宮澤賢治/夢の島から 飴屋法水『じ め ん』/ロメオ・カステルッチ『わたくしという現象』 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「宮澤賢治/夢の島から 飴屋法水『じ め ん』/ロメオ・カステルッチ『わたくしという現象』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    「夢」とは何だったのか? 過去の、未来の私たちの「夢の島」を掘り起こす
    「じめん」に座り、「夢の島」を白いビニール越しに感じる。草の匂い、夜空に流れる雲、に垣間見える星、ときどき上空を横切るヘリコプター、風。周囲にいる人々。
    まさに「あの瞬間」「あの場所」での出来事。体験。

    ネタバレBOX

    夢の島とは、またいい場所を選んだものだと思う。
    なんたって「夢の島」である。
    そんな意味さえも記号のような、単なる地名になってしまって久しいのだが、この公演では、それを呼び起こし、いや、掘り起こしてくれた。

    「夢の島」とは何だったのか、そこに埋まる「夢」とは何だったのか、ということをだ。
    過去だけではなく、未来の「私たち」の「夢の島」に起こった(る)、ことも。

    会場に着いて、人の多さに驚いた。「予約番号順に入場です」といろいろな手段でアナウンスしていたことが、すでに反故にされてしまっているということは瞬時にわかった。
    が、そんなことはまったく問題がなかったことにそのうち気がつくのだった。

    入口で、まず手渡されたのが白いビニールの旗のようなもの。2メール以上の高さがある。
    それを手に手に、多くの観客が会場に入る。コロシアムの客席にあたる芝生を、反時計回りにぞろぞろと歩くのだ。
    周囲では「宗教みたいだ」という声が多く挙がっていたが、私が感じたのは「蟻」だ。それも「ハキリアリ」という、葉っぱを運ぶ蟻の姿だ。
    こんな感じ→http://www.youtube.com/watch?v=fQ-dx1XZHcQ

    彼ら蟻たちには意思があるのかどうかはわからないが、間違いなくひたすら労働をしている。葉をせっせと運ぶ。そして、夢の島にいる私たちも、ハキリアリがごとく、その理由もわからずせっせと白い旗を持って、意味なくぐるぐる回らされている。顔の見えない、誰かに指示されるがままに。
    誰もそれに異議を唱えるわけでもなく、立ち止まってしまうこともなく、近道をしようと中央部分を横切ることもない。
    それは、当然だ、と言うかもしれないが、なぜ当然なのだろうか。
    そんなことを考えながら歩くというのは、実はエキサイティングだったりする。なんか気持ちが高揚してくる。

    旗を高く掲げるということには抵抗がある。それは、「旗を高く掲げるときにはいつも何かよからぬことが行われていて」「それは大勢の高揚感によって支えられている」ということがあるからだ。
    最初に思い出すのは、ナチスの党大会や行進、さらに赤い旗を振り回す、あの革命というやつだ。とにかくろくなことがない。ナチスの党歌はご存じだろうか。『Horst-Wessel-Lied』「旗を高く掲げよ」と呼ばれている(歌の出たしの歌詞がそうなので)歌だ。

    「旗を掲げること」にそんな高揚感があると言っていいだろう。
    だから警戒が必要なのだ。そして、夢の島でそれを体験している。
    早くこの白い旗を振ってみたい、この観客たちが全員で振る様子を見たい、なんていう欲望とともに。
    すでに「大衆」と呼ばれる人々の一員になっているのだ。大勢で何かを褒めそやしたり糾弾して、気持ちのいいアレだ。

    そんな想いとは別に、公演は粛々と始まった。

    整然と並べられた椅子が瓦礫になっていく様を、亡霊のような白い人々を、そして、青く輝いていく少年を。
    「青」は未来の光と見た。
    観客は、誰かに向かって「白旗」を降り続けるように指示され、嬉々として白旗を振るのだ。白い旗がコロシアムの客席で一斉に振られる。
    それは「降伏」の白旗なのか、「ここにいる」という合図なのかは、振っている人次第というところかもしれない。

    後半は、「夢の島」=われらが「日本」への想いだ。
    「夢の島」の地中には「夢」の歴史が埋まっている。つまり、「ゴミ」だ。「瓦礫」だ。そんなモノが埋まっていて、今も見えない汚染が地中で蠢いている。

    観客は、「夢」の残滓の上に座り、手の平やお尻でそれを感じる。なんてことはできない。「見えない」からだ。「見えない」ことは「ないこと」と同じ。それはいつも体験してきたことだ。そして、今も体験しつつある。
    「ここにある」と言われても実感できない。
    すでに緑に覆われた「夢の島」は、ゴミを瓦礫を見事に隠蔽している。最初からそんなものはなかったように。

    少年が掘り起こして、それを露わにしていく。少年は未来だ。未来から私たちに「夢」がなんだったかを「じめん」から「掘り起こして」くれているのだ。
    「なかったこと」にしてしまう日本という国を掘っていこうとするのだ。

    同時に「見えないこと」にしている現実にも突き当たる。
    ポーランドのマリアこと、キュリー夫人と出会い、彼女の「夢の産物」でもある「役に立つ石」に続く「Little boy」が姿を現す。すぐそばにある、第五福竜丸も脳裏によぎる。

    「Little boy」や「Fat man」という名前! 
    そう「名前」を付けることに意味がある。それは「夢の島」も同じなのだ。
    名前が付いて「意味」が付いてくる。「名前」によって、何かが隠蔽されるということもある。名前でそのものの本質を覆うことができる。

    「子ども」たちの行進はどこに続くのだろうか。弔いの鐘の音を響かせて。
    モノリスの「エッジ」を歩く様は、今の状況なのか。

    死のイメージが濃くなる。
    「死」を「埋める」日本のほうが、ロッカーのような場所に納めるイタリアよりも、死者を想うという図式は面白い。
    それはゴミでも瓦礫でもない、者なのだ。者は声を発する。埋められていても。


    「夢の島」だった「日本列島」は、50年後にはない。土地そのものがない、というよりは、「存在」が「ない」のだ。
    今のまま、「見えないもの」は「ないもの」にしていると、日本はなくなってしまうというストレートな表現なのか。

    多くの「夢」を地中に埋め、地表には雑草が生い茂るだけの日本列島がそこにある=そこに日本はない。そうならないためにも…というロジックは単純だけど、今、覚えておかなくてはならない。未来を思い出せ! ということだ。

    「じめん」に座り、「夢の島」を白いビニール越しに感じる。草の匂い、夜空に流れる雲、に垣間見える星、ときどき上空を横切るヘリコプター、風。周囲にいる人々。
    まさに「あの瞬間」「あの場所」での出来事。

    そして、少しだけ、ほんの少しだけ未来に思いを馳せるのだ。




    品川には「平和島」という埋め立て地がある。その地面には何が埋まっているのだろうか?

    2001年生まれの少年から、未来、コーネリアス、猿、で、モノリスというラインは少々直接すぎて腰が砕けてしまったが(笑)。

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    2011/09/21 18:23

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