アキラの観てきた!クチコミ一覧

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ロベルトの操縦

ロベルトの操縦

ヨーロッパ企画

本多劇場(東京都)

2011/09/08 (木) ~ 2011/09/18 (日)公演終了

満足度★★★★

日常。
ヨーロッパ企画の面白さは、日常的なだらだら会話の面白さである、と思う。
どんな場所、どんな環境にあったとしても、日常会話はある。
今回も、そんな作品。

ネタバレBOX

砂漠、軍隊、兵器としてのロベルトという、「非日常」的な設定。

そんな設定だけど、待機時間が長すぎて、緊張感はすでになく、だらだらキャッチボールをしていたり、コーラを飲みたかったりする人々。
の、だらだら会話。

ヨーロッパ企画は、常に「非日常」と「日常」が隣り合わせにある。
「非日常」だとしても、その「非」感は長く続けば続くほど薄れていくから。
『ボス・イン・ザ・スカイ』では、ドラゴンを捕獲しながらも、それはあくまでも仕事で、メンバーが気になっているのは、ロックフェスだったりするわけだったり、『サーフィンUSB』では、あんな酷い世界になっているのにもかかわらず、格好つけたいサーフィンだもの。

最近は、本多劇場クラスの大きな劇場が多いせいか、それに見合った設定にしているような気がする(もっとも前々回は喫茶店だったけど)。会場ありきの設定、というか。それは当然のことだし、それに見事に応えているとは思うのだが。

そういう設定は、確かに「非日常」と「日常」の対比として、とても面白くなっていくのだけれど、日常的なだらだら会話が少々薄れていくような気がしないでもない。

今回は、最初3人から始まり、徐々に舞台上の人数が増えていく設定で、誰がどういう役で、どのタイミングで出てくるのか、という楽しさはあったのだが(中盤以降の登場シーンはどれも笑った)、大人数で、責任感なくしゃべってるという、ぐだぐだした感じがもうひとつ足りなかったような気がしないでもない。
個人的には、息の合った劇団内だけでの会話のような雰囲気が好きなので、客演の人には、そこに入りにくい違和感のような設定にしたほうが、面白かったと思うのだが。

とは言え、いつものとおり、いい感じで笑わせてくれるのではあるが。
そして、ラストへの展開も「!!!」な、脱力感さえ漂うトンデモ展開なのが楽しいのだ。

兵器という設定のロベルトだが、防御には弱そう。そして、どう見ても、でかいだけのサイドカー付きのオートバイなのが可笑しい。
かもめ

かもめ

第七劇場

シアタートラム(東京都)

2011/09/08 (木) ~ 2011/09/11 (日)公演終了

満足度★★★★★

内側と外側、外側と内側、それらが絡み合う
消えゆき、重なる台詞。怒濤のようなうねり。
関係性と感情を身体でも表現。
「かもめ」の戯曲自体の懐の深さ、演出家の柔軟性、演劇そのものが持つポテンシャルの高さを改めて感じる。

ネタバレBOX

この数年ぐらい『かもめ』を題材にした舞台をいくつか観たが、どれもテイストが異なっていた。それだけ『かもめ』の戯曲自体の懐が深いということか、あるいは演出家を惹き付ける何かが多いということなのかもしれない。
そして、どれもが面白かったのだ。
今回の『かもめ』も、とても面白かった。

第七劇場では、『かもめ』の中で、一番の「傍観者」である医者のドールンを軸にして、回想のように、『かもめ』を見せていく。
精神を病んで病院にいるニーナとの会話を通じて、「傍観者」としてのドールンが、ニーナに起こった出来事を回想していくのだ。

この回想は、「誰の目」に映っている回想なのかは、舞台の上にいる登場人物の足元からもうかがえる。
回想に登場する人物たちは裸足であり、病院の患者はスリッパ、そして、唯一現実にいる医者のドールンのみが靴を履いているのだ。
そして、ニーナは裸足である。つまり、回想の中の人、ということなのだ。つまり、ドールンによる回想であろうことが想像できるのだ。

さらに、「足元」に関して言えば、唯一「靴」を履いているドールンのみが、「外」に出ることができる存在ということを示しており、それが彼のラストの言葉、さらに雪が降り積もる切り株だけらの外界の光景と重なっていく。

このドールンの一言は、つい漏らしてしまった本音であることには間違いないが、これを、「辛い現実」とらえるのか、あるいは、それでも「外を語ることのできる喜び」(街のこと、外界のことを知りたいと切望する、中に居続ける人たちへの配慮)ととるのかは、観客の心象によって異なってくると思う。
しかし、当のドールンにとっては、楽しい現実とはなっていないと思う。それにについては、「外」と「内」の関係からうかがうことができる。

「外」と「内」という視点で見れば、「病院」は「内」であり、「回想」は「外」であり、「内の内」でもある。
そして、ニーナとコースチャは、かたや狂気へ、かたや死へと、「現実」から「外」に出て行ったと言ってもいいだろう。そして、意識の上では「外」に出たはずのニーナは病院という「内」へ閉じ込められ、死で「外」に出たはずのコースチャは「回想」という「内」に、やはり閉じ込められてしまう。
とても皮肉な構造になっている。
演出によって、「外」「内」の不思議な関係が表現されたのではないだろうか。

さらに言えば、その「内」と「外」を定めているのは、外界のいる人、一番の「傍観者」である、ドールンだ。
つまり、彼は「医者」であり、ニーナとコースチャの知り合いでもある。彼こそが、彼ら2人を「内」と「外」に彷徨わせている張本人ということなのだ。
…ひょっとしたら、「永遠の外」にいるドールンは、唯一孤独な人なのかもしれない。それが、先にも書いた「ラストの一言」に凝縮されている、と見るのは深読みしすぎであろうか。

そして、この構図(内と外の絡み合い)に気がついたときに、思わず唸った。
これは凄いと。

台詞は重なり、あるいは掠れ、消えゆく。そして、中盤の激しい盛り上がりには、本当にシビれた。
一見、舞台の上を画面構成のように動いている人物たちが、実は、台詞だけでなく、その感情や登場人物たちの関係性をも表しているのも面白い。
そして、まるでコロスのように、台詞で、舞台の上のハーモニーを作り出す、病院にいる3人の患者の位置づけも面白かった。

役者では特に、アルカージナを演じた木母千尋さんの、存在感が光っていた。

こういう舞台を観ると、演劇そのものが持つポテンシャルの高さを、改めて感じざるを得ない。
謎の球体X

謎の球体X

水素74%

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2011/09/02 (金) ~ 2011/09/11 (日)公演終了

満足度★★★★★

コレハ、シビレタ!!
人ハ他人ニヨッテ存在スル(存在サセラレテシマウ)。
ソンナ、ワレワレガ暮ラス、謎の球体Xトイウ惑星。

ネタバレBOX

人ハ他人ニヨッテ存在スル(存在サセラレテシマウ)。
「他人ハ敵ダ」夫ハスベテヲ知ッテイル。

ソレハ、「他人によって、自分の存在が規定されてしまう」トイウコトナノダ。
カツテモ、今モ、夫ハ他人ノ「悪意」アル言葉ニヨッテ規定サレテシマッテイルカラダ。

事実ハワカラナイ。シカシ、彼ノ中デハ、ソウナノデアル。

畳ノ下カラ現レタ白紙ノ男ガ、ソレヲ体現スル。
彼ハ誰カト「関係」シナイ限リ、「誰」デモナイノダ。
彼ハ存在スラシナイノカモシレナイ。
人ハ人ト出会ッテ「人」ニナル、ト。

彼ヲ「規定」シテクレル者ニ対シテハ、積極的ニカカワル。
妹ガ望ム「人」ニナロウトスル。
鋏ヲ振リ回シテ。

マサニ、コノ図式ハ、妹自身ノコトニモ重ナル。
彼女ニトッテノ「他人」ハ父親ノミデアリ、父親ニヨッテ、彼女ハ「彼女(妹)」トシテ存在シタ。
ソンナ彼女ノ前ニ現レタノガ、白紙ノ男デアッテモ不思議ハナイ。
彼女ハ、新シイ「他人」ガ見ツカラナイト「クズ」ノママデアル。
姉ガソノ新シイ他人トナルノダガ、収マリガ悪ク、白紙ノ男ヤ大家ノ夫ニソレヲモトメテシマウ。

「他人は敵だ」ト見抜イタ夫ニ対シテ、実ハ妻ガ最モ恐ロシイ「悪意」デ、彼ノ「他人」ニナツテイタ。
スナワチ、DVハドウヤラ存在セズ、妻ガ夫ノ存在ヲ規定スルツールトシテ機能シテイタノダ。
シカシ、ソレハ、単ナル「悪意」デハナク、彼女(妻)ニトッテ、「他人から存在を規定してもらう」タメノ行為ダッタノデハナイカ。
彼女ガソウスルコトデ、夫ト自分トノ関係性ガ、近所ノ住民(主ニ大家)カラ「規定」シテモラエルノダ。

ソシテ、物語ハ、舞台ノ外ニモ少しハミ出シテクル。役者ガ演ジル「役」トイウノハ、マズハ同ジ舞台ニイル役者同士ガ「規定」シテクレナイト始マラナイ。ソレヲ「なかったこと」ニサレテシマウノハ、自分ガ存在シナイコトニナッテシマウ。ソレニヨッテ、観客カラモ、存在シナクナル。
ソウイウ「嘘」ヲ支エテイル、「他人」タチガ、舞台ノ上ダケデナク、今、ココニモコウシテ存在シテイルコトヲ、観客ニモ見セテイルノダ。

