満足度★★★★
「ご臨終」を拝見
今回、江古田のガールズが挑むのは1か月の公演。「桃太郎」「どん底」「ご臨終」の劇作3本と各人の宴会芸で1か月を乗り切ろうという企画である。自分は「ご臨終」を拝見した。(追記2016.4.7)
続きという名のおまけ:芝居だけで3作品ということでブレている!! との批判があるとか。下らないイズムに凝り固まることは、表現する者の立ち位置ではない。真理が例えどのようなものであるにせよ、その表れ方は多様である。どこに作家の根拠を置き、どのように表現しようが、それは作家の自由であって決して縛られるべきものではないし、自由の中で戦ってこそ、表現する者なのであり、表現する者の名に値するほどの者ならば、自由の真っただ中で選ぶことができないほどの圧倒的自由へ至りついた体験も持っていよう。そのようなことに思い至ることすらない者が口を出すことではあるまい。因みに我らが生まれてきた意味とは、梁塵秘抄ではないが”遊びをせむとや生まれけむ”にあると自分は信じている。
あと、定刻に始まらなければ絶対ダメ的なことを言う人々が増えているようであるが、最近では、相互乗り入れ路線が増えたこともあり、電車は遅れがちである。定時に始めたいのは、演ずる側もそうだろう。当たり前すぎることに難癖つけるより、ゆったりいきたいものである。要は紳士・淑女協定を守るオシャレな時空でありたいのである。(携帯・スマホなどを消さなかったりする連中は、くる必要なしということでもあるが)
ネタバレBOX
亡くなるのは、ラーメン屋の親父で入院しているのだが、危篤の報で集まった家族は、一人を除いて皆、父とは離れて暮らしてきた。而も何度も持ち直して1週間が過ぎようとしていた。
役者陣の演技はかなり上手い。終盤のまとめ方も見事である。惜しむらくは、場所の設定をもう一工夫して欲しかった。何度も持ち直したとはいえ、病院に一人も付いていない、というのは如何にも不自然。一人、ずっと父と暮らしてきた人間が付いていて終盤の展開になれば、尚臨場感や説得力、彼女の不満の持つ説得力が増したことは間違いない。若干、シナリオに手を加え、板の隅を区切るなり、電話ボックス様の箱を置くなりして、照明で工夫をすれば、病院の待合室の設定はできるハズ。
満足度★★★★★
動乱
貧乏長屋住まいの町飛脚、熊八(クマさん)は、千葉道場の師範代、重太郎ともツーカーの仲。而もこの道場には坂本 龍馬が、脱藩後剣の腕を磨きに来ていた。(追記2016.4.7)
ネタバレBOX
千葉さな子と龍馬の件は措くとして、熊八は馴染の蕎麦屋の看板娘、八重に惚れられているのだが、やきもきするほど鈍感である。八重には、呉服屋の若旦那が血道を挙げていて、首を縦に振らない彼女を攫ってゆく。
そんな恋のいろは坂を下る間に、彼は天命を受ける。何でも河岸の船がケシの実ほどにしか見えないほどの大きな黒船が異国からやってきて江戸は愚か日本中が大騒ぎになる、とのお告げであった。この話を千葉や龍馬にした所、そんなことが在る訳は無い、と一笑に付されたのだが。
後日、クマの言ったことは嘉永六年七月八日、浦賀にペリーが来航したなど、総て現実になり、黒船出没以降幕府のみならず、日本中が上を下への大騒ぎ。尊王だ攘夷だと動乱の時代を迎えた。(但し薩摩藩は流石に約半年前既に島津斉彬が江戸にありながら、弟久光に米艦が来ることを予報、非常警戒を命じている。)
一方幕府・朝廷はといえば11月23日に家定が、征夷大将軍・内大臣に任ぜられるなどという旧態依然のことを相変わらずやっている。こんな勢力が未だ大手を振っていたのも事実である。無論、早世したが勝海舟を抜擢した阿部正弘のような優れた老中も居たのではある、後に下級貴族から成り上がる岩倉などの新勢力も虎視眈眈機会を狙っていた。幕府・朝廷の内部が四分五裂していた様も以上のことで察しがつこう。今作では扱われていないが、ほぼ同時期、ロシアのプチャーチンが八月二十二日に長崎に来航し国書を手交している点も指摘しておこう。
今作では、壬生浪士組から後新選組を名乗る、時代錯誤の迷い人集団を軽く扱うと共に戯画化し、やんわり批評している点、またクマさんが、小市民的な価値観のまま、動乱の時代の最も大切な位置を占めて活躍する内容に、ハッピー圏外らしい価値基準のヒエラルキーが出ている。
また、この年3月11日には江戸、小田原、三島などを強い地震が襲い多数の家屋が倒壊。多くの死者を出している。
