満足度★★★★★
300近いキャパシティのシアターサンモールに、初進出!
このサイズでも十分にやっていけることを証明した、記念的作品。
いろんな意味でのバランスの良さが功を奏した。
彼らのスタイルが確立した作品。
と偉そうなことを言ってみる。
ネタバレBOX
初めてポップンマッシュルームチキン野郎(長いので以下「ポップンマッシュルチキン野郎」とする)を観たときに感じたのは、
「この笑いは、自分が好きやつではない」
ということ。
しかし、何か引っかかるものがあった。
それは「センチメンタリズム」。
「ベタ」と言い切っていいぐらいのセンチメンタリズムだ。
お下品でブラックな笑いの中にそれが確実にある。
だから「もう1回観てみよう」と思った。
そして気がついたのだ。
お下品でブラックなのは、ある種のサービスであり、それをストーリーに散りばめることで、恥ずかしくなって、身体が痒くなってしまうような、純愛だの献身だのといった、本当に言いたかったことを、言えてしまえるということ。
そういう見方をすると、少し合点がいく。
前にも感想で書いたが、どの役者さんも相当個性的ではあるのだが、ヘンにそれを押しすぎないし、例えば、デブだとかハゲだとかと言った一番つまらない「ありがち」なやつを定番的に伝家の宝刀とせず、たとえ自分の出番ではグイグイ前に出たとしても、他の役者のところでは、さっと引き悪目立ちをしない。
そういうところが、きちんと考えられていて、きちんと自分の役割を「演じて」いるのだ。
しかも「演じている」感を出さずに。
これは演出も役者もうまいとしか言いようがない。
作品全体が、おふざけや、その勢いでどうにかしようと思っていないということなのだ。
で、コメディフェスティバルで見せてくれた前作は、持ち時間が短いということもあって、非常にタイトにポイントを突いてきた。
その結果、全体的にバランスの良い優れたコメディになっていたのは、ご覧になった方の記憶に新しいと思う。
そして、今回、今までとまったく違う、大きなサイズの劇場での上演。
正直、どうなってしまうのか、多少の不安があった。
今までの、言わば、声も表情も確実に届くスケールでの芝居とは異なってくるからだ。
しかし、そんな不安感を払拭するように、見事に素晴らしいバランスの作品となっていた。
青春と純愛をベタすぎるセンチメンタリズムが物語を貫く。
自分に自信がない主人公が、中学で一番の女性に憧れ、破れる。そして、自分は己の進みたい道に向かい、大成功する、といったストーリーは、この作品のすべての設定を取り外してしまったら、どこにでもあるような普通のストーリーだったかもしれない。
さらに言うと、自分が憧れていた女性が、誰もがうらやむようなカッコいい先輩と結婚したにもかかわらず、不幸になっていた。しかも自分は超一流のサッカー選手になって彼女の前に現れる。そんな童貞臭い、都合の良いストーリーなのだ。
さらにさらに、彼女を助けるために自己犠牲を払う、なんて!
よくよく考えると、なんちゅうストーリーだ!
でも、そんなベタベタなストーリーであっても、観客がヘンな突っ込みをせずに、ストーリーに入り込んでいける、納得の展開で見せるうまさがあるのだ。
それは、単にお下品でブラックな笑いを入れればいいのではなく、その「バランス」と「センス」がかなり必要だ。
ブラックにしてもお下品にしても、度を超さず、うまく収めなくてはならない。
そこのさじ加減は、かなり難しいと言える。
彼らはそれをやってのけ、自分たちのスタイルを手に入れたと言っていい。
シアターサンモールのサイズで上演しても遜色のないモノだと言ってもいい。
これは彼らの新たな第一歩だ。
面白くって、少し毒があって、だけどホロリとさせる(ポロリではなく)。
それは鉄板でウケるのではないだろうか。
戦略的に考えてたどり着いたのかどうかはわからないが、この路線を続けていけば、マニアな客ではない、普通の面白演劇好きな人たちがお客さんになってくれるだろう。
偉そうに言わせてもらうと、全方向的な客層にウケるのではなく、今までのポリシーを貫き、「これ嫌いだ」という人がある程度いるぐらいの感じで進んでくれたら、とてもうれしいのだが。テレビ放映はできないぐらいの毒はあってもいいと思う。
さらに言えば、もう一回り大きくなっていくには、どうするのか、を絶えず考えていく必要もあろう。
今後を考えると、役者さんたちにも、サイズに合った、演技や発声が求められてくる。
それは実感したはずだ。どうにか台詞を置いてくるだけな、演技的には厳しい役者がいたのだが、それは自分でもわかっているだろう。
ハナ子を演じた小岩崎小恵さんは、少し悲しくて健気なところがうまい。前回に引き続き、他の役者さんたちとは違った次元にいたのだが、今後も同じような設定の役に固定するのか、あるいは冒険するのかが気になってくる。
後白河先生(サイショモンドダスト★さん)、出っ歯(杉岡あきこさん)、主人公の父・清一(NPO法人さん)、ヤドクビッチ(今井孝祐さん)、美しが丘先生(高橋ゆきさん)あたりの役者さんたちは、とてもいいポジションに配置され、自分の役を丁寧に、そして下品に、演じていて、ストーリーを盛り上げていた。
こういう役者さんたちがいて、それはつまり誰か一人が「飛び道具」のようになるのではなく、バランスがあるからこそ、この劇団のこの物語が成立しているのだということも実感できた。
っていうか、褒めすぎたかな。
でも面白かった。
次回も楽しみになってくる。
……そう言えばハナ子って2人も殺してるんですよね。
満足度★★★★★
生ぬるい演劇に飽きた人は見とけ
と言っておく。
ナカゴーのナカゴーらしさが、極まった。
これは凄い、というか酷い。
そう、「酷い」が正しいと思う。
この執拗さが嫌いな人には、拷問でしかない。
シビれた。
ネタバレにはあらすじを、たっぷりと書いてしまったので、未見の方は公演をご覧になってからどうぞ。
ネタバレBOX
あらすじ
浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。浮気しているでしょ。
ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン
コンコンコン コンコンコン コンコンコン コンコンコン コンコンコン コンコンコン コンコンコン コンコンコン コンコンコン コンコンコン コンコンコン コンコンコン コンコンコン コンコンコン コンコンコン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン ポンポコポン
で、丸め込まれる、よく6年も付き合っているな、というカップルの話。
冒頭から聞いているのが辛くなるような、怒声。
狂気の展開。
完全に頭のおかしな女。
最低で非道な男。
そのカップルがホテルの一室で繰り広げる、言葉の暴虐。
わけのわからない暴言の数々。
「店長という言葉を座右の銘として」とか。
まったくわからない。
その場の勢いのような意味のない罵倒言葉の羅列。
これは、是非脚本読んでみたい。
凄い、エッジの先に行ってしまったな、ナカゴーは。
そのエッジが、演劇界の最先端の方向には向いていない、とは思うけど。
生ぬるい演劇に飽きた人は見とけ。
……役者は大変。
どうでもいいことだけど、「ホテル・アムール」って鶯谷に実在するのね。
なかなかのチョイス。
いっそのこと、そのラブホで上演したらよかったのに。
満足度★★★
坂手洋二のアマルコルド
映画的に言うと。
(「映画」を中心とした)「アマルコルド」。
生涯忘れ得ぬ1年。
燐光群の面白さは、リアルで執拗な台詞の濃さがありながらも、そこから、すっと浮遊するように、演劇的な、本当に、とても演劇的な空間を作り上げていくところにあると思う。
それは、どちらかに惑わされるとどちらかが見えなくなってしまう。
ネタバレBOX
誰にでも思い出の年がある。
坂手洋二さんにとっての、その年が「1976年」。
ある地方の映画館で76年に上映された映画を、執拗に辿る物語。
その徹底さと執拗さは、いかにも燐光群。
脚本・演出の坂手さんの個人的な思い出が詰まっている作品。
女子中学生のエピソードのいくつかは坂手さんのもののようだ。
実際、映画好きの学生が集まったら、こんな風に際限なく、映画の話をし続けるだろう。
映画好きなので、よくわかる。
「あの映画はこうだった」「この映画の俳優は、あの映画ではこういう役で…」「監督は…」と、終わることを知らない。
映画の一場面を再現することもある。
この舞台では『タクシードライバー』のラストシーンが楽しそうに再現されいていた。
ほかの作品も、少しだけ顔を出していたりした。
若いこともあるが、自分が心を動かされたコトを、人にどうしにして伝えたいと思うからだ。
その気持ちはよくわかる。
こうして、ココに舞台の感想を書いているのも同じような衝動からだ。
それを共有できる仲間がいれば、なお楽しい。
劇場を出るときに、「どんな映画かわからなかった」「説明してくれればいいのに」と話していた女性たちがいたが、それは違う。
ある映画の喜びを共有して、楽しそうに話す仲間の会話で、いちいち「こういう映画だったね」と説明するのはヘンではないか。
そんな説明しないで、話をするのが普通だろう。
逆に説明をしてしまったら、仲間との楽しい会話の感覚が削がれてしまう。
さらに、どんな演劇だって、映画だって、引用した作品(映画に限らず、音楽、小説等々)について、「こういうストーリーです」みたいな説明を加えるのはスマートではないだろう。
ここは、「そういうタイトルの、そんな感じの映画があって、76年には映画好きが盛り上がったのか」と思えばいいだけである。
もちろん、引用される映画についての知識があれば、なお楽しいのは当然だ。
知らなければ、彼女たち「映画仲間」の外にいる、と思えばいいだけのことだ。
当然、ストーリーに関係してくる、例えば『リップスティック』などは、その内容がなんとなくわかるようにしてある。
つまり、この映画に沖縄が示唆される。
普天間問題が激しい怒りとなったのが、米兵の少女暴行事件。『リップスティック』のタイトルを聞いて、その場から離れた転校生が「何かあり不登校になった」のは小学校高学年ぐらいのこと。もちろん、沖縄の少女と同一人物のはずもないが、あとで語られる沖縄のエピソードにつながっていくのだ。
さらにその彼女は、米兵の家族であるアメリカの少年(このときはそう思っていた)と文通を始めることになる。
話を戻すと、そうした76年の映画の思い出と、中学になってから転校してきた、映画好きな女の子との出会いから、さらに彼女たちの映画体験は大きく膨らんでいく。
大学生たちのサークルや自主上映会の参加、父との関係。
さらに、沖縄へともつながる。
映画という暗闇の中から、外につながっていく、中学生たちの時間が語られる。
