tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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リング・アウト

リング・アウト

A.R.P

小劇場B1(東京都)

2024/09/25 (水) ~ 2024/09/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

大文字アルファベット三つ(+ピリオド)の別の劇団と峻別できた2年程前より気にしていたユニットを漸く観劇。パンフに目を落とせば主宰が「書くのは早い方」と書いてある。やっぱそうか、となぜか自分の想像と合致(今作では苦労したというのが趣旨であったが)。その想像に違わぬ上手い脚本に導かれ、楽しく観劇したが、快適な観劇車の旅は巧みな場面運びに加え、役者の貢献も大きく、付き合いの長い劇団のような濃い(緻密な?)交流が成立していたのは予想外のレベルであった。
話はファンタジックなある家族の物語であったが、後刻また吟味してみたい。

ネタバレBOX

当時幼かった娘が二十代になり、婚約相手もいるが親父に告げるのを躊躇っている、というのも「絶対に反対される」と分かっているかららしい(婚約相手がどうというより父の気性から)。
父はプロレスラーであり婚約相手というのはその同じ事務所所属の若手レスラー、ベテランで未だ現役の父が看板であり、青年の方は下っ端という感じだ。もっとも人気商売で看板を背負ってる事と本当の強さは別だとすると、そこは不明。ともかく「怖い」親父なのである。
冒頭に「当時」と書いたが、回想されるその日とは、娘の母即ち親父の妻が喧嘩の末に家を出て、「居なくなった」日。実は事故による死だったらしいのだが、最後の別れとなったのは後味の悪さを残す喧嘩の直後。父にとっては意味的に自分が死に追いやった事実なのだろうと観客は想像する。
寿歌二曲

寿歌二曲

理性的な変人たち

北千住BUoY(東京都)

2024/09/12 (木) ~ 2024/09/17 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

注目しているユニットだが先般の特別企画のガザ・モノローグやその前の公演も知らずにうっかり見逃し、今回はしかと観る事ができた。通常は「寿唱」一本でも公演は成立する所、「寿歌Ⅱ」が合わさる。蓋を開ければ2時間半と大きな負荷なく見終えた。
二作共通の役はゲサクとキョウコ、オリジナルではこれにヤソ、Ⅱはクマとカリオという役がプラスの4人芝居だ。Ⅱ→オリジナルの順で上演。時系列的に繋がっていそうな二作だが、若干テイストが違う。
Ⅱは旅一座が現役で、「宣伝隊」として鳴り物を鳴らして芝居のさわりや音曲をやる場面が賑々しく挿入されるが、役者がこれだけはっちゃけてるのに熱が上がり切らないのは空間のせいか、使ってる音のせいか・・と訝りながら見ていた。場に和みを与える女形役、途中で加わる謎の女(踊れる)が辿り着いたとある街では、一座に振り向く者もいない急いた殺伐さがあり、終末感が漂う。
その後になるオリジナルの方では、無人の荒野でミサイルがコンピュータ頭脳によって発射されているが、それを観て知っているのでその前段が描かれていると察知される。Ⅱとオリジナルの間に、人類はある境界を越えた。
超人的なヤソと出会うオリジナル「寿歌」はやはり独自の風合いがあり、結論的に言えば、二作を続きとしてまとめようとした演出が、些かオリジナルの方の趣きを削いだ感があった。
数個のパンと魚を集まった何千人の群衆に分け与えたという聖書の逸話から「物を増やせる」技を具備したヤソなる人物が、精神病みのように何かにとらわれているが、食べ物の安泰を無邪気に喜ぶ二人はそんな事に意に介さない。が、やがてヤソが居なくなった時、二人の中には何かが残る。その「何か」は観客の想念に委ねられるが、人の居ない荒野(これも聖書における信仰を理解するキー)においてこそ想念は強く広く深くなる。その戯曲の意図が、この舞台では十分にさらい切れてなかったような。。

個人的な思いとしては、新国立研修所の卒公の「親の顔が見たい」で観た荒巻まりのを恐らく約十年振りに目に出来た(チラシデザインではよく見ていたが)。腕の立つ役者。
キャストでは2作共通の役は、キョウコに荒巻ともう一名(こっちは男)、ゲサクに滝沢花野ともう一人(大西多恵子)とダブルで配していたのが大西氏が降板となり、滝沢氏のみ一人で全ステージを担ったためか、喉が枯れていた(泣)。
上質なステージであり試みも素敵だったが、上演というのは難しいものだと実感する。

セチュアンの善人

セチュアンの善人

劇団俳優座

俳優座劇場(東京都)

