tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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野鴨

野鴨

ハツビロコウ

シアター711(東京都)

2020/03/24 (火) ~ 2020/03/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

本日千秋楽の舞台二つを、たまたま隣の劇場で時間をおかずに観劇。濃厚な時間に消耗気味だったが、両作とも睡眠時間ゼロであった(最近では珍しく)。
初の演目だったが、恐らく戯曲は刈り込んでおり(序盤で説明省略の跡に気づいたが、他は違和感全くなし)、今回も緊迫感に満ち満ちた、恐らく原作世界がしっかり具現されただろう舞台。人物が見え、関係から生まれる様相が見え、その結果に納得させられ、共に不安がり、安堵し、悲しみ、悔しがりしながら、傍観者であるもどかしさに歯ぎしりし、拳を握る130分であった。

ネタバレBOX

余計なお節介で人の生活をぶち壊すグレーゲルスという(本人は正義だと信じて憚らない)ご仁がいるんだが、舞台上のそいつん所へ行き、スリッパで頭をはたきたい衝動に何度も駆られた・・・儂も辛抱のでけん人間になった。
(もっとも安倍某という輩には、頬に手加減なしのスリッパが丁度いいと思うとるがな。)
安らかな眠りを、あなたに YASUKUNI

安らかな眠りを、あなたに YASUKUNI

燐光群

劇場MOMO(東京都)

2020/03/20 (金) ~ 2020/03/29 (日)公演終了

満足度★★★★

中止の連絡が来ないかと気を揉んだが、上演を敢行する模様。まだ明るい内に家を出、がらんと客のまばらな電車を乗りついで中野駅に降り立つと、雨に光る夜の町。ザ・ポケット界隈では二つの劇場の灯りが消え、残る二つだけ慎ましく入口を照らしていた。
入口では非接触体温計で検温し受付を済ませ、開演10分前まで待機した後、階段を上って入場。一つおきに指定された席に案内され、上演中は空調が稼働している事と、次亜塩素酸何とかを混入した蒸気を噴霧している旨の説明があった。

今回の燐光群はタイ演劇人との合作で、「靖国」を題材としたニコン・セタンのテキストを作者と坂手洋二が演出。主要人物2名を含むタイの若手俳優が溌剌として日本語流暢、二言語&国籍をシェアする一方の日本人勢(燐光群+客演)とのアンサンブル良し。硬いテーマを扱っていながら、愛らしさのある舞台である。国際共同製作としては高水準の仕事と思う。

印象的な部分を一つ挙げると・・
タイのある地方、祖父のお墓を訪ねたタイ青年ワンチャイの前に、友人を探して彷徨う軍服姿の亡霊が現れる。青年はどうやら霊が見えるらしく、墓参りをしても姿を見せない祖父を探して呼ばったり、一人の女性(彼の元カノ)の亡霊を退けたりしている。唯史(ただし)と名乗るその若い兵士の亡霊は、固い約束を交わした彼の戦友・伸介を探しているという。約束とは他ならぬ「死んだら靖国で会おう」。ワンチャイ青年はあるカップルを道連れに、伸介がいるかも知れない泰緬鉄道の元工事現場まで汽車旅をする事になる。
さて色々あってついに友人の亡霊と出会った唯史は、友人の伸介が靖国に祀られたがっていない事を知り、二人の間に一悶着起きる。やがて殴り合いに発展して双方潰れた後、唯史は自分が命を失った戦争の記憶を甦らせながら、自分を奮い起たせるように天皇陛下万歳を叫ぶのである。
この唯史をタイ俳優が演じ、対する友人伸介を荻野貴継が演じたが、これ程真情溢れる「陛下万歳」を私は聞いた覚えがない。
伸介と別れた唯史は、列車が急停止した線路上の場所まで戻り、「友人と会えた」事を報告して皆に別れを告げる。そして現代では、カップルが去り、ワンチャイは彼に絶えず付いて来る元カノと、ここで別れる事になる。彼女を巡っての話も面白いが省略。

「靖国」問題という危ういテーマが、他国(タイは戦争当時中立だった事もあり侵略に拠る被害は殆どなかった)の俎上に乗る事でイノセントな眼差しを得ている事がテキスト上も、上演の上でも大きい。今カノとの関係が大事な時を迎えているらしい(度々携帯で連絡している)タイ青年が、元カノの亡霊の存在を引きずりながらも、熱意に負けて見も知らぬ日本人兵士と同道するという設定が、うまく成立している。タイでのそれなりにシビアな日常が信じられるのである。
その事により問題が相対化され、耳慣れた言葉が新鮮に響いて来る。国際的な仕事の見本と言える。

冬の時代【3/28-29公演中止】

冬の時代【3/28-29公演中止】

アン・ラト(unrato)

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2020/03/20 (金) ~ 2020/03/29 (日)公演終了

満足度★★★★★

冒頭より演出的手腕がゴリゴリと迫って来る舞台である。紗幕裏の4本の枯木が照明に映え、冒頭、雪(芝居用と判る)が舞う。冬の時代のタイトルロールに等しい。次いで、「以下の文が舞台上に映し出される・・」という原作のト書きが、恐らく作者の手書き原稿だろう、白抜き印刷した映像で紗幕に流れて行く。ト書きを無視せず背景に使った巧い処理により、この戯曲が古典である事とそれを今再現しようとしている事が、さり気なく前置きされる。
中央の張り出し舞台の前面に二本の柱(頂上にもう一本渡され、コの字を伏せた形。首を括れる)。黒褐色の卓、本棚、椅子などの調度が古色蒼然。
若い俳優の起用は当初の方針であった由。若手二枚目が数名では役柄の腑分け(個体識別)に時間を要したが、俳優力に納得。演技・発語のテンションは鐘下舞台に通じ、青春群像の一つの解釈として受け止めた。
3幕舞台の幕間休憩が2度。初めて耳にした作品だが、熱い台詞劇も木下氏は書いたのだと新鮮。戯曲の構成は見事で一幕は赤旗事件、大逆事件の衝撃冷めやらぬ中の売文社(堺利彦社長)内で、赤旗事件で捕縛されたお陰で大逆事件を逃れた面々による喧々囂々唾を飛ばす議論の最後、革命歌が飛び出し、やがて大合唱、「革命」の志を刻み、同志を失った無念を歌に乗せて身を震わせる男たち、そして馬鹿な男たちにもこの時だけはほだされる女たち・・暗転。

