ふつうのひとびと
玉田企画
アトリエ春風舎(東京都)
2015/04/17 (金) ~ 2015/04/26 (日)公演終了
満足度★★★
物語性のある玉田企画劇
この日のアフタートークによばれた歌人枡野氏は、「物語性があった」事が従来の玉田企画と異なると指摘し、それはそれで良いのだが、と前置きしつつ、「物語」の限界性を語っていた。玉田氏はこれまでの思い付いた場面を並べるだけでなく、全体としてまとまりのある物語を描く事を目標にして書き、その苦労があったと述べていた。
私はその「物語性」のお陰で楽しめた。ただそれを(他の芝居のように)貫徹せず、抜いてる所は玉田企画ならでは(といっても前回と今回2度しか見てないが‥)と感じた。
自分の願望を反映した「物語」なら歓迎で、そうとも言えない場合に「物語」への危惧を感じる、という事ではないのか。と、仮説してみた。完成度の高い人情劇は、その架空の設定の中ではリアルであり、現実には見られない事かもしれないが、「あり得る」現実という意味では希望は持てる、的な意味合いで歓迎されるし、演劇は「あった」事として観客の胸にそれを刻むだけの力がある。人間、捨てたものではない、など。この「物語」が、どれだけ現実から捨象するものを少なくとどめられるか、言い換えれば様々な人間社会の困難を含ませ得るか、によって、希望の深さ、感動の深さも違ってくる、という事もある。
だが結局の所、「まとまった物語を作る」という作業の中に、無理を抱え込む面があり、その弊害を枡野氏は強く感じる人なのかもしれない。「嘘」が混じること。
私は、ドラマの完成度について懐疑的な人間だが、感動を求める自分は確実にある。感動が心に何かを刻むのであって、一見何でもない場面でも、その人の中に関連づける何かがあれば、記憶に残る。「物語性」の少ない方が深読みや主観的な解釈が「可能」なのは確かでも、ある場面や台詞単独では心に残りづらい。それは「感動」(感慨とか感興とかぐっと来るとかオッと思うとか)とセットでないからだ。物語はその意味でとても有効なのだ。が、ウェルメイドな物語を指向すると現実から離れるという事も起き、その時間は楽しくても「現実」との繋がりが希薄である分だけ記憶に殆ど残らない、というのも事実であるように思われる。完成度というのは眉唾なのである。引っかかりの無い演劇を演劇と認めて良いのか私は疑問である。
一般論で終わりそうだが・・枡野氏の指摘の通り、この芝居はキャラクターを的確に演じた俳優の優れた働きで、お話の世界がしっかり構築されていた。
DRUMMING(ドラミング)
Rosas
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2015/04/16 (木) ~ 2015/04/18 (土)公演終了
満足度★★★★
怒濤の一時間
総勢12人の挙動を凝視した1時間は、スティーヴ・ライヒの「ドラミング」に圧倒された1時間であると共にダンスがどれだけこれに肉薄するかを凝視する1時間でもあった。
私は対抗し得ていないように見えた。ただし、上手の二階席前方から観たため、斜め上から覗きこむ格好になる。視線がもっと下なら、総勢十二人による単独の動きや複数のコンビネーションが並立して進行し、スクランブル交差点のように中央でぶつからずに擦れ違ったりする様などが「凄い」と思わせたかも知れないと思った。
ミニマルミュージックの大御所とか、代表的作曲家などと言われるスティーヴ・ライヒの事も、ミニマル‥のほうも恥ずかしながら今回の公演で知るまで良く知らなかった。ミニマルと言えば単調な、同じフレーズの繰り返しというイメージ。しかしスティーヴの音源を聴くと斬新である。「繰り返し」というので電子音楽を想像するとこれが違う。件の「ドラミング」(1971)は複数の演奏家が交替しながら寸分違わぬアンサンブルで1時間、スティックとマレットを振り続ける「演奏」である事に醍醐味がある。曲は4景あり、太鼓(ボンゴ)→ビブラフォン(木琴)→グロッケン(鉄琴)→太鼓と演奏楽器が変わり、ボイスが入る部分もある。1拍が1秒と少し、これを12分割した12連符がドラミングの一貫して流れるリズムだ。速めの6拍子+ウラ拍子付きとイメージされたし。6である所がミソで、リズムの相がコーラスを重ねるごとに少しずつ変化して行く。ウラを含めた半拍を6とし、1打=6と表記すると、2+4(タタン)や2+2+2(タタタ)が同系、これに2番目、6番目のウラが混入しても同系だが、4つ目が入って来てこの音が強くなると3+3(1.5倍のタンタン)と違う相になる。太鼓にはチューニングの高低があり、木琴鉄琴にも勿論あるので「微妙な変化」のグラデーョンは細かく2拍か4拍ごとに変えて来てるんじゃないかという程、常に動いている底知れなさが「ドラミング」にはある。
1997年初演だというローザスの「ドラミング」はどうか。開演時刻の前から3、4人の踊り手が袖に近い所で客席の方を見るともなしに見て立っている。まだ始められないの?と待ってる風にも見えるが、多分このように隅に待機する人も舞台上に居る演出である事を示すものだろう。床はチラシと同じ朱色で、横長に敷いたリノリウムが余って巻かれているという案配に、色んなサイズの土管型の円筒が袖近くに置かれてある。装置といえばそのくらいで、邪魔のない広い舞台を用いる、踊り主体の出し物だと知れた。
その踊りは、意図的なのか(西洋発だから)自然なのか、バレエ的だ。よく走る。渦形に曲線を描いて中央へ走り込んだり、周縁に走り出たりが頻繁にあり、定位置で振りを踊る人も居る。どんどん入れ替わる。「歩く」所作も混じるが、よく駆ける。駆けると跳びたくなり、跳べばその瞬間に手足を広げたくなる(バレエ)。身体をひねれば手がそれに付いて回る。二人が近づけば絡まり、ほどけ、時に抱え(バレエ)、下ろす。それらは人間の動きではあるが「自然」に属し、これに対し「意志」を感じさせる動きは、時々見せるが少ない。しかし全体として自然との調和などを表現しているとは思えない。音楽の「ドラミング」は続く。ソロっぽい動きが一人スポットを浴びる瞬間があったり踊りの「相」も変化し、似た相に回帰しても完全な回帰でなく変化している。最初、舞台奥に横長に切り取られた照明の中で踊り出す女性は、イメージ色の朱色を淡く染めたドレスをひらめかせるが、彼女が主人公という訳でもなく、ただ終盤で同じドレスの色が濃い朱色になっていたりする。そこに大きな意味はない、ただ「変化」が表わされる。唯一の黒人が激しく立ち回って女性とのデュオを踊りまくる、という場面や、一人際立った衣裳の女性が登場してソロをやったり、延々と続くドラミングのリズムの中にそれらは組み込まれているが、何か物語的な意味を持つ訳ではない。全体の大半を占める場面は、あちこちで踊りが展開し、小さな焦点が移動し、人が入れ替わり立ち替わる、特に緊張を強いるでもない場面の繋がり。踊り手たち皆が共通に持つ「動き」のパターンの範囲内で事が繰り返されるので、バックの「ドラミング」がなければよく判らない(それ自体で出し物にならない)時間を味わわされる事だろう。曲相は、第二の木琴で柔らかになり、鉄琴(高音を使う)に至って微細な塵を追うようになり(ここでチラシの束をバサリと落とす音が一階席から聞こえてきた)、第四のドラムで一転、激しいラストへ向かうが、この最後の相でこれまでの「範囲に収まった」動きから大々的に変えてくる事を期待したが、それはなかった。しかし演者の掛け声は増え、最後にカットアウトで「ドラミング」が終わる瞬間、照明の当てられる奥のリノが巻かれた筒が上手からくるくると転がり、男性がそれを足で止める瞬間に重なる事で終幕を表現した。
