満足度★★★★★
傑作戯曲で「今」の観客を魅了する
上演時間2時間40分休憩なし、と聞いて思わず「ゲゲゲのげ」となったが、終わってしまえばあっという間。
とにかく物語が面白い。傑作戯曲!
台詞が楽しい。味わいも深い。
歌がいい。音楽は生演奏だ。
ネタバレBOX
老婆が病院のベッドに横たわる。それを囲む家族らしい女性たち。会話が変な方向へずれ始める。
小学校の教室。
同級生だけでなく担任からも疎まれ、イジメられているマキオという男子がいる。
今日も給食係で失敗をして、廊下に出され、食べ終わるまでそこにいろ、と先生に言われて、廊下で1人給食を食べる。
翌朝、マキオが教室にいない。まだ廊下で給食を食べていることに気づき、またイジメられる。
その時、チャンチャンコを着た、鬼太郎が歌いながら現れ、マキオをいじめている同級生たちを蹴散らす。鬼太郎はマキオに呼ばれて助けにきたのだ。
そしてマキオをいじめていた同級生たちは、ついに本性を現すのだった。
こんなストーリーが展開されていく。
物語の展開には目を離せない。一体どうなるのか、と思いつつ、舞台に釘付け。
休憩なしの2時間40分なのに長さを感じないのだ(ストーリーを知っていても)。
それは、「どう見せるか」がきちんと計算され、演出しているからであり、観客としてその術中にぴたっとはまっているからだ。
人と人のつながり、関係が進行とともに徐々に見えてくるうまさがある。
それを見せる「台詞」がいい。濃厚であり、饒舌であり、芳醇なのだ。その台詞や演技には「行間」がある。むしろ饒舌にしているのは「行間」を作るためと言ってもいいかもしれない。行間があるから物語が観客の中で膨らむのだ。そして、どこか猥雑さもきちんと残してある。この塩梅が巧み。
小学校の教室が舞台に「わっ」と現れる。ビワの実を想起するようなオレンジ色の衣装を纏った小学生たちで溢れる。このけたたましさがたまらない。
ただ勝手に動いているのではなく、きちんとコントロールされているから、雑然とはしないところがうまい。
そして、鬼太郎の登場!
鬼太郎に扮した中川晃教さんの登場には、会場から思わず拍手が出るほどカッコいいのだ(もちろん拍手の主は熱烈的ファンだろうが)。以前観たときもこの登場シーンには心が躍った。
『ロッキーホラーショー』のフランクフルター登場シーンをどこか彷彿とさせる(笑)。
そして、中川さん、さすがに歌がうまい。さらに、舞台上で映えるというか、オーラがあるというか、とにかくいいのだ。
鬼太郎と小学生の大立ち回りが楽しい。
また、木などとして登場する役者たちのフォーメーションがとても気持ちいい。びしっときまっているからだ。
かつて観て、いまだにサビを覚えている劇中歌が聞けて感激した。
確かに、歌は増えたが、「音楽劇」というほどではなかったが。
一部台詞を変えたところがあったようだが、どうやら大きくストーリーは変えてないようだ。
面白いモノは、そう簡単に古びてこないものだ。
あるいは「今」に蘇らせた手腕のなせる技なのか。
舞台も客席もすべてを見事に使い切り、会場が熱気にずっと包まれているような一体感まであった。
役者は、メインの中川さん、広岡由里子さん、馬渕英俚可さんが印象に残る大熱演だった。そのほかの若手の役者さんたちも、全身で演技をしていて好感度は高い。村松武さんもうまいなぁと改めて思うし、渡辺えりさんもさすがに面白い。
見終わった直後に「もう1回、いや2回、3回観たい!」と心から思った。「行間」があるので、観た回数だけ楽しめると思うのだ。
合う日程がないのが残念すぎる。
帰宅してから、大昔に買っていた戯曲を引っ張り出して読んだりした。
満足度★★★★
「現実」というものは、「今あるこの状況を受け入れ、生きていく」ことを「選択する」ことの積み重ねで成り立っている
キリンバズウカは、いつも人に対する視線が優しい。
それは、「人というものを信じている」からだろう。
いや、「信じたい」という気持ちからかもしれない。
ネタバレBOX
前作、前々作ほどではないものの、奇妙な感覚は少しある。その中で、今回は、「受け入れ」「赦す」ことがクローズアップされる。
「諦め」のようなネガティヴさはない。
前向きな「受け入れ」なのだ。
そこが「甘い」と言う向きもあろう。
「現実は厳しい」という意見も出て当然だろう。
しかし、キリンバズウカの世界観の根底にあるのは、「人というものを信じる」ことであるから、「現実」というものは、「今あるこの状況を受け入れ、生きていく」ことを、「選択する」ことの積み重ねで成り立っている、というものである。
実際、「現実は厳しい」「辛い」と言ってみたところで、どうにもならない。生きていくためには、「選択」をしなくてはならない。
その「選択」は、誰もイヤな思いはしたくないという、同じベクトルの上に成り立っているのならば、当然のこと、「いい方向」に向くという結論に帰結してしまう。そのラインで「人というものを信じる」ということ。
それが「キリンバズウカの世界」ではないだろうか。
登場人物たちに表裏があまりにもなさすぎると感じても、「そういう世界だから」と言う割り切り方もあるのだが、一方で「そういう選択をしたのだから」というとらえ方もできる。
すなわち、(現実に)「われわれに見えているのは、常に人の一面だけなのだ」ということだ。
舞台の上で何もすべてをバラさなくてはならないルールなどないのだし。
…という見方は偏っていると思うのならば、やっぱり、ここは「今様人情話」でもいいと思う。
誤りを犯しても、人間的、人間臭い誤りであるから、人は「自分のためにも」「赦す」ことになる、それでいいと思う。
つまりのところ、「受け入れて」、「大人になる」ということなのかもしれない。兄が家を出て母親の真相を知って、「お母さん」から「お袋」に呼び方が変わったように。
…これはちょっと安直かもしれないが。
もっとも、説明にあるように「オヤジ」にフォーカスを絞っているのならば、もうちょっとそこに絞り込むべきだったと思う。
いずれにせよ、観ている間も後味も悪くない。こういう舞台も悪くないと思った。
お父さん役の深見大輔さんはとてもよかった。そして、タベ役の渡邊とかげさんにはシビれた。
あと、お母さんが最後の最後に出てくるのには、さすがにちょっと驚いた。
受付で「キノコ水」売ってた(冷えていて200円也)。あのラベルてっきり小道具用かと思ったら、本当にあるものだった。もちろん中身は「キノコ水」ではない。念のため。
満足度★★★★
話への興味で引っ張りつつ、にやにや笑いを浮かべ、観客の手からするりと逃げていく。そして、毒は微笑みでオブラートするに限る
拡散度合い、つかみどころのなさの気味悪さ。
しかも、にやついているように見える。
この気味悪さがこの舞台のすべてである。
のかも。
ネタバレBOX
しれっと始まり、どこに向かうかわからない様子で物語はスタートする。
この拡散具合、つかみどころの曖昧さが、「見えないもの」を表している。
物語の「筋」への興味で引っ張るものの、それは、にやにや笑い(微笑み)を浮かべ、観客の手からするりと逃げていく。
つかんだ要素を並べてみれば確かに「ストーリー」にはなるのだが、それでいいのかと反問してしまう。