木下順二の生きた時代なら自身が体験しただろう議論だけに「革命」が義たる事を大前提とした激論、分派化の必然の流れが見事に辿られ、目が離せない。初演された1964年はまだ政治の時代の渦中であった。
直近では匂組公演で観たこの題材の芝居は多々あるが、この作品は大杉栄や荒畑寒村より年輩で、実社会を知る堺利彦を軸に据える。彼が「事の現実性」を語るときの感覚は、現代の私たちの感覚に近く、共感できる(これが時代が違えば又違うだろう)。じっくり腰を据えねば革命など見えてこない、人間はそれほど単純でない・・。
現実的である事と、理想を持つ事とは共存でき得るはずであるところ、理屈・論理が勝つ若者には感覚的にしか認識できない「現実」を理解できず、非論理性を攻撃し分派して行く、という「運動」の典型的な軌跡がこの舞台にも。連合赤軍事件を見ないこの時代、作者は彼らの姿を青春群像として描き、演出もこの戯曲の狙いに寄り添いつつ完結させたと見えた。

これは戯曲の問題だが、エンディング部分が長く、時代性かな、と思う。もう一つは、ちょい役が4人ばかりある中で、「主義者」の一人、渾名キリストという若者が最後に凶報を届けに登場するのだが、これに二枚目系を当てたのが私としては失敗。ちょい出は(他の役はそうだったが)一発で印象に残る個性派を配するべき。あるいは熟練の演技派でないと・・もう1エピソード始まるかと期待してしまった。

それにしても客席の埋まり具合が非常に残念であった。料金高めの舞台ではあるが、、この時期とは言えかなりの目減り、演目のせいだろうか。。
だが私としては、今この演目をチョイスした大河内直子の懐を思う事である。

ネタバレBOX

観てほしい舞台だったが28、29ファイナルまでの3ステージが中止に。悔しいことだろう。芝居どもども苦渋の思いをバネに良い仕事をして行ってほしい。(心情的にも随分肩入れしてしまったようで。)

付記:座席の問題について書かれていたのを読んで。
私の席は正にその問題の最前列サイドの見づらい席であった。見始めは「こりゃないな」と消沈しかけたが、開幕早々引き込まれて気にならなくなった(今の表情見たいと思う箇所があったが少し乗り出して確認)。逆にかぶり付きだからこその臨場感と感動であり俯瞰できたらさほどでなかったかも、等と解釈したような案配で、いやはや。
(マスク少年の記憶がないのだが、、中止を余儀なくされた事への何らかの「表明」であった、とか。)
蝙蝠傘と南瓜【3月28日(土)~30日(月)公演中止】

蝙蝠傘と南瓜【3月28日(土)~30日(月)公演中止】

劇団銅鑼

銅鑼アトリエ(東京都)

2020/03/19 (木) ~ 2020/03/30 (月)公演終了

満足度★★★★

銅鑼のアトリエ初訪問。消毒・マスク・もぎり省略等のコロナ対応を励行。表通り(幅狭バス通り)から程よく引っ込んだ建屋の劇場スペースは下北の小劇場規模。アットホーム感がある。舞台も近く、役者の顔が化粧の乗りが目に入る程の臨場感。
芝居の方は詩森ろば所縁のスタッフ(音楽:後藤浩明、音響:青木タクヘイ、美術:杉山至)を揃えての躍動的舞台。
とりわけ客演・林田麻里女史が私としては引きであり、飛び道具的ポテンシャルを持つ(と思っている)女史が、銅鑼舞台の中にどう居住まうのかが密かな関心。ドンピシャとは行かなかったが主役・島隆(りゅう)役を担って「ならでは」の芝居になった。対する夫・霞谷役の館野元彦が銅鑼の主役級を(恐らく)担って来ただろう貫禄。どこかで見た名と思えば先般の劇団協主催の喜劇『マジメが肝心』で神父役であった。
ステージをフル活用した回転舞台、歌、ムーブ、劇中劇構造を生かした場面つなぎのフレキシブルさとテンポが詩森「演出」の特徴だが受けが良いようである。二人の現代人以外は着物であるのも趣きを醸す。(幕末の上野戦争の直前、懇意の上司が二人を避難させる目的で自宅に招くのだが、その準備の時間に夫婦の会話をしながら正装の袴を履かせる隆の妻らしい慣れた手捌きが見事であった。)

ネタバレBOX

詩森氏の「演出」が苦手、と述べている自分だが、今回その理由がより判った気がした。
場面の質としては、「OKINAWA」や「コタン虐殺」にもあった「詳しくないあなたへのミニレクチュア」的な場面がその典型なのだが、台詞をリレーしながら、ノリ良く解説というこのノリがちょっと苦手なのである(コタン虐殺のは趣きある場面になっていたが..)。
このノリはドラマの時空(この芝居では幕末の江戸)を、楽々と超越して、現代の気楽なモードに戻り時空を相対化する。これは歴史に介入して現在の視点から解釈を施すのに便利な手法であり、時代のギャップによる未消化が生じないための親切な配慮だ。が、この「現代のノリ」が、浮薄に見える。
今回はアップテンポのジャジーなMに乗って着物姿が各々体を揺らすが、場面転換を兼ねていたりするものだから、「転換仕事」が主で演技はおろそかになる。現代性の参照は役者自身であり、「踊る」形やバックの音楽も場面を規定しているが、どことなく一般化された「現代」の感性にとどまる。芝居にするまでの歴史的題材と「関係」を切り結ぶには、どうも浮薄な「現代」のありようで、別にこれが現代だと言ってはいないのだろうが、「そこに我々(の代弁者)が居る」とは思いにくい。
ドラマ的には、女性記者が、島隆に対峙する現代人であり、二人が初めて目を合わせるラストなどは良い絵であったが、余分な成分(他の現代的要素)が混じっても揺るがない構図であったかと言えば、どうだろうか・・。

