tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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ゆうめい『姿』

ゆうめい『姿』

ゆうめい

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2019/10/04 (金) ~ 2019/10/14 (月)公演終了

満足度★★★★

下北沢演劇祭いらい久々2度目のゆうめいat三鷹。情報ゼロ・期待せずの初観劇(at下北沢)は終ってみれば面白く、作者の分身である男が体現する被虐を若い俳優の持てるエネルギーがギリギリ昇華するも、昇華より被虐の事実性(ドキュメンタリー性)に利があった、という記憶。私小説的舞台だけにネタの枯渇を心配したが(勝手な心配だが)、その後も公演を打ち、今回の三鷹公演では、やはり被虐の体験告白的要素をベースにしながら、独特な舞台を作った。
体験に基づく事実性が滲む舞台と言えば、例えばハイバイがそう。これと守備範囲は異なるが、確かに現代性があり、ウェルメイドでなく痛みに向き合わせる舞台にこだわろうとする作り手の意思を感じる所あり、舞台が提供するものを素朴に楽しんだ。
今回足を運んだ決め手は俳優陣だったが(最近俳優で観劇を決める事がしばしばある)、期待にたがわず「独特」の劇世界を支えていた。

ワーニャ伯父さん

ワーニャ伯父さん

都市雄classicS

アトリエ春風舎(東京都)

2019/10/04 (金) ~ 2019/10/07 (月)公演終了

満足度★★★★

アトリエ春風舎で時に遭遇する才能の萌芽(いや既に練達の域?)。端的に面白かった。
ワーニャ役を演じる事になったうつ患者がだけが部屋着状態で、他はエンジ色の白衣(色付きでも白衣と言うらしい)をまとった医療スタッフ。このうち体型・髪型の似た女優2名の固体識別に時間を要し、また役の掛け持ちもあり、声量の加減も様々であるので今何が起きているのか分からない時間が結構ある(体調によってはそこで睡魔が襲う)。だから一度戯曲をおさらいして観るのが理想なのだろうが、前知識がなくとも見られる。で、きっと面白い。舞台には病院の時間が流れており、その枠組の外から透かし見る「ワーニャ」は、本題ではあるが形として本題でないという構造であるので、見れただけお得というやつ。さらに終盤では本域の芝居に浸かることが出来る。
うつ病患者の風情がよく出来ている。最初、劇をやってみようという構えから読みが始まり、やがて役になり切ったかにも見えるが、後半、暫くワーニャが登場しない場面では上手奥で他の役者が喋っている間、何やらロープを持って来て天井に掛けようとして諦めたり、水を張った洗面器を持ち込んで顔を突っ込んだ所を看護師に止められたり、どこからかナイフを手に入れ腕をまくった所で看護師に止められたり・・笑えないがコメディである。
演技エリアはほぼ上手奥のベッドとその周辺。舞台手前には来ない。他の役も同じくだが、役者自身と劇中の役との微妙な距離がキープされる。この「距離」があるからこそ、飲み込み易い青汁の如く、伝わってくるものがあり、作品の巧みな媒介のあり方が探られていた。笑える美味しい場面が多々ある。役者も柔軟に機敏によく演じていた。

役者と役との距離は、観客と役との距離を縮める、という仮説を立ててみると、「現代のどこかの病院での上演」という設定はチェーホフの時代との時間的距離の縮め、我々に近づけている。ベッド上で語る終幕前のソーニャの台詞が隣りに佇むワーニャ役の患者の中に沁み込んで行く様を、自分の事のように眺めていた。

異邦人

異邦人

劇団民藝

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2019/09/26 (木) ~ 2019/10/07 (月)公演終了

満足度★★★★

民藝への書き下ろし第2弾となる中津留章仁戯曲。悲壮感目一杯であった前作とはガラッと雰囲気を変え、地方都市の日常の変化をゆったり流れる時間の中に描き出していた。劇団銅鑼に合いそうな(イメージ狭すぎか)最後にはほのぼのとした大団円を迎える芝居は中津留作品では希少、確かにパンチが弱いと感じる。ただ「心温まるいきさつ」には、テーマである所の外国人(本作ではベトナム人)と、現在の日本社会と人が出会う接点のリアルな風景があった。

今作では外国人労働者(技能実習生)の搾取や人権無視の「被害」状況よりは、ベトナム人労働者と日本人との関係が一定程度形づくられた「その先」の段階が描かれている。取材先がそうだったのか、主役樫山文枝が生きるコメディ調に合う設定を選んだのか判らないが、舞台となる洋食屋をはじめ老齢で農家を営む男、外国人を雇い入れる地元企業の上司や管理職も、外国人との共存は大前提と考えている、事実接点がある、その状況での悲喜劇となっていた。

(中津留にしては)物足りないと感じるポイントは、地元企業で働くベトナム青年が職場に嫌気をさして仕事を休み、一方「ベトナム人従業員に手を焼いている」と主任が上司に相談している案件で、幾許か仄めかされた人権侵害や搾取の顕著な実態はなく、拍子抜けするあたり。
相談役になる団体職員が、件のベトナム青年と主任を引き合わせる事2回。やがて見えて来るのは文化の違いによる認識・感情のギャップであった。
ヘイトに通じるネグレクト、つまり互いをヘイト出来る距離が保たれたケースではなく、逆に関わりが生じたからこその問題。仲の良い者同士が比較的小さなこと(新婚夫婦が味付けの好みでぶつかる的な)で反目してしまうケース。これは歩み寄ろうとするが故にこじれ、離れてしまう、ある意味で一歩進んだ望ましい関係の提示とも言える。ファンタジー要素はあるが、舞台が地方都市である所に現実味がある。
程よい距離を持ちながらの共生という事では、外国人の居住する大半の地域でそれは実現されている事を考える。外国人が「知人」となる職場の風景を思い起こすと、相手が片言だろうと一旦認知してしまうと「○○国人」という属性は後退し「○○さん」になってしまう。だから問題化せず意識もされない(集団になればまた違うのだろうが)。パンフに曰く作者が「この問題を取り上げている作品を見ない」のも、そのあたりが理由かと推量した。
日本人にとっての「外国人」を意識させる、印象的なシーンがオーラスにある。・・それはただ、今や常連となったベトナム人たちがいつもの風景のように洋食屋に入って来る、というだけの描写なのだが。俳優のラインナップを見ると、店を訪れるだけのベトナム人役として5名ばかりが配されている。これが見事に「東南アジア人」となっている。髪型、会話の調子や風情は、私にはベトナム人かインドネシア人かフィリピン人かペルー人かの違いまでは判別できないが、ある共通性、開放的で直接的で、己に対する自然体の誇りがあり、人に対する愛着を表わす笑顔を持ち・・といった印象を体現している。
息子に店を譲ろうとしている一代目とその夫人が、彼らを迎える光景の中に、お題目でない共存を示唆する種を見る思いがした。言葉を連ねる作家だが、時にこういう場面を作る。そこが不思議な魅力でもあり、やはり捨てがたい作り手である。