2024/09/20 (金) ~ 2024/09/28 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ブレヒトの代表作の一つ。長年持ちレパとしていた演劇アンサンブルの最終公演(鑑賞会公演)を観たいと申し入れていたのが上演中止となり、泣く泣く断念したのが10年近く前。そんな事を思い出したが、漸く上演が観られた。
俳優座劇場のステージが近く見える。小劇場の範疇。のっけから所狭しと走り回るワン役による所か。こんな元気の良い逸材が俳優座に居たのか・・?と驚いたら、桐朋の学生だった。学生演劇はさほど見ていないが、以前桐朋学生の発表公演を観た時の印象は、出来上がった感にまで持って行けるポテンシャル。即ち若さ、による柔軟さ。適役を与えられれば無敵状態。
本舞台では降板と再配役が相次いだ模様だが、結果的に大きな役に起用された桐朋学生の存在感と劇団とのマッチングは頗る良かった。
ブレヒトらしい皮肉の効いた寓話(教育劇を思い出させる)を心行くまで堪能。三人の神様の登場や心優しい売春婦(善人)のシェン・テと効率を重んじる冷徹なその従兄弟シュイ・タの謎が寓話性を高めて美味しい。
根底には資本主義社会の構造(人間の行動原理を含めた)を物語を使っておちょくり暴露する視点があるが、「恋愛」をまな板に載せているのが興味深い。

ネタバレBOX

現代を反映した台詞を書き加えていて、そこは気が利いていたが、結語に「効率なんてくそくらえ」の台詞を据えていたのが私としては勿体なかった(敵を「効率」の語で括ってしまうのは繊細さに欠きはしないしないか。家事だって効率を求めて主婦は賢く立ち働いている。これを糞食らえとは思わない。では何が我々の敵なのか・・考察を要する。台詞一つはとても重要だ。)。
そして最終シーン。暗転の後に中央の円形にてんこ盛りになった俳優らの塊が現われ、「2000年後」の字幕が点灯する。これが分からない。
後の解説によれば、文明の象徴である「ビル群」との事だが、ビルには見えず、本編では既に現代が混入している所、「2000年後」だと西暦4000年代か?と訝り、造形の意味も分からないので些か混乱を来す。試行錯誤の結果だったろうが、ここも少々もったいなかった。
ベラスケスとルーベンス

ベラスケスとルーベンス

やみ・あがりシアター

Paperback Studio(東京都)

2024/09/21 (土) ~ 2024/09/23 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ルネサンス〜近現代の美術史にちょうど関心を寄せていたタイミングだったので、公演を2日前に知って急遽出かけた。久々の千歳烏山周辺を懐かしく歩き、当時は無かったpaperback studioへ初訪問。
「観客に読ませる」とあったそれは予想以上に大きな部分を占め(実験公演と謳っていた事は当日知った)、これはこれで一つの要素であるが、観劇者としてはそんなアレコレを経ながら二人の画家の物語が骨太に着地していた事を喜んでいる。
「実験」についてはまた別途考察してみたい。

カンキの歌

カンキの歌

演劇企画アクタージュ

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2024/09/19 (木) ~ 2024/09/23 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アクタージュを初覗き。こういう舞台を観た記憶があったか・・と言えば無い訳ではないのだろうが、言ってしまえばエゴチックな(ゆえに散漫に見える)舞台の観劇気分(はっきり言えばもう何も起きないと諦め気分)からの終盤の巻き返しの振り幅はちょっと記憶にない体験。
最終的に19名を数える人物たちは押し並べてフザケており、その表層的な側面を絶えず見せられ、一定の理解に着地しない断ち切られる台詞。客席を意識したいい気なおフザケやアピールが混じる・・。この自分的にアウトな空気に(体調とばかりでなく)睡魔が前半襲って来ていたが(ディテイルのリアルを問題視しない感性には平気の平左かもだが)舞台が可視的に動き始めるポイントが中盤にあり、少しずつ目に耳に入って来た。そして散らかり尽した伏線を片付け終えて終了。この回収時点で初めて伏線での意味も分かり、フザケていた(ように見えた)芝居上の理由も分かるという案配。
中盤までのリアルに見えないやり取りを含むこういう脚本を、何に注意しながらどう書くのか、と興味はもたげる。
舞台上で役者が喋り、人間感情を表現し、それ以上にキャラ・アピールしたりするチャンスを準備することを使命として書いているのだろうか・・。断ち切られる台詞は喰い気味の反応で連鎖、入れ替わり立ち替わりの人物の忙しない出ハケは短距離走かつ持久走だが、大団円は訪れる。観客は笑顔になる。変な気分である。

俳優の立ち姿、顔はよーく見える。デフォルメ演技を厭わず繰り出す度量の方を評価すべきか?という思いは、自分の中では背徳的なのだが、終演後に俳優らの半数以上がズラッと並んでのトークでは、役とほぼ変わらない風情の者、真逆の風情の者、初舞台の(とは思えなかった)者、実は音楽畑の者など居て、興味深し。

星の伯父さま

星の伯父さま

風煉ダンス

上野ストアハウス(東京都)

2024/09/18 (水) ~ 2024/09/23 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

