかったが、MUのつぶやきによると、アンケートに住所を書いた人には送るとのことらしい。
満足度★★★★★
「場」がなければ、何も育っていかない。舞台は創造したことに対して受け手があって初めて成り立つものだから。
好企画。
ショーケース的なものと考えていたが、それ以上に各団体の特色がよく現れていた。
しかも、公演の順番がお見事。
たっぷり楽しんだ。
ネタバレBOX
ロロ『夏が!』
男子中高生が妄想するような夏のアバンチュールというか、その妄想度が高い。なんたって人魚みたいだから。この世のモノではない、そんな何かに取り憑かれてしまう。『高野聖』的なと言うか。違うか。
海に見立てたブルーシートが楽しかったのか、海ブルーシートのシーンが多く、できればもう少し妄想度を深めてほしい気がした。
「いくら払えばいいんですか」の台詞がツボだった。
ジエン社『私たちの考えた移動のできなさ』
舞台とキャットウォークなどを使い、立体的な同時多発台詞が心地良い。
事象としては、まるで3.11直後の東京近郊を彷彿とさせるのだが、差し迫った危機感もなく、人と人との距離が縮まらない、表に出づらい苛立ちと、諦めが伝わる。
早くなんとかしなければ、と思いつつも、結局何もできずに今に至っている。
自分への苛立ちでもあり、東京に入れない、避難している、デモ隊が、という不安要素が充満している中での自分がいる。
キャットウォークをいつまでもくるくると歩いて回っている男女がすべてだ。どこにもたどり着けない。着いたとしても行く手は阻まれる。阻まれる意味もあまりなく理不尽。音楽をやってるんだという自負とも言えぬ、そんなものにしかすがれない。宗教というかセミナーみたいなものも自分のことだけで手一杯。
閉塞感とも違う、閉じた感。
見終わって、とてもすっきりした味わいであった。
…のだが、すっきりしすぎではないかとも思った。つまり、もっと混乱、ノイズが欲しいと思ったのだ。台詞なんてもっと聞き取りにくくていい。こんなにすっきり諦めてしまっていいのかと思ったのだ。
範宙遊泳『うさ子のいえ』
演劇のアフタートークという形式を通じて、「真実」と「虚構」を見せた。
ただし、真実は何かということや2つの対比というよりも、「虚構」とは何かということではなかったのだろうか。
受け取る側にとっては「真実」でも「虚構」でも関係なく、「虚構」が大きくなれば、「真実」は単純に飲み込まれるというものだ。
外に通じるドアから見えた、自動車で走り回る姿のけたたましさに笑った。それは虚構が勝った瞬間だった。
バナナ学園純情乙女組。『【バナ学eyes★芸劇大大大大大作戦】』
始まる前のわくわく感がたまらない。アトラクションだ。カッパ着て、荷物をビニール袋に入れたりという準備があるから、それは否応なしに高まる。
そして、見事にコントロールされたカオスで、観客全員ニコニコ顔。
全力さがいい。1人ひとりの力が、きちんと活きているのがよくわかる。マスゲームのごとく動きが揃うところもツボ。
準備から後片付けまでがよくできたパフォーマンス。見どころ多すぎ。この大人数を、立体的に構成する力は半端ない。
アフタートークで、二階堂さんが「時間があれば練習して、ダメなところを1つでも潰したい」と言っていたのがよくわかる。
カッコ良すぎるぜ!
ただし、口に含んだ水を吐き出すのは正直好きではない。だって、男が吐き出した水が顔にモロかかっちゃったんだから(笑)。
マームとジプシー『帰りの合図、』
台詞のアンサンブルが美しい。
まるで歌詞のようなリフレイン。
ミニマムな出来事を切り取り多面的に見せる。
そして、ラストには、ぐっと胸に来る。
それは大声で叫ぶようなことではなく、静かに胸に染みこむようなモノであった。
今回は、「20年安泰」というタイトルだったけれど、彼らが演劇を今後20年間安泰にするわけではなく、彼らが20年安泰かどうかにもあんまり興味がない。
しかし、例 えば、バナナ学園純情乙女組などの登場により「これは演劇と呼べるのか」なんて、まったく愚にもつかない批評(感想)がされることがなくなるであろうことで、次々と新しい人や集団が出てきて、演劇は20年と言わず安泰となるだろう。
つまり、新しいことや、変化、破壊を恐れずにできるような「環境(場)」ができていけば、もっと凄い人や団体も出てくるだろう。今回早々とチケットがソールドアウトになったということは、そのための1歩となったのではないかと思う。
「場」がなければ、何も育っていかない。舞台は創造したことに対して受け手があって初めて成り立つものだから。
それは、新しいこと、変化、破壊であったとしても、同時に「場(観客や社会など…空気とも言う)」に受け入れられなければならない、一見矛盾しそうな関係でもあるのだから難しい。
とは言え、創造するときには「場」を意識する必要はないと思う。
それは、受け手の勝手な言い分だけど。
来年またこの企画があったとしたら、次の5団体はどんな顔ぶれになるのか、なんて考えながら劇場に足を運ぶのも面白いかもしれない
満足度★★★★
スピーディな展開と役者たちの転換がうまい
あれよあれよと進む展開が面白い。
ただし、ラストが弱いか。
ネタバレBOX
笑いも随所にあり、なかなか面白かったのだが、フト考えると、もともとの基本設定は本当に必要だったのだろうか? と思う。
つまり、全体が撮影であるということだ(ラストに明らかになるのだが)。
それは単にストーリーの終わり方だけのための設定にしか見えず、しかも、このラストは「夢オチ」と同じ香りがして、少々野暮ったい。
もっと設定が活きてくるラストであれば、同じラストでも印象は大きく変わっただろうと思う。
主人公が何かを得たり、成長したりする物語ではない。
物語が進行し、いい感じのスピード感が出てきて、変な方向へどんどんズレて進む感じがとてもいいのだから、構造的に不条理感が高まってくるのだから、なおのこと、意外と当たり前のオチが残念である。
主人公が、なぜそこまでなぜ死に際にこだわるのか、そして、これらの結果どう変わっていくのか、なんてことが入ればもっと引き込まれたと思うのだ。
しかし、どんどん物語が進行しつつ、登場人物が入れ替わり立ち替わり出てくるのだが、それらが、出演者が2役・3役とこなしていく様がとてもいい。
