満足度★★★★★
<桑原勝行×もりちえ版>相手を想う気持ちに、胸が締め付けられる
鄭義信さんの素晴らしい戯曲を2人芝居で。
男女の互いを想う気持ちを、細やかに見せてくれる。
胸が締め付けられるような舞台。
ネタバレBOX
クリスマスイブの夜。
女の親がやっていた、ちんどん屋を廃業し、引っ越す男女2人。
そして、その2人はその引っ越しとともに別れることを決めていた。
男は、女の希望した鍋焼きうどんではなく、おでんをコンビニで買ってきた。2人は、おでんを食べ、酒も呑みながらなんとなく会話をしていく。
男は、「クリスマスの夜に、ケーキは当たり前すぎるから」と杏仁豆腐をデザートに買ってきていた。
クリスマスイブから、クリスマスまでの1時間20分、別れていく2人の男女の物語。
前半は、女の母親のエピソードが挟まれる。
そして、男の登場によって、その空気が変わる。
それも、ガラリではなく、ゆったりと変化していく。
中盤以降、その空気が激しく振動し、2人の行方を見せていく。
この物語には、その裏面に『櫻の園』がしっかりと縫い込まれているというのが、凄いと思う。
女があこがれていた女優の、ひとつの象徴的なモノとして『桜の園』がある。今住んでいる家の庭には桜が咲いていたという設定や、女が読み上げる台詞の1つひとつが効いてくる。それは、ちょっとあざといかもしれないのだが、いい効果であることは間違いない。
鄭義信さんの戯曲が素晴らしいこともあるのだが、それを、その世界を見事に舞台の上に見せていた。
その力量は、確かなものだと思う。
気持ちの抑え方、上げ方が実に見事だし、2人の会話が、まさに長い間一緒に過ごした者たち、なのである。
お互いの間隔と互いを意識する感覚が、自然なのだ。
そして、単に自然だけなのではなく、そこに孕むお互いへの「想い」が、後半に行くに従い、流れて出ていく。その様と過程がいい。
そして、何より、例えば、おでんを食べるときに、1つのネタを分けて食べるという仕草がいいのだ。会話をしながら、割って自分の皿に置いたり、かじって相手の皿に置いたりとか。また、例えば、こたつの入り方の、そのタイミングや、どこまで身体を入れるのか、こたつ布団の上げ方とか。さらに、例えば、熱燗の持って来かたとか、その扱い方とか。
特に「アレはどこだっけ?」という問い掛けに対して、すぐに反応する様子なんかは、涙モノだった。
そんな普段の「生活」が滲み出てくる演技が素晴らしい。
今回外部の演出家(三浦祐介さん)によるのだが、そのニュアンスの付け方ということもあるのだろう。いつものエネルギー溢れる桟敷童子とは違った一面を見せてくれた。
また、そのニュアンスを見事に体現した2人の役者も凄いということなのだ。
そうした細やかな芝居に、泣けてくるのだ。
2人の登場人物の優しさが滲み出てくるのが、とても切ないし。
今回、女優のトリプルキャストであり、桑原勝行さんと、もりちえさんの2人の芝居を観たのだが、この2人の息の合い方は、本当に良かった。
もりちえさんは、もりちえさんの「女」を演じたわけだから、別の回では、別の2人の女優の、別の「女」がいるわけでだ。
つまり、同じ戯曲でありながら、別の女と生活した「男」を演じる桑原勝行さんの実力が試される公演ということだ。
今回、もりちえさん版を観て、この素晴らしさだったということは、他の2バージョンも同様に素晴らしいということだろう。
観られなくて残念だ。
いつもこうしたダブルキャストやトリプルキャストで思うのだが、1週間ごととかに日程を開けてくれたらなあ、と思うのは観客のワガママか。
もりちえさんというと、いつも姉御みたいな役が多いような気がするのだが、今回ひょっとしたら、初めて、カワイイ、そして切ない女を演じたのを観たのかもしれない。
やっぱり上手い人だから、そういう役を演じてもいいのだ、ということに気がついた。
桑原勝行さんの、優しさと、その内面の表現も良かった。
そして、ラストへの展開で、「杏仁豆腐」という、クリスマスの夜にはふさわしくないデザートが、ケーキでクリスマスを祝えない、2人の哀しい出来事を、実は見せていたことに気がつき(2人のやり取りで)、また涙してしまう舞台であった。
満足度★★★★★
ゴジゲンが帰ってきた!
前回はちよっとアレだったけれど、今回は、とても素敵な、あの「キモチ悪いゴジゲン」になって帰ってきたのだ。
でも、本質は、「キモチ悪い」ことではない、というところが、作品の面白さと良さであることは間違いない。
…と思うのだが、どうだろうか。
ネタバレBOX
こういう言い方は、アレかもしれないけど、前回の再演『神社の奥のモンチャン』では、イイ話へ、イイ話へとまとめようとしてたんではないかと勘ぐってしまったのだが、今回、いい感じな、社会不適応な男たちの、ドロ沼話、つまり、「気持ちの悪い」ゴジゲンになって戻ってきたのだ。
本当にジビれる。そして、酷すぎる話だ。
とは言え、「救い」の話でもあるかもしれない。
「であるかもしれない」と言うのは、そんな単純な話ではないからだ。
完全に社会不適合な人たちで、何もしないで、覗き見(ストーカー)だけをしている。
尾崎の兄弟から入るお金だけをあてにして。
それぞれの鬱屈、屈折の仕方がさまざまなところが、肝である。
唯一、大橋(源氏名:ドリアン)という共通項があるだけ。
尾崎が大橋に惹かれたのが、松山から「誘われた」というところが、とてもいい。「誘われた」という「逃げ」が自分の中で効いていて、そういう、彼らの「皮膚感覚」的なモノが、全編に散りばめられているのが、この物語の凄さでもある。
つまり、脚本でのそういう作り込みが素晴らしいということなのだ。
それをどこまで意識的に創作したかはわからないが、こう言っちゃなんだけど、ゴジゲンの公演を、好きで観に来ている人たちには、それぞれの微妙なところで、理解できるところがあるように思えるのだ。
「舞台からの電波を受信した」とか「なぜ自分のことを脚本に書いているのだ」言い張る人がいてもおかしくないぐらいだ。…と思う。
「病んでいる」という言い方は、あまりに広すぎて的を射てないと思うし、何より、「日本から独立した国」に住む彼らとの「境界」は、とても薄いものだからだ。
実際、彼らのやっていることは犯罪であるのだが、突き抜けすぎていて、どこか単なる「遊び」にも見えてくる。安住の地の、彼らの国、アパートの一室で、気の置けない仲間と、ダラダラと過ごすというのは楽しいに違いない。
しかも、毎日やることがあるのだ。ただし、ストーカー行為だけど。
「仲間」や「共感者」を得られるならば、何をしてもいい、と言うか、「目的と手段が入れ替わる」瞬間ということが、真の快楽につながっていくということが、よくわかってらっしゃる、と思うのだ。
そして、「抱きしめられる」という点が、彼らのウイークポイントであるのだが、それがあまにりも哀しい。切なすぎるシーンだ。
彼らの歪んだコミュニティは、居心地がいいのだろう。
「自分を捨てられる」からだ。捨てることが前提となっている、という「逃げ」が用意されているところがポイントである。
「人」であることすら捨てられて「犬」として暮らすことだってできるのだから。
そのコミュニティに「共感」を見出すことは可能だろう。取り立て屋の2人さえも、それぞれの自分のことに振り返り、共感を見せるのだ。
弟分の友枝が涙を見せたりするし、兄貴分の星も、実はそうだったことを、ふと漏らすシーンがいい。彼が最初にこの部屋に入ってきたときから、その萌芽は見てとれたと言っていいだろう。なぜか部屋の住民の話を「聴こう」とするのだ。そして、彼がトイレのドアを閉められないというのも、何かそういうものを感じさせる。
そのコミュニティの崩壊はあっさりとやって来る。しかし、それは悲劇ではなく、誰かが壊しに来るのを待っていたと言ってもいいのではないろうか。
自らが壊すことができない「殻=国」だからだ。
それを壊すのは、大橋しかおらず、星がその導きをする。
実家への想いで、桃の匂いをかいで吐いていた、尾崎が、それを食べられるようになるということは、コミュニティの崩壊を暗示しており、彼がそれを受け入れた瞬間でもある。
仲間とのコミュティは崩壊したが、次に待っているのは、尾崎と大橋の「世界=コミュニティ」だ。彼ら2人が、うまくその世界で生きていけるかどうかは、大いに疑問だが、なんか一応の解決らしき感じにはなっている。
そういう「きな臭い」ような「予感」を孕みつつのラストは秀逸だったと思う。
そして、登場人物全員への優しい眼差しのようなものすら、そこに感じるのだ。その「優しい眼差し」こそは、実は「自分にもしてほしい」ことなのだろう。
つまり、それは自分自身に対しての「眼差し」でもあるのだ。
もっとも、意識していたかどうかは不明だが、ゴジゲンは全員出演しているのだから、確かに「自分たち自身に向けられた眼差し」であるのだ。
そんな心の底からの叫びで、気持ち悪い話が、単なる気持ち悪い、だけで終わらないのだ。…「浄化させる」とまでは言わないけれど。
それにしても、全編気持ち悪すぎ。
祈りに使っていたハンカチとか(その由来がまたいいのだが)、ゴミ場あさりとか、髪の毛食べようとするとか。
覗きに関して言えば、ゴジゲンではもう毎回の印象すらある。自分の姿を相手に見せず、相手をじっと観察するという、そういう深層が、つい筆によって記されてしまうのかもしれない。
役者は、尾崎を演じた辻修さんの、歪んだ気味悪さを内包しているような姿が最高だった。また、取り立て屋の兄貴分・星を演じた野中隆光さんの、ヤクザ的なカッコよさな動きと口調も素晴らしいと思った。プルートを演じた東迎昂史郎さんの卑屈さもたまらない。
