tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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埋没

埋没

TRASHMASTERS

座・高円寺1(東京都)

2018/03/01 (木) ~ 2018/03/11 (日)公演終了

満足度★★★★

この舞台、「悪くないナ」と思った、という記憶は残っているが情景を思い出すのに時間を要した。その理由はTRASHMASTERS、という索引文字に付着したイメージでもって脳内検索しても引っ掛からないから。「埋没」のタイトルが珍しく内容と合致していたなァ、、という記憶から手繰ってダムに行き当たり、漸く埋もれた(早っ)記憶の蔓を引き出せた。持って回ったようだが、ストレートプレイの秀作の雰囲気あり。別にあちらが高尚で、こちらが二流という訳ではないが(B級的とは言えるかも)、バタ臭い中津留節(ひどく正しいのだが)を俳優が吐いても崩れないものがあった。
今回の客演者の役へのハマり度数、団員による新傾向の役への挑戦、戸外と屋内双方を同じ装置で表現する美術、照明の重厚さ等等、印象深い部分が優った。
「ムツカシイ」問題を細部に留意して描出しようとすれば「世の中簡単じゃない」要素の波に飲まれる。単純図式化するのは割合簡単だ。殊更な悪や敵(としての態度)を登場させ、それに抗わせるのが常套だ(そのうまい処理は、それらの風景を、ある者の主観がもたらした幻影、かもしれない、としてまとめる方法)。今作も親の時代と子の時代(現代)を描き、ダム建設反対運動の「運動としての輝き」(純粋さ)と分断の悲劇、建設が既になされてしまった敗北の今を、そのまま見つめるものになっている。反目して別れたかつての親友夫婦同士が、その子の世代において相見える展開は、希望だが、双方は親の思いをしっかり身に受けていて、和解が目的化していない以上、物語が単純にそこに向かう担保はなく、それによって救い上げようという事でもない。そう願うのは観客の私たち自身であって、人物らは、私たちが「気持ちよくなる」ために、心温まる結末を与える訳ではない。いやそれでも十分に温かな情景は垣間見えるのだが…。
過去シーンの百姓はどちらも若めの夫婦にみえたが、その一方の妻が自分の人生では考えもしなかった「金」がチラついた瞬間から中毒のように感覚を蝕まれ、狂っていく様子を演じた客演女優の貢献大。

eyes plus「鳥公園のアタマの中」展

eyes plus「鳥公園のアタマの中」展

鳥公園

東京芸術劇場アトリエイースト(東京都)

2018/02/27 (火) ~ 2018/03/04 (日)公演終了

満足度★★★

超短編『蒸発』2バージョン。鳥公園の観劇は過去3回程度か。三鷹、STスポット、アゴラ・・。最近のは逃している。「蒸発」は以前買った戯曲集に収録され、短いのでざっと読んだのだろう、何か思い出す部分があった。

今企画は各出し物1度切りの陳列展、のみならず、「作る」過程を見せるのだという。・・例えば「蒸発」の場合、なんと当日の朝に初めて顔合せて製作の作業をする。
色々と矛盾は感じる。上のような仕業は20分程度の演目だからやれるのであって、他の60分以上の作品でも同様なのか? 過程を見せる事じたいは良いとして、その意味は何だろう・・。というより面白さは? work in progressは「面白い」からお金を取って見せるのだが、どんな面白さを放つかは様々だろう。演劇は時間をかけただけ、面白さ、深さが増す、という事で言えば当日の朝集まって決めたものを「出し物」にするのは安上がりだが内容もその程度のものだろう、と思う。少なくともこの日の出し物は、そうだったと私は思う(言わば、ハズレ)。ただし私はトークまで見られなかったので、(出したものの後付け解説にとどまらない)面白い内容があったとすれば、大事な所を見逃したことになるが。
振付師・ダンサーの手塚夏子バージョンが、朝から行なった作業は、身体パフォーマンスではなく、戯曲の改稿。そしてそれは中途で終わってしまったのだが、改稿された部分と、残りの原文を「読む」というパフォーマンスになった。だが朗読ではなく、単に読む、淡々と文章を観客に紹介するにとどまる。しかも改稿の中身は、ト書きに当る部分がほとんどで、つまり人物がどのように佇み、動くかという、振付の言語解説のようなものだ。それをもって身体動作に変換する、という事を観客は脳内で行なうことで初めて、これはパフォーマンスとして成立する訳なのだが、読みがあまりに淡々と、それも小さな声量でなされるため、像が実を結ばない。その後西尾演出バージョン(2人登場)をやり、再度手塚バージョンをやって「出し物」部門は終わったが、2度とも同じ深さで私は眠ってしまった(残念)。「淡々と【改稿した戯曲】を読む」のではなく、どんな舞台上の風景を手塚氏は思い描いたのかを「客に想像させる」(少なくともその意図だけは伝える)パフォーマンス、であるべきだった。(もっとも手塚氏は喋りのプロではなく、読む出し物に決めた時点で限界抱えてるわけなのだけれど。)
一方の西尾演出バージョンは、二人で台本を持って読む。身体性も意識されていると感じたが、「意識してるヨ」という、まァ稽古の取っ掛かり程度にみえた。このバージョンは目的を「完成」に据えた上演の方向が見えた。しかし・・プロセスを見せるという「目的」が与えられた二人は、これをどういうモードで行なったのだろう。何を求められているのか、は明確だったのか。結局解説を聞いてみなければ分からない、「見せる」部分では自立できない出し物だったと言う事だ。
ただしこの作品じたいが難物なので、どうやろうが何だかよく分からないもの、にはなってしまったろう。
そう考えると、プロセスならば稽古風景を見せのが一つの正解ではないか。実際本番を目指した公演ではない以上、それも矛盾を抱える事になるのだろうが、「想定」して進める事がやれない演劇人ではないだろう。そこで上演にまつわるあれこれを役者とやり取りすれば、それはそれでかなりネタばらしを強いられる事になるだろうが、価値(値段)は高まるだろう。
その場合であっても、やはり時間を積んだだけ面白い議論に繋がるだろう事は確かに思う。