個々の動きを目で追うより、全体を感じる、というのが正しい見方だったかも知れない。が、上から覗く視線だとどうしてもそうなる。個体の識別がしづらい「横からの角度」で見るのが、正しいかも知れない。
踊りは言わずもがな、生まれ育った文化という固有の背景をまとうが、バレエが基調である彼らの「語彙」を一定理解した上で、その語彙を持って表現しようとしているもの(見ている先)を感じ取る事が肝要であったかな、と後から思いもした。だが日本に棲む自分には難しい。終演後踊り手の荒い息づかいが聴こえ、カーテンコールで3度の呼び戻しがあった。果たして観客が本当にそれほど感動したのか正直なところ疑問だが、曲の「ドラミング」の迫力は否めず、踊りは少なくともこれに背反せずかつ迎合しない両立を探っていた事は確かだ。異質との遭遇は色々な事を考えさせられる。
ウィンズロウ・ボーイ
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2015/04/09 (木) ~ 2015/04/26 (日)公演終了
満足度★★
遠きかな20世紀。初のラティガン戯曲
英国では戦前から戦後、劇作家として一時代を築いた人だそうな。その地位を揺るがしたのがかの『怒りをこめてふりかえれ』(56年)とか。時代は変わる。折しもピケティが戦後暫く続く格差縮小期を(資本主義の)例外的な時代と知らしめたが、50〜60年代に世界各国で火を吹く‘正義’を求める若者の行動は、その例外的に「真っ当な」状況をテコにしてこそ、更に突き詰めた「真っ当」を求め得たという、一つの現象と見れる。冷戦、核競争の大状況を背景にした強権的政策は、無法な戦争を経てようやく実現した国連や人権宣言、民主化の流れと、矛盾をはらみながら共存して行く。この欺瞞的状況から「怒れる若者」の動きが対抗的に湧いて出てくる<前>の時代に、良質なドラマを提供していた人が、ラティガンという事である(聴きかじった話)。日本で言えば、戦争期をくぐって戦後に我が世を謳歌した「新劇」が、60年代鋭い批判対象になって行くのに似ている。
恋愛喜劇からシリアスな社会ドラマまで書いたらしいラティガンは、エンタテインメントでありながら社会的背景の中にリアルな人物を描き出す、という良き戯曲の見本のような作品を世に出すが、この「普通に正しい」演劇が時代遅れになって行く流れは、不可避だったのだろう。
『ウィンズロウ・ボーイ』の「判りにくさ」は、それと関係している気がする。あらぬ嫌疑を掛けられた息子の名誉を挽回するために、立ち上がって行く父親と家族の物語だが、タッチはややコメディ(これは鈴木演出か)。その中からじんわりと感動が湧き上がってくる、ような所を狙っているらしい。だが肝心の嫌疑にまつわる不幸を、人物たちがどう受け止めているのかがよく見えない。恐らく書かれた時代の通念が前提とされていて、そこは説明しなくても判る事になっている。ヒントになる台詞があって聞き漏らしたのかも知れない。何か色々喋っていたが、役者の身体に落とし切れていないので、存在から漂ってくるものを理解の足がかりにしたくてもそこがうまく行かない。ぼやっと見てると判らなくなる。
戯曲のほうも、ぎゅっと締めるべき「キメ台詞」が、意外性を持たず、ガッカリする局面が幾つもあった。「キメ」のために大上段に振りかぶるのでなく、日常抱いているものを詩的に表現する、という具合になら処理できそうではあったが、台詞に詩的響きが希薄で(どうにも説明的でならない箇所が幾つか気になった)、味わいようがない。翻訳が古いのか、訳の文学的センスの問題か、戯曲の問題か。
‥と言いながら、実はラスト数分を所用で割愛せざるを得なかったので、評する資格はないかも知れない。が芝居は大団円に向かっていたし、この段で心をさらう台詞を置けるならもっと前にやれただろう‥。
時々、新国立劇場主催の舞台に感じる、どことなくおざなりな印象がもたげ、企画そのものにも疑問がよぎる。
『浅い河床の例え話』/『島棚』
東京ELECTROCK STAIRS
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/04/03 (金) ~ 2015/04/12 (日)公演終了
満足度★★★★
第一部:振り付台詞劇/第二部:演劇的舞踊
前半と後半それぞれ1時間前後の出し物、休憩を挟む。第二部(ダンス)が本領で、演じ手もユニットのメンバー5人。掛け持ちは居らず、第一部は8人位で皆20代〜30代前半と見える。第一部は風変わりで、絶叫と駆け足の無いミクニヤナイハラ、と言えば伝わるだろうか。人物が一つのボールを転がして行くような具合に、イメージのバトンタッチをしながら台詞を繋げて行く。そのリズムと、発語に付随する動き・踊りがユニーク。喋る台詞(テキスト)そのものは、ある日初めて筆をとって想念を綴ったような青っぽさがあるが、コトバと、動きの連想ゲームを最後まで追わされ、ピリオドもしっかり打たれていた。人数が多く、動きも複雑なので、発語する身体の具合を感じ取るには私の座った席は遠く、1、2列目で見ればまた違った感じを受けたかも知れない。
圧巻は「本領」と言った第二部で、5人が入れ替わりに踊ったり揃って踊ったりマイクを持って喋ったり、歌いもするが、バックに流れる音楽や、弾き語りのような歌は皆手作り感たっぷり(使った楽器はせいぜいカシオの電子オルガンという感じ、だが計算なのかリズムを刻む打楽器音がジャストから微妙にズレて生っぽさがあり、それが手作り感、というか脱力スタイル(からの絞めでキメる)を作っている。5人の中の黒一点が主宰の健太郎氏、歌は声からして氏のようだ。緩急の鮮やかさと、様々な局面を繋いで飽きさせない流れは第一部にも通じるが、圧倒的に躍動感を伝える5人の踊り手の力量は、自分は舞踊には素人だが、特記しても構わないだろうと思う。踊り手が個々に持っている技術というより、個性、身体から放たれる魅力が、「つい見てしまう」理由で、それを引き出す内容(台本の代わりに譜面でもあるなら譜面とでも言うか)でもあった。