役者のキャラクターがとてもいいのだ。
舞台内容とは関係ないが、入場のときに受付に並んでいたのだが、受付担当の男性の動きがなかなかスマートだった。列に声をかけ、また状況を見ては受付の手助けをしつつ、列に気を配るということを、あたりまえのようだがきちんとこなしていて、列に並んでいてもイヤな感じにはならなかった。こういう気配りが大切なのだ。
満足度★★★★
Performenシリーズ最終章
シリーズのパターンで物語は進む。
Performenたちの物語。
ネタバレBOX
電動夏子安置システムは、うまい役者が揃っているなと感じさせる舞台。
ハードな設定の演技も、コメディ的な(しかし本人は真面目な)演技も両方こなせる俳優ばかりだ。
Performenシリーズは、そうした2面性をうまく活かすことのできる作品だ。
そして、今回が最終章となる。
ただし、シリーズをずっと見続けているわけではないのだが、「あれ、このパターンは……」と、ついつい思ってしまう。ハードな幹の部分とそれに関する人間(Performen)たちの行動に笑いの要素が見え隠れするというものだ。
その内容のパターンがあまりにも同じすぎるのと、幹のハードな部分が以前よりもより重厚になった分だけ、少々食傷気味になってしまう。
また、力が入ったのか、今回はやけに登場人物が多すぎで、同時に動くシーンなどが、動きの悪い人が目立ってしまうし、前後左右との余裕がなさすぎて、手足の伸びもイマイチの人も散見される。レベルに差がありすぎたように感じてしまった。
いかにも笑ってくださいの、小野部長コーナーも、残念ながら笑えなかった(ファンの人にとっては待ってましたのコーナーなのだろうが)。
とは言え、2時間を超える作品なのに、まったく飽きることなく楽しめたのは事実だ。面白いし。
このシリーズが終了した今、次にどんなモノを見せてくれるのか、とても楽しみなのだ。
満足度★★★★★
唯一確かなものは、「肉体」であるという宣言として、受け取らざるを得なかった
映像と肉体のぶつかり合い。
わずか70分が濃厚。
暴力的とも言えるような、そのパフォーマンスは、3.11を彷彿とさせてしまう。
たとえ、それが本来の意図と異なっていたとしても。
ネタバレBOX
スタートからやられた。
大音量のノイズから、単純に繰り返される破壊のCG。
そこに現れる肉体の存在。
この舞台は、再演とは言え、ある程度の加筆はあったのではないかと思う。つまり、3.11以降のこの現状についてだ。初演は知らないのだが、否応なく、3.11を連想させるエレメンツが多い。例えば、次のようなモノだ。
最初に積み上げられていく赤いハイヒールが瓦礫のようだ。マス・マーケティングの象徴、生活に余裕のある世界の象徴のような赤いハイヒール。
無造作に投げ込まれ、積み上がる人、人、人…。
画面は動きの止まった人形(ひとがた)で覆われていく。
前に進もうとすると、強い力で引き戻される男。その叫び声が痛い。
空を覆う黒い鳥。一斉に同じ方向に走り出す動物。
街に火の手が上がっている。
逃げようとする男の手をつかみ離さない手。ふりほどこうとしても離さない。
同じ衣装を纏い、タンクトップの男をなじる人々。
それはトレンドや消費の象徴であり、その消費とトレンドが瓦礫(ボロ切れ)となって積み上がっていく。
「こうなったのは」という問い掛け。
舞台を覆い尽くす津波のような白い布と、それを照らす濁流のように渦巻きのライ
ティング、光の洪水、それに飲み込まれてしまう人。
即答できない数の疑問が、「数字」により振り回されている今を切り取っているように感じる。
数字が激しく変わる矢印が床を這う様は、風向き、そして被害の拡大だ。
…等々。
これらが撒き散らすのは「怖」と「痛」。
かなり暴力的に観客を襲ってくる。
人の力ではまったく対処できない、大きな「力」だ。
人は、天気だの安全だのと言った、予想のつかないものを予想する。
それは「不安」だから。
男女に関しても予想不可能だ。
シルエットと映像のコラボが男女間の儚さ、脆さを暴く。
そして、不安だから人に問う。インタビューの形式で。
インタビューも災いのひとつだ。繰り返されること、どこまでも付きまとい、同じようなことを問い掛けられる。インタビューされる側は逃げるのだか、インタビュアーは容赦ない。そして、逃げられたときに「何も答えてない」と言う。
それは「答えられない」からなのだ。
答えられることなんて何もないのだ。
ラストは、白い衣装に身を包み、スモークの中から人物たちが現れててくる。
しがみつく、逃げる、避ける、佇むといった動作で、逝く人、残る人が見えてくる。
画面に現れてくるのは「生命の樹」か。
天にまで届くような大木だ。
「怖」と「痛」を「不安」とともに、「美」によって見せつけた舞台であったとと思う。
ラストには、たぶん「祈り」や「平穏」が込められていたのかもしれないが、あまりにも「負の力」が大きすぎて対処できないという観客の姿は、今の多くの人々の姿と重なっていく。
「答え」は「ない」としているのだし、「予想」も「つかない」のであるとしても、「すがる」ことのできる「何か」がほしいと思うのは、ダメなのだろうか。
唯一の「救い」は、冒頭のインパクトのある映像と、その前で踊る肉体を比べると、映像のほうが勝っていたと感じていたのだが、徐々に肉体がその存在感を増し、ラストに向かって映像との一体感が出てきて、ラストは肉体が勝っていたことではないだろうか。
とにかく、映像やライティングなどのテクニカルな側面から醸し出されるのは、「不安」のみであったのだが、かろうじてラストに至り、肉体の存在が増してきたと(感じた)いうことは、観ている側にとっての「救い」だったように感じた。
それは意図されていたかどうかは関係なく、暴力的な力の前に対して観客が欲していた「何か」が、かろうじて顔を見せたということなのかもしれない。
…もっと肉体を感じたかったというのが本音ではあるが(スモークの中に消えていく人々)。
それはつまり、「唯一確かなものは、肉体」であるというNibrollの「答え」ではなく「宣言」だったと、勝手に受け取った、いや、それを受け取らざるを得なかった、ということが、「今」「現在」なのだ。
満足度★★★
前田司郎苦戦!?
