満足度★★★★
光さす −−− 笑ったけどなんかいい感じ
この数回ぐらいから、MUってコメディ濃度が徐々に高くなっている印象。
今回も笑わせてくれる。
もう、コメディって言ってもいいんじゃないだろうか。
って思いつつ観ていたが、笑いという面では確かにそうだったのだが…。
ネタバレBOX
MUの学園モノは、ハセガワアユムさんの「学校」という集団(生活)との距離感というか、意識がうかがえる作品ではないだろうか。
前から勝手にハセガワアユムさんって、「集団」(人が集まることについて)に嫌悪のようになものを感じているのではないかと思っていた。学校なんていうのは、まさにそういう場所であり、最初に体験する集団生活(社会)ではないかと思う。
以前上演した学園モノ『5分だけあげる』は、そんな魂を、教師を通して描いたように感じた作品だった。特に「先生」とかキライじゃないかと思うような匂いが…。
それは、私自身にトレースして観ていたことによるのかもしれないのだが、ソレを刺激したのは、やはり作品の持つそういうものに対する嫌悪のようなものではなかったと、責任転嫁しておく(笑)。
今回もそれは教師たちの描き方から、多少は感じられるのだが、『5分だけ…』ほどではない。嫌悪というより、少し憐れにさえ感じてくる。この変化は何を意味しているのか、あるいは意味していないのか。それはラストに明かされると言っていいと思う。
物語の主人公は、美術教師。彼は教師をしながら個展を開き、自らの存在価値をそこに求めているようだ。教師は「仕事」としてやっているということのようだ。
「お金を稼ぐための仕事」が教師で、「自分が本当にやるべき仕事」は絵を描くこと、というところだろう。もちろんそれは単純に2つに分けることはできない。教師の仕事にはやりがいもあるだろうし、絵を描くことが自らを縛ってしまうこともある。
こういう2つの「仕事」を抱えている人は多いのではないだろうか。例えば、演劇関係者とか、インディーズ・バンドをやってる人たちとか。
その中の多くの人たちは、別に本業があり、芝居や音楽もしている人もいるだろうし、バイトをしながら芝居や音楽を本業としようといている人もいるだろう。また、彼らだけではなく、「今の仕事は自分がやるべき仕事ではない」と日頃思っている人も多いのではないかと思う。
つまり、安田のことが、自らとダブって、きつかった観客もいたのではないだろうか。
彼の苦悩に共感できる人もいたと思う。
ただし、物語はそんなシビアな展開だけではない。彼の女装癖と相談に来た女生徒、そして彼らを取り巻く人々が絡み合って、騒動になっていく。
女生徒の彼氏・岡山の飛び道具感がいい。彼がスパーンと出てきて、舞台をかき回す。そのお陰で、安田の女装というハードルが一気に低くなり、その後にスムーズにつなかっていくという展開が巧みだ。
あと、毎回、どんどんテンポ良く放り込んでくる台詞が鮮やかだし。
ドタバタありつつも、絵も女装も、教師も、全部、私なんだ、と訴える安田。
コートを脱いで女生徒の体育着を見せる姿は、彼自身の戸惑いの姿でもあろう。つまり、絵を描いて個展を開くための、生活基盤として選んだ教師という職業が、絵を描くこと自体を鈍らせてしまっているし、絵を描き個展を開くということが、生活の基盤である教師という仕事も鈍らせてしまっていて、そのバランスがうまく取れなくなっているのだ。
これって、先に書いたが、思い当たるフシがある観客にとっては、結構イタイ展開ではないのかと思う。しかも、(たぶん)理解者であったであろう、妻とは離婚調停中なのだから。
そしてラスト。
オチっぽいラストを想像していたのだが、それは軽く蹴飛ばされた。
そこには美しいラストがあった。
互いに考えていることは違っていても、満たされないモヤモヤな不安を抱えている他人同士が、言葉にするのには難しい何かの1点で、心が美しく触れ合う、光あるラストだと思う。恋愛ではない、人同士の接触。
70分という時間は手頃なのだが、こうなってくると、安田と岬の内面を描くようなエピソードがもう少し欲しかったかな。90分ぐらいとかにして。
勝手な思い込みかもしれないが、かつてのMUで感じていたイメージのラストであったとしたら、こんな光さすラストにはならず、虚無感のみが支配したのではないかと思う。
MUはソロからバンド(劇団)になったことによる効果のひとつなのかもしれないと密かに思ったりした。
女子高生・岬役の小園菜奈さんは、フライヤーの写真よりもナマのほうがずっとよかった。古橋先生役の古市海見子さんの、強い存在も印象に残る。
手を怪我していて、ソバ屋のメニューも開けなかった板倉先生は、手を叩いたり、モノをつかんだりしていたのだが、あれは、健気さアピールで手は大したことなかったと受け取っていいのかな。
あと、「ぶっ飛んだ」の単語が数回出てきたが、これは言葉が強すぎる割りにはなんかイマイチ。もう少ししっくりくる言葉はなかったのだろうか。
ついでに書いてしまうと、安田先生は女装した姿を見せて、教師仲間に「どうだ」と迫り、ラストに岬にも見せようとするのは、ストーリー的には安田先生の内面吐露の爆発なのだろうが、ひょっとしたら、女装しただけでは飽きたらず、ついに、「私のこの姿を誰かに見てほしい」という、女装趣味の階段をもう一歩上がって、(さらに罵倒されたい願望もありの・笑)新たなステージに踏み出したのではないか、なんて思ったりもしたのだ。先生とかキチンとした職業っぽい人の犯罪に多そうな展開になっているのではないかな(って、やっぱり先生をdisってる?・笑)。
満足度★★★★★
ラストとその展開には唖然とした
と言うか、うあぁぁ、となった。
いや、うえぇぇぇ、かも。
いやいや、うへぇぇ、かも。
いやいやいや……。
ネタバレBOX
バジリコFバジオってもの凄く好き。
まずこれを言っておこう。
で、今回は、バジリコ感がなかなか盛り上がってこないんだなこれが。
昭和の30年代ぐらいのホームドラマ、サザエさん的なやつが展開していく。
「ねぼすけさん」なんていうののほーんとしたタイトルも付いていたりする。
もちろん、いつもの、少しダークでPOPで、キッチュなバジリコがそこここに姿を見せるのだが、そこへドンドンと行くことはない。
いつもならば、変な兆しが現れたと思ったら、一気にその世界に、有無を言わさず、そして観客を置いてけぼりにしても構わないという形相で、バジリコFバジオの世界に疾走していくのだ。
しかし、今回は、なんとなく奇妙なのだ。
どうも背筋が寒いというか、楽しいはずのホームドラマの後ろに、ゾクゾクするような恐ろしさがあるようなのだが、それはなかなか姿を現さない。
人形も、いつもほど活躍しない。
いや、猫も催眠術師も、いつもの「顔」をしていて、いいのだが、それはそっちのけで、サザエさん的、欺瞞に満ちたホームドラマ(笑)に落とす陰のほうに意識を奪われる。
そして、どうにも救いがない話。
明るいはずだったのに絶望的な物語。
バジリコFバジオのいつものキッチュさからは極北にあるようなイメージさえする。
しかし、これは「今」なのだ。
今上演しなくてはならなかった作品ではなかったのか、と思う。
今いるところは、「まやかし」である、そんなことに気がついている「今」。
あえて、「フクシマ以降」と言ってしまうけど、我々が日常演じている「ホームドラマ」は、砂のように脆くも崩れやすい世界でもあるということだ。
この舞台の当パンの冒頭に書いてあるように、戯曲を書き始めたのが昨年(2011年)の3月から4月というのだから、ソレが影を落とさないわけがない。
地球が、環境が、なんていう規模の話ではなくても、ついいろいろと「疑って」しまう「世界」が、あらゆる場所にあった。そして今もある。それが一番色濃く出て来るのが、生活の最小単位でもある「家」である。「家」にこそ、「疑い」が潜み、影を投げかける。
「これやばいよ」っていう状態なのかもしれなく、意識の底には常にそれがちらつきつつも、「今」はいつまでも続くと勝手に思っている。
しかし、やはり「やばかった」のだ。そんな物語。
めめ男が静かに真相を語る姿に背筋が寒くなり、ラストの人型の砂に戦慄する。
現実が終わってしまったのではなく、本当の現実の姿を突き付けられたようだったからかもしれない。
SFは、未来へ続く現代の警鐘というだけではなく、現代そのものを映す鏡としても機能する。
電気屋のヨーゼフKという名前(カフカの『審判』の主人公と同じ名前)が示すように、きな子たちは「監視」されていて、そして事実を知って、その運命に逆らおうしても翻ることはない。
カフカの『審判』は不条理だったが、今、現実が「不条理」なのである。そんな世界に、私たちはいる。いろいろ不条理なことが多すぎる。
バジリコFバジオをして、こんな世界を描かせてしまったのが「現実」だ。
笑いながら見ていた、ホームドラマのエンディングはこれであったのだ。
前説がいつもの2人(?)で楽しく行われていただけに、この展開はインパクトがありすぎた。
「ねぼすけさん」という呑気なタイトルも重くなっていったし。
ただし、ちゃー坊にまつわる、催眠術師や泥棒などのエピソードは、いつものバジリコFバジオであった。しかし、ちゃー坊が体験した、隣に住む友だちのエピソードは、やはり背中が寒くなるようなものだったけど。
痛くても酷くても「笑い」にするのがバジリコFバジオ流だと思っていたのだが、ここは攻めてきたのだと受け取った。
役者は、きな子を演じた浅野千鶴さんのけなげさがとてもよかった。
バジリコFバジオのメンバーは、脇を押さえるような役回りで、今回の作品のトーンに合わせて、弾けすぎないようにしているようだった。
ちゃー坊役の佐々木千恵さんもいい感じだった。バジリコFバジオが描く、いつもの子どもという感じに救われた。
バジリコFバジオは、生まれ変わろうとしているのかどうかはわからないが、バジリコFバジオ・ワールドからは大きく外れてはないものの、振り幅の大きな作品であったことは確かだ。
いつもの(ひっとしたら「今までの」)バジリコFバジオもとても好きだが、今回のこれも好きだ。
まあ、毎回、救いがないのもアレなので、こういうトーンであったとしても、「お手柔らかに」というところだけれども。
満足度★★★★★
等身大のリアルさ
いい感じにアナクロなアングラ感。
熱気がある舞台。
見終わって、「これいいんじゃない」と少し鼻息荒くなった。