音に戻るが、他の者が作ろうとして作れない独特のリズム、アクセントの置き方は全て「踊り」から出ていて、ダンスとセットで生み出されているようだ。だからこそ<流暢>なパフォーマンスが実現できているのだろう。凡その舞踊は音(音楽)と共にあって、音と拮抗した踊りが良いように思える。
石のような水
映画美学校
アトリエ春風舎(東京都)
2015/04/10 (金) ~ 2015/04/12 (日)公演終了
満足度★★★★
俳優修練の成果と言える。
2013年F/Tで初演された松田正隆氏の書下し+松本雄吉(維新派)演出の‘鳴り物入り’舞台を観ていたので、何やら難解だった芝居をもう一度見返したさで観劇に臨んだ。きっと背伸びした舞台に違いないが、問題はその度合い・・と期待不安半々だったが、大作に挑んだ力作であった。(但し、二度目がちょうど良い、とは言えるか。)
開演すぐ。丁寧な作りに素朴に驚く。俳優は手練の風格さえ。松田正隆の「間」「行間」に語らせる会話がきちんと辿られ、詩的というか哲学的、網羅的?な戯曲の世界がじわじわと立ち上がる快感に浸った。こんなに判りやすい話だったろうか?というくらい幾つかの男女関係の顛末に終始していると言えば終始した「メロドラマ」。だが記しておきたいのは舞台に立ち上がっていた、この架空世界の空気、匂い、色、終末観に近いそれらだ。交わされる言葉の中に意味ありげな哲学的な問いが紛れているが、会話は成立していてその関係の中から出て来た言葉に感じさせている。だから「難解」なのかも知れない。
登場人物はそれぞれの関係でのエピソードを抱えながら、どこかで接点を持って繋がっており、その接点も含めて全体が、社会の断面として見えるようである。その社会とは、近未来、あるいは遠未来か・・ある事象が謎を投げかけているものの、モードは殆ど現代。「どこか、こことは別の世界」への憧憬よりも、「今」を映し出そうとする強い衝動からの、SF的設定と感じる。
・・隕石の墜落によって出来た巨大な穴=ゾーンという立入禁止区域があり、ここに入ると死者に会える事があるという。ゾーンへの案内人が存在し、つてを辿って時々、ゾーンに入りたいと依頼者が来る。案内人は親から子へ受け継がれるものらしく、秘められた仕事のようで公然と行なわれている風ではない・・というのがその設定。二人の依頼者がゾーンへ入って行くエピソードも進行し、哲学的な<?>がこの劇を色濃く染めて行く。人物皆そうだが、特に中心的人物の一人であるマイナーラジオ番組のDJの女性の謎めいた性質が、場面を追うごとに徐々に妖しさを放っていく。『惑星ソラリス』(タルコフスキーと聞いて思い出した)と、言われてみれば通底するようだ確かに。心地よさは反芻したくなる。よく仕上げたと思う。
闇のうつつに 我は我かは
演劇集団 Ring-Bong
サイスタジオコモネAスタジオ(東京都)
2015/03/28 (土) ~ 2015/04/05 (日)公演終了
満足度★★★
戦争は青春を描く禁断のキャンパス
まず一般論から。「戦争」を描いているようでいて、それが話を盛り上げる背景、あるいはドラマの従属品に過ぎないような作品は数多ある。無益で非合理な戦争の実態をあぶり出す「意図」はあっても、時代を生きる「人間」は美しく描きたい、人間を信じたい、己の祖先を悪し様には描けない・・こうして戦争の「醜悪」と掛け離れたファンタジーに収まる、というパターンも多々あるだろう。書き手の「良心」は疑わないけれど能天気にしか思えない「よくあるパターン」の一つは、十五年戦争や戦争体制の時代を想起させるキーワードを織り込み、あとは観客の中にそのイメージが滲み出すにまかせるやり方。観客は何となく厳粛な気分にさせられる。「それも有りでは?」と思われるかも知れない。だが「先の戦争」や「戦前」に対する既にある社会的記憶にオンブして、自身の「解釈」が語られないのは何も語っていないに等しい。しかもそれは現状を追認する行為にとどまっている意味で、ある見方からすれば害悪だと言えなくない。
日本での「戦争」に対する最大公約数的なイメージは原爆、空襲、食糧難といったもので、確かにこの社会的記憶を折々に喚起することは、人の命に厳粛な思いを至らしめる時間の提供という意味はあるだろうし、現状では最善だと考える道筋も分らなくない。だが「被害」に偏った社会的記憶を誘引するだけでは、変化は起こらない。
そもそも戦争を忌避する理由は「殺されない・苦しまない」事のためでなく、まず「殺さない・苦しめない」事のため、であるべきだ、と思う。後者を理由としてはじめて、かつての日本が「被害を受ける」前に行なった累々たる「加害」が無視できなくなる。敗戦直後の日本人は戦争に「負けた」責任を為政者に問うた。無策を問責したのは良いが、では勝っていれば良かったのか。いずれにせよ日本は敗北を抱きしめて戦後を歩み出した。心地良い「被害の歴史観」に浸ってきた日本人だから、自国の行なった非道の事実を否定する論は今、相変わらず喧しく、また罷り通っている。
例えば、演劇をやるために「戦争」を語るのか、戦争を語らざるを得ない状況だから演劇を手段に選んだのか。二つは似て非なりといえども、同一創作者の中では折り重なり同衾していることだろう。
しかし戦争を語る芝居を見るとき、私はこの点を見極めずには居られない。で、恐らく、的確な評価眼を持つ人はそこに演劇の質がかかっている事を見抜くだろう。
そこだけ整理しておきたい。‥戦争は「事実」に属するが、ドラマにとってはその深刻さに価値があり、しばしば利用される。そしてその重みは「事実」である事に裏付けられている。ただ、現在「事実」は公然と揺るがせに遭ってもいる。また演劇も、必ずしも事実でなくとも「事実という事にして」仮想の話として楽しめてしまうエンタメの要素を持っている。「戦争」に関わる事実の場合、事の性質上、当然ながら事実性が重要になるが、エンタメの成立のために「戦争」が消費されるに等しく扱われる場合でも、批判を覆して余るだけのメッセージ性、感動のある作品になっているかの評価の秤にかけ、「事実の裏付け」の欠陥を不問にできる場合もきっとあると思う。だが「事実」である事の重みに着目してドラマに活用するのであれば、事実の真偽、その意味、それらに対する解釈を、せずに過ぎやることは許されないと思うのだ。
長大な前置きになったが、今回の「闇のうつつに」は如何。
劇団昌世(チャンセ・韓国)「ソレモク(雪害木)」
一般社団法人 日本演出者協会