前田司郎さんが、円という老舗劇団と組んで公演を行うというのを聞いたときに、これは面白い化学反応が起こるのではないか! と期待した。
その前に、平田さん、井上さんご夫婦のアルカンパニーでの作品を観ていて、平田さんが、なんとなく苦戦しつつ(勝手なこちら思い込みかも)、前田司郎ワールドに歩み寄りつつ、平田さんご夫婦の味はきちんと保っていたように感じていたので、アルカンパニーのときのようにご夫婦2人だけとは違い(アルカンパニーのときには、プラス2人の客演があったが)、円という集団に対するのはまた違ったものになるのではないかと思っていたのだ。
ネタバレBOX
シャルルというある種の仕事をしていた、伝説の女性の夫は、シャルルが亡くなってしまった今、シャルルと一体化したいと考えていた。
彼は、シャルルの洋服を身に纏い暮らしている。
かつてシャルルに憧れていた男性・静夫と一緒にだ。
静夫は、シャルルの所有物になりたいと、家庭を捨てここにやって来ている。
静夫は、夫である男にシャルルに完全になってほしいと思っている。
したがって、シャルルの孫(女性)が会いに来たりすることで、シャルルに男性の要素が蘇るのを嫌っている。さらに、完全にシャルルになるために、性転換手術をしてほしいとまで思っている。
しかし、当のシャルルと一体となりたいと思っている夫は、そんな形ではなく、一体になりたいと思っているのだった。
正直に言って、舞台の幕が開いてからは、リズムが悪く(と言うか、想像していたリズムとあまりにもかけ離れていたということかもしれないが)、ちょっと辛い感じだった。
翻訳モノの不条理劇でも観ている感じとでも言うか、台詞が弾んでいかないのだ。面白要素も潜ませているのだが、そのタイミングでは笑えない。
中盤になって、比較的若手の俳優同士のやり取りになると、俄然面白くなって来る。場内の空気も一変したように、笑いが起こり出す。
ここのシーンは、明らかに、前田司郎ワールドになっているのだ。
独特の台詞回しと間合い、五反田団的な、と言ってもいい感じなのだ。登場人物が活き活きと見えてくる。
ところが、また元のキャストのシーンに戻ると、とたんに停滞してきてしまう。もっとも、怪しげな医療コーディネーターたちが登場するシーンは、微妙なラインで進行するのだが。
たぶん、その原因は、火を見るよりも明らかだったのではないだろうか。
特に、五反田団や前田司郎演出を観たことがある観客にとっては。
それは、ベテラン俳優の演技の壁を崩すことができなかったということなのだ。
身体に染みついた演技と台詞回しのために違和感があったと言ってもいいだろう。
もちろん、そういうことは(たぶん)織り込み済みであり、それをも取り込んだ上で、前田演出が展開され、面白い舞台になっていくはずだったのかもしれない。
例えば、ベテランはそのままでOKで、それ以外の俳優は前田ワールドで突き進むとか。
しかし、ベテランのオーラが強すぎるのか、同じ俳優でも若手と絡むと、前田ワールドに染まっているにもかかわらず、ベテランと絡むとそのペースにはまっているように見えてしまった。
どこまで、どうしようとしたのかは、観客席からはわからないのだが、少なくとも前田司郎さんの作・演が面白いと感じている私にとっては、「前田さん苦戦しているなあ」としか見えなかったのだ。
ストーリーは、ヘンテコでとても面白いかったのだが。
そう書いたものの、これがベストだと前田さんが感じてないのであれば、当然楽まで毎日修正が加えられるだろうから、本当は、楽日の公演を観てみたいとも思っている。行けないけど。
それと、ステージ円は初めて入ったのだが、後方で観ていると声が妙な響きをして、きれいに聞こえず、階上の物音がやけに気になり、どうなのかなと思った。演目、あるいはセットによっては違うのかもしれないが。
満足度★★★
対象がピンポイントだったのか、それともそうではなかったのか
主人公を取り巻く人々のある一面を切り取った作品。
ファミコンというアイテムが、物語を読む上で大切なキーになっていたのではないだろうか。
もしそうであれば、その点において、ピンとこなかったのだ。
ネタバレBOX
病気がちで外にあまり出ることのない周正は、古いファミコンを持ち出して、どうしてもエンディングまで行けない海賊版ソフト「ドラクワ」(だったけ?)を今日も1日やっている。
周正は姉と2人ぐらし。
父は家におらず、周正がやっている海賊版ソフトを作ったりしていた。
周正は、姉の小学生の頃の同級生、つまり年上の男の子たちと「男熟」(「塾」のつもりで漢字の書き間違い)を結成し、遊んでいた。
そんなオープニングで物語は始まる。
周正が小学生だった頃と、彼が亡くなったお通夜の夜が、交互に演じられる。
父は周正のお通夜にフィリピンから駆けつける。今も昔と同じような気ままな生活をしているようだ。
お通夜には、周正の小学校時代の友人と姉の友人が集まっている。
周正の友人たちは、周正が最後に倒れたときまでやっていたファミコンをなんとかエンディングまで持っていきたいと思っているが、海賊ソフトなのでその方法がわからない。かつてエンディングまで行ったことがあったのかどうかも思い出せない。
周正の父もそれを聞き、エンディングまで行けたら、周正の顔を見て、お線香を上げると言い出す。
とにかく、ファミコンが物語の重要なキーとなっている。そんな想い出がある世代にとっては、あるある感とともに自分の小学生の頃を結び付けていけるのかもしれない。
しかし、残念ながら、個人的な趣味や経験としてファミコンだけでなく、ゲーム全般ほとんどやったことがないので、ピンとくるところがほとんどなかった。そのため、そのあたりでくすぐられる要素ゼロだったので、面白さは半減したのではないかと思う。
観ながら、なんかピンとこないなあ、と燻ってしまった。
携帯のやり取りなど、ちょっとしたことから人間関係を匂わしたり、夫婦間の関係を見せたりと、周正を取り巻く人々のある一面を切り取った感じはとても好きだ。
面白いなあと思うシーンもあるにはあったのだが…。
ただ、どう観ても全編に流れるファミコン要素が目に付き、つまり、ファミコンのことを大事に取り上げているようで、個人的にその点にまったく取り付く要素がないだけに、しっくりとはこなかったようだ。
だから、と言うわけではないが、登場人物たちがファミコンの登場人物らしき扮装で登場するシーンは、無表情で見てしまった。
