満足度★★★
チカラづくで引っ張ってほしかった
もっとビートが効いているかと、(勝手に)思っていた。
ネタバレBOX
デス電所なんていう名前だから、もっとロックなのかと思っていた。もっとビートが効いているのかと思っていた。ま、それはこっちが勝手に思ってるんだから、あちら側には責任はない。
でも、ロックの初期衝動のような暴力的な展開が待っている割りには、なんかぬるい。
ビートが感じられない、聞こえない。ストーリーの展開にも音楽にも。
ストーリーで言えば、どんでん返しのためのどんでん返しとしか思えないような、二転三転で、悪魔は? 悪魔は? となってしまう。
もちろん、そんな「悪魔」なんていう概念を凌駕するような、もっと「大きな」モノが全体を覆うような展開となるはずなのだから、そんなことはどーでもいいのかもしれない。
しれないのだが、だったら、そんな疑問の入り込む余地を感じさせないような、「イキオイ」は見せてくれよ、と思う。
この二転三転の、不自然な展開は、脚本では埋められないギャップがあり、それを串刺しにして、観客を納得させてくれるのは、主人公のミチルなのではないだろうか。
彼が、観客をぐいぐい引っ張っていかないと成立しない物語なのではないかと見たのだが。
しかし、ミチルは歌が下手だ。ひょっとしたら、「神がいない」の演出かと思ってみたものの、そうではないようだ。
また、演技も沈みすぎだ。それは役の心情を表すために沈んでいる、ことを言ってるのではなく、軸になっていくような「強さ」を感じないのだ。物語が転がり始めてから、激しくヒートしてくる、ナツミに対抗するべく、もっとぐいぐい来ないとダメではないかと思うのだ。
ぐいぐい来る、というのは、台詞を叫べ、とか動け、とかと言うことではなく、熱さでナツミに対抗してほしいと言うことだ、ナツミとミチルが揃うことで、物語にビート、グルーヴのようなものが生まれ、きちんと疾走していくのではないだろうか。それによって、二転三転も乗り越えられる。しかし、それはなかった。ナツミのみが熱くなるだけ。
また、音楽について言えば、なぜどの歌も平板に、何も込めないで歌っているようにしか聞こえないんだろうと思った。何人かで合唱していときはまだいいのだが、特にソロで歌うところが、自信がないのか、ビートが効いてこない。すごくもどかしい。
あと、「F県」なんていう設定にしなくてもいいんじゃなかったのかと思う。
「神がいなくて」「悪魔がいて」「連続殺人が起こってる」というのは、「この国には」「神がいない」という前提があったとしても、気分はあまり良くない。あえて「気分を害する」ようにしたとするならば、もっとうまくやってほしい。
満足度★★★
あまりにもアイデアを盛り込みすぎではなかったか
結果、逆に全体が平板になってしまい、いろんなものが埋没してしまったように思う。
そして、長い、と感じてしまったのだ。
ネタバレBOX
冒頭から面白予感があったのだが、どうもこちらが乗り切れない。どうしてか? と思ったのだが、とにかくアイデアを盛り込みすぎではなかったか。盛り込みすぎても面白い舞台は数多くあるのだから、そのコントロールの仕方がうまくいかなかったのではないだろうか、と思った。
次々登場人物が現れてて、新たなアプローチをしてくる。
それは面白いのだが、軸となるキッドと天球の物語が薄れてくる印象だ。
どのエピソード、どのキャラクターにも満遍なくボリューム感があり、台詞とかいろんなことに小ワザを効かせてくる。
その小ワザ部分が、あまりにも多すぎて、舞台の上で処理し切れていない印象を受けた。もちろん処理し切れていない、受け取り側にも問題はあるのかもしれないが、本当に面白いところまで、小ワザの連発で隠れてしまったのではないだろうか、と思った。
「笑い」のあるだろう個所も、あまり笑えなかったのは、いろんなボリュームがありすぎて、役者に余裕がなかったからではないだろうか。台詞や演技の全部笑わせるのではなく、やはりそこもピンポイントで、「ここ」というポイントを笑ってもらう工夫をすべきだったのではないだろうか。
「ここ」という肝な部分を、カギカッコで括るような演出等々が足りないというか、だから全部平板になってしまったというか、大切なところをきちんと伝えてほしかったというか。
大切なシーンや台詞が空回りしていた印象さえある。それは残念。
例えば、兄弟のエピソードは、兄の過剰な台詞は面白いのだが、兄弟の関係に表すシーンをもっと鮮明にしたならば、彼らの(特に兄の)痛みは伝わったと思うし、それは、タライのシーンにおいても、単なる笑い以上の何かを伝えてくれたように思えた。
あるいは、例えば、野球チームを作る、疑似家族の3人の関係だって、その中心を明らかにして見せたのならば、面白さだけではない辛さが垣間見えてきたかもしれないのだ。
大切なことを忘れてしまった(あるいは忘れてしまいそうになる)ということへの痛みと、家族の物語はとても面白かった。
天球(島田桃子さん)の愛らしさは抜群で、彼女を失ったキッドの気持ちは痛いほどわかるし。
音楽の演奏からの展開は、本当に素晴らしいかった。特に、バットで壁を叩き壊し、なぜ客席と舞台を通常の形と逆向きに(客席を入口側ではなく舞台側に設置した)したかという理由が明らかになる、セットの展開も含めて、キッドと天球の会話まで、とても美しかったと思う。
のだが、長く感じてしまったのが、やっぱり残念。
観劇中は、時計など見ることはまずない。しかし今回は耐えきれず、見てしまった。まだ1時間しか経ってないんだ、と気づきガックリしてしまった。
満足度★★★★
あひるなんちゃらの豪華ツッコミ陣の、ツッコミを心ゆくまで楽しむ70分
いつものあひるなんちゃらのようであって、そうでもなかったり、やっぱりいつものであったりの70分。
笑いあり、ダンスあり、笑いありの70分。
ネタバレBOX
劇場に入ると場所的には空きがあるのだが、空席が1つもない。どうしたことかと思っていると、スタッフが「どこにでもお好きなところに席をお作りします」と声を掛けてきた。
どうやら、好きなところに席を作ってくれるというシステムらしい(人数的に余裕のあった、この回だけかもしれないが)。
そして、希望すれば、座布団も増量してくれるとのこと。
省エネモードな印象のいつものあひるなんちゃらとは違う印象を受けた。
いや、今回も省エネモードなのだが、ちょっと手触りが違う。
いつもは、イタイと言っていいほどの、とても困ったちゃんたちが、延々困ったことを言い、それに突っ込む人がいて、という構図で、困ったことを楽しむ雰囲気があった。
しかし、今回はあひるなんちゃらの豪華ツッコミ陣、異儀田夏菜さん、石澤美和さん、三瓶大介さん、堀靖明さんが集結し、気持ち良く突っ込んでいくのを楽しむ。
特に、ノザワ役の異儀田夏菜さんのツッコミを堪能するという作品だったような気がする。
(私は毎回この人のツッコミを楽しみにしている、なんちゃら〜の1人である。ちなみに異儀田夏菜さんはあひるなんちゃらの劇団員ではないが、(ほぼ)いつも客演している)
とは言うモノの、結局、困った人に突っ込み、舞台上では、何も起こらないという、基本は同じで、個人的な受け取り方の違いだけなのかもしれないんだけどね。
あと、ナレーターと観客(!)が舞台の左右にいて、舞台の上では、いつもの、何も起こらない会話に、それをヘンな風に膨らますという仕掛けが楽しかった。
つまり、例えば、テレビでドラマを観ながら、それに勝手にナレーションを付けたとしたら、まさにこんな感じで、舞台の上に対して何の影響もないことを、勝手にしゃべって、面白く膨らますということだ。
面白く、と言っても面白いことを言うのではなく、あくまで淡々としていて、「観客」(役)がそれを突っ込むことで、面白さが成立するという形も面白い。
ナレーションは正しいこと言っているのか? それ自体が困った人の発言ではないのか? とまで深読みしてもいいし、しなくてもいい。
その程度のことだが、面白い発見かもしれない。
で、結局いつも通り何も起こらなくて、だらだらしゃべっているのを観て、へらへら笑って楽しむのが、あひるなんちゃら、なのかな。
5年後の微妙な近未来が描かれて、5年後何しているのか、なんていうテーマみたいなものもありつつも…。
そう言えば、今回は、関村さんは出てこなかった。