ネタバレBOX

外国人労働者の受け入れ条件緩和をした先般の法改正は、「公式に外国人を受け入れる」即ち可視的状態に置く=踏み込んで認知するという事が、恐らく前提だろうと、我々は考える。
(むろん好意的解釈。嘘と掌返しの安倍政治に疑念の目を向ける人もいるだろうが・・私もその一人。)
が、芝居はその前提を尊重して作られている。ご都合主義は織り込み済みだが、実際、行政の末端職員や当事者は目の前に居る外国人労働者・実習生へ一定のコミットをしているのかも知れない。そのあたりの情報は先述の通り薄いが。
体育の時間

体育の時間

玉造小劇店

ザ・スズナリ(東京都)

2019/09/26 (木) ~ 2019/10/01 (火)公演終了

満足度★★★★

中島らもが生前リリパットアーミーなる劇団を作っていた事を随分後になって知り、震災の直後にあった公演『桃天紅』(山内圭哉演出)で、らも舞台の世界を垣間見た由。件の劇団の演出を担当したわかぎゑふが元団員らと立上げた劇団を知ってより2014、2015、2019と観てきて今年は2度目だが、中島作品とは皆どれも毛色の違う割かしマジメなストレートプレイであるので、これを関東で観る意味は何だろうとつい考えてしまう。
関西弁。約一名喋ればたちまち新喜劇臭が立ち籠める女優さんが居るが、風情ある関西弁の芝居と言えたのは前作くらい。関西弁自体に既にプレミア感は無い昨今だが。わかぎゑふ女史は歴史上の出来事を題材に戯曲を書く事が多いようだが、笑い多くフィクション性の高い演出が施される。
今回も要所で笑わせ、役者も元気があったり達者だったり(唯一見知っていた俳優みやなおこは前見たのと全く異なる役柄に感心。)
女子スポーツ界の黎明期を、十代が通う当時は珍しかったスポーツ専門の学校(女子体育学校)を舞台に描いた佳作である。運動選手役は一人を例外として皆男性が演じ、これが悪くない。現在のスポーツがどう成り立っているかを改めて考えさせる先人の苦労話であり英雄譚。
舞台となった時代(大正・昭和)、古い観念や女性蔑視・処遇格差の壁に向って挑んだ先人たちを、綺麗事でない側面も合わせ描いている。そこに作者の「思い」を感じ取ることはできた。

ネタバレBOX

「秀作」でなく「佳作」の語にとどめたくなる原因を探ってみた。「悪い人」が出てこない。醜さ(運動なんかやる女はそうだ、との言い)を描いたのは勇気であるし、男性が演じることが緩衝材となり客はためらい無く笑うも可となる。だが歴史を作った人達を「讃える」物語すなわちプロジェクトX(今はプロフェッショナル)は、取り上げた対象そのものが孕む問題でケチを付けづらい空気を作る。同じスポーツでも日本では全体が揃って動く規律を重んじるが、そうでない在り方を探る契機はこの芝居にはない。私は「メダルを幾つ取るか」を言い募る五輪報道の在り方にスポーツ界の腐臭を嗅ぐ思いがする。
劇中戦前のロス・オリンピックでメダルを取った有名な前畑秀子が体育学校を訪れるシーンがある。「私は天才」を連呼しながら自分を鼓舞し・・と笑えるシーンを置いた後、再び登場して主人公の走りに才能の原石を見て声をかける。先に主人公から「水泳は好きですか?」とシンプルな質問を受けて固まってしまった前畑が、その質問に答えるのだ。「天才となった瞬間から私にとって水泳は自分だけのものではなくなった。使命があるの」。国威の発揚、戦争の代替手段として戦う、といった「使命」のもと過酷な訓練に耐える日々を送る一流選手の像が浮かんで来るが、「これを美しい姿と感じてしまって良いのか・・?」という素朴な疑問が湧く。彼女らに期待しているのは誰だろうか、と。
この芝居のもう一つの評価点は、スポーツ専門の学校運営のため金策に奔走する校長の姿。スポーツをやるには「金」が要る事を(笑にまぶしているが)赤裸々に描いている。「汚い面」と見えなくないが、それはスポーツも人気商売、「好きな事に打ち込むこと」を許される言わば特権的立場か否か、という尺度があるという事でもある。
能力を伸ばす事は人の自然な感情に適っており、(厳しい訓練であっても)それに打ち込む事が、目的でありたい訳である。ところが国のためだの、応援者のためといった別の目的が(自ら望まず)生じた瞬間、苦しいことの言い訳に「使命」は使われ、使命のための労苦を何かで代償しようとする交換の余地が生じる。
本来「好きな事」に専念することが許される実力を持ち、それに対する応援者が現れる(即ち人気を得る)、シンプルな交換関係であるのに、なぜそこに「使命」が必要であるのか。「使命を背負うこと」で得られる利得は何か。いかがわしさが見えて来ないか。
そして舞台のラスト、校旗と日の丸を両手に持った生徒たちが校歌に合わせて踊る名物踊り披露される。日の丸の好き嫌いは人それぞれだが「何のためのスポーツか」を考える時に日の丸では、如何にも無神経な印象が残る。
娯楽性が高いか否かは好みの問題だが、別の在り方を見せる・当り前を疑う視点の有無は私には演劇の生命線。という意味では、現状追認な本とも言え、そこに淋しさがよぎる。
瘋癲老人日記

瘋癲老人日記

劇団印象-indian elephant-

小劇場B1(東京都)

2019/10/02 (水) ~ 2019/10/06 (日)公演終了

満足度★★★★

先般高円寺で二十年振りに拝んだ近藤弐吉の特権的肉体に再び見えた。
演出・鈴木アツト氏の名は幾度か目にしたが(あるいはリーディング企画か何かの演出を観たかも知れぬ)主宰ユニットは初めて。恐々会場に入り、開演を待つ。結果的には初感触の舞台であった。

原作者谷崎潤一郎自身が三度結婚をし、最初の妻をめぐっては友人に売り渡す話を付けるだの、作品のイメージに違わず「色」の気のある人物だったようで、『鍵』や本作など晩年の作は老齢となった作家自身がかなり投影されているにも違いないが、老人エロ小説でありながら売りはエロでなく赤裸々な一人の老人の性の苦悶と苦悶から滲み出す快楽である。
私の関心は究極に滑稽で痛切な人間模様をどう舞台に乗せたか、な訳だが、この題材で浮ぶのは三浦大輔の超写実的演出、または朗読にお芝居要素を添える程度の演出か。。本作はいずれでもなく、原文を尊重した作りでありながら(近藤氏をオファーした理由が判る)俳優の肉体が主役の舞台であった。