今回の歴史探訪は、作者が見た隆と霞谷(かこく)の「バカップル」ぶりを軸とし、新たな扉が開かれた時代へ漕ぎ出した人たち、とりわけ因習に閉じられた女性たちの人生への願望に焦点が当てられているが、不安を超えて強い欲求に突き動かされて行く隆をはじめとした女性たちの群像描写が、作者の一方の目的だったのだろう。
ただ、島家に出入りするのは当時の舞台役者らを除けば基本士族の界隈の人間なので、島隆が仮名を教えた二人の女をもって「女性」を代弁させる事に甘さを感じる。階級性までを描き出せとは言わないが、社会が多層的であるとすれば、この芝居では同じベクトルを向いた人物で占められ、対自己批評性は薄くなる。島隆のエネルギッシュさが潜在的対立をも飲み込んで行く様が、描かれているとも言えるのだが、やや「礼賛」に傾く。その弊害は、そうなると彼女への真の眼差しを持ち得たかに一抹の疑問が湧き、史実上の彼女への興味はいまいちもたげて来ないという事がある。ここが「リアリズム」劇との別れ目と言えるかも知れない。
テキストには工夫がある。夫の死期に際し、付き合いのあった者(芝居に登場した者たち皆)が次々に見舞いにやってくる。そして夫は天気の良い庭を見たいと寝室から舞台に出てくるのだが、座椅子に座った夫・霞谷を囲んで和やかに話をする内、「死」を踏まえた話を始めた夫に「縁起でもない」と笑いにまぶした隆に、元生徒である女性の一人が「隆さん、今じゃないですか。今向き合わんなら何時向き合えるの」と言う風な台詞を言う。エネルギッシュで前向きで好奇心の塊となって暗さを排して突き進んで来た隆が、元生徒の言葉に従って「手を握り」「夫の目を見て」真情を語る場面。
一個の人間に還元していく場面ではあるが、知人環視での場面として成立するには、「現代ノリ」の残滓に引っ張られない、各々の強い存在感が、やはり欲しくなる。もっとも作者はこれがフィクションである事を表明しており、ある面で正直な作りと言えるのかも知れぬが。。
桜の森の満開のあとで(2020)

桜の森の満開のあとで(2020)

Ammo

新宿シアター・ミラクル(東京都)

2020/03/12 (木) ~ 2020/03/18 (水)公演終了

満足度★★★★

初演のfeblaboプロデュース公演を思い出しながら、作者本人による演出を興味深く観た。ある大学のゼミで卒業もかかったモック(語尾を上げる発音)、即ち模擬会議を展開する模様が描かれる。
この会議は安宅市という北陸地方の架空の町の議会機能として採用されている「連合会議」を再現する形で行なわれる。出席者はその帰属先の代弁者という事で「商店」「議会」「漁民」などのカテゴリー名で呼ばれるが、初演ではこの呼び名と人物とが中々結びつかず、かなりアップテンポでラストは煙に撒かれた感も無くはなかった。今回は打って変わり、「こんなに少なかったっけ」とキャスト表を見直した程。

さてゼミの年度最終試験として行なわれるモック(模擬会議)のテーマに選ばれたのが、「高齢者から選挙権を剥奪する」条例案。「安宅市」はゼミでモックを行なう際の定番らしく、議会、商店、漁民、農民、観光、住民(南)、住民(北)、オンブズマン(勧進帳)、企業に加え、新たに「役場」を宛がわれたメンバー。新参はともかく、勉学とは言えこれと付き合って来たメンバーは、架空ながら既に愛着のある町である様子。
試験には卒業がかかっているとされるが、本当は皆卒業できるらしいよ、との発言もあったり、「真剣勝負」で議論を行なう事自体に主眼が置かれている、という事で観客は議論の中身に集中する。ちなみに参加者が取り得る立場は賛成、反対、保留の三つ、賛成か反対かを掲げて主張し、通れば成績Aがゲット出来るが、負けたらD、即ち不合格というリスクがある。無難にやり過ごすなら「保留」で合格だが判定はC。敢えてリスクを取って賛成・反対を選ぶ動機は、ある学生の場合志望が国家公務員なので成績Aは欠かせない、といった按配である。以上のルールが、人物紹介を兼ねて前段でさらりとやられる。ゲームの解説が終れば本題である。

ただし現実のドラマも勿論ある。長らく欠席している女子を、彼女をゼミから遠ざけた本人だと悩んでいる主人公女子がどうにか修了試験(モック)に誘う出そうと奮闘する前段がある。ゼミ生全員の合意という教官が出した条件をどうにかクリア(ここでの交渉術が面白い)した上で、本人に会うも、大学を無意味に感じている相手の同意は得られない。が、食い下がった彼女の思いが通じてか、当日少し遅れて問題児は登場するのだが・・。この現実ドラマはモックでの「賛成・反対」の立場表明とうっすら絡む。
で、今一つのルールは、会議中は「役」としての発言しか許されず、演じる「本人」から発せられる発言は「メタ発言」として退けられる。しかし実際には感情が高ぶってメタ発言乱発という事もあり、却ってそれが新展開をもたらしたりする。