酒井一途は今後も注目に値する作家ではないか。
たぶんこの物語はコレではないか、と思い当たったことを、失礼ながら、ちょこっと「ネタバレ」に書いてみた。…ちょこっと、と言いながらいつもの長文ではあるのだが…。
この長文は、作家の想いとは相当のズレはあるとは思うが、深層心理にはこういうことがあったのではないか、と思うことだ。
ネタバレBOX
前作『ケージ』では、10代の作家が書いたとは思えない内容に驚いたのだが、それはギャップのようなバイアスで観ていたような気がする。
もちろん過去を描くことで現代を映し出すようにはなっているのだとは思ったのだが。
しかし、今回は、リアルな若者の姿がそこにあった。
まさに等身大の、若者の姿だ。
「滅びてしまった世界」とは、主人公(たち)が、幻滅してしまった世界(社会)そのもの。
土地は沈んだりしてないし、もちろん人も生きて生活している。
しかし、「滅びてしまった」のだ。
そう断言してしまうほど、世界(社会)を憎み、断絶したいと願う心が「滅びてしまった」と告げるのだ。
彼(ら)は、そこから「方舟」に逃避する。「救済」を求めてだ。
この「方舟」は、彼(ら)の実家の2階にある自分の部屋でもいいわけなのだ。
「救済」を求めるのが、「パソコンの中」だっておかしくはない。
はっきり書いてしまうと、「彼ら」ではなく「彼」、つまり、シャンスラートの物語なのだこれは。
シャンスラートは、自分を待っている人、自分が何者かであるということを言ってくれる人を欲している。誰だって、「待っていてくれる」のはうれしいものだから。
シャンスラートにとっては、待っていてくれる人が方舟にはいる。
道化とミナだ。道化はシャンスラートが重要な人であるということまで言ってくれる。
そして、特にミナの存在は大きい。
なんて言っても、シャンスラートがひと目で恋に落ちてしまうような少女が「待っていた」と言ってくれるのだから…。
そんな都合のいい話は、そうないわけで、そもそもシャンスラートが乗り込んだ方舟は、友人とどちらが本当に乗ることができたのさえも微妙だ。
こうなると、社会と世界に絶望した主人公が、逃げ込んで閉じこもった場所が「方舟」だったことがわかってくる。
シャンスラートは、外に「救済」を求め、誰かが与えてくれると思っているがそんなことはない。
道化は「案内はするが、道を示してくれるわけではない」のだから。
同室の男=どうし=同士=導師という男がキーマンになるのかと思ったら、シャンスラートの友人を見ると単に洗脳されてしまっているようだし、そこに「救済」はない。
この方舟の中の出来事は、シャンスラートの「セルフ・カウンセリング」の様相さえある。
自問自答し、「解(救済)」探す。
別の「方舟」という、とても気味の悪い「救いの手」も現れる。
彼の心の旅が方舟の騒動のすべてだ。
結局、シャンスラートはどうしたかと言うと、ミナと出会うことで、「方舟」から出ることができるようになる。
すなわち、「自分の方舟(殻)」に閉じ籠もっていたのを、「滅んだ」はずの社会に出るという決意をするのだ。
あの大きな音は「殻」が崩壊していく音ではないか。シャンスラートが(脳内もしくは自室で)作り上げた「方舟」が不要になってくるので、崩壊しつつある。
当然、「方舟」と「世界」は「初めから地続き」であって、それに「気づく」ことも、主人公の「救済」=「治癒」と言えるかもしれない。
ミナは、二次元彼女かもしれないし、脳内彼女かもしれない。
だが、これが「救済」の第一歩にはなる。
つまり、この物語の主人公は「病んで」いた話ではないか。
しかし、作者自身がそこまででなかったので、「救済」を求める時点ですでに「快方」に自ら向かっていたところから物語が始まっていた。
本当に病んでいたのならば、自己否定などが伴いそうなものなのであるから。
シャンスラートは、外に出ることができたのだが、外の「世界」はあいかわらずのままだ。脳内彼女とともに、その外海の荒波を乗り越えていけるかどうかは、まったく不明である。
彼には、強い信念や信条があるわけではなく、そうした「甲冑」を身に纏わなければ、これからも辛いことが待っているような気がする。
「出る」だけで、そこがこの戯曲の弱さではないかと思う。物分かりがよくて、簡単すぎるラストなのだ。
今回は、思出横丁の岩渕幸弘さんが演出を担当した。
たぶん、 酒井一途さんが自ら演出したとしたら、この熱さの感じにはならなかったように思う。もっと内側にこもる熱さになったと思うからだ。
岩渕幸弘さんの演出は、華やかな熱さがあった。飽きさせず舞台に惹き付ける演出だったと思う。大昔の小劇場の舞台って、こんな感じに意味もなく熱かったな、なんて思い出したりした。
アナクロな感じだけど、現代。いい意味でアングラ。
ただし、舞台のサイズを考えると冒頭のつかみはOKなのだが、少々ガチャガチャしすぎであったし、ラストに盛り上がるところへの助走部分〜ミナが人質になったあたりから〜テンションがストレートに高すぎて、見ているほうが息切れしてしまった。(激しい中にも)もっと抑えたやり取りから、スピードを増していき、みんながもうひとつの方舟に手を振るところで頂点に達するというほうがよかったのではないだろうか。その波から、ラストのシーンにつながるほうが見せたと思うのだ。
主人公のシャンスラートは、もっと常に舞台にいたほうが、彼の物語であることを印象付けられたと思う。
また、彼が本気で「救済を求めている」ようには見えないのが残念。もっとヒリヒリ感が欲しい。というか、「追い詰めて」欲しかった。
道化役の橋本さんは、その役柄のためか、印象に残るがのだが、彼女も含めて役者のこととか、いろいろと問題はあるのだが、酒井一途さんは、今後も注目していきたい作家だと思う。ミームの心臓も。
あとは、受付等の印象も良い。「煙を使うので、気になる方にはマスクをお配りします」など、細かい心配りもよかった。難を言えば、非常の際の注意事項かな。
彼の演出ももちろんいいのだが、今回の作品のように、戯曲ごとにマッチしそうな演出家をチョイスして演出させるのもいいと思う。
そうすることで、役者たちも鍛えられると思うからだ。
星は期待も込めて、の数にした。
表示できるのならば、★★★★☆と、こんな感じかな。
満足度★★★★
LIVESの描くおじさんたちは、哀愁がいい感じに漂う
こういう人たちを描かせるとうまいなーと思う。
小さな幸せが、キラキラ光ってみえる、コメディタッチの人情モノ
ネタバレBOX
テレビのドキュメンタリー番組が、謎の侍集団『サムライ・ホット・スクール』を取材している。
彼らは、侍の格好をして、公民館に集まり、武士道を学んでいるらしい。また、時には、提灯を手に「見回り」と称して、侍の格好で町を集団でうろつくこともある。
ドキュメンタリーを撮影しているうちに、スタッフは彼らに違和感を感じ始める。
それは、彼らかが自らを語る様子があまりにもぎこちないのだ。
スタッフは、主催の元妻に会ったり、草食男子や、武士道研究家と対決させたり、さらに顔の割れていないスタッフをサムライ・ホット・スクールに潜入させたりして、彼らの本当の目的を探ろうとするのだった。
そんな物語。
前半は彼らの目的を探ることがメインとなり、後半は彼らはのことが描かれていく。
彼らは、就職が見つからず、派遣をやっていたり、ホームレスだったり、ネットカフェに泊まっていたりする、いわゆる格差社会の中の底辺に位置づけられる人々であった。
(ただし、おじさんを描くのはうまいのだが、草食男子というキャラは、少々おじさんが想像して書いたっていうイメージだったけど(笑))
かなり悲惨な境遇なのだが、見下したり、卑下したりすることはない。そこには「愛」がある。彼らの視線で物語が語られていく。
もちろん、見方によれば、甘い決着の仕方かもしれないが、めでたし、めでたし、ではなく、そこからのスタートというあたりが心地良いのだ。
人情的な、古くさい感じもありつつも(もちろんそれも好き)、今様な要素を散りばめた、コメディタッチの人情モノ。
笑いながら、小さな幸せが、キラキラ光ってみえ、少し気持ち良くなる時間を過ごすことができる。
(武士道を学ぶ塾の名称が、「サムライ・ホット・スクール」ってのも、なんだかなー、の感じでいい・笑)
次回は『知恵と希望と極悪キノコ』の再演で、シアタートラムということだ。初演も、この公演と同様の、日の当たらない者たちのなんとも言えぬ姿が描かれていて、面白かったので、期待したい。
満足度★★★★
観客を応援団に仕立ててしまう魅力
「参加型アトラクション公演」と銘打っているだけのことはある。
工場跡地の舞台に、手作り感満載の美術や衣装。
さらに観客の座席そのものも。
ネタバレBOX
会場に到着すると俳優さんたちが案内してくれる。
ここまでは普通にやる劇団も多い。
しかし、ここは直接観客に話し掛けてくる。「どこから来たのですか」などと。
ここから「参加型アトラクション公演」が始まっているのだ。
そして、演劇公演の開演前(!)に自分たちことや目指す目標を熱く語る。
こういうことは、これから始まる公演の妨げになる可能性もあるのだが(虚構の物語に入る前なので)、それでも構わず、熱く語る。
その語る姿には、単純に感動してしまう。「がんばれ」と思ってしまう。
これがあるとないとでは、続く演劇の受け取り方も違ってくるだろう。
そして、公演内容そのものも、熱っぽく、好感持てる真摯さがビンビン伝わる。
ここで、またやられてしまうのだ。「応援しよう」と。
この観客を取り込んでいく「戦略」は、観客席を走り抜け、本当に役者を間近に感じられる演出や、観客1人ひとりに語りかけるフレンドリーさ、さらに自分たちのこちをストレートに伝える熱量にある。それを実現するのに重要なことには、「(実際に)観客との距離が近い」ということがある。それには観客数が多くてはなかなか実現でしない。すなわち、「観客数はある程度に抑える」という方法が一番だ。これが戦略を遂行するためのひとつの「手法」であろう。
彼らは、観客の動員数を倍々にしてきたらしい。そして、今回は前回600人の倍、1500人の動員を目指している。その1500人の動員を達成するのに、1回のキャパが大きな会場を選ぶのではなく、単純に公演回数を倍にした。