ネタバレBOX

日記の記者である老人卯木督介と、その息子浄吉の嫁である颯子(さつこ)の隠微な関係に、婆さん(督介の妻か家政婦か不明)、甥の春久が若干絡むという話。日記であるからして飽くまで督介の主観で話は進むが、息子の浄吉は今は仕事に執心らしく、よく家を留守にする。暇と精力を持て余した颯子は老人の目線に気づいてか、自らの関心からか督介の情欲をくすぐるアピールをし、やがて手玉に取る。心臓病みのある老人は己の情欲と病みとの狭間で苦悶する。

舞台では女優5人がコロスとなり颯子を入れ替わり立ち替わり演じる。若い俳優が演じる老人の分身が時折登場して、会話もする。俳優が掛け持ちするのは息子浄吉と甥の春吉だが、春吉は当て馬的役回りであるからか、面を付け動きのみ、声は背後から女優が出していた。婆さん役は一人が受け持つ。
「瘋癲老人日記」の舞台化が過去あったのか不勉強で知らないが、要所を巧く押さえて構成した一つの在り方に思えた。
その分だけ惜しいと思う部分もあったが、また後日。

難癖を仄めかして放置はアンフェアなので早く書き込まねばと思いつつ。。一部だけ記す。老人の分身、と言ってもジキルとハイドといった役割分担というより颯子と同じく役を演じる一人、頻度は少ないので補助的の範囲。彼は日記の朗読で冒頭、また時折登場し、春吉と浄吉もやるが、彼を仕切り役とするのかコロスに徹させるのか、という辺りが気になってしまった。若い俳優にさはしては鋭敏さを見せる所があり元気で良いが位置取りがややぼんやりしていた。老人の分身というだけで結構重要な役なので、他の役との質の違いを出してほしくもあった。五人颯子の登場のさせ方は中々秀逸だったが、個性バラバラな中に一つ何か役柄上の共通性があると、ぐいっと来たかな、と。
「海につくまで」

「海につくまで」

津あけぼの座

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/09/28 (土) ~ 2019/09/30 (月)公演終了

満足度★★★★★

アゴラ劇場と提携関係にある津あけぼの座(三重)プロデュースの二人芝居。出演は関西出身俳優・坂口氏と数年前三重へ拠点を移した第七劇場・小菅氏、共に三十代(確か)。劇場の企画の経緯は判らないが良い仕事になった。俳優の身体能力が実証される80分動きまくる「ロードムービー」は一人多役・多場面・映像並のカット転換によって見事に成立していた。チンピラ2人を主要登場人物としてその他様々な人生模様(二人ないし三人)が伏線的に挿入されるが、それぞれ経緯あって最後には皆、南の海へと辿りつく。冴えない二人の海を前にしてのラストが、他の様々な人生行路と(直接的な接触はないが)交差し、「世界の中・歴史の中で」たまさか生まれて終える小さな人生の悲哀と輝きを圧縮して見せる。上演中休みなく疾走する役者の身体(と汗)が必死に浮かび上がらせようとする人生を、観客は想像により補いながら掬い取る、水面下のコミュニケーションが会場の熱にもなっているが、適度な冷却としてアドリブ的場面の挿入もあり、それと意識しない内に乗せられてしまう。うまい。

国粋主義者のための戦争寓話

国粋主義者のための戦争寓話

ハツビロコウ

小劇場 楽園(東京都)

2019/09/24 (火) ~ 2019/09/29 (日)公演終了

満足度★★★★

ハツビロコウ@鐘下作品。不足のあろうはずが..との確信を此度も裏切らず、開幕から緊張の糸の弛む事ない舞台だった。下北沢「楽園」の圧迫感が作品に相応しい。緊迫をもたらす状況設定も巧い。理不尽な事態に押し出されるように兵士らの口から本音の呻きが放たれる。

新型爆弾投下の報も軍に届いた敗戦直前、原爆を搭載した敵機の東京来襲を阻止する作戦部隊が駐留するとある山中へ、ある男が飛行士兼指揮官として配される。命令を告げた上官は男の兄を知っており、優秀で人望もあったその兄に代って命運を委ねると言われた男は、飛行機の知識はあっても経験値は未熟、それでも尊い使命に身を奮い立たせて現地へ赴く・・という冒頭。時折ナレーションで語られる「手記」の記者がその男なのか、行方不明となった男の兄なのか、混乱する所があったが、少なくとも弟には「入隊によって訣別したい過去」があるらしいと判る。配属先の四人の軍人らは若い通信兵、伍長、曹長、古参兵(役職忘れた)と作戦要員に相応しく一定の知識や外地経験を持つが、状況が状況だけに絶えず怒鳴り合いぶつかり合う。
「次の投下先が東京12日(広島6日、長崎9日の次)」との情報(噂)に拠り、翌日の作戦遂行へと事態は急迫するが、人員確保先に浮上した近隣の谷底の村の村人との接触を契機に、「兄」が率いたはずの先遣隊30名の不審な失踪へと、関心の焦点が移って行く。
戦争物としては変わり種なストーリー。その所以は、弟が着任した日に目にする「先遣隊」が発掘したらしい箱詰めされた縄文集落の遺物である。ナゾの事態が解かれる終盤で、戦争の是非や大義、民族意識(ナショナリズム)を巡っての議論が人類史的視野から突き上げられる。
情報を受信する事しかできない山中で次の行動をめぐって互いに対立する部隊員たちは、作戦遂行のため徴集したものの山の祟りの伝説を恐れて早く村へ返してくれと懇願する村人の言葉を、兄たち先遣隊の失踪といつしか結び付け、それを否定したい者と一定の判断をしようとする者との感情的な対立としても過熱して行く。

