満足度★★★★
ポチ
宝石泥棒に拾われたポチは、彼とのミッションでしくじった。結果、吠えることを自らに禁じたが、それが極めて長期に亘った為、終には吠え方すら忘れてしまった。
ネタバレBOX
そんなポチは、闘犬競技で最強の座を射止めたが、報償を与える為、犬ならば吠えろと命じられる。然し、吠えることができない。それで、過去の犬殺しを非難されたり、今回の戦いぶりが残虐だと罵られたりと散々な目に遭う。そこで、生い立ちを説明し始めたわけだが、最後の最後、ポチは、拾い主から誕生日の祝いを貰う。漸くに安堵の地平を得て、ポチは再び吠えることができるようになった。
といった粗筋の作品なのだが、最後に「月を盗みに行こうぜ」という科白が歯居るのだが、こういう科白を嘘っぽくならないようにするには、背景い流す音楽は現代音楽の不協和音を多用した曲を用い、割れた鏡や硝子を底に敷いて水を張った盥のような容器を用意して青い照明を当て、スモークを焚く位のことはやっても良いように思う。基本的に演じていたのは1人なのだし、それは可能だと考える。
またシナリオは、センチにせず、ドライに、更に別の地平から一、二本のサブプロットを入れて、構造を立体化したい。
満足度★★★★
対峙するのは、永遠
残る作品(人の心に、歴史に)を、と結成された女性作家4人によるシナリオを”おちないリンゴ”が舞台化。表現する者、即ちアーティストが対峙するのは、永遠である。その意味でこの4人の作家の姿勢を正当なものだと評価する。無論、そのような作家たちの作品を舞台化した「おちないリンゴ」も評価する。それは、同じ表現する者として、現在、評論を担当する評論者が言うのだ。そして、評論の仕事は判断することである。(追記後送)
ネタバレBOX
「そのときのはなし」おちないリンゴ 2014.11.14 14時~楽園
1,4の短編で2,3の中編を挟みこんだ構成。因みに1は、黒川 陽子作の「アップルパイな人々」言の葉を分節化した上で、大抵は述語部分を脱臼させる。方言に置き換え、わざと間違えた音便化をしてみる。その表現に対しては、標準語で答えたり、それを受けた科白は、また別の方言を茶化してみたり、音だけ似せて、意味はシチュエイションで解るようにして別の脱臼をさせたり、残念ながら、この傑作を遅刻して途中から拝見したのだが、作家の言語センスに痺れた。手の込んだ言葉遊びにカラッと笑える。ルイスキャロルの笑いに似た頗るつきに優れた笑いである。
2作目、3作目は中編だ。取り敢えず、2作目「女2」坂本 鈴作である。
企業で事務をしている29歳のOLの話。彼、中村と同棲している。付き合い始めて8年。3年目、5年目、7年目の危機を乗り越えてきているわけだが、彼女には、社内に憧れの君、吉田が居る。吉田は弁護士を目指しており、感じも良ければマスクも良い。タッパもある。所謂、高学歴で背が高くハンサムで性格が良い。女性にもてる要素を総て具えた男である。当然、モテル。だが、彼女にした所で、事務のベテランで薹が立つとはいえ、中村というアンパイを持ち、趣味で書いていると言い募る小説には中々の才を見せている。そんな彼女が、プロを目指す者も多い社内の同人誌に誘われ、合評会にも参加したりしながら、吉田との恋愛を夢想しつつ、同時にあわよくば作家への夢も実現したい、と夢を夢見るわけだが、一方、中村は親から結婚をせっつかれ、今迄の経緯から、彼女との結婚を自然に考えてもいる。唯、中村は普通の男で、彼女はエキサイトしない。彼女は、自分に心地よい夢想に浸っていたかったが、吉田は司法試験に合格、会社は辞メルことになり、彼女も居て近いうちに結婚する。夢破れた彼女は、送別会にも出ないつもりだ。同人誌に掲載されるかも知れなかった作品も今回は見送られた。才能が無かったからではないのだが、そのことは、彼女に筆を折らせた。夢想を投げ出し、総てを冷静に眺めて彼女は中村との結婚を幸せなものだと納得し、送別会へも出掛ける決意をする。
満足度★★★★
スピンオフとも
段ボール箱が届いた。中に入っていたのは、女だった。著名小説の第一行として充分通用するこのコピーは、今作のリーフレットのものである。直接的なインスピレーションを作家が得たのは、繁華街の電柱に張り付けられたビラだったそうだ。(追記後送)
満足度★★★★
モラトリアム
3年前に解散した小劇場演劇のグループメンバー6人が再会。この間にあったことをアパートの一室で話すという設定だ。客に囲まれて真ん中に畳敷きの舞台が設えられている。
ネタバレBOX
其々が、自分の3年間を語るのだが、旅あり、性あり、エコロジー回帰あり、就職問題あり、不倫あり、有為転変ありと試行錯誤が、恰もダチ同士の会話として演じられる。30前の男達のモラトリアム告白記とでも括ったら分かり易かろう。
