リーディングフェスタ2019 戯曲に乾杯
日本劇作家協会
座・高円寺2(東京都)
2019/12/14 (土) ~ 2019/12/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
至福の公開審査。一篇も対象戯曲を読んでいないが、審査員のコメントからどんな作品かが彷彿としてくる。今回は女性劇作家の審査員を3名とした。川村氏、永井氏の姿が居なくとも、議論は充実。何より劇作の世界の深さを知り、可能性を展望する情熱と思考力、直感を言語化する力が迸る熱い場が、やはり好きである。
アサガオデン(劇場版)
少年王者舘
ザ・スズナリ(東京都)
2019/12/14 (土) ~ 2019/12/15 (日)公演終了
普段もストーリーがあるようで無いような少年王者舘舞台だが、今回はフィーチャリング・夕沈、パフォーマンス主体でもやはり、というかこれぞ少年王者舘という内容であった。クライマックスに夕沈の落語(上方落語)を持って来たがこれが秀逸で、様々な落語演目を想起させる働きアリを丁稚に見立てたお話。(「次の御用日」「七段目」「阿弥陀池」「愛宕山」等等を思い出しつつ聞いた。)
4人の白装束の女性、生演奏は坂本弘道氏で、絡みもある。脳が欣喜雀躍する1時間半。
RITA&RICO(リタとリコ)
SPAC・静岡県舞台芸術センター
静岡芸術劇場(静岡県)
2019/12/14 (土) ~ 2019/12/22 (日)公演終了
満足度★★★★★
面白い! SPAC団員・渡辺敬彦演出・脚色による『セチュアンの善人』。氏は演出経験者ではあるが所謂「演出家」ではなく、今回はブレヒトを「苦手」とする宮城聰氏が氏を抜擢したのだとか。演出とは言え「裏方」だからか長い髪を不精に伸ばし、締切り間際の物書きよろしく頭を掻きながら俯き加減にそのへんを動いていた。
世界観的にはSPACで上演された西悟志演出『授業』に近いものを感じた。テイストは違うが。才能の貯蔵庫であるSPACを憧憬する。
Butterflies in my stomach
青☆組
アトリエ春風舎(東京都)
2019/12/08 (日) ~ 2019/12/17 (火)公演終了
満足度★★★★★
開演少し前から一人、二人と登場する女優。青☆組らしい衣裳はボディラインを淡くぼかす長スカートと、シルクっぽくヒラッとした白ブラウスで揃えている。「交換可能」な7人の女優には「いち」「にい」「さん」と役名が振られ(パンフで確認)、それぞれ7歳、17歳・・67歳までの七子を担当するが、「いち」「にい」の数と年齢が規則的に対応しておらず、「なんで?」と疑問が湧く。
と、客電落ち直前に見たパンフの箇所にこれはOn7(オンナナ)立ち上げ公演へ書下した作品、とあった。個性と主張の強いOn7メンバーとの共同作業の足跡を残したのだろう「いち」「にい」だと納得し、さらに開演冒頭の自己紹介で(役名でなく)役者名を言うあたりにもOn7始動宣言の模様を重ねるとそれが見事な導入となり、役者の挙動を追う内に早くも目頭が熱くなった。
ストーリーは七子の生涯。幼少から老年へと時系列に進む。各女優は受持ちの(年齢の)七子でない七子の台詞も喋ったりとフレキシブル。周辺人物たちも七子以外の役者がコロス風に入れ換わって演じる。
気付けばOn7の姿は何時の間にか消え、この座組としての躍動的な七子物語が紡がれていた。七名はサッカーや新体操のようにフォーメーションを変えポジションを変えて流れるように動き、道具と声を使って音響効果も担う。
青春の日々。それを予感する少女時代。クラスでは女子の眼中にない男子、そこに現われた転校生。恋、そして別れ。いつの間にかしていた結婚。子育て期、倦怠期、老年期。いつしか背景にうっすらと、例の眼中になかった地味な男を伴侶とした、地味だがそれでも丁寧に歩んだ人生の、終末期にその夫への疼きに近い心情が観客の想像力をくすぐる程度にふっと流れる。地味男(夫)専属の福寿奈央の演技はやや突き出ており、遊びがある。