寡作と言える風煉ダンス久々の公演。堂々たる新作。祝祭性たっぷり。面白い。

・・と書いたが10年程前までは新作公演を普通にやっていた模様。「まつろわぬ民」を劇団の根城らしいせんがわ劇場で観たのが私の初風煉で、これを座高円寺でも演り、その後ツアーもやってたから、僅かな持ちネタで回してる等と勝手な当て推量。
野外劇の「スカラベ」(2016年)は雨除けテントで撥ねる雨滴を気にしつつ、目の前ではずぶ濡れの役者たちのはしゃぎ走るのを眺めたものだが、野外というのが堂に入っていてこれがこの劇団の標準形か?とも。映像で観ていたその前年の「泥リア」も野外劇。いずれも「広い舞台」を好き放題使い、小道具・大道具に衣裳への遊び的こだわりは、劇場公演も同様。その特徴は芝居を遊ぶ自由さにあり、これを体現する風煉女優の吉田、御所園らや常連男優の醸す空気が、今やある意味現在へのアンチと言えてしまうのは、讃えるべきか嘆くべきか。。

初日、バタバタで開演を迎えたような空気も場の高まりに。主宰が「ご覧下さい!」と告げたタイトルコール「星の王子さま」にツッコミが入るのもご愛敬。サンテグジュペリ及び「星の王子さま」を慕う人々と研究対象とする一人の学者(主人公)と、彼らが訪れた砂漠の地に住む謎の人々そして「願いが叶う」花を略取しに潜入している悪人コンビ。可愛らしい物語だ。「ご愛敬」はそこここに散らばり、劇空間は伸びやかである。この漂っている雰囲気が、私的にはえらく好みである。

許し

許し

avenir'e

新宿眼科画廊(東京都)

2024/09/14 (土) ~ 2024/09/24 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

紙のチラシを作らなかったらしく、直前まで私も知らなかったが、面白そうな企画(戯曲も)、役者も巧そうだし、という事で出かけた。
イタリア人の名前の作者による、ちょっと皮肉の効いた「海外戯曲」という感じだったが、路上で久々に出くわした家族同士の辛辣でこれはハートフルな話になり得ないと判るやり取り。ある真相に導かれた結果も因果応報だが不条理劇の匂いも残す。
役者が巧く、独特な世界観を成立させていた。
ふらりと出向いたにしては面白かったが、小さな劇場とは言え客席の少なさには「勿体ない」と呟かずにはおれぬ。

『ミネムラさん』

『ミネムラさん』

劇壇ガルバ

新宿シアタートップス(東京都)

2024/09/13 (金) ~ 2024/09/23 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

企画に惹かれ旗揚げ以来久々にガルバを拝見。パンフによれば今回のユニークな企画の実現に至る経緯は過去公演にあり、ガルバ的試みの必然的結実であったらしい。
三名による書下ろしとの事で、(書下ろし依頼は冒険でありしかも「×3」であるので)大きな期待せず、ただ役者の立ち姿を拝むのを楽しみに、といった構えで観劇に臨んだのだが、三つの話が明確に展開するわけではなく、三つの要素を包摂した一つの作品として仕上がっていた。(その苦労の跡が見え、最終的な構成を誰が行なったのか、とパンフを見るも不明。先程読んだ朝日新聞のレビューによれば、西本由香演出の下ワークショップにより練られて行ったプロセスがあり、集団創作の成果であるらしい。)
この些か混沌とした作りは「ミネムラさん」というカタカナ表記の一人の人物を巡る舞台の世界観に相応しかった。一人を描く事で人間を描き出そうとしている。人は多様な側面を持つ、という事でもあり、人間の存在の他者を欲する性質とその表裏の関係にある孤独、その一人の生に、捜索(といっても別役作品ばりに無責任な人物たちによる)する者たちの眼差しが注がれる、という構図。人と人を取り巻く世界をふと俯瞰させる。

作者の一人・笠木女史の大声が序盤で気になり、実は少々幻滅気味な気分がもたげたのだが、次第に気にならなくなった。(後で見ると当初の安藤千草降板によりだ代役を受けた由。)

ヤマモトさんはまだいる

ヤマモトさんはまだいる

東京演劇アンサンブル

あうるすぽっと(東京都)

2024/09/12 (木) ~ 2024/09/16 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

デーア・ローアー戯曲と聞いて予想される範疇であり、中々重層的で重厚であったが、「ヤマモトさん」という固有名詞から想像した「一つの物語」という想念を消し、違う人物が出てきたら違う物語、くらいに割り切ってエピソード集として最初から観るのが良い、と思った。前の場面とどう関連があるのか、という注意で見ているとその注意に引っ掛からないので脳内での整理が(コンディションが悪いと尚更)追いつかなくなり、睡魔となる(今回は短時間襲われた程度で乗り切った)。
理解が及ばない場面もあったが(パンフにあるキャストのコメントからして「台詞が指示する具体を探っている」とある位で)、かくありたい生を示唆し想起させる「言葉」それ自体が脳内に投げ込まれ、明滅を起こす。現実の皮相さの中での、人の緩やかな繋がりが匂って来るような。