すなわち、今までの「手法」(観客の数を少なくして役者との接触を大きくする)を活かすことを選択したのだ。それは、1カ月公演(!)という大きなリスクを天秤にかけての決断だ。
これは成功したと言っていい。
観客は自分を覚えてくれて、語りかけてくれる役者たちに感激し、リピーターになり、さらに友人・知人を誘ったりする。まさに戦略通りの展開であろう。
観客倍々の先にはシアターコクーンがあるらしいのだが、コクーンのサイズではこの手法は、そのままでは使えない。
つまり、1500人動員、1回の公演で最大でも40〜50人規模の現在から、コクーンに行くまでは、どうしても100人規模、200人規模等々、の会場を避けては通れないからだ。
その規模で観客との距離を縮めるために、単に客席の通路を走り回ったり、客入れのときに役者がロビーに出ているだけでは埋めることのできない隙間が現れてくるだろう。
それがやってくるのは、たぶん、3000人動員を目指す次の公演からではないだろうか(今回の1カ月公演を単純に倍の2カ月公演にはできないだろうから)。
そのときには、さらに何かアイデア、手法が必要になってくるだろう。ひょっとしたら公演内容事態も今までと違ってくるかもしれない。実際、物語のつくりはそれほどでもないし。課題も多いが、期待も大きいというところであろうか。
会場を大きくする、それが彼らの次の正念場であり、それを楽々と越えてみせてくれるだろう、彼らがとても楽しみである。
そして、コクーンの先には何があるのか、ということも楽しみでもある。
公演自体は、前半は少しだるいのだが、後半からのスピード感と泥臭い物語には飲み込まれた。ストーリー自体は特にどうということはないのだが、「役者が演じるから面白い」というこを実感させてくれる舞台であった。
それだけ役者が活き活きしているし、熱いし、うまいと思う。
ただ、いくつか書いておきたいことがある。
1つめは、主人公の少年は、17歳という設定なのに、なぜあんなに幼い台詞回しをしているのだろうかということ。早めにしゃべるときは普通の声色なのに、ゆっくりしゃべるときだけはにぜか幼い感じの声色になる。これはずっと違和感を感じた。
2つめは、ゴベリンドンが2階のほうからするすると降りてくるシーン。ホントにきれいにするすると降りてくるのだが、これって、結構危険ではないだろうか。もちろん本人もだが、客席のほうが問題だ。1つ間違えて手や足を滑らせたら観客の頭上に落下してしまう危険性がある。暗い中で、観客の姿も見えないであろうから、ここは(観客の)安全性を優先して、うまい方法を考えてもらいたい。これは後に書く、アクシデントを見たので余計にそう思った。
また、どうでもいいことだが、「銃」ではなく「剣」とか「刀」にしたほうが、演劇的な見栄えがしたし、「血」との相性(笑)も良かったのではないだろうか。
火薬と弾という疑問も残ってしまうので。
実はこの公演で、ちょっとしたアクシデントを見た。
役者が走り込んだ先に女性が座っていて、彼女の顔に役者の頭が激突したのだ。
「痛い」という小さな声を上げて、女性は顔を押さえ蹲った。
役者は当然それに気づいたが、ちらりと一瞥しただけで演技を続けた。彼女は顔を押さえたまま、劇場を出て行ったのだ。
この公演は舞台監督もいないし、劇場内にいるスタッフは音響と照明のみ。彼らは暗いのでたぶん気がつかなかったと思う。観客も気づいた人は少なかったのではないかと思う。
あのあと一体どうなったのか気になる。公演後のあいさつでもそのことにはまったく触れなかった。
勢いよくぶつかったようなので、怪我をした可能性もある。
劇団側の誰かが、フォローしたのだろうか?
この公演に行った方はご存じだと思うが、役者が観客席を走るところにはラインが引いてあり、開演前に注意が喚起されていた。しかし、ぶつかった女性は後から入ってきたので、その注意を聞いていないと思われる。
当たり所が悪かったら、顔に傷やアザができている可能性もあり、とても心配で、帰りもモヤモヤした気持ちをぬぐい去ることはできなかった。
役者はラインの上を走ると言っても、ラインの上だけをまっすぐに走るわけではないので、私がイスに立てかけていたアンケートの厚紙を蹴飛ばされたりもした。たまたま横を向いていたからアンケートを蹴飛ばされたのだが、もしそちらを向いて座っていたら、私は足を蹴られ、役者はひっくり返っていた可能性もある。
役者には照明が当たっていることもあり、観客がどこにいるのかはわかりにくいだろう。したがって、前記の2階から降りてくるシーンを含め、ラインとイスとの位置など、再度安全点検をしてほしいと思うのだ。
なお、このアクシデントを知った知人が後に劇団側に確認したところ「出演者のお知り合いだったとのことで、丁重なお詫びをしたそうです」とのことで一応安心した。
ただ、本来ならば、劇場内にフォローするスタッフがいないのだから、いったん公演は中断するべきではなかったのか、と思う。
満足度★★★★★
とっても面白いぞ!!
Aga-risk Entertainmentの作品って、バスレがない印象だ。
確実に笑わせてくれる。
それも、ありがちな、太っているとかハゲているとかという、どーでもいいことに延々突っ込むだけや、テレビのバラエティ番組の焼き直しのようなもののような、さもしいヤツで笑いを取ろうとするものではない。
そこが好きなのだ。
ネタバレBOX
で、今回の『ナイゲン』だが、とにかく面白い。
アガリスクは見始めたのは最近だが、その中でも一番面白いと思う。
今までの作品は、少々捻った感じがとても面白かったのだが、例えば、出会ってはいけない者が出会ってしまうようなシチュエーションのコメディだとすれば、観客が少し気を利かして見てあげるというような場面もあったかと思うのだが、今回はそれはない。
ストレートで面白く、ストレートに面白い。
もちろん、アガリスクらしい視点はある。
3次元の視点だ。舞台というのは、額縁の絵を眺めるように2次元なものが多い(もちろん、実際には奥行きはあるのだが)。
しかし、アガリスクの舞台には、奥行きがたっぷりある。例えば、家の中であれば、間取りのような舞台設定になっていたりする。この発想はいつも凄いと思っている。
今回も、会議室全体を見せることを十分に意識した舞台となっていて、これがいつものアガリスクっぽいところでもある。
それを感じさせるのは、開演前のシーンからだ。教室風に座席が並べてあるのを、開演前に生徒が出てきて会議風のロの字型に並べ替える。このシーンはなかなかいい。
そして、「今まで会議を続けてきて、もう少しで会議終了になりますよ」という、「あれっ? 会議のコメディじゃないの?」と意表を突くスタートから舞台に飲み込まれていた。
なんていうか、詭弁とも言える自分の主張で、相手を論破したと思い込んでしまったり、オトナのいいなりにはならないぞ、という正義感で声高になる感じとか、実に高校生っぽくて素敵だ。
正直高校生の頃って、こんなに熱くなったことはなかった。もちろん文化祭なんかでも同じで、白けていたと思う。思うのだが、本人はそう思っていても、傍から観ればそれなりに鬱陶しくって、暑苦しかったのではないかと思ったりもするのだが。
・・・ここで、自分の高校生の頃の思い出とか、文化祭のこととか、一気に噴出して書き出しそうなのだが、それはやめておこう(笑)。
そんな暑苦しくて、鬱陶しくて、観ていてセンチメンタルになってしまうような、キャラクターが次々出てきて、しかもその設定がわかりやすいので(単純ということではなく)、物語に入りやすい。
ナイゲンの歴史を語る者が、自分たちが歴史になっていくことにこだわったり、なんていうのもいい。
欲を言えば、代表者たちのクラスでのポジションなどがもう少し見えても面白かったかな、とも思ったり。
さらに、会話の重ね方もとてもいいし、役者もいい味出している。
トイレに行きたくなる男子が、(苛ついているのか、と思わせつつ)少し貧乏揺すりをし始めているという細かい演技や、2リットルのペットボトルを置いて飲んでいるという設定、そして、各登場人物のそれぞれの持ち物、飲んでいる飲み物の種類(コーラとかね・笑)、服装、動き方まで、きちんと隙なく設定されているところも、抜かりはない(それは、もちろん当然のことなのだが、ここまで徹底していると気持ちがいい)。
ストーリーのリズムの刻み方や盛り上げ方、たたみ込ませるところや、ちょっとした間の取り方など、脚本でのテクニックに、さらに演出のうまさが光る。
舞台内で使われているのと同じ、藁半紙(!)で作られた会議資料が観客にも配られるのもなかなかである。内容や書き方で、それぞれのクラスの意気込みと雰囲気を感じさせる。
さらに受付(ビルの下にもいる)や案内の人たちが、スーツで、丁寧に応対する姿も好感度が高い。
とまあ、いいことすくめであるが、ひとつだけ気になったのがラストだ。
2人の3年生がこの会議について、少ししんみり話して「これがナイゲンだ」みたいなことを言うのだが、これって、うまいこと言い過ぎて、どうもしっくりこない。
演劇のラストとしてはいいのかもしれないが、それまで、高校生っぽい台詞の応酬のあとだけに、大人の(都合の)台詞のような気がする。
「高校生がわかったようなことを言う」というにしても、もっと高校生らしい言い方、台詞があったのではないかと思うのだ。
例えば、うまいこと言ってドヤ顔するとか、・・・よくわからないけど。
(いつも、したり顔で、そんなことを劇中ずっと言っていた男だったりしたら、それはそれで成立したのかもしれないけど・・・)
最後のこのシーンは、大切だっただけに、やや普通すぎた印象だ。
にしても、ナイゲンって3日間もかけて何を話すのだろう(笑)。
それぞれの発表について説明し、それについて質疑応答で発表の可否について話合うのだと思うのだが、文化祭の実行委員とかが審査すればいいんじゃないかと思うから、イマイチ、ピンとこない。これも「生徒の自主性の尊重」っていう名の下の、・・・なのかな(笑)。
あと、冨坂さんは、3年生の文化祭を経て芝居にはまったのだろうか?(笑)
満足度★★★★★
なるほど第0回公演
試行錯誤。
次回に期待したい、
っていきなり書くのは失礼か(笑)。
ネタバレBOX
ひょっとこ乱舞は「笑いを手に入れた」と、前に書いたことがある。
今回のアマヤドリでもその片鱗は見えた。
が、ほとんど笑えなかった。
それはなぜか?