そんな舞台。
根底に流れるモノ、人を見つめる視線の位置は変わらないが、明らかに見せ方が変わった。
今までであれば、ありそうな日常をバックにして、その上であがき、もがく人々を描いていた。
しかし、今回は、「日常」という安定を捨て、やや戯画化された上で物語が進行するのだ。
どこからとこまでが「現実」なのかの線引きが難しい世界がそこに広がる。
お笑いトリオ「シビレガス」のネタなのか、あるいは、そのネタが現実を浸食しているのか、それともすべてが「現実」なのか、判然としないし、させない。
ジョーカーが自宅の引っ越し荷物から出てきて浴びたガスだって、現実と妄想の間にあるラインの、どちら側にあるのかさえわからなくなってくるのだ。
ガスのごとく拡散していく物語に観客は、まるで煙に巻かれていくよう。毒ガスだけに…(失礼・笑)。
日常を捨てた物語の吸引力は強い。
「笑い」だってたくさんある。
誰に向かって笑っているのか、不気味な心持ちになるのだが。
ブルドッキングヘッドロックの舞台の中にいる人々は、いつも「不安」が背中にべったりとある。
その根本にあるものの1つは、「自分への苛立ち」ではないだろうか。
そして、唯一、不安からひとつ抜けたところへ行ったように見えた、ナミ介が今回それを特に体現していたと言っていいのではないだろうか。
彼の「怒り」の矛先が見えない。お笑いトリオの仲間だったり、そのバックに付いた者たちだったり、愛人だったり、彼に憧れている女学生だったりと、そういう者には牙を向けるが、それは理不尽なものであり、本当は彼は自分に向かって、理不尽な怒りを爆発させていたと言ってもいいのではないだろうか。
主人公はジョーカー一家のように見えて、その実、物語の中心にはナミ介がいたということなのだ。
彼が考えたネタの中にいるような、「相手からの戦争を待つ」軍人というブラックジョークな状況は、準備万端なのに、そのきっかけは「相手」であるということであり、「相手が仕掛けてこないから、自分は出来ないんだよ」という言い訳でもある。
つまり、この状況は、この舞台におけるすべての行為に重なってくる。
そんな「待ち」の姿勢で自らの行動力のなさを正当化し、責任回避をしようと思っている。
だから、苛立ちはさらにつのり、不安定な状況になっていく。
相手に過剰にコミットしたり、精神にさえ支障を来していく。
こうした状況を、スポットライトで独白、のような古いスタイルの手法を交え、「笑い」を起こしつつ描いていく。
2役の面白さもある。
劇中劇の『3人姉妹』も面白かった。
戯画化されたキャラクターたちは、それが物語が進行するにつれてさらに凝縮していく。
役者はすべての人が「うまい」と思った。
中でも苛立ちを強く全身に溢れさせていたナミ介を演じた喜安浩平さんと、肩の抜けた演劇部顧問の永井幸子さんが印象に残った。軍人11の妻を演じた石原美幸さんの強さもなかなかだった。
ラストに流れる曲『また会いましょう』は、少々饒舌すぎるのではないかと思った(映画『博士の異常な愛情 』でやはりラストに使われていた曲ではないかと思われる)。少々お手軽で使いやすい曲だし。
満足度★★★★★
お寺の本堂で行われた白塗り大アングラ劇
目黒にある円融寺の本堂で行われた。
入口には白塗りの役者が立ち、寺山修司作のアングラ劇が行われるのを否が応でも期待させる。
本堂に入ると正面のご本尊である阿弥陀様を観客は背を向けて座ることになる。
舞台の正面には時計が付いた棺桶が立てかけてあり、その前では、白塗りの少女が手まりをついている(鞠はない)。
舞台にはお寺には合う白黒の鯨幕が張り巡らされている。
始まる前からワクワクさせる。
ネタバレBOX
まずは観客が背にするご本尊の阿弥陀様に、観客全員が振り返り手を合わせてから舞台は始まる。
そんな、前説が、手のメモを読むふりをしたり、変なつっかえ方してるなと思っていたら、実はここからが始まりだった。
そして、白塗りの登場人物全員が歌い、物語がスタート。
もうここだけで楽しくなってしまう。
アフターサービスだけではなく、ビフォアーサービスまで行っている葬儀屋が舞台の物語。
ビフォアーサービス、つまり、死へのお手伝いもするということなのだ。その人にふさわしい死に方を演出してくれるというもの。
葬儀屋は、死人を働かせていた。
葬儀屋には歌留多という娘がいる。しかし、まだ生きている。
その娘は大泥棒の墓場鬼太郎と恋に落ちてしまう。
葬儀屋の父親は、鬼太郎に娘を嫁がせたくない。
そこで、列車に轢かれて死んだ青年を娘のボーイフレンドにしようとする。
しかし…。
そんな物語が、ほぼ全編、歌によって進められる。
この歌が楽しい。
そして、衣装が凝っていてカラフルだったりする。
エネルギーが溢れ、とにかく楽しい舞台だった。
お寺の本堂という場所なので、大きな柱などがあって見切れてしまうシーンも多かったのだが、それでも満足したのだ。
もう1回観たいと思ったほど。
しかし、残念ながら東京ではこの1日のみの公演だった。
流山児★事務所は、最近、神社・寺・ライブハウスで公演を行っているらしい。ここの前は、山梨の善光寺で行ったということだ。
全国各地でこの公演を観ることができるのかもしれない。
円融寺は自宅に近いのだが、本堂に入るのは初めてだった。
初めて入ったのが演劇の公演だったというのもなかなかの経験だ。
ちなみに、観客には、年を召した方が多かったが、ご近所の方たちがいらしていたんだろう。
お寺でのこういう体験はとっても楽しい。
満足度★★★★★
世界最強のぐたぐだ芝居冒険団ここにあり!
ま、なんていうか、ヒドイんですよね、いやホントに。
奥様も一度ご覧になってみればわかりますから。
いや、マジで。
ネタバレBOX
東西の裏の組織が麻雀で対決する。
そのために、資金と対戦するギャンブラーを集める。
という話なのだが、そこに「あンた、背中が煤けてるぜ…」の「哭きの竜」と「覚悟しーや」の「極妻」が乗っかって、長渕がいて犬を連れた西郷どんが出てきて、めちゃくちゃでデタラメな方言(〜ごわす、とか、〜どすなぁ、とか)が飛び交いながら、ゾワ…ゾワ…ゾワするような話、…である。
基本、マンガのキャラとか映画とかお馴染みのそうしたものをドンドン投げ込んでストーリーを作るのがここ流みたい。
それを、本気にぐだぐだ演じて(よく噛むし)、ドタドタとしたダンスまで場面展開に押し込んで見せるのだ。
それは普通にヒドイいと思う。
特に「お芝居が大好きざまぁす」的なおばさんたちとかは、頭から湯気を立てて激怒すると思う。というか確実にそうなるだろう。
そうなるだろうと思うのだが、へらへら笑って観てしまう私がいる。
しょーがないなぁ、ダメじゃないか、と思いながらへらへら。
不思議なことだけど、怒ったりしないし、イヤにならないんだよなぁ、これが。
たぶん次も観るだろうし。
ここに付けた星の数は、あまり意味を成していない。次回公演のときに、星の数だけ見てうっかり予約しちゃう人がいたら面白いかも、なんて。
どちらかと言うと、「こりゃヒドイなあ」と思った数だけ星を付けたと言ってもいい。
ここの場合、「こりゃヒドイなあ」は、誉め言葉なのだ。
…なのか?