対原爆搭載機迎撃作戦(作者の創作?)の実体は、片道燃料を積んだ木製の特攻機と変わらぬ代物。ロケット噴射燃料に相当すると思われる物質を用い、6分以内に成層圏に達し敵機を攻撃、もしくは体当りするというもの。
「理論上は可能」と上官は言う。お芝居上の話だから荒唐無稽もあり、と理解するか、日本軍の荒唐無稽さ(無策さ)を示す話と受け止めるか。いずれにせよ、華々しく自分を飾る死に場所を得た主人公は、作戦に執着する事で誤判断を部下に押し付ける事となる。さらに村人の非協力という事態に対しては、兄たち先遣隊30名の失踪の原因を(女子供しか残っていない村の)村人らの仕業だと断定する。
「見たいものしか見えない・信じない」(先日の浮世企画の芝居ではないが)、無責任極まる希望的観測、ご都合主義、つまりは戦時の日本軍の体質そのままを体現する主人公の言動。それが何に由来するものか、そこはかと示唆するものがある。
「国粋主義者」と化す主人公には、過去の負い目と、現在の浮かばれなさがあった。「それ」以外に己を価値づけるものが「ない」時、人は国家という最大の「公」に奉仕し、人知れず(と言いながら誰かには認知されるだろうとの予測に基づき)、浮かばれなかった己という存在・人生にせめて報いる選択を行なうもの。
はっきり打算で大樹に寄り沿える徒輩とは異なり、主人公のような不器用な人間こそ、芯からの国粋主義に身を委ね、自爆テロを厭わない人間になる。他に身を立てる選択肢が他にないからだ。
人間の尊厳や人権、正義、道義といった普遍的価値が疎外され、さらには家族や中間団体といった単位が解体された社会では、最大の価値ある実体は国家であるからして、術を持たぬ者はこれに殉じて名誉と利益を得ることを目指す。
逆に言えば、為政者が民を国になびかせようとするなら、道理が通用しない状態を徐々に作り出し、自力で社会的地位を確立できない状況を作り出せば良い。翻れば、今それは着々と進められている訳である。

ネタバレBOX

この芝居の底流に無念さがあるのは、この作戦の無意味さ虚しさというのが大きい。しかしこれは「今だから」分かる事だろうか。
芝居では部隊員らに「こんな作戦が本当にやれると隊長は思っているんですか」と疑問を吐かせている。仮に芝居のような状況が当時あったとして、実際にそれを口にできたかどうかは怪しいが、「認識」レベルでは正しい現状把握というものは戦争当時も存在した。
一方、理性優位の社会であるはずの現在、軍事的には配備の価値のないイージスアショアだの、旧スペックの戦闘機を兆単位の価格で購入する無意味さを、どう評すれば良いだろう。
米国追従による(米国離反を選択した場合と比較しての)獲得利益とは一体何だろうか。
事情は恐らく、あくまで想像だが蓋然性のある想像として、対米追随路線は既定のもので揺るぎなく、それを外れようとすると逐一チェックが入るまでに定型化された関係図が実体的にか、若しくは政治を動かす当事者の想定図としてか、出来あがっている事が考えられる。実体的にとすれば日米合同会議あたりを介して(霞が関の有力官僚も名を連ねるとか)、何等かのメッセージが政権幹部に伝えられる。それに反した行動をとる担当者に対し政治生命を断つ方法など敵さんには幾らでもある。
問題は政治家と官僚が、国内の者の顔色でなく、「アメリカ」の顔色を窺ってそれをやっている事であるが、明白なのはアメリカ追従が「国益」なのではなく(そうだと説明する方法はあるが後付けに過ぎない)、自らの政治生命を突如断たれる事を、全員が全員恐れて誤った道を進んでいるのが今の政治という訳だ。少し前の自民党には、独立派もあった。反目せずとも主張はする。今の安倍某の腰の引け方は何だ。それでいて国民に対しては高飛車である。あんなものいつまで元首の座に飾っておくつもりなのか日本国民は。素晴らしい結語に辿り着いたところで、お開きに。
桜姫

桜姫

阿佐ヶ谷スパイダース

吉祥寺シアター(東京都)

2019/09/10 (火) ~ 2019/09/28 (土)公演終了

満足度★★★★

長塚圭史作品と言うと新国立劇場の子ども向けプログラムや他劇団によるリカバーを一度目にした記憶だけだったが、実際は本家阿佐ヶ谷スパイダース舞台も3年前に観ていた。「はたらくおとこ」再演は本多の後部席だったのだろう、舞台風景を殆ど覚えておらず「りんご」の話を交わす微かな記憶のみ。
今回の吉祥寺シアターでは客席を含め、舞台の建て付けがイイ感じ。不安定感とまとまりの絶妙なバランス。開閉式の床の穴が複数あり、物の出と人の消えがある。舞台最前には川に見立てられる長方形の穴がボッカリと開き、物を捨てたり人が飛び込んだり端から端へ抜ける道だったり。手前左右奥、舞台奥の下手上手袖にもハケるし、さらにに奥は溶暗している。
このどん詰まりの壁が、殆ど数秒の事だが開くと鮮やかな夜の街明かりが射し込み、人、そして車が通るのが目に入る。つまり劇場裏手の搬入口らしいと後で推察するが、仕込みであるのかどうか。いずれにせよ芝居の文脈とは無関係に突然、あたかも自然な流れのように挿入される。(つい先日KAATで観た庭劇団ペニノ「笑顔の砦」の終幕の暗転で、舞台が中央で割れ始め、逆光に映える一瞬の現象を目にするが、これと同程度に意図不明、かつ美しい数秒であった。)
ピアニカや鳴り物で構成される楽隊も、役者がやる。上演中は「やれる人」の集まりだろうと思っていたが、その位劇伴として完成度が高く、台詞の出しは(当然ながら)バッチリ。見れば何と我らが荻野清子。今回は彼女の劇音楽キャリアのきっかけとなった黒テントの方式(彼女が理想的と考えていた)を実行したのだとか。
阿佐ヶ谷スパイダースが大所帯の劇団として再出発した事を私は知らなかったが、その評価はともかく(今後の事になるだろう)贔屓女優・村岡希美氏の秀逸演技も拝め気持ち良く劇場を出た。 

ネタバレBOX

さて話は混沌としている。敗戦直後の一定現実味のある話が進行する中に、異界または幻の次元がいつか居座っている。
先の床穴がその予感を漂わせているし、孤児院から財産家へ嫁ぐ事になる女の出自は不明、挙式前夜に彼女と繋がる事となる男は記憶をなくした剣呑な復員兵。女は薄汚れた木偶を大事に持っている。その女との間の運命的繋がりを確信する篤志家は、かつて恋仲であった少年白菊と戦争ゆえに絶望し心中を試みて自分だけが生き残った過去があり、玉の輿に乗り損ねた(自ら破棄した)女に少年白菊の姿を重ね、死後も彼女に取り憑く事になる。婚約者に裏切られた金持ちの御曹司は零落し、裏社会を徘徊する。孤児の娘の「先生」であり世話役を買って出ていた中年女は例の篤志家のお付きの男とつるんでいたが、男が主の失脚を企図して勝負をかけたのに自滅して裏社会に身をやつす。復員兵と再会した娘は彼と夫婦となるが身を立てる術のない男の食い扶持のために自ら好んで商売女になる。男は女に導かれるかのように女を食い物にするヤクザ風が板に付いているが、娘が取った客が残らず逃げて困ると女衒が苦情を言いに来たあたりで、鶴屋南北の原作の匂いが漸く漂ってくる。

軍国少年や特攻還りの戦後の目標喪失、坂口安吾の「堕落論」を思い出しつつも、昔話に全く思われず、むしろ現代に通じるものを感じてしまうのは、現代の本質が混沌である事を表しているよう。
ミクスチュア