簡単に言えば、タイミングだろう。
笑える台詞を笑えなくしたのは、そういう演出によるタイミング。
ひょっとこ乱舞は、プッシュ型の劇団の印象がある(そういう分類方法があるかどうかは知らないが)。
エネルギーを観客にぶつけてくる。そして、舞台の上でぶつけ合うという印象だ。
相手に対する欲望や感情を台詞や演技に乗せてぶつけてくる。
もちろん、「押す」だけではなく、「引く」という設定と演技もあるが、それは「引く」というよりは、「プル(pull)」なわけで、「押す(push)」を受けていたと思う。
また、過剰なほどの情報が舞台にぶち撒かれるような、観客への強い「PUSH」も特徴のひとつであり、勝手に「ひょっとこフォーメーション」と呼んでいた群舞は、それをさらに補強したり、オーバーヒートしている観客の脳をクールダウンさせたりする役割もあった。
しかし、今回も「押し」と「引き」の関係、「押し合う」関係もあったと思うのだが、以前のような強さは感じられなかった。
それは「シンプル」にしたからではないだろうか。
余計な感情表現をできるだけ削ぎ落としたシンプルさを、意識したのではないかと思うのだ。
冒頭の2人の男の会話を観て、「あれっ、これはダメかも」と思ってしまった。
ひょっとしたら2人の噛み合わせが悪いままOKしてしまったのではないか、あるいは、単に下手になのか、と思ってしまったほどだ。
とても居心地の悪い数十分間が続いた。
しかし、舞台進行するにつれで、これは演出で敢えてこうしているのではないか、と思い出したら、なんとなく視界が少しだけ晴れてきたのだ。構造についても。
噛み合わせではなく下手なのでもなさそうだ。
(冒頭の2人の男の会話は、2人の距離の変化だけはきちんと見せてほしかったと思う)
また、先に書いた「過剰なほどの情報が舞台にぶち撒かれるような、観客への強いPUSH」も、作品の方向性から、できるだけ排除したのだろう。
「説明はしない」ということで。
(「行間」を読ませることで、実は逆に強く「押して」きているのではあるが)
したがって、ひょっとこフォーメーションも、その必要性はあまりなかったわけであり、実際に、いつもの気持ちいいと感じるほどのものはなかった。
作品の構成には、数人が特定の人物を演じたり、重ねたりという、ひょっとこで培ったテクニックが活かされてはいたが、言葉と演技と台詞のシャワーを一気に浴びせてきて、気持ち良くさせる演出を排除して、全体的には「禁欲的」に、「抑えた」作品になっていたのではないだろうか。
それはチャレンジだ。
各場面にはひょっとこ乱舞の「残滓」も残っていたが(いや、まあ当然だけど)、ひょっとこ乱舞という、言わば安定した劇団を脱ぎ捨てて、「意識して」アマヤドリになるためのターニングポイントをつくり、「意識して」超えるべきラインを跨いだということではないだろうか。
安定しつつあった劇団名を変えてまでやりたかたことは、変革、チャレンジではなかったのだろうか。
それが今回、晴れて第一歩を踏み出した(いや、第〇歩か・笑)ということ。
この先に何があるのか知らないけれど、とにかく新たにスタートを切ったということだ。
「第0回公演」とはよくぞ付けたなと思う。
作品を作る前にこうすること(こうなること)はある程度予測の上ではあったかもしれないが、それでも見事に「第0回」であったと思う。
であれば、前回のアマヤドリ名義の公演は、「ひょっとこ乱舞 〜 アマヤドリ」の過渡期にあるから、アマヤドリ名義にはしないほうがよかったと思う。
今回の公演は、ひょっとこ乱舞の公演と比べてしまうと、もの足りないという人は多いだろう。絶対にひょっとこ乱舞の印象をぬぐい去るこはできないからだ。したがって、厳しい評価が下されると思う。一緒に行った者は、「次回もこういう感じならば、もういいや」とまで言っていたし。
そういう評価や感想によって、この先、やっぱり先祖返りをしてしまうのか、あるいはここから先に踏み出していくのか、は見ものである。
ハードルの高さをどこに持っていくのか、ひょっとこフォーメーションを復活させたとしても、それが今回の延長線上にあるのか、そんなところが楽しみになってくる。
もの凄く苦しむのではないかと思う。
苦しんでくれ、と思う。
大爆破したのだから、更地からのスタートなのだ。
この先に進むということに★5つを賭けた感じだ。
結局、好きな劇団なんで、「それにずっと付き合うよ」ということなのだけど。
蛇足になるが、理由はわからないけれど、個人的には、中村早香さん、笠井里美さんの出演はなく、飛車角落ちなような状況は非常に残念ではあるが、彼女たちが会得し、振りまいていた、ひょっとこ臭のようなものを、新たなチャレンジである第0回で封印した、というのは深読みしすぎか。
だけど、この2人を、この舞台で観たかったと思ったのだけど。
役者では、リコ役の根岸絵美さんが、この作品の良さを体現していたように思う。もともと持っていた素地が活かされたのかもしれない。
満足度★★★★
シェイクスピアが指摘した「戦争の実相」は今もまったく変わらない
中堅・若手のバランスがよく。
台詞のやり取りが楽しめる作品。
ネタバレBOX
ギリシア側の将軍の妻であったヘレネという女性を、トロイが略奪したことから戦争が始まったようだ。
しかし、そのヘレネは、略奪されたのにもかかわらず、トロイ側の王子といい関係にある。いい関係というよりはベタベタだ。
こんな女のためにギリシャとトロイの兵士は血を流している、なんていう台詞もあるし、ギリシャ側のディオメデスは、「淫乱」とまで言って切り捨てる。
また、トロイの王子トロイラスは、クレシダにぞっこんで、クレシダの叔父を通じて、じらされたあげくクレシダと結ばれる。
しかし、クレシダはギリシャとの人質交換によって、ギリシャに連れて行かれてしまう。
トロイラスは、ギリシャ軍の陣営に忍び込んで、クレシダを見つけるが、クレシダは、ギリシャ軍のディオメデスとかなりいい仲になっている。
女の不実が2つ描かれ、さらにトロイの王の娘、予言者の女は気がふれているようだ。
こんな女性が登場する物語である。
こういう言い方は、シェイクスピア先生には大変失礼ではないかと思うのだが、シェイクスピアは、この戯曲を書く前に、女性に酷い目に遭わされたのではないのだろうか。心変わりをされたとか。
さらに、ギリシャ軍では、最強の戦士と言われているアキレウスは、女の願いを聞き入れ戦場に出ようとしない。慢心もあるようだ。しかもアキレウスは、小姓をテントに引き入れて、仲むつまじい。
それを見ているギリシャの将軍たちは、アキレウスには実力も人気もあり、正面切って何も言えず、派閥争いのような様相となっている。
膠着状態にある、両軍一騎打ちの持ちかけもあるのだが、これも組織や政治的な駆け引きに使われている。
また、勇者と言われたアキレウスは、トロイの勇者ヘクトルから命だけは助けてもらったのにもかかわらず、ヘクトルが武装を解いているときに大勢でかかり殺害してしまうという卑怯な振る舞いをする。
こんな展開もあるのだから、シェイクスピアは、軍人も嫌いのようだ。ひっとしたら、女を軍人に取られてその腹いせに……、なんて邪推をしてしまうようなストーリー展開である。
トロイ戦争が舞台なので、神話の中の話かと思えば、「アーメン」なんて台詞もあることから、そうでもないらしい。
神話の戦争叙事詩にヒントを得て書いたのだろうか。
台詞のやり取りや、客席通路まで十分に使った演出は、観る者を飽きさせない。
装置、セットは背の高いヒマワリが印象的だが、意外にシンプル。
衣装は、ギリシャとトロイがわかりやすいように、色分けがしてある。
音楽に軽く三味線が使われているのだが、それを前面に押し出さないところや、外連味のような演出がなかったところが、台詞と演技をしっかり観てくれ、ということなのだろうか。
いわゆるスター的な配役がないのだが(どなたかのファンの方はごめんなさい・笑)、中堅どころと若手のバランスがとてもよく、安心して観ていられる舞台になっていたと言えるだろう。
舞台は、男性だけしか出ないオールメールとなっている。
クレシダ役の月川悠貴さんは、声は少し太いものの、見事に女優になっていた。
ヘレネを演じた鈴木彰紀さんも、濃厚ないやらしさ(笑)を放っていた。
道化師テルシス役の、たかお鷹さんが、また軽妙で、芯が強さがある雰囲気が、とてもよく、さすがだと思った。彼の軽口で「戦争」の実相が見えてくる。
また、トロイラスとクレシダの仲を取り持ったパンダロスの小野武彦さんも、いい感じで、間を取り持つのは損な役回りだ、とラストに言うのだが、これもまた、シェイクスピアの実体験から来た嘆きではないのか、なんてことを思ってしまった。
結局、戦争は、個人の思惑のような、どうでもいいことから始まってしまう。
そして、戦争をしている最中は、敵は必ずしも外だけにいるわけではなく、内にもいるし、組織の駆け引き、政治的な関係もあり、勝てるものであっても、なかなか勝てない。
さらに、始まった戦争は終わらせることが難しいということもある(舞台の上ではトロイ戦争は終わらない)。
これは、先の大戦に限らず、あらゆる戦争に当てはまってしまうことではないだろうか。
先に「シェイクスピア先生の実体験から…」と書いてしまったが、シェイクスピアがこの戯曲を書いた16世紀ぐらいに気がつき、指摘した「戦争の実相」は、今もまったく同じである、ということなのだろう。
満足度★★★★
明らかにイギリス公演を意識しているな、という印象
でも、面白いのだからしょうがない。
「しょうがない」ってことはないか(笑)。
ネタバレBOX
こういう言い方はどうかとも思うが、まるで、「蜷川幸雄が蜷川幸雄をコピーしたような作品」に見えてしまった。
例えば、オープニングが楽屋で始まり、役者たちが談笑をしつつ衣装などを整えるところからスタートする。これの前の『ハムレット』がまさにそう。
そして、大型の装置を登場させたり、左右に動かしたりというのは、これより後になるが、『海辺のカフカ』がそうであった。
さらにスローモーションで動いたり、舞台の向こうに去っていく感じなどだ。
そんなお馴染みの演出が登場する。
また、イタリアの表現するのに、敢えて源氏物語絵巻を配してみたり、衣装を着物風にしてみたり、音楽に琵琶を使っていたりと、なんだかこの後に控えているイギリス公演を意識しているようにも思えてならない。
とは言え、つまらないか? と問われれば、そんなことはなく、とても面白いのである。
なにより配役が素晴らしい。
ポステュマスを演じた阿部寛さんは、真っ直ぐで、お堅い感じがぴったりだし、イノジェンを演じた大竹しのぶさんの年齢を感じさせない若い女性になり切った演技がすばらしく、さらにローマ人のヤーキモー役の窪塚洋介さんの柔らかくて女性を誘惑しそうな感じもはまっていた。クロートン役の勝村政信さんのコミカルさもさすが。
この時期においての、ラストの一本杉の登場までも、どちらかというと海外に向けてのメッセージでもあるし(国内では、アイコンとしては、使われすぎている印象なので)、そのアイコンとしてのチョイスは、蜷川さんっぽいな、と感じた。
満足度★★★★
若々しさがまぶしい
この舞台は、こまどり姉妹が登場するということでも話題を集めていた。
※彩の国さいたま芸術劇場で『トロイラスとクレシダ』を観てきたので、今年観て書き忘れていたシェイクスピア作品2本を書きます。
ネタバレBOX
劇場内に入ると、コの字型の座席の真ん中に黒い舞台がある。
開演前、その黒い幕が取り払われると、透明な床が見え、その下に出演者たちの楽屋があることがわかる。
「どうだ」という蜷川さんの顔が見えるような、観客を「おっ」と言わせるオープニング。
役者の熱演ぶりがとてもいい。
発散するようなエネルギーを感じる。
こまどり姉妹の登場は、ハムレットとオフィーリアのシーンだった。
ハムレットとオフェーリアが、互いに苦悩するシーンでの登場に、いったん客席は沸いたが(「待ってました」の感じ)、悲痛名様子で泣き叫ぶ2人の若者の上に降り注ぐ、こまどり姉妹のゆったりしたテンポの『幸せになりたい』が。
悲痛の上に悲痛になり、客席の温度も下がったようだ。
「幸せになりたいの」とは「今は幸せでない」ということであり、その歌詞が延々と降り注ぐ。
こまどり姉妹が歌うからこそのリアル感とでもいうか。
また、ラストでは、フォーティンブラスが登場し、物語のすべてを奪いさるのだが、どうやらそれだけの力がなかったようで、銃器による大殺戮の上に、ここでもこまどり姉妹の「幸せになりたいの」と歌詞が鳴り響くのだ。
登場人物たちすべての上に「幸せになりたいの」が降り注ぐ、ということなのだ。
悲壮、悲痛なハムレットであった。
満足度★★★★★
もの凄く面白かった
もう、ぐだぐだと何も書かなくて、「面白かった」だけでいいような気もする。
ネタバレBOX
面白かった!
