スウィーティ ドム
演劇組織KIMYO
王子小劇場(東京都)
2013/08/09 (金) ~ 2013/08/12 (月)公演終了
満足度★★★
イマージュのミロワー
映画の中で進展するシーンと会社で進行する事態とが、同一の重さで展開してゆく物語。双方にシンクロナイゼイションが無いといえば、ちと違うのだが、完全に同調しているわけでもない。但し、補完し合ってはいる。それは、とてもデリケートな合わせ鏡のような関係で、この劇団の性格を表しているように思う。劇場出入り口に立っているスタッフからもぎり・受付のスタッフ、座席案内のスタッフまで、抜群に感じの良いスタッフばかりでちょっと驚かされた。
ネタバレBOX
劇が始まってからも、会社パートで主役を張った大島トシロウ役の山本 一樹が、前科者であるにも拘わらず、とてもいい奴、という彼自身の地のキャラが出ている温かい舞台で、まあ、シナリオでもトシロウは、ミノルに嵌められて豚箱に入った利用されてしまうタイプとして描いているので齟齬は無い。だが、演劇が演劇的である為の狂気だの、ラディカリズムだの、パッションだの、痛切さだの、要するに突き詰めてしまう要素は、若干弱まる。それが、悪いというのではない。だが、劇的効果としては弱まる、ということである。普段は、名古屋中心に活動している劇団だから“あおきりみかん”という優れた劇団も刺激になっているはずである。だから、自分達の独自色を出そうと頑張っても来たのだろう。11回目の公演を打てるということ自体、大したことだし、東京に出張ってきたことも大したことである。今回は、劇団の、どちらかというと素の顔を見せてくれたような気がするし、それでも良いと思うが、次回来る時には、歌舞く者としての側面を強調してみては如何だろうか?
例を上げよう。今作では、互いに歪んだ合わせ鏡で、メインストリームが2つ同じ重さで演じられるような形が面白さだったが、メインストリームとサブとを差別化する。劇団の今迄築いてきたキャラがあるので難しいとは思うが、信頼関係を更に深めた上で、歌舞く技術の習得にも励んでほしいのだ。ラストシーンを例にとって考えてみよう。白い雨が降るシーン、全員が出てきて踊るシーンだ。物語自体からは、別に踊る必然性は出て来ないように思う。それを必然たらしめるのであれば、バッカスの巫女が、人肉を食って踊りまわったような狂の世界を描いたらどうだろう? 科白の中にも白い雨の降る中で、人肉を食うことが、既に言及されているのだし、白い雨は核の死の灰(原爆投下後に実際に降った雨は無論、黒いが)の影響を感じさせる。原子爆弾ではなくとも、総ての核は、あらゆる生命に危機を齎し、ヒトは、放射性核種を無害化する術を持ち合わせていない。これは、今に始まったことではない。原爆を世界で初めて開発したアメリカは、核の被害をも最初に被っている。だから、死の灰による被害を抑えようと、原爆開発当時から、放射性核種に由る被曝・被爆の害から逃れようと懸命に研究してきた。然し、或る放射性核種に何らかの操作を加えると、べつの放射性核種に変ずるだけで、一向に無害化できない。
原爆にしろ、原発にしろ、機能すれば、例外なく死の灰を生ずる。米・露の原水爆は兎も角、世界の国々の多くは、そんな物を更に大量に作り出そうとしているのだ。この事実を凌ぐ狂気は、現在地球上には存在すまい。この事実を観客に感じさせる方法として、巫女が、持つ物を工夫するか、それを神格化して踊り狂うようなシーンが作れると面白い。“猿の惑星”第一作で、猿達の神が何であったかを思い出して欲しい。
めいとーでん~鬼切之編~
COTA-rs
シアターサンモール(東京都)
2013/08/07 (水) ~ 2013/08/11 (日)公演終了
満足度★★★
アクションが中々
視覚系で売るタイプの舞台だったので観客には女性が多かったようだが、衣装のセンスは中々良い。また、鬼切役、雲切役、小(子?)烏役其々の体の切れが良い。これからも役者を続けてゆくのであれば、身体訓練は継続して欲しい。また、更に齢を重ねても舞台に立つつもりなら、観客レベルに合わせる媚や可愛らしさは控えめにして、「風姿花伝」に書かれている“華”の意味する所も深く考えておく必要があろう。
鉄の時代
劇団霞座
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2013/08/09 (金) ~ 2013/08/11 (日)公演終了
満足度★★★★
詩と演劇
「言葉なんか覚えるんじゃなかった」田村隆一の鮮烈な一行をベースにした科白は、群衆の中の孤独、孤立を表現したBaudelaireを彷彿とさせ、今作の主要トーンであるモノローグとダイアローグの間にある虚空のようなものを巧みに表現した。冒頭、列車が構内に滑り込む轟音が、それ迄流れていた川のせせらぎと小鳥の鳴き声を圧殺してゆく場面は、圧巻である。当然、その時、俳優達は浮遊したような感覚の歩きぶりを、舞台上でしているのだ。(2013.8.19追記)
ネタバレBOX
