満足度★★★★
怒濤の一時間
総勢12人の挙動を凝視した1時間は、スティーヴ・ライヒの「ドラミング」に圧倒された1時間であると共にダンスがどれだけこれに肉薄するかを凝視する1時間でもあった。
私は対抗し得ていないように見えた。ただし、上手の二階席前方から観たため、斜め上から覗きこむ格好になる。視線がもっと下なら、総勢十二人による単独の動きや複数のコンビネーションが並立して進行し、スクランブル交差点のように中央でぶつからずに擦れ違ったりする様などが「凄い」と思わせたかも知れないと思った。
ミニマルミュージックの大御所とか、代表的作曲家などと言われるスティーヴ・ライヒの事も、ミニマル‥のほうも恥ずかしながら今回の公演で知るまで良く知らなかった。ミニマルと言えば単調な、同じフレーズの繰り返しというイメージ。しかしスティーヴの音源を聴くと斬新である。「繰り返し」というので電子音楽を想像するとこれが違う。件の「ドラミング」(1971)は複数の演奏家が交替しながら寸分違わぬアンサンブルで1時間、スティックとマレットを振り続ける「演奏」である事に醍醐味がある。曲は4景あり、太鼓(ボンゴ)→ビブラフォン(木琴)→グロッケン(鉄琴)→太鼓と演奏楽器が変わり、ボイスが入る部分もある。1拍が1秒と少し、これを12分割した12連符がドラミングの一貫して流れるリズムだ。速めの6拍子+ウラ拍子付きとイメージされたし。6である所がミソで、リズムの相がコーラスを重ねるごとに少しずつ変化して行く。ウラを含めた半拍を6とし、1打=6と表記すると、2+4(タタン)や2+2+2(タタタ)が同系、これに2番目、6番目のウラが混入しても同系だが、4つ目が入って来てこの音が強くなると3+3(1.5倍のタンタン)と違う相になる。太鼓にはチューニングの高低があり、木琴鉄琴にも勿論あるので「微妙な変化」のグラデーョンは細かく2拍か4拍ごとに変えて来てるんじゃないかという程、常に動いている底知れなさが「ドラミング」にはある。
1997年初演だというローザスの「ドラミング」はどうか。開演時刻の前から3、4人の踊り手が袖に近い所で客席の方を見るともなしに見て立っている。まだ始められないの?と待ってる風にも見えるが、多分このように隅に待機する人も舞台上に居る演出である事を示すものだろう。床はチラシと同じ朱色で、横長に敷いたリノリウムが余って巻かれているという案配に、色んなサイズの土管型の円筒が袖近くに置かれてある。装置といえばそのくらいで、邪魔のない広い舞台を用いる、踊り主体の出し物だと知れた。
その踊りは、意図的なのか(西洋発だから)自然なのか、バレエ的だ。よく走る。渦形に曲線を描いて中央へ走り込んだり、周縁に走り出たりが頻繁にあり、定位置で振りを踊る人も居る。どんどん入れ替わる。「歩く」所作も混じるが、よく駆ける。駆けると跳びたくなり、跳べばその瞬間に手足を広げたくなる(バレエ)。身体をひねれば手がそれに付いて回る。二人が近づけば絡まり、ほどけ、時に抱え(バレエ)、下ろす。それらは人間の動きではあるが「自然」に属し、これに対し「意志」を感じさせる動きは、時々見せるが少ない。しかし全体として自然との調和などを表現しているとは思えない。音楽の「ドラミング」は続く。ソロっぽい動きが一人スポットを浴びる瞬間があったり踊りの「相」も変化し、似た相に回帰しても完全な回帰でなく変化している。最初、舞台奥に横長に切り取られた照明の中で踊り出す女性は、イメージ色の朱色を淡く染めたドレスをひらめかせるが、彼女が主人公という訳でもなく、ただ終盤で同じドレスの色が濃い朱色になっていたりする。そこに大きな意味はない、ただ「変化」が表わされる。唯一の黒人が激しく立ち回って女性とのデュオを踊りまくる、という場面や、一人際立った衣裳の女性が登場してソロをやったり、延々と続くドラミングのリズムの中にそれらは組み込まれているが、何か物語的な意味を持つ訳ではない。全体の大半を占める場面は、あちこちで踊りが展開し、小さな焦点が移動し、人が入れ替わり立ち替わる、特に緊張を強いるでもない場面の繋がり。踊り手たち皆が共通に持つ「動き」のパターンの範囲内で事が繰り返されるので、バックの「ドラミング」がなければよく判らない(それ自体で出し物にならない)時間を味わわされる事だろう。曲相は、第二の木琴で柔らかになり、鉄琴(高音を使う)に至って微細な塵を追うようになり(ここでチラシの束をバサリと落とす音が一階席から聞こえてきた)、第四のドラムで一転、激しいラストへ向かうが、この最後の相でこれまでの「範囲に収まった」動きから大々的に変えてくる事を期待したが、それはなかった。しかし演者の掛け声は増え、最後にカットアウトで「ドラミング」が終わる瞬間、照明の当てられる奥のリノが巻かれた筒が上手からくるくると転がり、男性がそれを足で止める瞬間に重なる事で終幕を表現した。
個々の動きを目で追うより、全体を感じる、というのが正しい見方だったかも知れない。が、上から覗く視線だとどうしてもそうなる。個体の識別がしづらい「横からの角度」で見るのが、正しいかも知れない。
踊りは言わずもがな、生まれ育った文化という固有の背景をまとうが、バレエが基調である彼らの「語彙」を一定理解した上で、その語彙を持って表現しようとしているもの(見ている先)を感じ取る事が肝要であったかな、と後から思いもした。だが日本に棲む自分には難しい。終演後踊り手の荒い息づかいが聴こえ、カーテンコールで3度の呼び戻しがあった。果たして観客が本当にそれほど感動したのか正直なところ疑問だが、曲の「ドラミング」の迫力は否めず、踊りは少なくともこれに背反せずかつ迎合しない両立を探っていた事は確かだ。異質との遭遇は色々な事を考えさせられる。