ホテル・ミラクル5
feblaboプロデュース
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2017/12/01 (金) ~ 2017/12/10 (日)公演終了
満足度★★★★
なるほど・・ラブホの室内という舞台設定が既にして登場人物らの関係の濃密さを約束し、ノーマルな恋人同士以外の設定をひねり出した作家の工夫をしても関係の薄い設定にはならない(全くの他人が居合わせてしまう設定もなくはない=中川安奈と大竹まことが出た映画がそんなだった=が、一見うまそうな設定は正当化に苦慮し、喜劇調を免れない)。・・と考えると、設定が閃けば、話は半分決まったようなもの(なぜなら恋人でない同士が同室する必然性じたいにストーリーは埋め込まれている)。どんな設定かが勝負である(作家の心の声)。
さて、リング上には四作家の命を帯びた俳優らが、演出のコーチをくぐって、いざ出場。
一人で全作を演出というのも、一つの着目点。統一感より多様さが印象だが、各作品の個性を生かしながら全体としてのまとまりも重要。
4作中3作は音楽不使用で、時間と共に進行するドラマ。残る1作は時系列を軽やかに跳ぶタイプで、直裁的エロシーンには奇天烈な音楽が鳴った。
河西氏以外の作家の舞台は観ていたが、開演に駆け込んで程なくフェイドアウトした目ではパンフの字が読めず、上演順序を知らないまま終演まで観劇する。後で作者を照合し、意外な作風、予想範囲の作風・・嬉しい発見もあった。
この種の企画(「15 minutes made」など)は複数の作り手を並べて観られるのが魅力。取り合わせや順序も恐らく重要だろうが、今回初めて目にした「5」も一定のクオリティを見せていた。
最終的には「本音」が語られる場所が舞台である事が、作り手としてはこのシリーズの魅力であろうし、作り手側から染み出す躍動も舞台の魅力に寄与している。
グレーのこと
ONEOR8
浅草九劇(東京都)
2017/11/29 (水) ~ 2017/12/10 (日)公演終了
満足度★★★★
パンフを見ると羽田美智子とある。あれあの?と思うや羽田美智子似の女優(否当人)が冒頭から登場し、これはどういう成り立ちの劇団だったか、と一瞬目を泳がせた(多分)。そうだった、前回(世界は嘘でできている)も私は見ており、「タレントが出演する舞台」への難癖を書いた事を思い出した。
しかし、今回はアウェイ感も気遣い感も全く感じられず、舞台に集中できた。
ドラマ的には「不幸」を乗り越えて行こうのドンマイ話に着地するが、そこに至るまでの時間、ナゾをナゾとしておきながら明かす部分は明かして笑いを成立させ、ペンディング期間延長の苛々を感じさせない。着地点への「待ち時間」を楽しく過ごせるサービス行き渡った電車の旅である。
クライマックス(謎解かれた過去の事実)の情景は悪くなく、これは羽田女史を起用の狙いが判るところ。
ただ、一人親の子育ての行き詰まりは判るとして、ぼんやり火を眺めてしまった理由が、息子から「今後親を頼らない」と宣言されたその事実であるのか・・というあたりでリアルな想像が及ばない。色々と矛盾を感じるところだ。
「ベルナルダ・アルバの家」
無名塾
無名塾 仲代劇堂(東京都)
2017/11/23 (木) ~ 2017/12/03 (日)公演終了
満足度★★★★
初めて降り立った東急線用賀駅から、住宅街の中に構えられた「劇堂」へ辿り着き、潜り込んだ。初めてというのは何にせよわくわくする。不安もある。ゆったりとした玄関ロビーから住宅内のような部屋を通って入れば、立派な劇場、否劇堂である。