ネタバレBOX

色々と考えさせられたが、結局終わった後で最も頭を占めたのは「如何に安く上がり、入場料収入でどの程度黒を出したか」だった。(大変失礼な見方だがそれが頭にこびりついたという事実)。疑念を呼び込むのは私の下衆な根性か、それとも、、
まほろばの景

まほろばの景

烏丸ストロークロック

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/03/01 (木) ~ 2018/03/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

何年か前に公演を見逃して以来気になっていたが、漠然と想像していた路線を更に越えた領域に達し、これは好きな世界である。どう咀嚼してよいか判らずまだ手つかずだが、拐われ連れて行かれた場所は冷厳な風景で、心は驚愕に震え、頭は驚嘆で雀躍した。

上野動物園再々々襲撃

上野動物園再々々襲撃

演劇集団プラチナネクスト

ザ・ポケット(東京都)

2018/02/16 (金) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

満足度★★★

感想を書きそびれていた。文学座主催の年輩者対象の演劇教室出身者を中心に作った集団で(だから坂口氏が演出も)、客層の中で自分が完全に浮いていた。
金杉忠男作品を実は一度も観ておらず、今作は平田オリザ脚色とはいえ何か原作の片鱗を嗅ぎ取れるかと思い、観劇。だが舞台はほとんど平田の現代口語演劇。セミパブリック空間である喫茶店風の飲食店に人が出入りする一場物で、音楽なし、最後はアカペラの歌で切なく盛り上がる的展開も、ひたすら平田オリザ作品であった。
俳優は例外なく一定年齢以上、若い役も助っ人を借りずに自前。さすがに無理のある役もあって、作品を優先するのか団員活用優先か、外部協力を乞うか自前でも完結できる作品を探す(作る)か、いずれかにしたい。
演技は下手ではない。ただ、そこそこ、という線を越えられない。途中「巨大な」間が空いた。注意力というより頭脳が追いつかなかったか。
心中あれこれ呟きながら眠気と闘って観ていたが、戯曲が導くものはあって最後の「劇的」瞬間は形作られていた。
・・そもそも平田戯曲をやるとは難敵に挑む覚悟なはず、前段での複数同時進行の会話も一応乗り切っていた。台詞は日常のトーンで喋る。日常っぽさのリアルを醸すのは感情の激する演技よりも難しい。というか、日常に近い身体状態にはなりやすいが、平田戯曲が要求する微細な変化を微細に表現する「作為」は、激烈な感情表現のそれと同じく高度に思われ、大変苦労されたな、とは思うが果たしてその伝える所を理解して上演に臨んでいるのだろうか・・?とふと思ったり。

ネタバレBOX

客の事をどう思っているのか?という疑問は、客席の上段二列程を残して分割する格好で左右のドアに通じる通路があるのだが、後方一列目に関係者の子供が椅子に乗って離れるとバタンと鳴って座面が上がるのを面白がって遊んでおり、前方ブロック最後列に座った私がチラと見ると付き添いの大人がすぐ退場させていた。一応気遣いがあるな、と思っていると、受付手伝いの関係者だかが途中入場してきて(人を案内している風もあり、その日だけの関係者ではないと思われる)、興ざめなドアの開閉音を何度も鳴らし、極めつけは、ラスト、次に拍手、というタイミングで(つまり芝居を終えた事を噛み締める無音の瞬間)、後方ブロックに座ったその関係者たちが一斉に立ち、バタンバタンと鳴らしてしまったにもかかわらず「しまった」「すみません」の一言も態度も「間」もなく、恐らくは送り出しの任務につかねばとばかりにドアの開閉音まで無遠慮に鳴らして去って行った事。関係者からリスペクトされない芝居のあり方はどこかで考え直した方が良い。この事が帰り道に最も考えたこと也。
深夜特急

深夜特急

オフィス3〇〇

ザ・スズナリ(東京都)

2018/02/18 (日) ~ 2018/02/27 (火)公演終了

満足度★★★★

鉄道員の父を題材にした鄭義信作の一人芝居を楽園で観たせいか、小宮氏扮する鉄道員の幕開き登場が抵抗r=ゼロで舞台に馴染む。渡辺えりらしくあれこれ錯綜して混沌とするも、空気が薄まって白みがかる綱渡りな時間あり、だが綱は渡り切り、最後には涙。ストーリーそのものよりも、ストーリー説明を借りた断片が色んな人生のモンダイや人間社会のモンダイを立ち上らせる、その瞬間の印象が強烈なのだろう。ぐぁーっと拡散濃縮する宇宙の鼓動みたいな?何かを感じさせる。悲話ではあるが救いと癒しの話。

夜、ナク、鳥

夜、ナク、鳥

オフィスコットーネ

吉祥寺シアター(東京都)

2018/02/17 (土) ~ 2018/02/24 (土)公演終了

満足度★★★★

戯曲を読んで観劇したかったが結局読まず。女優らの存在感。簡素な舞台。ドラマは日常と犯罪の背中合わせ。中年女友達三人の、それぞれの日常、そこに新たに「友達」に(自発的ではないが)加わろうという女性に「一線」を越えさせる局面で、園子温『冷たい熱帯魚』の同様の場面を思い出した。秀逸な話だが、以前コットーネでやった『海のホタル』が同系統に思われるが、こちらは何場面かを掛け持ちする装置がリアルに作られ、日常を残すその風景に「犯罪」が重なると戦慄を覚えた。今回のは象徴的な装置だから、場面を作るのは役者の身体一つ。瀬戸山美咲の他者作品演出は初めて観たが、私が想像したよりうまく処理していた。ただ大竹野作品の「喜劇」面は出ていたが「猥雑」がもっと加わりたかった、と思った。

真実

真実

文学座

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2018/02/24 (土) ~ 2018/03/05 (月)公演終了

満足度★★★★

渋谷はるかの居ないOn7を観、本拠地文学座での立ち姿を初めて観て、やっぱりいいなと思う2月の宵。喜劇にして辛辣。真実と嘘を巡る実験の被験者=主人公が約一名浮かび上がって来る。二組の男女の間にあった真実が最後に謎解かれると同時に、真実と嘘を巡る議論の作者なりの結語も明らかになるという良く出来た戯曲だった。お目当ては渋谷女史であったが、出だしの男性との会話では声量の差が気になった。が、喜劇調には心地よく歯切れよい声、その中で渋谷女史は真実味を帯びたナチュラルな佇まい、この存在が、笑うだけの喜劇で芝居を終らせなかった、かな。会場にはOn7メンバーの姿もあった。