特にラストはそんな感じで終わってしまったので、さらに、うーん、という感じは高まるばかりであった。
満足度★★★★★
『かもめ』が現代口語演劇に仕上がっていた
と言うとオーバーか。
前回に引き続き、古典作品を奥村宅氏が(解釈し)演出する舞台。
「古典」に「現代」の息吹を与え、160分という長丁場を楽しませてくれた。
ネタバレBOX
オクムラ宅の『かもめ』には、「四幕の喜劇」とわざわざ入れている。
したがって、喜劇としての見方(解釈)が入ってくるものだということだ。
そのポイントを探りつつ観劇した。
堀江新二訳の新しい『かもめ』を底本として上演された舞台は、言葉がより口語に近く、耳に「古典」の違和感はない。
したがって、軽々と「現代」に上演することは可能だったのではないだろうか。
とは言え、現代への橋渡しすることへの格闘のあとは散見された。
例えば、衣装だったり、動きだったり、振り付けだったり。
2幕あたりでは、古典的な香りが強かったように感じたが、たとえロシアの昔の話であっても、現代劇を観ているような錯覚を覚えるぐらいの仕上がりになっていたと思う。
それには、演出もあるとは思うが、今回の会場「ゆうど」の果たした役割も大きかったと思う。最初に決まったのが、演目が先か会場が先かはわからないが、日本的な縁側と小さな庭が、とても効果的に使われていて、日本の現代との橋渡しを見事に担っていたと思う。
もちろん、その場所をうまく使った演出も素晴らしいと思う。うまいので、あたり前に感じてしまったほどだ。
演出で言えば、観客席との距離感(近い)で、役者同士の台詞の重なりや、奥で聞こえてくる台詞、近づいてくる台詞などのように、立体感が生まれ、日常的な「会話」に聞こえるようにしたことは、朗々と台詞を順番に話す古典的な演劇の印象を払拭していたとも言える。「現代口語演劇」のようなアプローチだったのではないだろうか。
そして、奥村宅さんの演出は、登場人物のキャラクターをくっきりさせることで、物語をわかりやすくしていたのではないかと思う。
例えば、ニーナには、若くてかわいいだけで、ちょっと有名に憧れている女の子(アイドルに憧れている女の子のような)というイメージを与え、いままで観たことのあるニーナ像とは異なる印象を受けた。今まで観たニーナは、役者の実年齢もあるのだが、有名になることにもっとギラギラしていたように感じていたからだ。
アルカージナの母としてのコースチャとの距離感や、女としての匂いも面白いと思った。
つまり、こうしてキャラクターをはっきりさせることで、「喜劇」的な要素を舞台に与えていたと言ってもいいだろう。
キャラクターだけでなく、演出家の解釈として、「これは!」と思ったのは、トリゴーリンがニーナに心が奪われそうになり、それを留めようとするアルカージナのやり取りがある。このシーンは少々唐突ながらも男女間の「喜劇」となっていた。年上の女性の怖さと、それぞれのキャラクター設定があるゆえの解釈であろう。
さらに言えば、1幕と4幕のニーナの違いである。いろんなあれこれを経験したニーナが口にする、コースチャの戯曲が明らかに違って聞こえるのだ。全体の口調ももちろん違う。この差をきちんと感じられたのがいい。
ただし、すべてが良いと言うわけではなく、例えば、ニーナの最初の演劇やアルカージナがふと見せる仕草に、意外としょーもないギャグ的要素を入れ込んでいたことは、ちょっと…。喜劇だからと言って、その感じは違うだろうということだ。両方とも「フリ」というのもなあ…という感じ。
さらに言うと、アルカージナの西のほうのイントネーションである。イメージとして、そんな感じでグイグイくる女優なのかもしれないが、モスクワ(中央)でそれなりの女優なのだから、普段の会話のイントネーションにそれが出てくるのはどうかなと思う。強いて言えば、管理人ならば、という気はする。サンクトペテルブルクとの関係というわけでもないとは思うのだが。
そして、解釈というと、チェーホフの『かもめ』4幕が終了した後に、奥村宅さんの解釈する『かもめ』が待っていた。
最初は、自殺するコースチャの気持ちをさらに観客に理解してもらうために、ニーナとコースチャのやり取りの再演で、コースチャの感情を強化して見せるのかと思っていたらそうではなかった。
つまり、観客が思うことと一緒で、確かにコースチャは、自殺未遂をしていたが、このタイミングでなぜ唐突に自殺を、ということを奥村宅さんは、自らの解釈で見せてくれたのだと思う。
コースチャとニーナの会話と、ラストのドールンの何かを庇うような動きと台詞、それらが見事に一体となり、2人がもみ合って銃が暴発、誰も傷ついていないという、奥村宅のラストが完成したのだと思う。
これは奥村宅さんが、戯曲を読み、自分なりの納得のために、止められない衝動に突き動かされてつくったものであり、あくまでもチェーホフの『かもめ』とは別モノであることを確認した上で行ったことだ。
正直、このほうが、物語としていいような気もしてくるのだ。
結局、160分という長丁場だったのだが、とても面白く観ることができた。さらに各幕間に20秒の休憩時間を入れたのだが、それが舞台の流れを途切れさせることなく(2年間の休憩というボケ−設定−も入れつつ)、うまく機能していたことは、今後長時間の上演を行う団体は参考になる方法ではなかっただろうか。
いまのところ、古典作品を自らの解釈で見せてくれる、「オクムラ宅」なので、作品の選択で面白さが広がりそうだ。
会場の選択もその選択の1つに入ってきそうでもある。
どーでもいいことだけど、たぶん「鳩サブレ」が出ていたように思うのだが、だったら、できることなら岩手銘菓「カモメの玉子」にすべきだったのでは(笑)。
満足度★★★
旅回り一座だったり、見せ物としての役者だったりの、「哀愁」を全力で演じるテント芝居
どくんごは、その存在を知ってから、とても気になっていた。
ほかの老舗テント芝居とは違う感じがしたのと、音楽がある、ということに惹かれたからだ。
しかし、実際のところ、テント芝居とは、なぜか相性があまり良くない。
ネタバレBOX
テント芝居の舞台で行われていることは、面白いと思うのだが、それよりも何よりも、緊張が切れるというか、お尻が痛くなりだす。
満員の客席ということも多く、暑かったり、身体を動かすことができなくなるのもストレスになる。
そんなふうにテント芝居とは相性があまり良くないのだ。
とは言え、テント芝居にはいつも惹かれてしまう。
なぜだろう?