叩き上げの仲代達也はエリートの加藤剛とは出来が違う・・と私の居た中学校の教師(演劇部顧問や地域の演劇鑑賞会もやっていた)が言っていたが、成人になってからは「過剰な演技が臭い」と言う声も聞いた。
そんな昔の事をふと思い出したのは開演直後。今回演出も手がけた小間使い役がいかにも「型」で表現しようとする演技を繰り出す。関係性が判らず困惑する。仲代の塾はそうなんだ・・と見ていたところが次第に「言葉」が物語を伝え始めた。冒頭の違和感いつしか解消のパターン。ある種の劇世界のルールをざっくりと見せる、という手法であったかと思う所も(好意的解釈・・後付けかも知れんが)。
次に思い出したのは、同じガルシア・ロルカ作『血の婚礼』。どちらも「家」が舞台だ。家というコミュニティと他者(略奪者・侵略者)を巡る物語と見ることが出来る。
どこからそう確証したのか明言できないが、やり取りを聞く内に、これが近代的な法支配の埒外の時空であると感じる。貨幣は頻用されず土地と作物、交換価値のあるものとの交換によって暮らしが営まれており、ある場合には若い女性も交換、また略奪の対象となる。
ベルナルダ・アルバ(未亡人)の家の年頃の娘たちは、一人の男を巡って利害対立状態にあり、許婚であるはずの娘、思い募りながら諦めた娘、そして陰で男と逢っていた娘、この構図が薄明かりの中にぼんやりと輪郭が浮かび上がるように、次第に見えて来る。そして明白になったと思いきやドラマは一気呵成にラストを迎える。家の中は身内、外は敵だ。娘は「内」になろうとする男と密通する事で男と共に「敵」となり、ただし態度を明白にしたのは事実が露呈した瞬間であり、今まさに男が娘を連れ去ろうと迎えに来ようとする時。そして悲劇の結末を迎える。『血の婚礼』(新国立劇場研修所公演)の時ふと嗅いだ気がした「血」の匂いがした。原初的で赤裸々で、実はその黒々とした人の群れの中に自分も埋もれ、そんな存在である人間を、審判しようとする観客は恐らく居まい。静かに慈しみ、愛おしむ事しか出来ない。・・劇堂での、女だけの芝居は、この結末に辿り着かせてくれた。
墓掘り人と無駄骨
MCR
ザ・スズナリ(東京都)
2017/11/08 (水) ~ 2017/11/13 (月)公演終了
満足度★★★★
想像のつかない劇団名の実像を垣間見ようと、タイトルにも惹かれて観劇。吐かれる言葉にはもっと凝縮、あと少しばかり推測の範囲の先を行くチョイスが欲しかったが、この多弁はドラマをある感動に押し上げるのに必要な量でもあったのかな・・そんな感触もある。はっきり言ってストーリーは追えなかった。終盤までは重ならない二つのドラマが、最後に繋がるのがオチで、人間の感動の類型の一つ「統合」に該当する。
ただ、メインの筋と従属する筋とがあり、メイン筋での主たる問題が、従属筋との統合を果たした時点で、どうなったのか(宙に浮いたのでは)が今ひとつ判らなかった。
幾つもの趣向が凝らされていたが、それらが劇団の特徴なのかどうか。途中注意深く観られない時間が生じ、掴みそこねた。
冬雷
下鴨車窓
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/11/08 (水) ~ 2017/11/12 (日)公演終了
満足度★★★★
アゴラ劇場でお馴染みになった感もあるユニット。関西方面の純文学系演劇(軽率な呼び方ではあるが)の書き手として独特な味をみせる。
最初見えている、親族や知己が集うある種理解可能な光景の背後に、あるいは水面下に、生じているドラマを想像させ、想像させたまま答えは半分明かし残りは明かさずに終わる。後半にねじ込まれた伏線が回収されるのが終盤だからそれはやむを得ないかも知れないが。