76年は、そういう彼女たちの、ひとつのターニング・ポイントだったのかもしれない。
女子中学生たちが主人公であるが、やはり裏にいる主人公は、あくまでも「坂手洋二」なのだ。
だから「坂手洋二のアマルコルド」なのだ(面倒なので『アマルコルド』の説明はしない。『フェリーニのアマルコルド』です)。
現実世界、現代につながっていく先で、坂手さんが一番関心が高いのが「沖縄」ということだから、この作品でも沖縄につながっていく。
映画館、映画と、一見、間口のようにして、実は「超個人的」な世界を描いている。
もちろん、坂手さんには確実で、当然な道筋が見えているのだ。
観客は、その道筋を見て、坂手さんの世界を辿ることになる。
だから、すべてについて説明はできないし、不要なのであろう。
だからこそ、弱点もある。
「沖縄」について、語るシーンだけがやけに解説すぎて、現実に連れ戻されてしまうのだ。
また、幻想的とも言える、蛾のイメージと女性のイメージも、ひょっとしたら坂手さんの体験、または願望なのだろう。
2013年から戻ってくるシークエンスも意味深だ。
しかし、両方ともに、一方は女性の書いた小説、もう一方は映写技師のシナリオだった、というオチは、説明的すぎて、これも冷める。
この2つのエピソードはとても演劇的で面白いと思う。
したがって、具体的なオチを見せなくても、匂わせるだけで十分だったと、私は思うのだ。
「もうひとつのラスト」もこの作品のキーワードだろう。
映画好きが、自分なりのラストを考えるということはよくあるだろう。
それが、キーワードになり、この作品の中でも活きてくる。
何しろ、この舞台そのものが、もうひとつの坂手ワールドでもあるからだ。
映画のタイトルの列挙、沖縄のシーン、いずれも、観客にとっては均一の「想い」があるわけもなく、作品からの「熱」の伝わり方も悪い。
だから、どちらか一方にピンとこなかったり、両方ともにピンとこなかった観客は、視点を失ってしまうのではないだろうか。私は沖縄のシーンがピンとこなかった。
この「超個人的」な作品が、私(観客)の普遍的な意識にまで到達しなかったのかもしれない。
『ここには映画館があった』という懐古的なタイトル。
映画館はなくなりつつあるが、映画館でいろいろ学んだ、ということへの感謝の気持ちもこの作品にはあるのではないだろうか。
それがノスタルジーで終わってしまったようなところが、少し残念ではある。
「映画の中の人は死なない」「生き続ける」という台詞も、少し悲しい。映画(映画館)好きのあがきのようだ。
映画の未来がよく見えないのはわかるが、なにかもう少し「明かり」がほしかったというのが本音だ。
比較的小規模の、町の映画館を模したセットはよかった。
客が入っている映画館、入っていない映画館、オールナイトの映画館、それぞれのイメージが現れていた。
休憩時間以外のほとんどの時間は真っ暗で、ひとりポツンといるのが映画館であり、ひとりポツンといながら、周囲の観客と時間を共有しているという、特殊な空間のイメージも出ていたと思う。
ラストはとても好きだ。
満足度★★
せっかくの設定を活かしきれず
脚本:鄭義信さん、演出が初めて舞台の演出を行う山田洋次さんということで、少しは期待していた。
題材が「映画」ということもあって。
ネタバレBOX
しかし、なんだろ、普通のストーリーを普通に見せただけ。
いや、そうであっても面白いものは面白いのだが、これはそうではない。
ただストーリーを見ただけ。
確かに、新橋演舞場という場での「お芝居」は、幕間にお弁当を食べ、笑ったり泣いたりして、「よかったよかった」でいいのだろうが、もう少し「何か」あってもいいのではないかと思う。
もっと違う見せ方もあったのではないと思うからだ。
終戦間際の満州・新京という設定を出してきたのだから。
たぶん同じ作品を映画で見せたのならば、それなりに面白かったのではないかと思った。
舞台は満州の首都・新京にある満映の撮影所。
作・演が、この2人だし、もっと反戦色というか厭戦色が強くなるのかと思っていたら、意外とそうでもない。
中国人からの日本人に対する想いは、満州にいたことがある、山田洋次さんの想いが反映されているのだろうか。
つまり、中国の人たちから、「日本人でも友だちになれた(日本人にもいい人がいた)」「日本よありがとう。映画を教えてくれて(日本人は大陸で悪いことばかりしてきたわけではない)」的なメッセージがあったように受け取れてしまったのだ。
戦時中に中国にいた山田洋次さん自身を含む、日本人たちの存在意義の確認というところか。
しだがって、日本人に面だって楯突くのは、「麻薬中毒の老人」だけ、というのもあざとく見えてしまう。その老人だって、撮影所の人間の父なので、満映の理事長の力で助けることができそうなのだ。
台詞では「この中にも八路や国民党の手先がいるかもしれないが」とあるのだが、それが見えてこないのだ。従順な中国人映画人だけで。「映画という絆」で結ばれているからそれがないのか。
何も自虐的な歴史観に立て、と言っているわけではない。
「満州国」という歴史の歪な産物の中で、日本人が、満人と呼ばれた中国人とどうぶつかり、どうわかり合い、あるいはわかり合えなかったのか、が物語の軸になるのではないだろう。
したがって、いつかは自分たち中国人の手で映画を撮るために、日本人の下で我慢を重ね働いている中国人助監督と、初めて満州にやってきた日本人撮影助手との関係は、とても大切な要素だと思う。
チラシにはわざわざ「国境を越えた絆で映画に夢をかけた人々」なんて文字が躍っているのだから、現実にあった「壁」をどう乗り越えていったのか、あるいは「壁」はどうなくなっていったのか、が重要だったのではないだろうか。
初めから「映画を作りたい人が集まっているから、つまり夢は同じだから、国境は越えているのだ」というのならば、別にこういう設定の演劇にしなくてもいいだろう。
にもかかわらず、中国人助監督は言葉で「我慢している」「我慢しろ」と言葉で言うだけで、葛藤が見えてこないし、日本人撮影助手から見た満州の実態は、撮影所の食堂が日本人と満人が、食事内容も差別されているということに驚くぐらいだ。
せっかく、初めて満州に来た男がどう変わるのか、あるいは中国人たちが、自分たちのアイデンティティを壊しかねない日本人監督との軋轢をどう乗り越えていったのかが、見えてこないのだ。
中国人の脚本家は、中国人としてはとても受け入れがたい変更を「いつか自分の映画を撮りたいため」に「我慢する」で乗り越えるだけ、というのも悲しい。
「いつか自分たちの映画を作りたい」という希望は、中国人助監督(中村勘九郎さん)と日本人撮影助手(今井翼さん)の2人は共有しているのだが、そこまでの道程が、単なる結果的な台詞だけ。ラストに、初めて合ったときの印象を言い合うのだが、そこまでに至った経緯が見えてこない。そんなにいい関係になったように見えない。
なので、ラストの「ぼくたちの映画に乾杯!」みたいな盛り上がりの気分には正直乗れなかった。
「暗い男」押しの笑いもたいして面白くない。
中国人女優(檀れいさん)は、この映画で有名になりたい、と思っていて、恋人だった中国人助監督から「映画に出ないでほしい」と言われ、満映の理事長に乗り換えていくのだが、そうしたせっかくの設定もあまり活きていないように感じた。
この設定ならば、中国人助監督との関係性から、もっと深みを見せることができたのではないだろうか。檀れいさんは、なんとなくぼんやりした印象。歌は聴かせたし、ネイティブな発音は知らないが、中国語の発音がとてもきれいだったが。
満映の甘粕大尉であろう、理事長の高村(木場勝己さん)も、とてもいい人のように描かれている。「満人のための映画を作りたい」という理想や、映画のためだったら、自分の力を惜しまず使うという非情さも感じられて。しかし、満州国を作り上げた男に対する中国人たちの反抗心のようなものが見えてこないのだ。
「関東大震災のときには本当に殺したのですか」みたいな台詞もさらりと出てくるのだが。
上演時間3時間以上もあるのだから、何人かの重要な登場人物を軸に描いていくことで、いろいろな設定を活かせて見せることは可能だっただろう。
演出は、映画的(演出家の頭の中ではカット割りやアップがされていて)だったように思う。だから空間もエピソードもぽっかりしてしまった。
大監督にこういうことを言うのはなんだけど、もし、また舞台の演出をすることができるのならば、もっと「今」の演劇を観て勉強すべきではないだろうか。映画の頭を捨てて。
小劇場を、とまでは言わないが、もっと刺激的で、観客の心をつかむ演劇がたくさんあるのだから。
ストーリーは、わかりやすい。
ラストは思い入れたっぷりで、長い。
若い2人の俳優は、爽やか。
映画撮影の描写はさすがだ。
それぐらいだったな。
満足度★★★★
夜の部
五段目 山崎街道鉄砲渡しの場
同 二つ玉の場
六段目 与市兵衛内勘平腹切の場
七段目 祇園一力茶屋の場
十一段目 高家表門討入りの場
同 奥庭泉水の場
同 炭部屋本懐の場
ネタバレBOX
十一段目以外は、ご存じの通り「おかる、勘平」関係(笑)が中心のストーリー。
わかっていても泣けるし、六段目などでは「それは定九郎の仕業だよ」と言いたくなってしまう。
……観客にはお歳を召した方も大勢いらして、つい「ダメだよそれは」なんて、独り言を発してしまう方もいたりする。その気持ちわかる(笑)。
勘平役の菊五郎さんがとても良かった。
「六段目 与市兵衛内勘平腹切の場」で、自分がやってしまったことへの悔やみが、痛いほど滲み出ていた。
おかるとの件でしくじって、今度は資金の捻出でしくしってしまったのだ。
武士としての面目を忘れてしまった自分が許せない、という無念さ。
切腹の潔さ。
とにかく、ぐっときた。
もう、この段だけでも大満足。
今回の演目は、どの場でも脇役がいい味を出していた。
自分の良さをすっと全面に出して、くきりと見せるうまさを感じた。
声の通りの悪い役者さんもいたのだが……。
大星由良之助役の吉右衛門さんは、「七段目 祇園一力茶屋の場」での、ラストでくぐっと締める場面はさすがだと思ったが、お疲れだったのか、迫力にはやや欠けたところもあった。
「七段目 祇園一力茶屋の場」では、「あまちゃん」も「倍返し」も飛び出してきて、それがいかにも歌舞伎っぽくて大笑い(笑)。
そして、何度も忠臣蔵を観てきたけど、実は「十一段目」つまり討ち入りは初めて観たような気がする(忘れてるのでなければ・笑)。
十一段目は、20分弱ととても短いのにもかかわらず、セットや衣装が大変だから、なかなか上演されないのでは、と思っている。
しかし、今回は理由があっての上演だと思う。
それは12月の演目を見てわかった。
なんと! 12月の演目は11月の演目とまったく同じなのだ!
昼の部も夜の部も。
ただし、役者が違うのだ。
これは面白い!