観客の評価は、ここで演じられた物語を演技ととるか、とらないかで大きく分かれよう。駅前劇場で靴を脱がせ、観客をリラックスさせた上、畳敷きの舞台上で演っているのだから、無論、演技ではあろう。然し、大人になり切らず、方向性を模索している姿をそのまま、俎上にあげたという意味では、まんまである。
今後の選択に期待しよう。少なくとも、誤魔化していない。
満足度★★★★
下司野郎とそれに従う女の国
“だんだらぼっち”という呪いを唱えて不如意な自らのアイデンティティーを誤魔化し続ける日本人の典型を、その醜悪な迄に滑稽極まるゴヤの巨人のような巨大なイマージュと誇大妄想によってアイロニカルに描いた安部公房の作品の舞台化だ。
ネタバレBOX
面子を守る為に、罪もない一家の家に放火する。理由は、朝鮮系というだけだ。女、小さな子供を含めて、一家全員が焼け死んだ。それを村長は、脱走兵を出した村の村長という非難から逃れる為に、村の巡査と共謀して実行したのだ。今も、この見苦しい精神構造は変わらない。事実をキチンと観ることより、建前を重んじ、利害だけを優先し、自らのアイデンティティーを曖昧化することによって倫理的責任を逃れようとする下司根性は一切変わっていないからだ。
日本人は、自分の胸に手を当てて、深く考えてみるべきだろう。
満足度★★★
爆発することが社会と繋がらなければ弱い
民衆が武装していないこの植民地では、爆弾と言っても手製か精々がプラスチック爆弾止まりだろうし、実際の爆弾の出てくる話だとは思っていなかったので、ほぼ予想通りの内容であった。だったら、もっと爆縮のコンセプトでも使えば面白くなったであろうに。覚醒することが、残酷なことであるのは、無論、覚醒している本人にとっての話であるのは、当たり前なので、その悲惨を悲惨として更に強烈に描くのに、爆縮概念は適当だと思うのだ。
ネタバレBOX
メグはデートで大観覧車に乗る。彼は、トップの地点でキスするだろう。今、二人は頂点への運航で起こることに期待が膨らんで幸せである。然し、彼女がふと下を見ると、自分と同じようにプロポーズをされたり、抱擁されたり、花を贈られたりして幸せに感じている。自分と彼だけの世界だというのは幻想で皆、同じことを、ゴンドラの順番でやっているに過ぎない。これが彼女の地獄である。たったこれだけ、それで、彼女の心の中にある黒い風船ははち切れんばかりになったのだ。そうして自爆して土の下に埋められ、死ぬまで地底で生き、死んでゆく。誰にも知られること無しに。彼女には重力が無かったから爆縮することができない。そして忘れ去られた。たったそれだけ。
満足度★★★★★
文科省よ! 中学(夜間部)と本来なるべきだろう
描かれているのは1998年5月30日から1991年3月17日迄の3年間である。昭和63年から平成元年に当たる。
ネタバレBOX
生徒は、十代から五十代までと幅広い。この夜間中学は大田区糀谷という設定になっている。大田区は田園調布を擁する高級住宅地が在ることでも知られるが、東京の町工場の一大集積地としても知られる。なぜなら、世界中で、この地区の特定の町工場にしかできない仕事をやっている工場が存在しているほど技術的レベルが高いからである。その点では、まいど1号以来、有名になった大阪の町工業地帯とも共通するものがあるかも知れない。何れにせよユニークな町である。
さて、夜間中学の話である。自分も30年以上前に尾久の夜間中学を取材した経験を持つ。その時体験したことと被る部分が結構あって、拝見しながら、劇作・演出を手掛けた大西 弘記氏が、キチンとした取材をしているなと思わされる箇所が随分あった。今作には、無かったが、自分の経験から、字が読めない、ということはどういうことなのかを伺った具体例を1つだけ挙げておく。電車等に乗る時、初乗り運賃切符を購入なさるそうである。で、降りる駅は、アナウンスに気をつけていて、目的地の駅名がアナウンスされた所で降り、精算なさる、とのことであった。大変な苦労をなさるのだな、と改めて思い知らされた記憶がある。
一方、生徒達の構成は、時代の鏡でもある。自分が取材した33,4年前の尾久では、中国残留孤児の方々、在日の方々、登校拒否で学校に通えなかった若者、終戦のドサクサで学校に通えなかった方などがいらした。給食が出ることや土曜日には、給食が無いことは、今作に描かれている通りである。
教師の質が高いことも今作に描かれている通り。実に人間的で、包容力とイマジネーションに富み、而も謙虚で真摯な先生方には尊敬の念を禁じえなかったことも記憶に新しい。また、生徒達も苦労してきた方々、子ばかりだから、ホントに暖かい。真の連帯を果たすのが、弱者たちだけだというアイロニカルな真実も露呈するのが、夜間中学という場所である。その点も、実に巧みに描かれていた。
役者総ての顔が良い。どの役を演じている役者も輝いているのだ。こんなに良い顔を役者全員にさせたシナリオ・演出も高く評価されるべきであろう。
