tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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氷は溶けるのか、解けるのか

氷は溶けるのか、解けるのか

演劇プロデュース『螺旋階段』

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2024/07/26 (金) ~ 2024/07/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

見応えあり。点描式に展開を伝え、くどい説明に走らず、最後には素朴かつ強い人間ドラマの構図を残す。1時間20~30分。他の書き手ならもう一つ二つ書き加えておきたくなりそうな所、ストイックに終わらせた。点描のイメージは周囲が闇に説ける劇場空間、照明のワークによる所も。
神奈川を拠点に精力的に活動する『螺旋階段』主宰による作演舞台を先般観た所だが、舞台の色をガラッと変え、クオリティを維持して実現していた。今日で終わってしまうが地元の方は是非目にして頂きたい。そして今後も注目である。

ネタバレBOX

突っ込み所、というか、疑問を残す部分はある。子どもが生まれて以降殺伐とした夫婦生活(夜の、でなく)が描かれ、ある時など毛虫のように夫を嫌い、酒に頼る妻がグラスに入った氷を亭主の顔にぶつけるシーンもある。子どもが生まれた後、子育てが不得意な妻が「求められる水準」に至れない事に、なのか、子どもへの愛情そのものが持てない、のか、それは夫との関係に起因するのか、と来て、しばしば特徴的に切り取られる妻の両親との関係(娘に対し何かと話を持ちかけ、干渉する)がどう妻に、夫婦に、影響しているのか、に疑問が移る。その答えは、作者なりに持っているのかいないのか、という所で、少なくとも「芝居的には」それを説明する必要は無いと判断されている事を感じるものの、気になる。夫婦が仲睦まじく新居での生活を始めた頃、賃貸でなく持ち家の方が良い、将来的にも、と両親は自分らの援助を申し出て、移ったばかりの新居から転居する事となる。(この両親は、訪ねた夫を拒絶する終盤の場面以外には、「夫婦に」ではなく常に「娘に」話をし、夫婦の選択を変えさせる、というやり方をする。)
妻が両親の説得に(その場面では娘は殆ど反応をしない描写になっているが)応じ、笑顔で夫を説得するのだが、不仲になった時点でこれをなじる材料にする。妻が夕食を作らないので夫は夕食をコンビニで買って来たが、これ見よがしにと妻は切れ、少しは自分で子育てをやってみなさいよと言い、「俺は毎日仕事を」にかぶせて自分のお陰で生活が出来てると言いたいわけ?と絡み、この家を買えたのは私の両親のお陰でしょ、と突きつける。そして顔も見たくない、と奥へ引っ込んで行く。
理不尽な主張、言ってもいない非難を言ったと相手を悪者にして自分の非を認める事ができない妻と、夫の関係とは、元々愛のない結婚だったのか?といった憶測が生まれる余地がなくはない。そして一度実家に戻った娘に対し、両親は「あなたには子育ては向いてない」「あの結婚には反対だった」と娘をもディスる言葉さえ吐く(毒親だったのか..)。そうした両親には、経済的には感謝しながらも反発を抱える部分が妻にもあって、これは親離れ(子離れも)が出来なかった家族の病理が「正常な夫」を襲ったという話なのか、それともそこに描かれていない夫の「子育てへの無頓着」というよくあるケースを土台にした話なのか、そのあたりは判然としない。
だが、ストーリーは進み、夫婦喧嘩を嫌った5歳の息子は夜家を飛び出し、工事現場にもぐり込んで穴にはまって溺死する、という展開があり、芝居ではその工事を担った土建業者(亡くなった親方の遺志を継いで新たに会社を立ち上げた)とその関係者の人間模様が、片側で描かれている。
冷め切った夫婦と、建設業者に繋がる面々とが、不幸な事故で接点を持つが、ドラマの焦点は、土建会社で働く従業員の「友達」が夜中酔っ払って工事現場の看板を蹴り倒したと聞いたその妹が、子を亡くした夫を頻繁に訪ねて行く、という奇行の方に移って行き、じつは自分も子どもを(お腹の中で)亡くした心の傷を持つ妹が、衝動的に相手に入り込んで行く様が最終的には感動をもたらす。
従って夫婦関係の「実際」はカッコに括る事が許される。のではあるが、夫婦の再生への希望を捨てていない事を最後に妹らに告げる夫が、叶わない希望にすがっている(過去にしがみついている)のか、実現不可能な事でもないのか、は重要だ。
芝居は娘(妻)側の揺れも切り取っており、可能性をほのめかすが、それは親との決別を意味するのか・・。子育てから解放されたがためにその葛藤が焦点となる事はないが、逆にその過去の傷を夫婦が顔を合わせる度に触り合うこととなる以上、どちらかが(あるいは両方が)自らの非を改める、という形でしか再出発はあり得ないのではないかと想像される。そこでこの夫婦関係にあった問題の本質が何だったのか、が気になって来るのだ。もちろん、そこには「あらゆるケース」が代入できる、という事で良いのかも知れないが。
そうした事から、作家としては「もう一つ二つ書き加えたくなるのではないか」、と想像してしまった。私てきには、あの無責任な親たちに復讐したっていい。皆それぞれ精一杯やってるのだから無碍に扱わなくとも、、とは普通の反応だろうが、今の日本を思うと、決別すべき事とは決別する、という姿を見たい願望はある。
木のこと The TREE

木のこと The TREE

東京文化会館

東京文化会館 小ホール(東京都)

2024/07/12 (金) ~ 2024/07/13 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ペヤンヌ・まきの近作で音楽劇。と聴いた時はタイトルの「木」の意味に思い至らなかった。作者自身が住む阿佐ヶ谷の住宅地を貫通する道路建設計画を知り、ブス会で舞台化、一昨年末上演した「The VOICE」に印象的に語られる高木が、今回東京文化会館小ホールのステージに意匠を凝らしてそびえている。主人公(南果歩)に絡む二人の存在(男性)が、劇と同じくだりを(老婆役とかで)再現する箇所で、あの劇に出演した二人だと気づいた。他に踊り子(女性)が一人(これが後半、物語性と比喩性に富んだ踊りをガッツリ披露する場面がある)、そして上手側にピアノ、ギター、コントラバス他の演奏者(イケメン)三人が、存在、音楽ともに舞台に溶けている。
70分程度の小さなステージの中に、劇では言葉でしか伝えられなかったものが詰まっている。人の思いそして木自身の眼差しが、音楽、踊り、賑やかな三人の遊びのような動きの中に花開くように広がる。これを言葉に約めて言えば、「今ここに存在するものを愛すること」だろうか。阿佐ヶ谷の片隅に、神宮の森にひっそり立つ彼ら(木)に思いを馳せる、玉のごとく愛らしく、大切にしたい世界。
会場はほぼ埋まり、会館の会員だろうか、タイトルを見てだろうか、子どもを連れた親も結構いた。幻想的な世界ばかりでなく、木を切られようとする「現実」に声を上げる場面がある。「抗議の声」自体が政治的な響きを帯びてしまう今であるが、この場面の声は、心にまっすぐに届く声だった。こっそり涙を拭っていた客は、当事者に近い人だろうか。子どもたちの心に、何か種が撒かれたならいいな、と願う自分であった。