雑多な、猥雑な、お祭りな、そんな空気が好きだからだろうか。
さて、どくんごであるが、席は端のほうだった。早く行かなかったからだ。
そういう席だったためか、舞台の中身と、その状況を観たような気がする。
中身だけでなく、舞台を運営している様子とでも言うか。
つまり舞台裏を垣間見た気がしたのだ。
そこには、サーカスとか見せ物小屋の裏(陰)にあるような、哀愁を感じてしまった。
厚い化粧の下に、深いシワがくっきりと刻まれているのを見てしまったと言うか。
しかし、見続けていると、徐々にそこまでも(たぶん)劇団側の意図であったような気がしてきた。
つまり、時折見せる「素」のような表情(舞台裏の表情:舞台で笑って裏で泣いて、のような)は、演出であるということなのだ。特にラスト近くでイヌ(?)が膨らんでいった後、片づけるときの無表情がそれであった。
セット(というか飾り付け)を徐々に片づけたり、CDを流したり、出はけの(素の)姿を見せたり等々までも含めての演出ということなのだ。それは、舞台に上がった俳優という役割以外の姿は「素」を演じているということなのだ。
含み綿をわざわざして、お腹に何かを巻いて太った体型をつくって登場した女性や、女装、白塗り。そして、ちょっとリアルに薄汚れている衣装までも、計算ずくの演出だったのは当然としても、受付からグッズ販売に至るまでが、ショーであり、そう、旅回り一座の「哀愁」の演出だったということではなかったのか。
登場人物たちの造形は、いわゆるテント芝居というか、アングラ芝居のパロディのように受け取った。
それをおちゃらけれるのではなく、全力で演じたことに意義があるように思ったのだ。
その「全力」という姿も「哀愁」なのだが…。
イヌらしき白い物体を中心にして、役者がそれぞれ、1人芝居をするという構成であったと思うのだが、全力なのはわかるが、少々意味不明に感じてしまった。アングラを全力で演じているのだろうが、そのための「芯」が感じられないのだ。「軸」と言ってもいい。
単なるパロディではないと思うので、「何のためにやっているのか」が見えてこないと、唾飛ばして台詞をひたすら言っているにしか見えてこないのだ。
たとえ意味がわからなくても、「芯」とか「軸」があれば、伝わってくるのではないかと思うのだ。
とは言え、1時間50分、少々お尻は痛くなったが、面白かったのは確か。
特に人魚姫のシークエンスは泣きそうになった。
ラストの観客への問い掛けは怖すぎだけど。
それと音楽がとってもいい。メインボーカルの女性の声がいい。
残念なことに頭とお尻にしか音楽がなかった。
もっと聞きたかったと思った。音楽劇でもいいと思う。
次も観るか? と聞かれたら、観るような気がしている。
へんな熱狂と計算が好きなのかもしれない。計算されたとは言え。「雑多な、猥雑な、お祭りな」哀愁があるからかもしれない。
ただし、誰かを誘っていくか? と言われたら、1人で行くと言うと思う。
万人向けではなさそうなので。
満足度★★★★
物語が玉突きのように転がり、収束していく様はお見事
面白い戯曲だと思った。構成力がいい。
とは言え、テクニックに走るだけではなく、演出での面白さ、役者が演じることによって生まれる面白さも十分にあった。
ネタバレBOX
「私は誰」的なメタっぽい冒頭で、「ちょっとこの感じで続くと面倒だなあ」と思っていたのだが、これが転がりだしてからが面白い。
1つのエピソードが走り、それにぶつかってまた、別のエピソードが始まる。それはまるで玉突きのようで、どんどんエピソードは膨らみ転がっていく。途中、軽く結びつきそうな場面もあるものの、それはまだ明確ではなく、さらに進みながら、エピソードは突き進む。
それが「なるほど!」と、うまく収束していく様は快感だ。
それを支える役者がいい。
戯曲・演出・役者が相まって2時間を楽しませてくれた。
松田聖子(!名古屋出身?)を演じた木村仁美さん、信長(!)を演じた松井真人さんは、役で得したところもあるけれど、本当に面白かった。「気分屋」を演じた大屋愉快さん(愉快さん!)の空気を読めぬすっとぼけた感じは捨てがたい。
また、ストーリーが進むにつれてセットが豪華になっていくというのも面白い。アレアレという間に旅館のセットになったりして。そのセッティングも役者がやるのが、劇の一部になっていてさらに面白くなるのだ。
何もかもに全編「名古屋LOVE」が溢れすぎだ(笑)。名古屋人じゃないので、わからないくすぐりとか満載だったが、もちろんそれはそれで良いと思う。意味わかんなくても「名古屋の人が観たら楽しいだろあ」が感じられればハッピー気分なのだ。
ただ、この展開&収束に比べるとラストが少々普通すぎたのではないだろうか。
にしても、次回もこんなテイストならば、また観たいと思うのだった。
蛇足
冒頭の「私は誰」等々の問い掛けが、この日の前日、静岡で観たばかりのspac『WHY WHY』にモロに重なりすぎて(女優が1人黒い何もない舞台の上に立ち、というところまで『WHY WHY』と重なったので)、そういう話かと思ったのだ。
満足度★★★★★
人は苦しみと悲しみを燃やして生きていく
桟敷童子らしい、時代と九州へのこだわりに、郷愁とセンチメンタリズムが溢れ出す。
戯曲・演出・役者・セット等が一体となった素晴らしい舞台。
ネタバレBOX
70年代の九州にある、元炭鉱町の話。
町の土建屋の女性社長・時子と幼なじみの女性・嘉穂が、遠縁の子ども・範一を連れて、夏の間だけ住むということで、元炭鉱住宅だった古い家にやって来る。
時子は、従業員たちにその古い家を人が住めるように修理させる。
範一は親を亡くし、親戚の間をたらい回しにされていた。そのためか、言葉を話さず、風呂も入らない。洋服を与えてもすぐに泥まみれにしてしまう。
範一は、夏休み明けに、施設に入ることになっていて、それまでの間、嘉穂が面倒を見ることになり、この町に帰ってきたのだった。
範一は、誰にも懐かず、咲いているヒマワリに唾を吐きかけるだけだった。
嘉穂と範一が入るために家を修理していた職人の中に、元という男がいた。彼も範一と同じように両親、姉たちを次々と亡くしてしまいひとりぼっちになってしまったという過去がある。
範一は、不思議と同じ境遇だった元だけには懐く。女社長は元に範一の面倒を見るように言う。
範一はやがて「オバケの太陽」という言葉を言う。
元にはその言葉を知っているような気がしてならない。しかし、なかなか思い出せない。
元に打ち解けてきた範一は、「いい子にしていたらいつまでもここにいていいか」と元に尋ねるのだった。元は思わず、「そうだ」と答えてしまう。
範一は、周囲の大人を感心させるほど、みるみる「いい子」になっていく。
ところが予定よりも早く範一が施設に行く日が来てしまう。