あと、ニコニコキャンペーンという脱力ネーミングのキャンペーンをやっていて、DM持っていったり、twitterなどでつぶやくと言うと、特性ボールペンをもらえることになっていた。
あと予約で2000円は安い。
満足度★★★★★
豪華なキャストで素晴らしい舞台を堪能
東京フェスティバルは、毎回社会的な視点を盛り込みつつ、笑いの多い作品を見せてくれる。
今回は、小名浜のソープから震災、原発事故を見せてくれた。
ネタバレBOX
事故直後は作業員が多く来たので、混んでいた風俗街が、原発作業員の箝口令のために外出禁止になっていったことで閑古鳥が鳴くようになってしまったこと、原発事故による漁業補償のこと、震災の復興と言えどもフーゾクには銀行が貸し付けを渋っていること、等々と、作・演のきたむらけんじさんが現地でリサーチしてきたであろうことが、リアルに盛り込まれていたようだ。
しかし、コメディである。
そういう状況にあっても、人の営みがあって、面白いということ。
無理して笑わせるシーンを作るのではなく、思わず笑ってしまうシーンを作り出す、脚本のうまさがある。
そして、役者全員が味のあるいい演技。
うまいから、大爆笑もあった。
役者はとにかくみんないい。
どこか胡散臭いけど、いいおっちゃんの朝倉伸二さんは、こういう役をやらせたらピカイチ。前作ではびしっとスーツを決めていた天宮良さんが今回は真っ黒に日焼け(舞台では危ない表現をしていたが・笑)した原発作業員が、さまになっているのに驚いた。漁師で船長の近江谷太朗さんもいい、2人とも男気を感じさせるところににうまさがある。
人気ソープ嬢の小林美江さんもも情がある感じで、人気があるという雰囲気が出ていてうまい。そして、数年前までは現役ソープ嬢という、川俣しのぶさんもとてもいいのだ。
ラストの、小さなシアワセ感(「感」だけで実らないだろう雰囲気も含めて)は素敵だった。この物語にふさわしいラストだ。
東京フェスティバルにはバスレはないな。
猪苗代湖ズの音楽で客入れという趣向もいい。
満足度★★★★★
オイスターズ『トラックメロウ』:コミュニケーション苦手な人たちはひたすら不条理。
思いもよらない攻められ方で、思わずはしたない声を出して笑ってしまった。
とにかく笑った。
ネタバレBOX
前に観た『雑音』の面白けどヘンな手触り、その理由がちょっとわかった。
そう、かなりの不条理なのだオイスターズは。
完全な不条理劇なのに、大笑いな感じ。
バスの設定がぐちゃぐちゃしてくるのも楽しい不条理だし、脚立でトラックの運転席を見せるアイデアも楽しい。
冒頭から異様、というか不条理。
感情を置き忘れてきたような、ツアーバスの乗客の様子も、絶対に自分が悪いと認めないバス運転手も。
感情のこもらない乗客たちの会話と、その内容に神経を逆撫でされる添乗員が、ヒートアップする。思わず、名古屋の方言が出てしまうほどの。
乗客も運転手もほとんど自分の中にいて、意識して外との接触は避けていると言うわけではないが、と言うかコミュニケーションとるのが不得意なように見える。バラバラな人が集まっての統一感。
彼らが、雪の中でのバスの故障というトラブルに遭うことで初めて一体感っぽい感じを見せる(バスがガードレールに衝突して事故るというのは、現実があるだけに、ちょっとひやっとしたけど)。
その一体感に、今まで神経を逆撫でされていた添乗員は、もの凄く気持ちが良くなってしまい、トラックメロウの運転はうまくて、早くて、早すぎるから、相対性理論で、タイムマシーンだの、何だのとあらぬことを口走り、妄想一直線に突っ走ってしまう。誰もそれには突っ込まないところが、コミュニケーション下手で、それが過剰で不条理。
そしてラストの狂乱とも言える「クマを探しに」につながっていくのだ。
トラブルに巻き込まれた彼らに救いが現れるのだが、それがトラックメロウ(女郎)、つまり女性トラックドライバーである。
バック不得意。気の抜けた「バックします」の警報音。
このドライバーの存在も人と接するのは苦手そう。結局一言もしゃべらず、添乗員や乗客たちのわけのわからない妄想に包まれてしまう。
骸骨の一連のシーン、「骸骨なら踊れよ」と、骨を付ける(エンガチョみたいな)展開から、「今骨は誰?」「お前だよ」のオチには笑い転げてしまった。
ここで描かれる不条理性は、実は日常に転がっていることで、誰しもが体験していることなのだ。我関せずで、自分のことしか考えていない。
「つぶやき」のリアル版というか、受け手のことを考えずに、今、思ったことを、とにかく口にしてしまう。
だから今誰かが言ったことだろうと、何だろうとお構いなしだし、「なんとなく」で大切な場面であっても発言してしまう。会話が得意じゃないから(たぶん)、手を挙げて発言する。
そういうのって、あまりにありすぎるから、マヒしているのかもしれない。
こうして「他人事」として見ている分には、笑っちゃうけど、当事者になったら笑えない。
真面目に接している添乗員が、ヘンになっていくのもよくわかる。
ちょっと恐い。
そして、運転手にはムカツク(笑)。
アフタートークで、少しわかったのだけれど、作・演(出演もしていた)の平塚直隆さんが、人と話すのがあまり得意ではなさそうということ(失礼!)。なんかモクモグしていて、あまり話を聞けなかった印象だったから。つまり、この中に出てくる人々は、彼の分身であり、彼自身にとってはそれほど違和感がない存在と発言なのかもしれないな、ということ。
もちろん、面白くするために、それをかなり強めにはしているだろうけど。
と、言うことで、オイスターズとあおきりみかん、「2010年の劇作家協会新人戯曲賞 最優秀賞」の共演なのだが、両者とも、他人との関係が描かれていたのが、印象的だった。
狂乱とも言える「クマ探し」の行進に、水を差すような、運転手が「忘れてきた」と言っていた携帯が、見つかるラストのバランスも素晴らしい。台詞に出さず、暗転しつつある舞台に、そっと光る携帯。いいなあ。
どうやら、「続・トラックメロウ」というのもあるらしい。これ東京で観られないのかなぁ。
観たいなぁ。
満足度★★★★★
陰陽、裏表、時間と場の交錯
1つひとつの台詞が綿密。
嵌り具合がたまらない。
3時間半はあっという間。
ネタバレBOX
素晴らしい舞台だった。
後半で、まるでトランプの神経衰弱でカードをめくるたびに、次々と合っていくような感覚を覚えた。
台詞が綿密に編み上げられ、それぞれの絡まり方が見事。
なんて凄いのだろうと。
内外一体の舞台の使い方も素晴らしく、時間と場が交錯し、重なり合う美しさがあった。
内外だけでなく、陰陽や表裏といった表現が台詞だけでなく、セットからも感じられた。
また、日本人が演じているのにもかかわらず、どこかよくわからない外国らしい設定にしたことで、「土地の持つ重力」から解放されていた。
満足度★★★
『ここまでがユートピア』劇団あおきりみかん
たぶん戯曲として読むとかなり面白いのだろうなぁと思った。
もう少しスマートな演出だったら印象はずいぶん違ったと思う。
テーマはとても面白いのだから。
ネタバレBOX
経済が停滞している中、若者の自立に役立てるために、政府は、若者を対象に、個人国家「ユートピア」を作らせる。
「ユートピア」では、それぞれが自分のルールを作り、他人と接触しないことになっている。
実験段階のユートピア計画に選ばれた2人がやって来るところから物語は始まる。
ユートピアという発想、それから始まる個人と他人との関係、それらのテーマはとても面白かった。
ある企てを持ってここに訪れた者の登場によって、各ユートピアにちょっとした波紋を投げかける、なんていう展開も面白い。
1人になることで、嫌でも自分のことを考える、さらにそれは他人とのことも考えることである、というあたりも面白い。
しかし、なんか、物語の進め方(演出)がイマイチ、スマートではない。
それは例えば、場面展開時に役者たちが、舞台の周囲にある箱を動かして、机や椅子、ベッド、あるいは断崖絶壁などに模したセットを作るのだが、見た目にも音的にもドタバタしてしまう。それにはユーモアも感じるのだが、場面展開が多いし、大がかりなので、舞台全体のイメージを圧迫していたように感じてしまったのだ。