音楽は(確か)使わず、全て役者のアンサンブルが芝居のリズム(うねり)を作り、出来事・行為の「行間」に漂うエーテルのような情感が、打ち寄せるさざ波のように観客を揺さぶるのだ。
365度人生
張ち切れパンダ
小劇場B1(東京都)
2019/12/07 (土) ~ 2019/12/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
「365度・人生」・・タイトルの謎解きは本編の台詞になっているのでご安心を。。
今回は張ち切れパンダの「劇団」的キャラを近しく感じる観劇となった。無論その大きな要素は芝居そのものにあり、「七子」という存在を作家と役者が作り上げたこと(薩川女史の持ち味も生かされていそう)。基礎学力に難有り、現実的なビジョンが苦手でその場のノリに弱く、それでも人並みに人情があり情熱的でもあり夢を描く、しかしピントがずれていたりもする。男から見ると(彼女の父のように)叱りたくなり、もしくは遊びたくなる女の範疇。本来多面的である丸ごと一個の人間を薩川朋子が全身で表現した。団員中島が異色キャラを担うが客演陣もそれぞれ細密度の高い人物造形。
書き手は男子に辛辣で、課題解消せず自己責任と放逐するが、七子の生きる姿の前には男の悩みなど霞のよう。女性讃歌であり人間讃歌。物語もさる事ながら、役者たちの「演じる」佇まいに胸を熱くした。
熱海殺人事件『売春捜査官』
Project Nyx
芝居砦・満天星(東京都)
2019/11/29 (金) ~ 2019/12/08 (日)公演終了
満足度★★★★
つかこうへいの代表作を味わいたく久々の女性(nyosho)の館・Project Nyxへ。場違い感に抗う構えで、芝居砦・満天星をこちらも久々に訪れたが、小屋の佇まいも何時からか仮住まいを脱して年季の入った喫茶店のようにひっそりとながら図太い存在感を醸していた。
梁山泊で主役級を10年ばかり?やった申大樹が此度は演出(監修に金守珍がしっかり付いてるとは言え)という事で密かに期待を膨らませて開演を待った。パンフによれば北区つか劇団に所属歴があり、念願であったという。
主役を務めた傳田圭菜は彼女の新宿梁山泊(ほぼ)デビューの舞台で役者名を連呼する金守珍の甲高い声の中でその風変りな名前の響きと、初々しく緊張した顔とで記憶にたまたま残り続けた女優だったが、劇団にもしぶとく居続け、近年妖しく開花。今舞台ではスター・システム批判もしなる脚で蹴散らし、堂々たる主役振りを見せた。終演後は礼賛礼賛の拍手。
とは言え、作劇(翻案)と、その演技には難渋の跡も見られ、テキストとしては原作をちゃんと読んでみたく思った(つか氏は「原作」などクソ食らえと言いそうだが)。昨夏の燐光群版は坂手洋二流の翻案は織り込み済みであったが、こちらも加筆されたらしい朝鮮半島絡みの逸話の比重が嵩み、脇筋が膨らむ感じも坂手並みの感あり。
・・もっとも「原作」知らないから何とも、だが。
手の内の多くなく、恐らくは没入型演技の不得意な(今回見ていてそう思った)傳田女史が、女史なりに勢いでもって(滑りそうになりながらも)快調に場面を乗り切って行く様は何とも痛快。台詞が要請する伏線が辿れているとは言えない箇所は多々あったが(演出の問題かも知れない)、登場人物ら及び観客の「期待」を一身に背負って風を切る傳田自身の姿をいつしか観客は追い、終局に至って初めて彼女(傳田女史もしくは木村伝兵衛)が「弱さ」を垣間見せるが、そこから歩み出す後姿は美しく、伏線回収不十分を補って余る力強さがあった。つか舞台は、役者を酷使し、輝かせる仕掛けである(現時点の仮説)。
メモリアル