現代か近未来チックなユニークな音楽は、何と池辺晋一郎(音程が明確な旋律ではあるが(楽譜には落せそうだ)、コード展開がなく打楽器音的に響かせている)。

出演者の数は多く、パンフには所属が書かれていないが客演俳優も結構居たのでは(私が認識できたのはOn7の宮山女史。彼女はシヅマがやった同作者の「最後の炎」に出演していた)。

高い壁で仕切られた四つの空間を反時計回りに盆を回して場面転換をするが、同じ方向へ、淡々と為されるのが段々とシステマチックに見えてしまったのは私の集中力のせいか。様々な人物たちがいて、多方向に想像力を稼働するから、並列に存在している各組が持つ特徴、というか性格付けの+αが欲しい気がした。

詩人が二つ目の詩を読む終盤に、それがヤマモトさんに向けたものだとは認識出来なかった(指示する何かを見過ごしたのだろう)。具体的なヤマモトさんを通じて、あるいはそこに居ない誰かを介して繋がっている人々の群像を作者はやはり見せたかったに違いない。
詩を読む時間、その詩には書かれていないか、読まれずに終わるテキストが、背後に流れる。その流れて行く言葉が、いや、たとえ表れずとも青年の中でこうした言葉が反芻され推敲されただろう事実が、胸に迫って来る。
それだけに「誰に向けた言葉か」「その人との関係は」を知りたくなる。だが、誰であろうと成立するでしょうに、という作者のチクリ指摘が聞こえる気がしなくもない。

バスタブで遊泳するあなたへ

バスタブで遊泳するあなたへ

劇団テアトル・エコー

劇団テアトル・エコー ケイコバ(東京都)

2024/09/05 (木) ~ 2024/09/08 (日)公演終了

実演鑑賞

約十年前にエコーで賞を獲ったものの(リーディングは別として)舞台化は困難な「人魚」が登場する(しかも複数)戯曲という事で眠っていた本作を、アトリエ公演企画の中で蘇らせたということのようである。
テアトル・エコーも久々、幾つか気になる公演を見逃している思いから衝動的に(アトリエも見たさに)出かけた。
「何かの生物になる」病気が流行しており、主になっちゃうのが「人魚」。風呂場のバスタブに籠るという症状の後、突如人魚になる、という経過は他の入院患者とも共通してる、といったよー分からん設定があったり急迫事態なのに何処かのどかに進むお芝居である。この人魚をパペットで表現し、舞台中央に置かれたバスタブ(的な装置)に入った役者が飛び出ると役者は操り手となりパペットがバスタブのヘリに腰かけ、人魚の下半身が披露される。
人魚のみならず、サボテンや、竜なんてのもあり、人魚は「上半身が魚」のパターンもある。それらの患者の連れ合いや家族、そして医師、看護師も登場。
不条理な状況に戸惑いながらも状況をある程度楽観的に受け入れている所が不条理劇であり、病気の蔓延という点ではコロナを受けての創作かと思いきや違った(パンフは後で確認)。
不条理とは言っても、病気(現象)を納得してしまえば他はリアルな人間ドラマでもある。そこで、架空世界のお話は「整合性とドラマ性」の塩梅が肝になる(矛盾が多すぎると興ざめだが、それをフックに展開する話の面白さが凌駕すれば矛盾を解消する=七難隠す)。
この芝居の場合、展開の突飛さにまず戸惑い、そして人魚のままで屋内を移動している点など、あまりに漫画チックで「興ざめ」要素は高かったが、徐々に物語の方が追いついてきた感。最初に取った遅れは私的には挽回まで行かないのだが、どうにか最後には拍手を送れた。

病気の原因は「ストレス」とされている。だとすると、今回の病気が流行りだした近年特有のストレスは何か、となる。もっとも花粉症理論で、いよいよストレスは臨界点に達しこの奇病が発生するに至ったという設定も可だが、ストレスとは人間に付き物なものでもある。私的には「今ここに至って深刻化している」ストレス状況の方を、示唆されたいのが願望である。
整合性の点では、ストレス解放のため沖縄に療養所があってそこに行けば(旅費は自分持ちだが)「発散」により治癒して(人間に戻って)帰還するケースが多いらしく、主人公夫婦も最後はそうなるのだが、同じ病院で治療中の先輩は、沖縄に行く資金がないため海を渡って沖縄へ行こうとしたが途中で全身「魚」化して海の住人となる。その理由も、その現象が暗喩しているものも、十分に説明されない放置プレイ。何か洒落を利かせた理由を出すか、現代批評があるとイイナと思った次第。
主人公に当たるのは、妊娠して臨月を迎える妻と人魚化した夫の夫婦。夫は妻の出産に立ち会いたいため、沖縄に行こうとしないが、妻は立会いは不要に思っている。というより夫が「何もできない」後ろめたさを出産立会いによって解消しようとしているように見えて仕方ない。サボテン化した「父」は献身的に尽くして来た妻と、必ずしも両親の関係に納得していない息子が絶えず見舞っているが、父は竜にも成り、その時は意識があり、サボテン化した時は意識がなく自分がサボテンになっているということも知らない(プライドを傷つけるのが心配で妻は伝えていない)。これが最後に露呈し、意趣返しといった展開になる。上半身が魚の夫を見舞う妻と主人公の妻、他の見舞人同士も知人同士となって本音吐露タイムがあったりする。主人公夫の同郷の先輩が偶然人魚化した患者で居たが、見舞い人もなく、夫が主な会話の相手、とは言えいまいち反応が薄く淋しい思いをしていた所、サボテン父の息子はよく話を聞いてくれ満たされたりする。後半で年輩の主治医が「魚である夫に出産立会いさせるか」について検討に検討を重ねた結果、人魚化してしまう(原因はストレスだから)。そして水中出産を思いつき、それなら自分も出産を担当できるし夫も立会いが出来る・・もっともその案件は妻が破水して帝王切開となり、実現はしなかったが・・といったようなエピソードが続き、大団円。
「病気」の流行は一時的なものであったような気配もあるが、「先輩」は魚となってたゆたっている。ストレス問題は社会からなくなったのか・・無孫そんな事は書かれていない。
役者はよく演じよく立ち回っていた。またアトリエでの公演を企画してほしい。