観て泣く必要はない。唯、今でも、夜間中学に通う人々が居るのだという事実を認識して欲しい。自分が取材した時点で、文部省(当時)は、夜間中学を正式に認めていなかった。現在はどうか調べていないが、今でもそうだとしたら、文科省は見直す必要があろう。無論、自分達の態度をだ。
満足度★★★
もっと深い所で構造構築をしないと
IDA K.Lang TheaterでのNY Performances東京プレビュー公演と銘打たれた今作。作品コンセプトとしては、Theatrical performanceということなのだろうが、シェイクスピアを生誕450年で色々な催しがあるであろう英国ではなくアメリカで上演するというのも、ちと腑に落ちないものがある。
ネタバレBOX
が、イギリスでシェイクスピア俳優ということになれば、それだけで大したステータスだから、母国語を英語とする訳でも無い日本人が、英国で上演するには、余程の実績が無ければ難しいだろうというのは頷ける。だからといって、業を磨かなくて良いということには無論ならない。
大体、performの意味を軽く取り過ぎているのではないか? 接頭辞、perには、完全にという意味がある。performを演ずると訳す場合でも、完全に成し遂げるからこそ、演じることで過不足なく伝わるのであり、それ以外ではない。リーフレットによれば、法廷心理劇の手法を用いているということだが、それならば、それが成立する為の構造をしっかり作らなければならない。「ロミオとジュリエット」の背景にあるものを深く掘り下げ、同時代の日本の武士の価値観を深く掘り下げた上で対比し、ロレンスの位置を弁証法的に下降させるということにすれば、リーフレットで述べられていることの半分以上は実現できたであろう。然し、構造的にこの基礎部分ができていない。結果として、役者達の間が、どうにも締まりのないものになってしまって、其々のポジショニングも曖昧化し、ドラマツルギーとして結実していない。演出にも難がある。オープニングのダンスシーンでロミオ役が、横笛を吹いた後、サッシュベルトの後に横笛を差すのに手間取ったり、その後、全員、扇を用いて踊った後、矢張りサッシュベルトに差すのに手間取ってタイミングが狂う。こんな凡ミスは、これらを収納する容器を足に取り付けておけば簡単に片付く問題だろう。
また、剣は、左腕で振るものである。殺陣の最中、右手だけで振るわなければならない場合は兎も角、構えている時点で右腕で刀を支えているのが一目瞭然では話にならない。演出家は、キチンと基本を押さえるべきである。
以上の点を意識して実践できれば、格段に良くなるだろう。
満足度★★★★
表層と深層
スズキ 拓朗氏のソロ、火の用心は、巨大マッチとのバランスダンス。マッチ売りたちのダンスは組みダンス。(こういう言い方が正しいかどうか分からないが)いつも通り、バランス感覚の良いダンスだが、元々を辿ればアンデルセンの悲劇童話だ。が、今作のテキストは別役 実バージョンである。
ネタバレBOX
手元に別役テキストが無いので確認できていないのだが、今作では、マッチ売りの少女が模範的な市民の住まいを市役所で確認した後訪ねてゆくシーンがある。
生じ入れられた家では、丁度、お茶を飲んでおり、少女もお呼ばれに預かるのだが、出されたカップは1つ。然し背後には同じ身なりのマッチ売りの少女がまだ7,8人は居る。その約半数は、男の役者である。而も招かれた少女を含む全員がオープニング直後のダンスシーンでは、マッチを擦った後、股間に灯りが点るダンスを披露している。答えは自ずと明らかであろう。因みに少女の年齢は7歳である。
少し、世間を知ると言う者なら、マッチする束の間に、彼女達は生者の果てのない闇を見せていたのだ、とでも言わねばならないだろう。それは、行儀よく、模範的小市民として暮らしている夫婦の居間の暖かさの陰には、陰惨で鬱々とした年端も行かない男娼、娼婦の現実が横たわっている現実を示しているのだ。
そして、招じ入れられた1人の少女の背景にたくさんの同じ格好をした子供達が居るのは、無論、彼女1人が例外ではないどころか、子供達の行きつく先が此処にしか無いことを暗示している。その意味で、マッチを売る総ての子供が、「善良」な市民の子なのである。おまけに、7歳の子供から、こんなことを思いつくわけでもあるまい。
少女の訪ねた一角には、暖かい火の灯った家は2軒あった。2軒の間に小さな隙間があった。朝、少女の命は消えていた。彼女は手に殆ど燃え尽きたマッチの束を抱えていた。“彼女は寒かったのです”とナレーションは告げるが、彼女の寒さは単に冬枯れの寒さのみではあるまい。親切や善良を売りにしている小市民の陰の部分、普段決して他人に見せることのない、本能に支配された部分をひた隠そうとして様々に偽装する。その浅ましさにこそ凍りついたのではなかったか?