焦点が過去なのか現在なのか・・、勿論「未来を見通す」べき現在が、過去から離陸しようとする「時」はそこはかとなくあるが、人はそうたやすく変わるとは限らない。その変わらない代表選手は、舞台となる小さな町の議員に立候補すると吹聴する変人。(元?)唐組俳優・気田睦が演じ、ドラマに不穏な要素を与えていた。
三人義理姉妹
年年有魚
駅前劇場(東京都)
2017/11/15 (水) ~ 2017/11/19 (日)公演終了
満足度★★★★
投稿未遂につき書き直し。記憶が薄まり不正確はご容赦の程。・・地方議会の議員とは言え先代の地盤を継承した一家、家屋の奥行など劇場を贅沢に使い(その分客席数を減らしている)、運転手や、正体の知れない婦人(幽霊のようでいながら皆に認知されているらしい、正体不特定の不思議な存在・・実力派を配し、笑いを取っていた)も出入りして不自然でないセミパブリック空間を「広さ」で実現していた。
この舞台で、地方の名家の内部、にしては割合い健全な人間模様が、微妙な間、という異化を馴染ませた「語り口」で描写される。
議員(候補?)である家主(30代後半位の設定か)の妻、働かない兄の妻、教員である実の妹・・タイトルも吟味せず観ていて「姉妹の物語だな」と感じさせるのは後半。それぞれが別個の人生を歩んで居り、言わば他人、単に空間的に接点を持つに過ぎなかった者同士が、会話を交わす程度には繋がりはじめ、互いの人生をささやかな眼差しではあるが照射し合うという仕立ては、テキストと演出、舞台の設えが関連し合って全体を構成した結果としての効果に思われ、才能のありかを感じさせた。
観劇後も瞼に残るのは、「家」。生き物のようで、人間の儚い人生を見詰める存在を体現させたような。悪くない後味であった。
そんな訳で、活動停止とは恐らく発展的解消であろうと、勝手に推察している。
すべての四月のために
パルコ・プロデュース
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2017/11/11 (土) ~ 2017/11/29 (水)公演終了
満足度★★★★
「焼肉ドラゴン」や「パーマ屋スミレ」の設定を混ぜてナニした意図を作者に尋ねたい気分。吉本新喜劇風をモロ援用し、観客に向けて喋ったり踊ったりする演出にした理由は、「お笑い」要素という事で分かるのだが・・。
休憩込み3時間弱の「家族の物語」は、朝鮮・日本の不幸な歴史の物語が語り尽くされるという事が無いことを暗に伝えようとした作者のある種の屈折表現だろうか。
制服
さんらん
ひつじ座(東京都)
2017/11/22 (水) ~ 2017/11/26 (日)公演終了
満足度★★★★
昨年5月の「楽屋フェス」参加で始動した後もコンスタントに公演を打ち、趣向の異なる公演四種を繰り出した後の安部公房作品舞台第二弾。前回の「どれい狩り(ウェー)」に続く50年代の安部作品を、小劇場(というより狭小劇場)で観る貴重な機会だ。
「制服」上演は65分。以前戯曲を読んだ時はもっと複雑に感じたが、舞台化してみれば・・というのも変だがコンパクトかつシンプルな舞台になっていた。このところ自分は別役づいているが「制服」にも別役実を彷彿とさせる台詞があった。もっとも別役の戯曲執筆は60年代以降で、後輩になる。共に満州からの引揚げ者で、異国語の如く日本語を用いる独特な筆致、という共通点を見出して括ることは可能ではないかと個人的には感じているが、不条理性を持つ安部の渇いた劇世界が別役の代名詞「不条理劇」の先行形態としてあった、と見る事もできるかも知れない。