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2019/12/03 (火) ~ 2019/12/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
地点による上演「忘れる日本人」「山山」で登場した新鋭・松原俊太郎(新鋭なる呼称が古いか?)の書き下ろし舞台を、演出経験を持つ俳優・今井朋彦が本拠地文学座で企画し、上演した。
今井氏は20年以上前から青年団に傾倒し、そこを母胎とする地点の独特な舞台にも触れて刺激を受けたという。松原氏の戯曲が地点の手法以外で果して舞台化され得るのか、これが最大の関心事であり、文学座としてはかつての別役戯曲以来の「文体」との格闘となるのではないか、と予想したが、挑戦は確実な成果を手にし、新しい一歩を標したと私には感じられた。勿論地点とは異なる方法で、である(本質の部分では共通項がありそうだが)。
何より松原氏が書きなぐった言葉が鋭角的でありながら熱情を帯び、身体の脈動が視覚的刺激を絶やさない地点に比べ、こなれない身体を通した言葉が迷走する時間もあったが、斬られた断面が放つ生々しさを持つ言葉は乱暴に、かつ繊細さをもって脳を打って来た。
「冒した者」2019
劇団速度
こまばアゴラ劇場(東京都)
2019/12/05 (木) ~ 2019/12/08 (日)公演終了
満足度★★★★
昨年のアゴラ演出家コンクールの出品作品(20分程度、中身は忘れた)で独自な才能を見せていた印象の(よく喋る)演出者の主宰ユニット。本作は2018年夏の利賀で優秀賞を取った舞台の長尺版。『冒した者』は青空文庫に出ていたが結局読めず。はっきりハイ・アートの領域。象徴的表現と異形の発語方法のバリエーションとマッチングが良い、とは感じる。何がどうなっているか分らず不眠の体には絶好のうたた寝時間、ではあったが深寝はせず舞台風景はほぼ眺めた(台詞の意味は入って来なかったが)。
90分の舞台は、利賀で発表した60分からどう変わったか・・終盤妙にポジティブ異形やってた部分?と想像したり。演出がコンペでは涙を飲んだ削除シーンを入れての90分なのか、単独公演のため尺を伸ばしたのか、とか。
風船の空気の出し入れ、俳優らの呼吸(困難)、粘土床、ほぼ使われないソファ、椅子。空間の設えは悪くない。
今回の舞台単体では何とも評し難く捉えがたいが、無駄に難解だったり、神妙にして底浅いパターンには堕さず、刺激される所あり。
トークゲストに合わせて予約したが正解であった。(後日詳述、かも)
ヤポネシア
サイマル演劇団
サブテレニアン(東京都)
2019/12/05 (木) ~ 2019/12/08 (日)公演終了
満足度★★★★
当日は電車検索の入力時刻を誤り、余裕ぶっこいて本命と次点共に逃し、急遽三番手のこちらを観劇。
内容全く未知数(舞台スタイルは予想の範囲)、「ヤポネシア」という概念を提唱した(よくは知らないのだが)島尾敏男にまつわる作品という事ではるばる板橋へ。
また前回の「狂人と尼僧」で怪演を見せていた葉月結子(先刻シアターXで予期せず舞台上に発見したが普通に演じていた)を見る楽しみもあったが期待通りであった。
ただし舞台はリアル・ナチュラルな喋りは皆無、二組の男女の会話(一応そのようにも見れる)を一人の持ち時間長く詩のボクシングよろしく力強く金梃子を押し付けるように発する。単調と言えば単調だが「気」を張り詰めた演技の成果は4名とも。
なお男女二組はそれぞれ交わらず(一方は島尾+夫人らしいが一方は不明)、今どちらの組の会話であるかは照明等で分るようにはなっている。前作同様に、背後では時計の無慈悲な秒刻が鳴り、舞台は抜き差しならぬ空気を醸しているが、どういうドラマであるのかは良く分らず、しかしそれでも良いのではないかと思ったりもする。