例えば、戯曲にもしこれが書いてあったのなら1行だろうし、演出なので書いてない可能性のほうが高い。
したがって、そこがどうも「ロス(特に時間の)」のように見えてしまった。
あおきりみかんは、こういう何でもない箱などを動かして、例えば積み上げたりする演出があるのだが、今回は物語を見せるために、もう少し最小限にしたほうが効果的だったのではないかと思うのだ。
また、ストーリー的には、オープニングの会話は、これから何が起きるのか? とわくわくさせるのだが、その後の展開がどうもイマイチ。それは、この場所のことや企画の主旨説明が、文字どおり説明なので、少々退屈なのだ。続く各ユートピアのルールを何人か聞くのだが、それもわざわざ10個全部聞く必要があったのだろうか。それらが大きく伏線になっているほどのことでもないのだし。
場所の細かい説明も、それぞれのルールも物語が進みつつ盛り込むのでいいのではないかと思ったのだ。
さらに、各国家のルールは、各個人の生き様や考え方もストレートに反映しているようなのだが、そこに中途半端にフォーカスされてしまっているのには少々疑問を感じる。
すべてがそれぞれに結びつき、全部が明らかになることを望んでいるわけではないのだが、どうも「ルール」に重きを置いているわりには、ルールと、その個人との関係がもの足りない感じがしてしまう。
また、三宅の回りに元カノらしき幻影がまとわりつくのだが、それが延々と続き、しつこい。そこまでする必要はあったのだろうか。同じことの繰り返しすぎて、それがラストに一気に爆発するわけでもないので、繰り返しを溜めていく必要を感じず、長いなーと思ってしまった。
と書いてきたが、それも、少し進んでから物語が動き出すあたりから、俄然面白くなってくるのだが。
あと、もう少し、ざっくりでいいからラストは、全体を終わらせてほしかった。
「トピアトピアトピア・・・」の国家を合併する合戦は面白かった。「カバディカバティカバティ」だね。
満足度★★★★★
また好きな劇団が1つ増えた
今回初めて観る劇団だが、この1回で、「ストレートプレイが好きなら観て損はない劇団だと思う」と言い切ってしまえる舞台だった。
ネタバレBOX
劇場に入って、最初に目を惹くのは、組み上げられたセット。
そして、開幕して、全登場人物が舞台の上に揃うのだが、この感じで2時間ぐらいの上演時間だと、正直キビシイかも、と思ったのだが、それは大きな間違いだった。
約2時間、舞台に釘付けになった。
2時間キビシイかも、などと思ったことを恥じなくててはならない。
さらに言うと、ストーリーは、あらすじで書くと、ミステリータッチはあるものの、それほどびっくりする展開があるわけではないのに、どんどんのめり込んでいき、もの凄く面白いのだ。
台本、役者、美術、演出のすべてのバランスが良く、それらがとても高いレベルで互いを高め合っているのだろう。総合力としての素晴らしいさがある。
この小さな劇場で、この料金で、これだけレベルの高い舞台を観られるというのは、凄いことだと思う。
今回、初めて観たのだが、この1回の観劇体験だけで、「この劇団はいい」「観たほうがいい」と誰にでも勧めることができる。
今回1回だけが素晴らしいのではなく、毎回このレベルで上演しているのが、舞台から伝わってくる。こんな凄い劇団を今まで見逃していたなんて、なんともったいないことをしていた、と思う。
素晴らしい舞台であったが、いくつか細かいことを敢えて言うと、神父さんが、登場からあまりにも怪しくて、普通、この怪しさだと実はいい人でした、という展開になるのだが、この舞台では怪しい人がやっぱり悪い人だというところが、ちょっと……だった。
また、少女の名前がアリスというのは、あまりにも普通すぎて、これもちょっとなぁ……だった。「不思議の国のアリス」という単語は出てくるのだが、特にそれに意味はないのだから、別の名前のほうがしっくりしたと思う。タイトルに「アリス」とあるだけで、観客は幕が開く前からそっちに引っ張られてしまっているだろうし。
それと、セットには、ここに壁がある、ということになっているのだが、実際は観客から部屋の中が見えるように壁自体は入っていない。しかし、誰かが台詞を言うときに、別の誰かが壁の向こう側にいることが多々ある。確かに舞台上に人を配置するバランスがあるのはわかるのだが、壁越しに誰かの話を聞くというのは、あのような状況においては少々不自然かも、と思ったりした。
とは言え、好きな劇団がこうしてまた1つ増え、すでに次回が楽しみになっている。
満足度★★★★★
1時間50分をノンストップで疾走していく、いい戯曲と演出で役者が輝く舞台
演劇好きはもちろん、東京裁判好き(!)ならば、絶対に観たほうがよい舞台。
今回は再々演だが、前回再演時に観ている。再演を観ているにもかかわらず、今回もエキサイティングな観劇体験ができた。
次に再々々しても観るんじゃないかと思うほどの傑作舞台。
ネタバレBOX
2009年の再演を観ている。
それを観てパラドックス定数のファンになったと言っていい。
(http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=53259#divulge)
1度観ているのにもかかわらず、同じ感動、感激があった。
とにかく台詞がうまい。
単に台詞の「文章」がうまいということではなく、役者が発する「台詞」としてのうまさがあるのだ。「役者の台詞」となって、言葉が「生きてくる」。生きた、人の言葉となってぐいぐいと伝わる。それぞれの登場人物たちがかかえている気持ちが、ストレートに伝わってくる。
台詞には、演出が伴ううまさがあると言っていい。もちろん作・演が同一ということもある。また、それに応えられる役者うまさもある。
役者は1時間50分をノンストップで疾走していく。
前につんのめったり、足踏みしたり、畳み掛けたり、重ねてみたりと、あらゆるテクニックを使い、スピード感と熱量たっぷりに舞台は進む。
まさに役者が輝く舞台だったと言っていいだろう。
口から飛ばす唾だってキラキラ輝いている(笑)。
前回の自分の感想を見ると上演時間は1時間35分程度だったようだが、今回は1時間50分にバージョンアップしていた。
記憶になかった台詞があったことから、ちょっとした台詞の追加や演出を変えたことで、さらに作品を濃くしていったようだ。
前にも増して、各キャラクターが少しくっきりしたような気もする。
東京裁判における主任弁護人たち5人が主人公。彼らがここにいる理由と、それぞれの想いが、物語が進行するにつれて明らかになっていく。
それらが、「なるほどそういう理由だったのか」と、ともすれば、何かの答えや、単なる理由なりそうなものを、そうはしなかったところに、この戯曲のうまさがある。
「東京裁判」というテーマが抱えている、さまざまな問題点や要素を彼らの存在によって、さらにわかりやすく伝えていく。
それとともに、史実への虚構のプラスの仕方や、例えば、水越の父親の名前がストレートに台詞として出てこなかったりなどの、微妙な塩梅もうまい。
しかも、裁判における検事側の台詞は舞台上では一切聞こえないという、演劇ならではの仕掛けで、登場人物たちへの、観客のフォーカスがさらに強まるのだ。だから、柳瀬が語る、短いが、強い、彼が体験した広島での語りは、胸に迫ってくるのだ。余計な修飾や描写を排し、シンプルだが強く印象的な台詞だ。
それと、いちいち裁判用語の説明などしないところもいい。普通だと、法律に詳しくない登場人物がいて(今回も専門家でない登場人物がいたが)、例えば、「罪状認否って何ですか?」みたいな台詞から用語説明をすることが多いだろうが、この舞台ではそれはない。戯曲への信頼と、観客への信頼があるからだろう。そういうもたもたしたやり取りがないから、スピードを感じるのだ。
登場人物5人のそれぞれのキャラクターがしっかりしており、それが最初から最後まで崩れることはなく、そのキャラクターが台詞1つひとつにしっかりと支えられている。
行き交うメモや資料類、水差しやコップなどの細かい小道具類もとてもいい。
微妙に光の雰囲気を変えてくる照明もいい。
本当に素晴らしい作品だと思う。