一方、龍馬を中心に、英傑勝海舟対したたかな西郷隆盛が大人の交渉術を見せる辺りは流石にキチンと作っている。例えば、対面した時の刀の置き方(互いに鞘をつけたまま腰から抜き、各々の右側に置くかと思いきやそれぞれが左側に置いた)で、互いに警戒心を解いていないことを表し、江戸城明け渡し交渉の結論を出す瞬間、勝は刀を自分の背後に置き換え、戦意の無いことを示すが、西郷は官軍として入城するので刀の位置はそのままにするなどキチンとした表現をしている。また、謎の多い龍馬暗殺について合理的な解釈をしている。これらの点にも感心した。
満足度★★★★
苛めのけじめ
大抵は置き去りにして忘れたつもりになったり、自己正当化することで記憶の表から消し去っている他者を苛めた記憶について考えさせる作品。
ネタバレBOX
コルチャック先生、宮沢 賢治・トシ、映画「今を生きる」に出てくる英語教師ジョン・キーティング、坊ちゃん、ヘレンケラーの家庭教師として有名なアニー・サリバンなどの有名先生にTVの金八先生を交えた世界教育者会議なるものが、教師河合の家で行われるが、彼の家には、馬場なる14歳の少年が纏わりついている。ところで馬場は、河合の中学時代の同級生で苛めを苦に鉄道自殺を遂げていた。従って登場するのは彼の残留思念という訳である。が、河合は死んだ馬場とは最も縁のあったクラスメートであった。更に、河合の子を孕んだ玲子は、馬場が憧れた女子であり、彼女も馬場の自殺には、後ろめたさを感じていたのである。
(上演中故ここまで)
満足度★★★★★
3.11・12人災の背景にあるもの
2011.3.11以降の福島難民の話である。大切な一行を付け加えておく。2016.4.4:02:41
ネタバレBOX
国際原子力(軍・原子力産業のみならず、被ばく医療、マスゴミ、各国政府に研究機関、メディア等が絡みデータ改竄や矮小化、計測のまやかし等々をしている)マフィアと国連安保理、IAEA,ICRP,WHOもグルになって核被害を矮小化していることに加え、日本では、更に自民党の愚かな政治屋や御用学者、マスゴミという名のメディア、最高裁、沖縄を除く電力事業大手、官僚等が、これでもかと被害者分断工作を仕掛け、被害者同志を反目させて差別を更に複雑で耐え難いものにしているので、反対運動すること、憲法に保障された健康で文化的な生活を送る権利を求めるというだけのことが、とんでもなく罪なことででもあるかのような扱いを受ける。おまけにそれを指摘する人間を恰も中世キリスト教異端であるかのように白眼視するのみならず、デマゴギーといい加減な風評で抹殺しようと図る下司で蒙昧な馬鹿が加わる。
今回の大震災の最大の問題は、それが、今までのように地震と津波だけで済まなかったことにある。最大の問題は、被ばく者を出し続けざるを得ないことである。而も、自民党政府は自らが推進してきたこの暴挙の何たるかを未だ自覚できないらしいと思わせたいのだろう。ホントは、自分達の罪を誤魔化す為に被害者同士をいがみ合わせ、自分達の罪に対して一致団結して立ち向かうことを阻止する為にやっていることなのだろう。だが、補助金名目で出資を受けた者とそうでなかった者達の間には、拭い難い不信の芽が育まれ大きく育ってしまった。下司共の狙い通りである。「おいしんぼ」の鼻血の件は、実際、数々の子供が体験したことであり、数々の家々で起きた事実である。それを恰も無かったかの如く葬り去り、現在も続く汚染や被ばくを無いことにして隠蔽している。公式データとして発表されているものでは、人口密集地域の郡山市、福島市、磐木市のような地域は計測から外してデータそのものを作っていないなど計画的な犯罪そのものが、公式とすることで、恰も総ての地域を計測したデータとして誤解されて受け入れられることを計算していると勘ぐられても仕方あるまい。
今作を理解する前提条件としてホンの一例を挙げるに留めるが、今作の背景にある事情はこのようなものである。今作でライターはチェルノブイリのことを挙げている訳であるが、ライターでキチンとした仕事をする者は、実際に発表することの何倍もの知識を持っているのが当たり前だし、人口に膾炙しており、良心的な科学者・医学者などの努力により、当時既に英語版ではデータアップされていた客観的なデータを用いて、その被害の大きさを説明として用いているのは妥当な判断だろう。
感心したのは、被災者たちを励ます為に、受け入れた伊勢の人々がやる“木遣り”だ。毎年彼らが年越しの行事としてやっていることにも合致し、且つ様々な立ち位置に置かれた被災者の何れも排除しないからである。