満足度★★★★
ユニーク
五島に僅かに残るカクレ(キリシタン)は、長く激しい弾圧の為に様々な偽装を凝らして信仰を守った。
(内容のもう少し細かい点については、楽日以降に追記する。普段は経験しないであろう、価値観やそれらの価値観をベースにした物語に取り敢えずは浸って欲しい。)
ネタバレBOX
1612年から1899年迄288年に亘った弾圧の歴史である。弾圧の具体的在り様は在所によって異なり、継承は明文化された聖書によるものではなく基本的には、口伝であった為、内容は伝える者の記憶に曖昧さや間違いがあれば、そのような形で伝わったハズであるし、伝えられた者も、その内容を次の者に正確に伝えたか否かもハッキリ言って分からない。その上、大々的に皆が集って会議を開くこと等出来なかったわけだから、各々の教義は在所によって相違を見せるに至った。
通常のキリスト教と異なる点を少し挙げておくと、供え物は、パンの代わりに餅、ワインの代わりにお神酒という具合だ。マリア・キリスト母子像やキリスト磔刑像などは、表に出す訳に行かないから納戸神に姿を変えた。更にこれらの偽装はその域を越え、納戸神を偶像化して崇拝するような流れや、禁教令時代の宗教指導者を聖者と崇めて新たな経典、天地始乃事を絶対化するなど、独自の進化を遂げた。結果、キリスト教が明治政府によって認められた後、やってきた宣教師からは、異端とみなされる始末であった。然し、一方で、カクレの先祖が288年もの間、命崖で守ってきた信仰は、欧米のキリスト教諸派の教義とはことなるものであったから、通常のキリスト教に改宗する者とカクレのまま過ごす者の間には、微妙で根深いずれが生じていたのも事実である。
今作は、こんな状況を背負った過疎の島の最後のカクレの死に纏わる物語である。
満足度★★★
シナリオをもう少し練らないと
寺本家は14歳になる園花と弟でサッカー少年の淳平、父の渉、母、麻里の4人家族だ。家族と仲の良い、隣の家の専門学校生、尚が、夕食を作りに来たり子供達の面倒を看たりとなにやかや世話焼きをしているが、何かがおかしい。隠されているようなのだ。
ネタバレBOX
何が隠されていて、それが、どう解かれるのかが一つの楽しみ方。
もう一つは秘密が明らかになった後のケアである。初日が6日だったから、後のネタバレはしない。
子役 下川 恭平 小暮 尚役 阿部 駿一郎が気に入った。
満足度★★★★
おちゃらけたフリして結構やるにゃ~
シェイクスピア生誕450年の今年は、例年にも増して彼の作品の上演が目立つが、今作は、そのシェイクスピアの良く用いる劇中劇の手法を換骨奪胎しながら、独自の価値観を表明している。その独自の価値観とは、(追記2014.11.6 )
ネタバレBOX
かつて田村 隆一が喝破したように“詩は必敗の歴史だ”、ということと似ている。つまり、敗けても敗けても挑み続ける者は、果たして敗者であろうか? ということである。上演中なので、これ以上は述べない。然し、シェイクスピアの手法を借り、元の筋を様々な程度・形で活かしながら、現代日本の小劇場劇団員たちの実情を描いている点で評価できる。
満足度★★★★★
Who am I?からWhat am I?へ
Who am I? この科白がシャイロックの口から何度も発語される。(英語表現ならばこうなる所だろうか)彼は、キリスト教徒同様、呼吸もすれば、息も吐く。同様に病にも罹れば、同じ薬で治癒もする。怪我をすれば赤い血を流すことも同様だ。呼吸をするにしても、皆と同じ空気を吸い、吐き出しているのに、吸って居る空気は、誰をも区別しはせずに、与えてくれるのに。何故、自分達は、謂われなく唾を吐き掛けられ、訳もなく蹴飛ばされ、罵声を浴びせられても黙って耐えていなければならないのか? Who am I? という問い掛けは深刻である。(追記2014.11.5)
ネタバレBOX
