箱を持っている
劇団あおきりみかん
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2009/07/10 (金) ~ 2009/07/12 (日)公演終了
満足度★★★★
まるで箱が積み上がっていくように、うまく構成された不思議喜劇
ちょっとした不思議設定をもとに、いろいろと考えてしまうような舞台だった。
笑いの数はそれほど多くないのだが、なかなか興味深い内容と展開がとても好印象。面白かったし。
・・・またネタバレに長々と書いてしまいました。
ネタバレBOX
人は「箱」を持っている。あるときからそれが見えるようになってしまう。どうやらまったく同じ箱を持っている人を見つけて、その箱を潰してしまえば、もう箱は見えなくなるという。あるとき「嫌われ屋」という商売をしている、人に嫌われたいと思っている女と、人に好かれたいと思い「女優」をしている女が、互いに同じ箱を持っていることに気がついた。そして、彼女たちは、「取材」という名目で相手のことを知ろうとする・・というストーリー。
誰しも、自分を「演じて」いたりする。「こうありたい」「(みんなに)こう見てほしい」などという欲求からだ。「見せたい自分」に「演じて」いるのだが、自分は「演じている」とは思っていない。というか、演じているように周囲には感じてほしくない。そのために無理をしすぎたりしている。
自分の性格がこうだから、こうありたい(こうあるべきだ)と思い込んでいる2人の女が、互いに「同じ箱」を持っていることが見えてしまう。相手を観察するうちに、自分の中で見たくなかった「演技する自分」「本当の自分」の影がちらついてしまう。それがとても嫌でたまらない。同じ箱を持っているのが嫌だし、彼女は自分とは同じではない、と互いに強く思う。それは単なる「近親憎悪」とは少し違う感覚だ。
「箱」が見えてしまう状況というのは、どうやら、自分自身のあり方に行き詰まりが「見えて」きてしまった兆候なのかもしれない。ある種の閉塞感からくるものか。
「箱」を見えなくしたいのは、自分と同じ箱を見たくないからであり、他人の箱が見えてしまうことそのものが嫌というわけではないのだろう。
だから、潰すべきなのか、どうするべきなのか悩んでしまうのだ。見えなくしてしまっていいのだろうか、ということもあるのだろう。
「箱とは何か」「箱が見えることの意味は」という謎を最後まで引っ張りながら、結論は具体的には提示せず、観客にある程度委ねながら、さらに記憶と事実を、どちらが正しい事実なのかはわからないまま見せていく手法はうまいと思った(ビデオによるリプレイなど)。
彼女たち2人は、どうやら記憶も自分たちが感じていることも実際とはズレているようなのだが、それを彼女たちに突きつける2人の男たちも、実は互いに同じ箱を持っていて、やはり互いに憎悪があり、親近感もある。つまり、彼らが見せている彼女たちの状況も、すでに歪んでいるのかもしれないという不思議な感覚に陥る(ビデオに写っているからといっても、見ている側の感覚がある以上、事実とは限らないのだ)。つまり、自分の見ている世界が事実とは限らない(それは観客の側にとっても)。
舞台では物語が進行していきながら、箱がどんどん積まれていく。最後は彼女2人を取り囲むように積まれていく。彼女たち2人だけの世界に塗り込まれていくのかと思えば、箱は崩れ、彼女たちは互いに別れて行く。
相手のことを取材して知れば知るほど、自分の中にある「見たくない自分」が見えてきてしまうのだが、それを突き詰めていけば、その「見たくない自分」も「自分である」ということに気がついたのだろうか。穏やかに話す2人の姿がある。
互いにわかり合えたのか、つまり、自分自身の姿に納得できたのか、ラスト、そんな「世界」から、ぴょんと飛び跳ねてこちら側(観客側)にやって来る2人。2人とも手には箱は持っていない。それは箱を潰してしまったのか、あるいは、閉塞感を互いに(自ら)突破して、箱の見えてしまう状況を脱したのか、あるいは、単にわれわれ観客には箱が見えないのか、それはわからない。男にはまだ箱が見えているようなのだが。
意味を考えさせられるような、とても印象的なラストだった。
ただし、観ていてわき上がる疑問に対して「コレだ!」と具体的に何かを突きつけることをしないというのは、諸刃の刃であり、観客が自分でいろいろ考えることの余白を提供しているようでもあるのだが、伝えたいメッセージが伝わらない可能性もあるのではないだろうか。
さらに書いてしまうと、主人公の2人の女については、互いの取材でどのような人なのかが、浮かび上がってくるのだが、そのアウトラインが細いというか弱いというか。そこが太く強く浮かび上がってきたのならば、メッセージもストーリーもすべて伝わりやすくなったように思えるのだ。これは前回観た「蒲団生活者」でも感じたことなのだが。