もう一つ、更に大切なことは、この木遣りが、被災者たちが独りではないというメッセージを、被災者それぞれが受け入れられる形で発信している点である。このことが被災者にどれほど大きな力を与えるかを非被災者も理解できるだけの想像力は、最低限欲しいところだ。今作に出会った観客はなおさらのことである。
満足度★★★
ナルシシズム
の螺旋階段を自家撞着のみで降りてゆく女。これが母の美枝子である。
ネタバレBOX
人との関係性を秤にかけることのできない、恐らくはそれ故にこそ、振られた恰も即時存在であるかの如き母は、シングルマザーとして娘を育てながらも矢張り対自存在としての自己規定ができなかった。彼女の意識は、ナルシシズムのそれであり、自己自身を対象化する意識であるよりは、自己自身を無限に下降してゆく意識なので、他の人間に対して、彼女は、うざったいだけの気持ちの悪い存在としてしか顕現しない。殊に、それは彼女が愛していると考える人間に対して顕著である。現在は、娘が。過去に於いてはその父が。
この子離れできない母・美枝子の押しつけがましい気持ち悪さが、潔癖な感性を持つ娘・留美にとって耐えがたいのは当然である。而も留美のクラスメイト・紀子は、彼女に対して女性同士の愛の形を求めており、普段から、留美の下着までチェックしていたことが、誕生日プレゼントを貰った時に判明した。母と似ている紀子を留美は突き刺してしまう。
母のせいでこうなったことが理解できない母もまた留美の餌食となった。
作劇法として、今回の形を踏襲したまま、更に舞台上で観客に訴える手法としては、狂言回しを入れるという方法が考えられる。劇団の用意したリーフレットの中に新聞記事をコピーした体裁の印刷物が入っているのだが、この内容を物語の始めに狂言回しに言わせるという手法だ。これだとリーフレットを読んでいない観客にも、訴えたいものの姿が更に説得力を持って迫ってゆくだろう。
若い女性ばかりの劇団のようだが、一所懸命でも、回りをキチンと見ながら走って欲しい。
満足度★★★
ちょっと酷かも知れないが
勘違いの喜劇。肩は凝らない。
ネタバレBOX
だが核被害は隠蔽されて増々見え難いものにされ、不正確な知識や核推進派の垂れ流すデマゴギーによって、庶民が持つ率直な疑問や健全な疑義が、狂わされることによって蟠りばかりが肥大してゆく。「国」内では、エートスプロジェクトを推進する流れが連綿と続き、対宗主国に対しては、集団的自衛権の行使とやらで、イスラエル入植者やイスラエル軍、アメリカ兵と同じような殺戮者即ちモンスターに自衛隊員もなろうとしている。人を殺したら二度と元の自分に戻ることはできない。つまり、I am human being.とは言えなくなるのだ。代わりになる殺戮者に相応しい自己規定とはI am monster.である。不定冠詞がつかないのは自己の属性であるからだ。このように深刻な事態に陥っているというのに、この極楽トンボぶりは如何なものか? 確かに肩は凝らない。恰も数十年前TVで放映されていた松竹新喜劇を見ているかのようである。但し、藤山寛実のような天才は居ないが。
満足度★★★★★
緻密なシナリオ 丁寧なつくり
冤罪。日本に限らずこの問題はあるだろう。
ネタバレBOX
然し、日本でこの問題がキチンと取り上げられなければならない必然性は、この「国」が、アメリカの実質的植民地であることにある。最近の政治問題に関していえば、小沢 一郎の、東京地検特捜部による陸山会問題がある。結果的に無罪となったものの彼の政治生命は大きく後退したことは否めない。因みに東京地検特捜部は、アメリカが日本を占領した際、GHQが創設させた。アメリカの手先となって検閲を実行しアメリカに都合の悪い政治家を葬ってきた組織である。最高裁での田中耕太郎らの振る舞いと合わせて考えなければならない。(疑念を持つ人は実質的統治行為論について調べてみよ、アメリカの意向に従って伊達判決をひっくり返した経緯をキチンと当たれば、見えてくるものがあるハズである)現在でも司法関係でまともな判断を下すのは、地裁、高裁迄であることは誰の目にも明らかだ。それが分かっていないのは、目が開いていて何一つ見えていない愚か者である。検察も然り、アメリカの犬として機能している東京地検特捜部のような組織が存在しているのだ。警察にしても、交番のおまわりさんは、庶民に親しまれることが多いものの、上に上がるほど腐ってくる。北海道道警の裏金事件についても、上層部は、当初蜥蜴の尻尾切りとマヤカシで誤魔化そうとしていた。それを突っ込んだ北海道新聞の特捜部報道が庶民からの批判を招き、抑えきれなくなった道警は謝罪に追い込まれたのである。ただ、これには後日譚がある。当時特捜部のトップを務めていた方は、その後道警からの圧力で飛ばされた。