でも誰に向けて公演しているのかな、ということは少し気になる。
コレ観に来たここの出演者と知り合いの演劇関係者の人は、終演後の出演者との面会の際に何って言うんだろう。「よかったよー」って言うのだろうか、それとも舞台の話はできるだけ避け、挨拶だけして「ごめん、ちよっと用があるから」と足早に去るのだろうか。どーすんだろ。
個人的には、突っ込みが素晴らしい異儀田夏葉さんと三瓶大介さんに心ゆくまで突っ込んでほしかったと思う。いいツッコミができるシーンがほとんどなかったので残念無念。
あと、「ヨシロォの夏は夢叶え冒険団」の公式HPはなんとかならないものか。劇場までの地図のリンクは切れているし、チケットの予約方法すらわからないのだ。
まあ、結局は行けたし、観られたからいいけど。
満足度★★★★
柿とキャラメルのいいとこ取り
なのだが、「いいとこ」と「いいとこ」を合わせても、決して100にはならない。
結局、どっちかにしたほうが100になるし、あるいは0になって潔い気がしたのだ。
にしても、中屋敷バンザイである。
楽しいのだ。
キャラメルボックス、よくぞ柿喰う客をコラボの相手に選んだ。
ネタバレBOX
ここでこんなことを言うのはナンだけど、正直言ってキャラメルボックスはそんなに好きではない。手堅いとは思うが、手堅ければいいってもんじゃない。
しかし、これは楽しめた。中屋敷バンザイと言ってしまおう。
冒頭の柿っぽいオープニングに喝采した。
思わず笑みがこぼれてしまった。
ここの演出や、キャラメルボックスの俳優たちが、活き活きと、まるで柿喰う客のメンバーのように台詞を言い、ポーズを決める様を観ると、やっぱり中屋敷さんは凄いと思った(もちろん舞台の形や立ちポーズは「いつもの」「お約束」のようでもあるのだが)。
とにかくキャラメルボックス・テイスト満載のこの脚本を、自分のほうへ持って行ったのだから。
この調子で全編いくのかと思いきや、中盤からのセンチメンタルな展開はまさにキャラメルボックス。
ここも柿っぽく表現できなかったのかなと思ってしまう。
できれば(個人的には)全編柿風味で通してほしかった。
たとえそれによって、ラストや物語そのものが変わってしまっても、だ。
そこが少々燻ってしまう。
このセンチメンタルな展開を、柿テイストにしたらどう表現できたのだろうか、と今でも思っている。
この展開はやはりそれしかなかったのだろうか。
いやそんなことはないと思う。何かでブレーキが掛かってしまったのではないか。
せっかくなのだから、思い切ってすべてを壊すぐらいの勢いでやってほしかったなあ、というのがやはり本音である。
それにしても、やっぱりキャラメルボックスの役者はうまいと思う。発声もしっかりしているし、こんな不自然なポーズでもきちんと決めてくれる。
さすがだなあと思った。
こういう「アナザーフェイス」という企画は久しぶりとのことだが、キャラメルボックスのためにも、こうした企画は続けてほしいと思う。
そして、ほかの劇団と柿喰う客のコラボも観たいと思ったのだった。
オリジナルバージョンとの見比べもしたかった。
満足度★★★
全共闘世代へのレクイエムは合わせ鏡−−ケージ、形似、そして啓示
なかなか面白い着想と展開。
これからが楽しみな劇団だ
ネタバレBOX
単なるSF仕立てで全共闘についてを考察するのではなく、そこに「形似」している自らを投影させた面白さがある。
過去と未来が、3対3と対になる設定で、もちろん単純にイコールとして結び付けるのではなく、現代の心情が合わせ鏡のように提示されていた。
「自分が言ってほしいこと(投げかけてほしい言葉)」あるいは「自分に対して潜在的に思っていること(他人からこう思われているんじゃないかということ)」を過去の相手に投げかける。
全共闘世代へ投げかけるコトバは、すなわち鏡に映った自分へのコトバでもあるのだ。
全共闘世代へのシンパシーがあるのだろう。そしてその根底には、「敵」が明確であった時代、「共闘」の「共」が存在する時代へのジェラシーや憧れがない交ぜになった感情もあるのではないだろうか。
そのスクリーンに「今」の自分たちの姿を投影してみせる。
今の自分たちは、後の歴史に存在するという意識があるので、まるで何もかも知っているような錯覚に陥り、過去に存在する全共闘世代の彼らに、まるで意見するような言葉を投げかける。
しかし、それは、自らの「今」へ投げかけている言葉であり、それに気がついていくのだ。
たぶんそういう構図があっての作品ではないかと思うのだが、「過去」は「未来」、つまり「現在」につながっていくことを運命づけられているのだが、「現在」からの「未来」につなげていくことの覚悟までには達していないように感じた。
つまり、あくまでも「現在」は「過去」が創り上げてきたものである、という立場にしかないように見えたのだ。
これだと、過去への郷愁と憧れのラインをあまり出ていかないのではないだろうか。
それは、この作品を創り上げるために、いろいろなことを調べて、さらにあの時代(全共闘の時代)への共感を強めてしまったことによるのではないだろうかと感じた。
それを避けるためには、今回の再演にあたって、頭に留めたモノをいったん捨てるぐらいの姿勢で臨むぐらいが丁度よかったのではないだろうか。答えは出ていない、という気持ちで。
過去のトレースに気を遣いたいのはよくわかるのだが、一度捨てることによって、「自分に降りかかる」ということをもっと意識した作品にすべきだったのではないだろうかと思う。
「ケージ」を具体化したセットはなかなかだった。
若者は、いつの時代もケージの中にいて、その中でもがいているのだということの象徴であり、そこから抜け出るのには、せいぜい「死」しかないのだという考えとして見たのは、深読みのしすぎか。
「ケージ=形似」というところの着眼点はとても面白いと思った。さらにそこへ「啓示」までプラスしてくるのだが、これは少々余計すぎた感がある。そこまでの膨らみはなかった。
残念だったのは、全体的に説明がすぎる点だ。役者は考えを言葉のみで伝えるスピーカーという位置づけに留まり、会話は、次の言葉(説明)を促すためのきっかり(&合いの手)にすぎないように見えてしまった。
しかも、その役者たちも、存在が不安定であり、舞台の上に壁を作ってしまった。役者は「台詞を言う人」ではなぐ「そこに生きる人」であり、舞台、芝居の可能性と「力」を、作・演はもっと信じてもいいのではないかと思った。
もちろん役者の技量アップが前提ではあるのだが。
これは個人的な感覚なのだが、物語の中核をそのまま理解すると、全共闘世代の人たちがあまりにも物わかりが良すぎる。
闘争を一歩進めた彼らのような、ゴリゴリの人たちは、コンクリートで塗り固めたような自意識の中にいて、そう簡単に共感してこない。そして、自らの理論、主張を押し付けてくる存在ではなかっただろうか。
その固さがあった上での、そこへのヒビのようなものを、現代の同世代の若者が開けた、という感じがあれば言うことはなかったと思った。
全共闘世代ではないのだが、私が学生だった頃に、その生き残りで運動を継続していた人たちを見ると、狂信的と言っていいほどの怖さがあって、絶対に相手の言葉には耳を傾けず、「言葉(理論)では絶対に負けない(譲らない)」という姿を見たからだ。
本来の意味合いが変わってしまうのたが、このストーリーのまま、全共闘世代の台詞をリアル全共闘世代の作家が書いて、現代と対決させたら面白いんじゃないかと勝手に想像した。
現代の学生が、な〜んにも考えてない学生だけだったとしても、ギャップのあるぶつかり合いが演出できたのではないか、なんてことも。
それにしても、「ミームの心臓」これからが楽しみな団体である。
満足度★★★★
小品で気の利いた、真っ直ぐな舞台
RAFTというサイズにマッチした内容。
手のひらに入るサイズだけど温もりが感じられる、そんな舞台。
ネタバレBOX
3つの話から成り立っているのだが、この構成がなかなかうまい。
最後の1話と他の2話の関係が、変なオトシ話になっていないところも好感が持てる。