11月の忠臣蔵と12月の忠臣蔵を比べる楽しさがある。
ちなみに、国立劇場のほうの歌舞伎も12月は忠臣蔵が一幕ある。
よし、「絶対に12月歌舞伎は見るぞ」と思ったのだが、結局のチケットは取れずじまい。残念無念。
余談だが、先に書いたように、ずっと独り言のように何かを言っていたおばあちゃんがいた。
手傷を負った高師直(吉良上野介のこと)が、炭小屋中に追い詰められて、「えいっ」という声の後、すぐにさらしに包まれた首となって出てきたときに、そのおばあちゃんが、
「仕事が早いわねー」
と言ったのには、笑いそうになってしまった。
歌舞伎座でのこういう感じはイヤではない。お菓子出すのに、多少ガサガサされても構わないと思っている。「菊五郎素敵ね−」と隣の人に小声で話してもいい。もちろん大声は困るけれど、多少のことは歌舞伎だから許せる(偉そうな言い方だけど・笑)。
満足度★★★★
ストラヴィンスキーの3作を上演
どれも30分前後と短い作品だが、それぞれにタイプの異なった美しさと楽しさがあった。
ネタバレBOX
『火の鳥』
華やかで美しい。
プリンシパルの小野絢子さんが火の鳥を演じる。安定した華麗さ。
ラストは大勢のダンサーがシンメトリーに居並ぶ豪華な大団円。
カスチェイのメイクがいい感じ。
カーテンコールでも、そのイメージを壊さない動作がとても素敵だった。
『アポロ』
華やかな『火の鳥』から一転してモノクロの世界へ。
黒一色の、階段だけのシンプルなセットで、ダンサーそのものを見せる。
たぶん、ロシア人がアポロを演じたら、もっと力強いものを見せてくれたのだろう。
しかしこちらは、日本人的な繊細なバレエだった(アポロ:福岡雄大さん)。
特に、テレプシコールとのデュエットは、柔らかく、まるで2人が解け合うように美しかった。
『結婚』
3作の中で特にロシアっぽい振り付け。
ロシアの結婚を見せる。厳粛さ。
群衆で見せるフォーメーションがきれいに揃い美しい。
整然としていて力強さを感じる。
祝宴が終わり、両家の両親がいる部屋から新婚の2人が出て行き、幕。
この部屋のセットと、そこに動かずじっと座るダンサーの姿が印象的。
ダンサーなのに動かさない、という驚きと「画」としての美しさ。
ソリスト&合唱付きの曲もいい。
歌詞はパンフにあるのだが、字幕があれば、なおよかったかも。
確かに『結婚』という作品はいいのだけれども、豪華で華麗な『火の鳥』で終演にしたほうがよかったのではないか、とも思った。
満足度★★★★
栗山民也さんの大胆で広がりのある演出が素晴らしい
日本初演
舞台は八百屋舞台で、さらに上手が下がっている。
オーケストラ・ピットは、ほんの少しだけ下がっている程度で浅い。
さらに管楽器、打楽器群が、舞台の左右に位置する。
作 曲 Aribert Reimann
演 出 栗山民也
指 揮 下野竜也
管弦楽 読売日本交響楽団
原語ドイツ語上演
ネタバレBOX
舞台は八百屋舞台で、さらに上手が下がっている。
オーケストラ・ピットは、ほんの少しだけ下がっている程度で浅い。
さらに管楽器、打楽器群が、舞台の左右に位置する。
そういう配置なので、ピットも浅く、指揮者からも舞台上の演奏者からも指揮者が見えるようにしたのだろう。
35年も前の作品とは思えない不協和音と金属音が響き、硬質な音のオペラ。
その硬質さが、リアとその家族たちの関係を、より冷徹に、かつより非劇として鋭く伝えてくる。
リアの横暴さと2人の娘の非道さがクローズアップされたようだ。
栗山民也さんの演出が素晴らしい。
大胆な照明。
影の演出。
舞台奥からシルエットになって浮かび上がってくる兵士たちや、リアの末娘コーディリアがイメージとして登場するシーンでの真っ白いラインが印象的。
それと対照的にリアの長女ゴネリルの真っ赤な衣装と、それを広げて真っ赤なライティング。
それらがで、舞台に深みを増す。
衣装によっても登場人物の立場をわかりやすく伝えていた。
リーガンの灰色の衣装やゴネリルの真っ赤なドレス、リアが権力を振るっていたときから、落ちぶれてしまったときの衣装。さらに ラストでは、コーディリアの心にリアが触れたときに、リアのコーディリアと同じ真っ白なガウンなど。
私が観たときのリアは小森輝彦さんであった。
重さと威厳を感じた。
エドガー役を演じたカウンターテナーの藤木大地さんが素晴らしかった。
女性のような優しい声なのに力強さがあった。
道化役の三枝宏次さんは、コンテンポラリーダンスのダンサー。
どっとりと歌うオペラ歌手たちの中にあって、その間を軽やかに動き回るという演出も素晴らしい。彼のキレのある動きで、オペラがさらに締まって見えた。台詞の通りもよかった。
それにしても、歌手たちは、あの不安定なところ(斜めに傾斜のある舞台)であれだけの声が出せるのには驚きだ。
作曲者のアリベルト・ライマンさんもいらして、本人も感動したのだろう、カーテンコールでの姿が実にうれしそうだった。
私がこのオペラを観た日は、第二部から天皇、皇后両陛下もお見えになっていた。
満足度★★★★★
これ、好きなやつだ
櫻井智也さんの書くものって、どこか冷めたところを感じる。
どんなに熱くなっても、それを冷めて見ている「目」が必ずある。
それが笑いを生みつつ、何らかの場所に近づいたりも、する。
ネタバレBOX
それがこの作品でも現れていたように思う。
友松栄さんが演じるトモマツは、40歳を超えている。
彼は突然、高校生の時間に戻ってきた。
過去に戻ってやり直したいと思ったこともあったようだが、一番戻りたくない時代に戻ってきてしまったようだ。
普通だったら、それでも20年間彼女なし、高校卒業してからずっと社会とかかわりをあまり持たず、警備員をしている40代の今から脱しようと、なんとかあがくのだろうけど、彼はクラスメイトに言われてもそれをしない。
これには少し愕然としてしまった。
いや、やるでしょ、普通。
なんかするでしょ。未来の自分を変えたいとかなんとか。
しかし、しない。
気がついた。
「ああ、これはMCRの舞台なのだ。櫻井さんが書いているんだ」
と。
トモマツくんを取り巻く2人の友だち、というか、友だちでもなかった2人の存在がいい。
普通の舞台だと、結構いい感じの台詞を熱く語るのだけど、そこは、それ、ここだからそうはならない。
コバヤシくん(小栗剛さん演じる)のことを一生懸命応援するホリくん(堀靖明さん演じる)だけど、自ら自分の気持ちに突っ込む「オレ、やりたいことないんだよね」「やりたくないし」の台詞に「あぁ」っと気持ちが下げられてしまう。
トモマツくんの気持ちをかき立てようとするコバヤシくんに、ホリくんが言い放つ「オマエはだからダメなんだ」という台詞にも「あぁ」っとなる。
トモマツくんの、すべてを諦め切っている、ダウナーな台詞の数々には、ほとんど「あぁ」っとなってしまう。
それって、高校時代のあるある的な感じもあるのだけど、今でも結構痛い台詞だったりもするわけだ。
……ホントに痛く感じる人は、劇場の観客席に来てなかったりはするとは思うけど(笑)。
台詞の面白さを堪能した。
突っ込みとか、冷や水のかけ方とか、超一流。
戯曲もいいけど、役者もうまい。
どうでもいいことだけど、パイナップルにも笑った。
こういう「身体を張る」的な笑いは入れたことなかったような気がするけど、リアクションを楽しむのではないところに力点を置いているから、面白くなる。
友松栄さんが、いろんな人にいろいろ言われ続けながらも、下を向いたまま黙っている時間のあり方が素晴らしい。
すぐに反応、反論してしまうところを、トモマツという人物の性格、内面をうまくトレースしたからであろう。
このもどかしさが堪らない。
台詞の内容、声の大きさだけを見ると、かなり熱い舞台になっているようで、実はそうではない、というところがいいのだ。
ラストのトモマツくんの「自分こそ、ここ(闇)から連れ出してほしい」という、切実な台詞には、ぐっと来そうになったが、そこが実は彼の一番ダメなところだったということだとわかるのだ。
それは、ダテさんとの関係で引き起こされたのだと彼は思っている。
だからこの時代だけは戻りたくなかったのだ。
トモマツくん、優しい人だけど、この台詞でダメな人決定となってしまう。
しかし、演劇マジックである。
どん詰まりに行き着いて、窮鼠猫を噛む的な、絞り出すような内面の吐露に対してには、優しい展開がある(舞台の角に位置させて、トモマツくんの状況をさりげなく説明するうまさ)。
櫻井さんが素敵な(笑)ラストを用意してくれた。
ダテさんとの、恥ずかしい(笑)ラストだ。
彼はこのことがきっかけとなり、一歩を踏み出したようなのだ。
ラストのやり取りからみると、石巻に引っ越した父親も助けたようだし(……こういうアプローチができるようになってきた、ということか)、原発に対しても何らかの行動を起こして、世間的にも名前が知られるようになったらしい。
……結果、結局、ハリウッドで楽しんでいるらしいのだけど。
40代になって、たぶん彼らはほぼ何も変わっていないようだけど、何もない暗闇にいたトモマツくんの気持ち、気分は、それほど悪くはないのだろう。
ホリくんは変わらず、コバヤシくんも、ダテそさんも、たぶん、トモマツくんがいた未来とほぼ変わらないでいるのではないかと思う。
それでも、トモマツくんは「良かった」と言えるのではないだろうか。ハリウッドで満足げに楽しんでいるのではないだろうか。
この舞台に、「だから今を精一杯生きよ」というメッセージはないだろう。いや、そう受け取ってもいいとは思うけど。だけど、万が一高校生に戻ったりしたら、そのときは本当の気持ちを吐露してもいいかな、ぐらいは思えるのだった。
友松栄さん、堀靖明さん、小栗剛さんの3人はとても良かった。友松栄さんの不器用な感じ、堀靖明さんのいつもの突っ込みのうまさ、小栗剛さんの、ダメ人間になっていく男の空虚さの片鱗とか。
本井博之さん演じる父親の、ルーズな感じが見事。ダメっぷりが最高だった。
おがわじゅんやさんの体育教師も笑わせてくれた。
櫻井智也さんの、肩の力が抜けているのに狂気を感じる演技は好きなのだが、冒頭の先生のドラッグ暴走で、自分もたっぷりと楽しんだのではないだろうか。「先生、ドラッグといいうドラッグはすべてやりました」「知らないドラッグがあったら教えてください」めちゃくちゃな設定が楽しい。
満足度★★★★
時間堂&黒澤世莉さん、さすが、いい仕事するなぁ
彼らが取り上げなければ、リリアン・ヘルマンって知ることがなかったかもしれない。
とても面白い戯曲を、真っ向から見せてくれた。
3時間という長時間も苦にならず、あっという間。
正直、この料金は安い。
ネタバレBOX
演劇というものは、不思議なもので、何もない舞台がどこかの場所になったりする。
役者も年齢や性別、あるいは生物の枠を超えて、普通の人がライオンのキングになったりすることもできる。
ただし、それは観客がそれを感じることができて初めて成立するものなのだが。
この戯曲の登場人物は、南北戦争後1800年代末のアメリカ人である。