『毛美子不毛話』『妖精の問題』

『毛美子不毛話』『妖精の問題』

Q

STスポット(神奈川県)

2018/02/14 (水) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

満足度★★★★

Q久々二度目の観劇。『毛美子不毛話』:武谷氏出演の二人芝居、濃くなる。との期待を超えて、「異化」部分をブリッジに、あり得る本音ばなしの変則表現。一人称で語る主人公は女性、その他多数を演じる武谷が背景(もっとも主人公から分化した存在としても登場するが)。際どい?奇妙モードの場面も妙にはまって面白く見た。
周囲に求められる/自ら求める目標値と現実との落差が人を懊悩の日々へ叩きやる。その心の見る現実だか幻影だかが、「こんな夢をみた」式オムニバスでない一個の人物にまつわる光景として、その多相なありようとして見えてきた。
「渾身の作」という言葉に、この作品は相応しいと、当日パンフに作演出のコメント。そうだとすればそうかも知れないと思わせる痕跡はあった。

-サテライト仮想劇-いつか、その日に、

-サテライト仮想劇-いつか、その日に、

福島県立相馬農業高校飯舘校

アトリエ春風舎(東京都)

2018/02/11 (日) ~ 2018/02/12 (月)公演終了

満足度★★★★

東日本震災の被災県から高校演劇の作品が招待される。幾つか目にしたが実に多様で(その中に飴屋氏の「ブルーシート」も位置づけられるのだろう)、興味深い。
本作はサテライト校という我々には耳慣れない呼び名で呼ばれる学校の内、元の場所(避難勧告解除となった原発周辺の地域)にこの3月に「戻らなかった」唯一の高校の演劇部が、僅かな部員で作り上げた「その日」を仮想した作品。
原発事故から既に7年、十代の学齢期にとってこれは長く、サテライト校に元あった場所の避難民が通う率は低く、殆どが地元(福島市)から通う生徒、しかも他校に行けない受験生の滑り止め校となっている。たとえプレハブ作りでも、こうして地元に「根付いた」学校が元あった飯館に、実際に戻る学校の生徒が作る演劇であればまた別の意味合いを持つが、この作品は「仮想」して作られた事により逆に観客の想像力を刺激し、単に学校の移転の問題にとどまらない視点へと導く。
演じるのは4名の高校3年生、下の年代は居らず、今期で演劇部は廃部となるという。キャスト4名の内役者として所属していたのは二人、他の二人はスタッフ志望だったのを舞台に立たせた。脚本は2016年赴任してきた顧問により、早速部員に提案され、その時点から作り始めたものだという。決して上手とは言えない彼らが丁寧に、必死で演じて紡がれる物語が次第に、和紙をすく時に厚みを持ち始めるように、確かなものになり、涙しないでいられない場所に連れて行かれる。全国大会にも出る事になった・・最初は予想もしなかった事になったと、トークで生徒が述べていたが、無欲な彼らと「演劇」との関係が恐らく優れた「伝達」をもたらしたと、実感を裏打ちする証言だった。「終わっていない」事故、「これからも続く」社会、人生。

ヒッキー・ソトニデテミターノ

ヒッキー・ソトニデテミターノ

ハイバイ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2018/02/09 (金) ~ 2018/02/22 (木)公演終了

満足度★★★★★

ヒッキー・カンクーン・トルネード再演を遠方まで観に行きホクホクだったのを思い出しつつ、必見枠の本作(これも再演)を観る。俳優に恵まれた、とのパンフでの言に同感。古館寛治も楽しみだったが体調不良でこの日まで降板、代わりに登板した松井周について岩井氏が冒頭で説明し、2日で台詞を覚えるなど「我々のレベルになれば」訳ない、が、敢えて逆に「台本をもってやる」という風にしてみた、と言う。いきなりドッと笑いを取っていたが、実際そうなのではないか、と疑ってしまう瞬間があった程、「台本持ち」が芝居上邪魔になる事は凡そ無く、最終的にキーとなる役を「彼の方がハマり役だったかも」と思えるまでに松井氏は演じていた。という一事も感動に拍車をかけたかも知れない。
岩井秀人らしい、繊細な問題の中に人間の公平や共生や互酬や、関係の根源を問い、それが人間が「今存在する」ための全てと言って過言でないのではないかと考え始めさせる芝居。役者それぞれの演技の面白さを追求した方向性が部分を担って全体を魅力的に仕上げている。
岩井演じる引きこもり支援施設で働き始めた男性の物語上の位置取りがズルい(「ある女」に通じる)感もあるが、フェリーニ「道」以来普遍的なテーゼでもある。
笑いと深刻、情緒が別々に存在せず互いが表裏に密着している。

喜歌劇『天国と地獄』

喜歌劇『天国と地獄』

オペラシアターこんにゃく座

俳優座劇場(東京都)