ところで、シェイクスピアのこの作品が、初めて出版されたのは、1600年だという。当時、今作は喜劇として扱われていたのだとか。だが、今回、構成・演出を担った立夏さんの解釈は、悲劇を越えた悲劇としての喜劇だとか、コインの裏表としての悲劇と喜劇ではなく、寧ろ綯い交ぜになった悲喜劇とも称し得るものを描こうとしている。シャイロックを中心に据えることによって。この試みはほぼ成功している。シェイクスピアの作品を良く読み込んだ上で、現代日本を生きる若い感性のレベルから、真摯な再構成が為されている。この点を先ずは評価したい
さて、では、綯い交ぜになった視点からは、1600年当時、何故、この作品が喜劇に分類されていたか? に対する答えは明確に出せるだろうか? 出せないだろうと思う。綯い交ぜと自分は書いたが、リーフレットの表現では、コインの片側に悲劇がその裏側には喜劇があって、コインを回転させて倒れた時、どちらの面を見せているかで悲劇、喜劇が決定されるのではないか? と問い掛けている。ということは、喜劇になるか悲劇になるかは、偶然に支配されるということだろう。だが、自分はそのようには捉えない。当時、「ヴェニスの商人」が喜劇と捉えられていたのは、ユダヤ人差別は社会的問題として扱われていなかったことを意味するだろう。即ち、問題化されることすらないほど、ユダヤ人差別は自明のことだったと考える。
閑話休題。そうは言っても、獣の仕業という集団は、その根底に未だアモルフではあるものの、確かな違和感を持ち合わせていると考える。だからこそ、通常の解釈をせず、シャイロックを主人公としたのであり、彼の見た、世界。彼に関わる世界と彼の実存を鋭く抉ることに成功しているのである。差別は、差別される者のアイデンティティーを多重化したり、極端な場合には破戒する。
シャイロックがWho am I? と問うている間は、彼のアイデンティティが幾重にも重層化される過程である。だが、自分は、彼の最後の問いは、What am I? であると捉えたい。何故なら、彼は最早、他者・人間社会から人間として認められない存在になったからである。それは、社会からの抹殺を意味し、実存の闇を意味する。彼は、最早、自分が何者であるかが分からないのみならず、何であるかが分からない。存在の闇を引っ掻きながら落ちてゆく存在なのだ。丁度、ハイデッガーのdaseinの最も昏い部分のように。
だが、若い人たちの感性は、ここ迄、シャイロックを追い詰めはしない。瑠璃色のスカーフに纏わる故事に絡めて、シャイロックを人間界に留めている。
役者では、シャイロックを演じた“小林 龍二”とランスロットを演じた“きえる”が気に入った。きえるは“目”が良い。
満足度★★★
シナリオのメタ化が必要
自分としては、もっと社会性や普遍性のあるシナリオか詩的なものが好みだ。
ネタバレBOX
時間軸をずらすということが、仕掛けとしてはメインなのだから、当然、空間もずれが意識されていなければならないはずだが、単に移動レベルで考えられているようである。この時間・空間を構造化し、メタ化できていれば、シナリオは遥かに面白く知的なものになっていたハズである。映画の話がたくさん出てくるが、映画の文法と舞台の文法は全然異なる部分も多い。この点に留意し、キチンと芝居の文法を確立して欲しいのである。
役者に関しては、丸山 正吾氏が気に入った。
満足度★★★★★
哲学的
Enbuゼミナールの中間劇場公演 Autumn Party 2014と銘打たれた本公演は、2本立て。(追記2014.11.12)
ネタバレBOX
「ふさ子」
こうじとふさ子はベンチに座ってデートの最中。ふさ子が、飲み物を買いに行っている間に、とんでもないことが始まっていた。ひとみは、こうじに気があったらしく彼の前にしゃがむと始めたのだ。彼女のテクニックは、とても凄く、こうじは、メロメロになってしまう。その現場に買い物から帰って来たふさ子。余りの事に、財布も買ってきた飲み物も取り落としてしまうが、どうにか気を取り直すと、ひとみとの対決に至る。然し、ふさ子は下手で、すぐこうじに拒否されてしまう。再び、ひとみの番になると、こうじは昇天しそうになる。が、彼女のポジションを占めていたふさ子がせがむので最後のチャンスを与えるが、彼女は、歯を当て、それが痛くてこうじは悶絶!