この問題がきっかけで杉並区政に関心の領域を伸ばしたペヤンヌ女史が撮ったドキュメント映画を観たいと思っているが、都内、横浜と巡演する間に追いかけてはいたが観られず。いつか観たい。またブス会の過去作の映画化もされていて、見逃した芝居だったのでこれも観たい。

スタンダップコメディ・サマーフェス2024

スタンダップコメディ・サマーフェス2024

合同会社 清水宏

小劇場 楽園(東京都)

2024/07/18 (木) ~ 2024/07/21 (日)公演終了

実演鑑賞

スタンダップコメディに一言申すなど無粋の一言だが、一言だけ。
さすが。すげえ。一人でやってるだけでリスペクトだが、自分という存在を素材に物語を紡ぐ芸。
大拍手。

百こ鬼び夜と行く・改

百こ鬼び夜と行く・改

仮想定規

中野スタジオあくとれ(東京都)

2024/07/18 (木) ~ 2024/07/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

コロナ期を挟んだ数年前に観た時の印象が蘇ったが、異形の登場人物らが今回は「お寺(神社だったか)の裏の池に住むヒキガエルを媒介して覗かれる妖怪らの世界。そこへ迷い込んだ最近この村に転居してきた男の目撃する「戦い」が、一体何を象徴するのか、が着目点だ。1枚のクレームを記した紙が、始まり。そこには「蛙の鳴き声がうるさいのでどうかしてくれ」という趣旨が書かれている。町内会の意見箱へに入っていたのを、町内会長さんが男に見せに来る。町内会へ強引に加入させられ、おまけに「君、頼むよ」とその紙を渡される。仕方なく夜の池を訪れ、鳴り渡る蛙の大合唱に向かって「おーい、少し黙ってくれ」と、手段無し。そこに口のきけるヒキガエルが現われる。頭の上に草を乗っけると姿が見え喋る事もできる、という設定。後に登場する怪物らも男の前に存在を顕わにするが、5人ばかりの彼らは鬼滅の刃の剣士「柱」っぽく独特のキャラがある。

さてこのクレームは、現代のクレーム文化の隆盛(精神文化のある種の劣化)を象徴し、街に置かれた「自由に弾けるピアノ」の撤去を要求する人たちの存在を思い出す。うるさいから止めさせろ、というのは一見「権利の主張」ではあるが、子どもの声がうるさいから公園を撤廃した町でも議論が起きたように、難しい問題をはらむ。で、これは芸術に対するクレーム(愛知トリエンナーレが好例)にも通じ、「不快」との付き合い方、公共空間の確保、そこで優先されるべき事、等の社会的コンセンサス、もっと言えば社会のエートスを育む視点が問われる大きな問題だ。
蛙の声がうるさいからどうにかしろ、という投書を、妖怪たちは「あいつの仕業だ」と当たりを付け、やがて主のようなその存在(青木詩織)が登場する。ここが私には不満だったのである。一つには、人間界に巣食う望ましからざる精神性の根源を擬人化した存在として、つまり人間と重なる存在として異様に登場してほしかったのだが、妖怪的存在の仕業である事と、それが人間に対してどう影響するのか、という肝心な部分(私にとっては)が曖昧になり、異形の世界の中での出来事になってしまった。夜の内にそれらは解決し、人間界に平穏が訪れる・・・果してそうか。クレームは人間の劣化という症状であり、そこに病理があり機序があるので、そこにメスが入る事と、妖怪界での「戦い」が重なって見えたかった。
(演出面では、妖怪たちの前に突如現われたその存在は、ミザンス(立ち位置)的に同じ側に居るように視覚的に判断されてしまい、混乱した。対決図を見せるなら、主を上手側、これに対峙する妖怪たちは下手側、といった風に、「何かに対峙し、これを解決せねばならない」という風に見えたかった。主役の立ち位置として中央に立ってしまう事を優先したのは正しい判断なのか、というあたりで「?」が沸いて来てしまった。結局の所、彼らが何と戦い、何に勝ったのか、忘れてしまった。
が、冒頭からの自分の期待からはズレて行ったのが残念だったが、中々見モノな場面、笑える場面、奇想天外な場面展開はジェットコースター式エンタメといった所。役者の汗が(肉眼ではなく)見えた。

あくとれを前に訪れたのは恐らく20年前頃。芝居をちらほらと見始めた頃で、知人が出ていた芝居を観に行った、とだけ覚えている。というかその事を思い出した。
その時も中野駅からの単純な道のりを探しつつ歩いた感覚が蘇り、近づくにつれ足が速まる自分がいる。あれは何の芝居だったっけな・・記憶も記録も辿れず、思い出せずに終わりそうだ。どうでも良い話だが。

デカローグ7~10

デカローグ7~10

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2024/06/22 (土) ~ 2024/07/15 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