第1話「LOVE LETTER chu YOU」はタイトルにもあるような視点がとてもいい。ただし、センチメンタルに引っ張りすぎるところはどうかなとは思う。もっとあっさりでも伝わったと思うのだ。それと、つかみを元気よく、からそうなったのだと思うのだが、特に主人公が常に半身に構えて台詞を力強く言うのも、ちょっとどうかなと思った。
第2話「アマラ」は、童話のオオカミが主人公に、という特に目新しい内容ではないのだが、オオカミを演じた小幡健太郎さんの熱演が最後まで観客を牽引していた。単に童話のオオカミが主人公だった、というだけではなく、その人となり(狼となり?)をも垣間見られた感じがある。台詞だけではないところまで演じたと言うと言い過ぎか。
第3話「カフェ ラング・ド・トャ」は、なかなか粋な感じにまとめたと思う。ベタつかず、さらりとした手触りで、さらに全体の構成までも説明過剰にならず見せてくれる。この感覚は悪くない。いかにもオチっぽい感じも嫌みがない。この嫌みのなさはここの持ち味なのだろう。ただ「なるほど」と思わせるだけではもったいない気もするのだが。
小品で、カフェとか、今回のようにギャラリーのような会場にふさわしい内容だったと思う。真っ直ぐで陰りや嫌みがまったくない。良くも悪くも「お行儀良さのある舞台」と言ってもいいだろう。
そういう意味でも、子ども向けの内容というわけではないのだが、小学生の演劇教室みたいなのにもマッチしそうだ。
逆に子ども向けの内容ではないだけに、小学生高学年ぐらいならば、観劇後も心に残って、ちょっと考えたりするのではないのかな、と思うのだ。
ただし、品が良くて行儀がいいだけではなく、毒までとは言わないが、少なくとも小学生ではないスレた大人の観客の感情を、もう少しでも揺さぶるようなヒトコマが欲しかったと思うのだ。
強い「パンチ」のような情熱のようなものでもいい。そういう「フック」のようにもなるものがいくつかあれば、観劇後も必ず心に留めることができたと思う。
今回の舞台は、コの字型の観客席となっていた。しかし、正面が公演の正面であり、左右の席だと(特に1話・2話)、役者の後ろ姿や横顔などしか見えず、台詞も少し聞き取りにくかったのではないかと思った。せいぜいハの字ぐらいだったらまだ良かったのではないだろうか。
今回は「番外公演」ということで「本公演」とは違うようだが、このセンスを本公演(長編)ではどのように見せてくれるのか、もっとパンチがあるのだろうか、とか、ちょっと気になった。
満足度★★★★
「生」と「性」に一筋「聖」の光が射し込む
青☆組の劇団化最初の舞台。
それは、大きな舞台への第一歩を確実に示した。
ネタバレBOX
青☆組の舞台は品(ひん)がある。
どんな設定の世界でもその中には必ず品がある。
今回の舞台では、品に加え、また新たな魅力を見せてくれた。
それは、舞台のサイズから来ているものかもしれない。
今までは、どちらかと言うと小さめのサイズの舞台で上演され、あらゆる要素が刺繍糸のように組み合わされ、手のひらに乗るような凝縮された世界を見せてくれていた。
今回は、星のホールという広い会場での公演であり、今までになく大きなセット、しかも段差が大きく取られたセットが組まれている。
このサイズをどう使いこなすのか、で大きな舞台に進出した演出家の技量が問われると言っていいと思う。もちろん、何度か経験を積みつつ、それぞれのサイズに最適な演出方法をつかみ取っていくものであり、一気にできるものではないと思うが。
青☆組の今回の舞台は、このサイズにより、「間」が生まれたと思う。それは「時」と「空間」という「間」だ。
今までの青☆組の舞台でも、台詞の「間」はとても意味があり、効果的であったが、今回の「間」はまた別の意味を帯びていたように感じた。
それは「時代」だったり「家(家族)から外の世界」への広がりだったりを感じさせるものとなっていた。
つまり、今までの青☆組の舞台では、あくまでも「家(家族)」だけに収斂していく物語であったのだが、今回は1つの家(家族)を核としつつ、さらにそれの周囲へと物語が染み出していく感覚があったのだ。
さらに1つの家族を軸にしながら、もうひとつ大きな軸がラストで見えてくるという、スケール感があったのだ。それは、「生」、それも「つながり、続く生」という軸である。
「つながり、続く生」とは、もちろん「性」と一体のものであり、切り離してはとらえられない。昭和47年の設定がここで活きてくると考えてもいいと思う。
つまり、「つながり、続く生」が唯一の「正解」、あるいは「正義」として、さらに「現代」に近い時代で成り立っていたギリギリのラインがそれぐらいの昭和だったのではないかと言うことなのだ。
現代の多様化はそれが唯一の正解でもなく、むろん正義でもなくなっているので、現代を舞台にして、それを軸にとらえることは少々困難だっただろうと思う。そのテーマのための、時代設定ではなかったのだろうか。
それは実のところ、作者の意図せざるところかもしれないのだが、「つながり、続く生ではないモノ」の排除を強く感じさせてしまう。
例えば、おかまバーのマスターや次女の恋人の存在が、舞台から排除されていく様は、昭和47年ならば致し方ないと思いつつも、そのオトシマエのような覚悟、あるいはメッセージみたいなものが欲しいと思うのだ。もちろん、作者の意図があくまでも「続く生」=「正しい」と言うのであればそれでもいいのだが。
次女は恋人の告白に涙し、父親と寄席に行き癒される、おかまバーのマスターは帰ってこないで、自分の代わりの小さなミカン(=クレモンティーヌ=マスターの名前)を送ってくる、という程度のオチでは、個人的には今ひとつ納得できないのだ。
そうした重いモノを選んだからには、だ。
パール食堂のある場所というのは、親不孝通りとか有隣堂とかメリーさん(マリーさん)とかギリシャ水夫とかという言葉が出てくることで、「ああ、あのあたりかな」となんとなく見当がつく。
日の出駅に近いほうだったりすると(さすがに昭和47年頃は知らないが、それでも昭和の頃ならば)、あまり足を踏み入れたりしたくない場所だっただろうと思われる。もちろん余所者であるからその感覚は当然かもしれない。土地勘がないので、歌舞伎町とはまた違ういかがわしさに溢れていたような気がする。
で、そのあたりを描いているはずのこの舞台には、そうしたパーツはいくつかあるものの、「俗」や「猥雑」さはあまり感じられない。包丁を振り回しても、立ちん坊がいても、ストリップだってきれいに踊っているし。
その土地に生きる人たちにとっては、それが「普通」であり、「俗」でも「猥雑」でもないということなのかもしれないし、あくまでも青☆組のカラーなのかもしれないが、もう少しそんな臭いが欲しかったのだ。
臭いということで言えば、「生」と結びつく「食」は大切なポイントとなるのだが、食堂で出される食べ物類の「匂い」だとか、そんなものを感じさせて欲しかった。胃袋を刺激するぐらいの「食べ物感」が欲しかったと思うのだ。せっかく食堂を舞台にしたのだから。
「性」と「生」が「聖」と結びついていくラストは、ちょっと鳥肌だった。子どもと猫とが「つながり、続く生」を象徴的に表すということで、その役を同じ役者(ナナシ=大西玲子)が演じるということは、なるほどと思った(猫が何度も生き死にするという感じは、『雨と猫と…』にカブリすぎな感はあるのだが)。
しかも、「名前がない」ということが丘の上のたくさんの十字架と重なり、さらに哀しさが増した。
今回は衣装がとてもよかった。手を抜かず、きちんと変えて出てくることに好感度は高い。特に次女の衣装が素敵だった。
セットのことで言えば、いろいろな「俗」なものをギリギリにそぎ落とし、それでもリアルな空気を残しているものであって、今までの青☆組にはなかったもので、劇場のサイズと青☆組の最大公約数をうまくくみ取っていたと思う。
ただし、個人的な感覚だけど、食堂のセットはもう少しだけ大きくしたほうがよかったのではないだろうか。少し気持ちが拡散するような感覚があったので。