それは最初の台詞からわかる。
(もちろん、当日配布していた資料にも書いてあるのだが)
で、次々登場する人物たちが、「誰なのか」を観客は推測しながら観るわけだ。
他の登場人物との関係は、とか、年齢とか。
家族の関係は徐々にわかったので、次は年齢の設定だ。
少しキャピキャピしている長女は10代の後半だろうか17、18?、すでに働いている長男は20代半ば25、26?、そして馬鹿そうに見える(笑)次男のしゃべり方は10代半ばぐらい15、16?、そして両親は40代半ばの45、46というところか、母親は若そうなので、ひょっとしたら後添えなのか、などとあたりを付けていたら、ことごとく外れていた。
なんだろう、長女と次男は、いくらなんでも、設定よりも若い演技となっていないだろうか。16歳で従軍した、という時代において。
いや、それぐらいに世間知らずのお坊ちゃん、お嬢ちゃんだ、ということなのかもしれないが。「ナントカ…なんだもーん」という長女の台詞(たぶんあったと思う)のような感じが。次男も、特に食事のシーンでの振る舞いは25歳には見えないのだ(まさか長女より年上だったとは! 笑)。
役者は実年齢とは違う年齢を演じているのはわかるのだが、もっと早めに年齢を確定できないのだろうか。それは「何歳」という具体的な数字が知りたいのではなく、イメージとして確定したいのだ。特に母が長女と近いぐらいの年齢の見た目なのだが、実母であり、50代半ばというのは、後半、それもかなり進んだところでないとわからなかったからだ。
それって「あえて年齢不詳にしている」のではないのだから、役を観客のイメージの中に、早めに安定して座らせてほしいということなのだ。
こうした、じっくりと物語を見せる舞台ならば、なおのことそうしてほしい。
そういう不安定要素もあったのだが、とにかくストーリーが面白い。
ハバード家の家長は、王のように振るまい、子どもたちに利用され、裏切られていく。
まるでリア王ではないか。
親子の確執、現実を知らない、お坊ちゃん、お嬢ちゃんの身勝手な恋模様、ハバード家を取り巻く人々との関係など、豊かな物語が広がる。
黒澤世莉さんがそれを丁寧に見せていく。
役者もいい。
ただし、水を差すような、醒めてしまうようなところもあるには、ある。
例えば、没落家からお金を借りにやって来る娘は、なぜかコメディ的な味付けがされている。
突拍子もない声を上げたり、動きも少し変。演奏会のときにメイクはホッペが真っ赤だ。おてもやんメークというか。
没落して、本当に困ったとしても、ハバード家へ何の抵当もなくお金を借りに来る、というところで、確かに変人っぽい要素はあるのだろうが、やりすぎの感がある。
没落したとはいえ、の、慇懃さのようなところがほしい。
また、現代語をあえて入れているところに違和感を感じた。
「チョー」とか「マジ」とか「ジコチュウ」とか、そんな言葉が連発されていた。
娼婦のシーンでは彼女がそれらを連発する。そんな言葉づかいをしなくても、彼女の仕事や生き様を表現できたのではないだろうか。
これって、1800年代のアメリカ南部の話ですよね。
そこが崩れてしまったら、ストーリー自体も危うくなってしまう。
確かに、アメリカの話だからと言って、1800年代の南部訛りで演技をされても、今の日本の観客が理解できないのは当然としても、また「話言葉」としての台詞は、今の言葉でなければ生きてこないだろうということも、なんとなく理解はできるのだけど、「チョー」とか「マジ」まで行ってしまうと、違和感を禁じ得ない。
ほかの台詞とのバランスもあろう。
確か「じっくりと検討してみよう」なんていう、翻訳モノっぽい台詞もあったように思うし。あと「ごきげんよう」なんていうのは、昼のライオンが出てくるテレビでしか聞いたことがないし(笑)。そんな中での「マジ」とか「チョー」とかは、やっぱり似つかわしくない。
これらが、私の中では、せっかくの舞台を「醒めさせてしまった」要因だ。
とは言え、面白いのは確かだ。
特に好きなシーンは、終わりに近いところで、父、母、長男の3人の台詞が火花を散らすシーンだ。
息を飲んで観た。
長男役の菅野貴夫さん、母親役のセザイミズキさんは、それまでは脇というか、押し殺したような位置づけだったのが、ここで一気に爆発する。
それに対して、王のように振る舞っていた父役の鈴木光司さんがたじろぐ、という構図の見せ方がうまい。
玉座のごとき父の椅子に座る長男、それを上手で見る父、彼らの間を、不安定に揺らぐ母という動きのある構図と台詞の構図。
菅野貴夫さんの演じる長男の執拗な感じ、セザイミズキさんの母の静かな狂気がとてもいいのだ。
ここだけ観たとしても、私は大満足したと思うぐらいだ。
ラストの、登場人物それぞれの位置が、この家族のこれからを表しており、それは実のところ、彼らの本心でもあったというところが面白い。
したたかだった長女は、やっぱりしたたかだった。
長女役の直江里美さんは、お嬢様で、周囲のことは関係ないという立ち位置をうまく表現していて、ちょっとヤな感じなぐらいで、とても良かった。
細かいことだけど、家族の会話を切断するように、使用人や音楽家たちが、向かい合って話している人の間をすり抜けるというのは、本来はあり得ないのだけど、それを演出として入れ込み、家族の会話を見せるというのは、スリリングであり、うまい、と言わざるを得なかった。
このシリーズは、「01」というこなので、次回も楽しみだ。
どんな作家を発掘してくれるのだろうか。
(……当日、私の不手際で受付の方にご迷惑をお掛けしました。すみませんでした)
満足度★★★★★
美しい、とにかく美しい
日本人とフランス人の役者により、日本語とフランス語が飛び交う作品。
どの一瞬も「絵」になる。
「美」が舞台にあり、それが絶えず変化していく、万華鏡のような空間。
新国立劇場で1日だけの公演。
ネタバレBOX
鳴海康平さんが1年間のフランス滞在した成果のひとつであり、滞在中にフランスの俳優とともに作り上げた新作だということだ。
轟音とともに舞台は開く。
聞こえるか聞こえないかぐらいの、微妙なノイズが舞台を覆う。
それが舞台の上の緊張感と違和感を高めていく。
誰とも知れぬ人物がビデオカメラと三脚を手に入ってくる。
そして、上手の机にも人が座り、書き物をする。
彼らは、舞台の中で行われることを、「劇の外」の視点から観察しているようにも見える。
演劇はレイヤーで成り立っている。
舞台の上と観客席の2つのレイヤーが存在する。
舞台の上の時間や場所は、観客席のそれとは重なり合っているが、別物であることが多い。
この舞台では、カメラと書き物の登場人物が出てきたことで、さらに舞台の上のレイヤーが1枚追加された。
彼ら、最初に登場したカメラマンらしき男と書き物をしている男(女性が演じているが)も、戯曲の中の台詞を言うのだが、「舞台の上」のレイヤーへの影響はなく、どこか客観的である。
カメラマンは、「中」の「舞台の上」に向け、まるで自嘲するように、絶えず笑う。彼らは1枚外側のレイヤーにいるようだ。観客はさらにその外側のレイヤーからそれを眺めている。
チェーホフ『三人姉妹』から切り取られた台詞が、時間と空間の隔てなく、演じられていく。
レイヤーという言い方を続ければ、それぞれの時間、空間のレイヤーが目まぐるしく重なり合い、作品を形作る。
観客からは、レイヤーを意識することも、ないものとして観ることも可能だ。
前に観た、『かもめ』では「内側と外側、外側と内側、それらが絡み合っている」と感じたのだが、その手法はここでも発揮されていた。
そしてそれがさらに一歩深まった印象だ。
フランスで得たもの、フランスの俳優との接触で得たものがそこにはあるのではないか。
『三人姉妹』をすべて舞台の上に撮り上げているのではないようで、演出家の手によって、その中のシーンやエピソードが強調されていく。
最初に印象に残るのは「労働」のこと。
三女のイリーナは電信係のはずなのに、彼女の動きはとても重労働に見え、終わりのない同じことの繰り返しのようだ。彼女には労働への理想があったとしても、彼女自身が感じているのが、その際限のない、不毛とも見える、その動きなのである。誰かが話し掛けていても、それは繰り返される。
軍人(男爵? 軍医?)も労働に対してはひと言あるようだが、どこか他人事のように聞こえてしまう。
次に印象に残るのは「数百年後」の世界のこと。
ヴェルシーニンが、しつこく、2、3百年後のことを語ってくる。
その話題がほかの人たちに受け入れられているようには見えないのにだ。
3人の姉妹は、親の残した屋敷に住んでいる。「モスクワへ」といいながらも、田舎の町にとどまり、長男や夫や仕事にうんざりしている。
リゴレットの「女心の歌」のメロディが要所要所で差し挟まってくる。
「風の中の羽根のように……女心」と。それは3人姉妹のことを歌っているようだ。
3人姉妹のところに訪れる軍人たちは、何もすることがなさそうで、やはり毎日をうんざりしているのではないだろうか。
彼らの会話は、時間つぶしにしか見えず、「話のための話」の感じさえある。
ただし、登場人物の1人が客席を向いて、熱っぽく語るシーンだけは、他の登場人物も観客側に向き直ることで、急にこちら側に近寄ってくるとろこもある。
まるで「扉」を開けたようであり、それは、観客側に開いただけではなく、「未来」に開いたように感じた。
つまり、ここがこの舞台のポイントであるように感じたのだ。
この舞台は、日本人とフランス人の役者が立ち、日本語とフランス語の台詞で上演している。
日本語とフランス語で会話が成り立っていて、劇中の登場人物たちはそのことに関して違和感はない。
先の「レイヤー」で言えば、「言語」というレイヤーが、舞台にさらにあるということ。
台詞はすべて日本語と英語の字幕で舞台の後方に表示される。
座席の問題か、私の席からは字幕の前半分が薄くしか見えないので、台詞のすべての文章を読むことはできない。
それだけではなく、長い台詞を早く言われると字幕表示のテンポも速まり、すべてを読む前に次の字幕が出てきてしまう。
しかし、それに対するストレスは感じない。
細かく台詞を読もうという気が最初からあまりなかったからかもしれない。
全部を丁寧に読んでいくと、演劇ではなく、字幕を観に来ていることになってしまうということもある。
『三人姉妹』のストーリーはばんやりとしか覚えてないから、今どのあたりなのかも、ぼんやりとしかわからない。しかし、台詞の「音」と役者の表情、そして全体を貫く「美しさ」溢れる舞台の上の出来事を眺めているだけで、楽しめる。
どのシーンの、どこの一瞬を切り取ったとしても、すべてが「絵」になる。「美」がそこにある。
役者の位置はもちろん、動きもライティングも、台詞さえも、舞台の上の「あるべき場所」に位置しているように見え、それが絶えず変化していく。
万華鏡のようでもある。
それがまた、「動かされてそのポジションにいる」という印象がないところが素晴らしいのだ。
そうした作品を、前半は緊張しながら観ていたのだが、後半からはやったりした気持ちで観て、楽しんだのだ。