ゴミちゃんいい!
あ、でもちょっとだけね……。
てっきり、タイトル通り、ゴミくずだらけのセットがあると思っていたら、シンプルなのに意表を突かれた。
地球のような青い星。
そこがゴミくずなんだ!
戦争、紛争、ゴミ、戦場カメラマン、平和、デモ、そんな今やポピュラーとも言えるようなエッセンスが散りばめられているのだけれども、もの凄く面白い。
過剰で、どうでもいいことが含まれているようで、面白くて、だけどもそのまんま捨て置かれてしまうような台詞とその絡み具合がたまらない。
ストーリーも演出も、よく整理されていて、次から次に起こる出来事が、もう楽しくって仕方ない。だから、舞台に釘付けになった。
メランコリーな曲に乗せて語る、ゴミちゃんの末路は、最初から想像がつくようなものだけど、でもいいんだよなー。それでも。
明るくて、哀しくて、明るくか、な。
ラストの写真撮影のシーンとかね。ベタかもしれないけど。
役者は全員よかったのだけど、やっぱり、ゴミちゃんを演じた浅利ねこさんが、抜群にいい!
活き活きしていて、「カワイイ」っていうのもわかる。
その相方として、ソニーを演じた満間昂平さんも、全体でうまい重しになっていたのではないだろうか。あと、ゴウトクジ、コムスビ、クニマツの3人の掛け合いはなかなかだと思ったし、特にクニマツを演じた工藤史子さんは、個人的にかなりツボだった。
ああ、それでも結構ぐだくだ書いてしまった。
この感じ、この間観た、ロロの『父母姉僕弟君』にちょっと似ているかもしれない。
これを観てから思うに、あれはあれで面白かったのかも、と思い始めている。
こっちを先に観ていたら、少しは印象が変わったかもしれない。
今さらだけどね。
にしても、一番前に座ってハイタッチしたかったぜ!
満足度★★★★
「作り物の音」に囲まれた「作り物の物語」
「虚構」と「虚構」、「虚構」と「現実」、「現実」と「現実」の境目が曖昧になっていく世界を見せていく。
ネタバレBOX
最初は、「京都の劇団」「ピンク地底人」(京都の地下に潜む貧しい三兄弟。日々の孤独を紛らわせるため、人間のふりをして、演劇活動を行っている、なんて書いてあるし)という劇団名から「コメディなんでしょ?」って思っていたのだが、まったく違っていた。
すみません。
劇場に入ると天井まで斜めに立ててあるパイプに蛍光灯。
パイプが工事現場の足場のような無機質感。
それをぐるりと囲むように配置された、スタンド付きマイク。
このマイクに劇団員たちが交互に立ち、街の喧噪やエレベータの効果音などを、丁寧に再現していく。
雨降りのときのデパートで流す曲とか、エレベータの細かい音とか、街中でのちょっとした人々の営みとか、そんな細かいニュアンスに溢れ、それがいい味になっていた。
物語は、母と息子の話。
人気女優である母は、テレビのドキュメンタリーの取材を受ける。
いわゆる密着取材ということで、女優の家にも行き、撮影をする。
女優は、実は自分の息子は引きこもっているので、それだけには触れないでほしいと撮影スタッフにお願いする。
徐々に彼女の生活が淡々と描かれていくのだが、実は、ある一瞬で、彼女と息子を巡る話が、遡っていることに観客は気づく。
音楽もよく聴いてみると、逆回転している(歌の部分だけかも)。
遡っていくごとに切なくなる物語となる。
あれだけの人に囲まれても孤独な女優な印象。
彼女は息子を失ったということがわかるのだが、それは最初は事故だったのか、と思わせて、実はさらにそれ以前に失っていたということが明らかになっていく。
彼女は、街で見かけた、息子を捜す女性に、自分を重ねてしまったのだ。
街中の「音」が本当の音ではなく、「作り物」であることを演出して、さらに「女優」が主人公であり、その彼女が演じる「舞台」の物語も、彼女自身のも物語も「虚構」(妄想)であるという構造が面白い。
女優が演じる舞台のストーリーとの境目がなくなっていったり、彼女が自分を重ねてしまった女性との、虚構の境目が消えていくというあたりもとても面白い。
ラストまで、微妙な位置関係にあった、撮影スタッフのカメラマンというのも、この「虚構感」を与えてくれる。
さらに彼女に「認知症」の気があるという設定も、この「虚構」にプラスしていく。
淡々としているのに見せるし、緊張感の持続と、それを外すタイミングがうまい。
ラストの前に、彼女が延々と舞台の上を走り出す。
何ごとが起こるのかと思っていると、疲れて歩き出してしまう。
そして、腰を折る。つまり、さきほどまで遡っていた彼女の半生を一気に巻き戻したシーンだったのだ。このシンプルな演出のうまさには舌を巻いた。
彼女はあの世で息子と再会する。
甘すぎるラストかもしれないが、いいラストだと思った。
役者は、とにかく全員があらゆる役と音を担当し、目まぐるしいものであって、大変だなと思った。やはり、主人公の女優さん役が良かった。誰なのかはわからないけど。あと、主人公がチラシを受け取るときの、息子を捜していた女性も印象に残った。誰なのかはわからないけど。
満足度★★★★
【Aチーム】(大人も楽しめる)ジュナイブル
かな。
どうしても、初めて観て、とても面白かった前回と比べてしまう。
そうするといろいろ気になるところが出てきてしまうので、敢えていろいろ書いてみる。
ネタバレBOX
前回初めてこの劇団を観て、これは凄いな、と思ったのだが、今回に関して言えば、それほどではなかった。
まずストーリーが、面白い設定で展開なのだが、後半で、一体どうなるのか? と思わせておいての、この解決はいささか拍子抜けだ。
役人がやけに物分かりが良すぎる。
この程度の説得に応じていたら、仕事にはならないだろう。
「なるほど、これなら引き下がらざるを得ない」と思わせる展開にしてほしかった。
レイラが説得するだけでなく、大人たちの援護があっての、説得、もしくはそうせざるを得ない状況になるというのならば納得できた。
あまりにもあっさりと「OK」だったので、てっきり、何か策略でもあるのかと思ってしまったぐらい。
もちろん、描きたいのは、そうした駆け引きではないと思うのだけど、そういう設定にして、さらに役人まで出してきたのだから、きちんと落とし前はつけてほしいと思うのだ。
そういう感じで、なんとなく全体にきれいごとすぎる印象で、冒頭に悪ぶってはいるが本当は…のような台詞があるにせよ、悪い人は基本的に出てこない。
だったら、初めから悪ぶらなくてもいいのにと思ってしまう。いろんなことがあって、荒んだ人々というのならばわかるのだが、どうもそのあたりの線引きがイマイチだった。
正直、この作品は、「(大人も楽しめる)ジュナイブル」というなら「アリ」だと思う。
しかし、役者は、やはり、子役たちの健闘が素晴らしいと思った。
レベルが高い。うまく言えないが、子ども子どもした演技ではなく、メガバックスの一員としての演技に近づいていたと言っていいのではないだろうか。
ただし、メガバックスの一員としてのレベルで計って「面白い」というまでには達していなかった。
演技が「うまい」のが逆に出てしまった感じがする。
それは、台詞をきちんと丁寧に言い、観客に伝える、相手の台詞をきちんと聞いて話す、のようなことがあまりにもきちんとしすぎているので、少々スピード感、リズム感に欠けてしまうのだ。歌のシーンもあるのだが、これが声が良くて上手すぎるのだ。上手すぎて文句を言われては立つ瀬がないかとは思うが(笑)、普通の子どもが歌い出して、という雰囲気ではなく、つまり、歌の練習を積んでいる子どもの歌なので、上手すぎるのだ。
冒頭も、ミーヤの説明台詞が意外と続くのだが、あれはもちろんミーヤが言うことに意味は多いにあると思うのだが、少々荷が重すぎていなかっただろうか。
そんな印象を受けた。
例えば、レイラがやっぱりここに残ると言い出す前の台詞が、(台詞でもあったけど)あまりにも「行きます」ときっぱりしすぎで、それが翻ってしまうのも少々違和感がある。
たぶん、ここは、同じ台詞であっても、微妙な表情や演技で、「行きます」という台詞をきっぱりと言いながらも…のようなニュアンスが出せて、さらに「残っていいですか」につながったのだと思う。
こういう感覚は、文字だけでは伝わらないのと同じで、やはり演技が大切だろう。
つまり、(当然なのかもしれないが)この劇団でできなくてはならないレベルを、子役たちにまで同等に要求し、やらせてでしまったことによるのではないだうか。こんなに公演を次々と打って、鍛えられている劇団の大人たちと同等に扱ってしまうのは、辛いのではないかと思う。
もう少し演出でカバーをしながら、公演に慣れさせてあげてもよかったのではないかと思うのだ。
それと、セットの設定。
「バス」の台詞で「外なんだ」と気がついた。座った席からバスの前のほうがよく見えなかったし、タイヤも前の人の頭や背中で隠れていたので気がつかなかったのだ。
外ならば、それらしい演技と、少なくとも照明等で、もう少しわかりやすくしてほしかった。
そんなことを感じた。
とは言え、やっぱり面白いところは面白く、ストーリーにしても、レイラが手紙を配達しているということがわかり、さらにそれが、というのも良いし、ミーヤが役人たちと一緒に行きたいと言い出すなんていう展開には、「さすが!」と思った。
(グリナスが何年もの前のことなのに、今ごろガーラに飛びかかるというのは解せなかったが)
いろいろと課題は多いが、若い世代を鍛えて、舞台に上げていくという意気込みと企画は素晴らしいと思ったし、メガバックスは次回も観たいと思う。
