実演鑑賞
満足度★★★★
注目しているユニットだが先般の特別企画のガザ・モノローグやその前の公演も知らずにうっかり見逃し、今回はしかと観る事ができた。通常は「寿唱」一本でも公演は成立する所、「寿歌Ⅱ」が合わさる。蓋を開ければ2時間半と大きな負荷なく見終えた。
二作共通の役はゲサクとキョウコ、オリジナルではこれにヤソ、Ⅱはクマとカリオという役がプラスの4人芝居だ。Ⅱ→オリジナルの順で上演。時系列的に繋がっていそうな二作だが、若干テイストが違う。
Ⅱは旅一座が現役で、「宣伝隊」として鳴り物を鳴らして芝居のさわりや音曲をやる場面が賑々しく挿入されるが、役者がこれだけはっちゃけてるのに熱が上がり切らないのは空間のせいか、使ってる音のせいか・・と訝りながら見ていた。場に和みを与える女形役、途中で加わる謎の女(踊れる)が辿り着いたとある街では、一座に振り向く者もいない急いた殺伐さがあり、終末感が漂う。
その後になるオリジナルの方では、無人の荒野でミサイルがコンピュータ頭脳によって発射されているが、それを観て知っているのでその前段が描かれていると察知される。Ⅱとオリジナルの間に、人類はある境界を越えた。
超人的なヤソと出会うオリジナル「寿歌」はやはり独自の風合いがあり、結論的に言えば、二作を続きとしてまとめようとした演出が、些かオリジナルの方の趣きを削いだ感があった。
数個のパンと魚を集まった何千人の群衆に分け与えたという聖書の逸話から「物を増やせる」技を具備したヤソなる人物が、精神病みのように何かにとらわれているが、食べ物の安泰を無邪気に喜ぶ二人はそんな事に意に介さない。が、やがてヤソが居なくなった時、二人の中には何かが残る。その「何か」は観客の想念に委ねられるが、人の居ない荒野(これも聖書における信仰を理解するキー)においてこそ想念は強く広く深くなる。その戯曲の意図が、この舞台では十分にさらい切れてなかったような。。
個人的な思いとしては、新国立研修所の卒公の「親の顔が見たい」で観た荒巻まりのを恐らく約十年振りに目に出来た(チラシデザインではよく見ていたが)。腕の立つ役者。
キャストでは2作共通の役は、キョウコに荒巻ともう一名(こっちは男)、ゲサクに滝沢花野ともう一人(大西多恵子)とダブルで配していたのが大西氏が降板となり、滝沢氏のみ一人で全ステージを担ったためか、喉が枯れていた(泣)。
上質なステージであり試みも素敵だったが、上演というのは難しいものだと実感する。