そんなストーリー。
これに元の幼なじみ茂通の妻である、呉紫と元の関係などが絡んでくる。
現代の元と範一、元と呉紫と話と並行して、両親をなくし散り散りになっていく、元の子どもの頃の姉たちとの話が進む。
元は徐々に「オバケの太陽」とは何かを思い出し、なぜ範一はヒマワリに唾を吐くのかがわかってくる。
劇場に入ると、舞台には桟敷童子らしいヒマワリの花が咲いている。そして炭鉱の労働争議の檄文。炭鉱の町の終焉から物語は始まり、瞬時に現代にやって来る。
セットの早変わりが見事。
70年代と九州へのこだわりは今回も濃厚で、ノスタルジックな設定にセンチメンタリズムが溢れ出す。
まさに桟敷童子の世界だ。
劇中に何度も出てくる、まるで何かを悟ったような、ミシェル・ポルナレフの歌『ホリデー』(別の人が歌っている)が、とても効果的。
まぶしいほどに咲くヒマワリも、地中に残った、経済発展の落とし子、負の遺産の汚染物質を除去するために植えられている。
「死」と隣り合わせの、この世界。闇の中に光る「オバケの太陽」。それは時には地中から顔を出して、魂を吸い取りにやって来る。「死」の象徴。
しかし、それだけではなかった。それは明るいヒマワリと同様に、一面からだけの見方であることがわかってくる。
そこにあるのは「死」だけではないということが。
「石炭は人の苦しみ悲しみでできている」「人はそれを燃やして生きていく」という台詞が何度も登場するが、物語のラストはまさにそれであった。
炭鉱町の忘れられてしまった「石炭」が見事に物語と結びつく。
その石炭を燃やして力強く走る蒸気機関車がどーんと舞台に現れる。
そこには子どもの頃の元と姉たちがにこやかに乗っている。あの時の元もそうだったのだ。
その力強さに重なるように、範一は施設へ旅立つ。
誰かが、単なる同情で手を差し伸べたりすることなく、必要以上に悲劇になるわけでもなく、範一は元に別れを告げ、「1人で生きていく」ことを強く決意したのだった。
彼は、苦しみと悲しみを燃やし、機関車のように進むことを決意したと言ってもいいだろう。
さらに範一は、元に線路がない、つまり、その場から動くことのできない蒸気機関車の絵を残していったのはとても象徴的であった。
元もその絵を手に、自分の子どものときにしたはずの決意を、範一の背中に見たのだろう。
ぐっとくるラストだった。
桟敷童子の良さは、若手の役者たちを、それぞれのスポットライトの当たる場所に押し出し、もりちえさんや原口健太郎さんなどのベテランたちが、彼ら若手を丁寧に支えているところではないだろうか。各々が持っているポテンシャルが高いのにもかかわらず、必要以上に前に出ないところがいいのだ。
だから、舞台が締まって見える。物語もくっきりと立ち上がってくる。
それにしても子どもの頃の元を演じた外山博美さんは、公演によって、子どもとおばちゃんを演じられる希有な存在だ。
範一を演じた大手忍さんは、ラストの表情が忘れられない。力が顔にみなぎって来る表情。
時子を演じた山本あさみさんの女社長然とした姑感はたまらない。その息子の嫁・呉紫(椎名りおさん)の抑圧され爆発しそうな雰囲気もいい。嘉穂の娘・妙子を演じた中井理恵さんの屈託のない明るさは沈んでいきそうな物語を明るくしていた。
毎回のことだが、客入れ時から役者全員が入口に立ち、座席への案内やトイレへの案内、荷物の預かり等々をこなす(終演後も)。
本番前の緊張のときであろうが、にこやかに観客に声を掛け、テキパキと仕事を行う。
これは制作だけを担当している人にもなかなかできないことであろう。逆に俳優だから、これから公演を見る観客に接しているという気持ちからできることなのかもしれない。
とにかく、観客としては、とてもうれしいのだ。
この日は、上演後、ステージツアーがあり、セットの裏側まで見ることができた。舞台セットはいつも丸太が組んであるので、そんな雰囲気なのかと思っていたら、とてもすっきりしていて(よく考えればあたり前なのだが)、情念が噴出している舞台側は、「演劇」なんだな、と普通のことを思ってしまった。
出演者がとても丁寧に説明してくれて満足。
満足度★★★★★
夜の野外にふさわしい美しい舞台
山の中にある夜の公園は、ときどきパラつく雨や、あるいは濃霧のように身体にまとわりつくような雨によって、しっとりとした色と香りをたたえていた。
その中にある野外劇場は、物の怪たちが主人公の、この舞台にふさわしい場所であった。
ネタバレBOX
太鼓の音に導かれて始まる舞台は、極彩色の衣装と相まって、プリミティブな力が強く出ていた。
それは、しっとりした森に響き、共鳴するような様だ。
暗闇の中の、物の怪たちの姿は美しい。
女性の肉体に男性の声、男性の肉体に女性の声を配し、異物感のぶつかり合いで、一種異様な世界と、男女の情念を描く。
演じる者(ムーバー)と台詞を言う者(スピーカー)が異なるという、人形を人に替えた文楽のようで、朗々とした台詞も物語にマッチしている。
さらに歌舞伎の要素も垣間見られる。
太鼓を中心にした音楽の中に、フォークソング調のテーマ曲の入り方(重ね方)も独特であり、男女の使い方を含め、違和感とその化学反応が素晴らしい。
役者の身体のキレがとても美しい。カタがビシビシと決まる。脇の役者を含め、隙がない。常に全体の美のバランスを保っている。
さらに、衣装の美しいこと! それが舞台に見事に映える。
身のこなしもいいからだろう。
和のテイストを響かせながら、それだけにとどまらない生演奏の音楽もいい。
すり鉢状になっている客席の通路を花道に見立てて、役者が登場し、退場するのも楽しい。劇場すべてが「舞台」になっていた。
雨天決行ということで、観客のほとんどは雨合羽で客席にいた。てっきり舞台の上には(例えば、日比谷野音のように)屋根があるのかと思っていたら、まったくなかった。舞台裏で演奏している場所にもなさそうだった。
屋根がないので、舞台裏の正面にある木々が美しい。
この舞台で雨天決行ということは、雨が本降りになったとき、あの衣装でずぶ濡れになって演じるつもりだったということなのだ。
上演時には、雨は止み、よかったと思ったのだが、自分もずぶ濡れになってもいいから本降りの雨の中で観たかったな、と勝手なことをちょっとだけ思ってみた。
満足度★★★★
ピーター・ブルックからの問い掛け
「演劇」あるいは「役者」を、いろいろなテキストからの問い掛けてくる。
とてもシンプルな舞台。
舞台に釘付けになる。
残念だったのは、私がドイツを解せず、字幕に頼らざるを得なかったこと。
ネタバレBOX
役者1人、演奏者1人、黒い舞台にはいくつかの装置があるだけで、ほとんど何もなくシンプル。
女性の役者が観客に、自分に問い掛けていく。