夫婦の気持ちのすれ違い、妻の精神的逼迫が、目の前の役者の姿から窺えるが、しかしその具体的な原因や、解決策を考える材料が説明される事はなく、人物の心模様が何やら言葉を連ねているらしい「声」に乗って伝わって来る、それ以上のものではない。
今なぜこれをやったのか演出者に訊いてみたい気がするが、劇場では思い至らなかった。(65分)
獣唄
劇団桟敷童子
すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)
2019/12/03 (火) ~ 2019/12/15 (日)公演終了
満足度★★★★★
山間の村、神聖な伝統家業(世襲制?)そして大東亜戦争と、桟敷童子のアイテムがそろった舞台だが、花採り業というオリジナルな素材を据え、悲劇性の高い作品となっていた。個人的な感覚だが、桟敷童子の「お家芸」とは言え、新たな素材というだけでなく最近の桟敷作品にある濁った感触、話の筋だけを追えばそれなりなのだが、行間にと言えば良いのか、ザラついたものを感じる。戦争戦死という脇筋も「悲話」という物語性のツマにさせおかない、逼迫した様相(現在に刺さるもの)を滲ませていた。(微細な部分から感じ取った所で、ある種の投影があるかもだが。)
女友達
タカハ劇団
スタジオ空洞(東京都)
2019/12/03 (火) ~ 2019/12/07 (土)公演終了
満足度★★★
初の劇団だが異儀田夏葉、高野ゆらこ両女優の名をみて劇場へ。スタジオ空洞の規模からして小品と予想したがその通り、小ぶりな会話劇。本としては序盤から諸々引っかかる所あり、ブラッシュアップしたい衝動を覚えた。演技は手堅いながら台詞の流れに無理があるのでリアルを積み重ねづらく熱が生じない。それで本来「驚く」演技であるべき所がスルーされたり、その割に妙な所で「え~」と驚き表現を見せたりの塩梅まで調子がズレる。しかしそれでも、場を温めていたのは役者。最後には戯曲の「構造」が見え(メタ処理に逃げた感も有りだが)、強引ながらうまく収めてはいた。が、されば尚の事、前半からの「状況解明」台詞についてはやはり推敲願いたくなる。
高羽女史の個人史を重ねたような?作品で、声援を送りたくなる情感が終盤にふっと掠めるが、例によって「何が問題か/どうすればいいか」を考えてしまう方の舞台であった。
唐十郎楼閣興信所通信
鳥山企画ミリアヤド
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2019/11/27 (水) ~ 2019/12/01 (日)公演終了
満足度★★★★
唐十郎作品の舞台でこういうのは観た事がない。よくみると戯曲でなく小説の舞台化であった。泉鏡花×鳥山昌克シリーズは前回あたりからチラシを目にして気になってをり。但し過去作は俳優・鳥山氏が唐十郎作品を構成し演じる一人芝居で、今回のような大所帯(といっても7、8人だが)での上演は異色のよう。近藤結宥花の名もあって観劇に及んだ。
テキストは再構成したのだろうが、唐流の詩情が溢れている。劇は冒頭を見逃したが、場面ごとに闇から浮かび出る美術(具象)と、切なく情感をかき立てる音楽(悲恋物の洋画に流れそう)で、耽美な物語世界が描かれていた。原作がそうなのか演出なのか、乱歩の趣あり。
原作の小説「紙女房」は短編集との事で、舞台は3エピソードで構成していた。「楼閣興信所通信」とは原作に付いている副題。その興信所の所在地は東池袋の設定らしく、劇場のロケーションには拘ったに違いない。
一つオーラス暗転直前の場面が、はっきり記憶にないが、探偵と助手のやり取りだったか、もう少しスマートに行きたく思った。(終わり良ければ○○)
楽屋
リブレセン 劇団離風霊船
OFF OFFシアター(東京都)
2019/11/21 (木) ~ 2019/12/01 (日)公演終了
満足度★★★★