さて、物語の主題に入ろう。例えば1人の少女である。彼女の母は、離婚した。彼女は、トラウマを抱えた。学校帰りの母の部屋、彷徨の中で観る白日夢には、離婚の背景に見知らぬ男の気配を感じる。疑念は、彼女を蝕み孤絶感を増幅した。やがて不信感は人間全体に広がる。と其処へ、盛り上がり壁のような海が襲いかかる。彼女は、母を求める。母は、優しく抱きとめ深い安らぎを与えてくれた。6番線から出掛けようとする彼女に、駅員は、応える。「この駅に6番線は無いよ」
「物語は、迫害されねばなりません」繰り返されるフレーズを発するのは、1人の男である。詩人と言っても良かろう。少女の孤絶に応えようとするかのように、彼の深い孤独は反応する。「言葉なんか覚えるんじゃなかった」この鮮烈な一行の照り返しはこのような情況の中で用いられる。詩人と少女を繋ぐ深い孤絶感は、世界に対する深い失望、不信感でもある。そして、自己を映す鏡である世界をその深い不信感によって傷つけられた若く孤独な魂は、己の未完成な魂そのものを蝕んでゆく。そうせざるを得ないのだ。何故なら、若者とは即ち恐るべき老人だからである。そして、その意味する所は、世界を解釈する為の教育を受け、オリジナリティーを未だ持たぬ、ということである。即ち、総てが引用でしかないのだ。詰り、歴史の最も遅れた部分に位置するのであり、前を見ても後ろを見ても過去しか持たぬのである。そのような存在を老人と定義している以上、若者は恐るべき老人である。理論は、かように結論を導く。
若くして表現する者となった才能は、必ずこの道を通る。だから物語は迫害されねばならないのだ。才能ある若者が、内在的な論理に従って至りついた結論は、最も逆説的なものであった。この逆説を超える為には、肯定してはならない。否定することでi²=-1を演繹せねばならないのだ。
また若くして表現者となった才能を襲うこの根本的懐疑は、己を食い尽くして行く他無い。その過程を通じ、皮以外の総てを食い尽した時、表現する若い才能の最後の殻を突き崩すものとして、物語の迫害というコンセプトが執拗に繰り返されるのである。従って、この強制は、脱皮の内的声の反映であって、権威や権力による強制でないことに留意する必要がある。自分が彼に才能を認めるのは、このような局面で、内的打破の力を持ち、その必要を感じ、邁進しているからである。
「広島の友」より お藤
オフィス・サエ
スタジオVARIO(東京都)
2013/08/07 (水) ~ 2013/08/11 (日)公演終了
満足度★★★★
今に続く被曝・被爆
1999年の一人芝居以来、今作、「お藤」を演ずるまでに、オフィス・サエでは広島三部作を毎年演じてきた。
アメリカに追隋することしか考えられない為政者が、着々と破滅への道を歩み始めている現在、被爆体験者が、自らの体験を通して作品化した広島三部作上演の意味は益々、大きい。何故なら、原爆被害は、その余りの甚大に想像力が追いつかないからである。多くの人が、忙しい、と総てを簡便に処理することに慣れ、それで分かったつもりになる現在、この事実に気付いておくことの意味は、更に増している。
(追記2013.8.16)
ネタバレBOX
まして、2011.3.12以降、単に原子爆弾のみならず、「平和利用」とされた原子力発電の制御不可能性は、誰しも知る所となったばかりか、その推進の根拠としての潜在的核抑止力は、推進派である自民党自身が述べていることである。
当たり前過ぎて、殆どの人が謂わないことだが、原発は、何をしているかについても、更に今一度、言っておく。原発は、一言で言えば、湯を沸かしているだけである。そんなことをする為に、地球上の総ての命に対するリスクを犯す権利など、ヒトにある訳が無い。
舞台に話を戻そう。野口 ゆきの演技が一皮むけた。~すべき、~すべしという演技から純粋に演じるようになったのである。感情が、素直に見て取れるようになった。努力家で真面目な女優だけに、この進歩は実に大きい。バイアスや警戒感なしに物が見れるようになったということであり、自然に表現できるよういになったということである。何年か彼女の演技を観てきて本当の女優になったのだな、と素直に評価できる。自らを振り返り、考え、験し、積み重ねて来た努力に敬意を表したい。
一方、演劇とは不思議な媒体で、ただ上手ければ観客を引き込めるというものではない。上手い演技は感心させる。だが、それだけでは感動まではさせない。今作で自分を感動させたのは、先ず、シナリオの良さである。体験した者にしか書けぬ深さと広がり深化がこの作はある。同時に演出家、演者が共に、余りにも甚大な被害を与えた原爆被災について、如何なる想像力を以てしてもカヴァーし切れないとの認識を創作の入り口に持っていることが、正しくこの作品を描く為の前提になっていることである。
このような認識が舞台再度の共通認識となって居る為、原文の意味する所をその深い所迄謙虚に真摯に見つめる目を養い、結果として、原爆が生命に対して齎したものを再現するのに役立っているのだ。
目で聴いた、あの夏
大橋ひろえ
座・高円寺2(東京都)
2013/08/09 (金) ~ 2013/08/09 (金)公演終了
