「極めてやわらかい道」千穐楽!23日は13時開演!!当日券アリマス 公演情報 ゴジゲン「「極めてやわらかい道」千穐楽!23日は13時開演!!当日券アリマス」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    ゴジゲンが帰ってきた!
    前回はちよっとアレだったけれど、今回は、とても素敵な、あの「キモチ悪いゴジゲン」になって帰ってきたのだ。
    でも、本質は、「キモチ悪い」ことではない、というところが、作品の面白さと良さであることは間違いない。
    …と思うのだが、どうだろうか。

    ネタバレBOX

    こういう言い方は、アレかもしれないけど、前回の再演『神社の奥のモンチャン』では、イイ話へ、イイ話へとまとめようとしてたんではないかと勘ぐってしまったのだが、今回、いい感じな、社会不適応な男たちの、ドロ沼話、つまり、「気持ちの悪い」ゴジゲンになって戻ってきたのだ。

    本当にジビれる。そして、酷すぎる話だ。
    とは言え、「救い」の話でもあるかもしれない。
    「であるかもしれない」と言うのは、そんな単純な話ではないからだ。

    完全に社会不適合な人たちで、何もしないで、覗き見(ストーカー)だけをしている。
    尾崎の兄弟から入るお金だけをあてにして。

    それぞれの鬱屈、屈折の仕方がさまざまなところが、肝である。
    唯一、大橋(源氏名:ドリアン)という共通項があるだけ。

    尾崎が大橋に惹かれたのが、松山から「誘われた」というところが、とてもいい。「誘われた」という「逃げ」が自分の中で効いていて、そういう、彼らの「皮膚感覚」的なモノが、全編に散りばめられているのが、この物語の凄さでもある。
    つまり、脚本でのそういう作り込みが素晴らしいということなのだ。

    それをどこまで意識的に創作したかはわからないが、こう言っちゃなんだけど、ゴジゲンの公演を、好きで観に来ている人たちには、それぞれの微妙なところで、理解できるところがあるように思えるのだ。
    「舞台からの電波を受信した」とか「なぜ自分のことを脚本に書いているのだ」言い張る人がいてもおかしくないぐらいだ。…と思う。

    「病んでいる」という言い方は、あまりに広すぎて的を射てないと思うし、何より、「日本から独立した国」に住む彼らとの「境界」は、とても薄いものだからだ。

    実際、彼らのやっていることは犯罪であるのだが、突き抜けすぎていて、どこか単なる「遊び」にも見えてくる。安住の地の、彼らの国、アパートの一室で、気の置けない仲間と、ダラダラと過ごすというのは楽しいに違いない。
    しかも、毎日やることがあるのだ。ただし、ストーカー行為だけど。

    「仲間」や「共感者」を得られるならば、何をしてもいい、と言うか、「目的と手段が入れ替わる」瞬間ということが、真の快楽につながっていくということが、よくわかってらっしゃる、と思うのだ。
    そして、「抱きしめられる」という点が、彼らのウイークポイントであるのだが、それがあまにりも哀しい。切なすぎるシーンだ。

    彼らの歪んだコミュニティは、居心地がいいのだろう。
    「自分を捨てられる」からだ。捨てることが前提となっている、という「逃げ」が用意されているところがポイントである。
    「人」であることすら捨てられて「犬」として暮らすことだってできるのだから。

    そのコミュニティに「共感」を見出すことは可能だろう。取り立て屋の2人さえも、それぞれの自分のことに振り返り、共感を見せるのだ。
    弟分の友枝が涙を見せたりするし、兄貴分の星も、実はそうだったことを、ふと漏らすシーンがいい。彼が最初にこの部屋に入ってきたときから、その萌芽は見てとれたと言っていいだろう。なぜか部屋の住民の話を「聴こう」とするのだ。そして、彼がトイレのドアを閉められないというのも、何かそういうものを感じさせる。

    そのコミュニティの崩壊はあっさりとやって来る。しかし、それは悲劇ではなく、誰かが壊しに来るのを待っていたと言ってもいいのではないろうか。
    自らが壊すことができない「殻=国」だからだ。
    それを壊すのは、大橋しかおらず、星がその導きをする。

    実家への想いで、桃の匂いをかいで吐いていた、尾崎が、それを食べられるようになるということは、コミュニティの崩壊を暗示しており、彼がそれを受け入れた瞬間でもある。

    仲間とのコミュティは崩壊したが、次に待っているのは、尾崎と大橋の「世界=コミュニティ」だ。彼ら2人が、うまくその世界で生きていけるかどうかは、大いに疑問だが、なんか一応の解決らしき感じにはなっている。
    そういう「きな臭い」ような「予感」を孕みつつのラストは秀逸だったと思う。

    そして、登場人物全員への優しい眼差しのようなものすら、そこに感じるのだ。その「優しい眼差し」こそは、実は「自分にもしてほしい」ことなのだろう。
    つまり、それは自分自身に対しての「眼差し」でもあるのだ。
    もっとも、意識していたかどうかは不明だが、ゴジゲンは全員出演しているのだから、確かに「自分たち自身に向けられた眼差し」であるのだ。
    そんな心の底からの叫びで、気持ち悪い話が、単なる気持ち悪い、だけで終わらないのだ。…「浄化させる」とまでは言わないけれど。

    それにしても、全編気持ち悪すぎ。
    祈りに使っていたハンカチとか(その由来がまたいいのだが)、ゴミ場あさりとか、髪の毛食べようとするとか。
    覗きに関して言えば、ゴジゲンではもう毎回の印象すらある。自分の姿を相手に見せず、相手をじっと観察するという、そういう深層が、つい筆によって記されてしまうのかもしれない。

    役者は、尾崎を演じた辻修さんの、歪んだ気味悪さを内包しているような姿が最高だった。また、取り立て屋の兄貴分・星を演じた野中隆光さんの、ヤクザ的なカッコよさな動きと口調も素晴らしいと思った。プルートを演じた東迎昂史郎さんの卑屈さもたまらない。

    当パンの松居さんの「ご挨拶」を読むと、いろいろ気持ちの中であったようだ。
    だけど、ゴジゲンは、このまま突っ走ってほしいと思う。
    こういうゴジゲンが観たいのだから、うんと足掻いてほしいと思う。

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    2011/10/13 08:35

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