ミクスチュア

劇団 贅沢貧乏

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2019/09/20 (金) ~ 2019/09/29 (日)公演終了

満足度★★★★

2、3年前アトリエ春風舎で上演された舞台には鋭く光る才能の片鱗を見たが、後半息切れ気味で完結し切れなかったという印象からすると、直後の芸劇からのオファーには少々驚いた。喜ばしいというよりむしろ藤田貴大の二の舞に(と、私は酷評してしまうが)ならないかと不安がよぎった。背伸びして、抽象に走り、何か価値あるものを観た「ような気にさせる」お茶濁しのテクニックだけを育てる事にならないか、という不安。
主宰の山田由梨は本人が美女である事を差引けば(敢えて言及するレベル)、未だ海とも山とも知れない御仁との認識であったので、今回の観劇はエイヤと思い切りが必要であったが、見届けるべしと足を運んだ。芸劇の後押しは当てにならないと思いつつも期待を寄せて。
不穏な前置きはここまで。感想は袋綴じにて。

ネタバレBOX

演出面では実験的試みが幾つか為されていた。ただそれらは結果浮かび上るドラマ(的な何か)に対する効果として初めて評価が生まれる。
但し舞台の時間がどう統御されているかはエンターテインメントとして(たとえ晦渋な芝居でも)重要で、身体パフォーマンスとお芝居(凡そ3つ程のストーリーに属するシーン)はうまく配置され、物語と人物像が適度に謎を残しながら徐々に見えてくる流れのテンポは(映画なら編集の)職人的な成長があった(そこは山田氏の天分なのかも知れないが)。
しかし結果見えてくる物語(的な何か)は全体像として見えて来づらい。恐らく人間の何を見せたいのか、見たいのかが絞り込めなかったのではないか。
しかし中で非常に興味深かったのは風変りな仕方で繋がっているカップルの風景。作者もこの二人の事をもっと見たい見せたい思いが明確にあったに違いなく、他者と関わる態度について殆どゼロから考え始めさせるシーンを作っている。
その彼らと他者との接点も描いているが、そこに何が生じるのか丁寧に描けていない、というか掘り下げ切れず、仄めかしで終えている。
そして不特定多数が行き交う「ある社会」の風景の中に登場する動物(哺乳類的な何か)が、彼らと人間との関係の考察材料として書き込んだアイテムのようなのだが、よくある会話、よくある話の範囲を出なかった。
むしろ一般人である彼らが、別の役としてだろうが決まった時間ある場所に集ってヨガを行なう、この場所の不思議な空気感は印象的。自分の中で何かを連想しそうになりながら届かない何かがある。観客自身が言うのもなんだが「分からない(でも何か引っかかる)こと」は舞台の魅力となる。(演出家鵜山仁は意図的に「分からないもの」を舞台に「観客に考えさせる」だけのために入れ込むのだとか。)
底が見えそうな部分と深みのある部分とが斑模様な作品。「無理」がさほど見られなかったのが逆に救い。成長株の現在地を見た。

それにしても客席には著名な舞台俳優諸氏も多く、それは注目度だったりもするのだろうが、自分が知らないのも含めれば実は相当数居て、劇場は狭い演劇界の会合の場となっているのではないか、との懸念も。
君恋し

君恋し

劇団昴

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2019/09/19 (木) ~ 2019/09/26 (木)公演終了

満足度★★★★

中島淳彦作と言うと何処かでやった音楽ライブ風の公演を観たのを例外として、殆どお目にかかる機会なし。たまたまそうなのか料金やや高めだし、何となく想像される「心暖まる/ちょっと笑い」系統では費用対効果が云々と候補から外れてしまう。今回は同じ時間帯に競合他公演なく、興味津々で覗いた。
「何となく想像される」芝居の範疇では確かにあったがリアルの断片が徐々に頭をもたげて来るあたりが、この作家の真骨頂(それとも「史実」の力)?判別はつかないがこれが意外に良かった(意外は失礼)。
二村定一にスポットを当てた舞台で、以前からあった素朴な疑問・・エノケンで有名な唄の「正式な歌い手」?として逐一この人の名が上る理由・・に判りやすく答えてくれたし、音曲と人の摩擦熱とで賑わしい楽屋の光景のどこかしらから吹く隙間風は言うほど温くない。芸の世界に身を投じた人生たちを遠慮会釈なくスリコギのように混ぜっ返し、引き潰す、その酷薄さもまた良い味なり。

役者自身が生演奏で歌う舞台としては達していたいレベルにあり、舞台に華をもたらした。特にアコーディオンの弾き手は元来役者だったがある舞台で楽器と出会い、プロに師事し他の楽器もやる今や演奏家の顔が主であるという人。だが演奏は勿論、風貌・演技も貢献度大。
願望や欲求を直線的に行動に表わす者共の一途さが、愛おしく、羨ましく、懐かしい。
旅一座の役者たちや小屋主、芸人志望といった役柄をこなす役者たちに安定感あり、戦後間もない日本の「裏路地」の匂いを嗅いだ感触であった。

「笑顔の砦」RE-CREATION

「笑顔の砦」RE-CREATION

庭劇団ペニノ

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2019/09/19 (木) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★★

前作「蛸入道忘却の儀」はライブであったが今回は劇である。「ダークマスター」と同じカミイケタクヤの超リアル美術が舞台上を埋め尽くし、超リアル芝居が展開するという近年の(以前のは知らないので)ペニノ芝居。にんまり。「ダークマスター」と同様、料理が一つのポイント。緒方晋の緒方晋節も健在。リアルな生活臭が立ち昇る細部へのこだわりには脱帽。理想を言えば、客席はもっと舞台に近寄りたく、密な空間で味わいたかった。

アジアの女

アジアの女

ホリプロ

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2019/09/06 (金) ~ 2019/09/29 (日)公演終了