満足度★★★★
不覚
何故、子供が誕生したことにこれ程感動したのか? 不覚にも! これが偽らざる心情であった。確かに、舞台上で繰り広げられる登場人物の語り所作と、同じ立場の、被爆聾唖者のドキュメンタリーを交互に舞台上に上げて、演出の入ったものを所作と共に、編集の入ったドキュメントを証言音声として同一地平である舞台上に載せたというシンプルだが、靭い演出を褒めるべきかも知れない。然し、自分が得た感覚はそれとも違う。
ネタバレBOX
ラストシーンは出産のそれだが、出て来た赤ん坊は、真っ赤な毬の形をしている。それは、1945年8月9日11時2分、長崎上空で爆発したプルトニウム型原爆ファットマンの作り出した鮮血の大陽、その回りを白い雲が竜の如く渦巻いていたあの人工太陽そのものに似ているのではないか、との疑念からだった。母は知っている。祖父、祖母の代から、3代続いて聾唖の家系であり、それが遺伝子の作用であろうことも、また被曝者の末裔であり、被曝が遺伝に悪影響を及ぼしかねない可能性についても、健常者の彼との関係のみならず、彼女が妊娠に気付いて以来、ずっと悩んで来た問題、それが、母になる自分が抱えているこの2つの条件だった。
だが、彼女は、迷った挙句、生命の持つ未来への力を信じることができ、産むことを決意し、実際に出産したのである。それは、彼女の抱える不安が的中したにせよ、彼女がそれを負って生き続けるという選択でもあった。その決意の凄まじさ、その潔さ、そして未来を選びとった彼女の勇気に、不覚にも感動したのである。
しゃぼん玉の欠片を集めて※無事公演終了致しました!ありがとうございました!
TOKYOハンバーグ
ワーサルシアター(東京都)
2013/08/08 (木) ~ 2013/08/13 (火)公演終了
満足度★★★★
レクイエム
多摩川の土手沿いの一軒家に去年夫を亡くした未亡人が一人で暮らしている。彼女の現在の愉しみは、地元の優秀で善良な清掃会社に掃除の仕事を発注すること。
ネタバレBOX
プロの掃除屋に発注するのは、通常であれば、半年に一回でも充分なのだが、深まる彼女の孤独感は、その頻度を上げてゆく。1か月1回になり、毎週になり、終には毎日になって、既に、綺麗な所を掃除するような状態だから、自然、家での雑用や散歩のお伴、話相手というのが、清掃会社に課された仕事になってゆく。
一方、社員自らも、仕事に誇りを持ち、それなりの金額を請求するのに、対価を貰う本来の仕事でないとの不満も渦巻く。おまけに、顧客の孫が、老人を食い物にする悪徳業者だとの先入観から、スタッフに嫌味を言い、難癖をつける。だが、家族経営の会社としては、顧客からは一件でも多くの仕事を貰わなければ、社員の給料も払えないというアンヴィヴァレンツに苛まれている。
被植民地で暮らす我々、誰にも納得の行くシチュエイションを実に的確に切り取って主題とし、シャボン玉を象徴として使うことで、詩的で奥行きの感じられる、沁み入るような舞台にしている。
言い換えれば、アメリカだけに追隋することで自分だけの利権を守り、己の足下に民衆を踏みつけ乍ら、その愚かさを増長させているこの被植民地の為政者の無能に対し、優秀で善良な庶民の抱え込まざるを得ない矛盾を、小さな清掃会社の日常で描き、孤立する老人の孤独感をその発注回数で示唆しつつ、人としてのふれあいを心に沁み入るように描きながらシャボン玉という象徴を用いて孤独な魂の寂莫を描いた秀作。
惜しむらくは、冒頭、喫茶店のシーンでウェイトレスの使う言葉が、最近、多く聞く誤用、「アイスコーヒーになります」「アイスレモンティーになります」などが使われていたこと。無論、演劇が生き物である以上、演出がわざと誤用を用いて現在を表そうとしたのかも知れない。アイスコーヒーやアイスレモンティーとは別に、ガムシロップを供していなかった点や、アイスコーヒーにミルクを供していなかった点も含めて、本格的な喫茶店とはいえないこと、好い加減な時代を表象しているのかも知れないが。大筋が、とても詩的に仕上がっているので、勿体ない気がした。
役者陣の演技レベルも高く好感が持てた。おばあちゃま役の久松 夕子さんの品のある演技もとても気に入った。
砂漠の町のレイルボーイズ
とくお組
座・高円寺1(東京都)
2013/08/07 (水) ~ 2013/08/11 (日)公演終了
満足度★★★
演出にもう少し工夫が欲しい
細かい擽りをふんだんに仕込んだシナリオだが、もう少しアップテンポで進めた方が、軽演劇的なノリで観れるのではないか。
描かれている事態そのものが中心性を喪失している世界なので、そもそも芝居として緊張感を持続することが難しい。従って、異化効果を極端な形に持って行くような、作品内部でのクリティクが欲しかった。その為に、劇中劇を仕込むなど、メタ化する方法もあり得たのではないか。
カルメン、オレじゃダメなのか…
シンクロナイズ・プロデュース
調布市せんがわ劇場(東京都)
2013/08/07 (水) ~ 2013/08/11 (日)公演終了
満足度★★★
彫を深く。これが注文だ