『楽屋』は二十近く観たが飽きない(大半が「楽屋」フェスであったが)。演出・演技の尽きる事ないバリエーションに思わずにんまり。目から鱗。エネルギッシュな実力派4女優が配役を替え全員に四役が当たる5バージョン(+若手バージョン)。各人持ち役は一つと錯覚する程の入り込み具合。対面客席に挟まれた横長な楽屋で、見せ所を双方に見せる演技、陰影のある場面では良い構図が双方に見える配置が考えられている(と思われる)。個々、その時々の役の感情・意思の捉え方が明快で、そこを躊躇わず押し出す場面作りで会場が沸く。緩急の落差、また「急」の側のボルテージに役者力の程が否応なく。
幾つかの場面が圧巻なのであるが、「終わり良ければ」の法則からすると、最後に「三人姉妹」のメッセージを引き寄せ客席と深く共有するには、ある抑制が必要、であったかも知れない。各所に憎い処理を施す西沢演出はラストも流れにそぐわしい処理をしたが、戯曲のスタンダードな解釈とは離れ、各場面がクリアである分、象徴性(普遍性に繋がる=現在の私たちを包摂する)より、具体性・事件性(そこである特殊な出来事があったという)が強調されたような。過去に観た優れた「楽屋」に比べればドライに感じたが、何にせよ感情の注入度が高く気持ちが良い。同じ演出とは言え、配役変われば風味も相当違いそうで正直あと1バージョンは観たい(観れないが)。
最終回の配役は観客の投票で決まるそうである。
三姉妹、故郷を探す。
ザ・小町
オメガ東京(東京都)
2019/11/21 (木) ~ 2019/11/26 (火)公演終了
満足度★★★★
舞台には古びたコゲ茶色のベンチ、そして電信柱、ではないが同様に古びた街灯の胴体。背後には大型団地の遠景(写真が横広に)。確信的に別役芝居の向うを張る気だと期待値が上る。暗転し明るくなると、旅姿の三姉妹が下手に折り重なる格好で板付き、しばしの間あって台詞劇の開始である。
とぼけた台詞の応酬から意表を突く展開へと芝居は進むが、別役とは違うやはり現代の作家だと実感する。時々風が吹くのだが、何か音楽的響きが混じっているようでよく聞き取れず、台詞ともかぶり「よく判らないノイズ」となる(餌をやっている鳩が飛び立つ音も妙に尺が長いのが1パターンのみで意図的なのか下手なのか分らない)が、しかし演出意図としては別役の風の「変奏」だろうと推測。
さて別役の「現実」と「異界」の境界を渡るような微妙でスリリングな台詞運びには及ばないな、と感じる前半が、後半伏線となって芝居は奇天烈な様相を呈する。シュールの極みは唯一の男優・可知氏(老齢の様子)を父として三姉妹と一家族を作ったその夕食時の長い会話中、可知氏のために台詞の書かれたカンペの紙皿や器、鍋の具を、堂々と彼に示しながら、芝居が当たり前の顔で進行して行くサマである。父役に馴染んで行く渋い可知氏の芝居も味わい深く成立して行くのは反則技だが言い難い痛快さを覚える(仕舞いには若い女がTV番組のADよろしくステージ前に座って堂々とスケッチブックのカンペを一枚一枚めくっていた)。老俳優がまた「読みながら」の演技で十分味を出す。
戯曲の狙いに届いていない三姉妹の演技が部分部分にあったが(別役作品も同様、俳優にこのシュール世界の演技は難物)、三女優が足掻く姿が清清しく、内心応援したい気になっている。それは仮初の家族を夢見、たまさかそれを得て図に乗ったり、失ってガッカリする彼女らの本来的な寄る辺無さに、当て所なく生きざるを得ない現代と同じ地平がみえたからだろうか。
この作品の持つ批評的切り口はもっと鋭利に研がれたく、辛辣に突き放してくれてもいいのだが、と(別役ファン故だろうか)思う所はある。
終わりにする、一人と一人が丘
鳥公園
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2019/11/21 (木) ~ 2019/11/24 (日)公演終了