初演は「あくまで架空の議論」と、斜に構える系に寄った演技が多かった記憶があるが、今回はそれぞれの人物が相応に「議論」に入り込んでいた(つまりはモックとしては上出来)。それはそれで、矛盾を抱える箇所も無くはないが、議論の深まり自体こそ恐らく本作の狙いだろうから、演劇的な高揚に繋がった成果の方を肯定的に見たい。

ただ模擬会議という「劇中劇」を終え、現実世界に戻っての大団円は微妙なニュアンスを残す。深刻に対立していたと見えた二人の女子学生が談笑している。対立自体が「振り」なのかと疑ったがそれは無かったよう。誤解をしっかり解く説明が十全であったとは思えず、そこまで複雑にしなくても・・と私などは思ってしまった。

議論はあくまで議論、現実は現実と判ってるが、でも無駄では無かったネ・・と芝居としてはまとめたい所だが、大学入学・成績という人の進路を決定付けるシステムへのシニカルな視点が強く混じると、議論そのものの価値が揺らぐ。複雑な気分になる。

ネタバレBOX

設定や人物の行動、またシステム上の矛盾など、気になった部分は一つ二つではないのだが、議論の焦点を見ることで芝居は面白く観る事ができる。そして割とさらりと流している議論の終局での展開の中に、重要な示唆を含む論点がある。

当初から「老人選挙権剥奪」案に「反対」の立場をとっていた主役の女性が、利害の絡む案件で「賛成」多数の情勢となった後半では、安宅市が特区として法案を条件に補助金が下りる事を暴くが、それでも票差は動かず敗勢、結局は新提案(裁判で言えば新証拠)がなければ法案に賛成せざるを得なくなった時、法案の欠陥を実質解消するその条件を捻り出す。思い切りネタバレだが「若者の被選挙権を奪う」という付帯条項だ。

思考の背景には、選挙権と被選挙権の役割の区別がある。「老人」が人口比率的にも、実社会的にも決定権を行使しており(企業その他組織の幹部、政界エトセトラ)、老人のための「変わらない」決定がこのまま続けば、地方都市のひとつである安宅市がこれまでと同じく衰退していく、との認識がある。
さて老人の選挙権は(自分たちの代表である)「老人を選ぶ」行動に結実する。だが法案が通れば彼らは自分らの代弁者を選ぶ事ができない。しかし「若者が選ばれる」選択肢をつぶせば、老人が選ばれるしかない。だがそれは若者の代弁者として選ばれる、という図式である。これは単なる制度変更で終るものではなく、若者が老人たちに自分たちの要望を伝える、という行動が伴わなければ意味をなさない。若者は自分たちが何を望んでいるのか、何が必要だと考えるのか、において責任を担い始める。制度にとどまらないこうした世代コミュニケーションのダイナミックな変容がここには想定されている、という事なんである。
現実にはこんな施策が実現するなど考えられないが、こうまでしなければこの社会どうにもならんのではないか、という感覚には深く同意した次第。
人形劇「みつあみの神様」

人形劇「みつあみの神様」

人形劇団ひとみ座

シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)

2020/03/18 (水) ~ 2020/03/24 (火)公演終了

満足度★★★★★

池袋でひとみ座を観た。1年前の『どろろ』が忘られぬが、今作70分の小品ながら、人の似姿が、モノ達が躍る光景に眩惑される。人形劇の持つ表現の幅に今回も驚嘆させられた。
こいつには人が演じる舞台でもアニメでも、まずお目に掛かれない。

是でいいのだ

是でいいのだ

小田尚稔の演劇

SCOOL(東京都)

2020/03/11 (水) ~ 2020/03/15 (日)公演終了

満足度★★★★

同じデザインの小さなチラシ、同演目をキャストを変えながら再演を重ねる形態に腰の据わった姿勢が滲み、何度か足を運びかけたが漸く叶った。
3・11を首都圏で体験した9年前が蘇る内容。被災という状況はドラマの下地を提供するが、本作は意外性を狙ったのでない「典型」と言える凡そ三つのエピソードを独自な文体で立ち上げ、時間経過と共に描いた「人間の記録」であり、「記憶の装置」。その後何年間か覆っていた暗鬱な気分の始まりの日の皮膚感覚を、私は久しく忘れていた。SCOOLという空間に照明を効果的に用い、想像を助け、情景を浮かび上らせていた。

ネタバレBOX

孤独な学生と、家庭の危機にある女が出会う話、帰宅難民となった就活女性が自宅を目指す話、10年のキャリアと本来の夢との間で揺れる女性のモノローグ。
その鉄塔に男たちはいるという+

その鉄塔に男たちはいるという+

MONO

吉祥寺シアター(東京都)

2020/03/13 (金) ~ 2020/03/22 (日)公演終了

満足度★★★★

土田氏のテキスト&MONO舞台は、判りやすいが「如何にも」な作りがあってそれがイマイチ不得手であったが、記念碑的作品という事で(ギリギリまで迷って)観に出かけた。
吉祥寺シアターのタッパを有効に「鉄塔」が組まれていて入場するとまず壮観なのだが、にも関わらず「シチュエーションに遊ぶ」故・別役氏の敷いた「演劇」モデルの空気が流れ、何を描いているにせよそれ自体「おいしい」。大装置は派手で機能的だが突出せず例えばゴドーを待つ2人が居ても違和感ない、自ずとそこにあるかのようで芝居とマッチしていた。(俳優が場をそのように見せた、とも言えるか・・)
話のほうは、狙ってるな、という作為をさほど感じさせずにおかしなやり取りを成立させ、(頭でなく)筆が書いたよう。作家土田英生へ私の(勝手な)イメージを修正。架空の(どこだか判らない)国での非日常が、日常のように過ぎる時間が信じられる。
ラストの形は如何ようにもあり得るだろうに、あのラストを選んだ。書き手が計算をしないなどという事は考えられないが、必然性も特段の説明もなくポンと置かれたエンディングが素直に受け止められた。
土田作品は過去3つ程度、この作品が持つ「らしくなさ」を私は見出した気でいるが、この演目の「良さ」を作者やメンバーはどう感じているのだろう・・目的化しきれないピース、余白を飲み込まざるを得ずにその場に存在する様に、豊かさを感じた。
「こういう時期」にしては、会場は客で埋まっていた。