2018/02/08 (木) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

満足度★★★★

「天国と地獄」はオッフェンバックによるオペラで、スタッフ欄をよく見れば「編曲」寺嶋陸生・萩京子とあった。
原曲のある作品。音楽が作品性を決定する、と言って間違いでない芝居(こんにゃく座も)があるが、これはこんにゃく座のでなくオッフェンバックのオペラにこんにゃく座スパイスをふったもの、と言うべきもの。
山田うん振付、杉山至美術と、先鋭的な舞台を期待させるスタッフ陣が目を引いたが、私の目では、この振付、美術、こんにゃく座従来の色、その他の(加藤直の?)色が主張しあってツゴツとぶつかっている。新作に久々に取り組んだ構成演出の加藤直は原作の「何でもあり」の徹底した喜劇力を頼みに包み込もうと考えたのか。ドリフの寸劇の混乱のラストや、滑稽も極まれりのタイミングで終える落語のような、ダイナミックなオチのない場合の「着地」が最大の課題で、そこがうまく行かなかったために心からの拍手にならなかったように思った。 
色々引っ掛かる事の多い舞台だったが、無時代のありきたりなドタバタに終らせないための手を尽くした実験舞台と言えるか。ただ「現代」に響かせたかったとしたら何がポイントだったか。楽曲は既にある。勝手気儘な意見を許されるなら・・、知られた楽曲以外は脚色でなく新たに詞・曲を付ける。また杉山至の地獄の美術はどう曲げてもデスメタルを誘引する。パロディ的にでも挿入する手は無かったものか。
天国地獄に共通するのが意匠としての巨大な額縁で、天国では正面に「絵に描いたような」清潔さ、悪く言えば四角四面で面白みがない・・(もっとも前半の現世場面でもこの額縁はズデンとあるのだが)、休憩中に組み替えた地獄の装置は、この額縁がひん曲がった状態で横たわっている。そして最後には地獄からの道行に使うための台状の橋が、額縁の反りあがった部分を潜って、下手奥から上手手前と置かれる。凡そ50cm位か、低ければ置く意味がなく、高すぎると額縁が歩行の邪魔をするので已む無くその間を取った寸法と見える。この装置が色んな面で失敗に思えてならなかったが、橋を「上を歩く」と「下を歩く」という物理的機能に狭めず、この台が地獄を象徴する大事なアイテム、くらいに祀り上げる効果、役者の動きとしては装置と絡めたムーブなりが欲しかった気がした。「後ろを振り向いてはならぬ」の道行きに至って、ああそのためのものかと理解するが、途中で切れた道では結果バレバレ(「後ろを振り向かずに」渡りきれるかどうかを見守る場面は「夫婦とは添い遂げるもの」かどうか、即ち芝居のテーマに関わる趣向であるのに、渡り切れない事が判ってしまうのは興ざめ)。

オペラ楽曲を歌うユリディス役のハイトーンボイス(ベルカント唱法?)を聴くに及び、この一座が基礎力に裏付けられた人間の集団である事を思い出す。普段のこんにゃく座の舞台では中々披露されないこの声が響けば一芸披露の趣き、拍手もので、お得感あり、となる。祝祭性と皮肉と、後者を狙ったが前者のベースが堅固で、完成には一歩届かず。もっとも「完成」とは何か、という話もあるが・・

ネタバレBOX

互いに別の良人を持つ熟年?夫婦の末期的関係を、修復する使命をおびた天界の者(狂言回し=セロンとヨロン)が、その使命を言明して劇は始まる。夫人が思う羊飼いは実は地獄のプルートーで、騙され命を差し出してしまう。何だかだで天国の場面、ところが夫人が居ない。議論の末、退屈な天国をおさらば、地獄へ行こう!と気勢を上げて列を組み、賑々しく退場して幕。
休憩後に地獄の場面、どうやら幽閉されているが鍵が掛かって開かない。夫人の心を目覚めさせるには、、鞭の音でなくキスの音。そこは天界のジュピターの変身術に期待、任せておれと蠅に化けて鍵穴から侵入し、スキンシップを図ると夫人は何かに打たれたよう。「可愛い蠅」を発見すると、惹かれ合い思い合って抱き合うまでに至る(サイズがどうなっているかは不明)。そして夫人が表に現れると、音楽教師の夫の弾く忌まわしいヴァイオリンの音。
だが、結局の所最後に夫婦は修復「しない」のだ。
このオチを面白く迎えるには、修復する風向きがあったり、物語上のモチベーションを持ちたいが、それは希薄。物語の定型をも茶化した原作の展開だが、「予想を裏切る」「引っくり返す」と認識されるだけの「別の予想」がくっきりと示されないので、今一つ意外性を味わう事ができない。今、「自由」を唱えるだけの「不自由」、それも男女間の恋愛の不自由があれば一つのモチベーションだし、関係修復しないと困る事があるのであれば、修復へのモチベーションになるがその点が希薄。それがこの演目の弱点。
見よ、飛行機の高く飛べるを

見よ、飛行機の高く飛べるを

ことのはbox

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2018/02/14 (水) ~ 2018/02/18 (日)公演終了

満足度★★★★

最初に戯曲を読み、後に青年座公演を観、そして今回。三つの体験の差異について考えてしまうのも、秀作戯曲である故か。青年座のは男の演出家、今回は酒井若菜という名からすれば女性に思われるが、性差のためかどうかは分からないが実は随分違う所があった。
青年座は広い舞台で喜劇タッチに描き、ベルエポックと呼ばれる大正の「良き時代」を振り返るノスタルジーの背景の上に、暗鬱な時代の予兆という色の線が引かれる感じがあった。二兎社じたい大人の喜劇色がある。
だが今回の小劇場での上演には、台詞の一つの活かし方としての日常性が相対的に減退し、全寮制女学校の生徒にむしろ相応しい緊張感が漂う。逼迫した物言いが「劇的」を増すありがちな様態とも言えるが、それぞれのエピソードがそのドラマ性を凝縮して提示されている印象だ。それは「時代」の色彩にも及び、女教師が芝居後半で取る行動がそれを余す事なく伝える。(大逆事件とその時代背景が脳裏をかすめる自分特有の見え方なのか、歴史をそれほど知らない者にも届いたのかは、判らないが。)
喜劇タッチは経験を重ねた役者が演じるのに力量的にも合致するとすれば、この作品の中心である女学生を演じるに相応しいのは彼ら年輩ではない。一々、激情の迸るのがこの作品に相応しい光景で、私は今回最も戯曲世界を具現した舞台に最後には思われた。
初見の劇団だが、秀作戯曲をきちんと舞台化する、という自分の中の予想に違わず。
プロデュース公演の常、来歴異なる人らが集う人間交差点の様相を終演後のロビーは呈しており、良い舞台なればこそ。だが一期一会の淋しさも。

かさぶた

かさぶた

On7

小劇場B1(東京都)