夫ト妻ガ暮クラス畳ノ上ハ、ヒトツノ「結界」デアル。
シカシ、ソレハ「嘘」デアリ「偽物」デアル。
トトモニ「真実」デ「本当」デモアル。ソシテ「現実」。
コノ世ハ、スベテ嘘ト偽物ニ彩ラレタ、本当ト真実ノ世界。

ソンナ アナタ ト ワタシ タチ ガ アフレル 「謎の球体X」 トイウ ワクセイノモノガタリ。

役者ハ夫婦役ノ2人ガ、トニカク良カッタ。薄幸ソウデ「赦し」ノ存在デアル妻、「この人、何かやってるんじゃないか」ト思ワセル、変ナエネルギーヲ抑エタヨウニ話ス夫ノ怖サ。

…カタカナ書キデ書イタノハ、何故ダロウ。当ノ本人ニモ不明。
書キ出シタラ、コレガしっくりシタノダ。
PRISON

PRISON

劇団伍季風 ~monsoon~

小劇場 楽園(東京都)

2011/09/02 (金) ~ 2011/09/11 (日)公演終了

満足度★★

ちょっといい感じなのではあるが
あまりにも杜撰なストーリー。
現代の日本の刑務所という設定にしてしまったから、ズサンに見えてしまう。
ツッコミどころが多すぎて閉口した。
どうやらコメディらしいけれど、ズサンなストーリーにイラついたせいか、1個所も笑えなかった。
ただし、役者たちはとてもいい感じであった。
キャラの出し方など。

ネタバレBOX

冒頭の登場人物の紹介があまりにもスマートでない。
新人が入ってきて、それに紹介するためという設定で、観客に登場人物たちを紹介するというのはよくあるてではあるが、その前のやり取りが活きてきて、紹介することで、さらに何かが得られるというようにしないと、面白くならない。

一番の問題は、ストーリーが杜撰なことである。穴が多いし、ツッコミどころが多すぎる。
刑務所の設定や死刑制度、裁判員制度など、もちろん調べてから脚本を書いているとは思うが、舞台化のためにそれをねじ曲げてしまったのが、とても違和感として残ってしまう。
だったらなぜ、現代の日本の制度に設定したのかが、不明となる。どこか架空の国の話でもよかったのではないか。
日本の制度に対してもの申すという立場ならば、基本はしっかりと押さえた上での展開にしないと、穴ばかりが目立ってしまう。

もし、ねじ曲げてでも面白くしたいと思っているのであれば、批判的な台詞はなくして、バカバカしく笑わせてくれるだけでよかったのではないだろうか。
ちょっと、声高にしてみました、意識高いです、な感じで入れただけの感じで、思想とかポリシーとか、あまり感じないのだ。

例えば、自分の子どもが植物人間状態になっていて、その生命維持装置を外したというだけで死刑にはならないでしょう。
また、死刑囚となった女性の関係者(彼女の事件の関係者)が裁判員に選ばれるなんてことが起こってしまう。
「裁判員が全員男性だったから自分に不利になった」なんて、ストーカーで実刑となった女性に言わせたりしている。
また、「裁判員制度が導入されて数年。刑務所は飽和状態・・・」なんて裁判員制度が導入されたことにより、有罪判決が多くなったような印象を与える説明や、台詞が出てきたりしているが、もし、裁判員制度を批判しているのならば、間違った情報を付け加えて、「裁判員制度は良くない」と言うのでは、本末転倒ではないか。
言いっぱなしなだけで、何が問題なのかには触れようとしない。

死刑制度だって、ラスト近くで、「死刑自体が人殺し」みたいな台詞を、関係ない看守に叫ぶシーンがあるのだが、これにも呆れた。とってつけたような批判で、その台詞を叫ぶ女は、冒頭で、13階段の登り方で、おちゃらけていたのに。しかも、死刑囚の前で。その死刑囚はいつ死刑になるのかわからないのにもかかわらずにだ。
しかも、その死刑囚が死刑になるのはおかしい、と叫ぶのだが、それ自体もともとあり得ない設定なのだし。

また、最初に脱獄すると言い出した女は、動機を深刻そうに言っていたのだが、つまり、彼女の兄を救いたいと、それならば別に脱獄しなくてもいいだろうと思うし、脱獄すれば自由になれる、と考えていることが納得できない。
理由はどうあれ、それぞれに罪があり、入獄しているのだから、不当に逮捕監禁されているわけでもなく、脱獄すれば人生をやり直せると言い合うこと自体が不快ですらある。これって、犯罪者は身勝手な人たちということを強調したかったわけなの? とも思ってしまう。

全員が脱走に加わることになるのだけれど、ここに笑いとか、それぞれの過去とかが出てくる重要なシーンとなるはずなのだが、意外とあっさり。また、ここの場にいる全員の力がないと脱走できない、という前提で話を進めていくとか、そんなふうにすることで、説得しながら、各々の過去が明らかになっていくなどにつながったのではないだろうか。

そして、呆れたラスト。死刑執行が延期された、というのは横に置いたとしても(面白くないけどね)、あれだけ深刻になっていた、死刑囚の新入りの問題(兄を助けたい)は解決せず、なんだよそれ、と思ってしまう。

しかも、途中から「ラストとして最悪なパターン」を想像していたら、まさそにそうなった。
つまり、暗転後、脱走した全員がそこにいて、死刑になったはずのアネゴも、なぜかそこにいる、というパターン。
その理由が「ええ??」っいうショボイもの、というところまで想定の範囲内。
だったが、理由が、たいして面白くもなく、コメディなのにラストで笑えない。
だって、脱走の話が出て、実行に移すとなったときから、素人が考えても、そうなるというラストなのだから。
同じラストにしても、「考え抜いた」新しさとか、センスがプラスされてないと。

何かに批判めいた内容がいろいろあるんだけれど、その切り口が曖昧だし、まったく伝わらない。
とにかく、設定やストーリー展開の適当さ、杜撰さにイラついて、笑うことは全然なかった。劇中歌も長すぎだし。
別のブロックに座っている人たちの中には、笑っている人もいたようだけど。

役者たちの雰囲気だけは良かったのが救い。
男性ver.があるので、もう片方は違った印象を受けるかもしれないけれど、同じストーリーならば、あえて見る気はしないなあ。
ここの劇団は、初めて観たけれど、いつもこういう感じなのだろうか。フライヤーの感じが、いつもいいなぁと思っていたんだけれど。
キネマの天地

キネマの天地

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2011/09/05 (月) ~ 2011/10/01 (土)公演終了

満足度★★★★★

井上ひさしさんの「役者LOVE」な物語
こんなストーリーだったとは! 
フライヤー等の説明(ここに書いてある説明も)を前もって読まなくてよかった、と思った。

ネタバレBOX

松竹の蒲田撮影所にあるスタジオに集まってくる。当代きっての大女優たち4名。
それぞれに自分が今の松竹を支えているというプライドがある。
彼女たちは、松竹の超大作に出演するということで、監督に呼ばれたのだった。

しかし、監督はその前に、彼女たちに前の年に、そのスタジオで行われた舞台をもう一度上演したいので、その読み合わせをしようと言い出す。

実は、その舞台の稽古中に、監督の妻であった女優がその場所で亡くなったのだった。

女優たちは、いやいやながら、監督の指示に従い、本読みを開始するのだが、どうも様子が変である。

そこに、掃除夫や脚本家、さらには築地署の刑事と名乗る男が次々と現れてくる。

監督の意図はどこにあるのか…。

そういうストーリー。

映画における、というより、役者たちのさまざまな想いや、感じ方、自負、苦労が、役者間のヒエラルキーに絡めて披露される。

特に、女優として、その道を切り開いてきた、トップ女優のエピソードは重みさえ感じる。


彼ら、つまり役者とは、濃くて、嫌みで、自意識過剰で、自己中心的で、そのくせ階級主義・年功序列がまかり通っていて、ということを、さらにをデフォルメして描いていながら、その視線は優しい。
彼らの姿が愛らしくなってくる。

本能的で、自分の欲求には誠実で、しかも自分の職業−役者−に、多大なプライドを持っている。

これは、井上ひさしさんの「役者賛歌」ではないだろうか。
それは、主演を張る大俳優だけでなく、脇を固める、すべての役者に向けられたものであったと思う。

そして、役者と言うのは、役者であるということに、貪欲な人々である、というところではないだろうか。また、それによって、自らの矜持が保たれているとも言える。
その彼らの性格を逆手に取って、見事な喜劇に仕立てていたと言っていいと思う。
しかも、単なる喜劇というのではない、役者たちへの愛が語られている。

幾重にも仕掛けられたラストへの罠が、巧みで面白い。
そして、刑事=犯人だった男の、ラストの台詞から瓶の中身を呷ってからの展開は、客席から思わず拍手が上がったほど、あざやかだった。

また、彼が、結局3回言う台詞が、シビれるほど、素敵で美しいと思った。
もうこれだけで涙モノである。
演じても演じても終わりはないし、役者すべての想いが詰まっていたと思うのだ。

大上段に天下国家にもの申すというのではなく、井上さんの間近にいる人たちを語り、彼らに捧げられた、美しい作品だと思った。

濃すぎて嫌みなほどの4人の女優陣(麻実れいさん・三田和代さん・秋山菜津子さん・大和田美帆さん)は、本当に素晴らしい。まさにその世代の観客たちを魅了していた、大女優たちだった。
さらに、木場勝巳さんも、エネルギーに溢れ、本当に見事だった。
劇団劇場~Act In Rule~vol.4

劇団劇場~Act In Rule~vol.4

劇団劇場製作委員会

Glad(東京都)