細かく台詞を追っていなくても楽しめた。後で「そう言えば火事はあったかな?」などと思ったりもしたのだが。
フランスの役者−−特に次女・マーシャ役の女優さん−−の表情が素晴らしい。
日本の役者では観ることのできない表情を見せる。
それには息を飲んだ。
日本の役者さんたちも、フランスの役者にはできない演技・表情をしているのだろうか、と思った。
最後のほうでマイクを使ったのは、DAIKAIJU EIGAの引用……ということはないか(笑)。
この舞台は、1日だけの上演だったのは、やはりもったいない。
もう1回、別の角度から観たいと思ったほどだ。
満足度★★★★
スポーツのスピード感と爽やかさを感じた
再演。
やっぱりこの作品は好きだ。
ネタバレBOX
個人的には8割世界の中で一番好きな作品だ。
初演のときの感想がコレだ。
http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=101444#divulge
初演とは思い切って役者を入れ換えたり、さらに役も入れ換えた。
台詞も少し手を入れたようだし、演出も手が加わった印象。
今回のチームは、前回チームと比べ身体的な能力の差からなのか、全体的にスピード感が出たようだ。
なので、サクサクと進む。
ダンスも初演から比べると格段にいい。キレがある。
この作品は、構成がいい。
前半の、さえない舞台装置が実は効いていて、野球シーンの展開が楽しくなる。
ダンスと軽快な音楽で試合が進行する演出もいい。
しかし、初演を観ている観客としては、面白いのだけど何かが違う。
初演のチームのほうが、野球が下手に見えたのだ。
そして、下手だけど野球が好きに見えた。ひたむきさ、というか、何というか。
その違いは、やはり身体能力的なことが影響しているのではないか。
舞台の演技としては、今回のほうがすっきりしている。
ムダな大声もあまりない。
前回よりは格段にスマートである。
初演チームは、どこかゴツゴツしていた。初演とはキャラの立て方が違うのだ。
そのゴツゴツ感に引っ掛かりながら、笑いが起こっていたと思う。
例えば、新しく入団する国分も、初演の高宮尚貴さんは、とても変な人だった。
だから、あのトンチンカンな台詞が、変な男の口から発せられるので違和感が違和感にならなかったのだ。ラストの大事なところで大失敗してしまいそうな、不気味さに近い変な感じが出ていた。
今回の国分役は、前回よりもうまいのだけど、そのためか、なんかワザとやってるみたいなそんな感じを受けてしまう。
そして、セルメニョも、初演は違和感のある俳優(笑)・小早島モルさんだったから、違和感が違和感として活きていたのだ。今回のセルメニョ役の小林21種類さんもいいのだが、全体の中に溶け込みすぎている印象だ。
そして、一番問題なのは、今回、元のエースを演じた池添役の小早島モルさんが、違和感のままだったことだ。前回の池添はいじけても可愛げがあったのだが、小早島モルさんが真っ向から出てきているので、池添の印象が大変悪い。
さらに、変な頭にカットしてきたことで悪目立ちをしてしまった。「ハゲ」にこだわったのだと思うのだが、子連れ狼の大五郎カットは、まったく面白くない、というかつまらない。
こういうやり方(見た目だけで笑わせようとするの)はコメディのスタイルとしては、あまり褒められた方法ではないと思う。
ただし、悪いところばかりではない。
助っ人・武士沢役の日高ゆいさんは、初演よりもさらに良くなっている。
今回のチーム全体が運動能力が高いために、それがさらに良く見えるのだ。
ピッチングフォームも演技も堂々としていて、実に「男らしい」(笑)。
さすが「8割世界看板女優」の肩書きだけのことはある(笑)。
演出的には、メインの台詞の後ろで何かしている、という演技がきれいについていて、うまく溶け込んでいたのには感心した。舞台の上の配置・構成が前回よりも良かったのではないだろうか。
また、いくつか台詞や演技に違いもあったようだ。
ラストのセルメニョの顔から色が落ちたところで、「ばれたか」の台詞とドタバタが追加されていたが、これは「何だっかわからない」という初演のときの観客の声からそうしたものと思われる。しかし、個人的には「あっ」だけの、本編とは関係のなところのモヤモヤが残るほうが好きだった。
ついつい、気になったところを挙げていってしまったが、結局のところ、この作品はやっぱり好きな作品だ。
初演よりも「笑い」が少なくなってしまったが、スピード感やリズム感が好きだ。
もし、また再演する機会があれば、さらにブラッシュアップを望みたい。
満足度★★★★★
これは銀河レベルで面白かったと言っていいだろう
「銀河レベル」というのはどれぐらいのレベルなのかは、書いた自分でもわからないが。
そして、銀河にまた1つ新しい歴史が刻まれた……。
とてもくだらないのだけど、とても面白い。
いくつかの「テーマ」となるべき「軸」が、安普請で壮大な銀河の物語を編み上げていく。
劇団鋼鉄村松ファンは必見。
ファンじゃなくても、暇があったら必見。
スペオペ好きも必見。
犬好きも必見。
ビキニ好きも必見。
あ、そうそう、結構笑ったよ。
ネタバレBOX
劇団鋼鉄村松は、いつも詰め込みすぎだ。
とにかく台詞が多くて過剰で、情報過多である。
その中に笑いを潜ませているのだから、タチが悪い。
うっかりすると笑いのポイントを見逃してしまいそうになる。
観劇中は、頭を高回転させるのが必至である。
しかし、今回は頭をフル回転させることなく、わかりやすい。
単に「慣れた」のかもしれないのだが、わかりやすい。
いくつかのエピソードが上手い具合に絡み合う。
エピソードの1つひとつが独立して、それぞれが主人公となっても面白そうだ。
例えば、昔の諺で「最後に宇宙の果てで銃を向け合っている2人が笑う」「おっぱい」なんていうのさえも、作品の中心に据えて全体を構成してもおかしくはない。
例えば、カルヴァン大尉の気持ちの変化や、嫉妬の深層心理を軸にしても1本の作品として十分に成り立つだろう。
そうしたいつくかのエピソードを惜しげもなく盛り込み、それらで中心テーマを立体的にカタチ作っていく。
普通によくあるのは、「ここぞ」というポイントに主人公が、「いかにも」な台詞で観客を「なるほど」と思わせ、「作品のテーマ」を見せるという方法。しかし、そんなありきたりな手法を逆手に取るように、「いかにも」な台詞をさらに「過剰」にして、数だって増やし、「テーマ」の周囲を埋めていくのだ。
新しい皇帝になる、のりおの演説の台詞はもちろん、ヘラの女王の長台詞もそうだ。それ以外にもしつこいほど、「面白い」と「めんどくさい」について登場人物たちに語らせていく。
すでに「面白い」と「めんどくさい」の「二元論」には収まらないことを、誰もか「わかった」上で、さらに突き進むのだ。
二元論的対立を銀河規模で描いているのだが、これは背中合わせであり、裏と表である、ということがラストに向かって述べられていき、結局、両方がほどよくある世界に落ち着くという、当たり前すぎるエンディングとなる。
途中から、いや最初から見えていた、二元論では人間を語ることができない、ということになるのだ。
このわかり切ったことを、銀河規模で描いてみせ、ちょっとした感動さえも与えかねないのだ。「光に背を向けて自分の影を暗闇として生きてきた」的な、数々の大げさな台詞に対してだ。
それが素敵だ。
チープな銀河大戦と、安普請で壮大な銀河の物語。台詞だけは銀河規模。明らかに銀河英雄なんちゃらの影響もあろう。
だけど、「ああ」って思ったりするところがあったりもする。
それは、過剰な台詞の中に一瞬だけ光ったりする。
その光は「私だけ」にしか見えないものだ。
その「光」は人によって違うと思う。それが見つけられたら幸いだ。
複雑怪奇な世界に生きているからこそ、こんな単純な「面白い」と「めんどくさい」の二元論から始まる世界に、「真理」的な何かが見えるかもしれないのだ。
恥ずかしいことだけど、そんないくつかの台詞に対して、劇団鋼鉄村松ごときの舞台(笑)にもかかわらず、ちょっと感動してしまった自分があったりする。実に不本意ではあるのだが(笑)。
あと、結構笑った。
ユウコを演じた小山まりあさんは、声も通るしハツラツさがいい。あと、び、ビキニも……。主人公的な位置づけののりおを演じた村松中華丼さんも後半からがいい。
しかし、何よりもこの2人の若手を、カルヴァン役のムラマツベスさん、ベルカ役のボス村松さんや第二大臣役の村松かずおさんたちなど、そのほかの役者さんたちがきちんと支えていたことが、作品の厚みを増していたのではないだろうか。
そして、村松ママンスキーはずるい。
……犬のベルカって『ベルカ、吠えないのか?』からのネーミングかな。
『ギャラクティカ・めんどくさい。』はバブルムラマツさんの作・演出である。
観劇後、この劇団のもう1人の作・演出家であるボスさんに「とても面白かったです。バブルさんと少し差が付いたのではないですか」とうっかり言ってしまった。
ボスさんは、微笑みながらも、少し寂しそうな目をしていた。
「あれっ、そういうこと意外と気にしているんだな」と思ったけど、どうやら次回作はボスさんの番らしい。「その言葉をバネにしてちょうだいな」と言って、次回作に期待しよう。
満足度★★★★
「外」から「内」へと観客を引き込む話法が鮮やか
新美南吉生誕100年だそうだ。
再演。
初演も観ている。
土間の家という、民家を簡単なギャラリーのようにした会場で上演された。
そこに、奥村拓さんの南吉、根岸絵美さんの南吉、西村誠太さんの南吉、中野あきさんの南吉、今野太郎さんの南吉、観客の南吉が現れる。
ネタバレBOX
10代後半の、自意識過剰で傷つきやすく、妄想しがちな青年の日記である。
本来は見てはいけないものだが、日記というのは誰かに読んでもらいたいという欲求も、どこかにあるのだろう。
彼の心象が(たぶん)事実とは異なり、ねじ曲げられて日記には書かれているようだ。
もっとも、「事実」とは何かと言えば、自分自身が感じたことにほかならず、彼の日記もまた「彼にとっての事実」であろう。
新美南吉の日記が役者によって語られ、この作品の作者の解釈や感想が差し挟まる前半部から、南吉の日記とそれに対する恋人M子の反応という形にいつの間にか移行していく手腕は見事だ。
M子の反応は、あくまでM子側だけのものであり、南吉との「対話」ではない。
そして、M子の反応は、この作品の作者・奥村拓さんの創作であろうから、実は前半部の構造と同じであるのにもかかわらず、前半と後半の遠近感が出て、ゆるやかに後半部に観客は運ばれて、物語の中へと近づくのだ。
初演を見ているのだが、見終わった感想については、まったく前回と同じなので少し自分でも驚いた。
前回の感想↓
http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=165688#divulge
初演との違いはいくつか見られた。