歴史的な事実を知っていることで、この舞台の面白みは倍増するのだが、知らなくても、観劇後、東京裁判では、何が、どう裁かれたのか、を調べてみるのもいいだろう。28人の被告とは誰だったのかや、裁判の結果はどうなったのか、あるいは検事たちにはどのような人がいて、どのような立場であったのか、結局何が問題点だったのか、などをだ。そうすることによって、「ああ、あの台詞はそういうことだったのか」と合点がいくであろう。
パラドックス定数は、小劇場の劇団にしては、再演が多い劇団ではないかと思う。それは「レパートリー化」を目指しているからではないだろうか。
何度上演しても劣化しない脚本があり、それを支える役者がいるからこそ、それができるのだろう。
『東京裁判』は、また上演してほしい作品ではあるが、さらにレパートリー化できる素晴らしい作品をどんどん生み出してほしいと思う。
話は変わるが、毎回、諸注意のアナウンスを主宰の野木萌葱さんが行う。その都度思うのだが、この方の「男らしい」(失礼・笑)諸注意は素晴らしいと思う。上演中に気分が悪くなったりして外に出る際には、どこにどう通路があり、どこが出口であるかをきちんと説明し、さらに「ここに私がおりますので」と力強く、「だから安心してください」というメッセージを発してくれるのだ。「私がここにいます」というのは、本当に力強いと思う。もしものときにどうしたらよいのかを知るだけでも、観客は安心できる。
とかく満席の上に、当日券を出し、いざというときの避難通路になる、劇場内の通路さえも潰してしまう劇団が多い中(来た人を帰したくないという気持ちはわかるのだが)、観客の安全を考え、安心させてくれる劇団というのは貴重だと思う。
そういう姿勢も好きな劇団なのだ。
ついでに言うと、毎回早めに申込みをすると、オマケがもらえる。いつも公演内容に合わせたちょっとした物だ。今回は、劇中にも登場するチョコレート。真夏に板チョコは厳しいものがあるが(笑)、それでも「楽しんでもらおう」という劇団側の意図はわかる。
板チョコ1枚であっても、ただというわけではないので、公演の費用がかさむことになり、本当はなくてもいいとは思うのだが、その心意気が好きなので、喜んで頂戴している。
実際、オマケがなくても早めに申し込みたい劇団になっているのだが。
あと、チケットや当パンもそれなりに凝っている。チケットは「PM」だし、当パンは「藁半紙」、そしてアンケートは「最終弁論」になっていたし(ただし、アンケートにはいろいろ書いてあったけど、出してしまうので手元には残らないのだが・笑)。こういう遊び心もいいなと思う。
満足度★★★★★
笑ったけど、実は最初から、なんか泣けた
物語の展開ももちろんだが、役者のうまさに脱帽。
そして、やっぱ、最強の友だちがいたのって小学生の頃だったかも、と。
ネタバレBOX
ファミコンのマイクを使った前説から、ニヤついてしまう。いい意味で脱力した。
そして、ファミコンやってる、いい歳した半ズボンのおっさん2人が、どうやら小学生ということで、さらにニヤけてしまうのだが、すぐに12歳の小学生に見えてきてしまう。
それを見て、ふいに泣きそうになってしまう。
ファミコン世代とかではないのだが、小学生の頃に体験したかもしれない、どこかにしまってあるような、柔らかい記憶に触れてきて、いろいろと蘇るようだ。
友だちなのに、あるいは友だちになりたいのに、どうもうまく接することができなくて、もじもじしてしまうような感覚とか、大人の理不尽さに接しても、何もできない無力さとか、そんな、あった(かもしれない)記憶とリンクしていく。
にしても、あのゲーム屋のオヤジ酷いなぁ。見ていてホントに悔しくなってしまった。
そして、劇団の稽古の様子は、面白すぎ。
岩井秀人さんがうますぎる。
もちろん自分が自分の呼吸で書いた台詞ということもあるかもしれないのだが、それにしても、ポンポンと出る台詞のタイミングと発する勢いが、本当に素晴らしい。
コンビニのエチュードからの展開や、吾郎の母から「あんな劇団やめちゃえば」と言われて、欽ちゃんの母が、「そういうのが好きだ」というあたりもツボ。
吾郎が父とふざけあっている姿は、身体は吾郎のほうが父よりも大きいのだが、まさに小学生の父と子に見えた。
ダメダメな父なのだが、とにかく優しいところが哀しいほど。父と子、そして夫婦の関係が、じんわりと見えてくる。いい家族だなーと。欽一の家もいい家族なのだ。
吾郎を演じた荒川良々さんも、たまらないぐらいいい。もじもじさが、小学生の頃の自分を見ているようで、また泣けてくる。
吾郎のダメな父が、ゲーム屋に乗り込んだり、ラストの欽一の行動などは、甘い展開なのかもしれないのだが、それでもいいのだ。
特に欽一の、あの行動にはグッときてしまった。欽一のちょっと誇らしげな表情と、それを見た吾郎の表情の良かったこと!
中学、高校と上がるたびに、ヘンな分別が付いてしまったり、外聞だけを気にしたりするから、友だちだとしてもあそこまではなかなかできない。それに比べると小学生の頃は、本気であんなことができたような気がする。
小学生の頃の友だちって、特別で、最強だったなあと思い出したりした。
満足度★★★★★
とってもラブリーなイキウメ(笑)
イキウメじゃないけどイキウメ、だけどやっぱりちょっとだけ違うかな。
ネタバレBOX
「こどもとおとなのためのお芝居」と銘打っているとおりに、こどもにはこどもの感覚で面白く、おとなにはおとなの感覚できちんと面白い。
特に、恐いシーンが近づきそうになると、手で耳を塞ぎ、しっかりと目までつぶったり、お母さんにしがみついたり、台詞の一部をそっと口に出して、ふふふと笑ったり、にこにことお母さんの顔を見上げたりと、そんなこどもたちの姿が見えたり聞こえたりするところまで含めて、『暗いところからやってくる』の舞台は形作られる。
観客が参加するという形式になっているのではないのだが、観客が、特にこどもたちがいないと成立しない舞台なのかもしれない。
こどもたちの反応と舞台内容できゅーんとなってしまう舞台だ。
前川さんが「子供の僕には、自分を子供扱いしないその作風が、他の子供向け作品よりも信用できる感じがした」と自分のウルトラセブンでの経験を述べているように、この作品も、それがある。
暗いところが恐い、というラインから始まり、主人公の輝夫くんの気持ちになったり、暗いところにいる人たちは誰なんだろうと思ったり、自分のこどものときに思いを馳せたり、あるいは自分のこどものことを思ったりと、そんな観客それぞれが理解できる範囲で、面白くなっていると思う。
それは、どういう見方をしても大丈夫、と言っているようで、そういう見方で十分に面白いのだ。
おとなから観ても、暗いところにいる人たちが、実は光ある私たちのいる場所に出て来る前(舞台の中では「昇進」と言っていた)にいる人たちなのだ、とわかることで、また少しきゅーんとなったりするのだ。特にこども連れのお母さんたちには、そういう設定はたまらないだろう。恐いとしがみつく我が子を腕に抱きながらだから。
そこに「家族」の姿を観るとしても、とてもいい作品だと思う。
子どもたちにとっても、暗いところにいる人たちが「いつも観ている」というのは、恐かったり、もの凄く好奇心をそそられたりするのだろう。
そして、最も凄いと思うのは、就学前のこどもたちが大勢いたのだが、70分もの時間、騒がす、飽きずに、舞台に集中して観ていたことだ。舞台のその力は素晴らしい。
こどもの頃だけでなく、今だって、家が軋む音にどきりとしたり、何かの気配を感じて、劇中の輝夫くんのように、風で膨らんだカーテンを蹴ってみたりする。
そういう誰にでもありそうな細かいディテールが随所にあり、本当に楽しめた。
脚本もだが、演出もいいなぁと思う。もちろん役者も。
イキウメが観劇後に残すトゲのようなもの(イタさが伴うような)は、なかったが、トゲではなくて、闇の怖さとか闇への好奇心とか、家族とか、そんな要素たちで、心の柔らかいところを、くっと突っつかれた感じ。
役者は、例えば、お姉さん(伊勢佳世さん)はお姉さんらしく、お母さん(木下三枝子さん)も優しいお母さんらしく、全員がとても丁寧で共感が持てた。特に輝夫くんを演じた大窪人衛さんは、いつものイキウメだと、なんひねた感じがあるのだけど、この舞台での輝夫くんの、切実に訴える姿などは、泣けそうななるほどいい感じ。
満足度★★★★
これが万有引力のオペラだ!