当パンの松居さんの「ご挨拶」を読むと、いろいろ気持ちの中であったようだ。
だけど、ゴジゲンは、このまま突っ走ってほしいと思う。
こういうゴジゲンが観たいのだから、うんと足掻いてほしいと思う。
満足度★★★★
不敬で下品でなかなかなのだが
後半のイイ感じが少々ダルい。
ここにも全編の笑いに負けない緊張感とスピード感がほしかった。
笑いへのアプローチ姿勢はとても好きだ。
ネタバレBOX
冒頭の前説から、テンション高く飛ばしていく。例のアノキャラも意味なく出てくる。
そんな、ドロ臭い感じと、意味なしな何かをぶち込んでくるという作風は面白いと思う。
今回は、さらに不敬で下品でなかなか良いのだ。
のだ、が、後半のイイ話が少々ダルい。
しっとりと見せたいのはわかるし、この2人だけ、キャラを大切にして汚してないから、そのつもりなのはよくわかるのだが、2人の最後の物語にたどり着くまでの緊張感ぐらいはほしい。
全体的に、妙なテンションで盛り上がっているのだから、それに負けないような、別のテンションと緊張感、そしてスピードで、この物語の「軸」をきちんと、そして強く打ち出してほしかったのだ。
夫婦の話として、中心にあるモノがとてもいい感じだっただけにそれが残念。
2人のやり取りが、ワンパターンすぎて、長く感じてしまう。
とは言え、この2人(竹岡常吉さんと小岩崎小恵さん)、あんな舞台の中にあって(笑)、なぜか品(のようなもの)まで感じさせてしまうところが凄いと思った。
まあ、だけどK后の悲劇の部分は取って付けたようで、ストーリー的には面白くはないのだが。ここも、K室という設定が活きてきて、さらに「なるほど」と思わせてくれたのならば、まったく言うことはなかったのだけど。
それにしても、無意味に散りばめられた笑いの数々は、唐突だからこそ、面白いということもある。黒い人とかね。
にしても、公演のサブタイトルも含め、「この物語はフィクション云々」が目につきすぎな感じ。K室に対してもの申すとか、T皇制に切り込むとか、「毒」とかがあるほわけでもないのに、もし何かに怯えているならそんな設定にしなくてもいいし、もちろんギャグ的意味合いで使っているだと思うのだけど、だったら、もっと「実在のものと一切関係ございません」を面白くしてほしいと思うのだ(「公演」とか付けてはいるけど)。
そして、中盤にあった、テレビのバラエティ的な、リアクション芸のようなくだりは、好きではない。と言うか大嫌いだ。
コメディを標榜する劇団でこれをやられると、とたんにガッカリしてしまう。
激辛とか熱湯とか、そんなどこにでもあるようなモノを借りてくるのではなく、もっと、面白い変なこと考えてくれよ、と思うからだ。「どこにでもあるようなもの」であったとしても、見せ方があるのかもしれないけれど。
それと下品な笑いも、実はそれほど好きではない。センスがあると笑えるのだけどね。そうした「片鱗」は見えたので、そこには今後期待したい。
物語の基本構造と笑わせることへのアプローチ姿勢は好きである。無理無理な感じが、逆にちょっと切ない感じもしたりして。
そういう意味において、今井孝祐さんという役者は、全身から、何かやってしまいそうなオーラを漂わせているところが好きである。そういうオーラを漂わせながら、結局は何もしないというのがベストなのだ。
源氏物語の4人もよかった。
客出しのときに(劇中ではなくて)、源氏物語による新国家が流れたりすると、さらに面白かったのではないかと思う。
満足度★★
「維新派」が「東京(池袋)」と共鳴することで、さらに見えてきたのは「維新派」自身だった
池袋西武百貨店の「野外」を使っての公演。
ミニマムで、借景たる池袋(東京)を見せていく。
ネタバレBOX
西武百貨店(セゾン)といえばある時代の文化的なものを象徴したような場所。スノッブな印象だったというか(笑)。それももはや、今やセブン&アイ傘下で過去形である。
そこの「野外」を使っての公演ということが、「皮肉的」にも聞こえた。
『風景画』というタイトルからわかるように、当然、池袋の街が借景となり、セットの一部に組み込まれることになる。
会場は本館駐車場脇の屋上だ。デパートの空調音が響く。
そして眼下には鉄道。節電以降の東京らしく、あまりネオンは目に付かない。
東京のあちらこちらに建つ、印象的なビルの模型が数多く屋上の奥まったところに立ち並ぶ。
「なぜ?」と思った。「東京」を感じさせるのは、池袋じゃ、まだ不十分なのだろうか。開幕の時点ではどう使うかわからなかったのだが、それらは、最後までそこに「ある」だけだった。
だったら、「池袋」で十分ではなかったのかと思う。これ以上何が足りないというのだ。
とてもミニマムな動きから始まり、後半もその印象は大きくは変わらない。
白塗りで、半袖シャツに黒い半ズボン。
個を否定する(あるいは、個が見えない)かのような出で立ち。
それは「東京」という街という解釈だとしたら少々常識的すぎかも。
…実際は、それそのものが「維新派」という印象なんだけど。
と言うか、その「個の否定(個の見えなさ)」「規制」「統制」「連帯のなさ」と言った、今池袋の屋上で行われていることは、まさにいつもの維新派に感じていることでもある。
それが「東京(池袋)」と共鳴する。
ただし、個人的感覚としては、「肉体」は何も語っていない。饒舌なのは、「音楽」と「台詞」と、そして「池袋」である。「池袋」の環境が饒舌に語る。それは、眼下の鉄道であり、ビルの明かりであり、西武の買い物袋を下げて駐車場に行く買い物客であり、風であり、ときおり鼻を刺激する、排気ガスの匂いであり、(たぶん)食堂から流れる揚げ物の匂いである。
もう、これだけで十分ではないだろうか。ビルの作り物なんていらない。野外に野外を作り出すならば、もっと気の利いたモノにしてほしいものだ。
肉体も本当に必要だったのか? と問い掛けてしまう。
もちろん、「動き」があることで、視覚的には楽しめたということはある。
それは、「環境音楽」のミュージックビデオ的な感覚ではある。
ひょっとして、「野外」なのに、実際に演じているのは、どこかの室内であり、観客は風が吹く中、どこかの室内で行われている舞台を、野外のモニターで観たほうが、さらに刺激的だったのではないか、と思うのだ。
そのほうが、リアルな「東京」の「風景画」だったような気がする。
「肉体」ということで言えば、前に観たときも感じていたのだが、鍛えてない肉体は、キレが悪く。揃えるつもりが揃わないのが気持ち悪い。「揃わないこと」が狙いとは思えないし、なんだかなーと思うのだ。出来のよくないマスゲームな感じ。
鍛えてないから、例えば、かかとを上げる、なんいう動作が、きれいではない。きちんと上げている者もいれば、手抜きであまり上がってない者もいる。観客は薄暗闇でも見ているし、そういう微妙なところが、ミニマムな動作では、伝わってくる。腕の上げ下げとか角度とか。
そういうところが、なんだかなー、と思う。
白塗りで同じ衣装による「個の否定」は、同じように白塗りし、裸である舞踏に感じるのとはまったく逆だ。舞踏では一見見分けがつかないようで、「個」が滲み出る。しかし、こちらは、体型が違っていても「個」が消えていく。
結局、「統制・規制・個の否定・連帯のなさ」の「維新派」的な要素が「東京」と共鳴することで、さらに見えてきたのは「東京」ではなく、「維新派」自身だったのではないだろうか。
しかし、その見えたきた「維新派」的な要素が、個人的にはやっぱり嫌いなので、維新派は嫌いなんだな、ということを再認識した100分であった。
あと、音楽がもっとカッコ良かったらよかったのだが、野暮ったい。ケチャのような人の声(台詞・ただしリズム感悪し)、街の喧噪、そうしたリズムがうまくミックスされていたらどんなに素晴らしかっただろうと思う。
例えば、ドイツの70年代から80年代ぐらいのロックシーンのような、あるいはミュージックコンクレートとか、音響派とかそんな感じの。
満足度★★
天野天街&あがた森魚のコラボに期待したのに…
確かに天野天街風味であったし、あがたさんの生歌も聴けた。
だけど…
ネタバレBOX
少年王者舘も、あがた森魚さんの音楽も好きだ。
だから、とても期待して劇場に出かけた。
しかし、内容はと言えば…。
暇で時間がある、だから不安になる。そして幻想。
男女の考えや想いの違い。
若さ故の、そんな男女の気持ちのすれ違いを描いていたと思う。
裏と表、外と中、そんな舞台の中で。
繰り返しがしつこいのだが、それが快感にまで行かない。面白さにも達しない。
少年王者舘のような緻密さやスピード感がまったくないからだ。
ただ、「しつこい」って感じるだけだ。
台詞のテンポなのだろうか。
2人の役者の相性がよくないのか、噛み合わせがよくないのか、とにかく、早口で台詞を話していても、スピード感がない。
緊張感も。
繰り返しと時間軸の前後、さらに空間の移動の連続で、天野版の『赤色エレジー』が浮かび上がってくるはずだったのではないだろうか。
セットのカラクリや映像に語らせ、ダンスや登場人物がダブってくる、登場人物の神出鬼没さ、言葉遊び、という演出方法は、少年王者舘と同じなのだが、それのキレ味が悪い。
こういう言い方は大変失礼なのかもしれないが、まるで自らの演出の劣化コピーを観ているようだ。
セットも貧弱。特に前半、「裏面」のときには、残念すぎるビジュアル。
