満足度★★★★
劇作家が演じる劇作家
葛藤する劇作家達を、役者であり劇作家である役者さん達が演じる。その心はいかほどであるか想像はつかないけれど、その物語の行く末を胸を痛めながら見守りました。無国籍感や、時代不明瞭なあたりは昨年の公演「生きると生きないのあいだ」と通じる世界観。しかしその前作があまりに鮮烈で、それを覚えている身としては今回少し惜しい気がしました。
満足度★★★★★
ズタズタに愛したいという衝動
とても面白かった。舞台から受けたエネルギーで身体の中のあちこちがあたたまったり固くなったりしていくのを感じながら、この面白さを言葉で説明することが非常に困難であると気付いた。
役者たちが期待していたよりもずっとずっとのびやかで、とてもよかった。
時折、堀越涼と末原拓馬が、互いが互いの鏡のように、堀越涼が末原拓馬に見えたり、その逆に末原拓馬が堀越涼に見えたりしたんだが、あれはなんだったのだろう。続けて言えば、堀越涼が岡田あがさに見えたりもした。隅々まで探せば、もっと見つかるのかもしれない。
見た目が似ている、ということではない。呼吸もそれぞれに違うし、瞬きだってバラバラだ。私が見たこの鏡は、一体何を同じであると感じたものなのだろう。この感覚は他の作品では味わったことがないので、原因の見当が全くつかない。
劇場に通い続けると、たまにこういうとんでもない作品に出会うから、観劇はやめられない。
満足度★★★★
役者の演技に身を委ねて分かる奥深さ
10/26夜、吉祥寺シアターで上演されたティーファクトリー公演『ドラマ・ドクター』を観てきた。
この舞台を観に行くことにしたきっかけは、出演者の中に女優・岡田あがさがいたから。数年前、東京国際映画祭に参加した映画『死神ターニャ』を観たことがあった。この映画にデビュー以来応援している役者が出演していた関係からだったのだが、映画の中で妙に存在感のある女優がいた。それが岡田あがさだった。彼女の存在を知った自分は、映画ではなく舞台での彼女の演技を観たくなり、今回ようやくその思いが実現したというわけだ。
出かける前にネットでこの舞台の口コミ評を観たのだが、どうも不評のようであったが、実際に観終わった直後にTwitterに投稿した自分の一口感想は、「舞台は、ネットの口コミ批評ではあまり評判がよくなかったけれど、それはこの舞台に感動をもとめたからだろう。そうではなく、ここで観客は感心と関心を求められていたように思う」と書いた。ちょっと難しい感想なのだが、実際に観ていただくとこの意味する所が何となくではあるがわかっていただけると思う。
ドラマ・ドクター
「ひとはなぜ物語をひつようとするのか」必要だとして、それは映画でもドラマでも小説でもいいのではないか?しかしここでは「物語」とはあくまでも戯曲と舞台のようです。戯曲の頭にはあんなふうにモノローグがついているものなのでしょうか?舞台が始まる時にそんな説明とか無いと思いましたが。自分を守るため?正当化するため?慰めるため?に物語がひつようなのは劇作家たちらしい。
満足度★★★★★
意外なことに私の感想は「面白かったー!!」
劇作家の役を劇作家が演じる。「興味深い」とは思っていたけれど実態はつかめず「ブラック・コメディ」?!
冒頭は笑えそうな雰囲気じゃなかった。そんな中、「えっ?この人がこんなことするの?」なシーン。ちょっと笑っちゃいそうだけど、周り誰も笑わない。
後でその行動の違和感も納得出来ると「笑ってよかったのかも」。
その後笑えるシーンがやって来る。
かなり笑った。でもそれがメインではない。
パラレル・ワールドでもあり、ブラック・ファンタジーでもあり、社会派的な面もある。
そして意外なことに相当心を揺さぶられた。いわゆる「感動もの」ではないのにこんなに心が揺れるって、自分のそういう反応も面白かった。
とにかく一口に言って面白かった。
笑える面白さと、考える面白さと、感じる面白さ満喫!