Eプログラム(小川絵梨子演出)の2本も見応えがあった。
一つ目は、医師の夫(伊達暁)が同僚の医師から、彼の勃起不全が回復不能であると告げられる所から始まる。妻は「美しい」大学教員(万里紗)。二人の間に秘密があってはならないと考える夫は、触れたくない事らしいと察知して体をかわそうとする妻を彼に向き合わせ、「事実」を告げる。が、鷹揚な妻は「今までと変らない」と夫に告げる。だが事態はすぐに不穏に。夫が無言電話を取り、その主らしい若い学生(宮崎秋人)と妻は逢瀬にいたる。いつものルーティンのようにセックスをする。学生は妻が禁止した電話も自宅にかけるわ、車の助手席の下に自分のノート(だか教科書)をわざと置き忘れるわ、「大人の関係」に向かない。
夫は不信を募らせ、逢瀬の場所である妻の母の実家(今は転居して不在で引き払おうかとも話し、妻はそれに戸惑う)での現場を見てしまう(二人で中に入り、一回に掛かる十分な時間の後退出するのを目撃)。妻の態度は不思議なほど夫の前ではゆったりとしており細やかな愛情も感じさせる。夫が車の助手席下から見つけたノート、妻のバッグ中のノートにメモをした学生の電話番号、そしてたまたま妻が母から頼まれた実家にある品物を、夫に代りに取って来るよう頼まれた事。さらには、その日学生からの電話で「ラブレターを送っておいた」と聞かされた妻は夫が居る実家に電話し、品物があった事を確認しがてら、「郵便受けは見なくていいから」と言ってしまい、「物的証拠」を夫は手にしてしまう。
夫の職場である病院で、一人の患者とのやり取りがある。若い彼女は母親から歌手になるために喉の手術を受けるよう説得されているが、当人は「生きてるだけで丸儲け」と頓着しない。だが病院での日常、腕の良い外科医でもある彼の患者に対する責任は、妻の一件で到底負えず、休暇を取っている。妻への嫌疑の追求を彼は最後まで敢行する。実家の鍵を預かった彼は合鍵も作っており、電話の会話を別室で聞くための細工まで行なった彼は、「次の逢瀬」が明日である事を突き止める。そこへ病院から電話があり、手術を拒んでいた彼女が承諾し、明日行なうと言われるが「今はそれどころではない。頼む!」と同僚に委ねる。
妻が学生に電話をして「明日会おう」と告げた直前のこと、夫は妻とのやり取りの間にキレている。妻は夫の拒絶を悟り、すぐさま学生に電話したのだ。
夫は先回りして実家の一番奥の物置に隠れる。やって来た学生に対し、妻は「これっきりにしたい」と告げる。「それを言いたくて呼んだ」と言う。しつこく食い下がる学生をきっぱりと拒否し、追い返した妻がため息を付いた時、奥から嗚咽の声が聞こえる。夫が崩れるように出て来ると、妻は夫の挙動を責めた後、こう言う。「貴方がこんなに傷つく事を自分がやっていたなんて気づかなかった。」そして怪我を負った者を迅速に手当し、介抱するように夫を遇し、二人で家へ帰って行く。
話はもう一山ある。互いと顔をつきあわせるのが困難と見た妻は、当面は別居しようと提案し、自分は休暇を取って遠方にスキーをしに行く(地元に居ては学生との接点が疑われてしまうので)、と言う。その見送りの場面。ところが、その暫く後、スキーウェアに身を包んだ例の学生が空港に現われ、ゲートを通って行く。絶望に見舞われた夫は、自宅で遺書を書く。妻は自分を追って来た学生に驚き、問い詰めると、大学の同僚の教員から聞き出したと言う。ある直感が働いた妻は、夫に説明しなければならないと悟り、公衆電話に走る。まず病院に電話し、夫の同僚から「夫は来ていない」事を確認し、もし夫が来たら「自分は○○から戻っている」と伝えてくれ、と言い置く。そして自宅の方へ掛けようとするが、後ろの男が並び直すように言う。緊急だと訴えるが自分も急いでいると言う。これをじりじりと待つ妻は舞台下手、一方上手の自室で机に向かっていた夫は、遺書を書き上げ、ゆっくり立ち上がる。紙を手にとり、電話機の上にそれを置くと、漸く前の男の電話が終り、妻は懇願するように自宅の電話を鳴らすが、遺書が上に置かれた受話器は既にこの世の者との回路を断ち、夫はふらりと家を出る。自転車に乗る。以前自転車を飛ばし肝を冷やした断崖のある山間へ、向かった事が分かる。疾走する姿が上手上段のスポットに浮かぶ。妻は空港へ。そして自宅へ。電話器の上の紙を見て絶望する妻。夫は過去を振り切るように猛スピードでペダルを踏み、ダイブする。
暗転の後、包帯だらけの夫の前に、妻が現われる。驚いた夫に向かって、妻は「私はここに居る」と言う。

必死に夫との関係をつなぎ止めようとする姿と、いとも簡単に学生と関係し、簡単に関係を終わらせてしまう姿。妻の中の肉体的な欲望があるが、それを捨てる事を厭わないものが夫との関係の中にある・・・その事が「信じられるか」がこのドラマが観客に問う大きな問い、と思える。
万里紗と伊達暁との取り合わせが良かった。

締めとなる第10話も、面白い。「希望に関する」とあるが、冒頭は切手蒐集家だった父が死去し、息子である兄弟の手元に残された切手コレクションが莫大な価値を持っていた、と知る場面。希望とは何か。彼らがこれを処分しようと相談した人間から、切手の「換金価値」以上の価値(記念切手そのものが持つ希少価値)について聞かされ、一転して二人は「売る」のでなくこれを保管し、なおかつ「父が集め切れなかった三点セット」を入手してコレクションを完成させる事に、関心が向かう。180度の転換がここにある。兄は売れたロックミュージシャン、弟は真面目なサラリーマン。二人はずっと意気投合して話を進める。
が、紆余曲折あって、二人は全てを失う。互いに原因をなすりつけ罵りあう、ばかりか強盗の手引きをした張本人ではないかと疑い合う。だが、犯人については二人に思い当たる関係者が浮上し、にわか切手コレクターとなった二人は一枚も二枚も上がいたのだと最後には諦める。
或る時、郵便局に立ち寄った兄、弟それぞれが、切手を買う時にふと記念切手に目が行き、3つのセットを購入してしまう。再び訪れた何もなくなった父の切手保管倉庫で、互いに同じ切手を買った事を知った二人は、互いの心を理解し、笑い合う。
希望とは何か。父の「偉業」を継ぐ事に生きがいを見出したにわか蒐集家の息子らは、その夢を「断たれた」事を自覚したが、凡そ全てのコレクションは凡庸な一つの記念切手から始まる、という本質は変わらない。その事を理解してか否かは分からないが、始めの一歩を二人は刻もうとした。二人が生きている間に父のような崇拝されるコレクターになっているかは甚だ不明だが、切手を愛する事の本質は、「誰が持っているか」とは別の所にある。・・これは愛に似ている。そこに希望を見出そうとした。

デカローグ7~10

デカローグ7~10

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2024/06/22 (土) ~ 2024/07/15 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