こんなに面白い劇団なのに、もっと人が入ってもいいと思うのだが、観た回は、主に子役たちの関係者(子どもたちや、その親か?)が多かったように思う。
そもそもここのチラシって、ほとんど見かけることがない。
この「ジュナイブル」っぽいストーリーで、そういう位置づけならば、チラシももう少しそういう雰囲気にして、きちんとデザインしたほうがよいと思うのだ。はっきり言って手にしたときに、惹かれるチラシではない。
今回もネットで知って、チラシは会場で初めて見た。前回もそんな感じだった。もうちょっとうまく宣伝して、多くの人に観てほしいと思うのだ。
熱い舞台、スタンディングで観劇
劇場に入ると「スタンディングで」と観客に勧めていた。
「それならばスタンディングで」と思い劇場内に立つ。
わくわくした。
ネタバレBOX
とても血なまぐさい物語。
「復讐」が「復讐」を呼ぶ「負の連鎖」の物語でもある。
今の日韓のこの時期に、この物語が示すものは大きいのではないか、と勝手に思ったりしながら劇場に入った。
劇場に入るととてもフレンドリーにワインなどを勧めてくる。
ローマ市民(スタンディング)として観劇。
しかし、いったん舞台が始まると、役者がとても熱い。
全員が全身で台詞を語るようだ。
なのに鬱陶しくはない。引き込まれた。
悪役が悪役然としているのもいい。
特に、ゴートの王女タモーラは、目の強さ、顔の上げ方が、強い信念に貫かれた女を感じ、とても印象に残った。また、タイタスの娘・ラヴィニアも韓国系の美人なだけに、血まみれの姿は痛々しさを通り越していた。
セットは大きな箱3つから成り立ち、それを動かすことで、形を変える。われわれローマ市民が役者が上に乗った、その箱が動かないように押さえたりする。
韓国語の上演で字幕はないのだが、それはほとんど障害にならなかったと言っていい。
もちろん、台詞そのものの内容はまったく理解できないのだが、『タイタス・アンドロニカス』のあらすじさえ知っていれば、特に問題なしだったと言っていい。
かつて、台湾の劇団を、やはり字幕なしで見たことがあったが、そのときもまったく問題はなかった。ちなみにそのときはオリジナルの作品なので、あらすじを知っていたわけではなかったのにだ。
時折、片言の日本語の台詞を交え、何が起こっているのかを告げてくれる。
役者さんたちの、伝えようという気持ちが前面に出ているように感じた。
とても血なまぐさいストーリーで、もしに日本の劇団が今上演したとしたら、「血」は血糊は使わないだろうと思うのだが、この劇団ではストレートに血糊が流れる。
想像させるのではなく、見せることを選択したのだ。
演技を舞台の上に立って見るということは、もの凄く役者が近い。思ったよりも、ビンビン来る。これはスタンディングで見て正解だったと思った。
座席に座り、舞台の上の出来事を眺めているだけでは味わえない感覚だ。
と、書いたのだが、スタンディングには、1つ誤算があった。
なぜこの感想の★がないのか、ということにつながる。
実は、あと17、8分で終了という頃、つまりこの物語のエンディング間際で、まさかの貧血!
壁に行って折り畳みの椅子を自分で出して座ったのだけど、座っていても倒れそうなほどの貧血なので、転げるように外に出た。
日頃の不摂生と寝不足が原因だ。無念。
受付の椅子に座りブラックアウトしてしまった。
青年団の方が親切に冷たい麦茶と冷たく濡らしたタオルを持ってきてくれた。
本当にありがたかった。この場を借りてお礼を言いたい。
結局、椅子に座りながらでもふらふらした頭で、ロビーにあったモニターでラストを観たので、最後まで観たことにならず、★は付けなかった(たぶん最後まできちんと観たら★★★★★だだったと思う)。
最終日に外に出た者がいたな、と思っている方に、演劇がつまらなくて出たのではない、ということは言っておきたい。
もちろん、劇団ハタンセの方たちにも、伝えてほしい。
できればもう一回観たかった。
満足度★★★★★
【Aバージョン:女性版】素晴らしい作品だった第1作『花と魚』と同様のセンス・オブ・ワンダーを感じる
わずか60分なのに。
狭い会場で、熱のある舞台が繰り広げられる。
ネタバレBOX
数年先の未来の話。
渋谷に新設された緑化技術研究センターは、都心から食糧自給率のアップを目指し、どんな環境でも栄養価の高い野菜を開発しようとしている。
そこで開発された野菜は「渋谷野菜」というブランドで販売され、人気を呼び、プレミアまで付いてくる。
しかし、同時期に子どもたちの間で、穀物や野菜のアレルギー症状が出てきた。
アレルギーのある子どもたちの共通点には、「渋谷野菜」を食べていたことがあった。
都の食物アレルギー調査官は、そのことに気づき、センターでの開発に何か問題があるのではないかと探り、センターが採取してきた村の村民が全員餓死したことや、センターの中心的人物である博士までも餓死していたことを突き止める。
折しも、センターでは、画期的な稲を記者発表する日であった。
あと60分でそれは始まる。
アレルギー調査官は、センターに乗り込み真相を究明しようとする。
そんなストーリー。
記者発表までの60分間を、オンタイムで進行する。
センターが隠している真実を暴くという展開になるだろうと、観ているわけなのだが。
徐々にその「真実」というものが、まるで皮を1枚1枚剥ぐように、台詞の1つひとつで明らかになっていく。
センターで開発された作物に問題があるのでは? という問いに対して、単にそういう回答を探っていくだけの、直線的なストーリー展開にならないところが素晴らしい。
十七戦地の第1回公演『花と魚』でも感じた「センス・オブ・ワンダー」がうまく散りばめられ、さらにそこに現代におけるさまざまな問題点が浮き彫りになっていく。
この新しい農作物に問題があるのではなく、実はすでに世の中に蔓延してる「普通の食べ物」に問題がある、という結論は本当に面白い。
やられた、という感じだ。
まさに「問題提起」としては、これが一番であろう。
声高ではなく、静かな問題提起だ。
「今、自分たちは何を食べているのか」ということに考えが向かう。
ストーリーには、複線的に、研究開発でのことや、博士との軋轢、同僚との人間模様などまでも、この時間の中に盛り込んである。
作・演の柳井祥緒さんという人はこういうストーリーを書かせると、ピカイチではないかと思う。
また、役者もよかった。調査官役の植木希実子さんの鋭さ、そして立場を指摘されたときのたじろぎ、根村研究員・大竹絵梨さんの苛立ち、総務部係長・鈴木理保さんの声の荒げ方、課長・坂本なぎさんの上司らしい落ち着きと、責任感、さらに修善寺研究員・篁沙耶さんの後半から存在が現れてくる感じ、さらにNPO法人担当者・藤原薫さんのニュートラルなところ等、それぞれの役割がきちんと果たされており、舞台の面白さにのめり込まされた。
折り紙で「足のある魚」を折らせ、BSEのエピソードを入れることで、第1作『花と魚』を匂わせる(『花と魚』では口蹄疫)。イメージとして『花と魚』『艶やかな骨』2つの物語が、対になっていることがわかってくる。
つまり、『花と魚』では野生動物と人間の暮らしのトレードオフな関係、村で行われようとしている村おこしのことなどを、「足のある魚」というグロテスクなアイコンを使って、果たして何が正解なのか? を問うていたのに対して、今回は、「安全な食物」をキーワードに、実際に今われわれが食べている食物とはどんなものなのかや、遺伝子組換え、研究開発などを盛り込んで、やはり「何が正解なのか」を問題提起している。
人を浄化させるほどの安全で、高効率な、センターが開発した農作物がいいのか、しかし、それには逆に、身体を浄化してしまうがゆえに、一般に出回っている農薬や化学肥料を使った「普通の食べ物」を食べてしまうとアレルギーを引き起こすトリガーとしての問題点がある、という関係。
ホントによくできていると思う。
満足度★★★
残念なことに、思っていたほど面白くはない
『桜の園』が「喜劇」であることへの思い込みで、なにも『桜の園』をシチュエーション・コメディ仕立てにしなくてもいいのに、と思う。
いや、ま、してもいいんだけどね…。
しかも、それほど笑えなかったし。
ネタバレBOX
確かに「三谷版」ではあった。
しかし、『桜の園』が「喜劇」であることにこだわりすぎたのではないだろうか。
「喜劇」という言葉に、自らが縛られてしまったというか。
そのために、キャラにいろいろ盛ったり、無理に「笑い」とするための台詞や演出を足したために、逆に面白くなくなってしまった。
人間の哀しさが「喜劇」として映るわけで、何も「間」や、「面白台詞」で笑わせることだけが喜劇ではないと思う。ドッカンドッカンという爆笑を得るのではなくて。
もし『桜の園』が喜劇というならば、なんとなく、しみじみと面白いといものだったのではないかと思うのだ(爆笑するということではなく)。
コメディで「ここ笑ってください」は、それ自体がネライでない場合は往々にして面白くない。
台詞とかもヘンにいじらずにそのままやったほうが、きちんと面白かったと思う(「笑える」という意味でなくて)。
例えば、ラネーフスカヤが、ワーリャとロパーヒンを部屋に2人で残すときに、「あとは若いお二人で…」のような台詞は、コメディとしては笑いは取れるかもしれないが、ラネーフスカヤが言う台詞なのかな、と思ったり。