メリメの「カルメン」ともビゼーの「カルメン」とも異なりながら、カルメンの情熱的な本質を活かし、ロマンティシズムに彩られたfemme fataleを描いた作品と言えよう。
ネタバレBOX
ただ、現在、植民地としてしか機能していないこの阿保な「国」にあってロマンティシズムをベースにしている所に、この劇団の甘さがあろう。一応、どうしようもない現政権を批判する文言が、歌われる曲の歌詞に描かれているのだが、捉え方が浅い為に表面的である。エスカミーリョ役の早川 毅は、歌もうまいし声の質も良いのだが、シナリオが浅いので表層に留まらざるを得なかったのが残念だ。カルメン役の水谷 純子は、それなりの貫目を出している。一つの形を作ったという意味で評価できる。他に気に入った演技をしていたのは、ホセ役の村上 貴弘 リリャス役の前川 翔。レメンダード役の玉城 大志は、タッパもあるし、二枚目役を優雅にこなしていた。スニガ役の張 徹雄も老け役を自然に演じて好感を持った。
演出レベルでは、曲の使い方が上手い。また、開幕早々、カラフルな衣装を舞台上に投げ出し、必要に応じて様々な役割を持たせて使っていたが、衣装自体が派手な色彩なので、スペインの原色文化を彷彿とさせ、アナーキーで自由でカオティックな雰囲気を醸し出すのに役立っていた。無論、後半には、これらの衣装は、地味でフォーマルな物に変わる。それは、警察という権力の表象が機能するからである。この辺りを衣装の転換で表したセンスは中々のもの。評価されて然るべきだろう。
気になった点は、序盤、音響と歌詞のボリュームの相関である。若干、歌詞が聞き取りずらい所があった。また、カルメンの性格が余りにも単純で陰影に欠ける。現在、我々の生きている時代を反映させるなら、もっと複雑なキャラを匂わせる芸が欲しい。カルメンを今のままで行くなら、脇でもっと陰影をつけるべきである。
今後は、提起した問題を掘り下げ、内面化してから表象するように持って行けば更に高く深い表現を舞台化できよう。期待している。
ダヤンのフールスディ
Studio Life(スタジオライフ)
ウエストエンドスタジオ(東京都)
2013/08/06 (火) ~ 2013/08/11 (日)公演終了
満足度★★★★
童心を失わぬ大人たちへ
生語りに拘り、カンパケテープは一切用いぬStudio Lifeの姿勢が良い。演目は、日によって、表題作品+「百万回生きた猫」か「銀河鉄道の夜」が併演される。子供から大人まで楽しめる作りだが、影絵芝居だ、ということにその原因があるかも知れない。大人も一時、子供時代の夢想に浸るのも悪くあるまい。
そういえば、サンテクジュぺリは、「Le petit Prince」の中で、6歳の時に絵を描くことことを止めるに至った経緯を説明して、ボアに飲み込まれた象の透視図とボアが象を飲み込んだ通常の絵で示したが、大人は常に理解せず帽子だと述べ、あまつさえ絵なんかより、数学だの地理だの、歴史だの、文法だのに興味を示すよう忠告するのであった。透視図も通常の絵も無視して。
と大人達の様子を描いている。そして、以下のように結論づけた。
大人達は1人では決して理解できない、そのことはホントに子供達をうんざりさせる、と。
一方、「Le petit Prince」の献辞では、子供達に3回もエクスキューズを述べ、友人のレオン ワースにこの本を捧げる許しを求めているのだが、エクスキューズをどうしても受け入れられなければ子供だった時の彼に、と訂正しているのだ。
こういう状態に自らを解放できれば、とても楽しく、幻想的な世界を観ることができる。
劇作家協会公開講座 2013年夏
日本劇作家協会
座・高円寺2(東京都)
2013/08/03 (土) ~ 2013/08/04 (日)公演終了
満足度★★★★
意義ある公開審査
1994年に九州で提案され、1995年から毎年東京で行われるようになった“劇作家協会新人戯曲賞”の経緯、特色である最終選考の公開審査のメリット、デメリットなどを第三部に持ってきた今回の試みは、その基本スタンスの倫理的潔癖さが、流石に表現する者のそれである。劇作家自身による選定のメリット、デメリットなども個性的な面々が其々、本音で語り合い、進行役の手際の良い質問も手伝って面白く而も興味深い内容のものになった。この日のリーディング作品は2本、各回、入れ替え制だったので、自分は、2012年度、第18回劇作家協会新人戯曲賞受賞作「見上げる魚と目が合うか?」のリーディングだけを拝見してからトークイベントを拝見・拝聴したが、受賞作の“べしゃり”の面白さ、話者同士の対話にある、其々のずれの作る違和感や距離に興味を覚えた。
一方、このような作品を見出す為の劇作家協会員の地道な努力にも敬意を表したい。
ただいま使用中
ダブルエッジ
キッド・アイラック・アート・ホール(東京都)
2013/08/02 (金) ~ 2013/08/04 (日)公演終了
満足度★★★★
最小空間で膨らむイマジネーション
女に金品を貢がせて何とか生きている男が、偶然入ったトイレで見付けた物は?