2018/02/03 (土) ~ 2018/02/11 (日)公演終了

満足度★★★★

新劇団所属30代女優のユニットOn7。渋谷はるかは不参加だったが6人のパフォーマンスを観る。台本の無い、物語ではない出し物は、コンテンツを揃え、うまく配置し、最後に余韻を残すように作らねばならない。身体を使うパフォーマンスは70分でも十分に濃い。若さを持ちながらも、老いへの道が確かに見える女30代の心の揺らぎ、希望と憂い、ある安定の中の所在無さが見えてくる表現だった。
土の上を素足で跳ね回る。土煙が湯気のように体から立ち上るシルエットが終盤、逆光の照明で見え、終演後にティッシュを当てると頬や鼻の穴は真っ黒。カーテンコールで「しっかり拭いて下さい」と低頭していたのは誇張でなかった。
ともあれゼロから自分(たち)自身をよすがに「伝えたいもの」「表現したいもの」を探り出し凝縮させた結晶である。パフォーマンスについては、漠として掴めない箇所もあったが、残像が後まで残る作品である。
他公演では未見だった渋谷、尾身、保以外の女優の中で、このかん観た印象的な舞台が蘇った女優も居た。この人数でのユニットが着実に精力的な企画を出し続けるのは珍しいのではないか。今後どんな形で何時まで続いて行くのか、荒波を超えて行って欲しいなどと、更に肩入れしてしまっている。

2030世界漂流

2030世界漂流

小池博史ブリッジプロジェクト

吉祥寺シアター(東京都)

2018/02/03 (土) ~ 2018/02/12 (月)公演終了

満足度★★★★

数年前web上でパパ・タラフマラの名を知り、どうやら評判のユニットらしいので「みたい!」と公演を調べたのが、解散前=最終公演の楽日前日だった。ニアミスを悔いてから数年、小池という人がそうだと耳にして、漸く鑑賞に至った。
ベースは舞踊だが、舞踊の割合を削って、多要素(音楽、演劇的シーン、うた、大道芸=ジャグリング、またはそれらを組合せたもの)を配置している。これには「舞踊」を一要素に過ぎなくする、つまり舞踊のステロタイプを解体する意図があったのでは・・と推測した。私としては、歌やジャグリングがあっても全然良いが、もっと舞踊としての完成、全うを欲するところ、そこに至ってくれず、寸止めで終わるという感覚であった。
パパ・タラの過去動画を見ると、やはり様々な要素・・音の変化に応じた変化、静止画として見せる場面(演劇的に凝縮されたシーン)、歌(ホーメイやブルガリアンボイス的な奴とか)などが舞台にぶち込まれていて、今回の出し物が確かにその延長にあると感じさせる。が、違いがやはりある。過去作品は舞踊の発展形としてではあるが「あるもの」を表現しようという目的への集中が明確で、アートであった。
一方、今回は「世界漂流」というタイトルが示唆する「寄る辺なく漂う我々」のありようにイメージを重ねる事はできるものの、世界を線(あるいは面)で切り取る作業の果てに見えて来る「何か」は、ぼんやりしている。
意味的に同じ線(方程式の傾きが同じ)が引かれて行くせいか、像が絞られて来ない。
もっとも抽象表現を受け止める受け止め方は多様にあり、ど真ん中を当てられた人もいたのかも知れないが・・私には少々抽象度が勝っていた。
「集中」という事で言えば、舞踊のベースに上モノを乗っける作業でなく、ベースが何であるか判らなくしている、という面があっただろうか。しばしば「歌う」場面になるが、本域で、あるいは日常感覚で、歌ってしまうと「演劇」的、「舞踊」的には弛緩の時間となる。時間というテーブルの上に、歌を「かぶせる」「浸潤させる」でなくただ横に並べたに過ぎなくなったのではないか。
パパ・タラ時代と異なる様相が生まれたとすれば、方法論じたいにその問題が含まれていた、という事ではないか。・・勝手な推測だが。

俳優たち。仏、フィリピンかインドの外国俳優2名と、個性ある風貌・体型の俳優ら十余名が、舞台上にほぼいつも居た。一旦はける事はあるが比較的すぐ出て来る。一つの絵を作る構成要素という意味があるのだろうが、例えば演劇的な場面が作られると、不要な人員がコロスのようにそれを見ていれば良いと思うがそれがなく、動くにせよ動かないにせよ、やはりそこで「芝居」をしている。従って総員が何らかの役を演じるという具合になっている。その時、実は各人は何らかの役を担って存在し続けていたのだ、という事になる。それは、全員が一場面を作るのでなく、各所でそれぞれ何か芝居的な関係を展開させているため、少なくとも皆一つは役を当てられているのだろうと推測させられるし、実際そうだと思う。
この役たちの物語が、演劇としての説明が足りないために十分に展開しない、というのも憾みである。
パフォーマー達の力量は確かだが、舞踊として完結しきれなかったのは全員が踊る事にしているので、(不得意な人もいるだろうから)多くを要求できなかったためだろうか、あるいは実はダンサーは少なかったのかな、など、あれこれ考えてしまった。(それにしては巧いが。)
舞台上に誰も居ない時間が、ほとんどないのは落ち着かなかった。居る時はほぼ全員居り、場面転換時に一旦皆がはけたりすると、漸く一区切りつくという感じになるが、程なく一人、また一人と現われて来る。舞台全体として「何か」を表現するというより、出演者のための舞台?
気持ちの良い動きや場面も沢山あったから良いではないか、と思いもするが、やはり何か不満が残ったというのは、何だろうかと考える。

それでふと思ったのは、舞台というのは、演劇は特にそうだが舞踊であっても、その場でその時間を過ごした共感が即ち「感動」の中身なのではないか。もっとも、感動をすぐ言葉で分かち合う事は難しいかも知れないが、人に喋りたくなるその体験は、例えば客席に自分一人しか居なかった時、同じ感動が起きるかと想像すると、「自分一人に見せてくれた」という別の感動はありそうだが、つまりは、何らかの共感を体験したという確信が、「感動した」という感情にとって重要なのではないか。
・・何が言いたいかと言えば、「解釈は人それぞれ」と突き放されると感動が薄まる理由は、「今どういう体験を共有したか」の確信が萎えるからではないか。共感・共有は、その表現が意図する「良きもの」を確信に変え、日々の力とするためにこそ必要であり、演劇が尊い芸術である所以はそこにある。
従って、私はこのパフォーマンスで例えば、「我々は厳しい時代を生きている」、あるいは「我々はどこに向かうのか何もわかっていない」、または「我々の時間とはこの世界を漂流するという事に他ならない」・・何でもいい、そのどれかを観客と「共有」できたと思えたらきっと嬉しかったなぁ。
実際、何の比喩であるのか分からないパフォーマンスが多かった。比喩を狙っていないのかも知れないが。

iaku+小松台東「目頭を押さえた」

iaku+小松台東「目頭を押さえた」

iaku

サンモールスタジオ(東京都)

