『わたしたちはできない、をする。』 公演情報 The end of company ジエン社「『わたしたちはできない、をする。』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    まだ3回程度しか観ないジエン社だが、新たに生まれた(新調された)横浜の「小劇場」HIKARIスタジオで、試作品のような小品を興味深く観た。
    主宰・山本氏のパンフの長文を半分読み、トークでの話を聴き、帰宅してパンフの残りを読んだ。思索の跡は大真面目に演劇する演劇人の孤高を示し、アポリアを前に演劇的な具現化に挑む姿には素朴に声援を送りたくなる。
    ただし創作の成果への評価はそのものとして行なわれねばならぬ。
    ・・という前振りには合わぬが、好もしい作品であった。

    ネタバレBOX

    一点、議論があろう所は今回の製作のラディカルな方法。演劇的コミュニケーション(観客との)的には、事前に(せめて事後)承知したかったとは正直な感想だ(知らずに帰ればそれはそれだったろうけれど)。
    即ち、舞台では台詞が殆ど決められておらず、固めている部分もあり大まかな流れは定まっているが、60分程度の舞台の相当の割合を「決めてない」場面が占めるとの事で、最後の台詞も(殆ど消え入りそうな静かなやり取りだったが)「今日はああいう流れになった」、との説明。勿論これには「話題性」への下心は一切感じられず、むしろリスクを選んだ「番外公演」という事なのだろう。しかし台詞が決められていない、という事のラディカルさは、とてもそうは見えなかったと感じる自分の演劇に対する観念の方を結果的に問うものになった。
    保守的な私は、このカラクリを必ず事後に説明をする事になっているのであれば、上演形態として納得できる、と考える。それは観客との約束事がどのように成立するか、という次元での話で、こうした議論もこの試みあっての物種だ。
    そのように見れば、舞台は「完成」とは言えない出来だったと、事後的に印象記憶の変更が起きるが、それでも好感触という記憶に変更はない。

    「カラクリ」の話を続けるなら、若い俳優たちとの製作の作業は昨年夏頃に始まったという事で、相当の時間と期間を掛けている。
    「即興」そのものが持つ面白さは、それを下支えする人的レベルでの共有の上に生まれ、それを醸成するのは長期間の「共同」と想像する。上演に流れる思想や原則やエピソード、また俳優の互いについてのあれこれが、創作過程で共有される事は、作品の土台として機能するだろう事も想像される。従来のシステム(舞台の図面としての台本を元に台詞を骨組として作品化がなされる)とは異質な、しかし有機的な何ものかが形作られる。
    反論はあるだろう・・この方法では俳優らのレベルを超える作品が出来ない、と。だが私は逆で、熟成の過程は他者との「自分の中にないもの」の発見と共有、衝突と包摂という、半ば強制的な学びのプロセスとして機能する。何より「共有」は通常の舞台でも困難な課題。
    今回の作品は、「何かが出来ない」=不足のある人間存在(人間のある局面)にフォーカスするという基本的姿勢があり、「できない人が集い、できるようになったら去って行く場所(施設)」での断片的な風景を描写していくものだったが、「台本があるかのような」舞台となっていた。この事が、良い効果と捉えてよいのか、作品評価にとってどうかは今は判定困難だが、聞けば俳優が、演出が「決めたい」と思って進める稽古に歯止めをかける空気であったという。この事は、俳優らが「台詞以前のもの」(概念、思想、テーマ、もっと狭く劇のシチュエーションであったり)を内に育て、状況に身を置いてその場その瞬間に生まれるものに価値を置いたという事に他ならない。
    その指向が行き着いた取りあえずの場所は、解読しきれない部分もあったが、目を釘付けにした濃密な時間であった。

    0

    2020/02/22 03:55

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大