満足度★★★★

長塚圭史作品はカウントしていないが三、四作目と思う。いずれも荒廃した風景の中、外部との連絡困難であったり食糧難だったりの状況で人間が這うように生きている様が描かれる。コクーン規模の広いステージでは初めて。新国立への書き下ろし作品という。東日本震災前(2006)の作品だが、近未来の関東大震災後というディストピア劇の舞台の背後には、フレコンパックが置かれていた。
初演のレビューを覗くと随分ニュアンスが違う。最大のポイントは、災害や窮状が人間を活性化させる「震災ユートピア」の皮肉を評者は芝居から読み取っている。
石原さとみ演じる女は立入禁止区域で兄(山内圭哉)と共に暮らし、遠くない過去に精神を病んでいたらしい形跡(認識の混濁)があるが、行動の性質は未来志向で積極性を帯び、やがて外国人集住地区で活動する男を慕うようになり、彼のために尽くしたいのだと最後に兄に告げる事になる。その前、兄は、彼女に思いを寄せラブレターを渡す若い警官に、両腕に無数の傷跡を作った阿鼻叫喚の日々を語り、恋愛への発展に釘を刺す。だが兄は妹を保護する役回りであるかにみえ、実はアルコール依存となり希望を捨てている。震災後の物理的な荒廃は、多くの例に漏れず彼を鬱にしたが、妹の方は逆に震災を契機に活性化していく・・。先の評者はその対比を読み取った訳だ。
初演の時点では「震災」とは阪神淡路大震災であり、災害ユートピアという言葉もよく聞かれた(当時は否定も肯定もない一般概念として用いられていたと記憶する)。
妹のためにあろうとしながら酒に溺れ心に闇を抱える兄の佇まいは秀逸で、表面上「悲劇的」な場面は全くないが「こういう人いるなァ」と思わせる人物がそこにあり、彼にとっての如何ともできない状況がじんわりと見えてくる、否、想像される(実際人の心は想像するしかない)。山内圭哉の俳優力を初めて実感。

ところで東日本大震災を経た現在の私たちには、この舞台は近未来ではなく現実の延長である。大震災を(たとえフィクションでも)上のような議論を喚起する道具立てに用いる気にはなれない。初演はそもそも今回とは芝居の組み立ても違っていたのではないか、と想像するが、資料はない。

物語を紡ぐ瑞々しい言葉が、ダメ小説家であったはずの男の口からこぼれ出る場面で、作家長塚圭史の作家たる証をしかと見た。

ネタバレBOX

石原演じるアジアの女はこの世では特異である所の「純粋さ」を持つ。(これを印象づける幾つかのシーンがあり、信じさせる演技も中々。)
「病」の原因となったであろう繊細さを保持しながらにして「病」を脱し、羽ばたいていく姿を神々しく眺めるほどに、彼女という存在の誕生は、地震がもたらした社会の崩壊によると実感される事実は、先の評者の言を裏付けるだろうか。
「震災ユートピア」の意味合いを少し考えてみた。
1.震災時=非常時の気分的な高揚は、確かにある。
2.「誰かの役に立つ実感」の機会、即ちボランティア活動が被災・被害によって可能になる。
もう一つ。3.震災前の社会にあった消し難い病理が、自然の脅威により駆逐された。

3に着目。災害に備えよ、とか、テロに備えよといった防衛的な構えを促す風潮は、実は改めるべき「現在」の問題から目を逸らせるばかりか、「現在」が正常で良い状態なのである、という前提を知らず知らずに受容させる。何となく「現状に異議を唱える」事が憚られる。そういう効果がある。
今の日本社会もかなり「病理」が進んでいるが、この「進み方」も含めて膠着した状況は、恐らく人間自身の手では改める事は出来ないんだろう(今までやれなかったのだから)。
防災の視点と、災害を戒めとする視点はベクトルが逆である。
ユダヤの神はかの民族をその罪に報いて何度も滅ぼしたという。懲りない人間の歩みというのは、「こじれた状況」をリセットする超越的な他者を必要とする、という事か。
誰そ彼

誰そ彼

浮世企画

駅前劇場(東京都)

2019/09/19 (木) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

「ドリンカー」以来3年振り二度目の浮世企画。前のも同じ駅前劇場(確か)で、両面客席を組み台上を見上げる具合だった。今回は通常の仕様だが室内を斜めに配置して具象を適度に省略しながら動線のバリエーションを可能にしていた。
前回との共通点はこれと言えないが、何処となく「らしさ」を覚える。作演出の今城文恵女史の個性は、和物に馴染みが濃いところ。「和」の心を具現したような存在(人間でない)が今作のヒーローであり「人間」を見定める目の存在だ。
超常現象やファンタジーのネックは「ルール」の設定であるが、(ぼんやりな部分もあるにはあるが)うまくストーリー化できた。多種の「非人間」がにぎにぎしく、いけ好かない人間に一泡吹かせる要素も含みつつ、実家の処分を巡る兄弟の対立図の推移を見つめていく。大詰めで予期せぬ災厄が訪れるがこれを如何に理解すれば良いだろう・・何かを連想させるが言葉に乗せづらい。だがこの展開を書ける所がこの作家の特性であるようにも思う。ゴヤの絵を思い出す。

リーグ・オブ・ユース 〜青年同盟〜

リーグ・オブ・ユース 〜青年同盟〜

雷ストレンジャーズ

シアター711(東京都)

2019/09/15 (日) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

翻訳劇上演のあり方の点で、とても魅力的な個性が当初から感じられる雷ストレンジャーズ。イプセンの比較的マイナー作品でも十分期待して観た。最前列で、お面に書かれた名前(アルファベットだが)もチラチラと見ながら、中盤以降はほぼ人物判別でき、物語を味わえた。
因習のはびこる町に改革の志を持ってやってきた青年の、風見鶏的決断と我欲と無原則(無哲学?)によって敗北を喫する話をみながら、私は町びとの方に肩入れしていた。芝居もそう作られていたと思う。

愛と哀しみのシャーロック・ホームズ

愛と哀しみのシャーロック・ホームズ

ホリプロ

世田谷パブリックシアター(東京都)

2019/09/01 (日) ~ 2019/09/29 (日)公演終了

満足度★★★★

三谷幸喜作品を一度は観ておくべしとチケット購入したが、数年前もそう思って観たのを後で思い出した。確かコメディアンの生涯とかで記憶に埋もれていた位で印象もいまいちだったが、比較して今作はなかなかの印象を残した。重大事件に挑んで解決、という筋は「ないらしい」と含み置いたせいか、謎解き要素が複数盛り込まれたのがむしろ加点された感じ。観劇土産になるようなメッセージ性は特段なかったが、戯画化された役たち(演技)であるのに日常の時空に住まう人間の香りが脳裏に残るのは不思議なもので。二、三のアンリアルを除けば、人間を描いた作品であったとの後味である。値段は高いし三谷作品への期待に対してどうであったかはファンには無視できない要素だろうけれど。。
音楽の荻野清子も楽しみの一つ、以前初シアタークリエ観劇となった芝居で十数年振りの荻野ワールドへの期待が、救いようがない舞台(俳優はうまいが本がダメ)もろとも崩れた記憶が生々しいが、コメディ調の三谷作品と相性の良さを見せていた。だが黒テントが松本大洋のフシギ世界を舞台にした音楽劇で自由奔放に煌めいていた荻野清子をもう一度、どこで見られるだろう。