きっと何度観ても飽きない作品だろうな。
満足度★★★★★
T-Factory:「ドラマ・ドクター」
2015.10.24 昼下がりの吉祥寺シアターの扉の中、T-Factory:「ドラマ・ドクター」 の幕が上がり広がるのは、どこかの国のどこかの町の穴蔵のような書斎。
書斎の真ん中に置かれた机に向かい、ペンを走らせるのは、ドラマ・ドクターと呼ばれる男。
男は、アスラムという男と一緒にいるようだ。そのドラマ・ドクターのもとに訪れたのは、人気劇作家のヘンリーとライバルのトニー。
伊藤克さん演じるプロデューサー、ヘルマン・プレミンジャーに、「どこにもない物語」の共同執筆を依頼されるが、そこに二人の学生時代の同期の女優サラも加えられ、物語と格闘する劇作家たちは、やがて現実と物語の境を失くして行く、その先にあるものとは?
「物語」は、提供する者と享受する者とがいて初めて成立する。
「物語」を綴っている間、作家によって確かに物語は動き、生きている。しかし、書き上げられた時点で、物語は止まる。
読者や視聴者が「物語」を、読み、見る事により、「物語」は、再び動き始め、息をし、生き始める。
人はなぜ物語を必要とし、書き手はなぜ、物語を書かずにはいられないのか?受け手にも書き手にも、一人一人の物語が存在する。
この春、10歳の頃からの願いであった、初めて依頼され対価を貰って物を書くという、仕事の一歩を踏み始めた私が、当時から今に至るまで、事あるごとに自分に問いかけてきた、「なぜ、書くのか」「何を書くのか、何を書きたいのか?」「書かずにいられないのはなぜなのか?」その問とこの舞台のテーマは重なる。
末原拓馬さんのヘンリーは、常に求められるものを書き、 ヒットさせることを求められ続け、すぐに内容は忘れられる物語を書き続けることに倦み、不安に似た恐れを内に隠し持ち目を逸らそうとする自分に気づいている人気劇作家としての自分と、その座から落ちないために、「どこにもない物語」を書こうとして、それが何なのか、自分が本当に書きたいものは何なのかが混沌として、見失う人気劇作家のもがきと葛藤と苦慮がその視線のひとつ、瞳の表情、指先の震え、声の色、言葉の一語一語に感じた。
作家には大きく2つのタイプがいる。自分のトラウマを「物語」に紡ぎ、昇華しようとする作家としない作家。
堀越涼さんのトニーは、トラウマを「物語」にする劇作家。ヘンリーのようにヒットはするが直ぐに内容を忘れられてしまうありきたりの物語ではなく、個性的で忘れられない物語は書くが、あまりに個性的で暗い話故に、受け入れら難い劇作家の焦りと葛藤、ヘンリーへの苛立ちと羨望を感じさせた。
岡田あがささんのサラは、自分の罪を許せない故に、その罪を人の事にして「物語」にすることで、告白し許されようとしたのかと問われれば、それだけではないような気がする。ただ、ヘンリーとトニーを中和し融合させるというか、繋ぐ役割としての存在なだろうか?
笠木誠さんのアスラムは、ドクターの分身なのか?ドクターとアスラムは、表裏一体なのか?
河原雅彦さんのドクターによって、ふたりに投げ掛けられる問いは、自らに課された問いではないのか?彼は、なぜドラマ・ドクターになったのか?その答えが明らかになる時、ドクターのいる穴蔵のような書斎の扉が外の世界へと壊されるのだとしたら?
「人はなぜ物語を必要とするのか?」それは、なぜ、彼らは「物語を書こうとするのか?書かずにはいられないのか?」という問と表裏一体ということなのではないのか。
真っ暗な長い長い道の先に、仄かな光が見えた時、それが答えの見えた時であり、答えが見えた時、光が見えるのではないだろうか。
その光を求めて、彼らは「物語」を書き続け、人は「物語」を必要とするのではないのだろうか。
文:麻美 雪
満足度★★
最後まで“蚊帳の外”感が拭えず/約105分
“人間にとって物語とは何か?”という大きなテーマを扱っているのだろうが、劇作家とドラマドクター、あるいは劇作家同士の観念的なやり取りにほぼ終始し、“その世界の内輪話”といった印象が否みがたく、劇作と無縁な私はずっと“蚊帳の外”感を抱きつつ鑑賞。
お話作りのプロである劇作家を、桃太郎ほかの物語を集合知によって作ってきた“偉大なドラマメーカー”たる人類の尖兵的な存在として、すなわち我々と地続きの存在として描いてくれれば、もっと当事者意識を持って鑑賞でき、より惹きつけられたかも。
だのに本作、劇作家というものを、我々とは別世界に住む異人種であるかのように描きすぎている。
ゆえに遠く感じられて感情移入がしづらいのだ。