日本という「国」は、こういうバカなことばかりやっている。下水の中で大手を振るドブネズミのような下司が、アメリカの言いなりになって上級奴隷として庶民を搾り取り、誤魔化しているのである。
その故にこそ、庶民の命は紙屑同然なのであり、冤罪で死のうが家族・親族が世間からつまはじきにされて苦労しようが意に介さないのである。第二次大戦中「兵などいくらでも集まる。一銭五厘だ!」(因みに一銭五厘とは召集令状の切手代である)と抜かしていたのが、当時の為政者である。庶民の命など歯牙にも掛けない。これがこの下司「国家」日本の実態の上部構造であり、下部構造は、この下司共に従わない者は排除し抹殺するという論理の貫徹である。自分を守る為なら他人はどうなっても構わない。人間という生き物に基本的価値を認めない発想・論理がある。どこまで馬鹿なのだろうか? その点で、西欧やイスラムの人という生き物が普遍的価値を持つという論理・倫理に比較して、根底レベルで大衆的倫理敷衍の根拠が欠けている。
このような前提があった上で、この作品は構成されていると考える。或る地方都市の僅か10Kmの範囲内で5件の幼女殺害事件が起こっていた。どの事件にも共通点が多い為、客観的に見て同一犯の犯行によると考えられた。然し、川を堺に警察の管轄が異なっていることによって、互いの情報共有ができないばかりではなく、メンツ問題が持ち上がって客観的な捜査を妨げる結果となっていた。而も、誤差の多い初期段階のDNA鑑定で、容疑者として逮捕された男は、缶詰にされた上朝から晩まで続く取り調べの間、殴られたり蹴られたり髪の毛を掴んで机に叩きつけられたりするうち、やっても居ない事件を「告白」してしまった。而も、大衆のイメージではDNA鑑定で黒となれば絶対とのイメージもあり、警察は杜撰極まる捜査で、この容疑者を犯人として逮捕してしまった。だが、彼が収監された後にも、同種の事件がこの10Km圏内で起きたのだ。これを不自然として地元新聞社の特捜部が独自に捜査を開始。綿密な取材と、報道に対する真摯な姿勢、被害者家族への思いやりと同時に、心に負った傷の為に、後ろ向きになりがちな被害者家族達へ、再出発の手助け等を通してDNA再鑑定を含む再審裁判を起こす所迄フォロー。冤罪で収監されていた「犯人」には異例の判断でDNA鑑定が最新の技術を用いて行われ、結果は白と出て直ぐに保釈された。然し、彼の父も母も幼女連続殺人犯の父母として社会から排除された上、既に亡くなっていた。また、警察・検察のメンツは、この鑑定結果によっても簡単には覆らない現実が大きく目前に立ちはだかっている。
物語は、にも関わらず記者たちが大きな壁に挑んでゆこうと更なるチャレンジを示唆して終わる。
満足度★★★★★
シェイクスピアを骨太に表現
終演から随分経っても未だに人気の「ひょっこりひょうたん島」を担った人形劇団、ひとみ座の公演は、シェイクスピア作品中でも傑作の誉れ高い「リア王」だ。
ネタバレBOX
無論、人形劇として演じられるのだが、演出家の伊東 史郎さんが興味深いことをおっしゃっている。即ち人間が死を演じる時は、生きたまま物化することを強いられるが、人形はもともと死んだ物でそれに息吹を吹き込むのは人形遣いだということである。これは実に興味深い指摘である。ポーランドのカントルは、役者達を殊更死体として演じさせ、同時に人形も多用する演出を見せた。而も彼の舞台に立つ役者達は、所謂プロの俳優ではなく、他に研究者だの何だのと言う生活手段を持つ者達であった。案外、こんな所にも演劇というものの本質の一端が垣間見られるように思う。
基本的に主要登場人物の人形は一体を二人で操る。頭部と手あとは背骨部分で形作られた人形であとは衣装である。演技が大きく見え、自在度が高い作りだ。狂った王と道化の過ごす嵐の夜、仏軍がドーバー海峡を渡って攻めてくるさま。このシーンは、兵士たちのフォーメーションを様々に変えることで大群であることをまざまざと感じさせ、而も上陸寸前の場面では、兵士たちの足元だけを青い光線で照射して海から上がる場面を演出している。この演出センスと照明のコラボレーションには正直驚いた。流石である。ほかにも、グロスターが目をえぐり取られるシーンなど、人形ならではの即物的効果をうまく活かしている。