ゆうめいの座標軸

ゆうめいの座標軸

ゆうめい

こまばアゴラ劇場(東京都)

2020/03/04 (水) ~ 2020/03/16 (月)公演終了

満足度★★★★★

まず「俺」、続いて「弟兄」(何故か「おととい」と読む)を観た。
3年前の下北ウェーブ企画(だったか)でピックアップされた3劇団の一つがゆうめいで演目は「弟兄」。スピード感があって中身はねちっと重い。確か「ドキュメント路線で成功したが、ネタ切れせず続けて行けるのか・・」的な感想を書いた覚えがあるが、デビュー作「俺」から最新作「姿」まで、かの路線を堂々と歩んでいる。
役が客席に語るナレーション・スタイルが成功している芝居は結構多い。昔~し観た「ホテル・カリフォルニア」、「焼肉ドラゴン」も。回想式が相応しいドラマ、と言えるか。今回のゆうめいの二作品も、苛烈ないじめや死と隣合せの日々が「回想」のフィルターによってノスタルジックに立ち上がる。「俺」ではMisha、「弟兄」では椎名林檎で。

ネタバレBOX

ドキュメントとは事実という事だが、これは芝居である以上どこまでが事実でどこからはフィクション(創作・編集されたもの)かは取り敢えずベールに包まれている。ドキュメント「的」手法は、面白い。だが事実性に裏打ちされた迫真は、事実か否かの疑義の前で色褪せる。然して初演では「池田亮です」と語る本人が池田亮であろうと信じた。そういう台詞であり演技だったのだろうが、かくも「己のこと」を語り、作者自身に見えてしまう芝居を、ここまで臨場感をもって演じる俳優、という存在を想定できなかった自分が居たわけである。敗北の過去を回想する芝居を、役者として応援する人間がいる、即ちその分だけこの作・演出には人望がある、という事が、ギャップであった訳だが、それは何とのギャップかと言えば、作者が書いた物語そのものとのギャップな訳で、私がそれを事実だと信じた所から既に事態は始まっており、正確に言えば「始められていた」訳である。

身長150cmの「俺」は、「弟兄」では語り手・池田が高校時に友人となる相手(より苛酷なイジメに遭っていた)になっていた。作者の化身と信じて観ていた登場人物のモデルが、必ずしも作者本人ではない可能性が2作を短期間に見比べた事で出てきた。
しかし「姿」にも登場した母と言い、書かれるディテイルは作品を効率的に高めるべく選択され創作されたものとはみえないのは確か(これも技術か)。
という事で、これまで観たゆうめい3作いずれも個人史を素材とし、言及の対象は過去の「事実」である可能性が高い、あるいは「事実」という態の芝居である。
だが普通そうであるように、事実に拠る限り「それ」について語るほどにリアリティは増すもので、ゆうめい的劇世界はそのようにして創られ続けるのだろう。と、今は思う(否、思わされている)。
優しい顔ぶれ

優しい顔ぶれ

らまのだ

OFF OFFシアター(東京都)

2020/03/06 (金) ~ 2020/03/11 (水)公演終了

満足度★★★★

久々のらまのだ観劇。新人戯曲賞をとる前に観て、それ以来だから4年近く経った。過去観た3公演とも、労働と無縁でありえない人間の現代的なありようを極小的に描いて掬い上げている、との印象。今回もその印象大だが、それぞれタッチの異なる3作品のオムニバスで、コンテンツ的には贅沢。2番目がより長編で人物も多く、労組が死に体である日本で完全弱者となった下請、被雇用者という構造上の矛盾や、表現コードと自粛の問題が反面教師的に展開。1、3はほぼ二人芝居で描写される世界の極小度は高いが、ディテイルが醸す味わいに吸い寄せられる。説明不足を感じる事がままあるユニットのその印象は劇の閉じ方が影響。今回は軟着陸。憲法をテーマに括っているのはややこじつけ感。「個」の描写に傾注した作劇でも社会の中に生きる人間が象られている。

きらめく星座【公演中止3月5日(木)~8日(日)】

きらめく星座【公演中止3月5日(木)~8日(日)】

こまつ座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2020/03/05 (木) ~ 2020/03/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

山とある井上ひさし戯曲でも再演頻度がえらく高い今作を一度観ておこうと足を運んだ。最も井上ひさしらしい娯楽性・社会性ともに高い作品、と思った。対米開戦前の日本では、既に歌舞音曲が規制され、国民を統制に導く標語が踊り、敵性言語(英語)が敵視され、軍服姿が行き来する。時代は戦争。一方舞台は都東京市のどこか、オデオン堂なるレコード店。この取り合わせで井上氏は両者の正面衝突を巧く回避しつつ、「こちら」側の土俵である歌の世界で勝負する。人間の心の襞を表現する歌曲、踊り、その人間が紡ぐドラマ、芸術・・これら大義(戦争)と対置されるものへの作者の深い愛情がこの上なく成就した娯楽作にしてプロテスト芝居。

