毒と微笑み 公演情報 ブルドッキングヘッドロック「毒と微笑み」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    話への興味で引っ張りつつ、にやにや笑いを浮かべ、観客の手からするりと逃げていく。そして、毒は微笑みでオブラートするに限る
    拡散度合い、つかみどころのなさの気味悪さ。
    しかも、にやついているように見える。
    この気味悪さがこの舞台のすべてである。
    のかも。

    ネタバレBOX

    しれっと始まり、どこに向かうかわからない様子で物語はスタートする。
    この拡散具合、つかみどころの曖昧さが、「見えないもの」を表している。

    物語の「筋」への興味で引っ張るものの、それは、にやにや笑い(微笑み)を浮かべ、観客の手からするりと逃げていく。
    つかんだ要素を並べてみれば確かに「ストーリー」にはなるのだが、それでいいのかと反問してしまう。
    そんな舞台。

    根底に流れるモノ、人を見つめる視線の位置は変わらないが、明らかに見せ方が変わった。
    今までであれば、ありそうな日常をバックにして、その上であがき、もがく人々を描いていた。
    しかし、今回は、「日常」という安定を捨て、やや戯画化された上で物語が進行するのだ。

    どこからとこまでが「現実」なのかの線引きが難しい世界がそこに広がる。
    お笑いトリオ「シビレガス」のネタなのか、あるいは、そのネタが現実を浸食しているのか、それともすべてが「現実」なのか、判然としないし、させない。
    ジョーカーが自宅の引っ越し荷物から出てきて浴びたガスだって、現実と妄想の間にあるラインの、どちら側にあるのかさえわからなくなってくるのだ。

    ガスのごとく拡散していく物語に観客は、まるで煙に巻かれていくよう。毒ガスだけに…(失礼・笑)。

    日常を捨てた物語の吸引力は強い。
    「笑い」だってたくさんある。
    誰に向かって笑っているのか、不気味な心持ちになるのだが。

    ブルドッキングヘッドロックの舞台の中にいる人々は、いつも「不安」が背中にべったりとある。
    その根本にあるものの1つは、「自分への苛立ち」ではないだろうか。
    そして、唯一、不安からひとつ抜けたところへ行ったように見えた、ナミ介が今回それを特に体現していたと言っていいのではないだろうか。

    彼の「怒り」の矛先が見えない。お笑いトリオの仲間だったり、そのバックに付いた者たちだったり、愛人だったり、彼に憧れている女学生だったりと、そういう者には牙を向けるが、それは理不尽なものであり、本当は彼は自分に向かって、理不尽な怒りを爆発させていたと言ってもいいのではないだろうか。

    主人公はジョーカー一家のように見えて、その実、物語の中心にはナミ介がいたということなのだ。
    彼が考えたネタの中にいるような、「相手からの戦争を待つ」軍人というブラックジョークな状況は、準備万端なのに、そのきっかけは「相手」であるということであり、「相手が仕掛けてこないから、自分は出来ないんだよ」という言い訳でもある。

    つまり、この状況は、この舞台におけるすべての行為に重なってくる。
    そんな「待ち」の姿勢で自らの行動力のなさを正当化し、責任回避をしようと思っている。
    だから、苛立ちはさらにつのり、不安定な状況になっていく。
    相手に過剰にコミットしたり、精神にさえ支障を来していく。

    こうした状況を、スポットライトで独白、のような古いスタイルの手法を交え、「笑い」を起こしつつ描いていく。
    2役の面白さもある。
    劇中劇の『3人姉妹』も面白かった。

    戯画化されたキャラクターたちは、それが物語が進行するにつれてさらに凝縮していく。

    役者はすべての人が「うまい」と思った。
    中でも苛立ちを強く全身に溢れさせていたナミ介を演じた喜安浩平さんと、肩の抜けた演劇部顧問の永井幸子さんが印象に残った。軍人11の妻を演じた石原美幸さんの強さもなかなかだった。

    ラストに流れる曲『また会いましょう』は、少々饒舌すぎるのではないかと思った(映画『博士の異常な愛情 』でやはりラストに使われていた曲ではないかと思われる)。少々お手軽で使いやすい曲だし。

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    2011/08/12 07:00

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