満足度★★★★★
T-Factory:「ドラマ・ドクター」
2015.10.24 昼下がりの吉祥寺シアターの扉の中、T-Factory:「ドラマ・ドクター」 の幕が上がり広がるのは、どこかの国のどこかの町の穴蔵のような書斎。
書斎の真ん中に置かれた机に向かい、ペンを走らせるのは、ドラマ・ドクターと呼ばれる男。
男は、アスラムという男と一緒にいるようだ。そのドラマ・ドクターのもとに訪れたのは、人気劇作家のヘンリーとライバルのトニー。
伊藤克さん演じるプロデューサー、ヘルマン・プレミンジャーに、「どこにもない物語」の共同執筆を依頼されるが、そこに二人の学生時代の同期の女優サラも加えられ、物語と格闘する劇作家たちは、やがて現実と物語の境を失くして行く、その先にあるものとは?
「物語」は、提供する者と享受する者とがいて初めて成立する。
「物語」を綴っている間、作家によって確かに物語は動き、生きている。しかし、書き上げられた時点で、物語は止まる。
読者や視聴者が「物語」を、読み、見る事により、「物語」は、再び動き始め、息をし、生き始める。
人はなぜ物語を必要とし、書き手はなぜ、物語を書かずにはいられないのか?受け手にも書き手にも、一人一人の物語が存在する。
この春、10歳の頃からの願いであった、初めて依頼され対価を貰って物を書くという、仕事の一歩を踏み始めた私が、当時から今に至るまで、事あるごとに自分に問いかけてきた、「なぜ、書くのか」「何を書くのか、何を書きたいのか?」「書かずにいられないのはなぜなのか?」その問とこの舞台のテーマは重なる。
末原拓馬さんのヘンリーは、常に求められるものを書き、 ヒットさせることを求められ続け、すぐに内容は忘れられる物語を書き続けることに倦み、不安に似た恐れを内に隠し持ち目を逸らそうとする自分に気づいている人気劇作家としての自分と、その座から落ちないために、「どこにもない物語」を書こうとして、それが何なのか、自分が本当に書きたいものは何なのかが混沌として、見失う人気劇作家のもがきと葛藤と苦慮がその視線のひとつ、瞳の表情、指先の震え、声の色、言葉の一語一語に感じた。
作家には大きく2つのタイプがいる。自分のトラウマを「物語」に紡ぎ、昇華しようとする作家としない作家。
堀越涼さんのトニーは、トラウマを「物語」にする劇作家。ヘンリーのようにヒットはするが直ぐに内容を忘れられてしまうありきたりの物語ではなく、個性的で忘れられない物語は書くが、あまりに個性的で暗い話故に、受け入れら難い劇作家の焦りと葛藤、ヘンリーへの苛立ちと羨望を感じさせた。
岡田あがささんのサラは、自分の罪を許せない故に、その罪を人の事にして「物語」にすることで、告白し許されようとしたのかと問われれば、それだけではないような気がする。ただ、ヘンリーとトニーを中和し融合させるというか、繋ぐ役割としての存在なだろうか?
笠木誠さんのアスラムは、ドクターの分身なのか?ドクターとアスラムは、表裏一体なのか?
河原雅彦さんのドクターによって、ふたりに投げ掛けられる問いは、自らに課された問いではないのか?彼は、なぜドラマ・ドクターになったのか?その答えが明らかになる時、ドクターのいる穴蔵のような書斎の扉が外の世界へと壊されるのだとしたら?
「人はなぜ物語を必要とするのか?」それは、なぜ、彼らは「物語を書こうとするのか?書かずにはいられないのか?」という問と表裏一体ということなのではないのか。
真っ暗な長い長い道の先に、仄かな光が見えた時、それが答えの見えた時であり、答えが見えた時、光が見えるのではないだろうか。
その光を求めて、彼らは「物語」を書き続け、人は「物語」を必要とするのではないのだろうか。
文:麻美 雪