ネタバレBOX
バッグのポケットに入った携帯電話だった。だが、持ち主から携帯に電話が掛かって来た。電話に出た男は、落とし主の許可を得てバッグの中身を確かめるが、中には1千万の金が入っていた。会話中、男は100万を抜き取り900万しか入って居なかったと応えるが、落とし主は、この答えを「信用」し、自分が現場へ到着するまでの保管と、入っていた額と同程度の金品を探すゲームを提案する。その報酬については、秘されたままだが、男は提案に乗り、彼女と会う約束をすっぽかしてゲームに挑戦する。然し、探している途中、使用禁止と書かれた隣のトイレに死体があることを発見、落とし主との電話で彼がそれを知っていたこと、男は、実は殺人の真犯人である落とし主に嵌められて落とし主には見付けることの出来なかった金品の隠し場所探しに利用されていることを悟る。
直後、落とし主が到着したと告げる電話が入り、トイレのドアを開けようとする犯人と犯人に仕立てられたくない男との間で攻防が始まるが、何とか男は真犯人を気絶させ、警察へ通報することに成功した。事態は収束するかに思えたが、彼女から電話が入り、事の真相を語るが、信用して貰えない。おまけに彼女を怒らせて振られてしまった。
一方、パトカーのサイレンと共に警察が到着、トイレのドアをノックするが、偶々、腹具合を悪くした男の答えは「ただいま使用中」!
殆ど何も無い所から始まって、サスペンスになり、殺人事件に発展、再度、日常に収束してゆく過程を、面白おかしく且つかなり自然に描いて見せた。公衆便所の個室が、舞台という設定もユニークで、役者の熱演も見所だ。現代を生きる我々へのアイロニカルな視点も面白い。
火男の火
「火男の火」製作委員会
紀伊國屋ホール(東京都)
2013/08/03 (土) ~ 2013/08/06 (火)公演終了
満足度★★★
平板
余りにも図式的でキャラクターの読み込みも浅い。チェーホフ以降、現代の観客は、もっと彫の深い複雑な人間の内面を愉しむ傾向があるというのに、時代設定が平安とはいえ、登場人物達のキャラクターが、それぞれイマイチ単純に過ぎる。
ネタバレBOX
だから、綾乃と八郎太の裏切りと結果を背負わされた火男の悲惨のインパクトが弱いのだ。キャラが立ったのは、主役の火男よりは長になってしまった点にも難がある。
登場する役者の人数が多いとはいえ、ここで指摘した面は、工夫する必要があろう。内容が軽くなってしまった原因の一つに間の取り方もあろう。シナリオも何とかの一つ覚えのように“化け物”という蔑称を多用し過ぎて、言葉自体が平板になっている。人間心理の綾を出すには稚拙と言わざるを得ない。根底に人間を描こう、との思考が薄弱なことがうかがえる。
絶望と握手
Bobjack Theater
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2013/08/01 (木) ~ 2013/08/04 (日)公演終了
満足度★★★★★
TeamBを拝見 とてもレベルが高い
10年間頑張ってきて漸くTVに出演できそうなチャンスを掴んだ、お笑いコンビ、四次元殺法だったが、メンバーの一人、栄が癌に掛かってしまった。万に一つのチャンスを前に、絶望に打ちのめされる栄だが。(公演中なので、ここから先、ネタバレでもあらすじは書かない。作品評を見たい方はどうぞ。)
ネタバレBOX
当て書きしたのではないかと思うようなキャラの立ち方、言葉の切れが素晴らしい。情況設定も実に的確である。脚本家の言語センスの良さと笑いをとるセンスには、天分を感じる。役者陣の演技も、間の取り方、キャラの立て方、人物造形の深め方などに各々の力量の確かさを感じた。各俳優其々が良い味を出している。
舞台美術も必要充分で無駄が無く、シナリオ、演技の自然な流れをキチンとフォローしている。無論、照明や音響も適切で邪魔にならず、高めるべき所で効果を高めている。
遊び心も健在である。例えばタイトルだが、作品のテーマをちょっと変わったこのタイトル“絶望と握手”で実に的確に表現している。意味する所は、観劇して見つけて欲しい。登場人物の中に作家志望の青年が登場するのだが、彼の最後の科白には、脚本家の悪戯心が仕込んであるのではないか、と考える。これも観てのお楽しみだ。
これだけ自然に、演じられるようなキャスティングをしたプロデューサー、演出家の腕も確かである。
タイム・アフター・タイム
天才劇団バカバッカ
ザ・ポケット(東京都)
2013/07/31 (水) ~ 2013/08/04 (日)公演終了
満足度★★★
社会構造と政治