公演の後半にDプログラム、最終盤にEプログラムを駆け込みで観た。順番に感想を書いていたら中々のハードルなので簡略に、まとめて。

Dは上村演出の2つ。一つ目の「ある告白に関する物語」は、「子どもは誰のものか」を問う物語。
母=エヴァ(津田真澄)の<娘>アニャ(三井絢月=Wキャスト)を<姉>のマイカ(吉田美月喜)が誘拐する。実際はアニャはマイカの娘であり、エヴァはマイカの母。
冒頭、夜泣きする赤子に手をこまねくマイカの姿がある。マイカは年端が行かないか世間知らずの(発達障害的な?)風情で、これを見かねたようにエヴァが赤子をあやす・・という象徴的シーンが切り取られる。アニャはやっと学校に上がった位の年頃で、<姉>のマイカにもなついているが、頼りにしているのはエヴァのよう。現状を納得していないマイカはかねてからの計画を決行する。ある日アニャと<母>二人が劇場に行った際、エヴァが席を立った隙にマイカがアニャを連れ去る。アニャは「誘拐」を楽しんでいる風だが、エヴァの方は顔面蒼白、夫(大滝寛)に告げて心当たりに電話をかけまくる。一方マイカは子どもの「父親」(章平)を訪ね、一晩の宿を請う。かつてエヴァが校長をしていた学校の生徒だったマイカは、若い国語教師だった彼と「出来て」しまい、子を授かったのだった。
エヴァは激怒して二人を別れさせ、男は教師を辞めたらしい。地味に暮らしていた彼はマイカを見て驚き、自分の子を見て戸惑うが、最初は拒絶感の強かった男もマイカの純粋で一本気な人間性を思い出してか、一個の人格として愛した過去が蘇ってか、宿を与え、彼女のために自分がやれる事をやって良いという気になった事が分かる。男の所にもエヴァから電話が掛かり、彼は「知らない」と答える。
夜、マイカは実家に電話を掛けるとエヴァはホッとするのもつかの間、マイカの強い決意を聞かされ、絶望する。夫はそんな彼女に、「なぜマイカを拒否するのか」と諫める。エヴァは自分がマイカをとうの昔に失っている、とこぼす。ここで母娘関係のしこりが見えて来る。そしてエヴァが「マイカの代わりに」アニャという娘を得たと思っており、仕方なくアニャを引き取ったのではなく「かけがえのない存在」として迎えたのだという事が知れる。十戒の「他人の財産を欲してはならない」が浮上する。私達は如何にマイカが力不足であろうと、子を奪ったエヴァに疑問を投げかけなければならない、と促される。そんな予感が押し寄せる。
マイカは早朝目が覚めると家を出て、近くの駅へ向かう。彼女の行く先はカナダ。遠い。男は彼女の不在に気づくと、エヴァに電話をかけ、マイカが居た事を告げる。酷寒の早朝、始発までの時間駅員は暖かい駅員室へ二人を誘う。うたた寝の間にマイカたちは捜索者に見つけられ、アニャは「ママ」とエヴァへ駆け寄る。ちょうど電車が着いた時だった。エヴァはほんの僅かな変化をここで見せる。アニャを諦め、一人でホームへ向かおうとしたマイカの背中に、「あなたが必要だ」と声をかける。直情的で決めた事に一直線に進む習性のマイカは、去る。彼女の内心は分からないが、娘を奪われた思いだけは消えずに持ち続けるだろう。母はそんな娘を受け入れられなかった過去をどうにかこの時、辛うじて「否」と言えた。マイカの挙行に見合うだけの内省を要請されている事に、気づいたのである。
キェシロフスキの書くエピソードはどれも悲しい運命と、僅かながらの光がある。

二演目めは、他の作品中最もストーリー性に乏しい(又は描き切れてない)話だった。テーマは最も社会的に重いホロコーストである。観察者である「男」(亀田佳明)が唯一、台詞を喋る場面がある。ポーランドの大学のゼミで教授(高田聖子)が与えたテーマを考察するために学生が持ち込んだそのエピソードは「デカローグ」の何作目かのもの、だからそれを「知っている」男がこれを代弁する(女学生は口を動かし、声は亀田のもの)形である。このゼミには訪ねて来たばかりの女性(岡本玲)がいる。教授の著書を英訳した女性であるが、それ以上の縁があった事がやがて明かされる。戦中、アウシュビッツで親を亡くした彼女に関わる事になった教授は、彼女を冷遇したのだった。(ただその具体的な出来事が台詞だけで説明されるその台詞がよく聞き取れず、把握できなかった。)
ユダヤ殲滅が企まれたホロコーストと、その行為がどう重なるのか、別物なのかが不明。ただし「赦し」がテーマである事は分かる。最後の場面までに演出的な趣向が凝らされた後、教授側から彼女へ手を差し出し、抱擁するという美しい形で幕となる。独特な語り口の話であったが、「何があったのか」がその説明台詞以外から汲み取るヒントが得られず、それはその事実を多面的に見る視点ないしは感情が人物を通じて見えてこなかったためではないか・・といった事を考えてしまった。

やはり短くは書けない(言っちゃってるし)。最後のプログラムは別稿にて。

ナイトーシンジュク・トラップホール

ナイトーシンジュク・トラップホール

ムシラセ

新宿シアタートップス(東京都)

2024/07/16 (火) ~ 2024/07/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ムシラセを二度目の観劇。前回観た芝居といい、お笑い(芸人)の世界がこの作者のホームグラウンド的な(勝手知ったる?)フィールドなんだろうな、と開幕早々に想像された。江戸の戯作者(浮世絵師の名も戯作者として扱っている)の名をもらった登場人物たちが、着物をまといつつ現代の熾烈なコミック作家の世界を生きる当事者たちとなる。当人らは時代がどちらになろうともキャラ・役割とも変わらず、その変化をやり過ごしてるのがノリ突っ込み的な味で、作劇に生かしている。
ネタバレは避けるが、出来る役者、キャラの立った役者を配して美味しいシーンもあるがギャグを日常語とした作風にシリアスが混じると扱いに難渋してる印象が少々(作者的には狙ったニュアンスなのかもだが)。最後はメッセージにうまく落としている。「創り出す者」の苦悶、熾烈な競争世界を生きる孤独、そんな彼らに温かい眼差しを当て、幕を閉じていた。(どう落としたか=どんな言葉を彼らに掛けていたかは、忘れてしまったが・・どうも劇の最終場面は「終わるな~」という感慨が先行するせいでえらく忘れがちである。)
客席に(何故か前の方に)空きがあったのが空間的には淋しかった。直前に公演を知った私のような人も多かったのでは。

