ヴェニスの商人 [Kingdom Come] 公演情報 獣の仕業「ヴェニスの商人 [Kingdom Come]」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    Who am I?からWhat am I?へ
    Who am I? この科白がシャイロックの口から何度も発語される。(英語表現ならばこうなる所だろうか)彼は、キリスト教徒同様、呼吸もすれば、息も吐く。同様に病にも罹れば、同じ薬で治癒もする。怪我をすれば赤い血を流すことも同様だ。呼吸をするにしても、皆と同じ空気を吸い、吐き出しているのに、吸って居る空気は、誰をも区別しはせずに、与えてくれるのに。何故、自分達は、謂われなく唾を吐き掛けられ、訳もなく蹴飛ばされ、罵声を浴びせられても黙って耐えていなければならないのか? Who am I? という問い掛けは深刻である。(追記2014.11.5)

    ネタバレBOX

     ところで、シェイクスピアのこの作品が、初めて出版されたのは、1600年だという。当時、今作は喜劇として扱われていたのだとか。だが、今回、構成・演出を担った立夏さんの解釈は、悲劇を越えた悲劇としての喜劇だとか、コインの裏表としての悲劇と喜劇ではなく、寧ろ綯い交ぜになった悲喜劇とも称し得るものを描こうとしている。シャイロックを中心に据えることによって。この試みはほぼ成功している。シェイクスピアの作品を良く読み込んだ上で、現代日本を生きる若い感性のレベルから、真摯な再構成が為されている。この点を先ずは評価したい
     さて、では、綯い交ぜになった視点からは、1600年当時、何故、この作品が喜劇に分類されていたか? に対する答えは明確に出せるだろうか? 出せないだろうと思う。綯い交ぜと自分は書いたが、リーフレットの表現では、コインの片側に悲劇がその裏側には喜劇があって、コインを回転させて倒れた時、どちらの面を見せているかで悲劇、喜劇が決定されるのではないか? と問い掛けている。ということは、喜劇になるか悲劇になるかは、偶然に支配されるということだろう。だが、自分はそのようには捉えない。当時、「ヴェニスの商人」が喜劇と捉えられていたのは、ユダヤ人差別は社会的問題として扱われていなかったことを意味するだろう。即ち、問題化されることすらないほど、ユダヤ人差別は自明のことだったと考える。
     閑話休題。そうは言っても、獣の仕業という集団は、その根底に未だアモルフではあるものの、確かな違和感を持ち合わせていると考える。だからこそ、通常の解釈をせず、シャイロックを主人公としたのであり、彼の見た、世界。彼に関わる世界と彼の実存を鋭く抉ることに成功しているのである。差別は、差別される者のアイデンティティーを多重化したり、極端な場合には破戒する。
     シャイロックがWho am I? と問うている間は、彼のアイデンティティが幾重にも重層化される過程である。だが、自分は、彼の最後の問いは、What am I? であると捉えたい。何故なら、彼は最早、他者・人間社会から人間として認められない存在になったからである。それは、社会からの抹殺を意味し、実存の闇を意味する。彼は、最早、自分が何者であるかが分からないのみならず、何であるかが分からない。存在の闇を引っ掻きながら落ちてゆく存在なのだ。丁度、ハイデッガーのdaseinの最も昏い部分のように。
     だが、若い人たちの感性は、ここ迄、シャイロックを追い詰めはしない。瑠璃色のスカーフに纏わる故事に絡めて、シャイロックを人間界に留めている。
     役者では、シャイロックを演じた“小林 龍二”とランスロットを演じた“きえる”が気に入った。きえるは“目”が良い。

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    2014/11/04 01:52

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  • 立夏さま
     創作者としての真摯な態度が素敵ですね。今回の舞台は日程の都合がつかず拝見できなくて
    頗る残念なので一昨日、立夏さんのプロフィールを拝見し、そこから、シナリオをアップなさっていることを知り、お気に入りに加えてあります。今回の作品をせめてシナリオだけでも拝見しておきたいと思っていますのでアップされたら拝見し、自分の感想をお知らせすることになるかもしれません。何れにせよ、お互い創造する者として自らを磨いて参りましょう。今後ともよろしくお願いします。
     一つだけ、老婆心から申し上げておいたほうがよさそうなので。入力後、一応、見直して送信なさった方がベターではあります。どうしても入力ミスや変換ミスがありますから。これは自分も時間の許す限り、自分に科していることでもあります。
     メッセージ有難うございました。
                                                  ハンダラ拝

    2015/12/03 03:42

    ハンダラ様

     お世話になっております。獣の仕業主宰の立夏です。
     ご来場および観てきた!コメントご記入くださり、誠にありがとうございます。
     公演直後にコメント拝見し、大きな創作の糧になりました。
     また、劇場でも興味深いお話しをお聞かせ下さり、誠にありがとうございました。

     メンバー一同、心より御礼申し上げます。

     ヴェニスの商人に関する獣の仕業のアプローチは、ハンダラ様の書いて下さったとおりです。つまり、「なぜこれが喜劇なのだろうか?(そうではないだろう)」というアンチテーゼから創作を開始したのです。その試みを実践に移した上演後は、「これを喜劇として上演するにはどうすればいいだろうか?」と言うことに思いがお呼び始めました。

     その後調べたり友人に話を聞いたところによると
     ヴェニスの商人の「喜劇としてのおもしろみ」は:
     ・ユダヤ教の法律である「同胞には利子をつけて金を貸してはならない」をキリスト教であるアントニオが守っていること(劇中に「俺は友人に利子をつけて貸さないんだ」などの発言がある)
     ・ジェシカが駆け落ちをした後、シャイロックが「仕返しをすることはあなたたち(キリスト教徒)が教えてくれたんじゃないか」と発言すること(= ユダヤ教徒がキリスト教徒の振る舞いをする)
     → その結果、キリスト教徒に改宗させられ名実共にキリスト教徒になってしまう

     などであることが勉強させて頂きました。
     ただ、分かったところで即喜劇作品として創作できる素地が整ったかと言うとまたそれは別の話なのですが…。
     たとえば上記のような「キリスト教徒的ふるまい」と「ユダヤ教徒的ふるまい」をハッキリと舞台上で分けて表現して、シャッフルしたらブラックジョークにはできるだろうか、など考えています。「アンチ喜劇」としての上演は元々のもくろみをほぼ達成できているだろうと思っているので、もし危害があれば、喜劇としての上演にもチャレンジしてみたいと思っております。

     ハンダラ様の書かれている「存在の闇を引っ掻きながら落ちてゆく存在なのだ。」という記述がはじめて拝見したときから今でもずっと心に残っています。
     喜劇としての上演意欲と同様に、より乾いた・人間意識の外側(または境界)をゆくような手触りでの上演─こちらも高い目標として掲げていきたいと感じています。

     また、「What am I?」については、自分たちが表現したかったことを、最も端的に表現してくださり、大変嬉しく思いました。創作している過程ではご指摘の通り綯い交ぜの状態だったものですから…。ハンダラ様からそのようにお言葉をいただいて、自分の頭の中がよりクリアになったように思います。

     改めまして、ありがとうございました。ハンダラ様のご感想を拝見して、批評は単なる作品へのリアクションだけではなくひとつの表現なのだということを改めて思いました。至らない点・及ばなかった点はこれからも弛まず精進させていただきます。

     #
     もしよろしければ、また劇場でお会いできることを心よりお待ちしております。
     今月、オリジナル新作を発表いたします。
     よろしければ、公演詳細だけでも、ご覧いただければ幸いです。

    http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_id=68483

    2015/12/02 01:30

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