満足度★★★★
まじめなつくり
碧血碑というものがあるという。義に殉じた士の血は、死後三年を経て碧玉に変わるとの言が荘子にあるとか。(
ネタバレBOX
荘子外物篇「萇弘は蜀に死す。其の血を蔵すること三年にして化して碧と為る」ウィキペディアより)函館五稜郭で榎本武揚に従った土方らが最後を遂げたことは周知の事実だが、彼らを顕彰して建てられた碑にこの名がつけられたという。だが、今作は幕末の話でもなければ、武士の話でもない。時代設定は第二次大戦後のどさくさから大阪万博辺り迄だ。
明日は閉めるというかつての賭場、五稜郭で、伝説となった一騎打ちがあった。卓の上に置かれた牌はその時用いた牌であるとの振りで、戦争中、左翼であった為に特高に捕まり拷問を受けたが口を割らなかったガミが、20年前の話を語りだすという設定だ。
話の中心は敗戦直後、米兵にレイプされ、パンパンになった女性が100万人とも言われた時代の博打打ちの話である。
敗戦を終戦と呼び換え、その真実に向き合おうとしない日本人は圧倒的に多かろう(その証拠に終戦は9月2日であるにも関わらず、それが敗戦なのを誤魔化す為に8月15日を終戦記念日と言っているではないか)が、戦中、特攻隊として徴用され死の恐怖を逃れさせる為にシャブを使われ死だけを目的として強要され続けたにも関わらず、エンジントラブル等の事情で死に損なった元特攻隊員、死線を掻い潜って漸く生き残ったものの、裕仁の一言で今度は敗戦の屈辱を舐めねばならなくなった兵士達は、完全に生きる実感を失い虚脱状態に陥ってしまった。
そんな彼らにも生きる実感を掴ませてくれたのが、博打であった。負ければ自分の姉・妹迄売り飛ばしてでも金を作って博打に賭ける。切羽詰ればヤクザに殺されることは目に見えているのだが、本当に彼らの賭けているものは、無論金などではない。己の命である。そんな博打打の中でも殊更に強い四人の勝負と各々の打ち方、性格を、勝負の様子を演じるのが、今作の見どころだ。この勝負、最後は差しで張り合う、アイヌのふくろうとシャモのらば伝説の名勝負である。
真面目な作りかたの作品だが、どちらかというとコンセプチュアルな作りで、唯一の主権者天皇と天皇制、軍部の跳梁跋扈に振り回された民衆の、苦しみと傷みの意味する所を掘り下げその視座からこの鵺社会を捌いていない点が気になった。
満足度★★★★
役者たちの熱演が光る 花四つ星
岡本 喜八がメガホンをとった映画の舞台化である。戦争というものの持つグロテスクな余りの滑稽をアイロニカルに描いた作品としてあとを引く作品だ。(追記後送)
満足度★★★★
こころに残る純愛
エネレーヴェ島領主の王子、16歳のオーディンは、その人格の高潔、武勇の誉れ、民への優しさ、度量の広さなどで近隣の島々の姫君たちの憧れの的。だが、彼には一途に恋する乙女が居た。(追記後送)
ネタバレBOX
使用人で身分の差はあるものの、賢く美しいその少女の名をダリヤと言う。ダリヤにとっても意中の人は唯一人、その名はオーディン、即ち領主の息子である。身分違いということは分かっているが、互いに燃え盛る魂の炎は消すことができない。幸い領主であるアルベルトも妃アンも理解のある親であり、二人の婚姻を認めていた。実際、アルベルト自らオーディンの結婚を認めると口頭で約していたのである。
然るに妃が倒れ、間もなく領主も崩御すると、主治医カミーラと彼女の引きでオーディンの義兄弟となっていたヘンリックは、アルベルトの遺言書を偽造。位を簒奪した挙句、オーディン・ダリアに追っ手を差し向ける。実はカミーラは20歳ほども年下のヘンリックを一種のツバメとしており、妃、領主は彼女の盛った毒によって殺害されていたのである。而も、ヘンリックは彼女の引きのみで領主の義理の家族となっていたのであり、遺言書偽造もカミーラの入れ知恵であった。
嵐の夜、領主の位を簒奪された恋人たちは小舟で島を脱出するが激しい雨風に遭難。ダリヤは海底深くに沈んでしまった。オーディンは助かりこそしたものの、記憶の大半を失い、乞食のような形をして彷徨い歩いた。僅かに残っていたダリヤの名だけを頼りに城に辿り着くがヘンリックに見つかり地下牢に幽閉されてしまう。
満足度★★★★★
プロの舞台 お見事!
