ここには映画館があった 公演情報 燐光群「ここには映画館があった」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    坂手洋二のアマルコルド
    映画的に言うと。
    (「映画」を中心とした)「アマルコルド」。
    生涯忘れ得ぬ1年。

    燐光群の面白さは、リアルで執拗な台詞の濃さがありながらも、そこから、すっと浮遊するように、演劇的な、本当に、とても演劇的な空間を作り上げていくところにあると思う。

    それは、どちらかに惑わされるとどちらかが見えなくなってしまう。

    ネタバレBOX

    誰にでも思い出の年がある。

    坂手洋二さんにとっての、その年が「1976年」。

    ある地方の映画館で76年に上映された映画を、執拗に辿る物語。
    その徹底さと執拗さは、いかにも燐光群。

    脚本・演出の坂手さんの個人的な思い出が詰まっている作品。
    女子中学生のエピソードのいくつかは坂手さんのもののようだ。

    実際、映画好きの学生が集まったら、こんな風に際限なく、映画の話をし続けるだろう。
    映画好きなので、よくわかる。

    「あの映画はこうだった」「この映画の俳優は、あの映画ではこういう役で…」「監督は…」と、終わることを知らない。
    映画の一場面を再現することもある。
    この舞台では『タクシードライバー』のラストシーンが楽しそうに再現されいていた。
    ほかの作品も、少しだけ顔を出していたりした。

    若いこともあるが、自分が心を動かされたコトを、人にどうしにして伝えたいと思うからだ。
    その気持ちはよくわかる。
    こうして、ココに舞台の感想を書いているのも同じような衝動からだ。
    それを共有できる仲間がいれば、なお楽しい。

    劇場を出るときに、「どんな映画かわからなかった」「説明してくれればいいのに」と話していた女性たちがいたが、それは違う。
    ある映画の喜びを共有して、楽しそうに話す仲間の会話で、いちいち「こういう映画だったね」と説明するのはヘンではないか。
    そんな説明しないで、話をするのが普通だろう。
    逆に説明をしてしまったら、仲間との楽しい会話の感覚が削がれてしまう。
    さらに、どんな演劇だって、映画だって、引用した作品(映画に限らず、音楽、小説等々)について、「こういうストーリーです」みたいな説明を加えるのはスマートではないだろう。

    ここは、「そういうタイトルの、そんな感じの映画があって、76年には映画好きが盛り上がったのか」と思えばいいだけである。

    もちろん、引用される映画についての知識があれば、なお楽しいのは当然だ。
    知らなければ、彼女たち「映画仲間」の外にいる、と思えばいいだけのことだ。

    当然、ストーリーに関係してくる、例えば『リップスティック』などは、その内容がなんとなくわかるようにしてある。

    つまり、この映画に沖縄が示唆される。
    普天間問題が激しい怒りとなったのが、米兵の少女暴行事件。『リップスティック』のタイトルを聞いて、その場から離れた転校生が「何かあり不登校になった」のは小学校高学年ぐらいのこと。もちろん、沖縄の少女と同一人物のはずもないが、あとで語られる沖縄のエピソードにつながっていくのだ。
    さらにその彼女は、米兵の家族であるアメリカの少年(このときはそう思っていた)と文通を始めることになる。

    話を戻すと、そうした76年の映画の思い出と、中学になってから転校してきた、映画好きな女の子との出会いから、さらに彼女たちの映画体験は大きく膨らんでいく。

    大学生たちのサークルや自主上映会の参加、父との関係。
    さらに、沖縄へともつながる。

    映画という暗闇の中から、外につながっていく、中学生たちの時間が語られる。
    76年は、そういう彼女たちの、ひとつのターニング・ポイントだったのかもしれない。

    女子中学生たちが主人公であるが、やはり裏にいる主人公は、あくまでも「坂手洋二」なのだ。
    だから「坂手洋二のアマルコルド」なのだ(面倒なので『アマルコルド』の説明はしない。『フェリーニのアマルコルド』です)。
    現実世界、現代につながっていく先で、坂手さんが一番関心が高いのが「沖縄」ということだから、この作品でも沖縄につながっていく。

    映画館、映画と、一見、間口のようにして、実は「超個人的」な世界を描いている。
    もちろん、坂手さんには確実で、当然な道筋が見えているのだ。

    観客は、その道筋を見て、坂手さんの世界を辿ることになる。
    だから、すべてについて説明はできないし、不要なのであろう。

    だからこそ、弱点もある。
    「沖縄」について、語るシーンだけがやけに解説すぎて、現実に連れ戻されてしまうのだ。

    また、幻想的とも言える、蛾のイメージと女性のイメージも、ひょっとしたら坂手さんの体験、または願望なのだろう。
    2013年から戻ってくるシークエンスも意味深だ。
    しかし、両方ともに、一方は女性の書いた小説、もう一方は映写技師のシナリオだった、というオチは、説明的すぎて、これも冷める。

    この2つのエピソードはとても演劇的で面白いと思う。
    したがって、具体的なオチを見せなくても、匂わせるだけで十分だったと、私は思うのだ。

    「もうひとつのラスト」もこの作品のキーワードだろう。
    映画好きが、自分なりのラストを考えるということはよくあるだろう。
    それが、キーワードになり、この作品の中でも活きてくる。
    何しろ、この舞台そのものが、もうひとつの坂手ワールドでもあるからだ。

    映画のタイトルの列挙、沖縄のシーン、いずれも、観客にとっては均一の「想い」があるわけもなく、作品からの「熱」の伝わり方も悪い。
    だから、どちらか一方にピンとこなかったり、両方ともにピンとこなかった観客は、視点を失ってしまうのではないだろうか。私は沖縄のシーンがピンとこなかった。
    この「超個人的」な作品が、私(観客)の普遍的な意識にまで到達しなかったのかもしれない。

    『ここには映画館があった』という懐古的なタイトル。
    映画館はなくなりつつあるが、映画館でいろいろ学んだ、ということへの感謝の気持ちもこの作品にはあるのではないだろうか。

    それがノスタルジーで終わってしまったようなところが、少し残念ではある。
    「映画の中の人は死なない」「生き続ける」という台詞も、少し悲しい。映画(映画館)好きのあがきのようだ。
    映画の未来がよく見えないのはわかるが、なにかもう少し「明かり」がほしかったというのが本音だ。

    比較的小規模の、町の映画館を模したセットはよかった。
    客が入っている映画館、入っていない映画館、オールナイトの映画館、それぞれのイメージが現れていた。

    休憩時間以外のほとんどの時間は真っ暗で、ひとりポツンといるのが映画館であり、ひとりポツンといながら、周囲の観客と時間を共有しているという、特殊な空間のイメージも出ていたと思う。

    ラストはとても好きだ。

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    2013/11/25 07:31

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