オーランド

オーランド

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2024/07/05 (金) ~ 2024/07/28 (日)公演終了

実演鑑賞

作家バージニア・ウルフへの関心とも相まって観たかった演目。序盤のステージを観た。オーランド役の宮沢りえが延々と喋る。台詞の言い淀みも噛みも無いのだが幾許か、探り中な感じが流れるような、ゲネプロな空気感がある。形先行・内面後から・・栗山演出のステージ捌きは(当り前だが)先行している。隅々に血が行き渡ると凄いだろうな、と思う所はあった。
本作の梗概をどこかで読んでいて、時空を旅する超越的な主人公を「ペール・ギュント」と重ねていたが自分の中ではそう外れておらず、幾人かの登場人物は人間だが、(貴族階級の世界というのもあるのか)浮世離れした、それぞれが独自進化したような生物に見える。舞台はイギリス、16世紀から、現代まで(作品は20世紀前半の著)。時代を超え、果ては性別も超えるがそれも「無くはないかも」な空気が流れている。性差が人間に及ぼすもの、についての壮大な思考実験の実験室は舞台奥一面の壁(人一人通れる出入口が中央下にあるのみ)、宮廷のような床の伽藍とした空間で、これが目に焼き付いている。スタッフ陣も一流で音楽・国広氏は相変わらず縁の下に徹した深層に働きかけるような音楽(だから毎回あまり覚えていない)。
作者は女から男、ではなく男から女への転身とした。そこに意味を見出す。ある種の不条理だが、「どちらかに(自分の選択によらず)生まれる」事自体、もっと言えば生命そのものが不条理である、その感覚を深掘りした先にある何かは、人が辿り得る最も尊い「変化」なのかも。

『口車ダブルス』

『口車ダブルス』

劇団フルタ丸

小劇場B1(東京都)

2024/07/10 (水) ~ 2024/07/14 (日)公演終了

実演鑑賞

フルタ丸初観劇。「うまいな~」と幾度となく感心しながら観た。下北沢B1は馴染みのある劇場だが、舞台をゆったりと贅沢に使ってる感覚が新鮮。未知数であった「講談」要素がどう絡んでいるのか・・そこにやはり関心が向かうが、開場時間の間流れる女性講談の音源がアウトし、開演となると、見台を高くした台上に何と女性二人が座り、講談調の語りが始まる。さて・・・
もっとも自分は講談を「落語」を通してしか知らない。(神田伯山氏の動画を初めて目にしたのは割と最近。)枝雀の秀逸なくしゃみ芸が聴ける「くしゃみ講釈」や、志の輔の全編講談調の新作を今思い出すが、(伯山氏のを聴いて実感した所の)講談の真骨頂である「クライマックス」のテンションであったりが、今回の作品にも盛り込まれ、また時折高座に出てくるフレーズをうまく嵌め込んだりと、単に「語り手(講談師)の進行による劇」止まらない趣向の充実がある。
ストーリー的には舞台となる保険屋の営業部員それぞれの人生模様が切り取られ、各人の人生の分岐点を華麗に(見た目的にはバタ臭くとも)経て行く物語が講談的に綴られる。
正直、出だしは打ち込みの音楽が「和」と合わないな、とか、可動式「見台」台の二人が人に隠れて見えないといった「不便さ」や多少多めな「甘噛み」など物理的要素に引っ掛かっていたのだが、仕込んだ伏線がやがて花開く考えられた台本に、「なるほど」「うまい」と心で呟くのであった。

ネタバレBOX

営業部員たちは男性3名、女性4名。新人女性、枕営業疑惑の女性、やり手の女性ベテラン、そしてじつは落語家を目指していて断念し、「同じ喋くりで身を立てる」仕事として選んだものの・・という女性が居る。これが後半驚くべき変化を見せる。男性にもベテランが一名、彼は音楽のプロを目指していたがバンドを去った過去を持ち、後半思い掛けない展開がある。高学歴で社会的地位の高い学友たちをターゲットに成績を上げているが頭打ちが見えている若手or中堅、もう一人が具体的に思い出せないが、各々が持つ特性に即した物語が書き込まれ、フォーカスされる。このエピソードの配置、ディテイルが「うまいな〜」なのである。
もちろん個人史に深く分け入れば、もっと泥臭くみっともなく、従って行動に至らない事が多くその方が賢明である事の方が多い。が、皆が皆「等しく」課題や傷を抱え、乗り越えようとする群像劇とは「等しい」という点にポイントがある事に気付かされる。一名部外者が混入、彼には「革命」を担わせ、あるいは社内恋愛要素もあって混沌とするが、うまく触媒の機能を果たす。
講談師は俯瞰で物語る存在だが、二人は営業部長を兼ね、部下たちの内面を含めた実情を鋭く見抜いている風なまなざしがある。これが作品のドラマツルギーを決定づけている感があり、そこに何かを感じているのだが、これに関してはお時間となったゆえ、またの書き継ぎにて。
ナイロン100℃ 49th SESSION 「江戸時代の思い出」

ナイロン100℃ 49th SESSION 「江戸時代の思い出」

ナイロン100℃

本多劇場(東京都)

2024/06/22 (土) ~ 2024/07/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ナイロン観劇4度目になるか。比較的、見応えある舞台だった。と言っても以前観た「わが闇」等は一定評価されているので、自分の感受性の問題かも知れぬ。で、今回はナイロン的アプローチを漸く理解し始めたという事なのかも・・?
所詮遊び以上のものではない、と作者は腹をくくってるのだろうと推測しているのだが、何かメッセージらしきものを込めて来る瞬間があり、それが茶化しなのか、その逆(日和った)なのか、どっちだ。やっぱ日和ったのね、と。「いい話」にしたいなら直球でやってみろ、と言いたくなる感覚?それかも知れない。
ただ、死体の腕や足が出て来ても平気で見れてしまうシュールなワールドへの巻き込み術は、さすがである。心から笑えるギャグも一つあった(一つかいっ)。
シュールなワールドでの、俳優の肉体の「力」の貢献を実感する所あり、途中で気づいた存在がズームされて目に入って来る池田成志、同じく途中で気づいた奥菜恵(どこまでも変らない)、コールでやっと気づいた山西惇らの圧は中々であった。客演四名の一人坂井真紀はビッグネームと悟るも、判別できず(坂井美紀、水野真紀、水野真紀未だに識別できない)てな塩梅。
だが、どこか「勿体ない」感が残る。それがナイロンと言えばナイロンなのだな。
小劇場への客演で目にしていた水野小論が出るとホームなのに何故かアウェイで頑張ってる錯覚に。