ネタバレBOX

「青空」と言えばエノケンだか二村定一と思っていたが、芝居では女性歌手が歌い間奏で台詞を喋るので映画の一場面を盤に刻んだ物のよう(違うかも)。レコードを出したプロダクションに、この歌手と同期で所属したのがオデオン座のおかみ(店主の若い後妻)、といったエピソードも井上ひさしなら考証済みの史実か、はたまた。。他の家族や店員の設定はどうだろう。虚実はともかく作劇の妙。出征中の店の長男は砲兵隊を脱走。憲兵が実家に出入りするが、その内長男が姿を現して曰く、音楽を学んでなまじっか耳が良いばかり砲弾の音に耐えられず逃げ出した。そのお陰で石を投げられ窓ガラスを割られる始末。娘の傷夷軍人に嫁ぐ(が、実家のレコード店で親と同居)決意が、皇国の美談記事で店の窮状を救うための挙であるエピソードも悲劇的でなくさらりと、むしろ逞しさと描き、スポットを夫の過剰なまでの皇国臣民ぶりに当て笑いにまぶす。ところがこれを伏線に戯曲は後半無理なく下手投げを食らわす。笑える場面として店内のポスター(レコード「青空」)を剥がして御真影(天皇皇后の写真)を飾る際のやたら畏まったい手順があるが、妻の手から両手でそれを受け取り、かしこみつつ飾るという一連をやる。一見問題なく日常生活を送る彼の傷とは、実は右手首から先が無い事。彼は手の形をしただけの義手を手袋のように装着し、周囲も(観客も)違和感を顕在化させないが、寡黙な娘が口を開く事で「戦傷」というものの実態を知る事となる。
「外」からの爽快な風を吹かせるのが意外や浮世離れした脱走兵の長男。時々の職業で服装を変え、実家に顔を出しては土産を置いて行く。
さて終盤はヤミ米を求めて奔走する夫婦の姿に「歌」をもってしても癒えない現実の殺伐さが覗くが、事態の逼迫の延長に戯曲は赤紙をもらった近所の二人の青年(少年と言ったが正しいか)の訪問を据える。近所の目を気にしながらレコード店を訪れた彼らの口からは意外な言葉が吐かれる。召集が彼らの抑え切れない欲求を吐露せしめたかのその言とは、出征前に一度だけ電蓄(電気式蓄音機)で「青空」を聴きたい、というもの。新しい店主となった例の婿が、古いレコードを処分した事を詫びると、元歌手の後妻がかつてのライバルのその歌を自分が歌うと申し出る。原曲とは全く異なる彼女流の、しかし万感の思いを込めた歌の時間が、場内をピンと張ったピアノ線のように静める終盤のクライマックスだ。やがて合唱となるは「狭いながらも、楽しい我が家..」そこから引き離されて行く青年たち、彼らを待つ家族、つましく生きる人々の住まいと、それが象徴するあまねく人生にとって、そこに真に寄り添うものは何か・・理屈でない強靭な、フラジャイルなメッセージの滴りをただ飲み下すのみのエンディングである。これを書き上げた作者に脳が白旗を掲げ、血が体がざわつく。

無いものねだりだが、井上ひさしが、忌野清志郎が、筑紫哲也が生きていたら、今の時代に何を言った(歌った)だろう。。
蜚蠊

蜚蠊

劇団女体盛り

シアターシャイン(東京都)

2020/03/11 (水) ~ 2020/03/15 (日)公演終了

満足度★★★★

この所どの公演の客席も通常の半分という印象だが、小さなシアターシャインはさながらサロン。逆にゆったり鑑賞できる貴重な機会、と思いきやのんびり観ていられる代物でなく。。ゴキ世界を擬人化した別の劇団の芝居を随分前に観たが、今作の残酷なテイストにこそゴキという選択は相応しく、巧く書かれた寓話であった。ある種の不快さはこの舞台に必要な不快さ。視覚的なインパクトも強いが、それ以上に無対象の、台詞のみで想像させる風景が脳裏に焼きつき甘苦い余韻を残した。若い役者の直線的で無技巧な(に見える)演技も、奇怪な夢のような劇の印象に加担している。

対岸の絢爛

対岸の絢爛

TRASHMASTERS

駅前劇場(東京都)

2020/03/06 (金) ~ 2020/03/15 (日)公演終了

満足度★★★★★

IR法によるカジノ誘致にゆれる関東Y市・現代。漁民が軍により船の供出を強いられようとする九州の漁村・1940年代。大規模公共事業だか誘致だかへの反対運動が熾烈化する中国地方F市・1980年代。ロザリオを受け継ぐ家族史を縦糸に流しつつ「公」と個人・市民の対立局面を切り取りその本質に迫った力作。
人物造形が秀逸。付和雷同で思想の無い人間が自分の正しさを疑わず異質を目の敵にする姿、異なる価値観の折り合い地点を見出そうとする善意の人間が結果的に陥る欺瞞。。登場する凡そ末端に等しい人間を通して、こうした「事業」が持つ本質と、事業推進の根源となる何者かが「空白」として浮かび上がり、それについて考え始める。
2時間20分によくまとめたと思える濃さ。

黒い鳥

黒い鳥

アートグループ青涯

アトリエ第Q藝術(東京都)

2020/03/07 (土) ~ 2020/03/08 (日)公演終了

満足度★★★★

初の成城学園前そしてアトリエ第Q藝術。駅から徒歩2分の道のりだったが見失い、心細くなったその時、前方から歩いて来るある若手演出家(先日舞台を観たばかり)の家族連れが目に入った。「このへん?、いや違う」的会話をしている風。これは心強い先客と安堵し、後をついて行こうかと家族を追った視線をふと進行方向に戻すと、数間先に劇場の小さな看板が手招きしているではないか。やあそこに居たのか君は。さっきの演出家はここに立ち寄ったのかい? 無言の対応で、どうやら全く無縁だったと了解。暖かいお出かけ日和、さほど遠くない土地にこんな劇場が、と嬉しくなる。調べれば2017年~とまだ新しい。狭い受付スペースを通って劇場へ入ると、どことなくアトリエ春風舎似。座席はゆったり幅に置かれ、隣席の脚に接触する(嫌がられる)心配なく、心は舞台に集中した。
劇団阿彌出身の二人のユニットによる立上げ一発目公演が実現の由。パフォーマンスは阿彌特有の世界がやはりベースにある。と言っても私は十年以上前、王子神谷駅からの道を迷いに迷ってたどり着いて20分程度目にしただけだが、舞踏と能を観た目には馴染みある世界。超低速の身こなしと、面の使用、劇的シチュエーション(ストーリーでなく)の吟味の時間。パフォーマンス中の時間は、人間のある劇的状況をするめを噛むように噛み締める時間であり、視覚的な美が物語の状況を突き放すように端麗さを保っている、という能の風景は阿彌のそれと(多分)共通している。舞台は霊的交感が目指され、そのための俳優の身体的鍛錬が恐らくあり、観客はその念を共有し霊性を感受する。観客(信者)を説得し続けるのが「道」の探求者となった者の宿命。

