各団体の採点
何年も前だが、寺町通で大雨に降られたことがある。京都のライブハウスに行くのに、夜まで時間をひとりでつぶさないといけない時だった。昔ながらの喫茶店、老舗文房具店、衣料品店などの並ぶアーケードで雨宿りした記憶が、この『TERAMACHI』を観ながら思い起こされた。
柿喰う客から客演している永島敬三の身体には目をみはる。柿喰う客の俳優の中で、実は今いちばん好きかもしれない……ということを思った。それくらい、身体が雄弁であり、撃ち抜かれた。雄弁というのは、暗闇の中にぼうっと立っていても、それが永島敬三だということが瞬時にわかるという意味だ。個人の持つ物語が漏れだし、強い引力を形成している。中川絢音もよい。着物のかたちをした衣装を、身体の延長上にあるものとして見事に振り回していた。着慣れない形の衣装というのは難しい。踊りながら衣装に身のこなしを制約されていなかったと特に言えるのは、先述の二名と北尾亘だったように思う。
全体をとおして観た時に、女性の踊りは勇壮であり、男性はたおやかに見えた。重心を落とした独特の「土着的身体性」(北尾がBaobabで実現しようとしている身体である)の振り付けがそう見せるのだろう。
ただ、作品全体を京都の「どこ」に働きかけるか、もっと言うならどのコミュニティに向けたものなのかに自覚的であってほしい。「京都的」なるものの距離感のうまさは十分に、冒頭から示されている。ダンサーふたりが開演を待つ様子を演じながら、京都弁でちょいちょいやり合うのだ。まず道で出会ったふたりのすれ違い方がよい。顔を見合わせ、微笑んで互いに同じタイミングでマリー・アントワネットのような優雅な会釈をする。その様子がたまらなく私の中の「京都」のイメージと合致し、わくわくするような始まりだった。
しかし、この作品を京都に持っていって上演するとして、たとえば通り一本違っても、コミュニティ同士微妙かつ絶妙な距離感があるだろうし(それが京都という街だろう)その中で、寺町通というモチーフが東京都三鷹市で上演された時とどのように異なってくるのか、構成の上で練ったものをまた観てみたい。
ベタベタの「エンターテインメント」でもなく、情動を前面に押し出す「感情表現」でもない、ダンスで情景をつくり、身体と情景との隙間も見せる、その手法がうまくハマっていたと思います。寺町通りの白日夢(?)を語るくだりは特に印象的で、この作品のテーマをうまく伝えていたのではないでしょうか。冒頭の仕掛けも、決して珍しくはありませんが、この方法、テーマなら、観客も共に「巻き込まれる」面白さがありますよね。
テキスト(せりふ)や音楽(特に歌詞のあるもの)の使い方、美術や照明も含めたシーンの作り方には、まだ考える余地がありそうですが、それらもすべて「可能性」だとさえ感じます。小さな実験、遊戯性に拘泥するのではなく、舞台の上に「世界」を立ち上げようという、近年のコンテンポラリーダンスでは(たぶん)珍しい気概にも、打たれるものがありました。
弾力のある動きも魅力的で、このアーティスト、集団の「思い切りの良さ」を見せつけられた気もします。
京都の寺町通をテーマにしたコンテンポラリー・ダンス作品でした。提灯が吊下がっている和のムードの劇場で、着物と現代服を融合させた衣装をまとった若いダンサーが踊ります。大人数で動きをそろえるシーンのコンビネーションの面白さが特に印象に残りました。ソロや少人数のシーンでは体の形や動きの特徴などをつぶさに観察して、人間一人ひとりを味わいました。
歌舞伎の振付や文楽の手法などを取り入れ、セリフを話したりマイクを使って歌ったりする演劇的な部分も多くあり、楽しみながらチャレンジしているようでした。若者が心身を使って真剣に日本のルーツを探ると同時に、自分たちの今も突き詰めて、その成果が活かされていることに好感を持ちました。
外国人観光客や地元の商店街の店員、お寺のお坊さんなどが登場して、京都の風景を軽やかにコラージュしていきます。私は寺町通のことは全く知らないのですが、舞台上で迷いなく動く人々を見て、描かれているのは紛れもない寺町通なのだと信じられました。
下手袖に設置されたスタンド式の照明が、上手方向に向かってほぼ真横から舞台を照らしていました。客席から照明器具が見えているのは、もしかしたら配置ミスなのかしらと何度か考えました。もし意図的だったのなら、俳優が照明を触る動作をするなどの工夫があるといいんじゃないかと思いました。
緻密な動きが美しくて見とれたのは岡本優さん。振付・構成・演出の北尾亘さんの、意図と動きが一致していてブレない姿も目を引きました。
個人的には踊りという表現は嫌いではない。具体的にしてしまうとこぼれていってしまうものを、なるべく自分の思う形で昇華させたいという気持ちは応援したい。だが、それを「趣味」の次元ではなく、見ず知らずの誰かを感動させることが「プロ」であり、もしそこを目指すなら、もっともっと努力が必要だろう。ただ、一人ひとりのダンサーのレベルはすごく高かったと思う。
ダンス公演というより演劇としても楽しめた。
舞台空間から京都の街が浮かび上がり、何より北尾亘がその街を愛しているのだなということが伝わってきた。随所にセンスを感じ、一人一人のダンサーに魅力を感じた。途中まで観て、北尾亘の振り付けは舞台上でダンサー(あるいは役者)がきらめく瞬間を見たいのだなとわかった。
私は残念ながら京都の寺町に行ったことがないのだが、この公演を通じてとても興味が湧き、実はこの夏、行ってこようと思っている。それを感じさせる力がこの作品には確かにあった。