満足度★★★★
久々に、というか初観劇(三鷹星のホール)以来、がっしり作り込んだ鳥公園舞台は二度目。加えてSPAC女優・布施明日香も目当て。
開演時刻となって暫く、微かに風の音が鳴り続け、ようやく役者がガタンガタンとテーブル型キャリアを押して客席側面入口から登場。いきなり裸体かと思わせてよくみれば肌着にストッキング材質の衣服がピッタリと皮膚のラインを見せる。男三人女三人いずれも。舞台は鳥公園らしい掴みどころなく機能性ありげな装置。最初のインパクトで架空世界に連れ去られる。哲学論議のような日記のような言葉が交錯しながら、多様な場面が作られ、一人格を複数が演じたり何時しか別の個体に移行していたり・・イメージは炸裂するが何がしかの秩序を留めている鳥公園の難解だが不思議に見入らせる作風は健在という所であった。
SPAC『サーカス物語』のヒロインを演じた布施女史の細やかで躍動的な演技に改めて舞台での存在力を実感。SPAC俳優にいつしか贔屓心が芽生えている自分。
終わりのない
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2019/10/29 (火) ~ 2019/11/17 (日)公演終了
満足度★★★★
『奇ッ怪』第一弾より断続的に十年、世田パブ+前川知大シリーズ第4弾の今作は和モノを離れ、イキウメの本領たる現代/近未来劇。劇団役者も5名が出演。もっとも今作はギリシャ悲劇がモチーフで、今回は和から洋に軸足を変えたと、ポストトークで聴いた。方面に疎い自分は気づかなかったが、前川氏の水を得た如く流れるセリフを心地よく聴きながら、劇はこれまでなかった領域に踏み込んだと感じた。扱う時空のスケール感(壮大な美術も貢献)とそこに人生を重ね合わせる視点はギリシャ悲劇を下敷きにしなければ生まれ出たなかったのやも。
変化のバロメータと感じた一つは、しばしば安井順平が担う、「不思議」と遭遇した時の「笑」のニュアンスが省かれ、事象そのものを重みをもって展開させていた。
とは言え「不思議」領域に人間が遭遇する瞬間の描写はイキウメの技が光る所。不思議を迎える側である「日常」は、この芝居では主人公の青年の父母と幼馴染みとで訪れたキャンプ場。ここから主人公は後半、時空を次々と遷移する。引き籠りの主人公の設定は、解決すべく提示された課題なのか、彼を用いてある世界を描こうとするのか・・。
この劇では「不思議」は主人公の青年の身にだけ起こる。周囲はコロス的に立ち回るため(一人二役もあり)、事象は実は青年の心的状況の反映とも解釈可能となるが、基点となるキャンプ場は、主人公が戻っていく現実世界の象徴としてある。
ラストには議論があるだろう。割り切りよく離婚していく父母、もはや彼の前にいない中学時代の「彼女」、それぞれ自分の道を行く二人の幼馴染み。町に一人残る主人公が一人で立たざるを得ない状況が「準備」され、彼は自分と世界に向って叫びを上げる。己自身で立つ決意の瞬間に訪れる身震い、不安と怖れ、打ち寄せる己の醜き過去が去来する。
だが孤立した者が荒れ野で上げる咆哮は、全力でそこから逃れたいと願う叫びであり呪いの声。彼の自己評価への捕われから解放するのは自分自身しかいないが、真に立とうとするのは、寄り添う人間がいること(一人でない事)を真に確信した瞬間ではないだろうか。状況が彼を自立させんとしたこの芝居のラストは、今は行方の知れない「彼女」に本当は「もう一度会いたい」と願う心の声を示すことで完結したはずではないか(終幕前「アン(元彼女の名)を探すのか」と幼馴染に訊かれて彼はその意思を否定するのだ)。彼は自分の過ちを抱えて行く、といえば聞こえは良いが、何らかの形で過去と向き合う事へと主人公を向わせないならば、この劇で展開した事象は何であったのか・・との感はいささか残る。