タイニイアリス(東京都)
2015/04/02 (木) ~ 2015/04/05 (日)公演終了
満足度★★★
さよならタイニイアリス
毎度の事ながら迷った果ての到着。近辺を巡り、チラシを持って立つ女性のお陰で通り過ぎずに済んだ。タイニィアリスの名を知ったのは02年頃だったか。初めて訪れたのがやっと数年前の事だが、いつかは迷いに迷って観劇をフイにした事も。昨秋どっこい生きてる黒テントを目撃したのが二度目、今回三度目にしてやっと地理を把握したと、悦に入った矢先に閉館を聞かされるとは‥。
で思い出したのが「たいにいありすで〜」と、ある役者志望の若者の口から出た奇妙な劇場の名、ここでやる事は何か通常でない意味を持つ、的な響きを含んでおり、その声色も耳に残っている。2006年頃、アサヒアートスクエアで中東の紛争当事国から招び寄せた劇団の公演があったが、主催がタイニイであった。代表の女性が「これからも頑張って行きます」と挨拶した調子から、ああ、お金にならん事やってるんだなと悟った。韓国新人戯曲の上演プログラムには、昨年も今年も行けず終い。なのに終わるのか。終わるのですね。
‥そんな事情もあってだろうか、この日は狭い客席の中に演劇関係者の顔が幾人も見られた。
えらい前置きになったが‥、芝居について。韓国での新人発掘の意味合いの強いコンペで受賞した劇団(活動2013〜)と作品だという。コンペを主催し、今回推薦もした韓国の演劇団体代表によれば、完成度より挑戦する姿勢、従来にない新しさ、が要因との事。初日。スマートな作りではない。初めての海外公演で、演出者は30代だが俳優からの転向で演出歴だけ見ると浅い。今回の公演のどの局面もが、初めて尽しなのだろうと想像された。要素要素を取ってみれば評価に値する・・例えば俳優の技術、また状況・関係性を凝縮して見せる場面、はあるが、時間経過と共にある芸術=演劇が持つべき「謎かけ→謎解き」の心地良い積み重ね・積み上げが、今ひとつ実現されていない。字幕の翻訳の問題もありそうだが(日本人が監修していないのは明白)、そればかりでもなさそうだ。
ただ、演劇としてのある種の試みがそこでなされている事は知れる。
話は現代、ある農家の屋内が、程々写実的に設えられた舞台装置を使った一場だけのリアルな芝居だが、そこで飼われているらしい動物たちが踊ったり掛け合いをしたり、単に「リアルに」存在したりと、ファンタジーと言おうか異化と言おうか、奇妙な効果を出している。動物たちは人間達を見る「眼」の役目と、自らも人間界に翻弄されて行く「ドラマ内」的存在という微妙な立ち位置だ。
俳優らは達者ではあるが、新劇風なベタ演技に見える所があったりもする。目を引くのは動物たち(鶏、豚、山羊、犬)の尋常でないリアルな形態模写。これを見るだけでも楽しめたりするが、ドラマのプロセスを見て行くと、そこだけ楽しむ感じにならない。「眼」にさらされて進行する人間たちの物語は、日本で言えば過疎問題、都市と地方の対立を扱ったものだ。韓国らしく?家族問題を前面に押し出している。ドラマを構成する要素は平凡だ。ただ夫婦間、兄弟間のやり取りでふと見せる行為やしぐさに「韓国的」を感じる。恐らく作者が吐露する「古き良きもの」として、それらは仕込まれている。だから所作を愛おしく感じて正解だ。母の老い先を案じて、というより道徳的義務のように呼び寄せようとする長男。韓国ドラマの典型のような設定だが、母子関係の彼我の違いも大きそうだ。末息子の嫁と母のきしみ、兄と弟の喧嘩、祖母を巡って父母と対立する孫娘。地方を搾取して都市が肥え太る古今東西変わらぬ仕組みが、まず息子らを都会(ソウル)へ追いやり、そして家主である母もこの愛おしい場所から連れ去ってしまうという、珍しくない結末が用意されている。
アクセントを与えているのは動物らだが、リアルな形態模写モードから、一挙に振りを踊ったり、擬人化して(離別の事態を回避しようと)議論する場面もある、にもかかわらず、芝居はファンタジー的結末を用意しない。リアルを離れたモードにはなってもドラスティックに擬人化せず、抑制的。カタルシスを追わない代わりに、悲しい現実へと観客を突き放す効果を採るところに、作者の狙いがみえる気もする。
ラスト、冒頭と同じ詩が女性の声で詠じられる。バックには吹雪の音と映画『西便制 風の丘を越えて』で流れたテーマ曲の別アレンジが流れる(元が民謡なのかオリジナルの映画音楽かは不明)。激情(恨=ハン)を詠った詩は、今や韓国でも遠くに思う精神なのだろうか。その詩に触発されて劇を作ったという青年演出家を、日本に置きかえて想像してみると、確かに希有な存在ではある。
十二人の怒れる男たち
俳優座劇場
俳優座劇場(東京都)
2015/03/25 (水) ~ 2015/03/31 (火)公演終了
満足度★★★★
ザッツプロデュース公演
俳優らしい俳優を取り揃え、その競演ぶりを楽しんでもらうのが料金の内実である公演。俳優とて人間、演技がうまくても付き合いのそう無い人と技術のみでアンサンブル醸すのは中々困難だ。逆に技術がなくても集団としての緊密さが濃厚な舞台空間を作り上げる事もある。このどう足掻いてもインスタントさを免れないハンディを、埋めるだけの技量、存在感を持つ俳優ゆえに成立するのが、逆に言うとプロデュース公演。そういうものである事を感じる舞台だった。平均年齢は高い。演技は新劇に属する。作り込んで自然に見せる演技が、日本でないアメリカ、しかもちょっと古い時代のお話に、合っている。陪審員の密室協議の劇だから設定上は一期一会、従って俳優たちの実際の状況(一定期間おつきあいする事になった)に合致するが、その事が「活用」されていたりするかと言えば、ない、というのが新劇的演技のそれたる所以なのだな、とも感じる。定番のような演技で、舞台の世界を成立させ得ていた要素が、俳優のオーラ、存在感。もっとも技術を駆使するよりは、スタニスラフスキーシステムの薫陶を潜りきってる人達だから「リアル」である事が目指されている模様だ。実はこのリアルには予め限界設定がある、そういう新劇系の所作には先が見える感が漂うものだが、それでも見入ってしまうのはこの優れた戯曲の顛末をやはり追ってしまうからだろう。そういう客の心も踏まえた分りやすい演技、気味の良い演技が目指されていた、とも言えるかもしれない。台詞を食って「しまった」的な仕草がつい出たり、これは決めていたしぐさで自然の流れに任せたのではないな、とか、限界も見えたが、追わずにおれないのがこの「十二人の話」。そこは堪能したし、老練の域に達する俳優たち(ばかりでないが率が高い)が台詞も噛まずテンポも弛まず見せる熱演には、芝居そのものとは別の意味での感慨を起こさせる。これもまた演劇なるかな・・?