2011/09/04 (日) ~ 2011/09/04 (日)公演終了

満足度★★

ちょっとした学園祭ムード…。
満員のスタンディングで観るのはツライ。
面白かったのならば、ツラクなんかないのだが。
これは「観客」として見ると、辛かった。

ネタバレBOX

1団体15分。進行中にさまざまな制約があるのだが、その設定自体が面白くなかったということがよくわかった。もっと「面白さ」に変えてくる団体があるかと思っていたが、そうでもなかったからだ。

全体的には、学園祭の出し物的な雰囲気で、それが楽しいと思えば楽しいのかもしれないが。知り合いが出てるとか。

設定があとどれぐらいで開始しなければならないかが、舞台後方に大きく表示されるのだが、そればかりが目立ってしまっていた。
色にしろサイズにしろもっとセンスよく、少なくとも舞台の上を邪魔しない程度にしてほしかった。



劇団東京ペンギン★
正直ガッカリ。開演前に即興で考えましたと言っても信じてしまうぐらいの内容。母親に電話するシーンは、テレビの安いバラエティを見ているよう。そこにハプニングがあるはずもないのだから、ヤラセのハプニングぐらい仕込むべき。

トレモロ★
面白いとは思ったが、とにかく主役級の発声が悪すぎて台詞が聞き取りにくい。舞台のサイズを考えてこなかったためか、ダンス的なシーンは、動きが縮こまってドタドタしていた印象。このイベントは、片手にドリンクの観客がスタンディングで、ざわついていることを考慮に入れた内容にすべきだったのではないか。『ハムレット』に取り組んだという姿勢は面白いのだが、「あっ」と言わせるようなものが欲しかった。上手の演出家(?)が構造的に活きてくるのかと思っていたが、そうでもなかった。

あんかけフラミンゴ★★
ちょっとハジけてみました、ムチャやってみました、という意図が見えすぎてあざとい。あざとくても、勢いで見せてくれたら快感につながったと思うのだが、シーン、シーンで動きが止まりすぎ。観客の反応を待っているのか、単に練習が足りないのかわからないが、徐々に勢いを増しつつ、観客を巻き込むようなカオスになれば、面白くなったのではないか。しかし、セッティングや片付けまでも「見せる」ことを意識して、団体のカラーを見せつけていた姿勢には好感が持てる。今後に期待。

ロ字ック★★★
きちんと見せるモノとして仕上げてきたと思う。2人の掛け合いが面白いし、舞台袖から聞こえる効果音(笑?)も笑わせてくれる。ラストの展開とエンディングもなかなか。もっとバジけてくれたら、さらによかったのに(袖から出てきたメンバーが、観客席で騒ぐほうが絶対に面白かったと思うのだが)。本公演も見たくなった。後の4つがこれぐらいのレベルだったら、このイベントは相乗効果的に面白くなったと思う。

はちみつシアター★★
イベント用のネタを用意したという印象。悪くはないが、特別に面白かったわけでもない。女子力をウリにしているならば、たとえ15分であったとしても、もっと自分たちにしかできないことがあったのではないだろうか。ただし、たぶん本公演は、本来の能力を発揮して、もう少しは面白いのではないかと感じさせてくれた。


こういうショーケース的ともちょっと異なるイベントであったとしても、気になる団体を見つけることが多いと思う。今回も確かに気になる団体は見つけられたが、たぶん2度と見ないだろうと思う団体を見つけてしまった気分だ。

観客がスタンディングである、という演劇向きではないシチュエーションを、うまく取り入れて、さらに自分たちの持ち味を15分という限られた時間内に発揮させるというのは、相当に高度な能力が必要だと思う。
若手の団体でそれを表現するのはハードルが高いが、情熱で乗り越えることができたと思うのだ。
ロ字ックを除き、ほとんどの団体が、今回の、わーっとしたような、イベントの空気感に飲み込まれてしまったのではないだろうか。それによって、生まれたのは、「ちょっとした学園祭ムード」。だから、ファンや関係者、知り合いはそういうムードでも楽しめたと思う。ニコニコしている観客もいるにはいたので。ただし、「観客」としては楽しめなかった。
準決勝

準決勝

あひるなんちゃら

駅前劇場(東京都)

2011/09/02 (金) ~ 2011/09/06 (火)公演終了

満足度★★★★★

やっぱり、なんちゃら〜
この困ったちゃんぶりを観て、いらつく人もいるかもしれない。
「こんな人、リアルじゃない」とか「リアルじゃないと喜劇は成立しない」とか言う人もいると思うけれど、そういう人にはそう言わせておけばいい。
というか、できたらちょっとだけ黙っていてほしい。

やっぱ、面白いや、あひるなんちゃら〜!
低体温コメディって言っちゃう。

ネタバレBOX

あと3時間ぐらいで、草サッカーの準決勝戦が行われるらしい。
で、友だちたちが応援に行こうとするのだけれども、「みんなが欲しがっているのならば」と親切心のようなもので、優秀トロフィーを盗んできてしまう人がいた。
で、みんなちょっと弱ったことになったな、となっての低体温コメディ。

訳分からん、なことを真顔で行う人が次々と溢れ出してしまうのが、あひるなんちゃらなんだけど、今回は、本当に困ったな、な人は、クボだけだ。基本が相当間違っていて、困ってしまうことを引き起こす。
もちろんほかにも困った人は出てくるのだが、人に迷惑をかけるわけじゃなし。

あひるなんちゃらの面白さは、ボケ的な人とツッコミ的な人の役割が固定されていないことだ。
両方こなせて、どちらをやらせてもうまいというところが、そういう役回り(特にボケ)を固定的にしているコメディ劇団と違う。
そういう劇団に多いのは、お決まりのボケとか、よくある体型とか顔かたちとかをいじる系のアレである。

あひるなんちゃらにはそれがないから、「これは脚本がいいんだろう」とか「演出もいいのかもしれない」とか「いやいや、役者もいいんだよ」なんてことが成り立ってくる。みんながそう思っているかどうかは別にして、私はそう思うのだ。
一応言わせてもらえれば、実際、と言うか、たぷんそうであって、外部での客演とかもあったりするのだよ。

そう言う、うまい人たちがやるんだから、面白くないわけがない。
と、言い切れるほど、世の中は甘くないが、ここで世の中がどうこう、ということは関係ないので、横に置くとして、つまり、面白いんだ、それでいいじゃないか、ということなんだ。

今回は、いつものペースで始まって、暗転に今回の公演用のオリジナルソングを流してたりするところが、少しだけ新しい感じ。
やたら人が出過ぎて、みんなが訳わかんないこと言い出して、にならないし、前に駅前を使ったときのように、舞台が広すぎて、「あれれ?」ということならないように、学習をしたようで、それらは見事に克服していたし、いい感じだ。

これならば、次回は高低差のある舞台セットを組んで、チャレンジしてほしいと思ったほどだ。…前にあったな、ちょっとそういう感じのフェリーやつで。でも、高低差のあるやつお願いしたい。

クボを演じた黒岩三佳さんは、さすがの困ったちゃんだったし、サッカー関係の3人(池田ヒロユキさん・堀靖明さん・金沢涼恵さん)のコンビネーションがよかった。クロサワ監督を演じた金沢涼恵さんの困ったちゃんぶりもたまらない。ヨダ(根津茂尚さん)が最後に登場するときの衣装は、もうちょっとだけ、女子っぽいほうがよかったかな。

低体温コメディって勝手に名付けたのだけれども、結構、大笑いしてしまった。
大笑いしてしまって、ちよっとスンマセンな感じは何だろう…。

DMの封筒持って行ったら、バッジを1つくれた。魚の絵が描いてあって、この公演との関係は不明だが、喜んで受け取った。
前向き!タイモン

前向き!タイモン

ミクニヤナイハラプロジェクト

こまばアゴラ劇場(東京都)

2011/09/01 (木) ~ 2011/09/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

超高速、そして超解釈
超超高速
超超超高速
超超超超高速
までは行かないけれど、
そのけたたましさには笑ってしまう。
超解釈シェイクスピア。


(ネタバレBOX内は、できたら一気に一息で読んでくれたらうれしいです)