「演劇」あるいは「役者」について、過去のいろいろな戯曲等のテキストを使い、ピーター・ブルックは「WHY WHY」と、根源的な問い掛けを私たちに浴びせてきた。
誰に問い掛けているのか? それは観客と演劇関係者ではないか。ピーター・ブルック本人、今舞台の上で演じている役者自身へも同時に問い掛けているのだろう。これは常に行われていることと思って間違いないだろうと思う。
ただ、問い掛けながらも、ピーター・ブルックには、その「解」もすべてお見通しなのではないかと思ってしまう。「解」を知りながらの「問」とでもいうか。
つまり、教師が生徒に問い掛けているようなものであろうか。
「白熱教室」のサンデル教授に代表されるような教授法のイメージ。問い掛けと討論によって成り立つ方式だ。舞台では討論は自分の中、あるいは後に自分のカンパニーの中で行われる。
そして、「解」を知っているとしても、実践では、常にそれを意識しなくてはならないということでもある。
「演劇」とは、「役者」とは、「狭間」に存在するものである。
「光」(炎)と「闇」、すなわち、「生」と「死」、さらに「肉体」と「霊(スピリット)」、「私」と「他人」これらの狭間に役者は立ち、それらを行き来し、それらを観客に見せる。
役者は、観客席から現れ、舞台に登る。象徴的なオープニングシーンだ。「観客」と「舞台」の2つの世界を通って、「舞台」に現れるというもの。
2つの世界を繋ぐ「ドア」を使い、それをさらに具体的に見せる。
2つの世界の「狭間」を「行き来」するのが役者であり、させるのが「演劇」であるということなのだ。
ライトを使って、舞台は闇、現(うつつ)であり、ライトによって、現実のものと「する」(なる)。
また、「泣く」と「笑う」は同じもの(原理)であると説く。
さらに「私は誰か」「私はなぜ生きているか」という根源的な問い掛けをする。これはに「今の」を付けるともっと明確となる。すなわち「今の私は誰なのか」「今の私はなぜ生きているのか」である。「演じている」という語句を付けるとさらに明確になる。
つまり、すべてこれらは演劇のことではないか。「演じる」「演じさせる」ときにおいて、常に自問自答されるべき事柄ではないか。
このように、「演じる」とは、「演じさせる」とはということについて、2つの世界を行き来する(させる)こと、そしてそれへの心構えのようなものを問い掛けていくのだ。
もちろん、それらの問いを、意識的かつ誠実に受け止めて、「私」については、「演劇関係者」だけでなく、観客すべてを含んでもいいのだが、そのための材料を私は現時点では持っていない。
後半、リア王のドーバー海峡でのシーンが、特に象徴的に演じられる。目が見えないグロスターが息子に連れられてドーバー海峡の絶壁に立つというシーンだ。これは演技する者に対する、一種のちょっとしたアイロニーではなかったのか。
すなわち、「何もない空間」に「世界を立ち上がらせ」、「見えない」モノを言葉によって(観客に)「見せる」のが、演劇であるならば、演じている者にとっても、それは実のところ同じであり、「ないもの」を「あるもの」として演じる(信じる)ことは、まさに「目が見えない」者が言葉によって「ドーバー海峡」を感じる様ではないか。
これは、後に述べる「天地創造」のシークエンスにも関係してくる。
観客を自分たちの世界に連れていくだけでなく、演じている自分をもそのような「狭間」のエッジに連れていくことで、演劇は成立していることをまざまざと見せつけてくれたとも言えよう。
(このドーバー海峡のくだり、最近何かで耳にした(目にした)ような気がするのだが、何だったんだろう? だからそのくだりの台詞を聞いたときに、「!」と反応したのだか、忘れてしまった)
さらに、後半で語られる「天地創造」の7日間のエピソードは、「世界」を創り上げていく「演出家」「役者」、(主に「演出家」)への「WHY WHY」ではなかったのか。「あなたは世界を創造していますか?」との問いであり、「なぜ?」「どうして?」などなどの「根源的」な問いが、演劇を上演することへ降りかかってくるのだ。
そういう気概は、意識は、思い入れや、思い込み、はあるのか、ということと、「安息日」ができてしまったことによる「娯楽」の要素(いわゆる「たかが」と「されど」の関係)との関係について、考えよ、ということではなかったのか。
つまり、それは「クリエイター(創造者)」への「戒め」でもあろう。
本当に興味深い舞台であった。
スチール・ドラムを逆さまにして、貼り合わせたような楽器を生演奏していたが、とても感傷的な音色であり、舞台に色を添えていた。
ただし、ドイツ語で上演され、字幕(あまりテンポの良くない)でしか内容を理解できない者にとっては、ストレートに舞台が伝わってきていないという残念感は残ってしまうのではあるのだか。
話は変わるが、いろいろなテキストによって、1つのテーマや事象を浮かび上がらせる手法はよくある。最近では1人(太田省吾)のテキストだけてあったが、地点の『あたしちゃん、行き先を言って』、または『−−ところでアルトーさん、』もそうだった。shelfの『untitled』もまさにそう。
特にshelfのほうでは、『WHY WHY』で「リア王」が象徴的だったように、「小さいイヨルフ」からの引用が象徴的だった。shelfの、その舞台では、具体的な答えを見つけるための作品だったような印象を受けた。そこが『WHY WHY』と同じであり、異なる点でもある。
今回、shelfの方たちを偶然観客席でお見かけしたこともあり、この舞台をshelf版として上演してはくれないだろうか、と思った。
shelfならば、また別の「WHY WHY」という問い掛けがされるのだろう(どんな劇団が上演しても、それぞれの「WHY WHY」という問い掛けがされるのは確かではあるが)。例えば、川渕優子さんが演じると、静謐で端正な女優を見せてくれるのではないだろうか。shelfはどんな問い掛けをしてくるのか、とても観たいと思ったのだった。
満足度★★★★★
深みの中に笑いもあり、素晴らしい舞台
第三帝国を舞台にしたということがわかるタイトルの付け方のうまさから始まり、物語も役者もすべてかいいのだ。
ネタバレBOX
1941年暮れのゲッベルス邸での話。
ゲッベルスの映画好きを軸に物語は進む。
「来月の会議は事務次官レベルで」という台詞が、ヴァンゼー会議を指していることに気づくも、ゲッベルスは不器用な人、ヒムラーもゲーリングも普通の人というラインで進みつつ、ラストは静かにやってきて寒くなる。
事実と虚構に笑いをまぶしつつ、本当にうまいと思う。
脚本と演出、そして俳優が一体となった面白さが味わえた。
ヒムラーが園芸好きで殺虫剤に詳しいという設定などが憎い。実際に農学を学び、農薬などを製造する会社の研究員だったのだ。