現代能楽集 クイズ・ショウ
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2015/03/20 (金) ~ 2015/03/31 (火)公演終了
満足度★★★★
来たっ!!
当たりである。燐光群の真骨頂。
『屋根裏』がお好みだった向きには、久々にこの系統の作品です。公演は終っても薦めたいこのもどかしさ。<クイズ>という様式を問いながらあらゆるものをぶち込んでエッジが鋭い。意味のよく分らない哲学的な問いも詩のように響くのは「クイズ」という一本の軸があるからだろう。現代能楽集とあり、複式能の説明も出てくるが、劇全体としては、人類の営みへの後の世からの追悼の目線が、ほんのりと浮かび上がるのがそれか。新参の役者の割合も多く新鮮だった。
十二夜
青年団リンク・RoMT
アトリエ春風舎(東京都)
2015/03/11 (水) ~ 2015/03/30 (月)公演終了
満足度★★★★
青年団(系)俳優もやるな
作・演出で芝居を見る自分にも癖になる俳優、気になる俳優が現れて来る。控えめな(あまり感情を露にしない)青年団の芝居でも存在感をみせる俳優が居り、彼らがしっかり起用されたRoMT版「十二夜」は、やっぱり青年団と思わせる要素が多々。俳優の本当の力量は見えないが(台詞の抑揚が意味と違ってたりもするが)、この芝居の世界が作られている、と感じた。テンポよく作ってると予想していたが、たっぷりな演技もあり2時間40分超え。十二夜だのに、まさかのカーテンコール無し。
やり尽されたシェイクスピアを、どうやるのかが作り手にとっての勝負だが、この舞台では口語の用い方に特徴があった。訳は河合祥一郎。そのまま喋れば訳語の文体に絡めとられた演じ方になりそうな所、台詞を噛み砕いて口に慣らし、台詞は台本のままでも発語の感覚が「現代」になっている、という技を繰り出すのだ。行き別れた兄妹の妹のほうが兄に似せた男装をしており、瓜二つで周囲は見分けがつかないという設定ゆえ、普通あり得ない寓話を成立させねばならないが、演技は勿論演出的工夫が各所にあって客をうまく乗せている。役の見せどころ、笑わせどころでは、役者がしっかりと仕事をしていた。
ABCDEFGH
ENBUゼミナール
シアター風姿花伝(東京都)
2015/03/27 (金) ~ 2015/03/29 (日)公演終了
満足度★★★
ラウンド・ミッドナイト
enbuゼミの名を冠した公演がやっと見れた。FUKAIPRODUCE羽衣の作・演出者がそれと違う面を見せるかが関心の一つであった所、同じだった。グロいエロ話もさらりと語らせるのが特技。爽やかに歌い上げれば不倫も清純な恋。どのエピソードでも登場人物らの関わりが、手間をかけずして<対の形成>、性的イメージに飛ぶ。H系の話題に急角度で切り替わる。こりゃ、性欲高揚状態が常態な人の仕事だと確信しても客に罪はない(勿論当て推量)。
擬人化した役の制限ない自由が舞台世界のルールを広げ、とりとめの無さがのぞくが、糸井楽曲+木皮成振付の踊り/動きがつなぎ止めている。曲が表現するのはちょっとした恥じらい、日常のささやかな場面をポップに虚飾してみせる若さ、健気さだ。踊りと同じく「歌」も技術にばらつきあり、音痴だったりするがそれでも成立させる、おトボケ風味の歌、直情に寄り添う歌。
珍しく影のある台詞が、一箇所。場面を想念する主役らしき男が<湯気>となって町へ出て行き、目にする最初の光景は10階が2階で9階が1階、元の1階から8階までは地面に押しつぶされたビルだという描写。そこだけ意味深な一節を挿入している。全体的な心情の背景になっている感もなくはないが、謎解きがある訳ではない。
「変化」は語られる。若かりし頃の二人でない、など。ハンターをバイトでやってる(ブラック企業を無理矢理暗示?)男が、ライオンの家族にむしゃむしゃ食われる場面も。
しかし、どういう訳か対立は描かれない。せいぜい性の営みを盛り上げるための戯れ喧嘩。殆どが、同調する台詞だ。これがもどかしい。ひねた私には、「これが大人。皆もそうだよね」と平和主義の押しつけ感あり。
しかし楽曲と踊りが全てと言って良い作品で、上演1時間半が長く感じたのは奇妙な動きを動きづめの俳優のパフォーマンス密度の賜物?でありましょう。
劇中流れる既製曲は、セロニアス・モンク作演奏のピアノ。
悪い冗談
アマヤドリ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2015/03/20 (金) ~ 2015/03/29 (日)公演終了
満足度★★★
カタルシス、発見、いずれも薄い
絶望のお話。よどみない眼差しで人間の真実(残酷さ、醜悪さ、身勝手さ)を見すえた時、果たして人の未来に希望を見出せるのか? と問うている。反語的疑問だが、希望は見出せていない。絶望の仕方がゆるいからだと思う。資本主義にしろ新自由主義にしろ「自由」が「悪」を不可避に孕む事実を知っても、人は自由を選ぶだろう。そして悪は無くならない。終盤で男が結語のように語る台詞の意訳だが、そこに収斂する各シーンになっているかと言うと、関連がいまひとつスッキリしない。場面の作りも中途半端でその中途半端が意図的なのか‥それにしては隅田川繋がり(花火見物に絡むシーンが幾つかある)からの東京大空襲の描写はえらくシリアスで感情移入を促している。だが、爆弾を投下した兵士はつまらない動機でこれをやったのだろうと、皮肉にしては力なく陳腐な、敵愾心の対象にしたい「意図」による解釈の落ち。韓国、台湾から来た男女をそれぞれ囲む会話のシーンでは、植民地時代や歴史問題に触れる部分もあるが、それでどうという展開はない。意図的に会話を「深めない」ようにしたのか、あれで結構深めた事になっているのか、それさえ分らないが、いずれにしても自らの側の加害を掘り下げて初めて見えてくる風景を、無意識に避けていないか? スタンレー何とか言う、人間の服従心についての有名な実験の再現はいいアイデアだと思った。が、残念ながら問題が浮き彫りになるように作れていない(これは単に技量の問題かも知れないが)。妹を殺された姉が服役囚の下へ通うが「罪」を問題にしているようで自分が何をしているのか分らなくなる対話が、何となく人間の限界を暗示しかけるが、全体の中に埋もれてしまって残らない。被害と加害の対立は厳密には解決出来ない(歴史を救うのは忘却だ)、という部分に着目した感じは受ける。しかし今や道徳や倫理が通るにはその土壌が必要であって天から授けられる訳ではない事は、現状を見れば十分で、強調する意味があるのか。もやもやした日本の現実をそのまま舞台に上げてみた、というには先述したように空襲の逸話が被害体験として浮き立っている。個が国家に寄り添うのは自主、民主の意識が脆弱になった時だが、被害意識の共有はその端緒になる。そうなりかけてる現状を突き放してこの劇は見ているのでなく、それを結果的に促していないか。突き詰めきっていない感が否めない。