『赤色エレジー』のために、もっとどんどんとアイデアや企みを注ぎ込んでほしかったと思う。
歌はいいのに。
しかし、その歌も前半にはあまりなく、ラストでは、2曲か3曲続けて歌い、幸子と一郎は踊るだけって、いくらなんでも酷すぎはしないだろうか。しかもダンスはあまりうまくない。同じことを少年王者舘でやったとしたら、前半の物語の高まりを受けてのダンスなので、そのへの気持ち良さがあったように思う。
幸子を演じた緒川たまきさんは、けなげさが出ていたし、声のトーンが、少年王者舘調で、なかなか好演だったと思うが、それを受ける一郎との交流を感じないのだ。相性なのか何なのかはわからないが、観ていていらついてしまう。
まったくすっきりとしない。
石丸だいこさんは、特にダンスのキレは抜群。他の2人との差が出すぎてしまった。
そして、あがた森魚さんの歌声は素晴らしい。
マイクを通しているのに、本当に「生」なのだ。声が気持ちいい。
いっそのこと、あがたさんを中心に据え、音楽劇としたほうがよかったのではないだろうか。あがたさんが出ているから、かろうじて『赤色エレジー』だったのではないか、と思うからである。
いい素材がこれだけあって、素晴らしい演出家がいるというのに、なんでこうなったのか不思議でたまらない。
いつか少年王者舘でリベンジをしてほしいと思う。綿密なやつで。
そして、歌はもちろんあがたさんで。
満足度★★★★★
Aga-riskスタイルとも言える演出で大笑いのコメディ
中編の2本立て。
どちらも重いテーマながら、見事なコメディに仕立て上げられていた。
Aga-riskのスタイルが十二分に発揮されていた、後味もいい作品。
ネタバレBOX
『ファミリーコンフューザー』
痴呆症がテーマとなっている。冒頭から「ん?」「なぜ?」という展開なのだが(なんでそんな面倒なことをするのだろうか、ということ)、それはすぐに脇に置いていい感じになってくる。
すなわち展開が早く、どんどん面白くなってくるからだ。
変な策を考えることで、深みにはまっていく男(清)が、周囲を振り回しながらも突き進む様が面白い。
しかし、それは実のところ、他人を騙すというよりは、実は自分の母が「ボケてない」と思いたい心の現れてでもあった、というあたりが、切ない。
「家族」の話であり、家族との関係や、そういう事態に対して、それをどう受け止め、そしてどう受け入れていくかという物語でもある。
そして、いろいろと考えさせられたりもする。
扱うテーマだけではなく、その根底に流れるテーマ(家族のあり方、そして覚悟など)も、やはり重いのだが、ラストには希望が見えてくる。策を弄せず、そのことを受け入れることが、実は最善の策であった、ということがシンプルながら美しく描かれる。
だから、痴呆が始まったと思われる母親に対しての、家族たちの接し方が、笑顔があり、とてもいい。かくありたいと思うばかりである。
他人や自分を騙すことなく、ありのままに接する(ありのままを受け入れる)ことで、自分の家族も、また、痴呆になったであろう当人も含めて、それが自然であり、ハッピーなのだ、ということだ。
笑いの中に、そういう美しい光景を見たような気がする。
もちろん、この状況がさらに進むとなると、この家族にも、また別の展開が待ち受けるのだろうが…。
『無縁バター』
再演。ちょっとしたチューニングがされており、ストーリー&結末を楽しんだ、という初演から、「人とのつながり」のようなテーマに、より光を当てた内容になっていたと思う。
初演の感想では、私は「We are not aloneからの、MIB的なラスト」と書いたが、つまり、その「We are not alone」が強調されていたと思うのだ。
初演では、『みんなのへや』という出会ってはいけない人たちのドタバタ・コメディとの2本立てで、「人とのかかわり」ついての考察でもあった。
今回は、家族モノの『ファミリーコンフューザー』との2本立てなので、「人とつながり」(家族を含めて)が、よりクローズアップされたように思える。
物語の結末が意外で、オモシロなのだが、投げかけるモノは、こちらも結構ずっしりとしているのだ。
そういう意味において、単なる2本立て以上の効果を見せていた。組み合わせの妙だ。そして、今回も、上演の順番がとても大切だったと思う。
…最後の最後のオチの伏線は、ファミマのチャイムだった。
『ファミリーコンフューザー』は痴呆、『無縁バター』は孤独死という、重いテーマ(シビアな設定)を扱いながら、毒のあるものではない、笑えるコメディにして、さらに後味が悪くなく、と言うより、気持ちの中に、ちょっと明かりがさすような、そんないい感じにしてくれるAga-risk Entertainmentの作品は、とてもいい。
しかも、これが爆笑を含む、笑いの連続で、泥臭くもあり、ドタバタでもある中で、きちんと描かれているのだ。
また、極限までにセット等をシンプルにしたことで、物語にスピード感を増し、気持ち良く畳み掛けてくれる。さらに、シンプルな舞台なので、役者への注目度が高まり、役者の力の発揮なくしては成り立たない舞台にもなっている。
役者たちはそれに見事に応えていると思う。
こうした一環したコメディに対するスタンスや、演出のスタイルは、Aga-riskスタイルと言っていいだろう。
このスタイルだからこそ生まれる笑いもあるのだ。
今回のAga-risk Entertainmentもそうだったのだが、先日観たホチキスも期せずして「家族の話」。それも対立するのではなく、「結び付き」を意識した作品だった。そういう時期が、今、みんなの心に来ているのかもしれない。
満足度★★★★★
ストレートにコメディなホチキスは、大好きだ
ただし、それだけではなく、「家族」や「夫婦」、「パートナー」など大切な人との関係が、笑いの中にじんわりと浮かび上がり、楽しくて、いい感じの舞台。
ちょっとした「人情コメディ」のように見えても、そこは、ホチキス、彼らの持ち味がキラリと光る。
ネタバレBOX
砂利塚夫婦と2人の従業員が営む、砂利塚クリーンは、産業廃棄物の会社だ。
しかし、この会社が取り扱うのは、いわゆる産業廃棄物とは違うモノだった。
夫の発明による機械と、妻のチカラによってあるモノを片付けていく。
会社は、本来別の名称で行っていたのだが、それでは営業できないということで、廃棄物処理業者の営業許可を取り、営業している。
ところが、お客が来ず、廃刊寸前のタウンページに広告を掲載することになった。
一方、会社の存在を疎ましく思う役所の人間がいる。彼は、なんとしても、砂利塚クリーンを潰したいと思っている。
そんな人々に、砂利塚の娘やそのボーイフレンド、そして砂利塚クリーンのお客などが絡み、砂利塚クリーンを巡る物語が始まるのだった。
そんな感じのストーリー。
そして、夫婦や家族やパートーナーとの話なのである。
ここの説明や当パンにも書いてあるのだが、作・演の米山和仁さんの個人的感情が反映されているのか、結構、ジンとくる話でもある。
夫婦に限らず、パートナーだったり、兄弟だったりの、「大切な人との関係」のエピソードが丁寧に、ストーリーの中に織り込まれていく。
しかも、そのエピソードの語り方が、一方向の語り方ではなく、散りばめ方や語り口の違いをきちんとつけているところが、うまいのだ。きちんと笑いを背負いながら。
人との関係は、いつか来る別れでもあり、出会いでもある。別れは悲しいだけではない、というポジティブさも見せる。
笑えるコメディ仕立てでもあるのに、そんな「人の気持ち」を大切に汲み上げ、それを物語の背骨にきちんと通しているところが素晴らしいと思うのだ。
砂利塚の夫・公男が作った手袋型の機械で、相手をハグするという設定はベタだけど、なかなかいいし、途中に砂利塚クリーンCMソングを歌うシーンがあるのだが、それが伏線になって、ラストに市役所職員の久ヶ沢が、友だち=コーラスで終息するなんてのが、とってもいいのだ。。
結果、大切な人との関係が、色濃い作品になっている。
それが笑いの中にきれいに浮かび上がってくるのだ。
とても楽しくて、いい作品だったと思う。
ホチキスでは、今まであまり感じたことのなかった、外のネタ(アニメとか)が、今回意外と多い気がしたが、その使い方がうまく、イヤな感じはまったくしなかった。
それと、結構小ネタが満載。それをさらっと流していく感じも好きだ。
今回、小玉久仁子さんが、砂利塚ファミリーの妻役で、冒頭からいい感じにグイグイと飛ばしていく。さらに加藤敦さんが、渋くそれを受け止める夫を好演。この夫婦の阿吽の関係が、舞台の肝でもあった。
村上直子さんの従業員は、思わず笑っちゃうぐらいのカッコいい台詞が炸裂。もうひとりの従業員の村上誠基さんは、柿でも印象的な、アノ独特のテンポと台詞回しで、なんとも言えない空気感を作り出す(ひっくり返るシーンが個人的にはツボ)。
娘役の津留崎夏子さんも独特の雰囲気でいいし(強すぎる個性の中で、逆に光っているような感じ)、そして、なしお成さんも手堅く面白いし(一目惚れのところとかナレーション的なところとか)、齊藤美和子さんも出番少ないけどさすがだ(存在感がある)。
とにかく、全員のポジションがいい感じで、舞台がいつも楽しく盛り上がっていく。
ホチキスは、いつの頃からか、コメディにぐいんと舵を切ったのではないだろうか。そのせいか、最初に観た頃よりも、観るたびにどんどん好きになっていく。
次回はシアタートラムということで、。毎回サイズに合わせた面白さを用意してくるので、次回も楽しみ。
満足度★★★★
竹下景子オン・ステージ!