あの瞳に透かされる

あの瞳に透かされる

Pカンパニー

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2024/09/04 (水) ~ 2024/09/08 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

初日、喋り倒す人物の役がその加重な役割に翻弄されていた印象が強く残ってしまったが、作品の力強さには最後に頭を垂れた。
老齢の役(演じるその人も中々の、と見受けた)の藤夏子、メリハリの利いた立ち方に好感、既視感もあったが、後で調べると今は八十路で映像の方に随分露出していたらしいからTVか銀幕の向こうに見ていた可能性は高い。この人がオーラスに往時を思い出して動揺する場面がある。恐らく本当に動揺してしまい何か(台詞?)を見失った風であったが、その臨場感に飲み込まれた。
テーマは「慰安婦」。歴史修正がまかり通る巷の言説と、その背後にある思想の貧困、精神性の貧困(自立の対極)、即ち現代の病を照らし出す芝居でもあった。

ヘッダ・ガブラー

ヘッダ・ガブラー

ハツビロコウ

シアター711(東京都)

2024/09/10 (火) ~ 2024/09/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

本作どこかで観たと思っていたのは思い違いか(戯曲を前半だけ読んだ、等あり得る)、、あるいは毎回驚かされるハツビロコウ流アレンジによるものかも・・。
どちらにしても細部(特に後半)は記憶になかった。
以前「触れた」時の人物イメージとはまるで異なる人物が登場し、書かれて百年を経た戯曲の上演とは思えない現代性と、物語構築の精妙さがやはり印象に残る。

二日後に落ち着いて当日パンフを眺め、主宰の弁を見ると、ヘッダの戯曲をある軸を通すべく松本氏が「書いた」と書いてある。毎回気になっていた優れたテキレジだが、今回はより大胆に書き直したという事か。
特殊な人物としてのヘッダではなく、ごく普通の女性としてヘッダを捉え直した、との弁であるが、近代の憂鬱を捉えたイプセンの洞察による人物造形は、当時は(周囲の反応等で)センセーショナルに演出するに値しても、現代的視点で捉えれば「普通にいる」のかも。もっともヘッダに象徴された人間の「善悪の彼岸」を求める性質は、今も大きなテーマであり続け、収縮に向かう日本の思想状況では強力なアンチに。(三島由紀夫の価値はこうして時代に逆照射される。。)
変わる事なく息詰まる緊迫劇を作るハツビロコウである。
今回は原作を読みたくなった。

ネタバレBOX

チェーホフ作品にもあるが、「ピストルを撃つ」場面が衝撃的シーンとして登場する劇では、火薬でパチンとなる銃を使うか、衝撃を伝える銃のSEを使うか、迷う所なのだろう。だが大概はパチンよりズドーン(SE)の方が良いと思える事が多く、今回もちょっと惜しいな、と思えてしまった(展開を伝える上では大きな問題は無いのだが、観客はこれを大きく受け取りたいのだな)。
『大洗にも星はふるなり』

『大洗にも星はふるなり』

ゴツプロ!

「劇」小劇場(東京都)

2024/08/28 (水) ~ 2024/09/08 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ゴツプロ!3度目の観劇に、結局出向いた。
面白く書かれた完成度の高い一夏の(正しくはその年の冬までの)海辺の物語。
松本哲也が演出だけをやった舞台というのも初めてだったか。
登場人物らの特徴付けがデフォルメでも成立させてる所が中々パワーを生んでいる。

ネタバレBOX

一人の女性を巡る大勢の男のドタバタ、というドラマ的にありそうな構図であるので、「誰が一番彼女を想っているか」「誰が思われている事を証明できるか」的な競争も一興なのだが面白がるにも限界がある(自分の年齢的にも?)ところ、面白がらせる所は感心。色々と趣向や特徴づけとなるアトラクションが台本ないしは映画版をどの程度参照しどの程度オリジナルだったのか、にはちょっと興味がある。いつか、気が向いたら、観てみるかな。
星を追う人コメットハンター