しかし、それは意図されたものではないようだ。
その日、その日によっても異なってくる部分でもあろう。
変化の理由として一番大きいのは、役者が今野太郎さん以外は初演とは別の人ということではないだろうか。
演出をしている奥村拓さんは、技工を凝らして演出するタイプではないと思う。
役者の気持ちを引き出して、作品を共犯者のように作り上げるタイプではないかと思う。
もちろん、これは想像だが、稽古ではダメ出しをすることはないように感じる。
役者が違えば作品の印象が大きく異なるのは当然だが、たぶん奥村拓さんは「役」の「型」にはめることはないので−−今回で言えば、南吉やM子という登場人物の設定に−−その役者近づけることをしてないような気がする。
つまり、役者の身体・感情のほうに作品を引っ張っていくように感じたのだ。
そこでは、奥村拓さんの南吉ではなく、根岸絵美さんの南吉、西村誠太さんの南吉、中野あきさんの南吉、今野太郎さんの南吉が登場するわけだ。
だから、役者の感情の込め方、感情の表し方が初演とは違っていた。
今回は、後半にいくに従い、よりエモーショナルになっていったと思う。
特にエンディングの根岸絵美さんが演じたM子は、台詞の息づかいが会場の外の騒音すらシャットアウトしてしまうような美しさと哀しさがあった。
このエンディングを考えると、初演のときにも書いたが、要所要所でいきなり大声を上げて激するのは、会場のサイズからいっても流れからいっても、あまり良くは感じない。
大声を出さなくても、激した感情は表現できると思うし、なんか違うと思うのだ。
そういう意味で、「作られた」印象の多いシーンは、少し興醒めしてしまう。例えば、フリスクのシーン。もの凄い違和感を感じてしまった。
ラストの窓を開けて見えるシーンは、やっぱり好きだな。
23区内には「民家園」という名称で古民家を残している場所がいつくもある。
区と協同して、そういう場所で上演できないだろうか。
土間の家は残念ながら演技するスペースが小さすぎる。
もっとロケーションのいいところがあるように思えるのだが。
満足度★★★★★
面白いものは何回観ても面白い、のいい例
「ナイゲン」とは、高校の文化祭について討論し合う「内容限定会議」のこと。
すなわち、会議コメディ。
いい歳のオトナたちが演じるのだが、高校生に見えてくる。
去年同じ作品を観ているのだけど面白い。楽しい。笑った。
ネタバレBOX
この作品は、もう1回観たいと思っていたので、早いタイミングでの再演はうれしい。
「面白いから」と人を誘ってでかけた。
一緒に行った人は、「会議の演劇なのか?」「それで笑えるのか?」という疑問や不安もあったようだが、観劇後は満足していた。
私自身は、昨年観たので、ここのあとはこうなる、と思い出しながらの観たのだが、それでも十分に面白かったのだ。
つまり、ストーリー展開の面白さはもちろんあるのだが、それだけではなく、ストーリーを展開していく役者の演技や演出がいいからだろう。
ストーリー自体は、会議の終了間際に予期せずに起こった出来事から展開していくのだが、それが劇中の時間と実際の時間の経過がリアルタイムに進行していくというところで、内容をさらに盛り上げていく。
そして、どのようにストーリーが展開していくのかまったく読めず、意外なところから意外な方向に進み、さらにそれが……という展開には目が離せない。「意外さ」の部分が脚本の冨坂さんの持ち味でもあろう。
うまい戯曲だと思う。
演出も単にドタバタしそうなストーリー内容と高校生という登場人物たちなのだが、そちらにガンガン行くわけではなく、一気にヒートアップしてくるところと、さらっといくところ、短く攻めるところの緩急のバランスが良く、勢いもある。全体に流れるイキイキさと熱量には高校生のような若さを感じる。
今回は、前回に比べセットや客席、さらに観客に配られる会議資料も前回より少しグレードアップしていた。
役者は前回と同じようで、役が役者の身体に染みこんでいるように見えた。
どのキャラクターもいい味を出していて、それぞれの見せ場のようなものもある。
そして、それを外さない。
台詞の応酬のタイミングや声の調子などが、素晴らしいところが何カ所もあり、やっぱり演劇って面白いな、と思わせてくれた。
高校生っぽい、学校側の言いなりにならないぞの暑苦しい正義感のようなものがある「どさまわり」(塩原俊之さん)、マジメだけが取り柄のような議長(甲田守さん)や、「Iは地球を救う」(さいとう篤史さん)の一直線さがクラスでも浮いているんだろうな、な感じが良く、さらに「監査」(沈ゆうこさん)の1人ベストを着てネクタイをきちんと締めていて、堅苦しい感じから、ミニスカサンタへの早い突っ込みにも笑った。「文化」(鹿島ゆきこさん)と「書記」(金原並央さん)の高校生っぽいダルさも捨てがたい。さらに「ハワイ庵」(細井寿代さん)のキャラも熱っぽい全体の中でいい仕事している。
そして、「アイスクリースマス」(淺越岳人さん)の、イヤな粘っこくて理屈っぽい感じは、前回もいいと思ったのだが、今回もさらにイヤな感じで良かった。
去年は、ラストの台詞がイマイチしっくりこなかったのだが、今回は「花鳥風月」(矢吹ジャンプさん)の妙なおっさんぽい(いや、本物のおっさんなんだけど・笑)達観したような感じをうまく出せていたので、違和感はまったく感じなかった。
アガリスクには再演できる演目が多いように思えるが、この作品は、確実に彼らのレパートリーになっただろう。
次に再演してもまた観に行くと思う。
ちなみに前回はこんな感想を書いていた。
http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=161552#divulge
満足度★★★★★
とにかくキツイ舞台だった
いろいろとキツイ。
会話がキツイ。
会話のないところがキツイ。
居心地の悪さはハンパない。
ネタバレBOX
「家族同士の付き合いがあるほどの関係ではない友人に家に行ったら、その友人が家族と罵りあっていて、どうしたらいいのかわからず、とてもいたたまれない気持ちになってしまった」
のような気持ちになった。
とても居心地が悪い。
台詞が痛いのだ。
無言の長さも恐い。
どこで姉が話し出すのか、劇場の空気が凍り付いたようにキンと張った。
他人が他人に向ける苛立ち、例えば、民男(弟)が妻に対して「(民男の実家のあった城下町に)一度も行ったことがないだと!」と言葉を荒立てることは、言われた妻だけでなく、その場に居合わせた人にも辛く響く。
誰の言葉の矛先が自分でないとしても、その場にいる人にはチクチクしてしまうのだ。
たとえ相手を思いやっているような台詞であっても、なかなか額面通りには受け取りにくい響きが絶えずする。
それを受ける側の緊張感までもが伝わる。
頭のいい姉には誰もついていけないが、実は同じように頭のいい弟にも妻はついていけてない。
彼ら姉弟は、気がつかずに自分の身の回りにいる「普通の人たち」を見下している。
つまり、自分たちと同じように考え行動できない者たちに苛立っている。
苛立ちは自分自身にも及んでいる。
あらゆるものに噛み付き、グイグイ、ネチネチと突いてくる。揚げ足を取る。言葉尻をつかまえる。
彼ら2人は、自分がそうしているという自覚はあるのではないだろうか。
頭がいいから、わかっている。
だから、相手の弱り具合までわかっているのではないだろうか。
しかし、サディストというわけではなく、それを楽しんでいるわけではなさそうだ。
楽しくないのにやってしまう。
すなわち、そういう毒が自分の身体にも回ってくる。
そういう彼らの悲しみがうかがえる。誰にも理解されない。
いや、姉と弟にしかわからない悲しみ。
控え目に言って姉のほうは頭がおかしい。
学校という狭い場所にいて、先生という王様になっているから、周囲との距離感や度合いがつかめていないのだろう。たぶんそれがもとで学校を出てきてしまった。
こういう先生はたぶんいる。いや、きっといる。
こんな風に「どういうこと」「どういうこと」と詰問される生徒はたまらない。
姉と弟の、自分を含めたあらゆる方向に向けられた刃によって、ある者は手首を切り、ある者はどうしたらいいのかわからず、途方に暮れる。
しかし、姉と弟のほうは底ではわかり合っている。互いが吐いた毒の中にいることもわかっている。
もちろん姉と弟だから、友人や妻などとは、歴史が違う。さらに彼ら特有の、「頭がいい」世界にいるという共通点もある。
どうやら徹底的にイヤなヤツというわけでもなさそうなのだ。
姉を好いている男もいろようだし、弟も結婚しているし、友人もいる。
ラストで姉と弟が雪が積もっている家の外にプレゼントを拾いに行く様子は、どこか楽しげ。姉弟ならではの、肉親の会話として聞こえてくる。
それを、たぶん寒いであろう家の中から聞いている、妻の心の中はどこよりも寒いだろう。
弟の友人はこの後、彼らと会うことはないだろうが、妻はこの姉弟と暮らすのだ。
彼女は、今までもずっと寒い部屋に1人でいて、これからも1人寒い部屋にいることになるのだろう。
ホントにキツイ舞台だった。
永井若葉さんという女優さんほど、困って泣きそうな八の字まゆ毛が似合う人はいないだろう。額の膨らみまで似合ってしまう。
平原テツさんほど、実はイヤなヤツだった、を演じられる男優さんもいないと思う。妻に対する本音には心底酷いなと思ってしまった。
姉役の能島瑞穂さんは本当に凄まじかった。恐いと思った。
弟の松井周さんも、姉、妻、友人という3人に対する自分の「役割」を見せるというところがなんとも良かった。
劇場から無言で帰宅する感じになった。
満足度★★★★★
被告人の「生の声」とはいかなるものなのか
「実際の裁判記録」を舞台化した作品であり、「実験公演」ということなので、てっきり、リーディングか、それに近い法廷劇になるのではないか、と勝手に思っていた。
しかし、そうではなかった。
約120分の上演時間だったが、面白く、あっという間に時間は過ぎた。
<個人的にオススメする見方>
どれも有名な事件なので、ある程度知っている人はそのまま劇場に行き、当日パンフレットに目を通さずに観劇したほうがいいと思う。
もし、よく知らない事件があったとしたら、ネットで軽く検索して、事件のあらましと被告人についてざっくりと知っていたほうがいいと思う。もちろん、当日パンフレットには目を通さないほうがいいと思う。
なぜ。当日パンフレットに目を通さないほうがいいと思うかと言えば、それぞれの事件のどの部分を、どうやって見せてくれるのかを、直接自分の目で楽しんだほうがいいと思うからだ。
つまり、自分がなんとなく知っていた事件の内容と被告人のことについての知識と、実験主(松枝さん)が見せたい内容との違いを楽しむことができるからだ。
<ネタバレ>は、つい調子に乗って書いてしまったので、もの凄く長文です。
ネタバレBOX
舞台は、当然、裁判の内容をすべて見せることはなく、裁判記録から抜粋した内容である。