こういう、観た後に気持ちいい舞台は好きだ。
3人芝居で、観客を楽しませる。
役者の持ち味が十二分に生きている。
さすが、水谷龍二さんは、ツボを押さえた脚本を書く。
ネタバレBOX
大衆演劇の一座。
自分勝手でわがままな座長に、愛想を尽かし、座員と家族は彼のもとから去って行った。
座長の千羽旭は、あらたな大衆演劇を立ち上げようと座員を集める。
やって来たのは、訳ありの女性たち。
それは、若い頃から苦労したと語り、ダンスがうまい若い女性、そして、主婦としての定年を迎えたとして、これからは自分の人生を生きるために、家族を捨てて、長年追っかけをしてきた大衆演劇の世界に飛び込んできた主人公の赤城万里子の2人。
「演劇LOVE」な展開。
シェイクスピアの一節から長谷川伸までが全編散りばめてある。
主人公、赤城万里子の設定が、お芝居好きの主婦というのが生きてくる。
この物語のポイントは、脚本家の水谷龍二さんが、「誰がお客さんなのか」がよくわかっているというところだろう。
その「お客さん」をターゲットにしたアプローチが実にウマイのだ。
冒頭の風間杜夫や数々の俳優の名前を入れた台詞や、ラストの羽二重やおしろいの塗り方など、お芝居好きの気持ちをうまくくすぐる。
つまり、主人公の「主婦の定年後自分の人生を」「問題の多い家族を捨てて」、そして「お芝居好き」という設定が、観客の多くの層にアピールするのではないだろうか。
すなわち、観客の多くを占めるであろうお芝居好きの女性たちにとって、そういう設定は、実年齢というとではなく、実感があるのではないだろうか。
「あるある」と言うよりは、「いいな」に近い感覚で。
だから、普通だったら、捨てた家族のもとに帰って元鞘になりそうなストーリー展開(そうは言っても、やっぱり家族はいい、とか)にはならず、別の意味での前向きな、新しい人生の一歩を、おしろいで踏み出すということになるのだ。
さらに、座長というのは、「夫」や「父親」の象徴であり、女性座員、とくに主人公・万里子にとっては、夫をイメージさせる。万里子の夫は若い女性と浮気をしている。
その夫の象徴である座長が、自らの今までの行動を悔い、さらに主人公の万里子に「どんなことでもやるから言ってくれ」と言わせるというところも、観客は気持ちいいのではないだろうか。
だから、それに観客は、喝采を送る。
自分ではできないことへの、つまり、そうならなかった(なれなかった)自分へのレクイエムのようにも聞こえる拍手を送るのだ。
…もちろんそこまで悲壮なわけではないとは思うのだが(大げさすぎたかな・笑)。
お芝居は、こういう夢を見せてくれてもいいんじゃないか、と思う。
ラストはちょっと弱いけど。
全体的に暗転がやけに多い舞台だ。
しかし、特に前半は、暗転前に主人公・万里子のいい感じのキメ台詞があったりするのだ。その度に拍手が起こる。舞台設定が大衆演劇ということもあり、そんな、つい拍手を送ってしまうという雰囲気にさせる演出も憎いとろこだ。
主人公を演じる竹下景子さんの歌、座長の宇梶剛士さんのあてぶり、岸田茜さんのバレーなど、それぞれの見せ場のようなものも用意されており、それぞれに観客は拍手を送っていた。
基本的には、竹下景子さんのオンステージなのだが、他の2人も、とてもよかったと思う。
観た後、気持ちのいい舞台であった。
…男としては複雑な気持ちでもあるのだが(笑)。
満足度★★★★★
進化し続け、笑い度アップのアパッチ砦
笑った、笑った。
それは力技。
ライブ感、躍動感もあるところが、うまい人たちが演じているのだと実感できる。
単なる再演というだけでなく、前に観たお客さんも楽しめるように、毎回ブラッシュアップしているというのも素晴らしい。
ネタバレBOX
再演を重ねている作品だ。
基本構造は同じだが、加筆等で初演とはまったく違う作品のようにさえ感じた。
…と言っても初演15年前なのでよく覚えてないけど(笑)。
コメディの教科書のような設定の連続で、ハラハラさせたり、「そりゃいくらなんでもないだろ!(笑)」と思わせたりがいいのだ。
むちゃな設定が連続しても、テンポと役者の力量で、それを納得させてしまう。
それはある意味、力技。
もの凄い力技で、観客を笑わせてくれる。
笑わすためなら、何も厭わないという姿勢が気持ちいい。
演出は、テアトル・エコーの永井寛孝さん。コメディが面白いエコーだから、やっぱりうまい。
役者は本当にみんないいし、その人でしか出せない良さがきちんと表現されている。それは演出と役者のうまさだ。
そういえば角野卓造さんの役は、初演は伊東四郎さんだった。だから巻き込まれ方の反応が違っていたんだな、と納得。
今回で再演6回目ぐらいだが、再演ごとに進化している作品なので、次回また再演されて観に行っても十分に楽しめるだろう。
ヴォードヴィルショーの40周年記念公演は、来年から4作続くということだが、その予定演目がロビーに貼り出してあった。どれも楽しみなものばかり。
毎回「今回がヴォードヴィルショーに書くのは最後」と言い続けて、脚本を提供しているらしい、三谷幸喜さんの作品も予定されていた。
満足度★★★
いろいろうまいとは思うけど、イマイチ
引っ張るだけ引っ張っておいて、このカタルシスのなさ。何なんだろう。
演出は手際良く、映像も効果的だったけど…。
ネタバレBOX
理由のわからないコンビニ強盗、警官の主人公に対しての異常な執着心、江戸時代からずっと外界から遮断されている島、300キロだか400キロの女性、妻が生きているのに殺されたフリを続ける画家、しゃべる案山子などなど、リアリティのない、悪夢的なファンタジーが舞台の上にある。
ちょっと興味をそそる内容だ。
主人公が「夢」と何回も言葉を発する。そこがポイントでもあろう。
また、外界と遮断されている「島」は、ガラパゴス化している「日本」をどこか彷彿とさせるのもいい。
しかし、そういう、リアリティをあえてゼロにした世界観だとしても、それを支えるリアリティは最小限必要ではないだろうか。
また、その世界の中で、きちんと収束するべきではないだろうか。
面白風味を散りばめて、いろいろ引っ張るだけ引っ張っておいて、このカタルシスのなさは、何なんだろう?