鑪―たたら (残席僅か)
劇団青年座
青年座劇場(東京都)
2015/03/20 (金) ~ 2015/03/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
役者。ウェルメイドを突き抜けて
ストレートプレイの見本のような芝居。役者のうまさ。皆青年座だったんだ。やっぱし、やるな。終幕で並んだ7人が少なく感じた。早船聡の本、伊藤雅子の舞台美術。リアリズムで感情表現がストレートでそこをエンジンにテンポ感を出すタイプ。感情の激する生身の身体ゆえか、若干の台詞間違いも、気づかせるが乗り切るに十分の情動が舞台に流れている。キーマンとなる職人役(山本龍二)が場の撹乱要因、これと旧知で自らの家族問題も進行中の不動産屋(山路和弘)が全ての人物と関係して全体をアンサンブルする。
終盤の台詞。作家の仕事に感服す。
黒塚
木ノ下歌舞伎
こまばアゴラ劇場(東京都)
2015/03/11 (水) ~ 2015/03/22 (日)公演終了
満足度★★★★
面白し。接ぎ木のしつらえ
不足感なく、満腹感もなく、もう一度観たいと思えるおいしい芝居、おいしい時間。安達ヶ原の老婆が「古き」時代の人、旅でたまたま立ち寄った4人が「今」の若者(一応修行僧の設定)。あたかも現代人が山かどこかで異界を覗いたという構造に、ハッとする。歌舞伎らしい活劇と期待して行った「黒塚」は殆ど能であった(黒塚は能の演目でもある)。能は寂れた場所を訪れた僧が、かつてその土地にあった事件(戦乱等)で肉親を失った霊(老婆の姿で現われる)に出会い、語りを聞くうちにその事件に思い当たり、成仏させるべくお経を上げるや老婆は舞いを舞って思いの丈を語り、ようやく成仏するというのがお決まりのパターン。ハッとしたのは、老婆の歌舞伎(能では謡い方)口調があからさまであるにも関わらず現代人は語意を読み取ろうとだけする、傍目(観客の目)からは彼らが一種異界に訪れた事が判る演出をみて、ああ、もしや(本家の)能に出てくる僧も当時は現代人、「昔」に属するものと出くわす非日常がドラマであったのだな。という発見だ。
亡霊と鎮魂、歴史的悲劇とその昇華、といったテーマを読み取って現代に当てはめた現代能を目にする事があるが、木ノ下歌舞伎は構造だけ抜き出して現代物をやるのでなく、飽くまで「黒塚」のドラマ世界の中で、如何に「今という時間」と融合させる事ができるか、を考えているように見えた。要素分けすると二つあって、一つは僧たちの「受け」が純朴、信頼、鈍感の側に徹しているので老婆の謎めき、醜悪との対照が非常にくっきりとして面白くなっている。もう一つは(歌舞伎の演出は知らないが)能の重要な要素である「舞い」に相当する踊り、音曲(青春哀愁調?のラップも登場)、そして歌舞伎に顕著な「型」が集団で行なうリアクションの部分に型のような動きが表現法として織り込まれていたり。もちろん重要なのは俳優。夏目慎也、大柿友哉、福原冠がそれぞれのキャラをフルに活用した僧役を演じ、老婆に操られてハイテクのダンスを披露する北尾亘はよく見れば判る小さな旗を持つからおそらく案内人で独自、そして「歌舞伎の人」でない(後で知った)武谷公雄の完コピのような歌舞伎風喋りと動き、これらがちょうど良い群像を形作って愛着を湧かせた。芝居じたいが古きと新しきの遭遇で、彼ら(我々も)現代人からの「古き」作品へのオマージュという構造にもみえる。木ノ下歌舞伎の独自さが充満し、古典に引きずられた瞬間は一秒もなかった。
第三帝国の恐怖と貧困
東京演劇アンサンブル
ブレヒトの芝居小屋(東京都)
2015/03/12 (木) ~ 2015/03/22 (日)公演終了
満足度★★★★
ブレヒトの言葉は舞台で聴け
東京演劇アンサンブルのブレヒト第一作だったという。60年を刻んだ今も軸のぶれない劇団が<化石化>しない理由は、傑人ブレヒトの言葉にあるのかも・・と、言えるかも。『第三帝国の恐怖と貧困』の言葉はゴツゴツとして画家のデッサンのようなストイックな噛み心地がある。亡命者ブレヒトの<遠きにありて>筆に込めた思想、情念の結晶。『三文オペラ』他の長編が(書かれた時期は早いが)脂の乗った円熟をみせるのと違って、どの言葉もヒリヒリと抑制された鋭さがある。本作に収められている長短の独立したシーンは、1933年ヒトラー政権奪取直後からのドイツ国内の特定の地名と特定の年に起こった出来事として書かれている。判りづらい箇所も多いが、それは背景となっている時代状況や固有名詞が判らないからでなく、この作品に際立っているブレヒト流の修辞の複雑さの為せる所と思う。
さて舞台。今回初だろうか、主役を張れるベテラン俳優の演出で、三方の客席に囲まれた「路上」を演技エリアとし、薄くまだらな客電が演技中でも灯るなど独特な照明も印象に残る。(戯曲にない)ブレヒトの詩、群舞等を織り交ぜた構成も悪くなかった。音楽は多用されていないが折節に印象的な曲が生のピアノで奏でられる。特にジャズ風の曲が中盤で艶っぽく場内を潤し、効果を上げていた。劇団挙げての公演、特に若手俳優が多数出演し、前半ではベテランとの力量差であろう「シーンの判らなさ」があったが、なべてこの重厚な劇をよく作り上げた事への感動が湧いてきて、終劇後も去りがたいものがあった。
この時代をどう見るかでブレヒトの言葉の響き方は違って来るかも知れない。否。「どう見るか」以前に「見えない」自分がおり、だから聴きたいのだと思う、本当の恐怖の時代に<笑>を(笑の許される土壌を)鋤き耕し掘り出そうとした、彼の言葉を。
誰も見たことのない場所2015
ワンツーワークス