ついでに書くと、ある集団に嫌われることを仕事とする者を送り込み、その人を全員が嫌うことで、集団の結束を強めるという「嫌われ屋」の設定はとても面白いアイデア。
Dear My Hero
LIVES(ライヴズ)
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2009/07/08 (水) ~ 2009/07/12 (日)公演終了
満足度★★★★★
リング上で高く高く拳を上げる、爽やかなコメディ
予想外の展開に笑い、予想内の展開に涙するという、オーソドックスなコメディながら、観ている者にとても優しい。
コメディと言っても、流れるようにスマートだったり、爆笑が連続、というようなものではないのだが、観た後、気持ち良く劇場を後にすることができる舞台だった。
「爽やか」と、少しぐらい言ってもいいかもしれない。
ネタバレBOX
今回の試合で引退を決意したボクサーが主人公。引退試合なので、彼は初めてのメインイベントを飾ることになった。彼の願いは、ラストのリング上で高々と拳を上げることなのだ。
彼は、初めてのメインイベントということで、かなり気持ちが高まっているのだが、次々にトラブルやテンションを下げる事態が起きてしまい、気持ちの集中ができない。
また、彼には、この最後の試合に対して、もうひとつの想いがある。それは、ボクサーになることを反対していた父親に、最後の試合だけは観てほしいと思っていることなのだ。
そうするうちに、前の試合が次々終了し、自分の試合が近づいてくる、という、わかりやすいストーリー。
辛い想いをして練習・減量しても、負けてしまえば惨めな思いをしなくてはならないし、たとえ勝ってチャンピオンになっても、ボクシングだけでは食べて行けないボクサーの世界。
勝ち負けがはっきりしていて、勝っても負けても厳しい練習を黙々とこなしていくボクサーたち。
主人公の、この試合で引退するボクサーだけではなく、今回がデビュー戦の新人や中堅のボクサーたちもあり、そんなボクサーたちの哀しくも美しく強い姿が見事に描かれていた。
と言っても、これはコメディであり、そんな物語にも笑いやドタバタが挟まれて、物語は笑いと涙で気持ち良く進んでいく。
ラストは爽やかであり、とてもいい感じだ。
唯一気になったのは、主人公は、引退して終わり、すべてやり切った(完全燃焼した)ということだったが、年齢から言っても、これからが大切であり、ボクサーの夢を断ち切った後に繋がる未来のようなものがほしかったということ。
ベンガルの虎
新宿梁山泊
井の頭恩賜公園西園 特設紫テント (東京都)
2009/07/03 (金) ~ 2009/07/12 (日)公演終了
出会い方が悪かったのかもしれない
演劇そのものとは直接関係ないのだが、前半は、なぜか笑いのシーンでもないところで、奇妙で大きな笑い声を上げるおじさんがいて、その気味の悪い笑い声と笑いの後に必ず「フー」とか「ヒュー」とかの歓声(?)みたいなものが気になって気になって、全然気持ちが入らなかった(酔っぱらい?)。
ひょっとしたら、当時は、こうやってワイワイガヤガヤと観劇していたのかもしれないのだが(後半、舞台に声援みたいなものが飛んでいたし)、その感じが合わないのだろう。ダメだったのだ。
後半は、桟敷席だったので、とにかくお尻が痛くなって、やっぱり舞台に集中できなかった。
だから、私の観劇としては失敗で、星は付けない。
ネタバレBOX
そんな状況だったので、感想としては偏ってしまうのだが、たぶん70年代にこれを観ていたら、刺激的でそれなりに感激したと思う。
ただ、今は2009年。昔と比べ演出がどの程度変わったのかはわからないが、観客に向かって叫んで台詞を言う、のような感じがどうも古くさく思えてしまった。
ラストもこけ脅しと言うと言い過ぎかもしれないが、「どう、凄いでしょ」という声が聞こえてきそうで、冷めている私がいた。
この脚本を現代に上演するということは、いったいどういうことなのか、が伝わってこない。
それは、内容を現代のモノに置き換えるということではなく、現代にも通じる何かがあるから上演するのだろうから、それを見せてほしいと思うのだ。
笑いおじさんの笑いとお尻が痛い私には伝わってこなかった。
演じる人たちは、熱演だったと思う。カンナ役の方は歌も良かった。そう、歌のパートは全般的に好印象。水島の愛人の目つきや雰囲気も良かった。
そして、中山ラビさんの歌はとても素晴らしかった。これがあったので、来て良かったと少しだけ思えた。
ちなみに客席にいた笑いおじさんは、カンナが夫の水島を誤って刺してしまうところでも、ゲラゲラ笑っていた。確かにベタすぎで苦笑してしまうのだが、そこは笑い声を上げるところではないだろうと。万事この調子だったので辟易してしまったのだ。
この舞台は、笑いおじさんのように自ら飛び込んで楽しまないとダメなのかもしれない。うまくそれに乗れなかった私は、疲れただけだった。出会い方が悪かっただけなのかもしれないが。