すなわち、芝居仕立てのロックライブ、「名画組曲:怪人フー・マンチュー」!
ネタバレBOX
義和団事変の際に、出兵してきた列強の軍隊に家族を殺されたフー・マンチュー博士によって、軍人とその家族を次々に毒殺する事件が起こる。
フー・マンチュー博士を捕まえるために、イギリスから探偵とスコットランドヤードの刑事、そして医者がやって来る。
フー・マンチューはそれを察し、探偵の家にインド人に化け忍び込み、赤い毒蜘蛛を放つものの、探偵は気づき一難を逃れる。
探偵たちは、フー・マンチューを追い、銀幕へ入り込む。
フー・マンチューは、なおも欧米人たちを殺害するのだが、結局、探偵たちに追い詰められ、殺されてしまう。
しかし、死んだはずのフー・マンチューが現れるのだ。
そんなストーリー。
大音響のゴジラのテーマから幕が開き、 J・A・シーザーらによる生演奏と歌で物語は綴られる。途中までは原作どおりであろうが、中盤からは、万有引力のオドロオドロしく、どこか滑稽さもある世界に突入する。
この舞台、万有引力を見慣れていない方には少々わかりにくく、伝わりにくいものかもしれない。
それは「オペラ」というレッテルだけに気を取られてしまっているからだろう。
何も「オペラ」と銘打っているからと言って、演じられるのが、誰もが知っている「オペラ」の形式とは限らない。つまり、オペラだ、と言ったとしても、それは、台詞を歌ってストーリーを進めるものだけとは限らないのだ。そんな、いつもの安全な場所にいて観ているだけではわからないのかもしれない。固定された概念にしがみつくことなく、積極的に受け入れる、頭の切り替えが必要だ。
これが「万有引力のオペラ」なのだ。
観ていればわかることなのだが、ストーリーそのものについては、狂言回しや登場人物たちの台詞や絵によって示されていく。
それにプラス「音楽=歌」があると言っていいだろう。
特に合唱部分の歌詞は、いつもの万有引力、あるいはいつものJ・A・シーザーさんの曲のように、聞き取りにくいかもしれない。しかし、リフレインはなんとなく耳に残るし、聞かせたい歌は(特にソロ)、聞き取れるように歌っている。
例えば、合唱で聞こえてくるリフレインの1つ、「上海という女がすすり泣く」なんていうのは、「怪人フー・マン・チュー」が持っているテーマそのものなのだから。
ご存じのとおり、ロックには、「歌詞が聞き取れないもの」と「歌詞を聞かせるもの」とがある。この舞台ではそれを使い分けていると思っていいだろう。
ちなみに、歌詞は、言葉の遊びと過剰な言葉の羅列、さらに中国語も入っていたようで、内容を聞きながらロジックに組み立てることは、難しいと思われる。
だから芝居にプラスして、音楽を楽しむというということだ。
いや、逆に、ライブが「芝居仕立て」である、と言ってもいいかもしれない。
ロックのライブに、芝居仕立てのストーリーがあり、ダンスもあるというパフォーマンスである。「怪人フー・マン・チュー」という素材を、おどろおどろしく、ロックにアレンジして弄んだ、と言ってもいいかもしれない。
これが寺山修司さんとJ・A・シーザーさんが結局完成させるに至らなかった作品の、2012年時点における現在だ。
つまり、当パンでも、劇中でも「名画組曲「怪人フー・マン・チュー」」とあったが、まさにそれなのだ。そういう意味においても、音楽としてのカッコ良さは抜群で、まさにロックしてた。
好みのロックだ。J・A・シーザーさんの曲は、やはり合唱がいい。
冒頭からやられた。
客席から観た舞台ビジュアルも計算ずくであったし、左右に分かれた生演奏では、今回特にビートの強いパーカッションの響きがよかった。ひょっとしたら、先日のJ・A・シーザーさんのライブよりも、音の抜けはよかったかもしれない。
ダンスもキレがあったし、活弁士を演じた森ようこさんの歯切れのいい台詞もよかった。名前はわからないが、フー・マン・チューの手下で、剣の使い手の殺陣もなかなか。さらに熱を帯びた合唱もいい。
そして、なにより、J・A・シーザーさんとa_kiraxxさんの2人だけで(録音部分もあるが)、あの素晴らしい演奏をしたことには大きな拍手を送りたい。
ただし、ストーリーにはもうひとつ深みはほしかったところだ。
「フー・マン・チューとは、列強に踏みにじられた中国の数万の民の意志の総体なのかもしれない」(意訳)という締めはよかったと思うのだが。
満足度★★★★
テント芝居の面白さ
後半からの感情のほとばしり。
テント芝居ならではの、薄布一枚だけの現実との距離感。
ネタバレBOX
前半のつまらなさにガッカリしたが、後半からぐんぐん良くなっていく。
前半の、笑えなくて、面白っぽいだろ? 的なやりとりに少々辟易した。
たぶん、それは戯曲にあるのではなく、演出でプラスした部分ではないだろうか。
例えば、何回かある役者の実年齢のことなど。おかまも頑張りすぎて逆に引いてしまったし。
おかま役の辻親八さんは、何もしなくても存在感が十分なのだから、全シーンで力まなくてもいいのではないのだろうか。
「ここぞ」というところだけを熱くしてくれるだけで、全体にピリっとした刺激を与えてくれるのではないかと思うのだ。
それを演出で力ませすぎて、逆に平板にしてしまったのではないかと思うのだ。
つまり、全般的に演出には、「?」という感覚が残ってしまった。
しかし、休憩後の後半からは、感情が舞台の上から猛烈にほとばしり、俄然面白くなってくる。
「熱さ」がある。
テント芝居の良さを肌に感じる。
ビールとかを片手に(私は呑まないけど)、入口で渡された団扇を扇ぎながら、時々蚊とも戦いながら観劇するというのは、涼しい劇場の椅子に畏まって観るのとは明らかに違う。
ナマの芝居という以上に、テントという「場」の持つ、薄布一枚だけしか隔てられていない「現実」とのギャップ、距離感、その境界線が面白いのだ。
テント芝居ならではの感覚だろう。
それは、テントだから、「外にいる」ということの「音」や「暑さ」という物理的な意味合いだけではない面白さがある。体験しなくてはわからない面白さ。
ラストは「テント芝居のお決まりの演出」だ。
ほぼ、テント芝居のラストはこれになる、と言ってもいいだろう(この前観た、唐組『海星~ひとで』もそうだったし)。
だけど「待ってました!」な感じはある。
物語で見せていく、夢と現実の落差、現実との折り合いというのは、確かにそうなのだが、その部分においては、今ひとつ納得できなかった。
現実を突き付ければいいのではないのだから。そんなことぐらい誰だってわかってると思う。
だから、ラストの展開が来るのだろうと思うのだが、それが何か現実逃避な意味合いに響いてしまったのだ。これは受け取り側としての、私の問題であるかもしれないのだが。
この舞台、焼肉ドラゴンと共通点が多すぎて、それと比べてしまうと、ガチャガチャしすぎ。ただし、それを「(生きていることの)情熱」ともとらえることはできるのだが。でもピンポイントで違う顔も見せてほしかった。全体的に雑然のままなので。テント芝居だから、外の音が聞こえるから、ということではなく、そうだからこそ、そうではない部分がほしいと思ったのだ。
ブレーク的な要素で出て来るのと思うのだが、しつこいわりに、3人のサラリーマンの位置づけがわかりにくい。ちょっともったいない気がした。
それと、懐かしの歌の数々が聞けたが、その「歌」がもっと内容に絡んでくるかと思った。タイトルにもあるのだから。
役者としては、中心となる四姉妹(水野あやさん、福島まりこさん、井上カオリさん、李峰仙さん)がとてもよかった。うまい。
終演後、「毎日打ち上げ」ってのは面白いなー。
満足度★★★★
若さキラキラまぶしい
どちらかと言うと、ストーリーよりも、役者を楽しんだ、かな。
ネタバレBOX
東京に出ること、自分の生まれ育った町と、その記憶のこと、忘れてしまいたいようなことを、「忘れて」しまい、過去の自分と邂逅する。
そうしたストーリーはありそうな感じもしないではないが、アプローチの仕方が面白い。
単なる切ない系ではないところがいいのではあるが、観客が我がことのように引き込まれていくための、引っ掛かりのようなものが欲しかったと思う。
ストーリーというか、演出は、全体的に、まるで今回のセットのように、雑然としている。整理しない面白さもある。
そしてなにより、役者の面白さがある。
場面展開やシーンのつながりに、もう少しメリハリがほしかったが、なんかいい感じになりそうな予感はある。
役者がハケた後、ハケた役者が、そのシーンに出ていない役者とハイタッチをしたりしているのが、また「昔を再現してます(お芝居してます)」感を醸し出したりしていて、それはいいのだが、その前で演じているシーンとの関係をうまく見ながらやらないと、せっかくのメインシーンを壊してしまうので、そのあたりは、さりげなくやっているように見せて、計算が必要なのではないかと思った。
人力な飛行シーンやセットの動かし方も面白いと思うのだが、やはり、そのメインのシーンとの絡み方ももう少し考えたほうがよいと思った。
こちらも、メインのシーンを演じている役者に、のし掛かるところと、引くところとの兼ね合いを計算してほしいのだ。
ただし、ラストにはもう少しカタルシスがほしかった。
ナデシコ/コハルを演じた大塚宣幸さんがもの凄く良かった。
今の蛍も、彼に負けないぐらいの、もう少し、こっちに来る、なんかがーっとしたもの、存在感があればもっとよかったのにと思う。
元柿の村上誠基さん、この人の台詞回しの独特さと、それを単なる笑いだけにしないところがいい。好きな役者さんだ。
劇中の歌、特に歌い出しは、モロ、くるりの「東京」なのだが。そのネライに(笑)。
満足度★★★★★
これはもの凄く酷い! 酷すぎ!