さて今回の舞台は、私には、阿彌の特徴がある仕方で継承可能である事を示した、という感想になる。それ自体物語を持つ個体(身体)と、物語の世界とを橋渡す言語が、今探り始めたように恐る恐る、ぎこちなく吐かれ、培われたそれなりの年輪と、素人性が同居する独自な空気が流れていた。つまり、阿彌との比較では言語世界の方へ一歩踏み出そうというベクトルを感じ、しかし未だ不分明、手探りとの印象だ。
現在進行形のストーリーを追う「お芝居」的側面がそれに当たるが、言葉は詩のモードで書かれ、出来事を既にあったこととして俯瞰的に捉える場所に誘う(彼女らの出自)。ストーリーとして見た整合性の甘さは、「芝居」のモードで浮き上がり、一方詩劇の基調となれば、ディテイルよりは全体を覆うディストピアに生きる人間の実存に意識が向かう。問題は「芝居」な部分で、舞台にメリハリを与えるピースにはなっていたが、演技態かテキストか、いささかぎこちなかった。
美術、照明含めシンプルな中に趣向(意図)が窺える。次の点を探り当て「青涯」の線(足跡)を画いて行ってほしい。

ダンシング・アット・ルーナサ

ダンシング・アット・ルーナサ

劇団俳小

d-倉庫(東京都)

2020/03/01 (日) ~ 2020/03/09 (月)公演終了

満足度★★★★

「群盗」「殺し屋ジョー」と秀作の続いた俳小の翻訳劇の最新作。「沖縄世」に続き小笠原響演出舞台であったが..。
わが想像力の減退のせいか(はたまた疲労か)、人物の個体識別までは出来るが、語り手である青年と彼が育ったその家族の他の成員との関係(続柄)が判然とせず。。それでもこの物語の舞台の地方性(都鄙の差)や民族的事情による困難、家族としての苦悩などが苦くもノスタルジックに再現されている、という雰囲気は感じ取った。

京河原町四条上ル近江屋二階 ー夢、幕末青年の。

京河原町四条上ル近江屋二階 ー夢、幕末青年の。

Pカンパニー

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2020/03/04 (水) ~ 2020/03/08 (日)公演終了

満足度★★★★

昨年名前の頻出した福田善之(サルメCとの『オッペケペ』/新人会『新・ワーグナー家の女』/Pカンパニー『一人芝居「壁の中の妖精」』)いずれも旧作だったが、今回は齢八十九にして新作を作・演出。混迷の幕末を切り開いた(らしい)志士の一人坂本龍馬と盟友中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件というらしい)に照準したお話。取材記者とその上司風の現代男女二人の語り手は物語の「現場」に近接し、「今」にこの事件を再構築しようとのコンセプトが冒頭から小気味よく展開していた。
フォーカスは中岡慎太郎の方だが、しっかり登場する龍馬を演じた客演者は身の置きどころ(演じ方)を得ず、妙にヒロイックに振る舞うなど迷走していた様子。前半気になって仕方なかったが気を取り直して後半(休憩有)。
舞台は疾走感の中、語られる言葉を吟味する間もなく進む。時代と併走しながら人は物を考え、身の振り方を定め、事を為す他ない事実を近江屋事件の「時間」を再現して味わおうという趣向か。彼らにとっての悲劇が如何なる意味で悲劇か、そうでもないか、作者なりの眼差しを汲み取ろうとしたが、手垢のついた評を避けたのか。しかしある種の気迫のようなものは舞台に流れ(こちらも想像を逞しくし)、正体のよく判らない塊そのままを受け止め、帰路についた。

時代モノだがエレキベースとギター、ドラム3名の生演奏(監修:日高哲英)が効果的。プロテクトソング(ダンス?)としての「えじゃないか」(えやないか)が変奏されるフィナーレでは、重奏で聞き取れない歌詞は残念であり、この掛け声が二人の志士の生き様ともう少し響き合わせたかったが。。

出だし以降小気味よい自由な台詞運びは、前衛というより自然体に書きつけられたこの雰囲気、思い出せば別役実の最新作(下北B1でやった、昨年だったか)を思いだ出させた。

グロリア

グロリア

ワンツーワークス

赤坂RED/THEATER(東京都)

2020/02/27 (木) ~ 2020/03/08 (日)公演終了

満足度★★★★

数回に一度観たくなるワンツーワークス。今作は初演で海外戯曲(メルマガでも俳優諸氏の「戯曲がヤバい」とのコメント)、オーディションとは言え客演で固めた布陣に古城氏の意気込みが・・という事で今回は迷いなく「買い」。中日を観た。
脚本がやはり面白い。翻訳の限界、英語文化圏の身体と発語に迫る難しさは感じるものの引き込むものあり、終演まで持って行かれた。秀逸は前段で悲劇が確定し、覆水盆に返らず努力は報われない事態から、「その先」が描かれる所。現在進行形で力強く物語は続くが・・。