ただ、安部戯曲は別役が小劇場向けのテキストであるのに比してまだ新劇の文脈の延長にあり、大劇場向きの「大状況」を叙述する要素がある。それを(経済事情もあるのだろうが)space雑遊や今回のひつじ座などの狭い劇場で上演するさんらんの作品解釈的な狙いは何か・・。そんなハテナを燻らせながら会場へ赴いた。
舞台化された「制服」は喜劇であった。はっきり「喜劇」へと舵を切る瞬間は劇の終盤であるが、前半よりその伏線はあり、人間の哀れをドライに、カラッと揚げて別役的に収めたのが今回の演出の方向性と理解した。
ただ、この作品の大状況(敗戦直前の朝鮮半島に住む日本人たち)は、他の設定と代替可能なシチュエーションではない。もっとも作者的には、太平洋戦争末期の植民地下朝鮮という設定は「事件」を多角的に照らす絶好の舞台設定だ、という事であり、権力・差別構造の上に、強烈な個々の人間の境遇や性質が絡んで、必ずしも被害と加害といった単一のテーマに収斂されない複雑な様相が描き出されている、という意味で、この劇は当時のステロタイプへの「アンチ」として提示されたものとも推察できる。・・のではあるが、(作家が不謹慎であるべきでない、というのでなく)「大状況」の事実性が立ち昇らせるテーマ性からは逃れられないのも確かな事で、事実その要素はドラマに書きこまれている。
一方、現在の日本ではステロタイプそれ自体が既に溶解し、戯曲を新鮮に読むことができる反面、暗に想定されている背景色を捉え損なうと、新鮮味を生むか、戯曲の魅力を失うか、微妙である。評価しづらかった前回の「奴隷狩り」にはその微妙さを感じたが、今回は短編でもあり、渇いた喜劇性をオチとしたのは(終わり良ければ何とやら)、正解だった。問題はその喜劇性とテーマ性との両立、それが今安部作品を上演する際の課題だと思えるのは、新劇テイストの残るテキストゆえだろうか。
くじらと見た夢
燐光群
座・高円寺1(東京都)
2017/11/17 (金) ~ 2017/11/26 (日)公演終了
満足度★★★★
前作をスルーしただけだが燐光群随分久々な印象。「くじらの墓標」再演から一年経たない今回、坂手氏のくじらモノの集大成という。それぞれ舞台となる土地、国そしてテーマも異なる過去三作が、作者によればバラバラだったそれらが今つながった、と書かれてある。「くじら」で繋がってるじゃん。と思うがさにあらず。繋ぐべき多くを繋ぎ現在劇たらしめた坂手氏に最後は脱帽する。
汝、公正たれ Let us see YOUR own justice.
まごころ18番勝負
シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)
2017/10/31 (火) ~ 2017/11/05 (日)公演終了
満足度★★★★
数年振り二度目のまごころ18番勝負は、前観たのとはガラリと様変わり。が、以前の作も事件解明モノで事実の詳細に分け入って話を作りこんでいた印象からすると、通じるものがある。
鼻
文学座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2017/10/21 (土) ~ 2017/10/30 (月)公演終了
満足度★★★★
2015年別役実フェスティバルの発起人にして別役作品未演出、昴で初演出した鵜山仁が、今度は実家である文学座でじっくり取り組んだ舞台、と言えるのだろう。
今や老優江守徹、間を取り持たせるかのように渡辺徹、主要な役に栗田桃子、得丸伸二を配して一定の成果をあげていた。
一方で別役作品を上演してきた劇団の伝統(具体的には俳優の「立ち方」)があり、一方で鵜山仁の演出家としての主張がある。
鵜山氏の主張とは、私の見方では、劇的カタルシスだ。演劇における特別な瞬間を求めて、今もしこしこと演劇を続けている・・的なコメントがパンフにあったのも、その感想を補強するものだ。「感動する別役実」・・初めての体験だ。