いい意味で「酷い」。
ただし、人によっては、悪い意味で「酷い」となることも…。
それは計算づく。
フライヤーのイラストぐらい酷く気味悪い展開。
ネタバレBOX
パッと見、薫(かおる)さんかと思っていたら黛(まゆずみ)さんだったのね。
と、いうどうでもいいことから書くけど。
まあ、とにかく酷い、めちゃくちゃだ!
「酷い」も「めちゃくちゃ」も大変な褒め言葉なのたけど、伝わるだろうか?
だけど、文字どおり「酷い」「めちゃくちゃ」じゃないか! と怒り出す向きも当然あろう。
前半のダラダラしゃべりがとにかくウマイ!
ホントに台詞の重なり具合とか、うますぎ。
でもダラダラしていく。
カムヰヤッセンの新旧看板女優の登場というのは、軽いギャグを噛ましただけかと思いきや、意外と最後のほうまで引っ張る。この感覚は凄いと思っていたら、金麦片手に、ダンレイ(……檀れい…)の登場だ。「えっ?」と思うけど、ダンレイ。
もの凄いテンションで偉そう。
そして、ストーリー的には、目下の問題点はあっさり解決してしまう。
それからの展開がもの凄い。
まるで後先考えてない。
演劇でしかできない作品。
これはナマでしか伝わらないだろう。
もの凄くしつこい。汗みどろで金槌を振り回し、大立ち回りを繰り返す。いつになったら先に進むのかと思っていても、いつまで経っても大立ち回りなりだ。
終わりそうなのに、また元に戻る酷さ!
そういえば、前に観た『ダッチプロセス』でも「死ぬのが恐い」で延々続けたことを思い出した。今回は「海に行こう」に対して「帰る」というだけで延々。
さらに全身に力を入れて「出て行け!」を延々。
この繰り返しが、気味悪いほど、延々延々延々と続く。
もう嫌悪感しか漂わないぐらいの延々、延々、延々……。
でも、役者たちの動きを観ていると、かなり計算されている。
人員の配置やフォーメーションがしっかりしている。
舞台の上にいる、ということが常に意識されているのだ。
これは凄い。もの凄くしつこいけど、凄い。
しつこいのに、凄い、なのだ。
とにかく、
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
「海に行こう」「帰る」
これぐらい、いやこれ以上延々と続くイメージ。
このクドさは、万人向けではないだろうが、中毒性はある。
タバコが身体に悪いとわかっていながらやめられない感じ。は、違うか。
最初に登場した女4人(佐々木幸子さん、鈴木潤子さん、墨井鯨子さん、田畑菜々子さん)は、冒頭に書いたように、とにかくみんなうまい。ポンポン台詞が出てきて重なって、どーでもいい会話が弾む。
特に、二時間しか寝てなくてバイトに行く予定でケーキを食べに来ただけの、墨井鯨子さんの、執拗さはなかなかだ。
さらに、ダンレイ(笑)・菊池明明さんの、登場で舞台の空気が一瞬にして変わる様子は見事! そのあとの傍若無人で、お下品で、偉そうな態度も素晴らしい。
カムヰヤッセンの元看板女優(笑)の高畑遊さんの、「出て行った後」の表情や、カムヰヤッセンの今の看板女優(笑)・甘粕阿紗子さんの、ダンレイ登場以降の表情もなかなかだった。
大立ち回りでは、全員が、誰一人、休むことなく、どの人を見ていても面白かったなー。相当練習したんだろうなー
ナカゴー、気持ち悪いけど好きになりそう。
満足度★★★★
MUらしいと言えばらしい、ネジくれた感覚
タイトル、テーマ、会場、フライヤー、そして公演そのものまで見事にMU。
このトータルコーディネートのセンスがいい。
個人的にはタイトルがツボ。
後半ちょっと加速する感じがうまい。笑いもある。
しかし、もっと「毒」は欲しい。
ネタバレBOX
ブートレグと言えば、大昔、ブート専門店で買ったヤードバーズのレコードが私の最初の出会い。ヤードバーズのレコードはもちろん全部廃盤だったので、ブート以外に手に入れることはできなかった。そのブートレコードでは、J・ペイジとJ・ベックのツインリードで有名な、『Train Kept A-Rollin』の歌詞違い、幻の曲『Stroll On』に痺れ、何回も何回も聴いたものだ。
で、この公演のフライヤーである。どうやらミケランジェロ・アントニオーニの『Blow Up(邦題:欲望)』のポスターからインスパイアされた構図の写真が表面に使われている。ミケランジェロ・アントニオーニと言えば「愛の不毛」なので、MUにはなんかぴったりくる。
しかしここで言いたいのはそうではなく、『Blow Up』と言えば、ヤードバーズが劇中で『Stroll On』を演奏していることがロックファン的には有名な映画なのだ。
ということで、ブートにまつわる個人的な記憶とMUが、あれあれと言う間に結びつく。フライヤー見てちょっとだけ驚いた。
と、まあ、どうでもいい個人的、感傷的な導入からの、この公演のこと。
ストーリーはフライヤー等にも書いてあるとおり、あるマンガ家とそのマンガをもとにした同人誌を書く女子たちのあれこれである。
ブートというのは、多くはライブを勝手に録音して、アーチストの承諾を得ず売ってしまうものであり、中身はホンモノがやってるけど、作品としてはニセモノであるというものである。
ブートとオフィシャルリリースは、ホンモノとニセモノの境界ははっきりしている。しかし、買う側からすれば、ブートはニセモノと知っているけれど、ホンモノでもあるから買うのであるという、実に曖昧な世界にある。
しかも、当たり前だが、ニセモノは売ることができないはずなのに、ヨーロッパで作っているCDです、というインチキな建前で、堂々と売られている。こんなことは日本だけらしい。胡散臭く、ホントは真っ黒なのに、灰色ですよ、と言い張る。
舞台の内容も、ホンモノとニセモノの境界ははっきりしているのに、「商品」として存在するところにおいては、曖昧になっていく、オリジナルと同人マンガの微妙なラインが描かれていく。同人誌の「二次創作物」は、「黙認」という形で、堂々と作られ販売されていく。いわゆるブートとは違うのだが、その曖昧さにおいては同等だ。
劇中での「コスプレ」なんていうのもそうだ。また、マンガ家の男の恋愛対象さえも、境界線ははっきりしているはずなのに、曖昧。自分でもよくわからない。
デモに行ってるのも、どこまでホンモノなのか、なんていうところまで見せたりする。
「萌え」が「過去の記憶のすり替え」みたいなこととして描かれており、それもホンモノとニセモノははっきりしているのに、脳内では曖昧になっている。
ここで、冒頭の映画『Blow Up』に戻るわけなのだが、この映画は、「本当にそれは起こったのか?」と、虚・実が曖昧になるストーリー。ラストには、それが実に印象的なシーンで表される。なので、見終わって、フライヤー見て、またニヤリとしてしまうのだ。
同人マンガでありながら、「創作」という点においては「オリジナル」であることを、同人マンガ家の女は意識している。彼女たちに犯されてしまった「オリジナルマンガ」を描いているはずのマンガ家が、逆に彼女たちの「オリジナル」を犯していくというあたりからMUっぽくなっていき、ストーリーに加速度が増していく。
いろんなことが曖昧になりながらも、微妙なコミュニティーが成り立ち、一見、バラパラだった人たちが結びついていく。
しかし、その蜜月はあまりにも短く、1人の恋愛感情によって破壊されていく。ちょっとした出会いが、マンガ家と同人マンガ家たちとの関係だけでなく、その前にあった、マンガ家と店長、同人マンガ家の2人の女性たちの関係も「個」にしていくのだ。