赤坂RED/THEATER(東京都)
2015/03/13 (金) ~ 2015/03/19 (木)公演終了
満足度★★★★
秀作と認めぬ訳には。高自殺率のこの国で・・
1-2ワークス観劇は、同じドキュメンタリー・シアター『息をひそめて』以来2度目と思っていたら、どこかで聞いたな「ドキュメンタリー・・」と思い出したのが数年前に観た『トーク・トゥ・テロリスト』、見返せば演出=古城十忍と。1-2ワークス「絡み」の観劇はドキュメントばかり3作目になるわけであった。
最初に不評をこぼせば、『トークトゥ‥』を観た時(翻訳テキストという事もあってか)話を追えなかったと共に、占部房子のあまりに激しい演技の方向性(=役との同一化)に無理を感じた。シリア内戦がタイムリーに苛烈だった『息をひそめて』にも感じた「違和感」を考え合わせると、演じる主体、作る主体の<当事者性>の問題に突き当たる。難題ではあるが、爆撃や逃避行の<大変さ>は幾ら追求しても追いつかない限界がある。その「追いつかなさ」を語る事でしか、<大変さ>は立ち上がらせる事は出来ないのではないか‥。ある事実と我々(の日常)との関係、距離感の告白こそが社会的トピックに飛びついては離れる浮薄さに気づかせるものではないか・・そんな事を考えめぐらしたものだった。
が、今作は私達がその渦中にある事象をめぐる、インタビュー集である。誠によく書けている、と言いそうになるが「よく集めた」が正しい訳である。もっとも、取材と作品の関係は多様でフィクションかドキュメントかという二分法など意味がない。逆にドキュメントと銘打つ「意図」を探る目で舞台と向き合うよう促される。
今回は過去の「ドキュメント」とは打って変わって「近い」。役者の立つ位置が近いのか、語る中身が近いのか・・よく見えて判りやすい。素直でオーソドックスでストレートな演技をもって、客席側のインタビュアーとのダイアローグが繰り広げられるのが印象深い。隙をさらすような演技だが、多量、かつ重さのある情報がその媒体を通じて、水を飲むが如く入って来る。子を慈しむ親に似たり、自らは損をかぶる(?)芝居。観た者は次の日、まるで端から知っていた事のように知識を身につけていて、舞台の事は忘れている・・きっと茶飯事なのだ。
自殺を「個人」でなく社会的要因において理解する問題群と取材対象がきっちりと網羅されたテキスト。リストカッター、アルコール依存症者グループ、鬱の彼女を持つ青年、といった人物が「自身をコントロールする困難」を体現し、まさに「個人」(自分自身)に帰せられない「何か他の要因」が背面にしっかり象られていく。
2015年版ならではの話題として、過払い金云々のCMや学生奨学金、また現在は多重債務等の経済的要因による自殺が減ってきている事など、アップデイトされた情報が盛られていたことも、再演ながら<現在劇>の成立した理由だと思う。
三人姉妹
地点
KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)
2015/03/09 (月) ~ 2015/03/22 (日)公演終了
満足度★★★★★
<ジャズ組曲>
どう表現して良いやら困惑する類の衝撃。一度観なきゃ判らない<地点>をこの1年の間に3作ばかり続けて観たが、今回のはこの劇団の特徴(最大のそれは台詞を不自然な音節で区切って言う)が、一番判りやすい成功の形を見せている舞台ではないかと思った。昨秋の「光のない。」(KAAT神奈川芸術劇場)の壮大さには触れる言葉すらなく、どちらが優れているかという比較の問題では元よりないが‥。
地点版「三人姉妹」は、元の戯曲を全く知らないと難解を極めるに違いない。ただし、テキストが紡ぐ「物語」と、舞台上で繰り広げられる俳優の身体によって起こされる(台詞の発語も含めた)「事態」とは、何一つ関係を持たないと言い切って誰も(演出も?)文句は言わないだろうと断言したい位「並行」し「自立」している。「テキスト」と「舞台上の事態」の両方の波長が同調したり奇妙なマッチングを示す事もあるが、両者はそれぞれに屹立しているのだ。地点はよく古典を舞台化するが、戯曲紹介として優れた舞台と言える舞台とも違い、よく知られた古典戯曲の<懐を借りて>遊ぶ姿勢を超越している。否、遊んではいるが、土俵は<地点>の側のそれなのである。
観客の目、「物語」を肯定的に捉える人には恐らくこう見える‥「自然な表現術を奪われた人間(俳優)」を通して語られる事によってテキストの底にある感情や生命力が圧縮され、エネルギーそのものとなって放出される(その想定の中では、俳優の立つ瀬はテキストにある)。逆に「物語」に懐疑的であれば、これを解体するパフォーマンスと理解する事も可だが、こちらの結論は陳腐に思える。「舞台上の事態」がテキストに依存していなければ解体の必要が生じない。
<地点訛り>の発語について、俳優それぞれの個性に応じた確立のされ方をしている事に、今回気づいた。つまり、地点はずっとこれで行くのだ。地点訛り(否、<地点語>と言ってしまったほうがインパクトを伝えやすいかも知れない)は方法論として既定路線となっており、俳優はそれぞれの地点語を、幅を持つ表現のツールとして育み続けている。その成果を最大限発揮する場としての、三人姉妹であったとも言えるか知れない。
演出者が当日パンフに、この作品にまつわる「リアリズム」の語を指して地点の舞台も正に「リアルだ」と書いていた。俳優にリアルに語らせてしまうテキストの持つ力の事を言ったのか、「これが我々のリアルだ、ははは」と笑っているのか、判らない。ただ、こんなのリアルじゃない、と言った瞬間「リアルとは何だ」との問いに答えられない自分が居る、事だけは確かだ。
とにかく俳優は動きづめ、場面は複雑に変化して休む事なく、1時間半と思えない密度だった(もっと長いかと)。笑った。
独りぼっちのブルース・レッドフィールド
ポップンマッシュルームチキン野郎
シアターサンモール(東京都)
2015/02/22 (日) ~ 2015/03/01 (日)公演終了
満足度★★★★
そこは新宿シアターサンモール