星を追う人コメットハンター

劇団銅鑼

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2024/08/28 (水) ~ 2024/09/01 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

体調により若干寝落ちの時間があった(毎度これを言ってるが..)が、分かりやすい物語(設定も進行も登場人物も)を緩やかに味わった。老人施設の若手の男性職員3人と施設長、ベテラン女性看護師、入所者の西島さん、そして主人公の若槻(新人職員)の妻、認知症が進行しつつある西島さんが口にする親友・本田実。
天体望遠鏡で星を見るのが好きだった主人公は、西島さんの語る「12の彗星と11の小惑星を発見したすごい男」本田実の話を折ある度に聞き、話し相手となる。西島さんは毎夜姿を消す恐れがあり、聞けば「親友の葬式に行かねば」と言う。だが話し相手が出来たためか次第に落ち着いた状態となる。二人の関係が、本田実という人物はとうの昔に死んでいる事、について話の流れの中で若槻がつい言ってしまい、その後のタイミングで再び西島さんが失踪する、というのが終盤に訪れる展開。
そのラインが軸だが、もう一つ若槻は東京から故郷に戻り、転職を果たした組で、実は妻は東京に残っている。何かの事情でそうなったようなのだが、すれ違いの中で半ば諦めの境地にある二人が、若槻がこの場所で生き甲斐をもって働き、再び天文学への興味に向かっている事が、結果的に二人の関係に変化をもたらす、その筋がある。そして本田実という人物が西島さんの想念を飛び出て語る星や宇宙への思い。これがある種の媒介として位置づけられているのだが、事実として判明したのが本田実と昵懇だったのは西島さんの父で、父が受け取っていた手紙を西島さんは常に持ち歩いていた、恐らく幼い頃父を通して彼の中に本田実という存在が住み着いたのだろう、という仮説が最後に謎解き的に出される。この西島さんの存在が、他者すなわち施設の人たち、とりわけ主人公夫婦の歩みに与える推進力になるためのもう一つが欲しかった感想だ。それが何かはうまく言えないが。
ただ、台詞にはならない、西島さんの現在地(変化)や、若槻夫婦の中に流れ始めたもの、施設職員らの間に灯った火のようなものを、観客として想像し、勝手にこみ上げている自分がいた。

奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話

奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話

イキウメ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2024/08/09 (金) ~ 2024/09/01 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

この所(コロナ期に入って以後)のイキウメに深く首肯していた自分だが、往年のイキウメ作品の世界を久々に堪能。だが単に不可思議世界の存在を「面白がる」だけで終われないものがある、という意味ではグレードは上っている。とある旅館を訪れた背広姿の二人、そこには旅館の女将と奉公人風情の勤め人、小説家の客が居る。この作家を八雲に見立てて・・? 逗留の間百物語風に話を聞かせるのだが、現実の時空でのストーリーも進行しており、語られる物語と最後にはシンクロし、カタストロフのラストとなる。
文学座松岡依都美、モダンの生越女史ともう一人、客演女優も充実して(怪談には女が居なければ・・)豊饒な美味なる舞台であった。

RENT

RENT

キョードー東京

東急シアターオーブ(東京都)

2024/08/21 (水) ~ 2024/09/08 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

これを逃せば機会は無いかな、と衝動的に(仕事のシフトが変わった事もあり)チケットを買って観に行った。
マーク役の日本人俳優に特に注目していた訳でもなく、舞台に貢献してくれてさえいれば、とメインは歌でドラマを感じたく序盤のステージを観た。20数年前の日本版は日本人俳優による日本語訳での上演の一部が動画にも上がっていたが、やや興ざめ・・というのは日本語を当てた楽曲は「別物」に聞こえる。耳に入る語感の響き方は勿論違うのだがそこではなく、「歌い方」に影響を及ぼす。歌がドラマを伝えるのに役の心情のニュアンスが「歌詞を体現した楽曲」だけに歌詞が「変わる」と心情にも影響が。
全編英語での上演は、字幕を追う作業で視覚的な集中に制約があったのは事実だが、やはりオリジナルのニュアンスは代えがたかった。
私は散々DVDで観ていたつもりだが、微妙に初耳なメロディーが聞こえたりもした。だが大筋流れは分かっているから観劇に支障はなく、むしろ展開を先取りして涙腺が緩んでしまって困った。
音楽のアレンジは若干DVD版と違っていたり、あとは役者の個性が幾分異なり、私としてはモーリーンのワンマンステージをどう演じるかが、中でも俳優の個性で随分違いそうだが、今回のキャストは(DVDの俳優と比べて申し訳ないが)モーリーンのチャーミングさとこの場面の意味がよく分かり、ドラマの成立を円滑にした。