ネタバレBOX

超高速、としいうか超超高速で、普通の速度で上演したら倍の上演時間になりそうなぐらいであり、逆に普通の台詞速度で上演したら面白かったのか? という疑問は、とっても気になるのだけれど、ちょっとだけ胸にしまっておきながらも、汗びっしょりな感じの舞台であり、動きも激しいのだけれども、いつもの「振り」のような感じではなく、実はその「いつものような感じ」が好きだったりするので、そこはちょっとどうかなと思いながらも、これは「いつものように」映像の使い方などがとても面白く、手作り感たっぷり白い箱に映し出される、アフレコ的な使い方とトナカイは特に良かったなという話であり、その話、ストーリー、物語は、どうやらシェイクスピアの『アテネのタイモン』をベースにした物語らしいのだけど、それは、あ、そうそう主人公は大門(タイモン)という金融業をやっている男で、父親が一代で築いた会社の二代目として収まっており、その父親は、金融業で財を築いたわけではなく、実は、ひよこの雌雄を判別する鑑別師だったので、それで財を築いたということのようで、主人公の大門(タイモン)は、その会社の二代目になっており、なぜか「イイ大門(タイモン)」「普通の大門(タイモン)」「悪い大門(タイモン)」の3つのキャラクターを持ってい、い、い、いるのだけれどどど、物語が進行するに従って、そのあたりが段々2つとか1つとかに見えてくるのが、高速のためか、超高速ためか、超超高速のためか否かはわからないんだけれど、そのキャラクターが3つあるというあたりが、ひょっしたら、物語の前半と後半で、生き方が変わってきてしまう『アテネのタイモン』のほうのタイモンのキャラクターをベースにしているのではないかと思ったりして、あ、あと、リンゴ農家の人がリンゴが売れないことを嘆いていると、大門(タイモン)は、親切心からすべてのリンゴを買い取ることになり、おかげでリンゴは高値になって、例えば1箱10万とかの、そんな凄い価格になったりして、リンゴ農家の人は喜ぶのだけれども、他のリンゴ農家の人からは裏切り者呼ばわりをされてしまうことになったりするあたりというか、気前よくお金を与えてしまうあたりも『アテネのタイモン』が見え隠れしつつ、リンゴに対しては「剥いて食べたい」と大門(タイモン)は考えているのだけれども、メイドはまったく剥いてくれず、大門(タイモン)は、それに苛立ちつつ、クリスマスに思いをはせ、サンタの衣装を纏ったりして、それはどういうことかと言えば、大門(タイモン)は、祖父の思い出からクリスマスには特別の想いがあり、実は誕生日がクリスマスだということも微妙に関係したりしていて、それは「幸福」というニュアンスをも含んでいたりして、青いモップに追われる妄想から、それは「自分」なのだというあたりに思い当たる大門(タイモン)の姿は、幸福論とまではいかないけれど、「幸福」に関するひとつの考え方が披瀝され、あ、そうか、ミクニヤナイハラプロジェクトには「幸福」がキーワードなのかもしれないと思ったりして、それは次回公演が『幸福オンthe道路』の再演だということを開演前のチラシの山の中で目にしただけではないかなととととと、そんなことを考えつつも、舞台の上では大門(タイモン)は、「待つ」とにかく「待つ」のであって、自殺しそうになっていた中学生に勘違いされたままであっても、大門(タイモン)は「待つ」のであって、子ども、と言ってもリンゴのことなんだけど、子どもを天に生け贄として雨乞いをするが、雨は降らず、子どもも大人も人が死に絶えてしまうというエピソードはあまりにも悲しく、それは捧げるものがどうあれ、天は何も応えてくれないことにより、絶望のようでもあり、なんかそれには、常に世の中にある、今もある、現実感のようなものが漂う感じであり、まさに『アテネのタイモン』の本質はそこにあるわけで、シェイクスピアは「神」をどう感じ、とらえていたかということの証左であるようにも読み取ろうとすれば読み取れるわけで、と言っても、シェイクスピアが「神も仏もあるものか」と言ったかどうかはしらねども、そう単純なものであろうはずもなく、そんな「エッセンス」に気がつき、それを抉り出し、さらに、ミクニヤナイハラプロジェクトが提示したクリスマスエピソードの「幸福」と対照的にして、「答え」のようなものとか、あるいは「問い掛け」とかをしてみせたわけで、それは取りも直さず『アテネのタイモン』の、超解釈だった! と思い当たり、ここにきて、「ああ凄いな」と感じてくるのだけれども、そのあたりがもっと洗練されて、というか整理されたりすると、大傑作なわけだけれども、大門(タイモン)は「待つ」わけで、メイドはリンゴを一向に剥いてくれないわけであり、それを嘆きつつも大門(タイモン)「待つ」のであり、でも、だけど、『アテネのタイモン』のタイモンのように大門(タイモン)は死んでしまうわけではなく、なぜかと言えば、大門(タイモン)は「前向き」だからだ、ということなのだった。
明けない夜 完全版

明けない夜 完全版

JACROW

シアタートラム(東京都)

2011/08/25 (木) ~ 2011/08/28 (日)公演終了

満足度★★★★

かっちり組み上がっていた昭和レトロな物語
まるで昭和に撮られた映画のような雰囲気。
ちょっとした「実験的」とも言える「構成」の面白さもある。

ネタバレBOX

かっちり組み上がっていて、それを観るのは気持ちがいい。
とても昭和レトロな物語となっていた。
こういう言い方は、どうかと思うけれど、まるで1960年代の松竹映画を観ているような感じか。

つまり、ストーリーそのものが昭和的であり、その中で演じる役者の台詞や身のこなしなども「昭和」の匂いがプンプンなのだ。驚いたり、反応したり、言い合ったりが。あのボンボン社長が若い女子社員にもてるのも昭和的だ(笑)。
昭和だから、そういう台詞で、そういうリアクションをする、ということを、昭和の映画を参考にしたのではないのか? と思ったほど。すべて既視感のありそうなものと言うのは言い過ぎか(実際、それが強すぎるところでは笑いが起こっていた)。

また、役者たちが演じるのは、とても輪郭がハッキリしている人物たちであり(悪く言えばステレオタイプを貫き通している)、その組み合わせ方が巧みだった。

彼らが生み出す、ギスギス感がたまらない。警視庁と所轄、夫婦間、社長夫人とお手伝い、従業員間、古株従業員と社長、社長と愛人、とにかく人が顔をつきあわせるとギスギスしてくるのだ。このあたりも昭和の人間関係な感じがしてしまう。

ただ、そうした「昭和的な作法」に則ったとしても、見応えはあった。

そして、それを支えるセットなどがとてもよかった(初演のときも良かったのだが)。2階と階段や、廊下から階段を歩く「音」、玄関の動きと「音」そういうあたりがとても気が利いていた。
さらに、庭に雨上がりの雫がたれている、なんていうのはなかなか憎い演出であり、事件の核心の雷雨との関係も憎いのだ。

ただし、そうしたセットなどに気を遣うのだあれば、3カ月前、2カ月前、1カ月前などの時間の変化による衣装も、もう少し気を遣うべきではなかっただろうか。そこは少し残念でもある。

この舞台は、再演だ。
初演は、本編+外伝という構造になっており、今回の舞台を観ることで、初演の構造がいかに素晴らしいものであったか、の確認をしたような気がする。
つまり、初演では、本編で全体のストーリーを見せ、外伝(全登場人物の一人芝居×5分間)で、それぞれの人物を通じて、物語や人の肉付けをするという構造は、観客に想像させる「隙間」がきちんとあった。
その「隙間」によって、物語は観客それぞれの中で膨らみ、傑作となったと言っていいだろう。
もちろん、今回も初演とは別の「構造的」な良さはあったのだが、観劇の喜びという面からは、前回のほうに軍配を上げたい。

今回の「構造的良さ(構成の良さ)」は、本当のラストの前に、まるで舞台が終わったかのように、社長夫人とその娘が出てきて観客に挨拶をしたのにもかかわらず、その後にも演劇が続いたというところだ。
ここで、表面上の物語は終了した、つまり、犯人と動機は課長が社長に告げた内容で幕引きになった、ということを示し、本当の物語はこうだった、と観客に告げるシーンが続いたというわけなのだ。
これには唸った。面白い。

そして、前回も同じ感想を持ったのだが、この舞台で一番泣けてくるのは、第一幕終了のように、社長夫人とその娘が手をつないで現れる、そのシーンだ。
演劇としては、ここまで入るのかどうかはわからないが、社長夫人と娘は、本来こういう姿でいなければならなかったのに、という想いが強く伝わってくる。
これにはやられた。ギスギスしていた人間関係に、本来の親子愛が見えたというか。
また、終演後のアナウンスを娘にやらせるのはずるいと思った。
演劇としては、ここは入らないとは思うが、「役」としてしか観ていない子どもの声には、このストーリーの結末が脳裏にあるので、胸が痛くなるのだ。

「死」関するような台詞(死んだとか、殺したとか)が一切「音」として出てこないところもなかなかだと思った。

役者は、社長夫婦(和田秀人さん、蒻崎今日子さん)がイヤな感じ満載でいい。社長夫人の娘への愛情が表れてくるのがいいし、保身しか考えてないボンボン社長というのが、うまいのだ。
「エダニク」「サブウェイ」

「エダニク」「サブウェイ」

真夏の極東フェスティバル

王子小劇場(東京都)

2011/08/25 (木) ~ 2011/08/28 (日)公演終了

満足度★★★★★

【真夏の會『エダニク』 】シンプルで、美しいと言ってしまう、会話劇
3人の役者のバランスもいい。
しかも再演ということもあってか、台詞も役も身体にぴったりしていて、うまい。標準語と関西弁の関係もいいのだ。
なんとなくのユーモアととぼけた感じもナイス。
劇作家協会新人戯曲賞の講評でマキノノゾミさんが「満点」と言った意味がわかる

ネタバレBOX

関東のどこかにある、屠畜場の休憩室として使っている1部屋が舞台となる。
登場人物3名で、シンプル。

「美しい」と言ってしまいそうになるほど、きれいに台詞が組み合わされた台詞劇。
3人(夏さん・原真さん・緒方晋さん)の役者のバランスも素晴らしい。
「息」がぴったりと合っている、というのはこういうことを言うのだろう。
「その人」が見えてくる。
「人」がいる感じがする。

スクエアの上田さんが演出というのも頷ける。スクエアがそうしたあたりをきちんと押さえていく劇団だからだ。

また、劇作家協会新人戯曲賞受賞というのもよくわかる。
そのときの講評で、マキノノゾミさんが「満点」と言ったのはこういうことだったのか、と。
特に、関東を舞台としたことで、玄田の関西弁が活きている。関西の人が見てもそう感じないのかもしれないが、ツッコミの言葉がいいのだ。とてもいいアクセントになっている。リズムが出てくるというか。