もちろん、他の作品にもある種の感動はあるのだが、考えたいのは今回の「感動」の種類について。
『鼻』ではシラノ・ド・ベルジュラックの舞台に立った「将軍」の過去が、種明かしのように露呈した終盤、彼は朗々とシラノの台詞を詠ずる。その舞台を今そこに観るという形で、感動の瞬間がその場に立ち上る按配である。
だが、かつて文学座でもシラノを演じた江守徹という俳優を舞台上に配して、ノスタルジーの仕掛けを周到に準備している事は演出意図による。江守徹がシラノの台詞を発する時だけ、栗田演じる女がそばに居て、微かな声でプロンプを入れていた(別の時にはそうしなかった)のも、演出意図だろう。お芝居の台詞だから老人に女が台詞を教えてやる、という設定でも芝居(本体)は成り立つ訳であり、それだけでなく、江守のリアルな身体とあいまってある種の哀愁が漂い、感動さえ沸き起こす。そこへ、これは終演後に知ったが、女の母(だと信じている女)が実はかつてシラノの相手役をやった女性で、病院内の離れた棟からその役の台詞を言うのが響いてくるその声が『鼻』初演で演じた杉村春子のものである事も、演出意図である。
鵜山仁がこの別役テキストを、ノスタルジーという共鳴装置に変じて何を打ち出そうとしたのか、と考えてみるとよく判らないが、ノスタルジー=感動だからそれでよいのかも知れない。ただ、懐古趣味に終わって良しとされるのはやはり文学座という、層の厚い演劇界の累年トップランナーならでは、なのかも知れない。
心中天の網島-2017リクリエーション版-
ロームシアター京都
横浜にぎわい座・のげシャーレ(神奈川県)
2017/11/06 (月) ~ 2017/11/18 (土)公演終了
満足度★★★★
木ノ下歌舞伎を久々に観ることが出来た。正直わくわく感を隠せなかったが、糸井氏演出という部分に一抹の不安も。
が、糸井幸之助を初めて評価した。相変わらずエッチ話を返しで無害化する「遅えよ!」と突っ込みたくなるやり取りは相変わらずだが(正直ウザい・・最近我慢が利かなくなった。失礼)、楽曲のクオリティが高い。今まで妙ーじかる楽曲を幾つも聴いたが、最もよく、劇にも絡んでおり、突出していたように思う。
心中話だけに、情念を切なく歌い上げる歌が似つかわしく、真顔でバタ臭く扇情的に、まるで苦界へ誘う客引きのように物語へと観客を誘う4名の脇役たちのカタチも申し分ない。心中に至るのに必要なテンション、エネルギー、モチベーションは、この演出の持つエロ力(ぢから)と、よく見れば精力あり気な人選も納得な4人のエロオーラが支えていた、と言えるか。道ならぬ恋であるのに応援したくなる主役二人の佇まいも、備えており。
裏切られた格好の女房の愛情・献身、治兵衛の嫉妬、太兵衛、侍の登場の一幕等を経て、久しぶりの再会を遂げた二人が手を取り合う死地への道行きは、何故か純粋で美しいものに見えている。これはどういうドラマ上の仕掛けだろうか・・。
余談だが、のげシャーレがあんなに広いとは知らなかった。うまく使えばそれなりの公演は打てるのでは・・と。地元でもっとやってもらえると私としては嬉しいのだが。
しゃぼん玉の欠片を眺めて
TOKYOハンバーグ
サンモールスタジオ(東京都)
2017/10/25 (水) ~ 2017/11/07 (火)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/11/04 (土)
大括りで「社会派」と呼ばれそうなTOKYOハンバーグだが切り口は多様、「作風」という程明確な特徴はない・・とはここ最近の3作を見ての印象。その時々精一杯考え、作劇を行い舞台を上演して来たのだろう・・そんな想像をさせる+1=4本目となった今回の舞台は、「老い」と名指せば社会テーマとなるが、半径の小さなホームドラマと言えばそうだとも言える。