小屋に入って驚いたのは、舞台美術の凄さである。素晴らしさという形容ではない。凄さそのものだ! 22日が初日で楽が27日、壊すのが本当に勿体ない。そう思わせるだけの舞台美術なのである。自分は、開演5分程前に到着したのだが、板上では寸劇が演じられていて、若い女性陣の演技は本番と遜色のないもので、観客の中には、開演前のハズなのにもう本番が始まってしまったのではないか? との自問をしている人も見受けられた。自分自身もフライヤーの開園時刻を確認したほどである。
言うまでもあるまいが、シナリオ、演出、演技、照明、選曲や歌の素晴らしさ、効果音の用い方、どれをとってもこれだけの舞台美術に負けていない。表現のプロには是非とも観ておいて貰いたい舞台である。
ネタバレBOX
本編が始まって直ぐ、掴みの部分で、期待は裏切られなかったことを確信した。最近、どんなセオリーに従っているのか、イントロ部分は控えめに観客を日常世界から亞空間に引き込む為には云々の下らない講義でも聞かされて、それを疑いもせずに唯々諾々と従っていることが才能を伸ばす為に必要な工程だとでも思っているのではないかと思わせるような馬鹿げた掴みばかり見せられることが多くて閉口していたのだが、ズバリ本質が提示される。そして、この本質に纏わるテーマが最後まで追求されて別次元に転移される。これが、見事である。初日が終わったばかりだから、これ以上、ここでは書かない。だが、精神と肉体、神の存否、人間と神、信仰と実存、そして宗教と政治等々、幸せを求めて足掻く我らの、命を賭けた競争の何たるかを自問させるに足る深さを持った作品である。
満足度★★★★★
27年間 日本人は何をしていたのか?
初演は1989年。
ネタバレBOX
天安門事件、1986年4月26日のチェルノブイリがン発事故で決定的ダメージを受けていたソ連は、1989年アフガニスタンからも撤退せざるを得なかった。ソ連崩壊への序曲後半部である。冷戦終結、ハンガリーでも鉄のカーテン崩壊、ポーランドで連帯圧勝、ベルリンの壁撤去、チャウシェスク政権など東欧政権崩壊を受け、世界が激変した時であった。日本ばかりが、いつものようにどんより・もっさりしていた。自分は頗る苛立っていたのを思い出す。その意味で日本の在り様は本質的に当時と全く変わっていない。薄墨で記された初演時と現在の間にある両矢印は、現在2016年と1989年が本質的に全然変わっていないという事実をアイロニカルに表現していると見た。
因みに1989年の日本では、女子高生監禁・コンクリート詰め殺人事件が起こっており、この事件に関与していた人間(少女レイプに加担など)・この事件を知っていた人間の総数は100人にも上るとの裁判記録がある。LGBT(レズ、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)を扱ってはいるが、相変わらず陰湿極まりない下司社会・日本の鵺社会が今作の隠れたテーマである。自分はそう観た。
舞台は、レズビアンたちが共同生活を送るコミュニティー、坂手氏自身が実際に取材をして書き下ろした作品である。女性が他者に向ける愛の形は、深くて狭い。レズであろうとヘテロであろうと変わりない。変わるのは、世間的常識を正しいと信じる者が取る態度である。自分達と同じヘテロに対して多くのヘテロは違和感も感じないし、警戒心も恐怖心も抱かない。然し、異質の愛の形は、自分達と何かが同じであるかも知れず、異なるのかも知れない。何れにせよ正体の分からぬものは、薄気味悪く排除の対象となる。この単純な構図に加わる人間の感情や世間体が結果的に差別化を生み、歪んだ想像力が最後の仕上げをする。鵺社会で、このように出来上がった一般大衆の思い込みが、自らの思考と存在を賭けて人生を選び取った者に対してどのような仕打ちを返すかは、自らの生を自分で選び取った誰しもの知る所である。知らないとすれば、それは自身が自分の生を自分で選び取っていないことの証拠である。
満足度★★
シナリオライター勉強が足りない
先ず尺が長い。この内容なら25分から30分短くして充分対応できる。