シャルロッタの猿とかも。
また、トロフィーモフのハゲネタも、原作には罵り言葉として出てきたとは思うのだか、毛をむしるところまで、ハゲ、ハゲで引っ張っていく。これにはゲンナリした。
あるいは、出来事にいちいち説明的で面白のオチを付けてみたり。例えば、ラネーフスカヤが母の面影を見るのだが、実はそれはシャルロッタだったとか、浮浪者がピーシチクだったとか。
そうしたほうが「笑い」につながるとは思うのだけれども、なにも『桜の園』をシチュエーション・コメディ仕立てにしなくてもいいのに、と思う。
いや、してもいいのだけど、もしそうするのならば、柱だけ残して、あとはもっと思いっきり変え、全然別モノにする゛らいならばよかったのだが(『三谷幸喜の爆笑・桜の園』とか……違うか)、中途半端にオリジナルが多く残っているだけに、なんか残念。
積み木の家もなんとなくワザとらしすぎだし。
さらに言えば、その積み木の家をラストでフィールスが壊すのは、意図が不明ではないか。長年屋敷に仕えていた老僕であり、ガーエフを「お坊ちゃま、お坊ちゃま」と呼んでいたのにもかかわらず、突如最後に見せる、黒い本心のようで、気持ちのいいラストではなかった。
この『桜の園』でよかったのは、強いて言えば、キャラをくっきりしたことぐらいかな(三谷さんの感じたキャラの輪郭において)。
三谷演劇ではお馴染みの、本人の声による開演前の注意事項アナウンスも、その微妙さがネライだったとしても、まったく面白くなかった。
満足度★★★★
安部公房原作の2作品を短編仕立てに
独自の演出で、ストーリーはうまく伝わり、2本立てで1時間45分と、短編としての良さがあり、肩の凝らない作品だった。
それは、いい意味でもあり、悪い意味でもあったかもしれない。
ネタバレBOX
『人命救助法』
意表を突くオープニングが楽しい。マッチの歌の替え歌(?)のような楽曲を全員で歌う(サビの部分に聞き覚えがあったので)。
カリカチュアライズされた登場人物たちが演じる、少しブラックなユーモアが効いた作品。
舞台を縦横左右前後とうまく使い、独特な演出が面白い。
オープニングの曲(リズム)のイメージを中盤でも使ったりするのだが(親子の家のシーンで)、それだったら全編このリズムに乗せて、テンポ良くポンポンと進ませ、一気に突っ走ったほうが、さらにユーモア感が増したのでは、と思った。
エンディングまで含めて「つかみはOK」な1本だったと言っていい。
『タニンノカオ』
1作目がユーモアな作品だったが、一転して、しっとりとした雰囲気を醸し出そうとした作品。
1作目からの切り替えを、舞台上での着替えにして行うというのは(この作品での装置となる鏡の使い方がうまい!)、イッセー尾形等を挙げるまでもなく、よく使われている手法ではあるが、ヘンな間にならず、後ろ姿できれいに配置して見せていたのは、うまいと思った。
内容的には、『他人の顔』のあらすじを見ているようで、少し深みの足りなさが気になった。
主人公の内面的な苦悩と、妻との関係で彼の中での気づきがポイントなのだが、もとの長編をこれぐらいの短編として上演するのであれば、ポイントの絞り方はもう少し何かあったんじゃないかと思ってしまう。
例えば、鏡という装置があるのだから、それをうまく使うというか、なんかそんなことで。
台詞の残し方とか、なかなかよかっただけに少し残念。
こちらの演出も、「見せる」工夫が随所にあり、さらに中ダレしそうなところに、映画版と同じように、しかも映画と同じ歌を入れるといったあたりも、なかなかだな、と思った(歌の雰囲気もとてもよかった。役の切り替えも含めて)。
そう言えば、映画版だとヨーヨーの娘は、確か市原悦子だったなあ、とか思い出したり。
全体的には、原作があるのだから、ストーリー的には申し分ないし、ストーリーの伝え方もいいし、演出もなかなかだと思った。短編だからこれぐらいの軽さでも十分かもしれない。
しかし、できれは、もっと強烈に、と言わないまでも、もうぐいぐい少し惹き付けるポイントがあってもいいのではないかと思う。これだけのことができるのだから。
また、登場人物たちの多くが、いかにも「キャラ作りました」という感じが否めない。特に男性陣。
もちろん、1本目に関しては、カリカチュアライズされた登場人物たちなのだから、うんと濃いキャラを作り込む分には問題ないのだが、2本目でそれを払拭するために、無理に新しいキャラを塗ってきてしまった、という印象が少し鼻についた。
ただ、2本目で妻を演じた方(配役名がわからないので役者名は不明)は、1本目との切り替えも、また2本目での自然さも印象に残り、好演。
全体的には、それなりに面白かったので、★は3.5ぐらいなのだが、開演前の諸注意を、15分前、5分前と2回行ったり(これはとてもいいと思う)、受付の好印象を加味して4となった。
満足度★★★★
「悲しみ」や「苦しみ」から逃れることができない「人」、実はそれを操っているのではないかという「ウイルス」、そしてそれらの先にある「絶対的な存在」を見つめていく
創立40周年!
見始めて15年ぐらいなのだが(天賦典式のほうを中心に)、いつ観ても大駱駝艦は面白い!
ネタバレBOX
大駱駝艦の醍醐味は、混沌と猥雑さにあるのではないかと思う。
毎回あるテーマを掘り下げたり、イメージを膨らませたりしながら、テーマの内と外を「舞踏」で塗り固めていくという印象だ。
今回のテーマは「ウイルス」。
震災以降の日本の状況から、人とは? 人の営みとは? そして運命とは? という問い掛けが、麿さんの中で生まれたのではないか。
「人」をミクロに見ていく中で、「ウイルス」というキーワードが浮かび上がり、30億年生き抜いてきた「ウイルス」にはウイルスの「戦略」があり、「人」は、「ウイルス」によって生かされているのではという命題にたどり着き、この作品の端緒となったのだろう。
さらにその考えを進めていくと、そもそも「ウイルス」に「思考はあるのか?」「感情はあるのか?」に突き当たり、さらにウイルスの行動から、「運命」とか「偶然」というキーワードが見え、「神」とか「仏」とかという「絶対的な存在」をも視野に入ってきたのだろう。
例えば、麿さんがフライヤー等で「全宇宙生命の創造と破壊を設計したあなたのゆったりとした微笑に私は哄笑で答えよう ヒトは大悲のウイルスとなったのだから」と述べている中の「大悲」という仏教用語からもそれがうかがえる。
「悲しみ」や「苦しみ」から逃れることができない「人」と、実はそれを操っているのではないかという「ウイルス」と、その先にある「絶対的な存在」を見つめていく。
そういう、ミクロからマクロへの、壮大なパースペクティブを描いた作品ではなかったのか。
その基本テーマに「ウイルス」が置かれた。
DNAやRNAなどといった、大昔に生物の授業で習ったような語句がシーンタイトルに並ぶ。中でもキツネのP2(FOX-P2)なんていうものは、キツネという訳が面白く、舞踏手によって再現されていたが、彼女が触ると「言葉」を発することから、言語に関する遺伝子だということがわかる(一応、後でネットで確認した・笑)、ユーモアたっぷりのシーンになっていた。
また、「門」や「羅」は、その語句の通り、生物の分類用語であり(これもうろ覚えだっので、後でネットで確認)、ウイルスたちの反乱だったり、活動だったりが活き活きと描かれていた。
活き活きしていたのは、このシーンを主に担当した女性の舞踏手たちだった。
今回の特徴として、抑制された動きに感情を込めているように感じていたいつもの印象とは違い、女性の舞踏手たちの強いパワーを感じたことがある。
特にメインに感じた高桑晶子さんともうひと方(鉾久奈緒美さん?)の弾けるような勢いとパワーの放出、そして躍動感、つまり生を感じた。
また、1人赤い花を付けたFOX-P2設定の女性(我妻恵美子さん?)の愛らしさは、他の女性たちが踊る姿とは別の姿を見せてくれた。
蜘蛛の巣のように張り巡らされたヒモ、ワニなどの小道具のあっさり感も含め、猥雑さ、混沌は、少し影をひそめていたようだ。例えば、麿さんの(赤い)ハイヒールは登場しなかったなど、いろんなモノをそぎ落とした印象だ。
それは、オープニングの麿さんの姿からもわかる。立っているだけなのに、パワーがある。前に出てきて肉体で誇示するのではない。これだけで「凄いな!」と思った。
そして麿さんのソロも実にシンプルであったと思う。細かいことはしないで、存在しているだけ、に近い感覚かもしれない。
その姿は、公演の内容というよりも、麿さんが立っているのは、大駱駝艦であり、大駱駝艦のそのもの姿を観たような気もした。
今回は、全体的に見ても、舞踏手たちのバランスが非常によく、そのはまり具合は気持ち良かったのだ。
今回初めて登場した、ジェフ・ミルズの音楽は、いつもの大駱駝艦と同じ印象に感じるほどマッチして、これも気持ちが良かった。もともと親和性がよかったから選ばれたということかもしれないのだが。
そして、カーテンコールは、いつも通りのカッコ良さ。鳥肌立つ。
なんとなく少し変わったかも、という印象だった今回の公演。
ここから新たな変化が訪れるのかもしれない。目が離せないぞ。
満足度★★★★★
慟哭を聞き、無念さに思いを馳せ、泣きそうになった
あまりにも、ストレートすぎなのだが。
映像と音(音楽)で、ダンサーたちの感情と形を増幅させ、会場全体をダンスで埋め尽くした