2018/01/30 (火) ~ 2018/02/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

関西の劇団iaku横山拓也氏が小松台東・松本哲也に、自作の宮崎弁バージョン演出の話を持ちかけ、実現した舞台という。
緒方晋出演に萌え、千秋楽に出向いたが、その緒方氏は「よそ者」役で標準語だった。喋りが緒方晋弁なので当日パンフの作者横山氏のコメントを読むまでは気付かなかったが。。
方言を殊更エキゾチックに、ノスタルジックに用いている訳ではない。ただ、東京は遠く、「地元」との折り合いを探ろうとする「地方」のリアルが胸を締めつける。
細かく行き届き、笑い所もこまめに仕込まれた、私には珠玉の舞台になった。サンモールスタジオらしい舞台(と、どなたかが書いてた気がするが全くその通り)。小さな小さな、半径何百メートル位の話が、人生というものに私達が抱く大きな感情を包み込むようなドラマとして立ち上がっていた。
(俳優としても)朴訥とした女子高生役(小川あん)と、その相手となる性格好対照の従姉妹役(納葉)のやり取りに始まり、終わる芝居だ。高校卒業後の進路をめぐって東京対地方の構図や、家族問題がからまり、生徒数の少ない学校での教師との微笑ましくも奇異な親密さや、タイトルと関係するこの山間の町の風習なども要素となってドラマを動かす。
冒頭、二人が何気ない会話から無言の「含み」をきっかけとする暗転になるや、私は早くも胸に何かが去来し、「ちょっと涙もろくないか」と自分突っ込みをしながら見始めた。脚本のちょっとした無理にも今は気付き、評価は甘いかも知れないが、この時の幸福感は翳らない。

密やかな結晶

密やかな結晶

ホリプロ

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2018/02/02 (金) ~ 2018/02/25 (日)公演終了

満足度★★★★

この所鄭義信の舞台を立て続けに観ている。在日・朝鮮モノから離れた今度の作品は、私の中ではかつての新宿梁山泊の記憶をくすぐられるものだった。
宣材やタイトルのイメージとは異質なギャグ連発の始まりは、鈴木浩介・石原さとみのキャスティングには適合し、鄭演出の本領がのっけから暴走。シリアス、ナチュラルなモードから異質(笑い)モードへの転換の瞬間は実に判りやすく、コメディエンヌ石原に合わせた演出と得心する。
寓話的で示唆的な原作者小川洋子の筆致が想像される舞台だったが、ラストは原作通りかどうかは判らない。
音楽は芝居全編を、主に「暗鬱な社会」と「その片隅で慎ましく生きる人々」の二つのモチーフで包み、悲話の色調に仕立てている。その色調と適度の笑いのバランスは結果的にとても良く取れていた。
回転式(可動式)美術を筆頭にスタッフワークは美しく、作品世界を十全に表現した一方、キャスト(の演技)の評価は分かれるかも知れない。
いずれにしても初日、思わぬハプニングもあったが、終わってみれば鄭義信らしい愛の物語だった。
ハプニング分を差し引き、今後の伸びしろも計算に入れると、結構質の高い舞台になるかもである。

ネタバレBOX

ある島では一つずつ物(概念)が「消滅」し続けていて、今も新たに「鳥」が消滅し、やがては「小説」が消える。いろんなものが消失していくという荒唐無稽だが詩的イメージに満ちたSF物語である。
秘密警察が暗躍し、殆どの島民は消失を感知し、受け入れるが、中に例外=レコーダー=と呼ばれる人たちがいる。彼らは記憶を留めているがゆえにそう呼ばれる。芝居の冒頭は、鳥が消滅した日、鳥かごを抱えて逃げる男がついに秘密警察に捕らえられ、人々はそれをフェンス越しに見、ある一人が闇に隠れるように姿を消す、という場面だ。
照明が明るくなると、主な舞台となる邸の居間で、父母を失った娘(石原)が、「おじいさん」と呼ばれる献身的な男(村上虹郎)と共に消滅したはずの品物(両親の遺品)を手に取りながら語り合う場面。彼らはレコーダーではないが、父母の遺品を捨てられず隠し部屋に隠しているという小さなレジスタンス。ただし大多数の市民と同じく彼らも物の名を忘れ、消滅を受け入れ、その物にまつわる感情も消えている。その日、秘密警察がやって来て、父の遺品である書物を奪っていった。
小説を書き、1~2冊本も出版できるようになった娘の、貢献者だろう編集者(鈴木浩介)は彼女の小説の第一のファンと自称し、熱い賛辞を送っている。その彼は実はレコーダーであった。失われた物を全て記憶するが故に失われた物の貴さを説かずには居られない衝動を抱えもつ。秘密警察の追っ手を逃れながら、いつかそれらが自分らの手に戻ってくる日を、まだ見ぬ夢のように望んでいる・・この設定が、「物について語る」態度によって伝わり、喪失した物への愛着と、知って欲しい相手への愛が自然と重なる。かくして「消滅」の意味、消滅させる意思?の正体へのベクトルが生じるが、そこは秘密警察という見える存在によって巧みに伏せられている。
喪失について、「あながち悪いものではない」、人はそれが無くても生きて行ける事が判り、むしろサバサバしている・・と、物語の始まりで登場人物に語らせる。この「清貧」に通じる観念の一方で、失わせようとする意思の存在が、明示されないながらも変質していく局面が、終盤「左足」が消滅した時だ。不便極まりない状態に、アウトローの最後の掬い網である秘密警察の面々が「一抜けた」と言い始める。島は滅亡の予兆をはらむが、別の何かが変わる(明るい)予兆にも感じられ始めるというポイントだ。
この寓話は、愚かな権力の理不尽を人間の宿命として設定した暗喩で、まさに今の状況に当てはめる事もできる象徴的な芝居ともなったが、物語中での「消滅」が、身体に関する場合、消滅の予感があるという設定は、この暗喩から遠ざける。人が左足を引きずりながら動き回る「世も末」な終盤で、次に何が失われるかが判る、と娘は言う。衰弱した娘はついに命を落とす。一方レコーダーは左足を引きずることはない。実は消滅とは人々への洗脳を意味するのではないか・・その仮説は娘が命を奪われる事で否定されたかに見える。
秘密警察のボスとレコーダーの青年が兄弟であったエピソードや、元気の素にと娘から手渡されたラムネ(消滅したはずの)がアダとなり、町で集団リンチに遭って食材を奪い去られる「おじいさん」、一つずつ物が失われるたびに生きる力を奪われていくという様・・それらが不思議に一つの物語の中に溶け合って共存し、直線的でなく広がりのある芝居になっていた。