したがって、ストーリーとしての「起承転結」があるわけではなく、「実験主」(松枝さん)が膨大な記録の中から、「被告人のナマの声である」と判断したものを舞台にかけたようだ。
したがって、「実験主」の解釈がそこにある。さらに言えば、「登場人物をどの役者に演じさせるか」ということも大切な「解釈」であろう。
その「実験主」の「解釈」と、観客が「自分」の「解釈」とを擦り合わせるところに、この舞台の面白さが生まれてくる。
内容はと言えば、まさに説明文にあるよう「事実は小説より奇なり」だった。
それぞれの事件(被告人)のチョイスも面白かった。
もちろん、時系列として(最初の2本は少しだけ違うが)徐々に過去に進んでいくのだが、被告人が「なぜ犯行に及んだのか」と、彼らの「立ち位置」が微妙に変わっていくことに注目した。
すなわち、「秋葉原無差別殺人事件」は「個人と家族」、「連続不審死事件」は「個人と世間」、「日本社会党委員長刺殺事件」は「個人と国内の左派(狭い意味での国・体制)」、「226事件」は「個人と体制(国家)」、「異端審問裁判」は「個人と神」となっていく。
つまり、「個人」の想いから発せられたものであり、それが「どこから」あるいは「どこまで」及んでいるかという点が、5つの事件では異なり、時代を遡るにしたがって、その範囲が広がっていくのだ。
もちろん、「226事件」であっても、被告人の磯部浅一が生まれた境遇という点にスポットを当てれば、「家」という軸は見えてくるのだが、それでも「秋葉原」の事件とは影響は異なっている。
したがって、一見、簡単に裁判記録から「面白そうなところ」を抜き出しただけに見えるのだが、事件そのものの持つ背景のようなものに、きちんとフォーカスして選んだという点に、実験主(松枝さん)の鋭さがあると思う。
1つのエピソードは、わずか20〜30分程度なのに、実験主が宣言しているように「被告人のナマの声」が浮かび上がってくるのだ。
また、俳優が演じることで、被告人たちは「顔」を得た。「肉体」を得た。
それは、単に実在した人をなぞるように、あるいはモノ真似のように「再現」するのではなく、実験主の「意図」により生まれてきた「顔」や「肉体」だ。
被告人たちが、「ああいう姿」で「あのような語り口」で「あのような話の展開」をもっていた、という、たぶん現実とは違うであろう「ナマ」の姿を見せていたのだと思う。
観客はそれにまんまと乗せられたと言っていい。
先にも書いたが、観客の持つ「イメージ」との擦り合わせが、そこに生じることで面白さが生まれたのだ。
つまり、実在する人物たちを描いているのだが、実験主の意図として被告人を「再現」しているのであって、実在の事物を(モノ真似のように)「再現」しているのではない。だからイメージの「齟齬」が生じるわけだ。
そういう意味では、実験主から見れば、「意図した脚色」と「意図せざる脚色」の合間から生まれた本作品は、「実験劇」と言っていいだろう。
以下、それぞれについて感想を述べていく。
(1)秋葉原無差別殺人事件(被告人:加藤智大)
この舞台は、弁護人と被告人のやり取りを再現している。
役者が出てきて、「これは被告人と弁護人の役者は逆では?」と思ったが、それが実験主の意図だったのだ。
われわれが事件の報道で見ている被告人の容姿が、どちらかと言うと弁護人のほうがイメージがより近い。メガネまで掛けている。
逆に被告人はメガネすら掛けておらず、ここで「モノ真似」ではないし「再現ドラマ」ではないことがわかった。
つまり、そういうことなのだ。これらは「実験主の意図の中にある」ということだ。
被告人の表情を見て、さらに彼と母との関係を聞いていくと、観客の中にある種の感情が生まれてくる。そこが「ナマの声」たる所以なのだろう。
事件については、マスコミの報道しか知らなかったので、その中では「母親の過剰な教育熱心さ」や「過剰な躾」のようなことは聞いた覚えがあったが、彼が受けていたのは、そのレベルではない常軌を逸した「虐待」だったのだ。
これには正直驚いた。
(2)連続不審死事件(被告人:木嶋佳苗)
まるで再現ドラマのように演じられる。裁判記録のはずなのに変だなと思っていたら、ラストに近いところで「ボイスレコーダー」出てきて、なるほど、と思った。
それが裁判記録の中にあったものだったのだ。
ラストでは、脚色が加えられていたようで、被害者の娘は飲み物に薬を混ぜられて、被告人の手にかかってしまうことを暗示させた。
たぶん、この後、被告人の木嶋佳苗についてニュース等で報じられることがあったとすれば、ここで被告人を演じたナカヤマミチコさんの口調を思い浮かべてしまうだろうと思った。
今まで私が持っていたイメージを簡単に塗り替えられてしまったというこだ。
あまりにも「(彼女の世界の中で)普通」すぎているからだ。
(3)日本社会党委員長刺殺事件(被告人:山口二矢)
被告人がいる鑑別所を訪ねた少女と被告人の会話である。
面会室の内容は、裁判の記録として残るわけがないので、たぶん被告人が何かの中で裁判中、あるいは取り調べの中で供述しものであろう(先に「連続不審死事件」のほうを見ていたので、裁判記録とは、単に検察官や弁護人とのやり取りだけではないということがわかったので、そうではないかと察した)。
ここはまさに実験主のイメージが炸裂していたと言っていいだろう。
当時の面接室はどうであったのかは知らないが、ガラス越しの刑務所とは違い鑑別所なので同室で会うことはできただろうが、相手に触れることはできなかったと思う。
そういう事実とは別に、ここで語られるのは「少女が被告人を想う気持ち」、つまり(被告人の証言なのだから)「被告人から見た少女は、自分をどう想っているのか、ということの妄想」であるから、「触れない」ほうが、少年である被告の感情が切なく、よりヒリヒリと表現できたのではないかと思うのだ。
したがって、「触れてしまった」ということは、被告人が抱くイメージ(妄想)を、より「ナマ」にしたとは思うのだが、脚色が少し多かったかなとも感じた。
(4)226事件(被告人:磯部浅一)
被告人と彼の後輩にあたる法務官との会話。
ご存じのとおり226事件だけは、この公演の中で被告人が1人ではない事件である。
その中で、この被告人は多くの将校たちとは違い、貧農の出だというところで特にクローズアップされることが多い。三島由紀夫の著書にも出てくる。
したがって、事件の本質を語らせるには適役だということなのだろう。
被告人からほぼ一方的に語らせることで、彼の理想とその敗北が浮かび上がる。
脚色度がやや高く、毒薬を渡すところなどは裁判記録には残っていないものと思われる。
また、法務官が出て行った後の、被告人の独白ももちろん裁判記録にはないものだ。
当日パンフレットによると、被告人の「獄中日記」も使われていることからそこからの引用だろう。
ラストの被告人の、血を吐くような独白は、彼の主張の肝であったわけで、伝え聞く史実によると、彼は(たぶん北一輝も)処刑のときに「天皇陛下万歳」を叫ばなかったことに通じていくわけだ(彼とは違い処刑された将校たちはそう叫んだらしいが)。それを思わせる叫びであった。
うまい脚本だと思った。
これは、実は次のジャンヌ・ダルク裁判に通じていくようなイメージがある。
どうでもいいことだが、劇中に出てきた北一輝の著書を読みたくなってしまった。まさか実験主の意図通りではないとは思うが……(笑)。
(5)異端審問裁判(被告人:ジャンヌ・ダルク)
先の4つと比べてかなり異色。
被告人と神の使いらしき男との会話。
当然脚色率は高い。
被告人が「異端審問裁判」に掛けられたのは「神の声」を「直接聞いた」ことによる。
なのに、神の使いとの会話という形になっている。
その中で話し合われるのは「被告人が神の声を聞いたというのは嘘であった、ということを認めサインをした」ということについてだ。
正直、神のこともキリスト教のこともわからないが、彼女の中でどのような変化があったのか、あるいはなかったのかが語られていく。
そして、彼女が死刑判決を受けることになる決定的な出来事の発端も、その会話の中でさりげなく描かれていくのだ。
ロウソク一本の演出もいい。
短いのに、やはり面白い。
ただ、個人的な意見としては、ラストも日本の事件にしてほしかったと思う。
「個人と神」という関係で言うならば、江戸時代のキリスト教弾圧のころに裁かれた被告人を扱っても面白かったと思うし、226でも触れられた天皇機関説事件でもよかったのではないかと思った。
この企画、とても面白かった。
できれば続けてほしい。あるいはどれかの事件をさらにクローズアップさせて1本の作品にしても見応えあるのではないかと思った。
満足度★★★★
なかなかの頭脳派(風??)コメディ
電動夏子安置システムのエキスが凝縮された舞台だった。
ネタバレBOX
遺産相続をめぐる争いを、関係者による投票で決めるという設定。
投票用紙には「マイナス2点」があるところがニクイ。
どういう風にこれを理詰めで見せていくのか、つまり、遺産相続で揉めている兄と妹の2者が、関係者をどう説得し、自分の得票につなげていくのかという、理詰めバトルになるのかと思いきや、その展開の舵を握っていたのは、ルールが理解できていない、あるいは自分の持ち札をきちんと見ていないという、単に抜けているだけという人たちの行動だった。
ま、そこがコメディなんだけども。
そして、笑いは、思い込みが激しすぎる、空気が読めないという、何人かの登場人物を中心に起こしていた。
一見、知的で理詰めのような設定を、思いっきりベタな笑いにまぶしていくことで、不思議な世界が生まれてくる。ベタベタな笑いなのに頭脳派なコメディにさえ見えて来る。
遺産相続のゴタゴタは、投票札の取り替えという、思わぬ伏兵の登場がなかなかよく、さらに軽い伏線ののち会社が……というバッドエンドなのだが、揉めていた兄妹はいい感じに、というのもなかなかのベタな展開。
もし、「投票」「マイナスのある投票用紙」という設定なしで、遺産相続のコメディとして見せたのならば、相当ドタバタで、「それはないよなー」という笑いポイントの設定だけで、ベタすぎてあまり笑えない舞台になっていた可能性もある。
しかし、そうはならず、本来アンバランスな関係になりそうな、この設定を取り入れつつも、破綻なく見せていく演出の巧みさ、役者のうまさがあるのだ。
そういう意味で、間違いなく「頭脳派コメディ」だ。
気になったのは、掛け軸の絵解きがもっと効いてくるのかと思ったのだが、そうでもなかったこと、さらに投票札の取り替え判明したときに、映像のようにそのシーンの再現を見せられるわけでもないので、観客に「ああ、あのときか」と思わせるような仕掛けが必要だってのだはないだろうかということ。
こういうベタな笑いと、壮大だったり、理詰めの設定との一見アンバランスな要素を見事にまとめ上げるのが、ここの面白さだ。もちろん今回はベタな笑いが目立っていたが、理詰めで攻めてくる笑いもある。
そういう意味では、電動夏子安置システムのエキスが凝縮された舞台だったと思う。
満足度★★★
こ、この破壊力!