『see/saw』を中心に、off-Nibrollとしての一人芝居、さらにインスタレーション作品の展示で、ヨコハマ創造都市センター全館を使っての公演である。
ネタバレBOX
オープニングから圧倒された。
輪が束になって天に上がっていきつつ、その中、一番下のところでで踊るダンサー。
輪が泡にしか見えず、ダンサーの動きは、自分の吐く泡の中でもがく姿に見えてくる。
美しくもがく姿というのがインモラル。
耳鳴りのような電子音が会場を回る。それはまるで耳に水が入ったような感覚の音だ。
そして、生命が弾けるような光の直線、束。
人の喪失、過去と記憶が美しく交錯する。
活き活きとしている「白」のダンサーたちが激しく踊るのだが、冒頭のダンスがあったので、「死」の影がどこまでもつきまとう。
さらに、それを「黒」いダンサーたちが覆っていく。破れた衣装と、身体のどこかにバンドエイドを貼ってある黒いダンサーたちのストレートな表現。
嘆き、叫び、慟哭が会場を暴力的に覆っていく。
もの凄い「音」。五感に響く。
この「痛さ」「悲痛」さは何であろうか。
ほんの1年と少し前の記憶が蘇る。
黒い波が、真っ黒い波が、街を人を生活を飲み込んでいく様子だ。
何度も何度もテレビやネットで繰り返し見た、あの状況だ。
呆然として立ち尽くす人々と、モニターのこっち側で、やはり同じように呆然として見ている自分がいた。その距離は大きく違うのだが、このときに自分の中で起こっていた「気持ち」は、この「慟哭」「叫び」「嘆き」であったことに気づかされる。
折しも、この舞台を観た日は、11日。
ここから「白」は消え、「黒」の世界になっていく。
ストレートな映像が周囲を走り、ダンサーたちは翻弄される。
もがく、必死にもがく。
人が人を押すように動き回る。押しているのは「人」であったり「物」であったりであろう。
他人に手を伸ばす人もいる。椅子に自分の逃げ場を見つけ一安心している人もいる。
しかし、結局は流れの中へ。
ばらまかれる葬式の花が、「花」からゴミになっていく。「過去」「記憶」になっていく人々。
本当に辛い状況が延々と続く。
「不快」にさせる、金属の蓋のようなものを床に叩き付ける音がいつまでも響く。
しかし、辛さも不快さも痛さも繰り返されることで「マヒ」してしまう。
それが恐怖でもある。
タイトルにある『see/saw』は、もちろん「過去」との関係であるが、それを遊具のシーソーにして舞台の中央に置いていた。
シーソーは、どちらかが下がればもう一方が上がる。どちらか両方が下がったり上がったりすることはない。舞台の上のシーソーは、必ず向かって左側が下がるようにできており、右に誰かが乗らない限り右は下がらない。これはもの凄く暗示的ではないだろうか。
白と黒のダンサーたち、彼岸とこちら側、シーソーの上下。助かる、助からない…。
最後に、さてこれからソロのダンスが始まると思った矢先に、ダンサーへバケツで水が浴びせかけられる。これには「ある日突然断ち切られてしまう」ことを強く感じた。その悲痛さ、無念さをだ。それでも踊り続ける。
最後まで観て思ったのは、ちょっとした芽はあるものの、叫び、慟哭、嘆き、無念、悲痛の中にも、勇気とか愛とか、そんな「記憶」も入れてほしかったということだ。
ダンサーたちはもの凄くよかった。
特にメインの4名。その中でも最初に踊った小山衣美さん(だと思う)の、キレの良さ繊細さは素晴らしいと思った。また、福島彩子さん(だと思う)もダイナミックさが印象的だった。
Nibrollは、ミクニヤナイハラプロジェクトでもそうだが、映像と音楽が素晴らしい。
今回も、映像(高橋啓祐さん)と音(音楽)(スカンクさん)で、ダンサーの感情と形を増幅させ、会場全体をダンサーたちで埋め尽くしていた。
ヨコハマ創造都市センターという石造りの会場を見事に使い切っていた。
音が響きすぎる会場なのに、「音(音楽)」ではそれをうまく使っていたし、「映像」は、三角系で天井の高い形状や柱に意味を与えていたように感じた。
映像と音は、ダンスよりもさらにストレートなのだが、映像では実写の色調に、音楽では人を突き飛ばすシーンで、リリカルさを感じた。キツイシーンをリリカルにすることで響くものがあるのだ。
この公演の前には、off-Nibroll の公演として、一人芝居『家は南に傾き、太陽に向かって最も北から遠い』が行われたのだが、こちらも「記憶」がテーマとなっていた。
『see/saw』を観てから、その公演を振り返ると、「家」「家族」「生活」「記憶」ということが、さらに切なくなってつながっていく。
インスタレーション作品の中での一人芝居なのだが、小さな「家」がずらっと並んでいる作品であり、『see/saw』での「白」と「黒」の関係、つまり、一人芝居では「夜」だったものが、黒い「不安」(一人芝居でも「不安」はキーワードだったと思うのだが)、もっと言えば、「津波」にも思えてしまうのだ。
満足度★★★★★
今、ここにあるのは、進化なのか病なのか
治すべきか受け入れるべきか。
いくつもの「軸」が舞台の上で交錯し、ラストになだれ込む。
ああ、カタルシス!!
ネタバレBOX
脚本がうまい。
オウム逃亡犯と匿った女性を思い出させるような2人、感情を表現できなかったり、相手の気持ちを慮ることができない病、虚構と現実、そんなエレメンツがきれいにはまっていく。
この物語は、自分の頭の中の出来事であるという、秋男と弓の2人が登場するのだが、この登場のさせ方がうまいのだ。
最初に秋男を登場させ、秋男が日記として書き始めた小説の中に出てくるのが、弓である、と観客に思わせるのだ。弓の登場も、最初は秋男との関係がわからないまま、その端緒が徐々に見えて来る。
そして、弓が「自分の頭の中の出来事だ」と主張するあたりから、観客の確信はぐらついてくる。
演劇ならではの仕掛けだ。
これには参った。どっちがどうなのか? と思い始め、舞台を観る。
そんなこととは関係なしに、彼らの頭の中のストーリーはさらに進む。
進んだところで、オウム逃亡犯を彷彿とさせる2人がぐいぐいと飛び出してくる。
そうした展開に、さらに今ここにある「病巣」をクローズアップしてくる。
例えば、「他人との関係」、あるいはそれを「病」として「安心」すること。
感情を表すことがうまくできなかったり、相手の蚊持ちをくみ取ることができなかったりということは、「病」であるという。
「病」というのは、「病名」が付いてから生まれるものである、という。それまで(同様の症状があったとしても)存在しなかった「病気」が、「名前」が付くことによって出来ていく不思議さ。
逆に言えば、すべての人がなんらかの障害を抱えていて、それにそれぞれに名前が付けられていく。
「病気だ」ということで、本人も周囲も「安心」できる。
「居場所」が確保されたと言っていい。社会の一員になれた、というのは言い過ぎか。
この舞台の世界では、23区ごとの「症候群」があるらしい。
そして、それらは、相手の気持ちが読めないので、会話が成立しないため、相手にアプローチして聞き出すという行為が必要になることから、逆に「進化とみなしていい」らしいのだ。
ここはこの舞台のひとつのキーとなる(タイトルにもなってるしね)。
「物語を作っていくこと(虚構を語ること)」で、その病を治していくというところも面白い。ニセ村上春樹というニセモノが、秋男を救っていく。その秋男だって、弓の生み出した虚構なのかもしれないという面白さ。
また、サリン事件の逃亡者たちを彷彿とさせる男女は、自らを隠すために、感情を押し殺して生活してきたが、徐々に感動できるDVDを借りてくるようになってきて、「普通」の生活に戻っていくという、「症候群」な人々との対比。
そして、彼らが、世の中に感じる違和感。
さらに、今の「病」を「治そう」とする秋男に対して、今の「病」を受け入れて、仕事に活かしていく警官の2人。それを少し後悔している上司。さらにそれが「進化」と言われた弓。
このような、いくつもの対比させる軸が、舞台の上に交錯し、展開していくストーリーと細かい世界観に翻弄されて、本当に面白い。
秋男と弓のどちらの物語なのか、と思いつつも、ラスト間近では、逃亡犯2人がクローズアップされる。これには「ここか」、そして「やられたか」と思った。
秋男を演じた奥田ワレタさんの壊れてしまいそうな存在感が、徐々に大きくなっていくさま、弓を演じた渡邊とかげさんの存在感、そして、ニセ村上春樹を演じた久保貫太郎さんの、まくし立てる胡散臭さは最高だった。警官を演じた、幸田尚子さんと、森下亮さんの、キレのいい訛り台詞と演技もよかった。2人の上司を演じた手塚けだまさんの苦み走った(ように見せようとしている)演技はツボだった。
オウムからオリンピックまでを、どんどん盛り込んでいく面白さ。
「お寿司とビザの無気力試合」は名台詞!
あと「やれやれ」も(笑)。
それと、毎回思うのだが、今回も、衣装のPOPさ、そして音楽の使い方、さらにシンプルだが効果的なセットの設計、これらが素晴らしい。
久々に聞いたクラフトワークが心地良く響いてたし。
そう言えば、村上春樹は『アンダーグラウンド』とオウムに接点があるのだが、ここから登場人物に村上春樹を選んだのかな?
そして、ラストである。
「本当に進化なのか?」の答えがラストに、大音量の音楽とともに、ショッキングな形で観客を襲う。
ビンビンと響く、大音量の音楽に騙されつつも(笑)、突き抜けるラスト。
この、意識の「ジャンプ率」の高さにバンザイだ!