ワンツー観劇7本程度?の中で一番面白く観た芝居だが、これが通常公演では団員さんも中々...とは余計な心配か。

色指南 ~或る噺家の恋〜

色指南 ~或る噺家の恋〜

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2020/02/22 (土) ~ 2020/03/02 (月)公演終了

満足度★★★★

こたびの新作はドガドガの要素の一である艶路線にぐぐっと踏み込んだ作で、野坂昭如による興味深い題材を舞台化した稀有な産物を目にした。
難点から言えば、、受け止め方にも拠るが、戯曲上のお家芸は歴史の中に物語を据える作りである所、今作の舞台は太平洋戦争開戦からミッドウェー海戦の手前まで、即ち日本が破竹の勢いでアジアの広域を軍事制圧下に押えた時期まで。冒頭戦勝の報に人々が湧く場面総集編が置かれ、また別の場面では自分のためでなく自分が誰のために役立てるかを考えねば(オリンピックもあるし)、という台詞、そしてラストは軍歌が立て続けに2曲、最後はフルコーラスを歌って赤紙青年を送り出す・・で幕。「日々の暮らしに文句もあろうが今は日本が大変な時、自分が国に対してどう役に立てるのかを考え、生きがいにしよう」・・このメッセージでまとめた劇であった、と結論付けても違和感のない作りになっていた。大いなる皮肉で締め括った、というような仄めかしもなく、やや後味が悪い。
一方、主役である空気読まない噺家の台詞「軍服に髭をはやした野郎共が幅を利かせやがって」が唯一「アンチ軍国化」を言語化した台詞と言えるが、酔った彼がそう言うのを友人が必死で止める、という場面は「現代」に重ねた皮肉と読める。だがこれ一つのみで最後の軍歌代斉唱を「皮肉」と解釈するのは中々厳しい(演出意図はそうであったとしても)。また「他者のために生きる」メッセージそのものは正しい、とのエクスキューズがあるのやも知れぬが、いやいや。語る文脈が言葉そのものより重要であるのは敢えて説明する事でもない。
それにしても客席はまばらでこれは客としても淋しかった。

Pickaroon!<再演>

Pickaroon!<再演>

壱劇屋

DDD AOYAMA CROSS THEATER(東京都)

2020/02/25 (火) ~ 2020/03/01 (日)公演終了

満足度★★★★

4年前の花まる王子以来2度目の壱劇屋。評判を聞きつつも日が過ぎた・・そのせいかと訝ったのは舞台がまるで変貌、しかも世界観は確立された感があり、狐につままれた心地であった。
芝居の方は、凡そ殺陣ショーに等しい冒頭暫くから、それなりな物語が立ち上って来るあたりは見物であった。。・・いやいや、その前にやはりこの変わりようである。

結局あとで調べたら同じ壱劇屋にも大きく二系統あるらしいと知り、得心。今回のは、私がチラシで容赦なく候補から外す、時代劇風・ファンタジック・活劇(勿論殺陣有り)、演目では「猩獣」「独鬼」(作・演出武村晋太朗)等で、要は新感線ファン向けの世界(個人の憶測です)。
これに対し以前観たのは別系統(「SQUARE AREA」作・演出大熊隆太郎)、王子小劇場の四面だか二面客席の真ん中に置かれた台(スクエア)を使って目まぐるしく展開する計算された身体パフォーマンスであった。

4年前のは「型」の芸術性を指向した知的なユニットの風情であったのが、今回は座長(作演出)自ら主要人物の一人を演じ、終演後もよく喋り、体を張って汗で売るパフォーマンス集団といった面持ち。このギャップは何度でも言い募りたくなるがここまでにして、、両者に共通した印象は、場面の造形と構成のアイデアとスピード、それを可能にする俳優の身体能力。
結論的には、今回のは物語が大掛かりな分、動きの型には情緒が伴い、以前観た「目だけで味わう快楽」は減退したが、物語による高揚があった。欲しかったのは以前のであったが。
その「物語」については又、余力があれば。

東京ノート

東京ノート

青年団

吉祥寺シアター(東京都)

2020/02/19 (水) ~ 2020/03/01 (日)公演終了

満足度★★★★

東京ノート実質初見がInternational ver.であり、良い方のインパクトを受けた(おまけに青年団的演技の新局面か?等と)。そのためか、オリジナルバージョンは従来の青年団現代口語演劇に「戻った」感じがあった。やや中心に位置する松田弘子・能島瑞穂のイイ感じも前回と変わらないはずであり見ていて特段変化はないが、多様な異質の中での光り方は違う。インターナショナルバージョンは設定じたいドラマチック。細部がよく出来ているのは今回のオリジナルの方であったりするが、群像として見る訳であるので、そういう感想になった。
欧州での戦争のため、美術品を皆遠い他国に送り出すことになっているらしい、という設定は、広い欧州のかなりローカルな地域までも戦闘(美術品が損壊するような)が及ぶ程シビアなのか、とか、ゆったりとした戦争なので人類の遺産保存等の公益を各国考える余地がどの国にもある、という事なのか(若しくは美術品保存団体が活発な運動を展開している、当事国同士のそれは合意事項となった)、とか。やや特殊な状況が近未来に発生する、そういう想像を客席でめぐらすのは悪くないが、戦争の実態が殆ど語られない中では「戦争」の語がドラマ性を担保する記号としては、いまいち機能しないな、というのが実感。作者がそれを狙ったか否かは判らないが。
そんな事で、戦争、美術品の保存、という世界大の「公」の視野と、美術館の中で展開する「個」的なあれこれの対比が、インターナショナルverでは「数カ国の人間が居る」状況から明白であるのに対し、オリジナルverでは皆日本人であるので遠いヨーロッパとここ日本という対比のみとなる。そこで「個」が強調されるが、個々それぞれの事情の切実度の見え方が前回とはやはり違うなァ(従来の青年団劇だなァ)と。

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