もともと、いろんなことに不器用そうで、いかにもグラグラした不安定な足場の上に立っている、この4人だから、軽い一押しで簡単に壊れてしまう。
そういうものとは無縁の同人マンガを描いている女の妹・ミカには、関係ない出来事である、という視点が入るところがいいのだ。
かつてのMUの作品には、誰にも埋めることができない「虚無」を強く感じていた。今回もそういう片鱗はあるのだが、少し角度が変わってきたように思える。
もちろんそれはそれでいいのだが、個人的な好みとしては、もっと「痛く」てもいいような気がする。それが強すぎると、観客の中に生まれるリアリティの範疇を超えてしまい、作り物っぽくなっていまうのはわかるのだが、それでももっと攻めてほしいと思う。
こういう言い方は失礼なのかもしれないが、MUは「うまくまとめてきすぎ」ではないかと思う。特に今回の、この作品ではそれを感じた。
「うまくまとめる」ことは、大切なことなのかもしれないが、丁度、当パンにハセガワさんが書いているように「映画と演劇の違い」という点からも、「映画では重視している構成」はぶっ壊して、「演劇は台詞」にすべてを託して、ナマのありようを見せていいんじゃないかと思うのだ。MUの舞台は台詞が濃厚だから。
だから、今回のエンディングで言えば、犯人は店長以外に考えられないと観客の誰もが思っているはずだから(そう思えない観客は捨ててもいい・笑)、あえて店長の姿をラストに見せる必要はなかったのではないかと思うのだ。行方を眩ましたまま。
そこでは、バラバラになった登場人物たちのバラバラさを感じさせるラストか、または、唯一彼らのコミュニティに(本当は)いなかったリア充ギャルの姿でもよかったのではないだろうか。
あるいは、冒頭のシーンとのつながりで、店長が(斬られる)ポーズを取り、彼が死んだのではないか、と思わせるようなものでもよかったのではないかと思う。
まあ、素人が今思いついたことだけど…。
ついでに書くと、「中野ブロードウェイ」よりは「池袋・乙女ロード」界隈のほうがBL同人誌っぽいのでは?
あと、同人誌を描く2人の女性の台詞回しは、まるで自分自身だけに向けて話しているふうな感じのほうが「一人感」が出たように思える。
店長の、オネェ言葉じゃないのに、語尾のちょっとしたニュアンスで、ソレと感じさせる台詞回しは良かった。
MUから底なしの虚無感が(ストレートに)感じられなくなったのは、劇団化という、「リア充」のせいではないか、と勝手に思っている(笑)。
いや、冗談はさておき、劇団化することで、新しく変化していくのはとても楽しみだ。
MUはこの作品以降、こうしたバーやカフェでの公演を定期的に行うということなので、「劇団」としての「練りの時間」がいい感じに取れていくのではないだろうか。だから期待できる。
また、上演時間70分ぐらいなので、観ることが負担にならず、飲食OK、しかも笑いがあって、アイロニーもありの、気が利いている演劇は、平日アフター5に丁度いい。
バーやカフェでの公演は、今までも多くあったが、単なる「演劇の会場」としての、パーやカフェということではなく、きちんと方向性とポリシーをもって公演を打つことで、うまくすれば文化として定着するのではないかと、やっぱり期待している。
面白い試みだ。
あと、客入れの音楽は、せっかくだからスマパンのブートとかがいいのでは。それってベタすぎ?(笑)
参考(笑) → The Yardbirds『Stroll On』@『Blow Up』
http://youtu.be/p8ff13foV5E
満足度★★★★★
素粒子は孤独か?
芯も表現方法も、いつもの「ままごと」だったと言えばそうかもしれないのだが、このスタイルは心地良い。
ネタバレBOX
音楽とのコラボがいつもうまいと思うが、今回はさらに音楽が重要だった。
音楽のライブのように、楽曲の紹介があり、MCがあり、という構成。
すべての曲が「朝がある」。
「神」の目で、朝の、通学で、くとゃみした女子学生の一瞬が、角度を変えながら歌い上げられる。
それは、光のベクトルで虹の色が7つになっていくように、屈折の角度を変えていく。
徐々に彼女の周囲風景が描き加えられていき、音が加えられていく。
絵画というよりは、セルアニメの作成現場を観ているようで、彼女のクシャミをした一瞬の、背景が描き加えられていく。
太宰の『女生徒』における、「いま」が一瞬であること、毎日の繰り返し、喪失感のようなものがその底に響く。
さらに、音楽が、例えば、「サビ」から作曲されていくように、1つの楽曲になっていく。
この場合は、いわゆる「詞先」による作曲。
出来上がる、一瞬、一瞬を楽しみながら観劇する。
組み上がっていく「画」と「音」には、それぞれの「因子」がある。
ミクロコスモスのごとき、素粒子の世界と、ドレミ、イロハ、CDEの音の世界。
世界はひとりぼっちの、いろんな要素で成り立っている、というのは、感傷的すぎるかもしれないかな。
素粒子が結び付き、原子になり、原子が分子となり、物体を構成していく。
一音、一音が結び付き、和音(コード)を構成し、音楽になっていく。
言葉と言葉が結び付き、台詞(文章)になり、物語になっていく。
それらは、物体や和音や文章が単にできるだけでなく、「意味が生まれていく」ということなのだ。
舞台の上では意味が生まれていく。当たり前かもしれないが。
また、1つひとつは、別のものであっても、結びつくことで(あるいは、結びつくことに)意味があり、「つながり」を感じるのだ。
それは、亡くなってしまった幼なじみであったり、MCで紹介された男であったり、でさらに感じる。
MCとして紹介された「朝が来なければいいのに」などの、男のつぶやきというか呪いの言葉は、学生の頃だけでなく、社会人になってもずっと布団の中でつぶやいていただけに、つい笑ってしまった。
「自分がいなくなればいいのか」と言った彼を助けるのは、結局「つながり」なのだろう。
そうした、視野を変えつつ、彼女の世界は彩りを増やしていく。
なのに、はじめに書いたような、アニメのセルのような薄い印象は拭えない。
たぶんそれは、「私」の中の部分、「物質」ではなく、「私」の心のミクロコスモスへの掘り下げが感じられなかったからではないだろうか。「私」の話ではなく、男性が語る「彼女」の話だったせいもあるのではないかとも思う(別に、ここで太宰の『女生徒』に結びつくわけではないが)。
この一瞬を持ち上げたら、セル1枚と背景画1枚という感覚かある。
しかし、その2枚には「世界」があるかもしれない、という感覚もある。
出来上がった「画」と「音楽」はどこか切ない。
「歌声」から来るものと、「物語」から来るものだろう。
ちょっとした仕掛けがあるセットはよかった。まるで石積みの城壁のように観客に対峙して立っていたのが、温かささえ感じられるようになった。
最初は、一人芝居には少し大きすぎるのでは、と思った舞台のサイズも丁度よく感じられた。
演出がよかったということなのだろう。照明も。
「朝がぁーる」には笑った。その訳とかにね。
満足度★★★★
ふわっとした感じで「正義」についての、ある意味、群像劇
「正義」について声高に訴える作品ではもちろんない。
殿様ランチ的な視点で、「正義」について、ふわっとした感じで、笑いを交えながら、その周囲を取り巻く人々を見せていく。
ネタバレBOX
物語の軸は、何でもつい注意してしまうクリーニング(元)店主。
彼は、正しいことを、周囲の注意を聞かず行ってしまうのだが、たぶんその結果、店は焼け、彼自身は自分のそうした行動によって、周囲に迷惑をかけてしまうと思い、発作的にテントを買い、それを持って見知らぬ町の公園で、誰にも行き先を伝えぬまま1人暮らしを始める。