役者は、長女役の福寿奈央さんの健気さが、また次女役の高橋智子さんの先生ぶり、その恋人役の新井志郎さんの哀しみが印象に残る。ユリ役の小瀧万梨子さんのダンサーぶり(ダンス)もなかなかだった。
「パール食堂」は、実在の店名らしいが、店主の想いが込められていたりするとなお良かったかな。
満足度★★★★★
「青髭」&「ジャンヌダルク」の村松的解釈が楽しいムラマツラーのための舞台
とにかく物語とその展開が面白い。そして、物語に意識的に作られた、ちょっとした「字余り」の部分がさらに面白さを増量する。
台詞の過剰さも気持ちいい。
ネタバレBOX
「橋が段ボールで出来てる」とか、もう、なんだかなーという展開(いや面白いのだよ、これも)とかあるのにもかかわらず、正直、鋼鉄村松の舞台で、こんなにグッとくるとは思わなかった。
その「なんだかなー」という設定や展開、ストーリー上は特に必要とは思えない青髭が突然叫ぶシーンとか、簡単に言えば、そこが「ツボ」だ。
たぶん、このあたりが単に鬱陶しい観客にとっては、「何じゃこれ???」と「?」が3つぐらい付くだけの作品になってしまうのかもしれない。
逆にそれこそがツボである鋼鉄村松ファン、いわゆる「ムラマツラー」にとっては、欠かすことのできない要素なのである。
とは言え、それだけて押し切られても、しょうがない。物語自体も大切であることは言うまでもない。
青髭公の物語、ジャンヌダルクの物語等々をウマい具合につなげ、その辻褄の合わせ方とかが面白すぎるのだ。
青髭公の物語が中心にありつつ、ジャンヌダルクのストーリーであり、話の中心がさらにするりと変わっていく展開が巧み。そして、人間不信=信頼、自己犠牲、因縁等々が絡み合い、物語を深めていく。それが本気でないとしても、だ。
物語の落とし方もうまい。
青髭公を演じたムラマツベスさんは、安定した魅力で物語を牽引していく。カトリーヌを演じた柳瀬英里子さん、ジャンヌ役の鬼山亜紀子さんが印象に残る。
ちなみに、動員数500人を超えたらボス村松さんが長年付き合っている女性(劇団の制作の方)にプロポーズするということで、今回の公演でそれを達成し、終演後舞台でプロポーズした。
楽しい舞台の上に幸せな瞬間に居合わせることができて観客は拍手喝采だった。
…客入れのBGMが、「God Save the Queen」でピストルズだったが、アイアンメイデンだとベタだったかな。
満足度★★★★
江戸言葉のような歯切れ良さ、あっという間の2時間
確かに「天幕版」の「東海道四谷怪談」だった。
ポンポン進むテンポの良さと全体を覆う熱量の多さが気持ちいい。2時間があっという間。
ネタバレBOX
「東海道四谷怪談」圧倒的な悪役の民谷伊右衛門が、天幕版だと人間味溢れる人物として描かれる。
怪談と言うと、お岩の容貌が毒によって変貌し、亡くなった後の様子をイメージするのだが、天幕版だと、「東海道四谷怪談」でも描かれている、本来ある人の怖さ(無意識だったりする)にフォーカスされていく。
伊右衛門とお岩の恋物語、そして伊右衛門と直助の男の友情、さらに武士としてのメンツ(与茂七の関係とともに)がベースとなる。
伊右衛門を極悪人にしないことで、それらの関係がきれいに浮かび上がってくることになったのだ。
ここに脚本のうまさがある。
歯切れのいい演出で、それらが江戸言葉のようにポンポンと進む。
それが熱く演じられ、気持ちがいい。
特に台詞に勢いがある、伊右衛門を演じた菊川仁史さんと、直助を演じた長谷川友貴さんを物語の中心に据えたことで、舞台全体の軸が決まり、物語を進める原動力になったと思う。
手ぬぐいや扇子などの細かい小道具の使い方が面白い。それらで、町並みやふすま、さらに川の流れなどを見事に表現していた。
舞台ならではの表現で、シンプルなのに情緒も出て効果抜群であったと思う。
残念だったのは、「笑ってください」的なシーン、例えば、太った設定のエキストラなどのシーンは、それほど笑えないのに何度も出てきて、少々辛かったのも事実。
また、一部の役者の、特に早口の台詞の滑舌があまり良くなかったのも気になった。テンポの関係で早口にしなくてはならないのはわかるのだが、なんとか解決してほしかった。
満足度★★★
2011.7.20@六行会ホールにて
(この日の公演が掲載されていないので、同じ演目の場所に書きました)
「チルドレンズフェスティバル」の一環として上演された。
「デフ・パペットシアター・ひとみ」は、ろう者と健聴者が一緒になって人形劇を行う劇団であり、ろう者の方も楽しめるような工夫がしてある。
人形劇と言っても舞台全面を使う。打楽器による生演奏で、手話と字幕で内容を伝える。
ネタバレBOX
物語は、原作があり、寓話的でブリミティヴな中に不気味さが漂う。
子どもの頃から、ヤシ酒呑みの魔術師が、ヤシ酒造りの名人が死んでしまったため、世界の果てに探しに行き、魔術や妻を手に入れ、魔物を退治するというストーリー。
生演奏の打楽器だけでなく、人形の造形を含めプリミティヴなイメージがとても豊かだった。
ただし、ストーリー的にはどうかなと思うところが多々あった。
例えば、親指から生まれた息子が欲望(ヨクボー)の塊だったので、両親が焼き殺すとか、もともとは人間に非があった相手(赤い鳥と赤い魚)を、逆恨みして(主人公は魔術師なのに!)拳銃で殺して解決するなど。確かに人身御供を取って、町を赤く染めていたけど。
そして、ラストの気味の悪さはなんとも言えない。すべてが消え、煙の中に1人佇む主人公の虚無感。
子どもたちに、どう伝わったのか気になるところだ。
今回、チルドレンズフェスティバルと称して、地域の児童に本物の演劇等を見せるという企画の中で行われていたのだが、先に書いたストーリーもあるが、字幕が「放蕩息子」とか「残虐な王」とか、とても子どもたちが読めるとは思えないもの(小さな文字でふりがなはあったが意味がわからないと思う)だったのはなんとかすべきだったのではないだろうか。
ろうの方たちも観劇していたのだが、終演後、彼らが最後に拍手するのは、手を叩くののではなく、両手を挙げてキラキラ星の振りのように、手をひらひらさせることを初めて知って。ちょっとぐっときた。
満足度★★★
暗闇に面白さが潜むはずだった
物語や上演に関しての各種設定は興味深いものがあった。
作品を構成している各パーツには面白さが潜んでいたと思う。
それが有機的に、具体的な面白さまで進んでいかない残念さがあったのも確かだ。
ネタバレBOX
身体に傷が付くように見える奇病とミガワリ様という迷信を重ね、さらにそれに運命×自己犠牲というフィルターをかけて、家族と因縁話風にしたてようとした設定は、とても興味深い。
しかし、設定がわかるというだけで、深みや面白さの領域まで達しなかった感はある。因縁めいた「なぜ」の部分が深さを増せばよかったのではないだろうか。
妹を包帯でグルグル巻きにし、天井からつなげたビジュアルもいい。宿命だったり肉親(家族)にしばりつけられている妹を、まさに表現していた。
こうなるともっとそのビジュアルが活かせなかったものかと思ってしまう。
また、暗闇がキーワードであり、暗闇(薄暗闇)にこだわる作品であるならば、それに合わせて「音」状況(環境)についても気を配ってほしかった。声を荒げたり、ドタドタと靴音を響かせて歩き回るシーンが多いのだ。
暗闇を活かすべくトーンを抑えた状況を作り出し、緊迫したシーンは声を大きく荒げるのではなく、台詞の表情でそれを見せてほしかったと思う。それによって暗闇は暗闇として成立したのではないだろうか。
ドリンク付きの公演であったのだが、そのドリンクを飲むのをためらうほどの静寂と緊迫が必要だったと思うのだ。
野良猫という設定も面白いと思うのだが、猫のトーンがほぼ同じであり、強さではなく、ささやくようなトーンで登場人物たちを挑発したほうがよかったと思う。
さらに、観客に懐中電灯を持たせ、劇中、好きな場所を照らしていいという設定も面白い。しかし、実際に上演中に懐中電灯を点けるには、ちょっとした勇気が必要であり、使うタイミングが演出されればもっと効果的ではなかっただろうか。