例えば、同じ作家の原作らよる映画『アヒルと鴨とコインロッカー』や『フィッシュストーリー』とかでは、最後に見事にすべてをまとめて見せていた。そこには「あぁ」というカタルシスのようなものがあったのだ。
しかし、今回のこれにはそれがない。
もちろん、伏線らしきもので、1つひとつがどういうことだったのかが、ラストにいくに従い一気にわかるのだが、それがどうも「なるほど」というほどの快感には結びつかないのだ。残念ながら。
そして、問題はラストである。
たぶん、これで感動しろ、ということなのだろうが、「音楽が足りなかった」と言われても、それへの伏線はゼロである。あまりにも陳腐。
音楽がないことで、島がどうだったのか、が描かれてないから、唐突にしか感じられない。江戸時代から外界と遮断されているという設定なのだが、テレビだってラジオだって入るだろう、と思うし、それすら遮断された世界というのであれば、そのエピソードもほしいではないか。
オーデュボンの祈り、主人公の行動と気持ちの変化、そして、島と音楽という3つのラインが、どうもうまくリンクしていかず、別モノとしてしか感じなかったのが最大の難点であろう。
演出は手際いいし、映像も効果的(2役を映像で見せるのは舞台としてヘタすぎだけど)。だけど、原作を手順良く、あらすじ的に見せただけだったのではないだろうか。
ただ、鳥が飛ぶシーンの映像効果は、結構いろんな場所で観たような印象がありすぎだし、カーテンを使った場面展開も、つい最近どこかで観たような気がするのだが。
原作が内包していた、雰囲気を端折ってしまったのではないだろうか、と思うのだ。読んでないけど。
結果、もやもやだけが残った。
満足度★★
『DAIKAIJU EIGA』原発大国フランスにはゴジラはいないんだろうね。
あ…、ゴジラね…。
ネタバレBOX
正直ゴジラかぁ、って思った。
思ったけど、そこに何かあるのかと思っていたら、それほど何かがあったように思えず。
フランス人の男性と日本人の女性の2人が、最初は手に台本を持って登場。
フクシマだよね、で、ゴジラ…、う〜ん、って感じ。
放射能とゴジラ、日本人と怪獣の関係は、さすがに散々言われ尽くしてきてるから、今さらフランスの人に「1954年につくられたゴジラは、その後に続く一連の怪獣映画とは一緒にしないでくれ」って言われてもなあ、と思う。
中盤、いわきに行ったドキュメント的な部分の展開から、少し期待したが、それはそれだけで、結局ゴジラなわけで、なんだかな~、と思わざるを得ない。
日本にゴジラはいなくなった、ゆえに、自分がゴジラになる。つまり、警鐘を鳴らし、歩いた後を破壊するモノになる、と言う日本人のミチコ。ああ、そうね、と思う。で? とも。
その後、フランス人の男性が舞台を去るのだが、これはどういうことなのかな? と考えた。
「日本のことは日本人に任せよう」ということなのだろうか、「結局は他人事」なのだろうか。あるいは「日本は大変なことになっているのに、わかってない」という啓蒙(あるいは警鐘)のつもりなのだろうか。
後に1人残された日本人のミチコが叫ぶのだが、その「叫ぶ」ということには、彼は、意味があると考えているのだろうか。あるいは「それは観たあなた(日本人)が考えてくれ」ということなのだろうか。
アメリカに次ぐ原発大国のフランス(いや、もちろん3.11以降のにわか知識なのだが)から来た彼が、フランスにとって、いや彼自身にとって、「ゴジラ」はどういう意味があるのか、あるいはどうあってほしいのか、という、何か大事なところが抜け落ちているように感じてしまった。
そういう意味では、この作品全体が、作者自らへの「(日本人にはわからないフランス的な)アイロニー」が込められているのだろうか、とも。
後半、ミチコは、冒頭で棒読みだった台詞を、再度気迫を込めて叫ぶ。もちろん、ゴジラについて。
舞台の上が熱っぽくなればなるほど、観ている私の気持ちは冷めていくという、典型的な作品だった。
いずれにしても50分は短い。これで言いたいことが本当に言い切れたのだろうか。
もっとも、50分で解放されて救われたとも言えるのだが。
満足度★★★
黒い衣装で色づけされてない分、役者個人がよく見えた、ような気がする
三島由紀夫の『近代能楽集』から、お馴染みの話が実に手際よく演出されていた60分。
ネタバレBOX
リーディングなのだが、やや高低差のある舞台に、奥行きも持たせ、「邯鄲の枕」などと呼ばれている、伝奇的な物語に、最小限の演出が効果的に加えられていた。
同じ台詞をハモるところが、いいアクセントに。
不気味さが滲み出てきそうな作品なのだが、意外とすっきりした仕上げだったような気がする。
虚しい主人公、次郎の胸の内は、この一夜の経験で埋まったのだろうか、と考えると、さらに虚さを確信していったように思える。
ラストの花々は、生きている花ではなく、まるで造花のような、人造的で心のない、けばけばしい色彩が脳裏に浮かんできた。それは、まるでどこにもたどり着けない次郎、のような。
リーディング自体が、声のみで、イメージをどう刺激するかといことだと思うのだが、この戯曲では、それ(イメージの刺激)が、「夢の中」ということなので、さらに大切である。
つまり、この戯曲は内容的にも、受け手のイメージが膨らむかどうかがキモなので、逆に声だけのリーディングでも、効果的に行えば、十分に伝わるのではないだろうかと思った。
ただし、普通に演劇として上演するときには、演出で、さらにさまざまにイメージを膨らませる楽しさがあるかもしれない。
全般的に2人の会話が多く、それを観て感じたのは、役者の上手い下手ではなく、噛み合わせというか、呼吸というか、会話の結果のシナジーというか、そんなことだった。
会話からシナジーが生まれるほどの関係ならば、引き込まれ、そうでないと、長い会話中に意識がよそ見してしまうな、とも。
印象に残った役者は、次郎を演じた今井聡さんと菊を演じた渡辺樹里さんだ。特に冒頭での、この2人の会話は、トーンも息もうまく噛み合い、とても良かった。それと、秘書を演じた角野哲郎さんは、全体の中で、そこだけクッと気持ちが持ち上がるような感覚がして、うまいなと思った。儲け役かもしれないのだが。
どうでもいいことかもしれないが、リーディングでは、ト書きも読むので、「美人登場」というト書きを自分で読んでから、その「美人」を演じる女優さんは、どんな顔して登場すればいいんだろうと、最初に台本見たとき思ったんじゃないかななんて、思ったりした。
そして、無料なのはお得。
満足度★★★★
若き日のチェーホフの苛立ちと空虚さ、破滅への衝動
が、昼メロ風味の中で展開されていく。
ストーリーが面白い。
それを手際よく見せていく。
ネタバレBOX
なんたって、プラトーノフが「空虚」である。饒舌すぎるのに空虚。
人を見れば噛み付き、女性には「愛している」と連呼して、プラトーノフ自身は、すぐに冷めていく。
没落貴族のデカダンな様子を描いているのかもしれないか、そこはよくわからない。
ただし、この戯曲は、チェーホフが若いときに書いたものだということなので、チェーホフ自身の「若い苛立ち」が現れているのではないかと思うのだ。
つまり、チェーホフの、俗物や成金に対しての、単純ではない「怒り」や「苛立ち」がプラトーノフという主人公を通して描かれているのではないだろうか。
しかも、そういった、周囲(世の中)と和解できないプラトーノフが、自身の姿であることも同時に理解していて、破滅的な気持ちもあったのではないだろうか。そんな感じがする。
若き日に「破滅」や「破壊」を望む感じがチェーホフにもあったということだと面白い。
そして、それは「空虚」であることも冷静に感じていたのではないだろうか思うのだ。
いささか勝手だが、チェーホフの新しい一面を見たような気さえする。
まあ、一言余計なことを言いたい人って感じもするのだが…。
ラストは、想定内すぎるのが、19世紀の限界なのかもしれないのだが、現代にも通じるものがあるのではないかとさえ思う。
しかし、物語は、プラトーノフを巡る女性たちによって、そういう方向ではないほうへ進む。
なぜかプラトーノフはモテモテなのだ。破壊的な言動が、退廃した老人たちと呑気だったり、計算高い若者たちの中にあって、ひときわ目立っているからだろうか。
そのあたりはわからないのだが、とにかくモテモテなのだ(理由は描かれていない?)。
プラトーノフが一言言えば、女性たちは、虜となって、プラトーノフの言葉をいい意味に解釈していく。
そこで、妻帯者のプラトーノフに訪れるのは、やっぱり修羅場である。
後半は、ずっと修羅場と言っていいかもしれない。
それが、やけに昼メロ風味なのだ。
話がドンドン進み、大変なことになっていくにもかかわらず、プラトーノフは一切それを正常化させようとはしない。まさに破滅タイプの主人公。
当然ラストは…、ま、そうなるだろうというあたりに落ち着く。
この「昼メロ風味」はストーリーだけによるものではない。なんだか古いメロドラマのような哀愁漂う音楽が、それらしいシーンに流れていく。
こういった台詞のあるシーンに情緒的な音楽を被せて煽るという手法は、あまりにも古すぎやしないだろうか。
ロシアから来た演出家の手によるものらしいのだが、ロシアではこれが普通なのだろうか、ちょっと興味深い。