問わず語りの三文オペラ

問わず語りの三文オペラ

YUTOMIKA  ゆーとみか

座・高円寺2(東京都)

2024/07/05 (金) ~ 2024/07/06 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

こんにゃく座人脈だろうか、比較的新しいユニットによる「歌」芝居である。クルト・ヴァイル作曲の「歌」が十数曲、この「三文オペラ」という話がよく分かった。シンプルなストーリーだが独特な匂いがある。悪事を働き、女を弄ぶマック・ザ・ナイフが、最後は縛り首になる悪役物であるが、石川五右衛門よろしく最後に公開処刑される怪盗・鼠小僧を翻案した芝居(佐藤信版は観てないが野田歌舞伎版は確かそんなであった)はこれに着想したのかも。。
ヤツに娘をたぶらかされたピーチャム商会の店主、その実乞食らに盲や片輪を演じさせ浄財を巻き上げて伸しているピーチャムが、マック捕獲に執心し、逆に警察署長タイガー・ブラウンがマックを逃そうとする転倒。最後はタイガーは折れ万策尽きるのだが、描かれるマックの人間的魅力を作者は、実は弱き者の味方であったとか、親思いであるといった徳目でなく、己が歓心の赴くまま、自由に生きる姿に見出させる。そこに女郎たちやある種の人間は惹かれ、ある人間は疎ましがり、またある人間にとっては「裏切っても許してくれる」人物。
彼がやった程度の「悪」は、大手を振って罷り通る巨悪に比べれば取るに足らないものだ、という視線は芝居の中でほぼ語られる事がないが、物語の底流にひたひたと流れている。ブレヒトは壮大な皮肉の物語を書いたのだな、と思う。

舞台の方は、演奏者二人(ピアノ、サックス)以外は6名。同好会的雰囲気のあるユニットだが、公演ひと月前に主要出演者の一人が急逝したとの事で、追悼の言葉がパンフにも記されている。そんな事もあってか、初日は台詞が詰まる等厳しい瞬間もあったが、その時の気まずさを超えて、終わってみればドラマの情感を伝えて来るものがあった。歌の力だろうか。
こんにゃく座の芝居がそうである時が私は大変好みなのだが、「歌」に芝居を従属させない、「歌が芝居である」表現に、なっている。歌唱力はバラつきがあるも、個性の振り幅と言え、「歌」が芝居として連なり行く舞台になっていた事が、私は満悦であった。

ネタバレBOX

パンフによれば、台本の底本としたのは大岡淳翻訳版という。数年前東京芸術祭、池袋西口での野外劇「三文オペラ」で披露されたのを見て、出色と感じた翻訳であった。小気味よい啖呵台詞の応酬。SPAC芸術部に所属する大岡氏は当劇団でもたまに翻案・演出等も行なうが、この仕事は日本演劇に特記さるべき成果ではないかと思ったものだ。私などが言うのもなんだが。
地の塩、海の根

地の塩、海の根

燐光群

ザ・スズナリ(東京都)

2024/06/21 (金) ~ 2024/07/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

公演序盤のステージを観たが書き忘れていた。正直「当たり率」の低迷が個人的には続いた時期があったがこの所、往年の燐光群舞台、坂手洋二氏の筆致が蘇る感覚がある。本作はウクライナに照準した。二年前に関西で行なわれた反戦イベント(渋さ知ラズの名も出ていた)の会場に立って当時を振り返り、この場所で今リーディングを行なうとしているのだと男が語ると、俳優らがわらわらと登場。取り上げるのは、ウクライナ出身作家「地の塩」である。
場面変ってウクライナのとある地方都市の郊外、ロシア語で書かれたこの小説をウクライナ語に訳す使命(ウクライナ人アイデンティティの模索)を自らに課す男と、彼の良き対話相手の妻が登場し、当地で開かれた演劇祭に参加したOFFにそこを訪れた日本人の男女と、草原を見渡すそこで出会う。演劇舞台の話題も少々。
その夫妻の息子が今、自らの意思でロシア(クリミア)に滞在していると言う。やがて息子は帰郷した折、「ロシア人であること/ウクライナ人であること」の意味を探る旅の中で彼が得た必ずしも父母と考えを一にしない考えを告げる。
ある場面ではロシア・プーチン大統領の演説が、説得力を持って演じられる。プーチン大統領の資質についても語られる。が、彼を礼賛するネットの記事や書き込みの中には不正確で盛った事実も随分あると、日本人のリーディング話者らの会話により紹介される。引いては日本のリベラル派識者の中に「さえ」ロシアを擁護する人間がいる事を嘆く台詞も。
ウ露関係を前世紀から歴史的にひもとき、現在の状況の本質を作者なりに捉えた現在地は、横暴なロシア・プーチンの所業はどこまでも看過すべきものでない、というものだった、と思う。そこに結論の押しつけ感はなく、ウクライナにも様々な声がある事、我々は事態を「よく見て行く」責務がある事、この結語へと芝居は収斂する。
ウクライナの場面では、「地の塩」翻訳の志が事態の緊迫により頓挫した、とあったがそこから時を経て(確かそこがエピローグ)、翻訳作業は妻が引き継ぎ、ほぼ彼女の手で完成を見た事、夫は「地の塩」の続きを「海の根」と題して書こうとしている事、その未来への眼差しで芝居は幕を下ろす。

今回の舞台装置は十年近く前観た舞台(不正確だが「ゴンドララドンゴ」あたり)で使われた、前方客席をえぐり取って残った最前列前に壁を据えて、死角部分が「袖」代りという設え。奥側へ傾斜した舞台を見下ろし、手前の壁上のエリアでの演技を超至近距離に見る。これの視覚的な塩梅も面白かった。

OVERWORK

OVERWORK

キュイ

スタジオ「HIKARI」(神奈川県)

2024/06/28 (金) ~ 2024/06/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

直前に飯を(しかも消化の良くない)食って観劇に臨んだ。この所観劇中のうたた寝がなく完全に油断していた。第一部の後半1/3と第二部の前半1/3を見失ってしまった。二演目の間に中央手前に調理台となるテーブルが出て来るが微かにその記憶があり、演目の境目と認識しなかったような体たらくであったが、中々面白いと思わせるものがあった。
綾門氏のテキストも久々。モノローグ系の戯曲を書く作家の中では最も早く目にした(というより聴いた)人だが、恐らくそれは変わらないだろう、息の詰まるシビアな現実(又は心的風景)を書いてるに違いない、という予想はその通りだったが、言葉が立っている。睡魔の中では言語が逐語的な理解に到達させないがその手前の所で、語感やリズムで感覚的に伝えて来るものがあり、流石と思う。美術批評家椹木野衣氏の言う作品を「丸ごと飲み込む(食べる)」という奴か。
ニュアンスの伝達は役者の貢献である。