それと、説明文等で「孤高のメルヘン系メンヘラ女優三浦梢」と自ら称しているが、それは観劇前の情報としていい影響を与えていないと思う。そのラインから読み解くと「包帯少女+お兄ちゃん(妹)=萌え」理論のライン上に、今回の物語があるかのごとく見えてしまう。
ということで、面白くなりそうな設定と状況が揃っているのにそこまで達しなかった要因はこのようにいくつかあったと思う。
1つひとつのパーツではなく、それを組み合わせた世界観をきちんと設定することで、作品を創り上げていくことで、もっとよくなっていくのではないかと思った。
つまり、三浦梢を軸として、その世界観を肉付けしていくということだ。
今回の作品であれば、暗闇の中で、痛みを伴う、辛さを観客に共有してもらう舞台でよかったと思うのだ。
満足度★★★
「夏」、つまり「あの夏の日の想い出」感にこだわってほしかった
時間軸や場所を行き来する、結構大変な舞台だったと思う。
それを見せるにはもうひとつ力が足りないように感じた。
ただし、これは今の段階のことであり、若い彼らが、その意欲と若さで克服していくことは可能だと思う。
それに期待したい。
ネタバレBOX
最初に思ったのは、「ボクラの夏休み」と題しているにもかかわらず、「夏」があまりキーワードになっていないことだ。
卒業式後のエピソードを入れる必要があったのだろうか? もちろんそのほうが成立しやすい設定であるのはわかるが、「あの夏の日の想い出」に集中し、例えば秘密基地では、観客に夏草の強い香りが感じられるようにすべきではなかったのだろうか。要所要所に夏のキーワードを的確に挟みつつ。
そして、脚本として複雑っぽく、面白そうな予感をさせるのだが、「面白く」にはなっていかない。
それは、1つには、物語の軸がきちんと絞られていないことにある。
結局、作家になった女性の恋話なのだが、その女性が主人公になっていかないのだ。所々で作家の物語であることが明かされるのだが、そこで念押しされても、彼女の物語になっていかない。
彼女を中心とした、あの頃の仲間たちとの想い出話としても、誰が軸なのかがイマイチ見えてこない。もちろん、(回想シーンの)主人公は作家ではなく、彼女が恋した男性でもいいのだが、その軸がしっかりしていないので、物語が散漫になっていく。
犬のエピソードも物語に収斂されていくわけでもなく、中心となる物語を飾る1つのエピソードにしては、扱いが大きいし、そういうエピソードが各所に散りばめられているわけでもない。
また、「これは一体どういうことなのだろう?」というストーリー仕立てなのだが、それにしては前半の、興味の引き方が少々足りない。もっと観客を引き込むようにできていれば良かったと思う。後半になって、それぞれがつながっていることが明らかになるのだが、それを意識させるようなストーリーにしてあれば、つまり「軸」がしっかりしていれば、引き込まれ率も高かったのではないか。
そしてもう1つには、役者がこの物語についていけていない感じは否めない。力の差があり、台詞を覚えて言っているだけ、の人が目立った。
もちろん、いい雰囲気を持っている役者もいた。特にモモコ役の盛田千文さんは印象に残った。舞台に対する姿勢のようなものを感じたのだ。
さらに、対面式の観客席で、舞台は観客席の間に長く引かれているのだが、こうする意味はあまり感じられなかった。というより、必要あったのか? と思ってしまうところに問題はなかっただろうか。
それと、ちょっとしたブレイク的に挟まれる、ダンスやモノローグでの歩行シーンは、物語とマッチしていないように感じた。必然性がないと言うか。
ちょっとカッコいいから、「今風の演出を盛り込みました」というように感じてしまった。
特に、ぐるぐる歩きながら宇宙についてそれぞれが話すというのは、あまりにも『わが星』。しかも宇宙の話で、子、孫とか。あの舞台をリスペクトしているのかもしれないが、結局それが物語に活きてこない。単にその場だけだったように見えてしまった。
もちろん、いい演出は取り入れて自分のものにするのは良いと思うのだが、それには「意味」が必要だ。形だけ取り入れても面白くなるはずがない。必然性があって初めて意味が出てくるのだから。
厳しことを連ねたが、まだまだ若い劇団のようなので、若さと意欲と未来に期待できそうではある。
つでに、もう1つあえて言うと、観た回は、観客の多くが劇団員の誰かの知り合いのようだった。ほとんどの観客が終演後に帰らず、役者たちを取り囲んでいる。そこに聞こえるのは「良かった」「良かった」の合唱。もちろん本心もあるだろうが、それだけを単に鵜呑みにしてはダメだということを肝に銘じてほしい。偉そうな意見だけれど…。
満足度★★★★★
(たぶんというか、間違いなく脳が騙されていると思うけど)快感!
再演みたいだが、前情報まったくなして観た。
それは正解だった。
にしても、東京デスロックは、やっぱりとんでもない劇団。
これを最後までやり切って、かつ、この気持ち良さ。
素敵すぎる
ネタバレBOX
ダンスというよりはポーズの連続。
どこまでがアドリブでどこまでが決まりなのかは判然としないが、ときどき入る「再生(リプレイ)」で、全部がアドリブではないことに気づかされる。
『再/生』というタイトル(真ん中に/が入っているものの)や大音量のサザン『SUNAMI』、そして相対性理論『ミス・パラレルワールド』なんて曲が流れたりするから、やっぱり3.11を意識して観てしまう。「再」と「生」と分けて考えるとなおのこと意味が増してくる。
SUNAMIとか大変なことが起こっての、「再生」というとらえ方だ。
それはまったく見当違いかもしれないが、ここを端緒にして観ていくと、「日常」という言葉が浮かび上がる。
「日常」を「再生(蘇らせる・リボーン)」すること、それはすなわち「日常」が何の疑いもなく「再生(リプレイ)」続けていたように見えた時間への希求。
「日常」の「再生(リプレイ)」(していたように見えていたこと)は、貴重なものであったと認識せざるを得ない3.11後の世界にいる。
「日常」の「再生(リプレイ)」は、完全なる「再生(リプレイ)」ではなく、同じように繰り返されていても、1日として同じものは存在しないことにも気づく。
それは音楽が同じ楽譜による演奏であったとしても、演奏者や楽器、場所、時間、演奏者の気持ちなどによって、必ず同じではないことに似ている。
舞台の上のポーズは、音符であり、それを「台詞」や「日常」や「大音量の音楽」でアレンジしつつ繰り返されていく。
同じようで同じではない。デジタルではない、肉体による「再生(リプレイ)」だからそれは当然であり、それが当然のように延々と繰り返される。
極々個人的な感覚的な気持ちの良さの回数だけ繰り返される。
だから、苦痛に感じる人もいて当然だ。
「日常」の「再生(リプレイ)」は、苦痛でもあり、幸福でもあることが、わかった今、感じるこの舞台がある。
快感でもあり苦行でもある。
舞台の上の俳優たちは、「日常」を演じている。
その姿には、「苦痛」もあるが、「快楽」の表情も浮かぶ。それが失われつつある「日常」の表情。舞台という繰り返しの中にあっても、異なる「再生(リプレイ)」。
役者たちの本気度は熱い。死ぬ気でやってるようだ。
手抜きはないところにも快感を感じてしまう。観客も(たぶん)演じている本人たちも。観客のほうは「疑似的」ではあるが。
やり切った後の役者の無表情は、すでに演技(していること)ではないとしても、また、演出家が意図してる、してないにかかわらず、これは演出で演技だ。
ここまでの感想は、大音量の音楽などなどの諸々に騙された(会場のサイズも大いに関係あり)、単なる妄想であったとしても、そうした「非日常的日常」の、この気持ち良さ、このヘンテコな感覚はほかでは味わえない。
東京デスロックは、やっぱりとんでもない劇団だ。
満足度★★★★
夏日にとっても暑っ苦しい爆笑コメディ!