ネタバレBOX

RENT=賃貸しの部屋代を払うべきか払わざるべきか、が開幕後一発目の歌で「選択肢」として提示され、芸術家を目指す(人間として何者かであろうとする事と重ねられている)者たちの生き方を分かつ分岐点である事も読める。だから「RENT、RENT、RENT!」と叫ぶ。家賃(にすぎない代物)に支配されてる現実を、相対化し、支配を否定し得る自負のある人間が、舞台上にまず登場するのが冒頭だ。(日本では起こり得ない現実味の無い場面に見えるだろうが、米国では権利を求めて声を上げる。舞台上の状況は現実を映してもいる。)
魂を売れば金が入るという、うまい話を持ちかけられた主人公が一度そちらに靡き、このモチーフが再び首をもたげるシーンがある。
そしてエイズに苦しむ、界隈の者たち。乗り越えて自分の愛を見つけ育む者たち。ホームレス支援の抗議デモといった話題もさらりと出て来る。そちら陣営のミューズであるモーリーンのパフォーマンスはその集会でのもの。一方この女性に先日まで翻弄された主人公(男)と今まさに翻弄される渦中にあるジョアンナ(女)とがモーリーンのタンゴを踊り共感する(つまり彼女はバイセクシュアルだ)。
街で物盗りに遭って無一文になった黒人コリンズの前に現われ献身的に尽くす「エンジェル」。二人も彼らの仲間となる。主人公マークと同じアパートに住むギタリストのロジャー(ミュージシャンを目指し、今は死ぬまでに一つは名曲を作り上げたい)は電気の切れた夜に、上階に住むミミ(場末のダンサー)と出会う。二人の愛の困難と紆余曲折は中心的な筋となる。これがクリスマス・イブの夜の事。(原案となっているプッチーニの歌曲「ラ・ボエーム」もクリスマス前夜が舞台との事。)
平和を愛し人の心を思いやる「エンジェル」の存在感は実は核となっている。彼女(性別は男)が病に抗えず亡くなり(コリンズが看病し続ける場面はマイムで、他の場面の進行する脇で音楽の中、演じられる)、彼女との思い出を語る仲間たち。最後にコリンズが語り始めると歌になるが、意外な響き。ブルージーな楽曲で、天に昇ったエンジェルを高らかに讃える。
しかしその場でモーリーンとジョアンナ、ミミとロジャーの反目のやり取りとなり、コリンズは「今だけは辞めてくれ」と頼む。
不穏な予兆はやがて、貧困と病(それによる心の荒み、自己不信・・)がミミとロジャーの間を引き裂き、また彼らを撮影し続けてきた映画志望の主人公マークが、恐らくは「傍観者」以上でない己に絶望し、週刊誌に身を売るという殺伐とした終盤へ展開する。
マークとロジャーが久々に顔をつきあわせて語る。なぜミミを追いかけない? じゃお前はどうなんだ・・。底に届いたような冷たい時間が流れる。その時、寒空の下で倒れていたミミをモーリーン、ジョアンナが発見し連れて来るという事が起きる。それはマーク、ロジャーの間に忍び入ったニヒリズムにも鋭く分け入り、意識不明のミミの前で、ロジャーは、時既に遅かった「やっと作った歌」を歌う。ミミがまるで覚醒してそれを聴いているかのような場面を経過すると、ミミは突然咳き込み、息を吹き返す。そして、天国でエンジェルと会ったと言う。「彼の歌を聴いて上げて」、と言って送り返してくれたのだ、と。物語は結末を迎え、「No day, but today」のイントロとなる歌い出しから、コードチェンジしたタイトルのメロディが歩き出す。そしてやがて速度を上げて走り出し、幾回続くかと思われるリフレインに入る。
その歌の間に背景に映し出されるのは、マークが撮り続けた仲間たちの足跡を映した映像であった。完璧な舞台が幕を閉じる。

DVDには特典映像としてブロードウェイ上演最後の日の様子が収められていて、それが中々感動なのだが、その中にエンジェル・シートという格安チケットの抽選に並ぶ人たちの様子がある。劇場を取り巻くような数が列を成し、最後の日の当選者を読み上げる青年が涙しながら最後の仕事をする。空席の数は動くから、名前を読み上げるテンポも色々で、それでも最後の一人という番がやってくる。
人々はインタビューにも答え、「RENT」が自分にとってどれほど大事であったかを語り、それぞれの人生を窺わせるものがある。何度もこの舞台を観て救われて来たのだ、と語る女性もいて、今自分もその気持ちが分かる気がする・・という事が言いたかった。
あえて、小さなオペラ『魔笛』2024

あえて、小さなオペラ『魔笛』2024

シアターX(カイ)

シアターX(東京都)

2024/08/16 (金) ~ 2024/08/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

長年続く企画のようで、毎年キャストを変えて簡略版の「魔的」が上演されるというもの。毎年これを楽しみに来ている客も多いらしい。私も興味深く嬉しい「発見」で、来年も観に行くだろう。との告白にて感想に替える。