第一部は3名がそれぞれのモノローグを別個に、日々のルーティンを象徴する動きをしながら、時に折り重なって吐き続ける。第二部は一人によるモノローグを、松森モヘー氏がテーブル上で野菜を切り出す所からスープを作りながら、喋り続ける。マイクを通して時に加工した声を使ったり音楽、照明、ある種のパフォーマンスに勤しみながらとにかく喋り続ける。語る主体は女性と思しかったが、人物が一人なのか別人物をも演じているのかまでは判らない。中野坂上デーモンズを私はほぼ初めて観たが中々の迫力であった(テキストはきっと報われたろうと思わせた)。
日本社会の絶望は根が深い。立ち上がらないからであり、立ち上がらせない力学が働くからであり、切腹だけが最後に溜飲を下げさせる唯一の手法だという倒錯の文化を有難く引きずり続けているからだ。自分もそこにどっぷり浸かっている。

二十一時、宝来館

二十一時、宝来館

On7

オメガ東京(東京都)

2024/06/26 (水) ~ 2024/06/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「灰皿役」とあるので擬人化の遊び要素がありそうだが回替わりのゲストが矢部氏、青山氏、On7メンバー(当初宮山だったのが小暮に替わり、宮山は小暮灰皿の回のみ人間役で参加)と、余りにかけ離れたチョイスでどの回に行くか正直迷った。擬人を演じる姿が想像されてしまう矢部氏より、On7フルの回、または予想の付かない青山氏の回が良いな、と思い始めるも行き易さを優先し、結果矢部氏の回を観た。予想通り「予想を裏切らない」演技であり佇まいで正直裏切って欲しかった(灰皿というモノに扮してるのに違和感がないのである。違和感がない事は逆に「?」を残す。俳優は役になりきって演じるのでなく、演じる姿(俳優自身)をさらしてナンボだったりするので、矢部氏は円筒形の灰皿(赤い)を頭に被り全身真っ赤なタイツ姿をさせられた事に、些かの違和感を覚えたならばその事態に何らかのアクション、抵抗感や違和感が漏れる等の内的アクションがほしいし、逆に心地よいのであればそれを全開で伝えて欲しかったりする。
とは言ってもそれは役者としてはかなりら高度な技に属するのだろうが。。
無茶振りにどう応えるか、というお題のようなものだ。
とは言え話は面白く、高校時代の同窓会会場のホテルの喫煙室での短い芝居の中に、三者三様の時代を反映した生きる切実さがあり、その模索の先は暗澹としているが仄かな救いの予感のようなものもある。三人を点とした面は群像を作っていてそれが胸をざわつかせる。
灰皿の語りから始まった劇は最初標準語だったので「おや!」と驚いたが、女性らの登場以降高知版(幡多弁)がスタンダードとなり、安堵。耳に心地良く台詞を聞いた。

音埜淳の凄まじくボンヤリした人生

音埜淳の凄まじくボンヤリした人生

ほろびて/horobite

STスポット(神奈川県)

2024/06/21 (金) ~ 2024/06/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々のほろびて。と言っても本公演2本、さいたまネクストシアターへの書下ろし作品(演出:岩松了)を観たに過ぎない。今回は初期作品のリクリエイトとの事で、新鮮な感触が味わえた。
表現上「これは幻想なのか、想像なのか、現実なのか」が決定的な部分で判らなかった所があった。二つばかりの解釈があり得るそのどちらかによって評価が分かれるという所でもあり、あらまほしい解釈の方を信じたいが、そのためにはもう少し表現上の工夫がなければ・・という感想であった。
STスポットを横長に使い、調度は置かれているが住居内の「壁」部分は床にテープで示され、映画『ドッグヴィル』(黒い床に白ガムを貼りつけただけの「村」のセットの中で演じられる)で、人物らが次第にリアルな存在に立ち上がって行くのに似た、「段々見えて来る」感覚が中々面白かった。

雨とベンツと国道と私

雨とベンツと国道と私

モダンスイマーズ

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2024/06/08 (土) ~ 2024/06/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

正直ツボであった。ハラスメントがテーマとして浮上しており、回想場面と現在進行形の場面を行き来するが、芝居の真ん中で長尺の回想場面がぐっと入り込ませる。根底には総合芸術である映画を「創り出す」営為と、非対称的な関係性の歪みをどう評価するか(できるか)の問題がある。前作「ビリー..」も劇団の話だったが、映画現場ではより「仕事」の側面が強くなる。芸術性の要素に「お金」の要素が大きく絡む。勢い現場は熾烈になる。ハラスメントすれすれの言動が飛び交う。

句読点シリーズが始まった頃だったと思うが入場料3000円にこだわると宣言し、コロナを経て今はそれをアピールすらしていないが、今となっては破格である(無論芝居のレベルも勘案して)。
芝居は映画界に憧れを持つ(講座に通ったりして一度現場の手伝いに入った事がある)女性が語り手となり、彼女の視線で久々にお手伝いを乞われて久々に訪れた撮影現場の光景が描かれる。だが彼女は語り手に留まらず、徹するのでなく、以前行ったその現場と、久々にお手伝いを頼まれて訪れた現場の二つは、世の中では終息しようとしているコロナ同様、彼女にとって「終っていない」問題として交錯する。彼女がかつて見たハラスメントの飛び交う現場は、彼女にとっては「勇気をもって立てなかった」忸怩とした過去であり、それは彼女の儚く終えた「初恋」に絡んでいる。パワハラ一般の問題ではなく、個的な体験としてある。世間一般で言う「パワハラ」はその当事者である監督のスキャンダルとして映画界から放逐される要因として機能するのみ。物語はそうしたもやもやと未解決に取り残された問題群を看過する事なく、最後に拾い上げる。
見事に溜飲を下げる場面に私は快哉を禁じえなかった。放送コード、コンプライアンス・・表現そして芸術の領域に、これらが果たしてどう有効に機能するのかは大きな議論が必要だと思う。その議論を喚起するに適切なケースが、この芝居では作られている。そこが巧い。色々と語りたくなるが、もう少しまとまったら書いてみるか。。