屠畜という仕事を通じて、「命」と「仕事」というキーワードのぶつかり合いになるのだが、そこが強くクローズアップされるわけでもない、微妙なバランスがいい。
「仕事」そのものに込められている、さまざまな現実と想いが描かれていると言ってよいだろう。
それに対しての疑問が、この仕事の場合の「命」であり、このキーワードを投げかけることで、屠畜という仕事(あるいは食)についてクローズアップするだけでなく、「働く」こと、「仕事」することに、意識が向かうのだ。

職人として淡々と仕事をこなしながらも、プライドがあり、力量もある玄田、自分の仕事に対して、(家族との関係で)なんとなく負い目のようなものを感じている沢田、そして、やっと仕事に就いたばかりで、口先だけの青臭い理想を語る(しかし、その発する言葉には、根源的な重みのある)伊舞、彼らの三者三様の「仕事感」がそこに浮かび上がる。

剥き出しな彼らのぶつかり合いが面白いのだ。駆け引きのような台詞が楽しい。

とは言え、ギスギスした感じよりは、独特のとぼけたユーモアがどことなく漂うのがいいのだ。
脚本もあるのだろうが、やはり、演出の呼吸がいいのではないだろうか。

息子に認められたと(あるいは、思い込んで)喜ぶ沢田、怪我をさせてしまった相手に対して負い目を感じていた玄田は、今回の事件を通して、相手のことをもうあまり深く考えなくていいと思い始めたように見え、また、本格的に仕事の第一歩を踏み出した伊舞など、いろいろあったけど、また次の日がやってくる、というラストもなかなかいい。

真夏の會、また観たいと思った。
超コンデンス

超コンデンス

少年王者舘

ザ・スズナリ(東京都)

2011/08/25 (木) ~ 2011/08/30 (火)公演終了

満足度★★★★★

凄まじい刺激が五感を襲い、脳髄を早鐘のように激しく叩く。それはまさに「超コンデンス」!
あまりのことに、ただただ、目を見開いて観るだけ。
なんという凄まじさ。
視覚、聴覚、あといろんな覚に凄まじい大物量作戦が仕掛けられている。
まさに「超コンデンス」!

ネタバレBOX

キンキン響く、高音の台詞が、脳髄を早鐘のように激しく叩く。
しかも、ダブル、トリプル、それ以上の「音」で。

吉田一郎という、少年・青年・老人・女性が、「私はここにいる」ということを認めほしいのに、認めてもらえない(承認してもらえない)。
誰に? 誰に認めてもらえない?
自分に、だ。
自分が「自分の未来」を認めてないからかもしれない。

アル中の老人の未来は、今の小学生の自分につながっている。
それを「否定したい」という気持ちから、小学生の自分がそこに生まれている。しかし「否定したい」と言っても、たぶんネガティヴなことではないような気がする(大矛盾しているけど)。
「不安」なのか?

「ボクはここにいる」ということを「否定」すると、「私」はいなくなる。しかし、「肯定」すると「未来の私」をも肯定することになる。
一郎は、「ボクはここにいる」と言い続け、「いない」と否定され続ける。

何十年戻っても、26分戻っても、4秒戻っても、1秒戻っても、それは同じ。
同じようで、すこしズレる。
カットパックされる過去と現在と(たぶん)未来。
時間と場所が繰り返されて、残像のように、自分や他人がダブって見えてくる。まるで何人もいるように思えてくる。

夕沈さん演じるヨチダは、一番ズレが酷い残像だ。
原型は「台詞」の「音」と「雰囲気」しか留めていない。

言葉もズレてきて、繰り返されるうちに「意味」は破壊されていく。延々とつながる言葉にはすでに「意味」はあったりなかったり。「無意味」の意味が姿を現す。「音」も確実にそこにある。

観客は、冒頭の30分に凄まじい勢いで、視覚と聴覚、いろんな五感を刺激され、すでにその時点で、脳みそは「台詞」の「言葉」と「意味」「無意味」と「音」で溢れかえる。
脳みそどころか、そのうち身体中から、そうしたモノが溢れ出してくるのだが、拾う者はいない。流れるままにしている。
凄まじく、スラップスティックなシーンと言葉を、ただただ浴びるだけの状態になる。まるで、観客は『時計じかけのオレンジ』のアレックスが矯正のため映像を見せられたように、目を見開いて舞台を観るのみとなる。

「アルコール依存賞」受賞して「アルコール依存の賞状(症状)」を受け取る。シリトリの居酒屋お品書き。
言葉遊びのボルテージが高い。高すぎる。それを映像を含めて、舞台から大量に送り出す。

言葉の「尻尾」を捕まえて、それを言葉の「頭」にして、さらにその「尻尾」を捕まえて……が延々と。
一郎くんの「尻尾」を捕まえたい、と思っているのに似ている。

「カナカナカナ」とセミの声。
「悲悲悲」「彼方彼方彼方」とセミが鳴く。

そして、『美しい十代』を歌うは三田明!

舞台はエネルギーが常に爆発し続ける。
ああ、なんという凄い舞台なのだ。
もう、1つのジャンルの到達点な感じさえする。

そして、とっても「疲れた」。

前作同様に扉(隠し扉)が多いセットで、それだけで楽しい上に、映像の効果も抜群。
客電が点ることことも数回あり、舞台と観客との確認作業のような一瞬が流れる。

ヨチダを演じる夕沈さん、やっぱり面白い。声のトーンも抜けがいいし、ダンスは、さすがにキレは抜群。名前はキャスト表ではわからなかったのだが、老人の孫娘を演じた女優さんが印象に残った。
「くすり・ゆび・きり

「くすり・ゆび・きり

エビス駅前バープロデュース

エビス駅前バー(東京都)

2011/08/21 (日) ~ 2011/08/30 (火)公演終了

満足度★★★★

気の利いた小品
バーという会場がうまく使われていて、とてもいい感じ。
ドラマの見せ方がうまいし、役者もいい。
こうなると60分というのが、逆にもの足りなく感じてしまう。

ネタバレBOX

恵比寿のバーが会場だ。
エビス駅前バーは3階にあるのだが、実はそこに上がる階段ですでに公演が始まっていたと言っていいだろう。
階段の途中には「離婚式は4階へ」の貼り紙があったのだ。
それを横目で見つつ会場へ。

不慮の事故で夫に先立たれたシングルマザーが切り盛りする、夫が残したバーが舞台。
そこでプロポーズした男女が、数年後、バーの階上にあるスペースで離婚式を執り行う。
そこに集まった別れる夫婦の大学時代の友人たちや、その関係者たちの男女関係(?)に関する悲喜交々が、さらりと進行する。
60分だからか、きれいにまとまりすぎな感じもしなくもないのだが。

会場自体が、バーということなので、カウンターなどを使ったお芝居だろうということは想像の範囲内だったのだが、時間の変化(年や季節も)、階上の様子の匂わせ方、さらにトイレの使い方を含めて、とても効果的だった。バーなのにシンプルながらライティングもよかったし。
限られたスペースなのに、人の入り出など芝居に細かく動きがあり、ドラマの見せ方(演出)のうまさはさすが。
こういう小さなスペースの近距離で観るのに適した脚本と演出、さらに演技だったと思う。
こうなると60分はあっという間すぎて、逆にもの足りないぐらい。
もっともっと観たい、と思ってしまう。

そして、役者たちがうまい。
特に、伊丹孝利さんのトボけた感じ、山﨑雅志さんの、ちょっと嫌みな感じから、ある人への愛情を露わにするあたりや、だてあずみさんの、若い強さと脆さ、中村貴子さんの渋さが印象に残った。
そして誰もいなくなった

そして誰もいなくなった

劇団東京乾電池

駅前劇場(東京都)

2011/08/19 (金) ~ 2011/08/21 (日)公演終了

満足度★★★★

タイトルとサブタイトルにあるようなストーリー展開
下手の観客席の壁にも、この芝居の内容がいろいろ書いてあったりしたし、推理劇でもストーリーを追うというのでもないのだろう。

東京乾電池は不条理劇の印象が強い。
そして、今回も別役実作の不条理劇。

劇団の初期の頃に上演した作品だということらしい。
そして、今回は東京乾電池35周年記念公演ということである。

ネタバレBOX

大きな黒い箱を男女が前後を持ちながら出てくる。
箱を持つこと、置くことに関してやり取りが始まる。
「箱を置けば楽になる」「誰が楽になるのか」「私が楽になる」「そうすると私はどうなる」「あなたも楽になる」「箱を置くときに指が挟まる」などという会話が延々続く。微妙に噛み合ったり、噛み合わなかったりと、まさに(画づら)も含めて「不条理劇」だ。

その後次々に一癖も二癖もある登場人物たちが現れ、どうやら、誰かが彼らをパーティに呼んだことがわかる。呼んだのはゴードンなのかゴドーになのかオウエンなのかゴウエンなのか、パーティの理由さえも定かでない。
とにかく、主催者を待つことにするのだが、会話は、やっぱり噛み合ったり、噛み合わなかったり。

待つ間、お茶を飲みながら、箱からレコードを取り出してかけることにする。レコードからは、主催者らしき男の声がする。レコードの声は、ここに集まった10人は、それぞれの罪により死刑に処すと告げる。彼らには思い当たるフシがなかったり、あったり。
さっそく1人の男が飲んでいたお茶により毒殺される。
そして残った9人は慌て、犯人捜しをし出そうとする。
しかし、また1人、そして1人と殺されていく。

箱から見つかった手紙に書いてある、10人のインディアンの詩が、どうやら自分たちの運命と関係することに気がつく。
そして…。

全編、変な空気がずっと漂っている。
目の上に濃いアイラインを入れたメイクを全員がしてたりして。
そんな変な雰囲気。
絶えず会話は噛み合ったり、噛み合わなかったり。