とは言うものの、プラトーノフの影がいつもつきまとう舞台と、手際のいい演出はなかなかだったと思う。
役者のレベルはいろいろあって、どうかな、と思うところもあったが、主人公のプラトーノフ役の渡辺聡さんは大熱演。また、貴族で未亡人のアンナを演じた早野ゆかりさんはさすがだった。
満足度★★★★★
なんだろ、この感じ…。
うまく言えないけど、ハマった。
思わずハマってしまった90分。
これは不条理というかSFだ。
たとえると、これは、オフビートな筒井康隆的な、アレ的な、そんなやつではないか、と感じた90分でもあった。
ネタバレBOX
男が友人を呼び出すところから物語は始まる。
呼び出した男は、自分の家の天井にネズミのようなものがいるという話を始める。
呼び出された男は、仕事を抜けてきているので、よほどの用だと思って来ているのだが、男の話はなかなか前に進まず、イラついてしまう。
そして、「で、結果は?」と話の結末を思わず催促してしまう。
呼び出した男は、順を追って話したいので待ってくれと言い、その天井裏を撮った写真を見せると言い出す。
そして、デジカメの写真を見せようとするのだが、天井裏の写真を見せないで、なぜか海の写真を見せるのだった。その海の写真にはピースをする女性の姿があった。
ここから思わぬ方向に話は転がり出す。
とにかく、緩く不条理と言うか、オフビートというか、ズレてく感覚というか、困ったちゃんと言うか、投げっぱなしと言うか、巻き込まれるというか、人も時間も空間もぐちゃぐゃになっていく。
「王国」だとか「墓地」だとか「怖い話」だとか「究極の親子丼」だとか「イオン」だとか「韓国料理」だとか「名古屋城大学」だとか、そんな頭に残るコトバがバンバン飛び交う。
中での、なんだろ、この感じ。
うまく言えないもどかしさがある。
初めて出会うというか、そんな感じな味わい。
独特の手触りで、変な感じがさらりとしながらも、しつこく進む。
どこに向かっているのか、まったくわからない。
不思議な味わい。
と、言っても、不条理のオンパレードということではなく、スパゲッティにあんこをかけてしまうぐらいの、名古屋テイストというか、八丁味噌と言うか、喫茶店のモーニングセットの豪華さというか、まさに「おまえだ!」なのである。
不条理だとかメタとかいうのが野暮になってくるぐらいに、変な感じ。
どこにもたどり着かないし、登場人物たちが何を目指しているのかさえわからない。
あひるなんちゃらが不条理になったら、いや、あひるなんちゃらは、ある意味、もの凄い不条理合戦だけど、ま、とにかくあえて言えば、そんな印象で、「おまえだ!」なのである。
そんな空気感があっての、笑いっぱなしだったのだ。
客席全体が大笑いしていたかどうかは知らないけれど、私の世界では、私は大笑いしていた。
これは不条理というかSFだ。オフビートな筒井康隆的なアレである。主人公の「おれ」が語る話が、そのまま展開していくというような、ご都合主義的で、細部は適当すぎな世界が現れてくる。タクシーのくだりとか、座席のことや諸々がテキトーなのは、話の中心である男にとってどうでもいいことだからだ。
お話の中に人を巻き込んでいくという構造は、ないわけでもないのだが、渦中にいる、呼び出された男という冷静な視線が、また変な効果を生んでいると言っていいだろう。どこからどこまでが「あっち側」で「こっち側」はどこだ、という線引きも曖昧。
お話の中に人を巻き込んでいく様は、まるでミキサーがいろんなものを巻き込んで、ドロドロにしていくという地獄絵図のようだ。ただし、地獄絵図と言っても、極々ライトな地獄絵図で、誰もそれほどは困ってない。ときどき現れる、呼び出した男の、女性の同僚(あーまどろっこしい!)だけが、そのドロドロの外にいて面白がっているというのもいい。
そういう構造の面白さがここにはある。
それを、あっさり見せてしまうことの凄さがある。
もの凄く変な感じ。
が、いい。
個人的には「ど」がつくほどのど真ん中ストレートで、やられた! なのだ。
1発で気に入った。すでに次回の東京公演も心待ちにしている。
もはや役者がどうこう、ということではないな、これは。
満足度★★★★
とてもよくできた人情時代劇
脇のストーリーの走らせ方とか、それらの結び付け方とか、なかなかうまいのだ。
ストーリーを無理なく見せ、かと言って説明的にも陥らず、人情時代劇としてはかなりのクオリティだと思ったのだ。
しかし…。
ネタバレBOX
物語の設定がいい。
キャラクターの、それぞれの設定もいい。
そして、それらがうまくストーリーに活きていて、どう転がっていくのかを見るのが楽しいのだ。
脇のストーリーと、もとのストーリーとのかかわり合い方も、変にべたべたしてなくていいし、気が利いている。
ちょっとした笑いもいい。
西洋三味線の引っ張り具合とそのオチ的な歌も、うまい! と思った。
そして、ちょっとした哀しみのエピソードのまぶし方も、人物の深みを増していてとてもいい。
さらに、ラストや途中のご都合主義的なところも、このストーリー運びならば、まったく気にならないというか、むしろこうあってほしいと思ったとおりで気持ちがいい。
涙的なエピソード、2度目の心中や弥七を全員で呼び戻すあたりもなかなか。
とにかく脚本がいいのだ。
これに関しては言うことない。
最初に作・演出の方が出てきて挨拶したのだが、終わってみれば、「あの人がこれだけのもの作ったんだ」と驚いてしまった。
ただ、口上のところから、なんとなく躓いていた。
うまくないのだ、これが。
慣れていないというか、声もイマイチ。
で、舞台の演技はどうかと言うと、確かにうまい人もいるし、見せる人もいるのだが、全体的に見ると「練度が低い」と感じてしまう。
つまり、もっと練習をすれば、かなりのレベルまで達するのに、と感じてしまったのだ。
なんというか、客演が多いためか、役者間の噛み合わせがもうひとつなのだ。
テンポよく畳み掛けてきても、それを受ける側が、ズレてしまっているというか、ブレーキを掛けてしまったり、また、逆もあったりと、ちぐはぐなのだ。
さらに、噛む台詞が全体的に多い。それは非常に気になった。
これを全体的なレベルが底上げしてある役者たちで見られたらどんなに素晴らしいものになったのか、と思うと非常に残念である。
そういうレベルに達していて、役者に余裕があったのならば、本来は十分に笑いが取れるはずのところでは、いいタイミングで、間を考えて台詞が入ったりして、笑いが相当起きていたのではないかと思うのだ。
笑いというのは、脚本で作るだけでは、大きなものには結びつかず(脚本だけで笑わせるところもあったが)、やはり、それを演じる役者の腕にかかるところが多いと思うのだ。
どうもそういう余裕は見られなかった。
しかし、初の時代劇でこのレベルの脚本である。ということは、現代劇はどのようなものになるのかが、非常に気になってきた。
今回は時代劇という設定ならではのお話で、その設定が見事に活きていた。ということは、現代の設定においては、またうまい活かし方で、相当面白いのではないかと感じたのだった。
役者で印象に残ったのは、権造の妻を演じた大森照子さんだ。腰が据わっていて、頭の妻然としていた。また、源治を演じた霧島ロックさんの、関西弁をポンポンと調子よく話す感じが良かった。そして、花咲男の長八郎を演じた牧野耕治さんは、後半に行くに従いエンジンがかかってきたようで、後半は良かった。
ちなみに、星の数のうち3つが脚本分である。
満足度★★★★★
「夢」とは何だったのか? 過去の、未来の私たちの「夢の島」を掘り起こす
「じめん」に座り、「夢の島」を白いビニール越しに感じる。草の匂い、夜空に流れる雲、に垣間見える星、ときどき上空を横切るヘリコプター、風。周囲にいる人々。
まさに「あの瞬間」「あの場所」での出来事。体験。
ネタバレBOX
夢の島とは、またいい場所を選んだものだと思う。
なんたって「夢の島」である。
そんな意味さえも記号のような、単なる地名になってしまって久しいのだが、この公演では、それを呼び起こし、いや、掘り起こしてくれた。
「夢の島」とは何だったのか、そこに埋まる「夢」とは何だったのか、ということをだ。
過去だけではなく、未来の「私たち」の「夢の島」に起こった(る)、ことも。
会場に着いて、人の多さに驚いた。「予約番号順に入場です」といろいろな手段でアナウンスしていたことが、すでに反故にされてしまっているということは瞬時にわかった。
が、そんなことはまったく問題がなかったことにそのうち気がつくのだった。
入口で、まず手渡されたのが白いビニールの旗のようなもの。2メール以上の高さがある。
それを手に手に、多くの観客が会場に入る。コロシアムの客席にあたる芝生を、反時計回りにぞろぞろと歩くのだ。
周囲では「宗教みたいだ」という声が多く挙がっていたが、私が感じたのは「蟻」だ。それも「ハキリアリ」という、葉っぱを運ぶ蟻の姿だ。
こんな感じ→http://www.youtube.com/watch?v=fQ-dx1XZHcQ
彼ら蟻たちには意思があるのかどうかはわからないが、間違いなくひたすら労働をしている。葉をせっせと運ぶ。そして、夢の島にいる私たちも、ハキリアリがごとく、その理由もわからずせっせと白い旗を持って、意味なくぐるぐる回らされている。顔の見えない、誰かに指示されるがままに。