掬う
ロ字ック
シアタートラム(東京都)
2019/11/09 (土) ~ 2019/11/17 (日)公演終了
満足度★★★★
久々4度目の□字ック。両頭と見ていたボブ美とずるの内ずるは退団か、、さして思い入れない劇団でも一抹の淋しさ。観劇歴を調べると2014年「キラーチューン」、この頃今萌えの劇団と聴いて(他人の感性で)観たのが最初。カラオケの絶唱とかロックのビートが好きなんだな確かに若いなこんな事考えてんだヘー。。て感じ。同年「媚微る」はオフィスの風景、翌年「イヴサンローラン」飲み屋を舞台に大人な世界(再演)共に好感触だったが、3作立て続けに観て以来4年のご無沙汰。「滅びの国」はニアミスし、今回プレイガイドでチケットを買った。久々。
戯曲的には非常に感覚的な筆運びの結果としてか、むずむずと来る箇所がそこここにあり、台詞外のニュアンスの加勢を当てにした気配は映像的感覚の故か。
佐津川愛美に既視感あり。映画版「腑抜けども・・」、この役どころと本作はほぼかぶっており、あの小生意気な妹が成長した姿にも。ブチ切れるカタルシスは間違いなく作者がこの女優を当てにしたもの。
「終ってみれば」、中々良い芝居であった。程よく関連ある断片が配され、最後に主人公の「核」が焦点化されるあたり、物事の進み方の順逆を怖れるな、とのメッセージにも。千葉雅子の俳優としての貢献は過去観劇した中で随一。
8人の女たち
T-PROJECT
あうるすぽっと(東京都)
2019/11/13 (水) ~ 2019/11/17 (日)公演終了
満足度★★★★
初のユニット、名前の間に「1」が入っていないのを確認し、チラシの演目を見て色めいた。女優は、知らない。女優だけの芝居だが一人も知らない(俳優に疎い自分ゆえ揶揄ではない)。これは面白そうである..と萌えた。
T-PROJECTは2011年立ち上げ、今回で14回目。俳優が立ち上げた企画制作ユニットにしては、年1、2回一定レベルの公演を打ち続けている例は稀ではないか。後で調べるとこのユニットを支えるもう一人が出演しており、なるほどと納得(何を納得したかは省略)。
さて「8人の女たち」、2002年の仏映画を見たが、ミステリーをじっくり味わうというよりスタイリッシュな編集の才を見せられたという個人的な感想。従って初めて観る気持ちで観た。参照はむしろ数年前見た同作者の「罠」(俳優座劇場だったか)。フランス産の「笑い」と「毒」の混じり合う計算されたミステリー。今回の作品も同様ではあるが、結論的にいえばこの作品は謎解きもさる事ながら、人間模様を味わうドラマだと言える(ミステリーのみで勝負しづらい演目ゆえ重心を私が勝手に移しているだけかも、だが)。その意味で演目じたいが難物。人物や関係性のリアルとカリカチュアの区分け・バランスが極めて難しそうだが、初日はどちらかと言えばリアルに寄った印象。8名とも実力ある女優達で各場面楽しめるが、そこはかと立ち上る関係性の図(年齢差や姉妹・親戚・姻戚・主従といった)がもっと感じられたかった。
大きな謎解きを終えた後、結末が訪れるが手前で読めてしまう所がある(映画の記憶でもないと思う)。読めるのは良いのだが、この結末をみた観客がそこで一気に腑に落ちるには、人間関係に苦慮する私たちの現在と重なる要素が必要に思う(それが何であるかは判らないしこのテキストでその側面をみせるのは難しいのかも知れないが)。
回を重ねた分だけ熟しそうな舞台である。
ローマ英雄伝
明治大学シェイクスピアプロジェクト
アカデミーホール(明治大学駿河台キャンパス)(東京都)
2019/11/08 (金) ~ 2019/11/10 (日)公演終了
満足度★★★★
二、三年前に見逃し、今回漸く拝見した。粗筋も知らない2演目だったが、何処を伐っても間違えようのないシェイクスピア劇。