AKUTAGAWA

AKUTAGAWA

八王子車人形西川古柳座、Yara Arts Group

座・高円寺1(東京都)

2024/08/03 (土) ~ 2024/08/06 (火)公演終了

実演鑑賞

人形劇の知らない劇団へ足を延ばしてみた。
睡魔に襲わる。芥川龍之介の演目「4つの内3つ目が飛んだ。順番に羅生門、地獄変、?、河童」と思っていたが(パンプの極小文字に目を凝らしたが不掲載)、公園ページを見たら5演目。「竜」と「杜子春」の間熟睡したようである。
結果物足りなさが残ってしまったが、「車」の意味が判明。演じ手が座る縦横に稼働する台(キャスター付き)により、人形の移動の滑らかさを可能にする独自の手法だ。
座高円寺の横に広い舞台。下手側に、今回のコラボの相手だろうか、地の文と台詞を英語で喋り、舞台上部にテロップが出る。これがハードルとなり(発語から意味ニュアンスが直接に届かない)睡魔に至ったのかも。
その演じ方も独自だ。西洋演劇をあまり知らないが、ステージには和が満ちているのに劇を主導する位置に異質があり、異文化の遭遇が狙われている、と頭で理解。

いきなり本読み! in  EX THEATER ROPPONGI

いきなり本読み! in EX THEATER ROPPONGI

株式会社WARE

EX THEATER ROPPONGI(東京都)

2024/09/03 (火) ~ 2024/09/03 (火)公演終了

実演鑑賞

初EX THEATER。二階席からぐっと見下ろす格好だがよく見える。世田谷パブリックの3階席も近い距離感に思うが何故ああも遠く感じるのか。照明の具合(光度の問題)か。
感想を言うのも無粋な気がするが、書き留めておく。
使う台本で成否が決まると思われたが、今回使った台本は「ごっちん」のお話。以前「モロモロ」シリーズの端緒のような短編集成(確かKAATでの?)の一つにこれがあって、その大元は年始工場見学会(五反田)の出し物だった記憶。どうしたって後藤剛範の三つ編みカツラにスカート姿が浮かんで仕方なかったのはリーディングではイメージを助けた。名前に「たむけん」とあり、工場見学会では田村健太郎がやった役だったかも。基本子どもの残酷さ、純粋さの世界がうまく表現され、悪い大人(教師たち)と対決(ゲーム対決の様相で子どもの想像力による場面と説明するも可)、しんと心に沁みる場面もある。
今回の企画では「お前」枠というのがあったらしい。最前列中央の十数名が、該当場面に来ると順々に台詞を言う。台本上二か所「お前」登場場面がある。その枠を買った一般の観客に、岩井氏がリハを一回(ここでダメも出す)、そして本番という手順だが、本番でも途中で介入し「もっとこう」と言い直させたり鼓舞したり、指導のみならず感心したりコケたりのリアクション(「お前」たちは中々アピール度があってその生々しい、つまり生き生きした台詞にゲストも観客も楽しく反応できる)をまじえて盛り上がり面白がる時間となる。
もっとも本編も「面白がる」時間。いじられ役となる今回のゲスト、小泉今日子、小林聡美、そして伏せられていたゲスト(といっても既に公表済みであったよう)高橋文哉、板垣雄亮が、8人(以上)の役を性別年齢関係なく入れ替えてやる。のであるが、本来(自分的には、多分岩井氏的にも)ゲストのあたふた振りを面白がり、それを経ながらどうにかドラマが最後に到達、成立する事を寿ぐ趣向だったのが、ゲストらの手練れに感服する事となった。詳述したい衝動を抑えて(というかきりがない)、その事だけ記しておく。
周囲には(その会話や反応から)演劇通もいれば、滅多に劇場に来なそうな人もいたが、心から楽しむ(のが表に出まくってる)彼らの様子を見て嬉しくなる自分が居り。

野外劇 身毒丸R

野外劇 身毒丸R

吉野翼企画

西戸山野外円形劇場(東京都)

2024/08/16 (金) ~ 2024/08/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

吉野翼(たすく)企画を何時から何度観たかを忘れたが、確か生演奏の音楽がぐいぐいと劇に食い込み干渉し、寺山修司風アングラ(いや寺山作品だったかも)の暗く滾(たぎ)るようなエネルギーの充満に快感を覚えたのが最初ではなかったか。
半円形の西戸山野外劇場での本企画の舞台は二度目となるが、「身毒丸」という作品が導くものだろう、秀逸な世界であった。「継母と私」の関係だけが終始描かれる作品。父、弟、近所の人、女衒風の男や奇妙な商売の者たち、立場の者たち、コロス的に登場する「母(の候補)であり女」、動物等、妖しさにおいて中々のポテンシャルの存在が少年・身毒丸の周囲を彩る。
蜷川幸雄演出の身毒丸をずっと以前映像で観たのや、万有引力の舞台を思い出せば、目の前の「身毒丸」が視覚的にも役の発する情緒的にも、分かりやすく、相応しく思える所があった。

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