確かに面白い。見せる。
柄本明さんのトチったり、台詞が飛んでしまったり、思わず吹きだしてしまったように見せる演技も冴えている。これはほかの人にはできないレベルだ。
江口のりこさんも、淡々としながら、長台詞を見事に聞かせ、思わず、「うまいなあ」と思う。

「ギャグ」とかくすぐりのような台詞が、それほどあるわけではないのだが、「間」とちょっとした関係性だけで笑いに変えていく手腕はさすがだ。

ただし、物語が妙に古めかしく感じてしまった。
別役さんの戯曲は、大昔は「へえ」とか「ほう」とか思って観ていたのだが、この最近はどうも古くさい感じが否めないのだ。古典にはならない古さとでも言うか。
それは、不条理劇っぽい設定すぎて(最初の箱を抱えた2人の会話とか)、それがあまりにも不条理劇そのものなのと、ストーリーの展開が妙に辻褄が合いすぎることにあろのではないかと思う。
あまり観客を突き放さないのだ。

例えば、この舞台のラストの「オチ」(あえて「オチ」と言ってしまうような感じ)も、「なるほどねぇー」と思ってしまうものだったし。
もちろん、ビジュアル的には人を喰っているような感じで、大いに愉快で楽しいものではあったのだが。

駅前劇場はとんでもないぐらいに満員だったが、35周年記念公演で、公演期間が短いのでもう少し大きな劇場でもよかったのではないかと思った。

それにしても、東京乾電池は面白いよ、と思う。
できたら新作を観たかったなあ、とも。
しかし、次回は、『ハムレット』とのこと。これはこれで期待したい。数年前に観た乾電池の『真夏の夜の夢』はとんでもない怪作で、もの凄く楽しんだので。


ついでに書くと、今回の舞台の中で、「ゴドー」という名前が出てきた(サブタイトルにもある)。もちろん「待っている」ということから、あのゴドーのことであろうと思う。不条理劇に限らず、「待って」いたりするとよく出てくる。そして、その戯曲そのものをベースにした戯曲も多く書かれていると思う。もちろん、リスペクトだったり思い入れだったりがあるのだろうが、その名前を舞台で呼ぶ限り、本家ゴドーを超えることはできないと思うのだ。まあ、わかっててやってるとは思うけど。
これは僕が神様になりたかったけれどなれなかった話で、僕の彼女が実は地球だったってオチが待っている話なわけで、

これは僕が神様になりたかったけれどなれなかった話で、僕の彼女が実は地球だったってオチが待っている話なわけで、

劇団エリザベス

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2011/08/19 (金) ~ 2011/08/21 (日)公演終了

満足度★★★

これはもの凄くナイーヴ
になりそうな話なわけで、語り口とか、取り立てて新鮮味はないものの、爽やかな感じになれそうな雰囲気はあったりするのだけれども、「あぁぁ」なんて思ってしまったところも結構あったりしたわけで、あとやっぱり、学生さんだからというわけではないだろうけれども、思い切りが悪いというか、なんか「照れ」なのか、そうした印象を受けてしまったけど、まあ今後は期待してもいいかななんて思って、ナイーヴで期待、略してナイーヴ期待。

ネタバレBOX

主人公のすやまが出てきて、一言二言しゃべって、演技らしきことをして、「ああこれは」と思ってしまった。
それはいい意味の「ああこれは」である。彼がうまいのか演出なのかは知らないが、もうこれは相当ナイーヴな話になるなと予感した。
結局そうなっていくのだが、その「ナイーヴさ」は、彼の(舞台の上での)キャラクターに負うところが多いと思う。
「声」と「風貌」が多くを語ってくれる。
彼を観るための舞台ではないか、と思ったほど。
彼、すやまは、イコール戯曲の作者ではないかと思った。

つまり、相当ナイーヴな人が書いているのではないかと思ったわけだ。
そういう人が書くから「照れ」がある。「いっちょシュールに決めてやろう」と思っても、「照れ」が出てしまう。
それが役者にも伝わったのではないだろうか。演出とかで。どうもそうした「照れ」のような、たとえれば、ハンドブレーキを解除するのを忘れたまま運転しているような、ブレーキ感が残るのだ。
そんなブレーキ感は、意図していないのであれば、当然気持ちは良くない。

物語は、3.11以降、こんなストーリーが多くなったな、という印象そのままのもので、失礼な言い方をすれば「まあ、こんなものかな」だ。
メルトの設定とか、自分世界と他人世界とのかかわり方とか。
正直言えば、そこの設定に、もっと切実な、今の自分たちしか感じ得ない何かがあったのではないかと思うと、少々もの足りなくもある。
とは言え、きちんとまとまっていて、伝わるものがあったのは確かではある。

それと、劇中にシュール的な、たぶん(作者が)「面白いだろうと思っていること」を、いろいろ入れてきたが(例えば、通過するだけの人とか、揃ったポーズとか、そんないろいろなこと)、どれも面白くなかった。唯一笑ったのは扇風機の名前ぐらいだった(物語の展開からするとリスペクトしてる? 演劇のアイコン?)。これらは精査した上で、ブラッシュアップするか思い切ってすべて削ってしまえば、いい物語になったのではないかと思ってしまうほどだ。

これも、突き抜けてしまえば、ひょっとしたら、それはそれでカラーになったのかもしれないが、そのへんは微妙だ。似たようなカラーの劇団がひとつ増えるだけの結果になるもしれないからだ。

この劇団のことだけではないのだが、もうそろそろ、ゴクーとか、かめはめ波ーとか言って、面白いと思う感覚は捨てほしい。実際「面白くない」ではなく「つまんない」のだから。
若い、これからの劇団がそんなありきたりの、アニメとか映画とかに寄りかかってもしょうがないじゃないかと思う。
実際、そういうアニメだとか映画に、無自覚に寄りかかったモノを見て、面白かったことなんて一度もないんだから。
「あえて」それを使うというレベルまでには達していないと思うし。
自分で創造したモノだけで勝負しょうじゃないか、と思う。

役者は、冒頭に書いたとおり、すやまを演じた須山造さんが、今回の舞台のすべてだったと言ってもいい。このタイプのキャラクター以外をどう演じるのかは興味津々。えんを演じた加藤エンさん、あいんしゅたいんを演じた熊野善啓さんも健闘していたと思う。ただし、切れはイマイチだったが。肩幅おばけを演じていた下地尚子さんも変な空気を出していて印象に残る。
林先生を演じていた林剛央さんは、演出が悪すぎるのか、どうも間が悪い。これが演出の意図だったとしたら、役者はちょっと可哀想かもしれない。

いろいろ書いたが、全体的には「面白予感」に満ちていたので、役者も演出もみんながもっと本気に追い込み合って、どこかに突き抜けて行くことを期待したい。そうすれば相当面白い劇団になるのではないかと思うのだ。
「お前何様?」な偉そうな意見だけど。
Nazca -ナスカ-

Nazca -ナスカ-

劇団銀石

吉祥寺シアター(東京都)

2011/08/18 (木) ~ 2011/08/21 (日)公演終了

満足度★★★

天と地を結ぶのは「想い」。そして、飛んで行った人たちに「呼びかける」
アプローチがよさげな話だった。
役者もいい感じだし、舞台の使い方もいい。
が、しかし…。

ネタバレBOX

星座たち、ナスカ、そして家族へと、マクロからミクロに進んでいきながら、家族たちの、想像と妄想の世界という、さらにイメージのマクロへ広がり、さながらクラインの壺のような世界を舞台に見せてくれた。

ストーリーは面白そうだし、興味を持って観た。
開幕から舞台を大きく使った展開、気配を感じさせるキャットウォークなども駆使した演出も素晴らしい。

役者もいいなと思うシーンがいくつもあった。

また、チケットの代わりの封筒という小道具も憎い。大切なキーワードとなっていくからだ。

ピアノの生演奏もとても良かった。

しかし、私の心はまったく動かなかった。
何も感じない。
なぜだろう?

それは、まずは、「人が描けていない」からではないだろうか。基本となる一家、母、兄、姉、弟の4人のそれぞれがもっときちんと描かれていれば、感情移入もできたのではないだろうか。
さらに言うと、妄想物語の中心人物の2人、ウツセミ、モズの2人が、父親不在や病気というだけでなく、「なぜ妄想世界にそこまで深く入り込んでしまったのか」が丁寧に示されていたら、違った受け止め方になったと思う。
ここは結構大切なのではないだろうか。
各エピソードに対して、彼らがコミットしてくるのが少なすぎるのだ。もちろん、妄想世界が走り出してしまい、本人たちも預かり知らない、というのもわかるのだが、結局彼ら家族に戻ってくる話なのだから、そこは押さえてほしかった。
それと、彼らの兄であるトビタツも重要な役割を担っているのだから、彼は何を思っているのかが、きちんと伝わってくるとさらによかったのではないかと思う。

また、人数が多くなる場面では、必ずと言っていいほど、テンションが高くなる。それはいいとしても、その表現方法があまりにも一律すぎて、またか、と思ってしまう。それぞれのキャラクターに合った表現方法が必要ではなかっただろうか。

さらに言うと、「特攻」のエピソードはあまりにも安直ずきはしないだろうか。「戦争」で「特攻」って…。
せっかくの「セミ」というアイテムを活かすのならば、7日間の命と兵士の命を重ね合わせて表現するだけで十分ではなかっただろうか。
そんな要素で、感情を煽るのは、せっかくのこの物語に合わないと思う。話が横に逸れてしまったように思えてしまう。