現代版姥捨て山。つまり現代版「楢山節考」である。現代版だから、政府の規制法案なども、共謀罪(戦前の治安維持法と本質的に同じ、自民党はずっとこの法案を通そうとしてきたが、参議院選挙迄は、捩れなどの影響もあって辛うじて成立せずに済んできた。阿保の代名詞のような現首相では、成立させる危険性も高い)を思わせるような法案が出て来たり、中々、面白い。
ネタバレBOX
中盤迄、話があちこち飛んで、纏まりを欠き散漫な印象を強く残したため、展開の面白みがかなり殺がれた。演出で工夫すべきだろう。テキストに手を加えて、エピソードの順番を変えても良いかも知れぬ。中盤以降は、纏まりを見せ、人情を絡ませながら劇団の持つ温かみも健在な所を見せた。
第二クールに差し掛かったという気負いより、自分にできることとできないことを見極め、良い部分を延ばし、弱点を克服すべく精進した方が良いような気もする。
本来、力のある劇壇なので、上に述べたような欠点を感じてちょっと辛めの採点をした。星は三つ。工夫次第でまだまだ伸びる。応援している。
WHITE ALI.CE
電脳シロアリ・プロジェクト
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2013/07/31 (水) ~ 2013/08/04 (日)公演終了
満足度★★
完全に勉強不足
いくら夢の中の話とはいえ、シナリオの論理展開に破綻が多すぎる。夢なら夢で完全にその論理で押すべきだろう。
ネタバレBOX
ドッジソンは数学者だから、”Alice’s Adventures in Wonderland”で用いられているナンセンスにもそのベースに数学の綿密な論理的思考がある。その上でのナンセンスだから、全体のバランスが取れ、エッジも効いた作品になっているのである。話の展開でも、兎穴に落ちて以降のアリスは、体が延び縮みした上、涙の海で溺れかけたりしてアイデンティティーが崩壊する。その後、芋虫から“Who are you?”と問われる。これほど恐ろしいWho are you? の表現は寡聞にして他に知らない。当にアイデンティティーがひっくり返る、非常にシリアスな体験を経た上でチェシャ猫に会う。マッドパーティー参加は更にその後なのである。このような筋運びの順序も無論計算されたものである。
自分は、フランス語で「不思議の国のアリス」を読むまで、この作品がこれ程面白いと思ったことはなかった。因みに、初めてこの作品を読んだのは小学校3,4年の頃で全然面白さが分からなかった。言語芸術としても英語とフランス語は、文法構造も単語もかなり近い。それに比して日本語と英語の隔たりは甚大である。脚本を書いた人は、ヨーロッパの言語でこの作品を読んでいないのではないか?
マッドパーティー参加者のキャラクターについてもイメージの読みが余りに浅い。そもそも、帽子屋が何故このパーティーの参加資格を持つか? 考えているのだろうか? 三月兎は? ネムリネズミは? そしてアリスは? 無論、参加者総てが狂っているのだ。帽子屋は水銀中毒、三月兎は、繁殖期の♂、眠り鼠は、冬眠から完全に醒めきらぬ状態、アリスは、アイデンティティー崩壊による虚脱状態の上にチェシャ猫の実見によるショック等々。
翻案するのも、元ネタを壊すのも自由である。然し、読み込んでから壊すべきだ。勉強不足も甚だしい。
舞台美術は合格、アクションは、まだまだである、あれだけアクションシーンを入れるのであれば、難易度の高いものにして欲しい。演技にもとり立ててみるべき物は無かった。ごく普通である。
Re:一万個
チームまん○(まんまる)
萬劇場(東京都)
2013/07/25 (木) ~ 2013/07/28 (日)公演終了
満足度★★★★
恥ずかしがり屋さん
劇団名からして、擽りの入った下ネタと楽しさの入り混じった劇団なのだが、下ネタを標榜しても決して厭らしさに堕ちないのが、この劇団の特徴だろう。無論、それには訳がある。
ネタバレBOX
今作は、社内の若く可愛い女性と妻のある若い夫との浮気をメインストリームに、夫の子を産みたいのに、ひょんなこと(本能対理性、即ち社会的束縛≒義理)の葛藤から勃起しなくなった夫を心配する妻をサブプロットに据えて、妻の不安(女性としての魅力に欠けるのではないか? 飽きられたのではないか? 等々)からダイエットをしたり、食事の栄養バランスを考えて料理を工夫したり、精神科へ付き添ったり、その他細々とした日常のケアを描くことによって、女性の在り様のシリアスな部分を描き、日常性に寄り添った視点をさりげなく表出している。
一方、勃起しなくなった夫に関しては、脳からのパルス伝達系、食べ物と栄養素と性的器官との関係、興奮と諸器官との相関関係を始め多くの医学的知見を盛り込みながらコミカルに仕立てている。この方法によって、男性優位社会は完全に相対化され、女性と対等な人間レベルに観客の想像力は誘われる。