と下ネタから入ったが、無論、皆恥ずかしさなどから、セックスに纏わる作品は、オブラートに包んで出してくるのが、通常だ。Enbuゼミナールの公演は、その作品の多くが、真っ直ぐ事実を見つめる、という姿勢に裏打ちされているように思う。性は、煩悩の問題としても、種の維持にとっても、様々な倫理、風習、社会的規制や哲学・芸術にとっても極めて重大な問題である。一方、そうだからこそ、タブーであるという点も見逃せない。一見、下世話な風を装って、短い導入作品として「ふさ子」が演じられている構成も見逃せないのである。
「ベネディクトたち」
さて、「ふさ子」に導かれた今公演は、超人、ベネディクトの話に移る。今作は、ベネディクトという超人を尊敬したチェルフィッシュが、娘に語った話ということになっている。
チェルフィッシュは、若い頃、ビルの窓ふき清掃の仕事をしていた。そこで出会ったのが、ベネディクトと名乗る超人であった。ベネディクトは、その強いカリスマ性で関わる人間に大きな支配力を持つタイプの人間であったが、彼を崇拝する側は、自分を失う感覚に悩むのが常でもあった。つまり、崇拝者は同時に植民地化されたと感じていたわけである。
超人ならぬ彼ら、彼女らの至り着く先は皆同じ、ベネディクト殺害であった。先ず、最後に残ったベネディクトガールズ2人(シナモンアップル、ランラン)の共謀による不意打ち。然し、こんなものは、容易く打ち破られ、女達は、グーの音も出なかった。チェルフィッシュも、この為に長年鍛錬して来た結果を目にもの見せようと挑んだが、敢え無く返り討ち。おまけに、チェルフィッシュの彼女えんちゃんは、ベネディクトの魅力に魂を抜かれメロメロ状態にされてしまった。
業を煮やした襲撃者達にベネディクトは、「自分は、哀しみと同じようなものだ。皆が自分を乗り越えたいならば、哀しみを受け入れるように自分を受け入れ乗り越えて行くしかない」と正論をぶつ。然し、ベネディクトの魅力から身をもぎ離したい彼らは、頑として聞き入れない。何故なら、ベネディクトの魅力に取り付かれた彼らの願いは、彼を認めないことだったからである。為に、彼の正論は言い逃れ、詭弁、言い換えなどとしか反駁されず、「自分達に分かるように説明しろ」と強要される始末。だが、暴力的排除や殺害を除けば唯一の解決法は、ベネディクトの存在を皆が認めること以外にはない。そもそも、論理は、論理でしか越えられないことは、子供にも分かる道理である。而も多くの大人はこの事実を理解しない。仮に理解しているにしても実践しないで擬制に順応する。恰もそれが大人になることでもあるかのように。
まあ、こんな流れの中、ベネディクトの味方は、えんちゃんのみになっていたのだが、更に、彼を狙っている者が現れた。長年の修練虚しく、彼はベネディクトの強さを証明したに過ぎなかった。が、チャレンジャーは諦めきれない。業を煮やしたベネディクトは、超人としての力を見せつける。光を世界から奪ったのだ。流石の愚者達も彼の力に恐れ戦き逃げ去った。
再び独りっきりになってしまったベネディクトは、静寂の中に完成に近い音楽を聴き、タクトを振っていたが、ふと、気付いて仕舞う。自分こそ、最後のノイズだと。彼は姿を変えた。一本の大木に。5年後、チェルフィッシュが来て讃え、シナモンアップルと意気投合して結婚したものの、直ぐに別れた。その2年後、ランランが戻って来て大木を切り倒し、逮捕された。了。
満足度★★★★
面白真面目
宇宙開発は、現在我々ヒトが、直面する謎の最大のものの一つだろう。あとは深海と脳だろうか? 何れにせよ、地球上の生命を簡単に滅ぼしてしまうだけの技術を持ってしまった我々の将来と地球上の生命が掛かり、また、インセンティブの面でも多くの人を引き付けてやまないジャンルであると同時に、軍事利用が最も懸念されるジャンルでもある。歴史的にみれば、軍事の副産物としてその莫大な研究開発費が賄われてきた。そのことが、いかに大きな弊害を齎すか。シナリオを書いた岡田氏は、良くご存じだからこそ、国家と軍事を離れたプロジェクトとして描いているのだ。この視点は、宇宙開発の実体を知らないからではなく、良く知っているからこその願いなのである。面白真面目に面白い路線での作劇と観た。(追記2014.11.5)
ネタバレBOX