それと「手紙」というキーワードをもっと有効に活用してほしかった。
「ナスカ」だから「地上絵」というアイテムは理解できるのだから、そこと「手紙」と「想い」と「呼びかけ」といういくつかのキーワードをきちんと整理して、観客に提示してくれれば、もっと伝わるものがあったと思う。
結局、物語の整理がきちんとされてなかったように思えるのだ。
それは、詰め込みすぎ、ということがある。
上に挙げたキーワードだけでもいろいろあるのだから、それをうまくまとめてくれればとてもよい作品になったのではないかと思うのだ。

天動説と地動説、どちらにしても、天と地を結ぶのは「想い」なのであり、飛んで行ってしまった者たちをしっかりとつなぎ留めるのは、地上にいる人の「想い」だけなのだ。
そういう、今回大切にしたい、伝えたい「想い」を「情念」として伝える、そうしたものが欠けていたのではないかと思うのだ。

役者は、ウツセミを演じた安藤理樹さん、アンドロメダを演じた熊谷有芳さんが印象に残った。
おどくみ

おどくみ

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2011/06/27 (月) ~ 2011/07/18 (月)公演終了

満足度★★★★★

「天皇制」を支える小さな「天皇制」−−まさに昭和が終わらんとする時代に、家族内の終わらない葛藤
ストレートプレイとしての完成度が高い。
役者たちのテンポのいいやり取りに魅了させられた。
2時間なのに「濃い」。
長いとかそういった時間感覚では表せない時間が流れている。

ネタバレBOX

面白い舞台というのは、脚本・演出・役者・舞台装置等々のバランスが良いものである、ということに今さらながら気づかされる。

登場人物のキャラクターがとてもいい。
「いかにも」「いそう」な人たちが「いかにも」「ありそう」で「言いそう」なことのオンパレード。その俗っぽさがたまらない。
たぶん、キャラクターが役者の身体にぴったりとしているので、そう感じてしまうのだろう。キャラ押しすぎる感じもあるにはあるけど。
もちろん、家族や親戚などの関係性など、ややステレオタイプにしたことで、観客の没入度が高まったのだとは思うのだが。
そういうところも「うまい」と言わざるを得ない。

弁当屋や学習院大学など、青木豪さんの実際の体験が活きているようでもある。

ナイーヴなテーマを扱うのだが、それへのアプローチはやや直截すぎるかもしれない。
「天皇制」「天皇」について語られ、キワドイ台詞が飛び交う(テレビサイズの自主規制に慣らされてしまった耳なので)。そのキワドさは、親しみから来るモノなのではあるのだが。

しかし、「天皇制」というものは、当たり前だけど、「小さな家庭の天皇制」すなわち「家長制度」が支えている。
それは、どちらがどちらを支えているのかは、今やわからないのだが、精神の根底にはそういったものが流れていた、ということなのだ。
「家長制度」が崩れつつある現代においての「天皇制」はその「象徴」であり、今も続く、一種「アイドル」的なとらえ方にもつながっていく。

「家」「家族」を長男たる自分が支えるのが当然と思っている弁当屋の主人と、それに耐えきれない妻と子どもたち。
まさに象徴たる昭和が終わらんとする時代に、昭和を引きずる、家族内の終わらない葛藤が続く。

弁当屋の息子は、天皇暗殺の映画を撮り上げることはできず、どこかで断ち切りたいと思っている、「家」との関係もそのままで、結局そうした見えない何がつながっていることを示唆しているような物語だったと思う。
花と魚

花と魚

十七戦地

シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)

2011/07/28 (木) ~ 2011/07/31 (日)公演終了

満足度★★★★★

この1本で、もの凄く好きな劇団になった
とにかく面白かった。
もうワクワクしながら観た。
伝奇的であり、SF的要素に「今」の空気を送り込んでおり、若いながら、熱演の役者たちがいいのだ。

ネタバレBOX

宮崎の漁村では野生動物の被害が出ていた。その被害は、家の外に置いていた貯蔵食物を食べ荒らされるなどだ。
その対応として、野生動物の調査会社から研究員がやって来た。彼は、野生動物から村人の暮らしを守るために、被害状況はどの段階なのか判定する役割を持っていた。
野生動物が人間のテリトリーに入らないようにするのか、あるいは駆除するのかということを判定するのだ。

村では、自然保護の観点からその動物と共存したいと考えている派と、グリーン・ツーリズム等の導入による村おこしをしたいので、本格的な被害が出る前に、駆除したいと考えている派の2つに分かれ、研究員の判定を待っている。

研究員は、村に被害を与えている動物は何なのかが、どうしてもわからない。それを知っているはずの村人たちの口は重くなかなか真相を話そうとしない。

それと並行して村祭の準備も進められていた。代々続く舞を舞い、灯籠の用意をする。ご神体は、村を襲う動物たちに破壊されていた。

ついに、人が襲われるという実害が出たという情報が届き、駆除することが決まる。捕まえて殺処分することになる。研究員はかつて口蹄疫騒動のときに、毎日毎日牛を殺処分していた場所から逃げ出したという過去を持っていた。しかし、それでも自分の役目であると言い、その未知の動物を殺処分していく。
しかし、処分しても処分しても動物は現れてくる。さらにこの村以外の地域にもそれは現れてくるのだった……。

設定は物語に引き込むだけのインパクトがあり、その展開は興味を引きつつ飽きさせないものがあった。

神話や言い伝え、蛭子伝説など伝奇的でSFチックな物語の展開は、どこか諸星大二郎的な印象もあるが、イメージの膨らませ方もいい。
そこに今を象徴するような、賛成派と反対派の対立、デマの誕生と流布、風評被害、行政(政府)の対応、そして、地方の支援や村おこしなどもベースにしつつ、とてもいいところを盛り込んだ脚本だと思う。
もちろん、少々盛り込みすぎな点もあるのだが、それでも110分という長丁場を見事に見せきった。
細かいことを言えばいろいろあるのだが、物語を楽しむという意味でも、エンターテイメントとしても面白いと思う。

台詞により、村内の様子や未知の生物、そして波間に咲く花などのイメージが、観客に中に見事に開花していくのだ。
その表現が素晴らしい。

ラストの展開も、村内だけの閉ざされた設定だったのが、一気に地球規模までも広がるような、演劇的なイメージの与え方が、本当に素晴らしいと思った。
観客に見事に壮大なイメージを投げかけていた。そして、客席で思わず「これは凄い」と唸ってしまった。

役者は、どの人も熱演だった。
中でも、おばさん的な切羽詰まった感がよく出ていた、那美江役の杉村こずえさん、口蹄疫のときのトラウマを抱えながら冷静さを装う北川義彦さん(殺処分以降の表情とか)、ふるさと会の副会長を演じた佐藤幾優さんの抑えた感じ、当初は周囲から軽く見られていることで、投げやりだったが、後半にいくに従い本来の姿を現して来る会長役の向原徹さんたちが、印象に残った。
そして、実際を知らないので、ネイティブな方言とは比較できないが、ほぼ全員の役者が宮崎の方言を見事に使っていることにも感激した。

村に伝わる「舞」が出てくるのだが、コンテンポラリー的すぎるので、もっとお神楽のような「舞」にしたほうが良かったのではないだろうか。
また、言葉でしか出てこない「未知の生物」は、ご神体という設定で登場するのだが、それは直接的すぎるような気がした。
例えば、先に書いた「舞」として登場させるのはどうだっただろうか。練習では衣装等を付けずに、終盤で、ロウソクの炎の中で、魚のような頭(かしら)を付けた舞を舞ってみせたのならば、その姿がシルエットに見えたりして、もっと印象的だったのではないかと思うのだ。
さよなら また逢う日まで

さよなら また逢う日まで

ブラジル

紀伊國屋ホール(東京都)

2011/08/14 (日) ~ 2011/08/16 (火)公演終了

満足度★★★★

スタイリッシュに決めたクライム・ドラマ
ハードな役柄を、うまく自分の中に取り込み、表現できる役者が揃う。
彼らの台詞のやり取り、感情の取っ組み合いがたまらない。
それを楽しむ舞台。

ネタバレBOX

男が4年の刑期を終え、出所してきた。
彼は、刑務所内で知り合った男を連れて、かつての犯罪者仲間たちと、一仕事しようとしている。
彼は、その仕事で自分が捕まったことへのリベンジをしようと思っているのだ。
仲間たちは、廃工場のような場所に三々五々集まる。
集まって来たかつての仲間たちは、足を洗っている者や結婚している者もいるのだが、どこか胡散臭い。
「4年前のリベンジ」、それがキーワードになり、信じ合えない仲間同士の駆け引きの中、現金輸送車を襲撃する計画が練られていく。

ストーリーを少し紹介するだけで、ハードボイルド・タッチな物語であることは伝わるだろう。

それを、ハードな役柄を、うまく自分の中に取り込み、表現できる役者が揃い演じるのだ。
彼らの台詞のやり取り、呼吸の感覚が観られることにこの舞台の良さがある。
引いたり、激したり、そんな感情の取っ組み合いがたまらない。

どこか、レザボア・ドッグスを思わせるような雰囲気はあるのだが、こちらのほうがスマートか。
クライムもののアイコンのようなブラックスーツに全員が身を包む。
正直、「リアル」というキーワートで観ると、「犯罪者です」と言わんばかりのブラックスーツな人々が廃工場に集まったら、即110番通報されるのがオチではあるが(笑)。
まあ、そこは、スタイリッシュに決めたというところだろう。

出演者の顔ぶれを見て、「いつもの感じだな」と思う人もいるのだが、キャラの立て方がいい。全員がガンガン前に出ないところもいいし、女性が2人もメンバーにいるという設定も面白い。
男臭い犯罪劇の中に、それに負けない女性がいるというのもいいのだ。
鬱陶しいキャラやとにかく胡散臭いキャラなど、そういう設定も楽しい。

結局、誰がどうしてどうなるのか、がストーリーの肝となっていき、それで観客を引っ張るのだが、それはそれほど重要ではない気がしてくる。
ラストとか展開とか、いまひとつ「お話のためのお話」な感じもしてくるということもある。
ただし、ラストへのあれよあれよの展開は快感だ。
セットもカッコいいし。

これ、アゴラでやったとは。アゴラのような場所で、もっと近くでも観たかった。
青山君よ、家が明けたら夜に帰ろう

青山君よ、家が明けたら夜に帰ろう

コーヒーカップオーケストラ

シアター711(東京都)

2011/08/10 (水) ~ 2011/08/14 (日)公演終了

満足度★★★★

これはもの凄く好きな劇団になりそうな予感
どうでもいい脇道に、真剣に逸れていく感じがたまらない。
不思議な感覚のコメディ。 …コメディで合ってるよね?