これらの手続きを踏んで、終盤、勃起し掛かったペニスが、萎えてしまうシーンへ繋がるのだが、ここで、登場する総てのキャラクターが応援する祝祭的空間が紡ぎだされているのは、偶然ではない。寧ろ、演劇の原点としての祝祭のエネルギーを表現していると捉えて良い。本来、民衆を巻き込んだ祝祭的エネルギーは行儀の良いものではない。寧ろ、カオティックで猥雑なそれである。それが、原初の形で提示されているのだ。だから浮いていないのである。これが、この劇団が、決して厭らしさに堕ちない理由であり、寧ろ、人々の和やかで睦まじい関係を描くことを理想とする恥ずかしがり屋の微笑ましさであろう。温かい劇団である。
テテントチチト
テテントチチト
中野スタジオあくとれ(東京都)
2013/07/26 (金) ~ 2013/07/28 (日)公演終了
満足度★★★★
新しい才能
幼馴染の二人が久しぶりに会ってカフェでおしゃべりをしている。1人は医者になり、難しい手術もこなし、ヒポクラテスの描いた理想を実現したいと仕事に励んでいる。もう一人は、口で金を稼いでいる。詐欺師だ。席上、同級生の1人が自殺した話が出る。
ネタバレBOX
単なる事件という認識で話していた医者は詐欺師の「俺が殺した」という言葉に驚いて、訳を訊ねた。答えはこうだ。彼は詐欺師の客であった。客は薬剤師だったが、立ち場を利用してドラッグを入手し、それを捌いて金を儲け、BMBを乗り回すような派手な生活の資金にしていた。そんな薬剤師を詐欺師は屑だと言う。そして、屑は清掃しなければならないと。それを彼は実行した。遣り方はこうだ。最初は、薬剤師の裏でやっていることを知っていることで脅し、次いで金の話に持って行く。その後、客になりそうな連中の溜まり場を紹介すると言って、ヤクザの下っ端が集まる雀荘を紹介、下っ端達が完全なジャンキーになって組の仕事もできないようになるのを待って、組の患部に売人情報を流す。当然、ちくった情報料は手に入れる。その結果が、同級生の自殺である。
このようにして、彼は、既に多くの人間を自殺に追い込んでいた。そのファイルを、医者に見せたことさえあった。その度、医者は、その健全な道徳論をぶつのであるが、詐欺師の反論にあってどんどん論理的には追い詰められて行き、終に、常識の仮面は、馬脚を顕すに至った。友人の詐欺師を医師である彼が殺害してしまったのである。本来命を救うのが、医者の至上命令だ。その医者がこともあろうに殺人を犯してしまった。彼のアポリアが始まる。
舞台の作り方としては、殺人は、同級生を自殺に追い込んだ話の直ぐ後で行われる。その後、何度も同じシーンが描かれるものの、詐欺師が、幽霊として戻って来てフラッシュバック方式で過去の二人のエピソードが紡がれて行く構成になっている。
何より上手いのは、最初のカフェシーンの会話に、境界領域を確定できない、という話がさりげなく挟みこまれていて、これが、後で医師の常識的論理の虚盲を暴く下敷きになっている点だ。当然、詐欺師の捏ねる理屈の背景には、常識を疑い、自分の目で物・事を見、メディアリテラシーを駆使した上で、己の頭で考え判断するということがある。この点を評価したい。ロマン ピカレスクの系統に連なるであろうこの作品、独自な視点を持っていることの証として、このタイトルを上げることもできよう。独自の視点は、常に新しい表現形式、新たな言語を必要とするのだから。
用いられている音楽もサティーなど中々洒落たもので、不思議な距離感を醸成するのに役立っている。同化でも異化でもなく全体として抽象的距離感のような感覚を与えるのだ。
照明が暗めで、二人の人物の内面を照らし出すような、イマジネイションを刺激することに特化したような効果を齎している。
天国だの地獄だのを持ちだしてしまった所に若干、思想的甘さを感じはするが、面白い作品である。
死ぬまでにしておきたいこと
パセリス
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2013/07/26 (金) ~ 2013/07/29 (月)公演終了
満足度★★★★
とんがりパセリス
「フィクション」「死ぬまでにしておきたいこと」「ゴッドブレス」まるで異なるタイプの三作品のオムニバスだが、メタレベルの高さが際立つエッジの効いた作品群と演出であった。作・演出の浅海 タクヤ氏の持つドライテイストな距離感が、やはりパセリス作品の持つ魅力だろう。最近の丸く小奇麗に纏まってきた作品群とは、一味異なるテイストを楽しんで貰いたい。
ネタバレBOX
上演中なので、作品については、一つだけ具体的な意見を述べておく。「フィクション」はストーカーの話だが、くどい程にメタについての言及が出てきて辟易させられる。ところで、ストーカーの厭らしさとは、当にこのしつこさなのである。被害者は、辟易させられ、やがて精神のバランスを崩す。このストーカーの本質をフィクションとして描いているのだ。更に具体化しよう。