客席のゆるやかな傾斜が本多やPARCOの感じに似て、そのひと回り小さめのシアターサンモール(客席300程度)は新宿中心街から少し離れた、ビル地下なのにプチ・ゴージャスな劇場らしい劇場だ。通路に並ぶ客演・渡辺徹あての祝い花の豪華さ、送り名の豪華さはさすがというか。以前チラ見した時の劇団の「風貌」とはえらいギャップだが、この華やいだ祝祭の空気は狙って出せるものでない。
開演前のステージではギター、ウッドベー、ドラム+1で外タレのロック曲を演奏、と思いきや、エアである。芝居にバンドは出てこないが、芝居中この光景が既視感のように重なる部分がある。パフォーマンスもそこから発想されたのかも知れない。ただドラムがひっしと叩く8ビートのスネアがなぜか<裏>でなく<表>に入り、音楽をやる人間なら普通これはギャグに属するが、そう意図してるふうでもない。ギャグとマジ(自然)の境界のぼやけ具合が以前「チラ見」した同劇団の舞台にあったのをかすかに思い出した。そう私は未知の劇団の「正体」を発見しにやって来たのだった。
普段「役者」より「芝居」を見ようとする客だが、冒頭板付きで登場する渡辺徹の役割をどうしても追ってしまった。客演のスタンス、渡辺氏の出自であるリアル(新劇系)演技は運命に翻弄される主役の役柄に最終的にはフィットし、(笑いに絡む場面もあるにはあるが)貫徹して良かった、とは思いつつ、役の心情をもっと劇的に熱演で表現する位があっても良かった気がした。
もっとも、ドラマのほうはラストが決まれば「全て良し」なうまい作りがされている。復讐の物語の敵対する存在が対峙してのやりとりの終わり、一方が投げた問いに他方が逡巡したのち返した一言、その答えを聞いた相手のリアクションの、陰影を切り取るように照明がアウトし、フィナーレ・・。
このラストが残すものは多様でメッセージ性もあり深いテーマを含んでいる。が、そこまでの深みを受け止めた観客がどれだけ居たかどうかは未知数だ。というのは、憾みとして、シリアスに見るべき部分とギャグと荒唐無稽な設定の関係の整理を、観客に強いる面が残っているように感じたからだ。
penalty killing【18日14時追加公演決定!!】
風琴工房
ザ・スズナリ(東京都)
2015/02/12 (木) ~ 2015/02/18 (水)公演終了
満足度★★★★
サロン・ド・風琴
劇団名で観劇を決めるときは役者陣をチェックしてない事が多く、今回はフタを開ければ実力派俳優が揃っていた。甲高い声が響くと思えば文学座の粟野史浩、また金成均、森下亮(クロムモリブ)、岡本篤(劇チョコ)、他にも見た顔、そして見ぬ顔が並んでいるが、総じて、身体能力を評価されて参集したと思しく誇らかに上気する熱度が伝わってくる。リンクに見立てた装置が役者のエネルギーに蹴散らされぬよう耐えているかのような錯覚をおぼえた。
舞台は地方のアイスホッケーの公認プロチーム。実話である原作を元に書かれたようだが、女性の手による「男だけ」の芝居が、えらくよく書けている(詩森ろば作品は「Hedge」と今回の2本しか知らない)。元の話を尊重したリアリズムな芝居だが、スポ魂物のエンタメ性も追求され、焦点は彼らの高邁な精神性にあるが、出来過ぎの感あるストイックな格好よさにほだされてしまう、そういう類の演劇は思えば希有で新しいジャンルかも知れない(映画や劇画には多々あるに違いないが)。人情劇の成立する(観客の涙を誘う)セオリーがある如く、スポ魂劇の「ぐっと来る」ツボというのもあり、じんと来るけど人情劇とは違うタイプの「じんと来る感動」の形があった。
演技エリアとなるアイスホッケーリンクを挟んで両側に客席があり、ちょうど観戦エリアの具合。いつもは急勾配を感じさせるスズナリが、平坦にみえたのが新鮮だった。
ハムレット
新宿梁山泊
芝居砦・満天星(東京都)
2015/02/13 (金) ~ 2015/02/22 (日)公演終了
満足度★★★★★
古典との最も良い距離感覚
「ハムレット」を堪能した。劇団アトリエ「芝居砦満天星」の決して広くない制約ある空間をフルに駆使し、華麗で自在な場面転換で息付く間もなくドラマが展開する。この梁山泊版ハムレットの、何が蠱惑的に味わいあるものに押し上げているか、うまく説明できないが・・役者の佇まいが良く、妙に現代的翻案やギャグを多用したりせず、原典に忠実に見せながら、どこかドラマとの距離をとっている点かも知れない。
驚きは音楽の選定で、劇中歌と一部の音楽以外は頻繁にある外国のフォークグループの曲が流れ、劇との一致感は無いが邪魔もしておらず、奇妙なバランスの中で芝居が進む。これにモードチェンジ達者な役者の演技と華麗な場転が相俟って絶妙。
演技面では、哀れな運命を辿るローゼンクランツとギルデンスターンのハムレットとの心の距離、他の家臣との中間的な距離、ホレーシオとの親密な距離が(恐らく台詞はうまく刈られていたと思うが)何気ない動作の中に表されている。キャラ作りの点では劇中で死に至るポローニアスが、機敏な動作を台詞の装飾にした表現で、笑える。もっともそれは彼の子、兄レアティーズと妹オフィーリアとの深い家庭愛の誇張された表現として裏打ちされていて、この二人が後にハムレットと対峙する局面でそれが効いて来る(レアティーズの出立の日にオフィーリアをまじえて交わされるやりとりは見事)。金守珍の亡霊(父)も深刻さのカリカチュアが突き抜けて、笑える。他も同様に熱の入った演技でつい「笑」の轍に滑りそうになるがそれを制止させるのは役者の顔力か。もちろん客はドラマの帰趨を(たとえ話の筋を知っていても、否知っていれば尚)追わずには行かなくなっている。オフィーリアの悲劇の瞬間が本舞台最高の音響レベル。狂気への変貌ぶりも(衣裳・演技とも)うまい。戯曲の最後に書かれた台詞を語る松田洋治のホレーシオがその場に佇む中、死者達が終幕への流れを作る。見事なラストで、アングラを出自とする劇団の面目躍如という感じもかすめた。
ハムレットの広島光、やや口跡に難あるがそれを補って余りあったのは、まっすぐな心そのままの真情吐露が見てとれる身体、観客に近い所に唯一存在して「ある悲劇の主人公」を生き切った。
劇場について一言。住宅街の中にある大型集合住宅の地下に作られた「芝居砦満天星」だが、表に看板や案内はない(貼るのは禁止だそうだ)。マンションの表と裏で高低差があり、高い方(お寺の敷地に近い方)の道と地続きの入口扉を開けて階段室に入ると、控えめに「満天星⇒」とA4の紙が貼られてある。外側に目印は無いのでご注意を。