ネタバレBOX
オープニングでコンピュータサイエンス部と文芸部が対峙する姿を示すシーンでもポーズの決め方、単純にグループに分かれて互いを敵対者として指し示すだけの仕草では何のインパクトも齎さない。自分達の目指す演劇の方向性も良く分かっていないようだ。演劇は、先ず第一に論理である。中盤、仙人の登場辺りから面白くなるが、それまでは凝縮し、敵対関係をはっきり際立たせること、対抗戦に出る女子2人のプロフィール紹介をキチンと織り交ぜること、文芸部部員も同様。
麻雀にもあまり詳しくなさそうだ。中盤以降漸くキチンと雀士らしい発想が出てくる箇所があるものの、チー、ポンが前面に出過ぎるだけで、麻雀の格が落ちる。但し、安い手で早く上がるというのは、無論、麻雀で勝つための鉄則ではあるが。これ一本で勝てるほど麻雀は甘いゲームではない。また、プロ雀士の手法中、常道である積み込みが出てこないのも不自然である。セイガク麻雀でも、トップクラスの雀士ともなれば、麻雀の手練れの面前で「これから積み込みをやるぞ」と宣言してから積み込みをやっても、見ている側がどうやって積み込んだのか、積み込んだパイを何故正確に覚えていられるのか? が皆目分からない程の腕前を持つ。もう少し雀士の研究をすべきだろう。
また、文芸部の体質がまるで応援団のような気質で描かれていたが、無頼派にしても、本質は優しさなのであって体制・風習・世間的価値如きに阿る輩とは一線を画していることは肝に念じておくべきであろう。
満足度★★★★
半神の意味するもの・こと とは?
無論、原作は萩尾 望都・野田秀樹共同の「半神」である。まだ彼が、詩的感性でシナリオにまじないを掛けることができた時代の代表作の一つということができよう。無論、萩尾 望都の優れた才能については今更言うまでもあるまい。だが、半神については時代を遥かに遡ることも可能である。即ちギリシャ神話の時代迄である。ゼウスと美女の間に生まれた英雄の多くは半神であり、時に神格化されるもののそれは下級神としてである。が、人間界にあっては、英雄であることによって本来の神の威信を高めることに繋がったとみることができよう。但し、ちょっと意地の悪い見方をすれば、それも政治的手法の一つに過ぎないのではあるが。(追記後送)
ネタバレBOX
まあ、良い。今作にその点は余り関係ない。だが、シャム双生児に限らず、ハンディキャップを持つ人々は、日本でもある時期まで神の使いと見られていた時代があったのであり、為に如何に生産性の無い人々であっても生きてゆくことが可能な程度には人々から喜捨を受けたのであり、粗末なものとはいえ住居も与えられていたのである。こういう発想が無くなっていったのは、優生保護思想が蔓延して後のことであろう。
満足度★★★★★
医は仁術というけれど
医師というものは、クランケや病巣をオブジェとして観たり、距離を置いてみなければ自分自身の神経がやられてしまう。そんな場所で仕事をしている人々である。(追記後送)
ネタバレBOX
だから、自分の家族など殊に関係の深い人間は、基本的に自分で診察することがない。感情移入しすぎては適確な判断が下せないというリスクを負うからであり、愛する者を救えなかった場合、医師自身が魂に大きな傷を負うからである。医療とはかくまで人間的な微妙な分野である。
現在でもそうであろうが、自分達の世代、東大理Ⅲ、京大Mなどに入る連中の中で特に優秀な連中は当然内科を目指した。癌の特効薬を発見すれば、ノーベル医学賞は間違いないからである。今作で扱われているのも、矢張り大学病院の癌スタッフである。医者の世界というのは弁護士同様、とても人別帳がハッキリしている世界なので、指導教授などのリーダーが回診するとなれば、本当に金魚の糞よろしく下位の者がぞろぞろついて回る。
満足度★★★★
良くも悪しくも現代日本の若者
どうやら今作の作家は、相当の“つか こうへい”ファンであるらしい。つか的テイストが随所に感じられる他、台詞回しなどにも影響が見て取れる。あの“つか”の熱量を感じるシーンがいくつもあるのだ。(追記後送)
満足度★★★★
シナリオが浅い 役者の熱演は評価するが