いわゆる蒸発。
彼は、自分のその状況を特に悲観するわけでもなく、「普通」にテント生活をしている。
その彼の周囲に訪れる、「正義」というほどでもないが、そんなキーワードによって結びついたエピソードが繰り広げられる。
彼の行ってきたことがいいとか悪いとか、舞台の上では判断させず、彼自身も何ら答えを出すわけではない。
出すわけではないのだが、なんとなく気になる女性が、実はネコに餌をやっていたことに対して注意をしないという、人間的な面を見せたりもする。
彼が、テント生活を経てそう変化したのかどうかは不明だが、消防士試験のエピソードや、怪しい商品を売るサラリーマンの姿勢、注意して殴られたりする主人公の姿を見せ、「どうなの?」と、舞台の上からぼんやりと問い掛けられているようだった。
決めつけや答えを指し示さないところが、殿様ランチっぽいと言えるのかもしれない。
あと、くすくすしてしまう、笑いがあるところも。
ラストで、暴走族のような轟音の中、主人公はどう対応したのだろうか。
主人公の元クリーニング店主を演じた小久保剛志さんの普通感が印象に残る。それに従う妻役の杉岡あきこさんもいい仕事をしていた。
そして、主人公の妹弟のとてもいいコンビネーションで笑わせてもらった。弟役の相楽孝仁さんは、少々あざとさもあるのだが、妹役の中村貴子さんがあくまで普通のスタンスでそれを受けるので、方言の絡まり方とともに、そのバランスがよく、とても面白かった。特に妹役の中村貴子さんは、うまいな、と思った。
ギターを持った男の竹岡常吉さんも、ちゃらい感じがなかなか面白く、ハーモニカ落とした男の服部ひろとしさんも、いい味。役所の職員を演じた板垣雄亮さんは、ズルすぎるが面白いのだからしょうがない。
全員が、肩の力を抜いて、軽く演じているように見えるところが、殿様ランチの良さだと思う。
セットはトイレ付きの小さな公園をリアルに作ってあったので、クリーニング店のシーンは、一瞬何が起こったのか混乱した。だって、トイレから出入りするのだもの。公園のトイレでやってるクリーニング店かと思った(笑)。すぐに違うとわかったのだが、例えば、クリーニング店のシーンのときには、男子トイレのサインをクリーニング店のポスターとか料金表に変えるとか、ちょっとした、それぐらいの変化がほしかった。
あと、小鳥、劇中誰かが突っ込むのかと思っていたけど、あれは放置だった(笑)。
あと、意外と衣装を細かく変えていたことには好感を持った。ネクタイまでにもきちんと気を遣って。
どうでもいいことだけど、殿様ランチのここでの公演だと、いつもは階段の踊り場(の外)に劇団の旗があったり、公演に関係のあるディスプレイがあったような気がするのだけど、今回はなかったような。
満足度★★★★
気軽に観に行ける歌舞伎
歌舞伎は、夜の公演でも16時開演と、平日の仕事終わりには、まず行けない。
もちろん、土日もあるのだが、なにしろ公演時間が長いので、敷居は少し高い。
チケット代も、国立劇場は、他の新橋演舞場や改修中の歌舞伎座に比べると安いのだが、それでも高め(上演時間を考えると高くはないのだが)。
しかし、「社会人のための歌舞伎鑑賞教室」であれば、19時開演なので、普通の演劇と同じなので、行きやすい。
しかも、前半には、「歌舞伎のみかた」になんていう講演までついている。
上演される演目も、一幕であっても、十分満足のいくものである。
さらに、普段はない、義太夫節の内容が字幕で表示されるのでわかりやすく、その上、上演台本やパンフレットまで付いてくる。
それが1等席3,800円とリーズナブル。
時間が合えば、行って損はないと思う。特に歌舞伎を一度も観たことがない人はまずこれからはいかがだろうか。
ネタバレBOX
「歌舞伎のみかた」
現役大学生の大谷廣太郎さんが、花道や舞台の仕掛け、さらに義太夫や下座音楽について、楽器などの解説をユーモアたっぷりに解説する。
これはなかなか面白かった。
「俊寛」
俊寛を演じた中村橋之助さんが大熱演。全身を使った表現で、悲痛さが痛いほど伝わった。
後半を受け持った義太夫の竹本谷太夫さんは、やっぱり最高。俊寛以上に、全身を震わせ、捻り、絞り出す姿が、俊寛と一体となっていた。
千鳥を演じた中村児太郎さんは、やけに大きく見えすぎて、その分、島の娘感には足りなかったかな。
満足度★★★★
日本的なアンビバレンツ感覚 − 我一塊の肉塊なり −
再々演ということもあり、とても安定した素晴らしい舞台あったと思う。
しかし、良い意味でも悪い意味でも、桟敷童子風味。
この舞台を観て気に入った人で、桟敷童子を観たことがないのならば、観るとハマるんじゃないかな。桟敷童子の濃厚さに耐えられるのであれば。
ネタバレBOX
緊張感があり、すこしの笑いも交えながら、桟敷童子で作・演をしている東憲司さんの作品が展開される。
舞台セット(美術)はもちろんのこと、音楽の雰囲気さえも桟敷童子風味だ。舞台の広さをうまく使い切っているなと思った。
劇中歌われる歌は、桟敷童子のもりちえさん作曲。
これを大勢の役者で歌ったら、モロ桟敷童子だったのかもしれない。
ただし、ラストの風車の感じは、想定内すぎた(桟敷童子で観たなという…)。
九州地方らしき方言、土着の独自文化(風土、風習)へ新しい(都会)文化の侵食、生と死、そして風車、ついでに九千坊と、桟敷童子でも使われたアイテムやテーマが揃っている。
ただし、桟敷童子と異なるのは、桟敷童子が「幻想」との虚々実々の中を彷徨う物語であるのに対して、『骨歌』は「現実」である。
栞の幻聴も幻視も病気のために引き起こされたものであり、そこが辛い現実となる(幻想の余地はあるにせよ)。
栞は、育てているエミューに名前を付け、潰されるときには涙さえしたのにもかかわらず、病気で正気を失ったときには、自分たちの文化を食べ尽くす異文化の象徴としてエミューをひどく嫌悪する。これは、栞の深層心理にある本音ではなかろうか。
このアンビバレンツな感覚は、日本人が新しい文化を取り入れてきたときに、絶えず感じてきたことではないか(たぶん)。
西欧に限らず、他国から文化・文明が日本にやってきたとき、便利だ、凄いな、と思いつつも、自分たちのアイデンティティである今までの文化をないがしろにしてきたことや、地方の都会化による、土着の文化の喪失などだ。
受け入れながらも、どこか嫌悪しているような感覚、それは、受け入れている自分たちへの嫌悪かもしれない。
そのような揺らぐ精神であるという前に、自分たちが「生きて」いる「存在」している「1個の肉(体)」であるということを示唆するような、彫刻する骨と肉(体)との関係、繰り返し出てくるエミューの「肉」というキーワードで、死と生だけでなく、そういうことを想起させる脚本はさすがだ。
そして、3人の役者はうまい。
どの人も魅力的。
ただし、姉の薫役の冨樫真さんは、そこまでオーバーに演技しなくても十分に良さは出たのではないかと思う。もちろん、ユーモラスなシーンへの布石であることはわかるのだが。
この演技の演出は、桟敷童子の役者さんたちならば、ぴたりとはまったのかもしれないが、冨樫さんのようなタイプの役者には違ったのではないか、と観ながら感じた。
劇中で流れる、戸川純の名曲『諦念プシガンガ』は、曲も歌詞も、この舞台の雰囲気にとてもマッチしていてうまい使い方だと思った。
「我一塊の肉塊なり」なんて歌詞は、まさにこの物語のためにあるようだ。
この曲のあるなしで、この舞台の印象は大きく変わったと思う。
桟敷童子ファンなので★は少し甘いかもしれない。