ある家に出入りする業者と、訪問先の家の事情という二つの「場」が過不足なく描出される、ありそうであまり見なかった設定がユニーク。
この劇団の作風を一つ挙げるとすれば、巻いた伏線が終盤でギュッと凝縮した形で回収される、その独特な仕方だろうか。
三田村周三の老人役を中心に涙を誘うよい芝居だが、ありきたり感がなく新鮮に観た。
散歩する侵略者
イキウメ
シアタートラム(東京都)
2017/10/27 (金) ~ 2017/11/19 (日)公演終了
満足度★★★★
NHKシアターコレクション2009の放映がイキウメを見た最初だから8年近くになる。劇団公演をやっと目にしたのが2011年「散歩する・・」(KAAT)だったが、終演後しばらくこのドラマについて考えた記憶がある。
その後何本かイキウメを観て、「俳優」の仕事について考える所あり、今回も俳優の演じぶりを目を見開いて凝視した。俳優が架空のドラマを具現し、フィクション性を支え、内実(と見えるもの)を注入している訳だが、その裂け目を見ようとしていたのかも知れない。
特に「愛」をめぐるラスト。前回の観劇で感じた、突けばほころびも見えそうなドラマの弱点と、そうしたくない心情により成立するドラマ性の両面が、今回どんな風に見えてくるのか・・気になっていた。だが場面が近づくにつれ、作りを見極めようという欲求よりは、ドラマに浸りたい欲求が勝り、思わず涙した訳だが、やはり初演と同じく、考えさせる要素である。
ユニークな設定で「概念」そのものを扱い、それぞれの概念について想像を逞しくし考える契機が各所にある。
スーパーストライク
月刊「根本宗子」
ザ・スズナリ(東京都)
2017/10/12 (木) ~ 2017/10/25 (水)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2017/10/23 (月)
2年前?と同じスズナリで久々2度目の根本宗子、相性良しの小屋には二匹目の何とか。なかなかどうして、ただ台詞に俗語多く(作者の創作要素あり?)、内輪話に終始するかの部分が前半に散見、しかし荒唐無稽なキャラとストーリーが全く無縁な話にも思われず、面白く観た。女・対・男の対立が最後には女の優位にあって丸く収まる構図は前回に同じ。
根本(演じる役)の逆ナン告白のラストで、根本が惚れた弱味も見せず、喜劇仕立てとは言え、おざなりにガッとやってガバッと引かれる幕に女史の人間が表れているようで。
doubt -ダウト-
いいむろなおきマイムカンパニー
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/10/31 (火) ~ 2017/11/05 (日)公演終了
満足度★★★★
未見だが期待感を膨らませて会場へ赴いた。マイムであるからには、最低ラインの表現でさえ、技術を積み上げねば能わないだろうそのワザが見える芸を見たかった(これを安定志向と呼ぶか?)。圧巻であった。
最前列で見ると、汗はさすがに隠せないが、ほころびや裂け目が見えるかと言えばそれがない。基本音楽に乗せての6、7人のアンサンブルは一秒一秒「意図」が手足の動きから顔の表情におよぶ。拡散と集約、規則性なく見えた中に秩序が見えてくる過程、とりわけ微妙な心情を穿つ「表情」の技術(これは役者によって優劣あったが)は、表現される世界の広がりと深さを獲得していた。単純に、マイムでこんな事までやれるのか・・という驚き。初心者ならではの感想だろうか?
