各団体の採点
他者の不在を描いているというより、身の回りに「他者」がいない鬱屈と不安を、作者が作品にぶつけているかのようである。中国人従業員を下に見てバカにするような場面も、単に、見知らぬ者の象徴の「外国人労働者」であり、そこから醸される得体の知れなさは、決してその「他者」からは脅かされない、安全地帯からの考察に思える。安全地帯とは、中立地帯という意味である。西尾佳織の創作における「フェアな精神」が彼女自身をその場所に立たせている。
もう少し説明する。緑子が途中で出て来るということは、緑子自身がほかの登場人物ひとりひとりと等価な存在感であるということだ。この作品は、三人をもってして、緑子の不在を埋める(そして埋まらない)ことを目指していたのではないか。その点で致命的である。物語として、「かつての緑子」、「周囲の人たちが語る緑子」を呼び起こすための語り(謎そのもの)が移動していく範囲は、定めなければならない。
恐らく西尾佳織は、「差別」「嫌悪」といった、抽象的な巨大な「悪」そのものを考え、向き合い、対決しようとしている。その「賢さ」に基づく「平等さ」が彼女の邪魔をしている。かといって、意地悪で狭小になっても作品は広がらない。だからこれを観ていて苦しく感じたのは、彼女の視野の狭さのためではなく、悪を許さぬ「心の狭さ」が出ていたからだ。それはよくない。
公平さについて、もう一つ例を挙げる。物語は生々しく、熊の肝などグロテスクなモチーフを使って語られ、それはわたしを不穏な気持ちにさせた。しかしそれはモチーフそのものの気持ち悪さではなく、エピソードにおいて倫理観のストッパーがないことから来る不穏さであった。女性が、蟻の行列を殺したくなってしまうと語ること、肝を取られる熊の親があまりのつらさに小熊を殺そうとするその光景。機械で切り落とされた男の指が飛んで餃子に練り込まれ、販売されたそれを誰かが食べたかもしれない、という事実には、その重みを支えるだけの「底」が無い。他者に対する「許せなさ」は持っているのに、行動を支える倫理観の「縛り」がないことが、西尾佳織の今の寄る辺無さにつながっているのであれば不幸なことである。
極力、文学的修辞や比喩を少なくして淡々と書かれたテクストは、深みが足りないのでわたしは包み込まれなかった。問題意識の大きさに、言葉が追いついていない。昨年、『蒸発』で描かれた、他人への妄想にも似た思いが相手を形づくり、ゆっくりこちら側を浸食してくるような恐ろしさは健在だ。語り口が移り変わってゆく様子、シーンの構成、それらが指し示す演劇的な構造は素晴らしく、その巧みさは疑う余地はない。
先ほどの「公平さ」の話と通じることではあるが、嫌悪感、疎外感そのものに迫ろうとするあまり、抽象的な空回りに陥ってしまいそうな危うさがある。他の人にとって「嫌なこと」かもしれないが西尾佳織にとっての「嫌なこと」に触れていないのではないか。もっと言うなら「本当は嫌なんだけど書きたいこと、つい書いてしまうこと」が作家として足りない。世の中の悪の仕組みを見つめるだけでなく、自分が何を嫌悪しているか、疎外しているのか、もっと強く見つめてほしい。そして、もしこの先の深淵に彼女が本当に辿り着こうとするのであれば、何よりも必要なのは精緻で美しい言葉である。嫌なことを人に聞いてもらうには美しい言葉が必要だからだ。美しさは構造を支える。演劇作品の構造に負けないテクストが書かれていくことを私は望むし、応援する。
一枚の絵に書込まれた「視線」のズレを起点に、今はもういない「緑子」の存在/不在が語られます。さまざまな人物、さまざまな側面から語られる「緑子」は、元は学校の教室であった今回の舞台の設計(白い壁に囲まれた空間に裏通路や切り穴、顔を出せる窓などが設置されている)とも相まって、徐々に(不在にも関わらず)その存在感を増していきます。一見、淡々としたテキストの中にも、ドキリとする生々しさが隠されていたり。やや、(空間の)仕掛けが先行した感もありますが、知的な考察と生理を揺さぶる感性を併せ持った、たくさんの可能性を秘めた公演だったと思います。
美術も現代口語の淡々とした語りも、どこかサラリとして洗練されていますが、特に対話のシーンでは、多少ベタな抑揚があっても、面白かったかもしれません。
学校の教室の壁が白く塗られていました。床には白いカーペットが敷かれており、学校によくある金属製の脚と木を使ったイス数脚と、よく似た素材のテーブルが置かれています。客席は演技スペースをL字型に囲むスタイル。質素だけれど、そぎ落とされたおしゃれ感のある空間でした。そこに洗練されたカジュアル・ルックの若者3人(男性2人、女性1人)が登場します。役者さんが若者らしい現代口語を話し、複数人をシームレスに演じていくのはチェルフィッチュの『三月の5日間』に似ていました。
今どきのごく普通のおしゃべりから、緑子という若い女性の育ちや性格、友人・恋人関係などが少しずつ浮かび上がってきます。3人の役者さんは緑子に関わりのあったさまざまな人物を、短いエピソードごとに演じ分けていき、激しく動きながら長いセリフを言い続けたり、言葉の意味とは明らかに違う体の動きを見せるなど、負荷の高い演技をされていました。
昨年9月に拝見した鳥公園の短編『蒸発』は、肌で確かめられるような生々しい肉感があって、それゆえの切実さや切迫感から、鼻を突くような刺激的なエロスもあったと思うんです。それに比べると今作は知性できれいに整理整頓されているような印象を受け、個人的には物足りなかったです。
不思議な緊張感に包まれた作品だった。正直、あまり理解できなかった所もある。ただ作・演の西尾佳織さんのポテンシャルは底知れぬものを感じた。演劇にとどまらず、幅広い表現で活躍していく人なのだろうという気がした。この人が、ディズニー並みにわかりやすい物語性にチャレンジしたらどうなるかを見てみたい。
ひとりの画家の画集に触発されて、そこから不思議な世界が繰り広げられる。
大事件が起こるわけでも、ドラマが展開されるわけでもないのに、とてもハラハラドキドキさせられるのが不思議だった。
視覚聴覚臭覚、さまざまな感覚が刺激されて、私の中で緑子の存在がどんどん不思議な魅力を増福していった。
3人の役者は3人とも身体が鍛えられていて素敵だったことも付け加えておきたい。