笑った。大笑いした。
テンション高くて、しつこくて、夏向きとは決して言えないスタイルだが、十分に楽しんだ。
気持ち良く笑ってスッキリ。
ネタバレBOX
正直初めて磯川家を観たときは、テンションが高すぎて、しかも全編がそんな印象だったので、面白いけど途中で疲れてしまった。
で、今回、テンションは高いところが多いけれど、2時間とても楽しんだ。これはもちろん観劇の席位置とか体調とか、諸々の要素もあるのではないかと思うけど、一番はやっぱり「笑った」ということに尽きるのではないだろうか。
大笑いした場面が多かったのだ。
実に気持ち良く笑った。
観客全体もそんな雰囲気でとても良かった。
そんな磯川家なのだが、休憩に入るという。これはとても残念。
物語は、ある1日を軸に家族のことを描いた作品だった。
それほど無理のない展開と、やや変なテンションの登場人物たちが次々と現れ笑わせてくれる。最初から威厳のある父親には見えない父親に威厳のあるという設定の設定というあたりもナイスだ。
キャラ押しの部分と話として笑わせる部分がはっきりしている。キャラ押しについては、1度滑るとそのキャラでは笑えなくなるのが諸刃の刃であろう。
伊智子の婚約者の前髪をいつまでもしつこくいじるのも、外れたら結構厳しいことになっていたかもしれない。私はずっと笑ったのだが、このあたりの塩梅で、この舞台の面白い(笑えた)or 面白くない(笑えなかった)の境目になったのかもしれない。
コツは笑うつもりで観ることかもしれない。腕組みして観てやろうじゃないか、という対決姿勢では楽しめないからだ。…でも、スタイル的に合わない、ってのはあるとは思うけど。
それにしても、あの回想シーン。てっきり伊智子のお母さんの回想シーンかと思えば、回想シーンというわけではなく、単に昔の話が差し込まれていただけで、元の時間に戻ったときの会話で「えっ?」となった観客も多いと思う。実際席が近いカップルが、「えっお母さんて2歳のときに…」みたいな会話でざわついていた(笑)。その声を作者は聞きたかっただろうなと思う。してやったりという顔をして(笑)。
この、観客の頭を一瞬グルグルさせる手法は面白い。何が起こったのか理解するまでの時間が楽しいのだ。
演劇などの手法を逆手に取ったというか。
しかし、ちょっと「イイ話」的な方向にしたかったのか、オープニングとエンディングが体感的に少々長く感じた。鬱陶しいほど、ガンガン行くのだから、しっとりシーンは、そこまで「間」を取らなくても十分に「間」として感じられたのではないだろうか。
ついでに言えば、ラストにもう一発ドカン笑いで締めて欲しかったというのは贅沢かな。ユニットの休憩前だけに。
主人公の伊智子役の二宮瑠美さんは、物語をきちんと支えていて好演。隣の家の希恵役の塚田まい子さんの、あのキャラも面白かった。早口の台詞がいいのだ。
そして、客演のお父さん役の湯浅崇さんとお母さん役の伊藤昌子さんは、とてもいい仕事をしていたと思う。この2人が出てる芝居は好きだ。どうでもいいプチトマトのやり取りは夫婦の絆を感じた、というのは言い過ぎか。
磯川家、早い休憩明けを待ち望む。
満足度★★★
ポップでキィッチュで、ちょっとイイ話
カ〜ワイイ〜(は〜と)って、思わず言ってしまいそう笑)。
しかし、エネルギーの方向はそれでいいのかな? と思ってしまった。
ネタバレBOX
なんてったって台詞が面白い。
よくよく聞いていると、あちこちにそんな台詞が散りばめられている。
舞台をキャットウォークまで使い、立体的に見せるのは、ストリートチルドレンたち若いエネルギーを見せるにはうまい演出だと思った。
ストーリーと端々の設定(頭中華包丁とか手のアフリカ象とか)は、一見ハチャメチャ風だけど、実はイイ話が中心であり、そこを中心にまとまっていって、人情コメディ風味に。
ストリートチルドレンたちと、オトナたちとの戦い。ストリートチルドレンたちの町への思い入れが、町のオトナたちの利権となる、町のテーマパーク化を阻止する。
なんとなく、昔から芝居として意外とありそうなテーマ(軸)となっていく。
イイ話風味にしては、なぜストリートチルドレンたちは、ストリートチルドレンとしてい続けることを選択しているのかが、判然としない。
だって、彼らのリーダー的存在のスミカは町長の秘書として働いているし、彼女は自分の妹を守りたいと思っているのだから。
いつまでもストリートチルドレンを続けられるはずもなく、自立を考えるのが当然ではないか。見ていてそう思ってしまうのだから、この「なぜ」は解決されないままだと辛い。てっきりラストでそれが(特にスミカ姉妹に関することで)明らかになっていくのかと思いきや…。
また、そのスミカと妹アイコは両親が見つかったからと、あっさりと町と仲間を捨てて両親の元へ向かおうとする。
あんなに連帯感が強かったわりには(そのあたりも描き切れてはないのだが)、あっさりと仲間を捨ててしまう。これはなぜなんだろう。つまり、ストリートチルドレンを続けることの必然性が物語の中で語られていないから、この展開がすっきりしない。
ラストで「え?」っと思った。
ストリートチルドレンたちとオトナたちの対立軸に、ストリートチルドレンたちを保護しようとするイイ人の恋ヶ窪が加わるのだが、その設定が活きてこない。こういう設定は、物語に深みを増すか、人の関係を複雑にして、立体的になるはずが、単に軸が増えただけで、何かが見えてくるわけでもない。
イイ話風味にしては、そんなところが中途半端に感じてしまう。
楽しいのだが、着地がきれいにまとまりすぎているような気がしてしまう。
きれいにまとめようとしている割には「?」が浮かんでしまうし。
それが、このはち切れんばかりの明るさと破壊的になるのではないかという(観客の)期待値に比べて、やや観客の心をトーンダウンさせてしまうようだ。
(だって、オープニングの、頭に中華包丁&両親のデタラメさを見ていたら、そういうトーンの展開になると思うでしょ)
観客としては、明るさとポップさのエントロピーを、もっともっと増大させて、トンデモで爆発して欲しいと思ってしまう。エネルギーを噴出させる方向が違っているふうに見えてしまう。
何も毒を入れろ、というわけではなく、明るく楽しくポップでキッチュであったとしても、なんか若さというか、そんな青臭さの発露の方向を見せて欲しいと思ったのだ。
つまり、そんなにうまくまとめんなよっ! という感じだ。
全体から溢れるパワーはとってもいいのに、普通の人情喜劇風味にしてしまい、しかもそうするにしては、足腰が弱いのが少々辛い。
個人的には、テーマパークを破壊して、火事になったあたりの大騒動があまりにも面白かったので、なんか残念。台詞も面白いのにね。
(町を今のままテーマパークにする、というコンセプトのはずなのに、何かを建設するという設定もなんだかなーだし…)
町長等を演じた神戸アキコさんの怪演が素晴らしい。ただし、どの役も同じキャラにしか見えないのが玉にキズ。スミカを演じた片桐はずきさんは、スキッとしててカッコいい。ピノコを演じた八幡みゆきさんも印象に残る。サンタナを演じたナカイデソントンさんのとぼけた雰囲気もよかった。
あと音楽いいのに使い方がもったいない。せっかく歌詞がある曲を使うならば、せめて1コーラスぐらいをきちん流して、物語に深みを増すのに活用してほしい。歌詞があるに、BGMというより、ぶつ切りすぎて、展開時のジングル的な扱いのように感じてしまうので。
満足度★★★★★
思わず大爆笑し、東京フェスティバルの支持率アップ
最初から「笑うぞ」という気持ちでわくわくしながら客席に着き、開演を待っていたのだが、実際その気持ちをまったく裏切ることなく、楽しく、気持ち良く笑える舞台だった。
小劇場楽園という狭い場所だったことで、うまい役者さんたちの、細かい表情まで見ることができるという良さが活きていたし、その狭い空間からはみ出すような笑いのエネルギーに溢れていた。
ネタバレBOX
人気だけで与党になった友愛党だったが、総理の不人気で支持率急降下。