「形」やテンポの心地よさは大きな要素だが、このパフォーマンスの間自分は何を「気持ちよく」感じていたのか、もう一つ別な何かがありそうなのだが。それはまたおいおいに。
桜の森の満開のあとで
feblaboプロデュース
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2015/10/31 (土) ~ 2015/11/10 (火)公演終了
満足度★★★★
プレビュー&本公演
時間の合間にプレビュー(殆ど通し稽古風景=前半)を拝見、本公演はたまたま時間が出来たのでこちらも観る事ができた。
feblabo二度目、以前一度短編集のようなものを観たのが初見だったか・・。
今回は主宰池田氏の執筆による「会議モノ」。大学の政治学(だか)のゼミで教官はゼミ生にモックスという、ディベートのような模擬会議を行なわせる。学生は12人程度。内容は、北陸のある架空の町には様々な職業や立場を代表した者で構成される「連合会議」が存在し、今回議題に上った(教官が指定した)のは「老人の選挙権剥奪」。で、議案に「賛成」「反対」「保留」の三つの立場を選択でき、賛成と反対の立場を取る者は勝てば最高成績Aが獲得でき、負ければD(不可)、つまり野心のある者は勝負に出るが、そこそこで良い者は「保留」に流れる、という具合な設定である。ゼミ生同士の人間関係も絡んで、今度行なわれるモックスでは何らかの「勝負」が予想され、そして当日議論はある程度出尽くして煮詰まる・・という前段でプレビューの「通し」を終えた。
このプレビューの「切り方」は、後の展開が気になる効果も確かにあったが、そこまでの展開での無理さ・もどかしさが私には露呈して見えた。もっともそれも含めて、その後どう処理されたのかは気になった・・(その意味では私にはプレビュー観覧は効果をなした事に。)
この議題そのものの難点に繋がるが、「老人の選挙権を奪う」、という提案そのものの動機が、普通なら最初に提示されるところ、ここでは後々になってそれが出て来る。それを必然化する感情的な対立がしばしば挿入され、息苦しいものになっている。何でそんな議論をやっているのか・・こんな議論しか出来なくなった日本の「民度」を示唆しようという狙いなのか?としても・・と実際つらくなる。それは「老人の選挙権剥奪」が正当性を帯びる特殊な状況が、後付けで少し触れられたりする中でも、すっきりせず残る。
さてそこから、プレビューで見なかった領域に芝居は突入するのだが、このどんでん返しは中々気持ち良かった。とは言え、「すっきりしなさ」は残る。ただしここでのそれは「現実」に近い。人は正論より利害で動くものであったり、道理が通らなくても飯が食えていれば平気だったりする、というレベルで。
このディベートの裏側に流れるストーリーがラストで一つの大団円に収まるが、ここは捻り過ぎていまいち、乗れず。そこはどんでん返し的に片づけなくても、平凡な結末でもいいではないかと思った。例えば、主人公が大学生活に引き戻そうとした友人が、モックスで彼女と反対の意見に立った事(どちらかが落第になる、そういう勝負をかけてきた事)の理由は、「気まぐれ」であっても良いし、「たかだか模擬会議の結果で成績が決まる事じたいおかしい」という持論をこぼしたっていい。その方がリアルでは・・ などと。
しかし一風変わった会議劇であった事は確か。面白い事に今後も挑戦してほしい。
ハイツブリが飛ぶのを
iaku
こまばアゴラ劇場(東京都)
2017/10/19 (木) ~ 2017/10/24 (火)公演終了
満足度★★★★
iakuらしい好編で、常に新たな地点を探り出している、今回もその生々しさがあった。噴火後の避難所跡。「鹿児島カルデラ」が最も新しい大規模噴火で、その前から避難所はあったような説明もあったような・・従ってこれは「噴火災害」の時代に入って以降の話なのだろう、くらいに解釈した。その詳細な設定は、ここでは大きく問題にならない。そういう芝居に仕立てており、書き手の技、演出の技でもあろうか。どこかユーモラスで、災害とそこに一人留まる女性と記憶喪失、災害で死んだ人間を8体埋めたが掘り返してはならぬという女の言葉、トラウマを思わせる所作の片鱗・・陰惨さが匂う設定を十分に飲まされた上で、展開する人物らのやり取りはひどく昼ドラ的で、深刻なのだがどこか楽天的な面が見えておかしい。