今年16回目になる一大プロジェクトはプロも関わって大学の伝統行事の感。無論、制作責任者、演出とも現役学生で、会場の雰囲気から俳優らの立ち姿まで、やらされ感ゼロ。入場料もゼロ「ただ観ていただく」スタンスで、採算性に取られるエネルギーを作品(公演)に集中してやりきっていた(そこだけは学生演劇。贅沢)。大型のホールは新国立中劇場くらいだろうか。だが元気よくやってるので二階席でもよく見え、聴こえた。
舞台の方は、古典なれば上演主体なりのやり方、その時代と場所なりの切り口を見たい思いがあるが、(自分の中に比較対象がない事もあるが)溌剌とした作品紹介を有難うという所であった。ローマに疎かった(塩野七海読まないし)自分には話じたい新鮮。興味が芽吹いた。シェイクスピア史劇の、史実と脚色の境界についても。
上演順で言えば「ジュリアス・シーザー」は純然たる歴史劇であったが、「アントニーとクレオパトラ」がユニーク。始まりはエジプトにて、クレオパトラとアントニーの恋愛喜劇の様相(ここは演出かも)、第一部(シーザー)とガラリ空気が変わるのが良い。だがやがてローマ三頭政治の権力淘汰のシビアな局面へと一挙に変貌し(何かあるとすぐ戦争)、真顔な史劇のタッチとなり、最後はクレオパトラの高潔な死に終わる悲恋物。
学生らは喜劇調において優れ、武勇を若い一途さで表現したが、人生経験が物を言う側面に弱いため芝居の輪郭はその分だけ平板にもなるが、主役のうちクレオパトラ役は闊達なコメディエンヌぶりを発揮、人物の幅としてはアントニー役が若年なりに力演し、芝居を大きくまとめた(この役のサイズがそのまま芝居のスケールになる)。最後にアントニーから逃げ出すも悔いて自害に至る臣下イノバーバスの存在感もあった。
恐らく他の臣下も同様、役者たち自身と役の年齢は近いせいだろう、人生の春を謳歌するはずの彼らが自刃する姿は妙に生々しい。理想や大義や倫理のために命を捨てる向こう見ずは若い世代の特権であり、社会変革の主役も同様の意味で若者であるはずのものなのだが。。(沈黙)
人間と、人間と似たものと。
TOKYOハンバーグ
座・高円寺1(東京都)
2019/11/06 (水) ~ 2019/11/10 (日)公演終了
満足度★★★★
終ってみれば深く浸みてくる迫力ある舞台。ここ何年かの間に観たこの劇団の作品としては、日常ベースのドラマとは一線を画する象徴性・フィクション性の高い舞台で、色合いは違うが同じ座高円寺で上演された「KUDAN」(再演)が断片的に蘇ってきた。(KUDANでは人間と牛が交配して生まれた娘がその出生を由来として神秘的存在となるが、この作品でもある交配によって生まれた娘が聖性を帯びた存在となる。)
総勢二十余名が色だけ白で統一した衣裳をまとい、円舞やムーブをしたり、記者会見での記者団や街中の通行人となったりの変幻自在も効果を上げていた。芝居の前半は演じる者だけ登場するが、後半になると全員が平舞台を四角く取り囲んだ椅子にコロス的に座り、場面が終ると椅子に帰って行く形式になる。緊迫感がじわりと増す。
視覚的効果で言えば、広い空間の左右奥には座・高円寺の天井にまで届く透明な円筒が立ち、筒の中には赤系色の不ぞろいの風船が紐で繋がって照明に浮かんでいる。カエルの卵のようなそれはゲノムかニューロンか、生命の神秘を象徴して大きな効果を発揮。
生命とは何か、人間とは何か・・このテーマを巡り作者はユニークで壮大なフィクションを立ち上げた。最後には拳銃まで登場し活劇要素もあるがその扱いは人物に即して必然性がある。人物関係図は入り組んでおり完全に理解したように思えないが(矛盾も幾許かありそうだが)、思考が彷徨した末に到達した場所は、思えば遠くへ来たもんだと思えた。架空の設定(人類が間もなく途絶える)が最後には解決し、大団円が描かれるが、戯曲的にはマッチポンプである顛末が、何故かそぐわしく感動的である。