ネタバレBOX

「夢オチかよっ!」って言いそうになるところだったが、もちろんそうではなく、夢に逃れて行かざるを得なかった人々の話である。
タイトルに結びつくラストは、普通「やっちゃった」感が出てしまうのだが、全編「やっちゃった」感なので、気にならず、逆にうまくまとめたな、と感心してしまった。
…「感心してしまった」は、少しウソだけど。

とにかく最初から、「一体、ストーリーはどこに行くの?」と思うような展開が続く。小劇場でありがちなダンスシーンには、「整理」の人が出てきてダメ出しをしてしまう。しかも、それは本編と関係がないときている。
バスならぬ、半裸の男たちが人を運ぶオッスとか、黙って立っているだけの月とか、必要のない想像シーンを見せるとか、「海賊」に反応して、ただ2度も出てくる人とか、青山くんの10年後の様子とかとかとか、とにかく「脇道」が多くて、それなのに、脇道にも全力であたる。
必要のない情報に舞台の上は溢れかえるのだが、そんなことお構いなしで進む様は面白すぎる。
「整理」の人が出て来る割には、舞台の上は「未整理」のまま、どんどん行くのだ。観客がついて来る、来ないはすでに関係ないようだ。
でも、いや、だから、面白い。そこが面白い。

役者は、それぞれの持ち味にマッチした役だったと思う。もう少し具体的に言えば、「力量にマッチした」だ。できる範囲での面白さを引き出していたように思える。あまり無理な役をさせないということは、本人のためだけではなく、観客のためでもあるのだ。無理な役をさせてしまうことで全体が沈み込むことがあるからだ。それをうまく避けたのではないかと思う。
イッペイ役の宮本初さんの唾を飛ばす熱演がツボった。特に就活での撃沈シーンなど。これ観たら、いろんなコメディ劇団が客演に、なんて思うのではないだろうか。でも、濃すぎるから無理か。「青山くんよぉ、オレたちはだめみたいだ」な台詞がいいんだ。
あとは、ネコの月野木歩美さんもよかったし、ヒロインの細井里佳さんが爽やかに見えて(あの中にいれば当然か…)、突き抜けるような声のトーンとともにとても印象に残った。

もう1回ぐらい観たら、たぶん、いや、きっと、いや、やっぱり、たぶん好きな劇団になりそうな予感がする。
こういうタイプのハチャメチャ感が好きなのだ、といまさらながらに確認した。

会場は通路にもパイプ椅子を出すほどの満席だったのだが、緊急時とか、気分が悪くなったときとかに、どうするのかをきちんとアナウンスすべきだったと思う。予約等で想定内だったと思うので、そういう用意も前もってできたはずだ。
ただ、追加席を作りながらの客入れのため、開演が押すことが確実になったときに、主宰が出てきて、開演が押すことを詫びていた。そういう姿勢はいいと思ったのだった。
トロンプ・ルイユ

トロンプ・ルイユ

パラドックス定数

劇場HOPE(東京都)

2011/08/09 (火) ~ 2011/08/14 (日)公演終了

満足度★★★★★

サラブレッドのダンディズムで男たちに鞭を一発! −−演劇的トロンプ・ルイユ
演劇でしかできないシカケが見事に活かされる。
笑いも随所にある。
競馬の知識ゼロの私が観ても面白かったから、芝居を観たことない人で、競馬好きの人が観たらたまらないのではないかと思った。

ネタバレBOX

競馬はまったくやらないのだが、競馬は「馬」という動物が走るために、それに観客はついつい自分の姿や人生を重ね合わせてしまうということを聞いたことがある。
この舞台でもまさにそうした情景が数多く盛り込まれていた。

逃げ馬のロンミアダイムに入れ込む青年、中央から地方に流れてきて、さらに再復活を狙うドンカバージョに自分の果たせなかった人生を重ねる調教助手などだ。

これが、単に言葉だけであれば、「なるほどなあ」というだけのところではあるのだが、ここに演劇ならではの仕掛けがある。
「人」と「馬」が似てくる(似ている)ところがキーポイントでもある。

すなわち、「人」と「馬」を同じ役者が演じるというものだ。それによって、「人」が「馬」に同化するほど自らを重ねていく様子が鮮明になっていく。

冒頭で小野ゆたかさんが演じる青年が、自ら応援している競走馬と同一になっていることを匂わせる「わかるんだ」という台詞の入れ方(脚本的な)のうまさ。「人」=「馬」なのか、それとも別々の人格のある「別モノ」として演じているのか、で観客をちょっとゆさぶるいいシーンだと思う。そのあしらい方が、演劇的なのである。

さらに、演劇ならではの手法で、その「人」から「馬」、「馬」から「人」へ変わるのも瞬時行うことが可能だ。まさに「(演劇的)トロンプ・ルイユ」。
実際、舞台の上には見事にサラブレッドが登場するのだ。

「人」として会話していた2人が、そのテンションのまま、2頭の「馬」になるなんて実にスリリングで楽しい。
「馬」としての形態模写を最小限にしたことが功を奏していると思う。
ヘタに「馬」の描写、例えばいななきとか、ギャロップとか、そんなことを入れ込まず、その立ち姿だけで「馬」(サラブレッド)を表現する。
そこは一番のキモであると同時に、下手をしたら、「馬が出ている」ということを壊してしまうことにもつながる微妙な演出だったと思う。
ほんの少しどちらかに転んだとしても、成立しなかったのではないだろうか。

「馬」に徹しすぎてしまえば、この物語が、演出家の意図する範囲で成立しなくなる可能性もあるからだ。

それはもちろん演出家の力もあるのだが、役者がいいということもある。品のある「馬」、それも「サラブレッド」を演じていたと思う。

さらに「人」と「馬」だけでなく、「馬」と「馬」、「人」と「人」もつながり、わかり合い、通じていくという姿が描かれるのが美しい。

役者はやはりすべての人がよかった。
ミヤコヤエザクラ(生津徹さん)の端正な感じと、馬主の懐の広さ、調教師(加藤敦さん)の揺るがなさと哀しみ。
ドンカバージョ(井内勇希さん)の若さから来る鼻っ面の強さ、厩務員(植村宏司さん)の感情の動き。そして後々まで語り継がれるのではないかと思う(笑)、アイゼンレイゲンとドンカバージョが海を見ながら大豆を食べるシーン。
ウィンザーレディ(西原誠吾さん)の気むずかしさ。そして、調教師と「つながった」ときの、観ている側に鳥肌が立つ感じ。
ロンミアダイム(小野ゆたかさん)の走ることの快感を語る語り口。
もうどれをとっても「いい!」としか言えない。

競走馬(サラブレッド)は美しい。1度だけ府中に行って実際に走る競走馬を生で見たことがある。競馬場の熱気の中で、観客の熱っぽい応援を一身に浴び、筋肉を躍動させ走り抜ける姿は美しものであった。
その姿は、凛々しくもあり、パラドックス定数的には、ネクタイを締めている感じなのだろう。スマートでどこかオフィシャルな感じなのだ。紳士ということころか。

作・演の野木萌葱さんは、「男」描かせたら右に出るものはいないような気がする。それは、カッコいい、男らしい男、男の中の男、ということはなく、弱さも含めていろいろな男が描けるところが素晴らしいと思う。
そして、そこにはダンディズムのようなものが必ずある。理想型かもしれないが。
そのダンディズムこそが「男」であり、今回の「競走馬」たちにつながってくるのだろうと思うのだ。

競馬場の競走馬たちを見て、野木萌葱さんは、そこに「男」の「ダンディズム」を見たのではないだろうか。そんな気がしてならない。
…競走馬には牝馬もいるというのは、この際横に置いておく(笑)。
ダンディズムは自らの拠り所でもある。何を自分の拠り所にするかを探しあがいて、「競走馬」に託してしまう男の弱さ。それは誰かに必ずたしなめられるシーンがあることから、「自分の足で立て」というのがメッセージなんだろうな、とも思った。

結局、どこかダンディズムがある男たちというのは、理想の男性像であって、野木萌葱さんは、競走馬と人を重ねることで、男たちに鞭を1発入れたのではないか、なんてことも思ってしまうのだ。

ドンカバージョの展開は読めたものの、それを物語のラストにしなかったことは正解だった。ラストの気持ち良さ、晴れ晴れさはいい舞台を観た、という感情に浸らせてくれた。

舞台に出てくる各レースに、本当に行き馬券を買うのならば、ネコマッシグラは必ず押さえておきたいと思った(笑)。

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