そこで総選挙に打って出る。マニフェストに極めつけの子ども手当案、
そして連立解消、内部分裂、それを支える幹事長、というストーリーに、コメディ的なスパイスが加わり、納得(?)なオチ。
それを(ほぼ)幹事長室のみ6人で演じきる(総選挙も!)。
お菓子300円子ども手当、離島選挙遊説というトンデモ話を見事に着地させた。
きれいにまとまりすぎだが、面白いのでこれでいい。
再演のようだが、「自由党は原発推進で、わが友愛党は昔から反原発だったということをマニフェストでアピールしましよう」などという台詞の付け足しもある。
よくできた脚本だと思う。
まさにポリティカルコメディ。
そして、演出も、1つひとつをきちんと押さえていくコメディだけど、ストーリーの転がらせ方やテンポ・緩急がいいのだ。
役者もよかった。
とても豪華な客演。
史上最低支持率の総理が東京乾電池の綾田さん、それを支える幹事長が朝倉伸二さん(どっしりした幹事長)、カムカムミニキーナの藤田記子さんが演じる厚生労働大臣も政治家っぽい(嫌みなほどの・笑)押し出しがあって好演。
彼らが物語の要所要所をきちんと押さえていくので安心して笑える。
秘書役の岡野真那美さんも印象に残るし、後の2人(高槻純さん、矢追真寿美さん)も、キャラにぶれがなく、もちろんいい。
綾田さんの表情1つひとつが楽しい。おちゃめな表情やラストのうれしそうに子どもたちを眺め、下に向かうシーンの表情なんて最高だ。
そして、綾田さんらしいボケ(ポッポー、とか)が入っていたのもとても好ましい(笑)。
こんな、わくわくうきうき楽しい舞台ならば、東京フェスティバル、次回も観てみたいと思った。
ー
50分、途中で飽きたりはしなかったけれど…。
ネタバレBOX
身体は動いているのだけれど、軽やかさが感じられてない。なんだか重い。
お一人だけ(最後に紫の衣装の方)、とても軽やか、丁寧な動きで、気持ちのいいダンスだったけど。
登場する人が少ないので、1人ひとりの動きを凝視することになるのだが、一見簡単な動作、例えば、歩くとか、腕を振るとか、そんな動作が、人によってはぞんざいになっているように見えて仕方がなかった。ちょっとした動きが目立つので気になる。
もっとすべての動作に気を張って丁寧に動けばなあと思う個所があった。
4人が揃って舞台を回るシーンなどは、腕の動きや足の運びがもっと揃っていなければならなかったのではないだろうか。中途半端に揃ったり、揃わなかったりは気持ちが悪い。
「声を出す」に反応したり、ラストのコーラスのような部分には面白さを感じたが、「発声」がもっと活きてくるとよかったのではないだろうか。
全体的にピンとこなかったのは、強烈に何か伝えたい、と言うか、コレをやりたいという想いが感じられなかったからだろう。
いろいろな要素を散りばめた、としか見えなかったのだ。
舞台に強さがほしい。アクと言ってもいい。
頭巾の男性たちとのコラボ、交流についても、まるで別モノのようであまり一体感は感じられなかった。
シアターX提携の公演だから仕方がないのだが、今回の公演に関して言えば、会場の選択はこれでよかったのだろうか、と思う。
それは、ひとつには舞台の広さをもてあましていたように感じたからだ。この半分のサイズだったら、凝縮された空間となり、エネルギーが散逸しなかったのではないだろうか。
また、前後の動きやミカンが散らばるなど、演出が、舞台を見上げるものではなく、舞台全体を見下ろすようなものになっていたからだ。
演出と舞台の設定が合っていないと思ったのだ。
これは公演そのものではないのだが、一番前の端の席でビデオ撮影をしていた。しかし、あの場所はないと思う。なぜならば、撮影のために前傾となるので、撮影者が視界の妨げになってしまう。すぐ後ろの席ではなかったが、そこだけシルエットになって舞台を隠してしまうのはずっと気になった。
満足度★★★
アングラ色爆発。しかし「それしかなかったのだ」と胸に響かせてほしかった
突然の豪雨の中、にしすがも創造舎に到着。
そして劇場に足を踏み入れた瞬間から、セットを目にして期待が大きく膨らむ。
舞台脇、後方に暗幕が降ろされ客電が落とされて開幕だ。
ネタバレBOX
舞台の前面にいきなりの豪雨。さきほど実際のにしすがも創造舎前の豪雨のような土砂降りだ。
もちろん、前の2列ぐらいにはビニールシートを手渡しているのを見ていたので、予想できたのだが、その量は予想外だった。
また、量だけでなく、前半はその雨がずっと降りしきる中での芝居となったことにも驚き。
てっきり、最初のつかみとしての雨かと思っていたが、ずっと降り続くとは。
セットとこの効果にはやられた。
役者全員が常に(ほぼ)ずぶ濡れなのだ。
ただし、それによって舞台の「勢い」が削がれてしまったように感じた。
役者の台詞が雨音によって、極端に遮られてしまうことはないのだが、なんだか勢いが感じられないのだ。
それが狙いであったとしても、物語を推進していく勢いも削がれてしまったように感じてしまった。
物語は思った以上にアングラ。木馬とか、女優の学ランとか。因縁めいていて。それを外連味とも言えるような演出たっぷりで見せる技はさすがだ。
ドラムを叩きながらの行進は、その音とともにビジュアル的にもカッコいい。ドラムの上で跳ね上がる水しぶきもたまらない。
また、電車が通る、のシーンは役者の顔がずらっと並び、壮観であるとともに楽しい演出でもあった。
とにかく全員がずぶ濡れなのだが、主な女優さんたちは、傘を差したり、あるいは雨のきついところよりも微妙に前に出たりすることで、顔をそれほど濡らさず、つまりメイクを落とさずに演じさせるという微妙な配慮もある。
ロルカの『血の婚礼』にインスパイアされた作品ということで、劇中台詞の引用もあり、また花嫁を奪って逃げるというストーリーも同じなのだが、なぜロルカを下敷きに? の問いの答えは舞台にはなかったように感じた。
ロルカのままでも(それをこのように解釈しても)いいんじゃないかと思った。
ホテルや旅館、コインランドリーに、今どきどこにある? のビデオレンタル屋、多くの自販機が並ぶ路地裏。場末のイメージ。
マーケティングの末路とも言うようなモノとモノに溢れる。
壊れているトランシーバーで誰かとつながろうとしている少年、ビデオレンタル屋に来て万引きしてることの注意でいいから、人とつながりたいと思っている男、姉さんと呼ばれる女性と、結論が出ないままずるずると関係を続けているビデオレンタル屋の店主、そして花嫁を奪ってきた男、彼らそこに暮らす人々は、自分の心の中にぽっかりと大きな穴が空いているようだ。
彼らの、その乾きは雨が濡らし続けていても潤うことはない。
だから、悲劇のラストにつながっていく。
もちろんそれはわかるのだが、「死」がそれ(虚しさ)を埋めていくモノになり得る、ということに対しては懐疑せざるを得ない。
そこがどうもしっくりこない。こちらが説得されきれないのだ。
つまり、装置や効果で驚かせ見せても、未来永劫を流れる普遍的なテーマへの解決がありきたりのような気がしてしまうのだ。
確かに昔の戯曲の再演であるし、ストーリーを変えないにしても、そのあたりがもうひとつ、胸に落ちてこない、胸に響いてこないのだ。
そこまで考える必要はないのかもしれないのだが、少なくともそこまで騙してほしいのだ。
「それしかない」と思わせてほしかった。例えば、いにしえアメリカンニューシネマのように。
前半、あるいは前半の3分の2ぐらいが雨で、舞台の勢いが削がれてしまったことと関係あるのだろうか。
つまり、雨がなくなってから、特に花嫁を奪った男と奪われた男の会話などは、とても迫るものがあったので。
「面白いものを観た」という感覚はあるのだが、今ひとつ「響いてこなかった」ということも同時にある、というのが正直な感想だ。
窪塚洋介さんカッコよかったけど(笑)。
そして、外でも雨はやんでいた。
……ロルカの『血の婚礼』にインスパイアされた作品ということだが、何もまったく同じタイトルにすることはないだろうと思う。実際紛らわしくはないか?