客席に潜んでいた、本当のストーカー役がいきなり舞台人物として立ち上がるシーンは、衝撃的である。だが、無論、これも仕組まれたもの・ことであって、ストーカーの遣り口にも通じ、同時に、本物を役者が演じている所にメタの中に更に高次のメタが仕組まれているフィクションなのである。
ワレモノ語
イサオ会
明石スタジオ(東京都)
2013/07/26 (金) ~ 2013/07/28 (日)公演終了
満足度★★★★
主体と神
自分は無神論者であるが、カソリックなどの強い国で、こういう態度表明をするには、それなりの覚悟が居る。通常、人間は、その属する社会の法と倫理に従って生きている。それが何の疑問も持たずに実践できれば何の問題も無い。然し、宿命は、それほど合理的なものではない。寧ろ、不合理そのものである。子は産まれる時、親を選べない。ということは、生まれ落ちた時の環境を選べないということである。無論、宗教によっては、前世の因縁の結果だと言う考え方があるから、劣悪な環境に生まれた場合、前世の行いが悪かったのだとして、差別を合理化することにもなりかねない。
然し、所詮、総ての宗教は、実存の寂寥から逃れる為の発明に過ぎないし、何処から来て何処へ行くのか分からないを問わざるを得ない我々の知の選択に過ぎない。何ら根拠なく生き続けるという選択を採り得るほど我々の精神は強くないからである。
ネタバレBOX
さて、物語の前提を自分は、そう断じた。そう断じた自分に映る登場人物たちは、従って、法や倫理の内側で、それを疑わずに済む者たちと、そこからはみ出し宗教や幻想の持つ虚盲から解き放たれている者。この両者の争闘が、基本形である。タイトルの独自な言語は、後者の発明である。体制の内側に居る連中からは、言葉の発明は覚束無い、というより原理的に不可能であるから。
ところで“羅漢に逢うては羅漢を殺し”で始まる有名な「臨済録」に似た発想が出て来たり、カインとアベルの話で通常とは逆の解釈をしていたり、そこにパラレルワールドを持ち込んだりしているのだが、その相互関係が、曖昧で、論理に難点はあるものの、ゾロアスター教にまで踏み込んでいるわけではないのは明らかで、まあ、解脱への最初の関門の前に立っている状態だとは観た。それが、アベルの化身として不死身の身体を持つ人外のキャラである。作家個人は、この段階で悩んでいると見て良かろう。だから、現段階の解が、日常的な寂しさという価値観に集約されてしまうのだ。当然のことながら、メタレベルが異なる。この辺りが、不自然な感じを齎す原因であろう。この不自然を解消する為、論理的には、これらの世界を統合し、担う論理的主体をもっと明確にシナリオとして定着する必要があろう。然し、自分の頭で考えていると思われるので、自分は、この独自性を評価しようと思う。
若干、思弁的な事を述べたが、身体レベルの話に戻れば、役者陣、中々、身体能力の高い者が多く、殺陣、格闘シーンはとても迫力のあるものであった。視覚的には、これを愉しむだけでも充分見応えはある。舞台の作りも実にシンプルでアクションシーンの多いこの作品にうってつけの合理的な作りになっている。
役者として、最も気に入ったのが、アベル役の男性。身体能力も高く、存在感がある。アクションが派手な分、怪我に見舞われる危険性も高い。楽日まで、大きな怪我をメンバーの誰もしないことを祈る。
あの日たち
劇団俳協
TACCS1179(東京都)
2013/07/26 (金) ~ 2013/07/28 (日)公演終了
満足度★★★★
総ての核は命に脅威
1945年8月9日11時2分。長崎にプルトニウム型原爆、ファットマンが投下された。原爆被害は、余りにも甚大で、想像力は、その翼を如何に大きく広げようと追いつくのが困難である。その難しい作業を人間以外の総ての動植物、中でも夏を盛りと咲く夾竹桃や、夏に命のありったけを燃やす蝉の小さな命の声に託して導入し、ともすれば忘れがちな、人間を支えている命達、大地や空と海迄含む、広く、深い世界への甚大な脅威として位置づけ、段階的に人や家畜など身近な生き物へのより具象性を持つ痛みに繋げ、あたう限りシンプルに適正な距離を保って描かれたシナリオは高い説得力を持つ。実戦使用された、リトルボーイとファットマンタイプの異なる2つの原爆のうち、原爆の実戦初使用の広島ほど、注目されることのない長崎を舞台に淡々と核の脅威を描いている点でも評価されるべきだろう。演出もシナリオを良く読み込んだ無駄のないものであり、朗読した出演者達の距離のとり方、しっかりした発声や所作も質の高さを感じさせた。初心を忘れず、迷った時は、原点に戻りつつ研鑽を積んで欲しい。