奇妙なミュージカル仕立ての展開が、ツッコミが来ない漫才の如くにあったり、ペチャクチャよく喋る青年のサラっと鋭く突っ込むキャラや、真顔の喋りが常に笑いと同居する緒方晋の風情も助けて、軽妙かつ、深みのある芝居になっていた。
渡り鳥であるらしいハイツブリは、劇中では絶望の象徴として、終幕近くでは希望の象徴として使われる小道具だが、これをタイトルとしたのもうまい。
現在進行形に進化しつつある才能と、感じる所大である。
かさぶた式部考
兵庫県立ピッコロ劇団
世田谷パブリックシアター(東京都)
2017/10/14 (土) ~ 2017/10/15 (日)公演終了
満足度★★★★
ピッコロ劇団初観劇。「かさぶた式部考」のほうも秋元松代の「常陸坊海尊」と並ぶ<不気味系>作品?と認識するのみ、初見だった。兵庫県立劇団は、実力を感じさせる安定した演技ながら、オーソドックス。藤原新平の演出は、舞台装置ともども、変化を持たせ、終幕まで引っ張っていた。休憩入り二幕2時間半。
凄味のあるドラマだ。炭鉱事故で精神を病んだ男とその家族(母と妻)が、巡礼からはぐれた母子と出会い、やがて巡礼の本体である教団と遭遇する。念仏を聞くと「蝉が啼いている」と耳を塞いで狂乱状態になる男は、妻にべったりと頼り切っていたが、ある時母がうっかり家内で焚いた炭の匂いにパニックを起こし、家を飛び出してある場所に迷い込む。そこには泉式部の末裔を教祖に頂く教団の、その美貌の女教祖がたまたま一人で佇んでおり、一目で虜となる。
家には帰らないと言い張る男に、教団の男が「その方は仏様である、会いたければ信心をし仏を拝みなさい」と教えられ、巡礼に加わる事になる。妻は事故以来不能になった夫に甲斐甲斐しくしながらも、別の男と不貞を働き、同居する母は自分を邪険にするように振舞う妻を快く思っていない。そして息子思いの母も、巡礼に加わることになる。
そして後段、ガラリと変わった美術は、山深い場所を示し、外界から一定離れた空間で、教団のより生々しい内情に迫ろうとする予感を促し、胸が騒ぐ。
ARE YOU HAPPY ???〜幸せ占う3本立て〜
東京デスロック
STスポット(神奈川県)
2017/09/30 (土) ~ 2017/10/14 (土)公演終了
満足度★★★★
「再生」当日券にて。KAATでの岩井秀人演出版の衝撃パフォーマンスを思い出すと、STスポットという狭小空間でのオリジナル版をどうしても目にしたくなった。ネットで売止めだったが当日訪れ、どうにか客席に押し込んで頂いた。
やはり、三度「再生」する。曲は6種。この芝居は男女が飲んで浮かれ騒ぐの夜の風景であり、曲のたびに踊るという「騒ぎ方」が特徴だ。
熱演というものは、あるのだと思うが、どんな舞台も役者は本番では本域でやるものだろう。だがその後、疲労という負荷を背負いながら「再生」させられる様は、異様である。この異様さは観客にも高揚をもたらす。
芝居の一連の流れには噛み応えのあるおいしい箇所が仕込まれており、逐一再生されると、見る側も楽しみになる。
選曲が良い。shangri-laで締めるなどは憎い。
今これを思い出しながら、あのシーンをまた見たい(確認したい)、などと思っている。噛み応えあるシーンを、また噛みたいと思うこの欲求は、演劇という一回性の芸術の本来の姿と背反しているが、レパートリーということで言えば、「あの旅一座がやってた沓掛時次郎を見たい」、なんてのは「再生」への欲求の原形ではないか。
ただ・・録音録画と再生技術を実際に手にした時、どうなるのかは、科学の進歩が見せる「未来の風景」に属した。演劇の「再生」不可能性を、この舞台は示すもののようでもあり、ここからあらゆる芸術の「再生」について考えさせられる。