芸術に関するゲーリングとゲッペルスの関係など細かい知識の上に、見事に虚構を立ち上げ、本当にそうだったのではないか、と思わせてしまう脚本のうまさが光る。
そんな感覚は日本人の持つイメージからくるものだろうから、ドイツ人俳優でドイツで公演を行ったら、どんな反応が来るのだろうと思った。
考えるだけでワクワク。
旗揚げ公演
コミカルな感じを持ち味にしているらしい。
しかし、残念ながら、笑いのポイントがほとんど外れてしまったようだ。
ネタバレBOX
何が悪いのだろうと考えながら観たのだが、やはり台詞などのタイミングに尽きる気がする。
また、出演者のほとんどが前へ前への意欲が強すぎるのではないだろうか。
もちろんそういう意欲は大切であるが、シーンによっては、引く、という演技も必要であり、そのために演出が機能しなくてはならない。
「これ面白いでしょ?」という気持ちだけが前面に出すぎていて、逆に冷めてしまうシーンが一番痛い。特に最初のシーンはそうだった。
役者のキャラとしていい感じの人もいたので、そのあたりが残念ではある。
もちろん戯曲自体の問題もあるだろう。
また、中途半端にいろいろエピソード入れるのはあまりよくないし。
東京から大学出て帰ってきた男が、ひょっとしたらキーマンになるのではないかと思っていたら、そうでもなく、彼の目から見た故郷の姿だったり、あるいは冷めた目で見ていた彼が故郷にすっかり馴染んでいる、というストーリーだすればまた雰囲気も変わったのではないかと思う。
旗揚げ公演だし、今回の出来&結果を劇団がどうとらえるかによって、これから面白い劇団が出てくるかどうかが決まってくるだろう。
それには、仲間内の笑いや仲間内からの「よかったよ」の声は、単純に鵜呑みにしないことではないだろうか。
満足度★★★★★
素晴らしい舞台をたっぷり3時間半楽しむ
時代劇。3時間30分(休憩含む)がずっと楽しい舞台。
市川亀治郎がいい。やや痩せたようだが、その胆力・芝居への向き合い方は感動的ですらある。
井上ひさしらしい「言葉」にこだわった作品。
「言葉」はすなわち「アイデンティティ」。
ネタバレBOX
ある雨の日、江戸の町にある橋のたもとに雨宿りする人々。その中に、金物拾いの徳がいた。そこに乞食の老人が1人現れ、徳を平畠の紅屋の主人、喜左衛門ではないかと言う。徳は違うと言うが老人はなかなか納得しない。それほど2人は似ているということなのだ。
徳は、紅屋に興味を持ち、桜前線とともに平畠のある東北へ向かう。北に行くごとに言葉が変わっていくことに気がつきながらの旅であったが、目的地の少し前で江戸に帰ろうとする。すると娘と喜左衛門の乳母だった老婆が現れ、徳を、やはり喜左衛門と間違える。徳は、自分から名乗ったわけではないし、平畠小町と言われる喜左衛門の妻の顔も拝みたいと、老婆たちに促されるまま紅屋へ向かう。
紅屋では、主人の喜左衛門が失踪しているため、妻、おたかは願掛けのお参りまでしていたが、なかなか見つからずに嘆いていた。そこへ喜左衛門が見つかったとの知らせが来る。妻のおたかは喜び、喜左衛門になりすました徳を受け入れる。
徳は、姿形は似ているが、喜左衛門のことは何も知らない。そこで一計を案じ、天狗にさらわれ、頭の中も持って行かれてしまったので、何もわからないフリをすることにした。
喜左衛門は、平畠藩の財政の多くを担っている紅花問屋の主で、紅花の栽培・品種改良にも長け、問屋仲間の代表でもあり、農民や藩からの信頼も厚い。
徳は、このまま紅屋に居座ることを決意し、自分が偽物とは悟られないように、平畠の言葉も必死で覚え、喜左衛門のこともいろいろ知ろうとする。そこへ徳のことを知る男(?)が江戸から現れるのだった。
果たして徳は喜左衛門になりきれるのか。
そんなストーリー。
「言葉」がキーワードであり、言葉は、文化や意識、考え方(思考)であることを強く考えさせられる。
徳は、平畠の言葉を覚えることで、喜左衛門という別人になりきろうとする。そのためには、言葉に付随するあらゆる事象も吸収していくということになる。
そして、別人になりきることで、実は自分を失うということに、ラストに気がつく。
つまり、「言葉」は、すなわち「アイデンティティ」(の源)なのだ。
言葉、この場合平畠の言葉(方言)であるが、例えば、地方から上京するときには、方言を直すことが多いと思う。また、普段は方言で話していても、学校の授業(特に国語)では、「標準語」を使うことを強制される。
つまり、ここで井上ひさしさんが言いたかったのは、「言葉を変えてしまえば、文化、あるいはその個人がその地域にいたというアイデンティティをも失ってしまう」ということではないだろうか。
「言葉」にはそれほど重い意味合い、役割があるのだ、ということを改めて知ってほしいということではないか。
言葉を変えた徳は、その結果、自分を失い、命も失ってしまう。
舞台の中心には、大きな釘が立っていた。「釘」は徳にとって重要なアイテムであり、彼のアイデンティティの源でもあった。つまり、彼は赤ん坊のときに拾われ、物心ついたときから金物拾いをやっていた。彼にとって、釘があれば必ず拾うことが、彼であることの証明であった。
その徳が、釘を拾わなくなったときには、すでに徳ではなくなっていて、そのことが彼を死に至らしめる。つまり、「釘によって死ぬ」のだ。さらに、実際に彼の胸には釘が突き立てられ、まさに「釘によって死ぬ」にことなったのだ。
釘を中心に回る、つまり、ぐるっと回って、釘で始まり釘で終わる彼の一生を物語っているようなセットであった。
ラストの白装束に着替えさせられるシーンはなかなか怖いし、紅花が咲いていて、明るい紅花にシルエットで農民たちが立ち尽くす姿は、徳以外の全員が本当のことを知っており、徳が死ぬことを本気で願っているという、とても美しく怖い風景であった。
とにかく市川亀治郎さんがいい。歯切れのいい江戸言葉も、平畠弁も、さらに徳と喜左衛門を同時に演じる姿、立ち居振る舞いもパワーを感じる。また、あえて歌舞伎の足捌きを見せるあたりの演出も憎い。
亀治郎さんが主人公であるから、この舞台はとても華があり、楽しいものになったような気さえする(…以前に比べてやや痩せていたような気がするが)。
同じ井上作品の『たいこどんどん』のときにも感じたことだが(中村橋之助さんが素晴らしかった)、歌舞伎役者の体力・胆力、芝居への意気込み(向き合い方の素晴らしさ)を強く感じずにはいられなかった。
歌が要所要所で歌われ、物語にプラスしてくる大切な役割を与えられていた。力強い歌声は楽しい。
3時間30分(休憩含む)という長い上演時間なのに、楽しい時間が続いた。
ロビーには、物語で触れられる「紅花」の本物が植えられていて、山形名物のシベールのラスクの小袋を終演後、観客全員に配るというサービスもあった。