最後に一言。石原さとみのある種の器用さは、なり切れなさから来る下手さと同居し、結局下手に着地している。鈴木浩介の方は巧さが勝ってはいたが、二人の愛し合う様が芯の所で融合していないと、判りながら見ている状態。石原の根明さが救い、と言ってしまって良いのか考えてしまう。
むろん欠陥の無い舞台などなく、不足は観客が想像力で補うもので、今回もそのように観客は観たに違いないが、演技的にはうんと上を目指せると思われた。

初日のハプニングとは、回転舞台を回す時、現われた居間の上手端に置かれているはずのワゴンが、遠心力だろう、暗転中にガラガラガッシャンとやってしまった。明転した後、鈴木氏が下手前の惨状を、様子を窺いつつアドリブで対応し、ワゴンと必要なカップだけ拾って芝居を続けたのに客は笑いを返していた。だが上方席から見るとこのカップの残骸は一幕の最後まで気になり、またアドリブ後の仕切り直し以降の芝居は、二人の間のビビッドな関係を会話で表現する場面であったはずで、芝居としてはそこが「喪失」した穴となってしまった。もっとも、それに奮起して稽古以上の芝居ができたのだとしたら、怪我の功名なのだろうけれど。
長々と駄弁を弄した。陳謝。
Do Munch

Do Munch

みどり人

新宿眼科画廊(東京都)

2018/01/26 (金) ~ 2018/01/30 (火)公演終了

満足度★★★★

前公演あたりから気になり、初観劇。面白い理由を考えた。俳優がきちんとしている(見てくれも良く演技もしっかり)。何も無い舞台のすっきりした清潔感。水道をひねるマイムで「じゃ~」と言う(潔い)。ムンクのドラマ上の正体が最後に明らかになる(タイトルにもあるのに意識させず、最後に存在感)。色合いの異なる場面の転換で緩急。現代の庶民生活のあるある会話やエピソード。意外と深い一言が幾つか。
あるシーンの最後と別のシーンの最初が無音で繋がり、時には重なり、完全に二場面同時進行もある。その形式=芝居上の約束事が、やる側の潔さなのか、全く苦にならず、省エネでもあるが不思議とけち臭くならない。
謎解きを終えた後の展開は現実シーンは大団円、それに続く回想(抽象)シーンでは、物語の背後に流れる物語、テーマが示され、作者の意図の全的開陳となる。
横に広くステージを取り、相対する壁に言わば張り付けたような客席だったが、シーン転換の多い演出ではその形が相応しく感じられた。
殆ど地味な日常シーンの寄せ集めが、中華鍋でサッと火をとおせば鮮やかに発色。程よく予測を裏切られる気持ちよさに書き手の手練を思う。佳作。

第3回 神奈川かもめ短編演劇祭

第3回 神奈川かもめ短編演劇祭

神奈川かもめ短編演劇祭実行委員会

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2018/01/25 (木) ~ 2018/01/28 (日)公演終了

審査会もみた。

一点、前投稿に訂正。「アンケート用紙が無かった」は誤り、チラシの間に挟まっていた(陳謝)。

前稿で「地元意識」を毒づいたが、今回は神奈川からの選抜が2団体、実行委で司会もやるtheater045syndicateの中山氏による一人芝居と、昨年の勝者・チリアクターズ。結果は、前者が観客票を集めたものの戯曲選抜チーム(平泳ぎ本店)に一歩及ばず次点、後者は不評でタイトル戦に食い込めなかった。
従って「yeah!」は起こらなかったが、それよりも空席の多さだ。後部3列ガラ空きは見た目も淋しく、途中駆けつけた黒岩知事とそのお付き数名が通路近くに陣取るのに利しただけで。。上演の回は私の観た回は盛況だったが、審査会こそ面白いし盛り上がりたい。

さて審査会。今年は5名の審査員の顔ぶれも充実、初の中屋敷氏と松本祐子氏が入ってぐっと締まった。そしてお馴染みの成井豊氏、伴一彦氏、ラサール石井氏と、意見は多様ながら的確コメントで参加団体も頷いた事だろう。

問題の得点システムについて、ここでも訂正一点。観客票が4団体の内<2>団体に投票するルールが「今回新たに」と前稿で書いたが、第2回もこのルールで、1団体のみ選ぶのは第1回のみだった。
計算法も従来通りだが、今回は審査員が各人とも得点配分が20~30点とヒト桁という具合に、メリハリがついていた。恐らくそのような話が審査員内部であったか、主催側が内規的な取り決めをしたのだろう。
にも関わらず・・審査員の間で1位だった(確かそうだったと思う)中国代表亀ニ藤が、総合点で次点に泣いた。観客票合計600点、審査員票は今回5名なので計500点。
つまり、観客賞を取ったら、半ば自動的に「かもめ賞」(最優秀賞)も取ってしまう結果に終ったという訳だ。審査員票が全く無意味という訳ではないが、観客票1位と審査員票1位が別団体になった場合、換算法の決め方次第でどちらかに決まってしまう、というシステムの問題がどうしても浮かび上がってしまう。
引き続き、改善を望む。