今作、シナリオ的には遊び要素を絞っている。科学的に正しいと考えられていることを余り崩せないし、岡田氏は、宇宙に関する本も書いている方だから、非科学的なことは書けない。この点が、喜劇としては足枷になった点は否めない。喜劇の難しさは、こういう点にもある。タッタタ探検組合は、喜劇の劇団で自分が最も好きな劇団の一つであるし、レベルも高い。これ程の劇団でも、ヒリヒリするような際どい笑いを満載することは至難の業である。だが、無論、そういう時には、他の面で工夫がある。今回は、舞台美術が、その部分を受け持った。兎に角、大道具、小道具に至るまで、舞台美術が素晴らしい。限られたスペースで同じ物をまるで別の物に見立ててしっくりくる。例えば火星に作られた基地をシュミレートする基地で、椅子として用いられていた物が、宇宙での無重力を表す場面では、カプセルのジェットノズルとして機能する場面などだ。後で、述べるが、ラストシーンも凄い。
また、シリアスなレベルでは、イスラエルの特殊部隊出身のメンバーが、喧嘩の仲裁に入って発する科白「お前は、命乞いして泣き叫ぶ女、子供を殺したことがあるか?」と現実にイスラエル兵士や特殊部隊が行っている国家テロを描いてもいる。宇宙開発が、軍主導である以上、当然、こういう人物が、実際には、選抜メンバーに入ってくる可能性は大だろう。だが、喜劇であるから、ランダムに選ばれたことになっている。それにしても、兵士は、まだましである。国際法にも違反し、人道的にも許されない入植者がパレスチナ人に対して行っているテロは、軍より非道である。そして、イスラエルのプロパガンダとテロ国家アメリカの支援により、どんなに相応しくとも、パレスチナ人が選ばれないであろうことを、今作は、メンバーに入れないことで示したと自分は解釈した。
ちょっと政治的になり過ぎたと言う読者も居るであろう。だが、世界人民の意志でなく、国家イデオロギーに洗脳された国民の意志で宇宙開発が為されるならば、人類などという夢想でしか成り立ちえない幻想の共同体が瓦解するのは日の目を見るより明らかである。其処には軍事の敵対があり、我々は何時でも核武装出来るからである。実際、被爆覚悟であれば、臨界量のウランなりプルトニウムなりを入手できれば、原爆は、大学の原子物理専攻の学生レベルで原理的には作れるだろう。あとは連鎖反応を起こす為の起爆力確保と核物質を閉じ込めておく容器の問題だけなのだから。今時、先進国でこれが出来ない国は無い。そして、これを世界中がやり始めたら、どんな馬鹿でも、世界の終わりを間近に実感するであろう。だが、そんな時には既に手遅れであることも確かであろう。
宇宙開発は、以上のような前提で行われている。アメリカは、既にレーガン時代に宇宙空間からレーザーを用いての軍事攻撃を考えていた。予算の関係もあって実現こそしなかったものの、今、宇宙物を演じる深い意味はこのような軍事的宇宙開発の危険に対して警告する意味があるのだ。観客には、其処をしっかり受け取って欲しいのである。
演劇の話に戻る。
ラストシーンでの屋台崩しである。これは見事、劇場のキャパを最大限に活かし、尚且つ臨場感と共に観客に今作のスケールの大きさを感じさせる。
最後に、もう一度言っておく。今作のメッセージが“国家と軍事を離れたプロジェクト”として提起されているのだということの意味を!!
満足度★★★★
アリスの立体捏造
今回も、昨年の「女子大生100年日記」で演出を担当した3人の演出家の1人、横田 修氏が演出を担当。ルイスキャロル原作のデタラメを、立体的に捏造することを目指して作劇されている。
チケットがユニークだ。ビー玉かおはじき、どちらかを選ぶことができる。詩的でお洒落ではないか?
物語は大学の演劇研究会を中心に展開するが、無論、ここには、アリスの不思議な世界が、仕込まれている。現在、劇研は2つの派閥に分かれている。アリス派とりんりん派だ。とはいえ状況に応じて、適宜協同もしてはいる。最上級生は、もう直ぐ卒業してしまう。次期部長(テッペン)の座をを目指して切磋琢磨する下級生たちだが、本命はアリスの妹だ、という通常の物語の流れが一つ。
だが、本作で注目すべき点は、他にある。一旦、キャロルの論理を解体した後で、再構成してあるのだ。それは、時間の不可逆性を廃し、時間の不可逆性に干渉することである。ではそれは、具体的には、どう行われているのか?(追記後送)
満足度★★★★
スカしてチャラついて!
