実演鑑賞
満足度★★★★★
秀作。
大山くんだりまで出向くようになったのも最近の事だが、昴の海外戯曲舞台を観た帰路は足取りも軽い。初の作家の翻訳物でも不安はなく、今回も詩的なタイトルに惹かれ観劇に臨んだ。
このたびの劇場は、客席は勿論、ステージでもアトリエの2倍以上はありそうなあうるすぽっと。二幕物で二時間半。
このテンポは往年の「新劇」のものだったろうか、と思う所があったが、芝居は緻密に構築され、広い空間もうまく使っている。天井の高い室の壁と古式ゆかしい扉、天井近くの梁と、杉山至にしては具象性の高い美術が意外であったが、これは住宅の修復を生業とする父(先代からの家業)と依頼主の女性との交流の中で、家族や人間関係の暗喩として「建物」が語られる所があって視覚的にも大きな部分を占める(戯曲は父をして「こういう堅固な家屋の修繕はじっくりと半年程かけてやるのが良い」と誠実な提案をさせ、その事により依頼主である妊婦との間に時間経過に伴って生まれた関係性の深まりを表現し、逆にこの場面を通して時間経過を伝える仕掛けとしてある)。修繕が終わった日、最後の挨拶を交わした二人の背後にいつの間にか建物の梁の影がくっきりと映り、夕陽が二人を包む絵が浮かぶのが超絶に美しい。
彼と妻との間には息子が二人あって、19になる兄には彼女が出来、冒頭は二人のデートの場面。16の弟は明示してはいないがアスペルガーのような特殊な性質を匂わせる。兄の彼女に一目ぼれして悩むが、それが発展する事はない(なぜなら程なくして亡くなってしまうので)。父の両親は健在であり、前世代にありがちな夫婦問題を抱えるが、二人の孫に対しては良き祖父母。会話の場面の多くは舞台の上手前、下手前、奥、中央といった狭いエリアで、または上手半分、逆といった具合に行なわれ、瞬時転換する(完全暗転は二、三回だったか)。
そして場面によっては「そこに居ない」人物が部屋の隅に佇み、あるいは立っていたりする。死者または超越的存在の眼差しが仄かに、その場面を性格づける趣きとなり、全般に不安が漂う物語展開を、和らげているのか、強調しているのか・・。
一幕を終えた時点では全てが宙ぶらりんで些か耐えがたいものがある。
(この休憩時に近くの女性らが「再生を描くってあるから大丈夫だよ」と一縷の望みを見出したように言っていたのを聞いて、自分も救われた。)
ストーリーには「ラビット・ホール」と重なる展開があるが、こちらはその重なる部分を物語の「当て馬」的に使っていた。その作者もこちらの作者も同じイギリスのほぼ同年代、どちらかの影響というのはあったかも知れない。
俳優たちの健闘が最後には胸を熱くする。こういう舞台を目にすると演劇という芸術があって良かったと実感する。