少し残念なところもあったけど、この破壊力とエネルギーで、観客の胸に刻まれたものは大きかったと思う。
ネタバレBOX
<黄金のコメディフェスティバル2013のほうにも「観てきた」があり、こちらの劇団のところにもある。後々の資料的な意味合いも考えて、こちらにも書くことにした。内容は同じ。>
開幕前から楽しい。
「会場内は禁煙です」のつかみもOK。
だけど、もうひとつグッとこなかったのはなぜだろう。
面白い格好すれば面白くなるというものでもなく、身体を張れば面白くなるというものでもない。
とにかく力技の連続で、頭を剃ったり、虎刈りにまでしてくる。
鼻に団子だって詰めてしまう。
だけど、申し訳ないが、その努力ほどの笑いは出なかった。
1回見て、「わっ」って思うだけなので、カツラでも十分だったのではないかと思う。
そんなことに身体を張るよりも、もう少し内容で勝負してほしかった。
身体張るならば徹底的にじゃないと。
ストーリーが終盤まで足踏みしているようで、フォーカスが定まっていかない。
2人の今や落ち目の女性歌手の確執が話の中心になっていくのだが、それ以外のエピソードがそれを支えるようには感じられず、やや散発的な印象を受けてしまった。
もちろんそれぞれのエピソードは、2人の歌手とかかわっているのだが、エピソードがラストを盛り上げていくための仕掛けとしての、積極性に欠けているように感じた。
45分という短い時間の中で、ストーリーの中心にいる歌手のことを、舞台にいる人たちがもっと、こってりと表現してもよかっのではないだろうか。
マネージャーや付き人など事務所の人々、社長という内輪の人たち、確執のある女性歌手とその事務所の人という、いわば敵対している人々、さらに、長年のファン、あまり関係のない司会者など、それぞれの立場から、トイレにこもっている女性歌手について語らせることで、観客のイマジネーションが膨らんでいったはずだ。
それぞれの人の数だけ、その人が存在するから。
そして、それぞれの想いを受け、満を持して登場! となれば、ラストは一気に面白くなったと思う。
終盤で、人が刺され、「自分を必要としている人……」「自分に期待しない……」と言った、いかにもな台詞が出てきて、舞台の上がどよーんとしたあとに、三軒茶屋ミワ扮する歌手の登場となる。
ここがいい。
「帰れ」と言われた若い女性付き人が尋ねたことに対して、「そんなこと知らない!」と放つのがいい。
さらに、その場をすべて破壊するような怒濤のラストに持って行く展開は、もの凄いと思った。
しかし、その登場が、先に書いたように、「満を持して」ではなかったのがとても残念だ。
どよーんとした空気のシーンも長いし。
この歌とダンスの破壊力は素晴らしいと思う。
これだけで、この数分だけで、この舞台は活き活きとして、観客の胸に刻まれたと思う。
だから余計に、それをさらに作品全体で活かせなかったことがとても悔やまれる。
なんとなくだが、他の団体よりも実質的な上演時間長かったかも。
満足度★★★★
2作品とも独特の世界観
私にとって、金コメフェス最後の2本
「楽しいチーム/江古田のガールズ、電動夏子安置システム」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
金コメフェス全体の感想など。
『黄金のコメディフェスティバル2013』はとてもいい企画だった。
10年選手から若手まで、6つの劇団が45分という短い持ち時間ながら、ガッツリと自分たちの芝居を見せてくれた。
しかも新作でだ。
企画の本気度が違うから、劇団の本気度も違ったということなのだ。
結果、バラエティに富んだ作品が並び、どれもレベルが高かった。
後半に行くに従い、満席の回も次々出てきたようだ。
本気の舞台を観て、観客が「いいぞ!」と言って、さらに観客を呼ぶ。
そして、仲間や知り合いの「面白かった」という気のない感想ではない、ニコニコ顔の観客が、会場をあとにする姿を見たりすることによる快感を、今回どの劇団もたっぷりと味わったことだろう。
ほかの劇団のウケ具合も、目の当たりにすることができたし。
それらを知ってしまえば、もっと高みに行くしかない。
だから、今回登場した6つの劇団の、これからが楽しみとなった。
もちろん、来年は『黄金のコメディフェスティバル2014』をやってくれると思う。
本気のコメディでまた大いに笑いたい。
ネタバレBOX
江古田のガールズ『大勝利!』★★★
開幕前から楽しい。
「会場内は禁煙です」のつかみもOK。
だけど、もうひとつグッとこなかったのはなぜだろう。
面白い格好すれば面白くなるというものでもなく、身体を張れば面白くなるというものでもない。
とにかく力技の連続で、頭を剃ったり、虎刈りにまでしてくる。
鼻に団子だって詰めてしまう。
だけど、申し訳ないが、その努力ほどの笑いは出なかった。
1回見て、「わっ」って思うだけなので、カツラでも十分だったのではないかと思う。
そんなことに身体を張るよりも、もう少し内容で勝負してほしかった。
身体張るならば徹底的にじゃないと。
ストーリーが終盤まで足踏みしているようで、フォーカスが定まっていかない。
今や落ち目の女性歌手2人の確執が話の中心になっていくのだが、それ以外のエピソードがそれを支えるようには感じられず、やや散発的な印象を受けてしまった。
もちろんそれぞれのエピソードは、2人の歌手とかかわっているのだが、エピソードがラストを盛り上げていくための仕掛けとしての、積極性に欠けているように感じた。
45分という短い時間の中で、ストーリーの中心にいる歌手のことを、舞台にいる人たちがもっと、こってりと表現してもよかったのではないだろうか。
マネージャーや付き人など事務所の人々、社長という内輪の人たち、確執のある女性歌手とその事務所の人という、いわば敵対している人々、さらに、長年のファン、あまり関係のない司会者など、それぞれの立場から、舞台の上になかなか登場しない女性歌手について語らせることで、観客のイマジネーションが膨らんでいったはずだ。
そして、それぞれの想いを受け、満を持して登場! となれば、ラストは一気に面白くなったと思う。
終盤で、人が刺され、「自分を必要としている人……」「自分に期待しない……」と言った、いかにもな台詞が出てきて、舞台の上がどよーんとしたあとに、三軒茶屋ミワ扮する歌手の登場となる。
ここがいい。
「帰れ」と言われた若い女性付き人が尋ねたことに対して、「そんなこと知らない!」と放つのがいい。
さらに、その場をすべて破壊するような怒濤のラストに持って行く展開は、もの凄いと思った。
しかし、その登場が、先に書いたように、「満を持して」ではなかったのがとても残念だ。
どよーんとした空気のシーンも長いし。
この歌とダンスの破壊力は素晴らしいと思う。
これだけで、この数分だけで、この舞台は活き活きとして、観客の胸に大きく刻まれたと思う。
だから余計に、それをさらに作品全体で活かせなかったことがとても悔やまれる。
なんとなくだが、他の団体よりも実質的な上演時間長かったかも。
電動夏子安置システム『EZ』★★★★
なかなかの頭脳派コメディ。
遺産相続をめぐる争いを、関係者による投票で決めるという設定。
投票用紙には「マイナス2点」があるところがニクイ。
どういう風にこれを理詰めで見せていくのか、つまり、遺産相続で揉めている兄と妹の2者が、関係者をどう説得し、自分の得票につなげていくのかという、理詰めバトルになるのかと思いきや、その展開の舵を握っていたのは、ルールが理解できていない、あるいは自分の持ち札をきちんと見ていないという、単に抜けているだけという人たちの行動だった。
ま、そこがコメディなんだけども。
そして、笑いは、思い込みが激しすぎる、空気が読めないという、何人かの登場人物を中心に起こしていた。
一見、知的で理詰めのような設定を、思いっきりベタな笑いにまぶしていくことで、不思議な世界が生まれてくる。ベタベタな笑いなのに頭脳派なコメディにさえ見えて来る。
遺産相続のゴタゴタは、投票札の取り替えという、思わぬ伏兵の登場がなかなかよく、さらに軽い伏線ののち会社が……というバッドエンドなのだが、揉めていた兄妹はいい感じに、というのもなかなかのベタな展開。
もし、「投票」「マイナスのある投票用紙」という設定なしで、遺産相続のコメディとして見せたのならば、相当ドタバタで、「それはないよなー」という笑いポイントの設定だけで、ベタすぎてあまり笑えない舞台になっていた可能性もある。
しかし、そうはならず、本来アンバランスな関係になりそうな、この設定を取り入れつつも、破綻なく見せていく演出の巧みさ、役者のうまさがあるのだ。
そういう意味で、間違いなく「頭脳派コメディ」だ!
気になったのは、掛け軸の絵解きがもっと効いてくるのかと思ったのだが、そうでもなかったこと、さらに投票札の取り替え判明したときに、映像のようにそのシーンの再現を見せられるわけでもないので、観客に「ああ、あのときか」と思わせるような仕掛けが必要だってのだはないだろうかということ。
こういうベタな笑いと、壮大だったり、理詰めの設定との一見アンバランスな要素を見事にまとめ上げるのが、ここの面白さだ。もちろん今回はベタな笑いが目立っていたが、理詰めで攻めてくる笑いもある。
そういう意味では、電動夏子安置システムのエキスが凝縮された舞台だったと思う。
満足度★★★★★
ポップンマッシュルームチキン野郎のエキスが凝縮
されていたのだが、結果、彼らの「うまさ」がより際立って見えた。
お下品でアブナイ、ネタを散りばめつつの……。
ネタバレBOX
……「純愛」的な、そんなやつですね。
いつものPMCであれば、お下品でアブナイ笑いでグイグイと行き、最後は、ほろりとさせたりするのだが、今回は、お下品でアブナイ笑いのパートは、ぎゅっと凝縮されており、タイトルどおりの「ちょっといいハナシ」が全面にグイと出ていた印象。「純愛」ですよ。
とは言え、体のあちこちから血を流している幽霊たちが舞台の上にいたりするのだけれど。
もともと、PMCの舞台には、芯となる部分には、こうした例えば愛情だったりがあるのだが、どうしてもキッツイ笑いのほうに意識がいきがちで、そういう芯の部分が、やや取って付けたように見えてしまっていることもあった。
しかし、今回は、その両者のバランスがいい。
また、物語の軸となる夫婦の関係をことさら煽るわけでもなく、かといって中途半端でもない、いい塩梅で描いているのだ。
そして、お下品だったりアブナイ笑いのパートは、職人芸のようにきっちりと責めてくる。
これはいつものPMCの舞台でも同じなのだが、今回はそれほど出番が多くない俳優もいる中で、悪目立ちをせずに、きちんと自分を前に出し、笑いを確実に取り、脇に去っていくのが見事で、ホントに職人芸のようだったのだ。
役者も演出の呼吸がわかっている、そんな印象だ。
オープニングで「彼らは何してるんだろう?」の引っ張り方から、ストーリーを展開させるテンポの見事さ。
そして、とんでもなく多い登場人物のコントロールのうまさもある。冒頭も3人姉妹にするとか、幽霊もすでに一杯なのに、原始人の奥さんやマンモスも登場させるとか、それなのに破綻しないし、短い時間なのに無理を感じさせない。
しかも、細かいところまで神経が行き届いているなと感じさせる。
ラストの、長女の相手の立ち位置とか笑った。
今回もお下品でアブナイ笑いは面白かった。大笑いするのが憚れるぐらい。
黒人兵との出会いとか。
※黄金のコメディフェスティバル2013のほうにも「観てきた」があり、こちらの劇団のところにもある。
後々の資料的な意味合いも考えて、こちらにも書くことにした。
内容は同じ。