ネタバレBOX

ニール・サイモンは人間の輪郭を浮き彫りにする行動を書き込み、人間の意志を事態(運命)が凌駕する様を描くが、そこに神の配剤を仄めかす劇作の巧みさがある。・・そんな風に言えるとするなら、三谷幸喜は「配剤」が上位にあり人間のリアルが幾許かスルーされる面がある(そうした作品はピン桐で山とある。三谷はうまい書き手である前提での話)。
今作の美味しい場面。最終局面で兄とのカードの勝負がある。同席者全員参加しての「自分のカードを推測するポーカー(自分のカードだけ見えない)」で、シャーロックが兄と自分のカードの大小を推定していく過程などは三谷が得意としていそうで一つの山場だ。ここで発揮されるシャーロックの記憶力は発達障害の人にしばしば見られる驚くべき画像記憶の能力を連想するし、兄の弟に対する保護本能とある種の嫉妬心もひどく納得が行く(言葉で説明されるのが何ともだがミステリーの謎解きとはそういうものか)。兄が嫌悪するシャーロックの探偵業への適性の実証過程にもなるこの場面は、三谷氏の巧さである。
一方兄の退散後、喜劇の中心的役回りに八面六臂であったワトソンと、シャーロックの間で余談的に蒸し返される話題は、シリアス調だが人間ドラマの締めとしてはいまいち、というのが私には人間のアンリアルの方が気になってしまう。

ちなみにカード場面で総出となる出演者は、盟友二人の他、シャーロックの兄、シャーロックに相談に来る能天気な警部、料理が自慢の家政婦ハドソン、医師の夫より人気のある女性医師のワトソン夫人、シャーロックを担ぐため兄が仕組んだ一芝居に協力した売れない大部屋女優(シャーロックに理解を示す)の7人。
警部は冒頭からシャーロックの出したクイズ(これを解いたら相談を受けるとの約束らしい)に翻弄され、答えを言いに何度も部屋を訪れる。
大部屋女優はワトソン共々、兄がシャーロックに餌のようにぶら下げた「事件」の真相解明とともに兄の手下だった事が判明するが、この場所が気に入り出入りするようになる(苦労を知る女にシャーロックの影の方が琴線に触れているらしい様子がじんわりと伝わり、本作の唯一仄かな恋愛の要素である)。
家政婦は兄が所望した「スコーン」を作る最中に起きた小さな事件でスポットを浴びる。
残るは才媛ワトソン夫人が最終場面、「話題」に浮上しワトソン共々スポットを浴びる訳なのだが、、

夫人が去り際に渡した「例の薬」によりワトソンが毒死する寸での所でシャーロックに止められる。ここでシャーロックは僅かなヒントを繋げてストーリーを描く彼一流の推理を開陳するが、このストーリーはワトソンという人物や、シャーロックとの関係をより鮮明にして新たな全体像を提示する、事にはならず、若干の無理が滲む。
最初は兄の依頼で始めたシャーロックと同居を今はむしろ相応しいものと受け入れているワトソン。それは診療所が妻一人で切り盛りでき、彼女のほうが患者を沢山集めている事情もあり、若手の医師見習いの某も順調に育っているとの由。
だがカード勝負のあった最終日、翌日から妻はヨークシャーでの学会ではなく、ベネチアへ行くと(ワトソン不在のタイミングで)周囲に漏らす。これをシャーロックはワトソン夫人の現在の良人、新米医師とのバカンスだとワトソンに断言し、実は君はその事を既に知っていると告げる。
後は推察の通り?であるが、ワトソンの「計画」なるものはシャーロックの口に語らせてもなお杜撰さを隠せないが、「それがワトソンらしい所でもある」と、シャーロックはワトソンと一対一の謎解きの弁の最後に付け加える。最後にというのがミソ。つまりそれを言うまでは「まことしやか」に観客が耳を澄ませて聞き入る想定なのである。だがそのかん観客、否私は、シャーロックはいつ「なあんてね」と言って話を中断するかを待っている。少々居心地の悪い時間である。

私がシャーロックならこの時、ワトソンの「軽卒」や「杜撰」を指弾する前に、その「軽卒」「杜撰」が彼の何を示すものか、を刺すだろう。彼のささやかな復讐は「本気」であったのか、シャーロックに見破られる事を本当は望んでいたのではないか、ワトソンはシャーロックにとって無二の友人であったがワトソンにとってはどうであったのか、そしてそれらの疑問をシャーロックは彼一流の言辞で浮き彫りにさせていくのではないか。
ミステリー調のこの作品「らしさ」を維持するにはあの程度が丁度良い、との判断もあったかも知れないが、ニール・サイモンならその疑問こそ最大の問題にしたのではないか。。
クソ真面目に考えてしまった。
オペラ『ふしぎなたまご』+オペラ『おじいちゃんの口笛』

オペラ『ふしぎなたまご』+オペラ『おじいちゃんの口笛』

オペラシアターこんにゃく座

俳優座劇場(東京都)

2019/09/12 (木) ~ 2019/09/18 (水)公演終了

満足度★★★★

「歌劇場(かげきじょう)」は歌も多いが基本お芝居(オペラ)で、2編の最初「ふしぎなたまご」は短編、二本目の中篇「おじいちゃんの口笛」の途中で休憩となった。
チャペック作という1つ目は、以前こんにゃく座で観た「ゴーゴリのハナ」を思い出す可愛い不条理といった雰囲気があったが、残念ながら体調のせいで入眠。
2つ目は2人の子どもと初対面のおじいさん(とその友達のおばあさん)との交流を描いた、素朴で切なく美しい佳品であった。おじいさん役の大石氏の佇まいが決め手と言えるか。台本広渡常敏(原作有り)、装置は池田ともゆき、演出加藤直。
一点。最後に子どもたち2人だけによる歌(おじいさんに捧げる歌?)に移る前、うんと間を取ってほしかった。情感が湧き出す頂点で歌い出す・・くらいな感じ。
林光の音楽に出会ったのは学生時代みた映画『人間』。難破した船上の飢餓という極限状況を描いた作品でジャズ風の音が鳴る。不思議な取り合わせだが何とも印象的で名前を覚えてしまった。

表に出ろいっ!

表に出ろいっ!