子供の頃、誰しも一度くらい巣から落ちた雀の雛を巣にもどしてやろうとしたり、親から戻してもまた落とされるという話を聞いて自分で育てようと奮闘した経験はあるだろう。タイトルのBlack Birdは、日本で言えば雀のようなどこにでもいる小鳥の名だと言う。つまり、特別であるという属性は予め剥ぎ取られている翻訳劇である。然しながら、慣習に逆らう者への差別や無視、排除は相変わらずシビアな様子が作中で語られる所を見ると、作家は、未だタイトルの意味する所と作品の内容との齟齬を充分咀嚼できるだけの力量は無いように思われる。イギリスの作家であるようだが、いかんせんシナリオが浅い。否、浅すぎる。(追記後送)
満足度★★★★★
弱者の痛み 必見
タイトルからして如何にも戦争の持つ錯綜した情報のアイロニカルな性格、敵味方の悪意を、そして本当の所は誰にも分からないという混乱が、弱者に与える皮肉な結果を示唆している。
ネタバレBOX
舞台は蒋介石軍が首都と定めた南京陥落前夜から、南京に駐在した外国人特派員が本国に逃れた後、日本軍が蛮行を犯し、ハーグ陸戦条約に違反したとして告発。日本は欧米列強の非難の的となっていた。その対外処理を急遽委託された為、宣撫部隊中尉、田之倉が半年遅れで赴任し実際には何があったのかを調査した期間に纏わる物語である。
主要登場人物は、特務機関員・宣撫部隊中尉、田之倉 肇、田之倉が住むことになった屋敷の本来の主人であり、東京帝大に留学していた経験を持つ中国の経済学者、林 英呈、従軍僧を装うが、実は陸軍参謀本部のスパイをも務める林田の3人だ。
林の兄は、蒋介石の側近、南京陥落直前に蒋と共に南京を脱出した。英呈は兄の命により、家を守り血統を守る為に南京に残った。これは、中国の家族制度とも関わりのあることで、長男の権威・権力は絶対であった。
今作は嶽本 あゆ美氏が、堀田 善衛の「時間」をベースに作劇した作品である。登場人物のキャラクターは、原作と今作シナリオではかなり変えてあるとのことだ。無論、堀田氏のご遺族の許可を得てのことである。だが、最も大切な点は、原作でも演劇台本でもこの日記の作者に中国人を据えていることである。即ち、攻撃した側ではなく攻撃された側、弱者の痛みにその視座を据えているのである。その為、戦争という虚偽の氾濫によってカオスと化す状況に、痛切な人間の痛みという視点が鼎立されているのだ。この視座によって、今作は、人間芸術としての普遍的位置を獲得しているといっても過言ではない。
更に、林の妻の妹、周 茉莉は、日本兵に襲撃されて生き残ったものの、集団レイプで受けた魂の傷は彼女の生涯を葬ってしまうほどの傷を与えたばかりかレイプが原因でうつされた梅毒の痛みを抑える為にアヘン中毒に陥る様、それを克服しようと懸命に努力する姿は心を撃つ。
演技では、先に挙げた3人の役者の演技が秀逸であった。ぜひ、見ておきたい舞台である。
満足度★★★★
若者らしいさわやかな舞台
宇宙開発企業の社長を父に持つ赤川は、何をやらせても常にトップのスーパーマン。
ネタバレBOX
然し、父の死後、父の会社の跡を継ぎベンチャーと言ってよかった社を一流企業に育て上げた。而も、エネルギー革命を齎す機器を発明し運用を開始する直前にあった。然し、世の中そうそう上手くはゆかない。エリート中のエリートと言える彼だからこその弱点、即ち自分以外を心底信ずることができないという弱点と超のつく優秀者であれば信じるという点を利用されて、機器は奪われ、社は倒産の憂き目にあう。
こんな状況の中、銃で撃たれ瀕死の彼の病床を訪れずっと付き添ってくれた元幼馴染、且つ社員の超優秀ではないが、人としての優しさ、温かさにも目覚めて行く。
それでも、また ビジネス界に引き戻されそうなオチがつくのだが。
若者らしく爽やかな舞台であると同時に、走り続けどんなことがあっても負けまい、とする積極的な生きるエネルギーを感じてとても好感を持った。科白も随所に光るもの・突き詰めたものを感じ、この点でも高評価。卒業するメンバーもいるが、実社会に出ても挫けず、諦めずに自らを信じる才能を伸ばして生きて欲しい。