火の方舟

火の方舟

名取事務所

小劇場B1(東京都)

2024/06/14 (金) ~ 2024/06/23 (日)公演終了

実演鑑賞

堀江安夫戯曲は以前一度拝見した程度でほぼ未知数だったが結局観た。完成度云々で語れない迫力がある。原発擁護論を一身に担う父役と反対論の二人(新人新聞記者の娘とその伯父=父の兄)が拮抗し、父が養子入りする格好になった妻と兄弟の過去そして反原発運動を担った妻の亡父の存在も絡んで語りに語られる。奇しくも2011年3月10日、たまたま沖縄から所用で出てきた兄との何十年ぶりの再会を機に、原発の是非からジャーナリズム、人生を語り尽くす一夜の劇だ。
演出桐山知也の名を突如?頻繁に見るようになったが、数年前にも観ていた。所属はなく実力で伸して来た新鋭のよう。

おちょこの傘持つメリー・ポピンズ

おちょこの傘持つメリー・ポピンズ

新宿梁山泊

新宿花園神社境内特設紫テント(東京都)

2024/06/15 (土) ~ 2024/06/25 (火)公演終了

実演鑑賞

ほぼ諦めていたが、何とか客席に滑り込む事ができた。
どこから吟味すべきか・・。
本戯曲、初演は1976年。状況劇場時代の演目であった(場面転換が少なく登場人物の人数の大きく変化する場面も少ないこの類型は唐の後期戯曲と勝手に決めつけていた)。
この演目を知ったのはSPACが珍しく唐作品を取り上げた事(2020コロナ中止、2021年上演。未見)によってであったが、2022年唐組で上演したのを観た(他の上演記録がないのでここで観た事になる)。梁山泊では初である。
何と言っても話題は今回の俳優の布陣に集まるが、劇場公演で金守珍が著名俳優の座組を演出する事はあっても、今回は花園神社・紫テントである。サプライズ感の大きい豊悦と勘九郎、今回の舞台のレベルは両名無しには達せられなかった事を認ざるを得ない。作品本位での配役である。一つ付け加えれば、(御大の死を金守珍が予感したのかは知らないが)状況劇場が当時具現していたテントの熱気を今ここに彷彿させようとしたのではないか、とも。そんな思いが過ぎったのは寺島しのぶ演じるヒロインが李麗仙に見え、相対する白スーツの豊悦が唐十郎に重なるような幻視の瞬間がふと訪れた時。(もっとも私は最晩年の李麗仙が梁山泊「少女仮面」に客演したのを観たのみで、唐十郎は短い映像でしか見ていない。)アングラ前の時代を知る人に、当時アングラは何だったのかと訊いたら、言葉を探しながら「(あれは別カテゴリー、というニュアンスで)有名人が出たりしてね」の言葉でまとめていたのを印象深く覚えているが、私なりの解釈を重ねると、スター性を帯びた特権的肉体が、一身に視線を受け止める事で成立する観客との交歓がテント公演の熱気であった・・となる。私の想像の届かなかった「時代の中のアングラ」の一側面を感覚的になぞる(追体験する)観劇となった。
世界に憧憬し悩む無垢な青年と、曰くある過去を持つ大人(男そして女)の構図はやはり唐十郎世界に欠かせないなと改めて思った次第だが、その青年役を勘九郎が担い、冒頭から喋り倒す。見事である。感想はまた改めて。

残す所1ステージ、完売。ネットでの当日券抽選も前日に終えている。
ただ一点、当日になって空席が生じる可能性はゼロでなく、テント公演の寛容さは「前日抽選の当選者か」を問う管理的目線より「観たい」情熱を受け止めてくれそうな現場での心証ではあった。「外で声を聴いて想像するだけでも良い」と腹を括れる熱量の方には、足を運ぶ事をお勧めする。

水彩画

水彩画

劇団普通

すみだパークギャラリーささや(東京都)

2024/06/17 (月) ~ 2024/06/23 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

今回も茨城弁の日常風景を切り取った会話劇。堪能した。
おなじみ用松亮と坂倉なつこ(奈津子改め)の夫婦役コンビに、娘(安川まり)とその婿(浅倉浩介)がまた「らしい」。
同じカフェスペースを訪れ隣のテーブルに陣取るカップル(伊島空・青柳美希)も、地元で結婚を控えた風情で年代差もうまく出てる。
後者の話題が序盤は聞き取れず、両グループ同時進行とは言え(青年団のように)重なる事なく聞き取れるが、序盤での若者コンビの方の会話は四人組に比べると少々理解に難があった。中盤以降漸く会話とそこに込められた感情が見えてきた。
この二組同時進行の会話劇が、今回の試みであったが、まずまずであった。
古い夫婦像がモデルになっていると感じるが、2020年代の今も、ああいう感覚は生きているのだろうか。坂倉演じる母の「曲げなさ」が見物だし、用松父のあの感じ(うまく言えない。そういう領域を表現しているんである)も相変わらず良い。

地元で暮らして行けてる、という所で人物ら全員がとりあえずは生活の安定が約束されてる感があるのだが、今の時代シビアな経済面への言及が、(そういう問題を忘れる時間が有難いのも本音だが)リアルを穿つ劇としては、欲しい所。
地元で教師をやっていたのが黙っていなくなり、最近東京でNPO活動をやってる事が分った友人が、若者カップルの主な話題で、そのあたりで微かに触れてはいるのだが。

白き山

白き山

劇団チョコレートケーキ

駅前劇場(東京都)

2024/06/06 (木) ~ 2024/06/16 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

随分ご無沙汰してしまった当劇団であるが、観に来て正解。斎藤茂吉という題材を、うっすらと(終盤では濃く)戦争に絡めて描いていた。急遽主役の変更との事だったが、緒方晋の出演も楽しみで観劇した。この人にしか出せない味がある(そういえば一応は関西弁は封印していたな)。村井國夫氏では全く違っただろうと、とりわけ主人公の特徴「雷を落とす」場面で、想像もしながら観た。茂吉の息子二人を浅井と西尾、弟子を岡本、三人のコンビネーションを茂吉に対置させ、第三者の存在として近所の農婦を柿丸氏に振って五人芝居、シンプルな構図も憎かった。

ネタバレBOX

終盤「これで終劇だな」、と思った暗転が二回。三度目で漸く「これ以上は無いだろう」と思え、拍手の準備をした。

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