シナリオが説明過多という印象を持ったが、その視座は揺るぎなく、主張には道理がある。例によって政府の掛け声は威勢が良い。
ネタバレBOX
舞台が設定されている昭和32年(1957年)には、既に戦後ではない、ト宣ウ。極楽蜻蛉しかいないのだから、当然と言えば当然。尻拭いは、常に弱者である民衆に回される以上、為政者はふんぞり返って、貴腐ワインにうつつを抜かし、秘密のベールに守られながら、色と時化込む算段をつけ、払いは、自分を担ぐ連中に回して、後は、寄らしむべし、知らしむべからず、でやっておれば、痛くも痒くもない生活を送れる。
ところで、このスカチャラ横町の住人たちはそうではない。戦後は終わっていないどころか、近いうちに道路の拡張で追い出されるのだ。
満足度★★★★
難題
実際に起こった事件をもとに作られた作品。序盤、履き物などに若干、不自然な感じがあったり、最近、若い人達が良く入れるダンスが、何の必然性もなく入ってきたりしたが、中盤以降は、見違えるように良くなった。(追記2014.11.13)
ネタバレBOX
娘を惨殺された父は、殺した少年たちを許すことができない。彼の時は、15年前、彼女の惨殺遺体が発見された時から止まってしまった。以降、妻とも別れ、稼げる会社を立ち上げて復讐資金を稼ぎに走った。収入は以前の4倍になった。だが、心の傷は、相変わらず。15年の時が経ち、主犯格も出所。父は、主犯に娘が味わったと同じ地獄を味あわせようと、彼を追う。事件を知る者達からデータを集め、終に彼の居場所を突き止めた。だが、主犯も、付き合う女ができ、彼女は身籠っていた。
丁度その頃、亡くなった娘に瓜二つの娘に会う。彼女は父の話を聞き一緒に行動を取ることにした。先ずは関係者が集まった飲み会に合流。殺された娘と関わりながら、助けなかったばかりか、無理やりさせられていた売春の客になったり、ヌード写真をばら撒いて犯罪に加担していた2人を味方につけて、その場に居なかった主犯をスタンガンを使って拉致させた。そして父親の借りたスタジオの地下室に幽閉。椅子に縛りつけた上で復讐の始まりである。然し乍ら、娘がやられたことと同じことを実行することは父にはできなかった。
結局、飲み会に参加していた連中を含めて、過去に犯罪を犯した者が、生き、今後人並みの幸せを手に入れて良いか否かの採決をとろうとするが、答えは容易に出ない。そこへ、娘そっくりの少女が提案を出す。彼女は、殺された娘の父親との間に、娘そっくりの娘を作ると言う。父親は年をとっているから結婚はしなくても良い。唯、娘と自分に瓜二つの娘が生まれたら、一義的に生まれた娘の面倒を見るのは、主犯とその妻になった女。そして、犯罪に関わった者達は、学用品や机等をプレゼントする義務を負うことで側面援助するというもので、これで新たに人の命が奪われることはなくなり、犯人達にも、償いの機会が与えられた。父はまだ迷っていたが、迷いに迷った挙句、少しずつ、犯人が生きてゆくに必要な要件を認めてゆく。決して許した訳ではないが、犯人も生命の灯をともし続けられるよう、幽かな希望の灯を灯したのである。
無論、最後の場面で観客は救われた気分になる。誰しも、殺人は、気分の良いものではあるまいから。
満足度★★★★★
バッチグー
着眼点の面白さに十人十色の性格描写を溶け込ませた作りは見事。(追記2014.11.12)
ネタバレBOX
欠けた林檎マークの新発売製品は、唯でさえ秘密主義のこの会社 にあってさえ、今迄無かったほどの秘密主義は、マニアを更に熱狂の渦に巻き込んだ。新製品をゲットする為に集まった10人。愛フォンブースという名称とサイズのみが明示されたが、スペックや値段、特性など、顧客が通常購入の際に必要とする情報は、伏せられたままである。而もこのメーカー、情報を秘匿すること、センスの良さ及び発想の奇抜で、ユーザーの疑心暗鬼を煽り巧みに誘導して、購買衝動をエスカレートさせる。その上で、飢餓感や品薄感を用いて虜にするという高等テクニックに長けている。集まった人間の殆どが、それらを重々承知の上で集まっているのだが、その他の人々も排除しないのが、今作にことよせて上手さを見せるフルタ丸の力である。具体例を挙げよう。10人の内、1人だけ、マニアで無いどころか携帯さえ持っていない主婦が紛れ込んでいるのである。
彼女は、何故、此処にやってきたのか? ちょっと前まで、ママ友も、互いに回覧や固定電話によって連絡を取り合っていたのだが、携帯・Iフォンの普及によって皆ラインで繋がるようになり、これらの機器を持たないこの母子は、仲間はずれにされ馬鹿にされてしまった。それを見返す為に、此処に並んでいるのである。この辺り、こういうキャラを持ち込むシナリオの上手さ、現代文明批評の鋭さは、流石にフルタ丸である。
ところで、1番は中村という名の男。2番はジュエルというハンドルネームのこの業界では名の売れた男。矢鱈、知ったかぶり&仕切りたがり屋でプレシオジテ臭フンプンの都会人を装った田舎者である。おまけに、新製品だから過去製品から類推することも難しい。発売される個数も不明な為、並んだ順番が重要になる可能性もある。そんな訳で、順番を買う者迄現れた。然し、必ずしも順番が総てに優先するという保証もない。
こんな何もかも分からない状況で、煽られるだけ期待は煽られた。その結果現れるのは、其々の人間が持っているエゴである。このエゴのぶつかり合いこそ、今作の描こうとするものであることは言う迄もない。
ところで、最後に落ちがある。順番を買ったり、大事な所で、ちょっと言葉を挟んで直前に発した言葉に何食わぬ顔をして責任を取らせてきた男は、スタッフであった。一種のスパイである。こんなことまでシナリオに織り込む所が、この劇団の作家の鋭い所である。綿密な計算を意識させない出来なのだ。本物である。