誰もそれに異議を唱えるわけでもなく、立ち止まってしまうこともなく、近道をしようと中央部分を横切ることもない。
それは、当然だ、と言うかもしれないが、なぜ当然なのだろうか。
そんなことを考えながら歩くというのは、実はエキサイティングだったりする。なんか気持ちが高揚してくる。
旗を高く掲げるということには抵抗がある。それは、「旗を高く掲げるときにはいつも何かよからぬことが行われていて」「それは大勢の高揚感によって支えられている」ということがあるからだ。
最初に思い出すのは、ナチスの党大会や行進、さらに赤い旗を振り回す、あの革命というやつだ。とにかくろくなことがない。ナチスの党歌はご存じだろうか。『Horst-Wessel-Lied』「旗を高く掲げよ」と呼ばれている(歌の出たしの歌詞がそうなので)歌だ。
「旗を掲げること」にそんな高揚感があると言っていいだろう。
だから警戒が必要なのだ。そして、夢の島でそれを体験している。
早くこの白い旗を振ってみたい、この観客たちが全員で振る様子を見たい、なんていう欲望とともに。
すでに「大衆」と呼ばれる人々の一員になっているのだ。大勢で何かを褒めそやしたり糾弾して、気持ちのいいアレだ。
そんな想いとは別に、公演は粛々と始まった。
整然と並べられた椅子が瓦礫になっていく様を、亡霊のような白い人々を、そして、青く輝いていく少年を。
「青」は未来の光と見た。
観客は、誰かに向かって「白旗」を降り続けるように指示され、嬉々として白旗を振るのだ。白い旗がコロシアムの客席で一斉に振られる。
それは「降伏」の白旗なのか、「ここにいる」という合図なのかは、振っている人次第というところかもしれない。
後半は、「夢の島」=われらが「日本」への想いだ。
「夢の島」の地中には「夢」の歴史が埋まっている。つまり、「ゴミ」だ。「瓦礫」だ。そんなモノが埋まっていて、今も見えない汚染が地中で蠢いている。
観客は、「夢」の残滓の上に座り、手の平やお尻でそれを感じる。なんてことはできない。「見えない」からだ。「見えない」ことは「ないこと」と同じ。それはいつも体験してきたことだ。そして、今も体験しつつある。
「ここにある」と言われても実感できない。
すでに緑に覆われた「夢の島」は、ゴミを瓦礫を見事に隠蔽している。最初からそんなものはなかったように。
少年が掘り起こして、それを露わにしていく。少年は未来だ。未来から私たちに「夢」がなんだったかを「じめん」から「掘り起こして」くれているのだ。
「なかったこと」にしてしまう日本という国を掘っていこうとするのだ。
同時に「見えないこと」にしている現実にも突き当たる。
ポーランドのマリアこと、キュリー夫人と出会い、彼女の「夢の産物」でもある「役に立つ石」に続く「Little boy」が姿を現す。すぐそばにある、第五福竜丸も脳裏によぎる。
「Little boy」や「Fat man」という名前!
そう「名前」を付けることに意味がある。それは「夢の島」も同じなのだ。
名前が付いて「意味」が付いてくる。「名前」によって、何かが隠蔽されるということもある。名前でそのものの本質を覆うことができる。
「子ども」たちの行進はどこに続くのだろうか。弔いの鐘の音を響かせて。
モノリスの「エッジ」を歩く様は、今の状況なのか。
死のイメージが濃くなる。
「死」を「埋める」日本のほうが、ロッカーのような場所に納めるイタリアよりも、死者を想うという図式は面白い。
それはゴミでも瓦礫でもない、者なのだ。者は声を発する。埋められていても。
「夢の島」だった「日本列島」は、50年後にはない。土地そのものがない、というよりは、「存在」が「ない」のだ。
今のまま、「見えないもの」は「ないもの」にしていると、日本はなくなってしまうというストレートな表現なのか。
多くの「夢」を地中に埋め、地表には雑草が生い茂るだけの日本列島がそこにある=そこに日本はない。そうならないためにも…というロジックは単純だけど、今、覚えておかなくてはならない。未来を思い出せ! ということだ。
「じめん」に座り、「夢の島」を白いビニール越しに感じる。草の匂い、夜空に流れる雲、に垣間見える星、ときどき上空を横切るヘリコプター、風。周囲にいる人々。
まさに「あの瞬間」「あの場所」での出来事。
そして、少しだけ、ほんの少しだけ未来に思いを馳せるのだ。
品川には「平和島」という埋め立て地がある。その地面には何が埋まっているのだろうか?
2001年生まれの少年から、未来、コーネリアス、猿、で、モノリスというラインは少々直接すぎて腰が砕けてしまったが(笑)。
満足度★★
まったく乗れなかった
全然笑えなかったし。
なんだろ、この感じ。
ネタバレBOX
全然面白いと感じなかった。
なぜだろう。
ベタな笑いは嫌いじゃないし、役者たちも熱演というのはわかる。
「東宝セレソンデラックス」っていうのも面白いと思う。
しかし、周囲のおばちゃんたちが大爆笑すればするほど気持ちは冷めていく。
同じことを、あまりにも何度も繰り返しすぎるのがいやなのかもしれないし、ベタがあまりにもベタベッタすぎるからかもしれない。
やくざな兄貴が帰ってきて、周囲が迷惑して、その兄貴が美人に一目惚れという、寅さん的な出だしや(引き戸に寄っかかると、戸がすっと動いてこける、なんていうところは、まんま寅さんじゃないか)、「そんなの関係ね~」のつかみや、いまどきポポポ~ンの歌、いまどき仕分けで有名な白いスーツの女性国会議員の設定とか、スリッパで頭を殴るのが何度も何度もとか、ドタバタと走り回るとか、不倫相手の女性が相手の赤ん坊を誘拐する八月の蝉的なエピソードとか、なんかそんなのが気になってしょうがないからだろうか。
どこかで、(別の古い映画とかテレビとかで)見たり聞いたりしたことのあるような、既視感だらけの内容(ギャグも笑いも設定も)で、古い舞台を観ているようだった。それは、昔書かれた作品ということではなく、古くさいという意味においてだ。もちろん、古くても、古くさくても、いい作品はあるのだが…。
とにかく、なんか気持ちが悪い。
人情話的な話の収束もなんだかな~だったし。
平成の世でも、やっぱりこういうのがウケるということなのだろうかね。
前半はそうでもなかったが、後半の、勘違いで取り違えあたりから、周囲の笑い声は高くなってきたのだが、そういう中にいると、こっちの感覚のほうがおかしいのではないかと、不安になってくる。
安心して観られるということで、ファンが多いのかな。
満足度★★★★
加速度的に(役者)エントロピーが増大していく
勝手な印象なのだが、(最近見始めたということもあり)モダンスイマーズの舞台は、日常が舞台であり、どうしようもない人たちのヘヴィな様子を描いている、と思っていた。
しかし、今回は、古山憲太郎さんが脚本・演出ということで、それとは違っていた
ネタバレBOX
古山憲太郎さんが役者ということからかもしれないが、役者にかかる負荷が大きかったような気がする。
負荷と言っても、それは役者にとっての、楽しみでもあるのではないかとも思った。
具体的に言うと、1人が演じる役があまりにも多いのだ。
しかも、1人が何役かやるときには、同じシーンに同じ俳優が演じる別の役が出ることは、普通はあまりないと思うのだが、それがこの舞台では平気にあるのだ。
例えば、学校の先生と小学生の女児を三田村周三さん(!)が演じて、小学校の教室のシーンを構成するという、むちゃな感じなのだ。
ただし、これは小学校というシーンでは同じなのだが、一緒に登場するわけではない。
しかし、後半に行くに従い、それがどんどん加速度的に重なっていき、ラスト近くでは、同じ役者が演じる何役もが、同時に舞台の上にいたりする。
さらに、小学生と現在の大人は、同じ役者が演じるのだが、例えば、大人のシーンに登場する、小学生のときのクラスメイトを演じていた役者が、そこでは別の役だったりするので、帽子程度の衣装替え(?)はあるにしても、とにかく大変なことになっていくのだ。
そんな、まるで役者的なエントロピーが増大していく感じが楽しいのだ。
別の役を丁寧に、別の役として演じている人もいたが、微妙な差だけで、演じている役者もいるのだが、観ているほうには、あまり混乱は起きない。
それは演出ということもあろうが、役者の力を知っている、あるいは信じているからこそ、任せてしまったのだとも言えると思う。
そんな役者がフル回転する舞台であり、それがこの舞台の醍醐味でもあろう。
フル回転していても、膨大な汗をかいたり、息を切らせたり、なんてことがないところが、スマートで、さすがモダンスイマーズと言える。
今回の古山憲太郎さんのモダンスイマーズが成功したのならば、これからも、ちょっと趣向の変わった、新しいモダンスイマーズが観られるのではないだろうか。
ストーリーは、メルヘン的、少年マンガ的で、ラストは甘い大団円だったから、そういう意味でも、新しいモダンスイマーズとも言えるのではないだろうか。
フライヤーの顔の絵は、古山憲太郎さんの手によるもので、小学生のときに描いたものらしい。その原画は、他の作品とともに客席に続く廊下に展示してある。
満足度★★★★★
マヂ、パネェ〜、ハムレット!
