現代韓国演劇2作品上演「最後の面会」「少年Bが住む家」 公演情報 名取事務所「現代韓国演劇2作品上演「最後の面会」「少年Bが住む家」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    「少年Bが住む家」。
    座高円寺での韓国現代戯曲リーディングでの上演は2019年、まだ5年?という感覚だが(コロナが作った時間的空隙は大きい)、その実演を名取事務所がやった初演(2020年)を見逃しており、今回の再演でどうにか観劇に漕ぎつけたが、圧巻。
    行間が凄い。脚本の導く所大ではあろうが、何処までも深く刺さって来る舞台のベースとなったに違いない初演の陣営を後で確認すると、出演者の一部(母役・鬼頭典子と姉役・森川由樹)以外は役者が変わり、しかも演出も異なっていた。
    重苦しい物語の展開であるにも関わらず見入ってしまうのは、人(びと)が生きる瞬間を為す人の感情の襞、もどかしいながらの愛らしさ、殺伐の中の微かな潤いが、舞台に刻印され、観る者を満たすゆえだ。
    ふと今思い出したのが聖書にある五つのパンと二匹の魚が数千人を満たしたという逸話。
    芝居のテーマを思いめぐらすにも聖書が過ぎる。
    イエスの逸話や喩え話でしばしば言及される「罪人(つみびと)」の概念が、年々リアルに像を結んで来るのだが、イエスの論的・政敵である律法学者と罪びとの関係の構図は人類普遍の業について考えさせられる。
    律法学者自らはそれをひたすら守り続けている事をもって身分を保障されている「律法」が、それを厳密に守る事の出来ない庶民との間の境界を作り出している。
    例えばローマ支配下の(属国的な身分の)イスラエルでは徴税人は罪びととされる。だがイエスは彼らを食事の場に招き入れる。また姦淫の罪を犯した女が石撃ちの刑に処せられようとした時イエスは「一度も罪を犯した事のない者だけが彼女に石を投げる事ができる」とし、人々を帰らせる。
    そこで問題とされているのは彼らが人を裁く根拠とするルール(律法)が果たして適切なのか、であり、神が統べる国の本当のルールと全く相容れないルールを破ったか破らないかをもって人を抑圧し、支配し、マウントを取る馬鹿らしさである。

    さしずめ、年始に起きた能登大地震に「道路事情に鑑み現地入りは控えるべし」と官房長官が発信したが、道路事情によって幾らでも変容し得る過渡的なルールとも言えないルールを「破った」として一人の国会議員の現地入りがバッシングの対象となった。
    これを思い出せば、「ルール違反」と称して人を裁く事の本質が分かる。
    能登の災害を最優先で考えているのではない、「悪」にカテゴライズして叩く事の快楽、安心、保身と、災害に積極的な支援を為さない自らの正当化。最も醜い人間の姿を拝んだ今年の年頭であった。
    犯罪報道に触れて無為に人を殺した者への怒りが湧く。自然な感情だ。だが一方でそうした「怒りの対象」を欲している自分がいないかどうか、自分が良き社会を「本心から願っている」のかどうか、常に自問すべき一つのテーマだと思う。

    さて本作はそうした日本社会へのもどかしさを抱える自分に、「人を裁く」偽善と訣別して違う道を見出して行く人たちの物語を見せてくれ、しこたま溜飲を下げさせてくれた芝居であった。深い感動へと導くのは彼ら(加害者として針の筵を歩くように生きる)が、心ない他者に一矢報いる事によってでなく、乗り越えて行く姿を描いているからに他ならないが、ハッピーエンドがご都合主義とならない稀有な舞台である。

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    2024/10/21 00:44

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