ネタバレBOX

以下提案。

今の形を続けるなら・・
個人賞は審査員により事前に決まっているので、まずはそちらを発表。そして集計結果を「じゃ~ん」と発表し、「観客賞」が授与された後、「さあ、ついにかもめ賞の発表! ××(観客賞受賞団体)はその勝者となる最有力候補という事になりますが、果たして、最も大きなトロフィーを手にするのか、それとも審査員票がこれを覆し、別の団体がかもめ勝者となるのか!?」、といった煽りの後ドラムロール、じゃ~ん! 「××、守りました!審査員席、う~ん○○氏は悔しがっています」もしくは「なんと○○、××を押さえて勝者に!」といった展開。つまり、「観客vs審査員」の対決要素を入れ、作り手である団体に代わってこの両者が競い合う(もちろん擬似的にだが)事で、「もう一度楽しめる」。遊戯性が高められる事は作り手にとっても本望ではないか。

ただし、審査会というプログラムは審査員の発言が主導で進行し、バトルはそこから始まっていて、きちんと根拠をもった作品評価がなされていく。それがいざ得票の段になって審査員票の比重が軽いとなると、やはりよろしくない。投票という形でしか発言(意思表示)しない観客のほうが、二つの賞について授賞権を行使できる事実は、何か齟齬がある。

従って、最もすっきりするのは、観客賞をやめることだ。
個人賞授与のあと、審査員票が集計され、観客票と合わせた集計結果の発表と同時に「かもめ賞」の発表を大々的に行う、というので良いのではないか。意味の重複した賞が二つ続き、最優秀賞が二番目だと、いまいち盛り上がらない。審査員票が観客賞を覆した時のみ、何らかの盛り上がりはあり、そうならない場合、何となくしらけるのだ。(もちろん紳士的な観客により会場は受賞者への称賛で盛り上がっていたが。)

もし観客賞を残したいなら、「かもめ賞」に含めるべき観客票は、審査員が5名だとすればもう一人の審査員分に換算した観客票を加える、という扱いがふさわしい。「観客無視では決めないぞ」というこだわりがあるなら、そういう形で残す。いやそりゃ少なすぎるよ、というなら観客賞をやめなさい。いい加減気づきなさい。・・という話。

ゲームは面白く遊ぶためのルール改正をどんどんやるべきだ。
第3回 神奈川かもめ短編演劇祭

第3回 神奈川かもめ短編演劇祭

神奈川かもめ短編演劇祭実行委員会

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2018/01/25 (木) ~ 2018/01/28 (日)公演終了

満足度★★★★

Aのみ鑑賞。
シャカ力(りき)は四国から3回連続出場だが第一回のインパクトから昨年落ちた(レベル的に)所を見事這い上がった。最後の味加減を見る(出演を兼ねた彼でない)演出が欲しい。
中国代表も複数劇団による座組だが構成がシンプルで、笑いとシリアスの共存する風味が冒頭から出来上がっていてオチもOK。好きな世界。
三つ目が戯曲選抜組だったが何故か睡魔が襲い、複数エリアの「関係」を序盤で見失ったら後は霧の中、出来はよさそうだったが外さざるを得ず。
神奈川選抜は最後にほのぼの良い気分な処理は相変わらずという感じ。小田原の劇団だが、私の中にある「神奈川な感じ」というのが実は苦手(説明は省く)。だが面白く作られてはいた。
という事で票は四国代表、中国代表の二つ。

ネタバレBOX

コンペとして成熟してほしいと思いつつ、昨年までの愚痴を言えば・・
客は神奈川県民多数らしく、それは良い事なのだが、地元が勝って「いえ~い!」とJリーグに似た妙な空気が流れる。恥ずかしくないか、と思う。あなたも神奈川県人、私も神奈川県人、だから神奈川代表に入れるよね、それが神奈川県人だよね、あ、周りみんなそうじゃん、応援するぞ、おう! 馬鹿か。
集団化すると集団外の存在が見えなくなる、的なのはいやだ。コンペを開催する、参加する資質としてどうか。
勝ために競うスポーツ文化とは戦い方の異なる芸術文化、勝負は真剣で良いし喜ぶのも良いが投票が地元に偏ったら恥ずかしい、フォローせねば、と思いたいもの。

アンケート用紙があれば書き連ねるつもりだったが用紙がなかったのでここで。願わくは考慮を。
実は観客票については今回から「4劇団から2劇団を選ぶ」システムに変更(確か)となった。これは神奈川に集まりがちな票の分散効果がありそうだ。(これ以外に観客賞というのもあるので重複してしまう)
で、審査員票だが、持ち点が100とかあって、前回まではそれを各劇団に配分する形だった。従って、差を殆どつけずに点数を配分すると、観客票で大きく割れた差に拮抗する票力に全くなり得ない、という事が起きる。第一回で学習した審査員は若干差を大きく入れていたが、初心者は1点差とかで、「差」をつける意味がない。審査員のみで競う場合は問題ないが、観客票と合わせるため、観客と同じレベルの競争モードを持たないと得点の意味じたいが無くなってしまう。
(ただし昨年は上位2劇団の一騎打ちで僅差勝負となったため、コンペとしての盛り上がりは出た。)
審査員も○式か順位式にして、係数を掛ける、などで「勝負」感を出すならはっきり出したい。
さて、今回はどうか・・。
美しきものの伝説

美しきものの伝説

文学座附属演劇研究所

文学座アトリエ(東京都)

2018/01/26 (金) ~ 2018/01/28 (日)公演終了

満足度★★★★

俳優の卵の発表だが文学座のそれは、役との年齢差を見事にこえ、発語のニュアンスの精度は一つ上を行っている。Bを観劇したが、見応えあり。
宮本研作品は二度目か。大正期の傑人たちの私的世界にフォーカスした群像劇で、主な語り手に堺利彦、中心に大杉栄と野枝、その周りに島村抱月と松井須磨子、作曲家中山晋平、荒畑寒村、その他の人々。時代は東京大震災に先立つベルエポックの時代。
1968年文学座初演(書下ろし)。
最後に流れる歌が良い。素朴な旋律、深い(転調のある)コード進行は林光との事。古きよき日の映画や演劇を林光の音楽は彷彿とさせる。

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