マヂ、パネェ〜、ハムレット!
マヂ、ハムレットだったんじゃね。
ていうかぁ、女優たち、カッコよすぎっしょ。
マヂ、リスペクトじゃね。
台詞、原典の翻訳、超カッコウィ〜。
からの〜、思わず、笑っちゃう系の、シビレた感じぃ〜の〜。
だったわけで、面白くって、もの凄く楽しい舞台だった。
ネタバレBOX
いつもの、と言えば、いつもの柿喰う客ではあるのだけど、ビートに乗った台詞と動きが、ホスト的なチャライ感じに、ド・ストレート。
物語を強い力で、グイグイと前へ引っ張っていき、観客は笑いながらそれに気持ち良く乗っかっていくという感じだ。
「キング」って台詞が、なんだかストリート・ギャングのキングとか、ホストクラブのナンバーワンの名称のように響く。
つまり、デンマーク王を巡るあれこれが、ストリート・ギャングのドンの椅子や、ホストクラブ「デンマーク」のナンバーワンホストを巡るような感じに聞こえ、それが素敵すぎるのだ。
女優が全員イキイキして、輝いている。
舞台から発せられるテンションの高さは、幕開けから終演まで凄いことになっていた。ポテンシャルも完成度も高い。見事!
ハムレットの台詞は、聞き覚えのあるものもいくつかあるのだが、その中で特に印象的、象徴的なものは、うま具合に残してあり、それらが、こうなるのか! という驚きと、楽しさが満載であった。
台詞のあまり多くない、七味まゆみさん演じるノルウェーの王子、フォーティンブラスだが、ラストで、いい緊張感の中、素晴らしい台詞が聞けて、なるほど、このために、万全の配役として、彼女をこの役にしたんだと思わず納得した。
このラストの台詞は、抗争の後の幕引きとして見事であり、本当に素晴らしいものであった。
ハムレットを演じた深谷由梨香さんも、ぐいぐい物語を牽引していたし、それを受けて立つ、クローディアスのコロさんもカッコいい。マーセラスを演じていた岡田あがささんは、全面に出るシーンは少ないものの、その得意な表情は周囲とは異質なオーラを放っていた。そして、長身でスリムなレアティーズ(葛西幸菜さん)や、ローゼンクランツ(葛木英さん)とギルデンスターン(大杉亜依里さん)たちのなんてカッコいいことか。いちいち様になっている。
ガートルード(右手愛美さん)の「私はエロい」の台詞のタイミングのよさ、しなやかさ、オフィーリア(新良エツ子さん)のキャラにも笑った。
もちろんほかの女優たちもいいわけで、つまり、光輝く女優たちの姿とオーラを存分に味わう舞台だったと言っていい。
001とあったので、さらに女体シェイクスピアは続くものと思っていたが、どうやら、次回は『マクベス』ということだ。たぶん全作品を女体シェイクスピアとして上演してくれるのではないかと思う。
スタートがこのレベルなので、次回以降も期待せざるを得ない。
PPTで、中屋敷法仁さんが、「今回の公演は、演出とか戯曲ではなく、俳優のためにすべてを行った」と、「台詞は俳優によって、どうにでも表現できる」だから「これからは翻訳なんていらなくなる」と言っていたのが、印象に残った。初日のせいか、妙にテンションの高いしゃべりも(笑)。
満足度★★★
3.11以降の、彼らからの、ひとつの答えかもしれない
と言うのは、深読みしすぎか。
とにかく、頭を回転させながらの観劇。
観客に、物語の「答え合わせ」的な引っ張り方以外の「面白さ」を見せてほしかった。
ネタバレBOX
カフェがある町は、どうやら人口が減っているらしい。
「側溝の掃除」「下草刈り」などということが、何度も出てくるあたりが「除染」を想起させ、ただならぬ事態が町に起こっているような気配を漂わせる。「停電」と「断水」の予測の放送も。
そして、人でない者が跋扈し、彼(ら)によって「消されて」しまうような、不気味さもある(しかも、その手を下すのは「にんげん」でなくてはならないという皮肉)。
不安感の中にあって、弟の意思を継いでカフェを出そうとする男と、それにかかわってくる人々のストーリー。
しかし、さらに時間を超えて、ドアとドアから抜け出せない男女が絡んでくる。
この設定がいまいちしっくりとこない。
なぜならば、彼らは未来へ進もうとしているようだが、ドアから抜けだそうとはしていないからだ。何度も同じドアからドアへ移動するだけ。もし、そういう境遇に陥ったならば、ドアの中にいる人たちに助けを求めたり、抜け出す方法を考えたりするのではないだろうか。
自分に出会ってしまえば、ドカン、という説明がわずかにあるのだが、それだけではどうも…。
特にカフェの男としばらく過ごすことになる女の行動が理解できないし。
あまりにもドタバタと出入りしすぎるので、回数が多すぎてストーリーのアクセントにもならないし。
そんな違和感もあり、見ている側としては、ついつい「答え合わせ」のようなものをラストに求めてしまうのだ。
しかし、「答え」は出てこない。
何がどうなっていくのか? が気になってしょうがなかった。
のだが、結局、きちんとした説明はない。
もちろんそれは「アリ」なのだが、であれば、そういう「設定」や「辻褄」探しではないところに、物語の面白さを見出せるようにしてほしい。
つまり、いろいろ引っ張るだけ引っ張っておいて、放り出された感覚なのだ。
物語自体が、そういう「設定」以上に「何か」を感じ取れるのであれば、そういう投げ出され方に対しても納得できたと思う。
そうではなく、しつこい繰り返しが、延々続くように見えてしまい、その「繰り返し」に面白さが乗っかってこなかったような気がしている。
登場人物たちの出入りがあまりにも、毎回同じなので、いささか飽きてくるのだ。
「しつこい繰り返し」に意味があるように見せ、「なるほど」と思わせてほしかったということだ(なぜそうなったか、という説明はないとしても)。
「不安さ」も増長することもあまりないし。
このストーリーで唯一、いい感じだと思ったのは、ラストだ。
カフェを継いだ男が、初めて弟がやろうと思っていたカフェを訪れるシーン。
それは、話の中盤で、男が弟の彼女だった女にプレゼントを贈り、自分の気持ちを伝えようとするのだが、結局きちんと渡せなかった。
時間を行き来する女が、それを知り、きちんと渡そうとして、再度プレゼントを持って出る、というシーンとつなげて考えると(未来ではプレゼントが消えてなくなり「ということは渡せたのではないか」という台詞にもつながっていく)、カフェを継いだ男の、「新しい物語」が、始まるのではないかという予感をさせるのだ。
つまり、舞台の上では、時間が前後しながら進行しているのだが、観客に見せる時間設定としての「最初のシーン」ではなく、「新しい最初のシーン」としてつながっていくように感じたからだ。
ここで、「除染」や「人でない者」たちが登場する、「不安な世界」を「やり直す」というような感覚がしたのだ(…結局それは無理なんだろうけれど)。
それが、不安な今への、彼らからの、ひとつの答えではないのか、と考えたのだ。
本当は未来は過去には干渉できるはずもないのだけれど、今からの未来には影響を及ぼせるという、あたりまでになってしまうと、深読みすぎになってしまうのだろうけれど(笑)。
コーヒーや紅茶の味についての台詞が多く、ずっとコーヒーのいい香りが漂っているような作品だった。
普段コーヒーなど飲まないのだが、帰りに7-11で、ついコーヒーを買ってしまった。