演劇ユニットMR2

STスポット(神奈川県)

2019/09/15 (日) ~ 2019/09/16 (月)公演終了

満足度★★★

先日見逃した東京デスロックを同時日にやってたら一も二もなく(観に来たのに)・・とボヤキながらSTスポットを訪れたのは、野田秀樹作の珍品である出演者3人の同作を知りたさから。未知の演劇ユニットに一つ紹介してもらおう程度の構えで出かけた(一応websiteも覗いたが正体は知れず)。
元気に楽しく(自己満足でなく)芝居をやってる風景は良いものだが、1シーンのドタバタ・シチュエーション芝居とは言え、野田作だけに毒というかシビアな側面が終盤に向かうにつれ無視できなくなる。笑いが怖さに追い付かれてしまう。・・戯曲はそのようなのだが、このユニットはのっけからリアルを担保する梯子を外してしまっている。後半まで勢いで押したのはよく挑戦したと労いたくもあるが、戯曲本位でみれば押し切れるものでなく、正攻法勝負を避けたと見えた最初の心証が消えずに残った。
戯曲の核を読み違えてる、などと評せば「マジメかよっ」と返されそうでもあるが、芝居はマジメにやっていた、と思う。が、仲間内なノリに馴染んでいる様子は残念の範疇。勿体無い。

ネタバレBOX

話は、とある夜、父母+娘の3人が出産間近の飼い犬を家に残しては出て行けない状況の中、各々大事な用事(自分の趣味)へ出掛けようとしている事が判明し、私が、俺がと三つ巴の攻防、最後は外部との連絡が取れず、自分らも外へ出られない「密室」状況を迎える事になる。そこに至るための奇想天外な行動を必然化していくのが役者の奮起のしどころであり笑わせどころ。

初演データを見た。父=能楽師の役は中村勘三郎に寄せたもので、太田緑ロランスと黒木華のダブルキャストが娘役、やはり野田秀樹が母役らしい。歌舞伎役者勘三郎がお能の摺り足で父の威厳をアピール、を想像して思わずうまい、と思ったが「役」と「本人」が交錯する絶妙な線だ。
今回の上演に戻れば、今回の出演者も(実は父役を女が、母役を男が演じて笑いを狙っていたのだが)父役を男の人柄や仕事に寄せてキャラを作る線もあったのではないか。
配役で奇想天外をやってしまうと、リアルの土台が弱く、土台と突飛な行動のギャップは当然弱くなる、というわけであるが、しかし(先日の「さなぎの教室」で書いたが)「形代としての身体」による演技は演劇の可能性の広がりを予感させる。惜しむらくは、今回の上演はまず「美的でない」事。そして性別のギャップに挑戦する勇気は買われても、役作り面を冷静にみるなら父はもっと父らしく、母は母らしく人物造形をやれる余地があった。もっともそこを追求し始めれば今回の配役も無用となりそうだが。
あつい胸さわぎ

あつい胸さわぎ

iaku

こまばアゴラ劇場(東京都)

2019/09/13 (金) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

アゴラでiakuと言えば「車窓から、世界の」、と思っていたらもう三年前。瑞々しい清冽な空気の中に駅のホームが浮かび、人間模様を「覗き見」する感覚だった。元来笑いを書き込む関西の人らしい(?)作家のようだが昨秋の「逢いにいくの、雨だけど」のようなシリアスなのもある。本作は前半笑わせるが本題は神経過敏な十代の懊悩、年不相応な事態にも遭遇するがその受け止めも含めて「大人」への移行期の懊悩、が大きくは描く対象に見えた。俳優がその持ち味を如何なく発揮して躍動する舞台に。

ネタバレBOX

三鷹公演でも見た橋爪未萌里が今回「ちょっといい感じの年上の女性」を演じていた。彼女の同じ職場のシングルマザーに枝元萌、その娘・芸大一年生が主人公でチラシの女性(辻凪子)。彼女と同じマンションに住む幼馴染で、高校は別で一度も会わなかったが今回同じ大学の学生となって久しぶりに遭遇する片思いの相手(俳優志望)に田中亨、母の職場に東京から中途採用で係長になった独身男に瓜生和成。夏。橋爪は3月に話していた彼氏とは別れ、フリー。という事は登場人物皆フリー。必然、話は恋愛へ傾く。
人間関係図から眺めると、主人公がややおっとりに見え、それはそれで味があるが、もっと的に近づけるなら、母の遺伝子を継いで元気に振舞ってみせるが脆い、クラスで割と人気なキャラ、だが恋愛に不器用というギャップ・・そんな人物像も想像した。ただ、おっとりに見えてしまう(悩みがない人と思われてしまう)風貌はそれゆえの悩みも含めて様々な想像をさせた。
〇〇Pソファ第2回公演『喜劇 暗がりの代筆屋』

〇〇Pソファ第2回公演『喜劇 暗がりの代筆屋』

〇〇Pソファ

シアター風姿花伝(東京都)

2019/09/12 (木) ~ 2019/09/15 (日)公演終了

満足度★★★★

選曲に素直な心根が。代書屋でなく代筆屋。冒頭、軽快な音楽に乗って日々の仕事に勤しむフツウ組と、何故か深夜に働く「醜男」の対比をマイムで提示。この現代翻案の部分でやや退潮してしまうのが勿体ない(シラノの翻案前提)。分け隔てしない社長、「友達」になろうと言う若い俳優、そして夜に代筆を依頼して来たヒロイン。意外に慕われる根底には、シラノが武勇と詩の傑人であったように梶野は人を感動させる文章の才がある、と設定すればスッキリする。またシラノの場合その欠点が社会的地位に影響する訳でもなく、力点はむしろ欠点に悩む自意識を乗り越えようとする「心意気」にある。そしてその美徳は孤独にあった老境の彼に報いを与える。
話を冒頭に戻せば、昼勤務の社員が醜い梶野が夜どんな仕事をして収入を得ているのかを知らない事や、見た目に最も冷たいのは見ず知らずの他人であって顔見知りならもっと微妙な線があるだろう・・といった所が序盤のモヤモヤなのであったが、予想外の早い段階で話に引きこまれた。シラノの借用だけでない光る台詞もあり、最終的には無理のない翻案にできていた。
評価点に殺陣、転換(装置)、素直な演技。

日の浦姫物語

日の浦姫物語

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2019/09/06 (金) ~ 2019/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

たまに観るこまつ座。今回は説教節で物語られる「その昔」(平安時代?)のお話。井上ひさしの初期の作品との事だが、高貴な家の兄妹が犯した近親相姦の顛末を作者が敢えて書いた背景は知らないし、原典の有無(創作かどうか)も知らない。結論的には、良いものを観た。芝居のあちこちで不思議とくすぐられる。高揚感もある。
日本に近親相姦に対する禁忌が存在したのかも私は知らないが、説教節の一つの演目であるのなら仏教の戒律にあるのかも知れない。
ただ性の過ちを自らの「罪」として内在化する精神構造はどこか西洋的で、「物語」を終えた語り部が、聴衆と対峙するラストは聖書の逸話を思い出させた。
因みに「穢れ」の観念は外的な(世間の)視線を内在化する事はあっても、「罪状」に対する内省はなく人を更生させることはない。
1980年代のスイス映画に『山の焚火』という秀作があった。芝居の前段の状況はこれに近いものがあり、後段のは『オイディプス』だ。もっとも本作は「悲劇的」が目的地ではなく、母が「女」の顔を見せる部分が艶笑譚のタッチであったり。不思議な味わいだ。初演時の宇野誠一郎の音楽に時折、現代感覚の音が入るのが良く、舞台を締めていた。

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