スメル
キリンバズウカ
王子小劇場(東京都)
2009/07/04 (土) ~ 2009/07/12 (日)公演終了
満足度★★★★★
やっばり、人は人と一緒にいたいんだ
まず、なんと言ってもフライヤーがカッコいい。素敵だ。
ここに惹かれた。
そして、舞台は、フライヤーのように素晴らしいものであった。
平日夜間に満席なのもうなづける。
表面に見えるテーマ的なものだけではなく、その根底にある人の姿、特に現代に生きる人の姿・気持ちが浮かび上がってきた。
ネタバレBOX
冒頭の「東京都永住禁止条例」についの説明にあたるシーンで、「この説明っぽさは、どうかなのかな・・」と思ったのだが、フリーターの男と都の職員が同窓であることが観客にわかり、さらに葬式シーンが続き、「なんだ?」と思ったあたりから、作者の術中にはまったと言っていい。
この展開、興味の持たせ方は、「うまいなぁ」と思わず唸ってしまった。
「東京って人多すぎ」ってなことを言っている自分が東京にいて、まさに多すぎの人々を自分自身が形成している。
「なぜ東京じゃなきゃダメなの?」と面と向かって訊ねられても返答に窮する人も多いだろう。
そんな人たち(大多数の観客たち)の気持ちに、ざわっとした空気を送り込むような舞台だったと思う。
東京一極集中、ゴミ問題に、介護や就職難なんていう今様のテーマと、親子の関係、男女の関係など普遍的テーマをうまく絡めて、テーマ、テーマしすぎず、見事に台詞で世界を紡ぎ出していた。
台詞の息づかいのようなものがとても素晴らしいと思った。
そんな表層のテーマとは別に、「人と繋がりたいのだけど、うまく繋がることができない人たち」の哀しさが舞台が進むごとにじわっとやってきた。
人恋しさとでもいうのだろうか。
だったら故郷に帰ればいいじゃないか、と言われても「いや、でも・・」と言葉は濁る。
ゴミ屋敷の清掃で人々はかろうじて繋がり、お金や(危ない)仕事、芸能人になるなんていう淡い夢で繋がる。
儚い繋がりと知りつつも、それにすがってしまうのだ。
これって、捨てられないゴミとの関係にも似ているのではないだろうか。
ゴミだから捨てないと、という気持ちと、いつか何かに使えるのではという気持ち。ゴミとわかっていてもつい拾ってしまうような。
本編ラスト(?)でゴミ屋敷の女主人が泣き、「さて朝ご飯でも食べるか」と言い放つ強さにちょっと感動しつつ、本当のラスト、というか蛇足ともとられかねないラストでは、さらにもう一度、人が人と繋がりたいという欲求と、人との繋がりの危うさを、皮肉を込めて見せてくれた。
台詞がよかったのだが、ゴミ屋敷の女主人の台詞も若者言葉にやや引っ張られているように感じた。普段あんなふうにしゃべっているのだろうか。ちょっとだけ気になった。
前作とゆるい繋がりがあると知ってしまったら、前作も観たくなった。再演してほしい。
蛇足だが、登場人物たちの名字が、1人を除きすべて世田谷区の地名だった。異なる1人というのが、娘の岡村。
この疎外感は一体なんだったんだろうか。たぶん意味があると思うのだが。
GOOD MANNER?? BAD MANOR!?
ジーモ・コーヨ!
ザ・ポケット(東京都)
2009/07/01 (水) ~ 2009/07/05 (日)公演終了
満足度★★★
物語の構成がとってもいい
セットの衣装も雰囲気があり、楽しめた。
登場人物がそれぞれの、解決とまではいかないまでも、ちょっとだけ何かが少し変わってくるような感じもいい。
ただし、もう少し「シチュエーションコメディ」として笑えれば・・・。
ネタバレBOX
シチュエーションコメディということで、確かに面白そうな設定で、並行して走るサブストーリーもいい感じであったのだが、それが「笑い」にうまく結びついていないように感じた。うまくシチュエーションが活かせていないというか。
例えば、息子役と一番下のメイド役が直接話ができない、という設定は、もっと笑えたように思えるのだ。
また、登場人物それぞれの(全員でなくてもいいのだが)、「深み」みたいなものが見えてこなかったことが、少し物足りなかった。
例えば、このマナーハウス参加した理由、本当の目的のようなものが、それぞれに明確になっていて、それに向かうことだけに進む形であれば、登場人物自体がわかりやすくなり、もう少しコメディに結びつきやすかったのではないかと思う。
それと、客席を通って舞台に上がるというシーンが何回もあったのだが、デビット夫人だけは、必ず大仰にここから現れる、などのように、ポイントを絞って使ったほうがよかったように思える。
これは、素人考えなのだが、この構造を活かすとすれば、例えば、こんな展開はどうだろうか。
それぞれの目的・思惑で参加した参加者たちが、自分の思い描いていたマナーハウスの生活ではなかったことで、テンションが下がってしまう。
されによって、ディレクターの思っているような「絵」にならない行動を取り始めてしまうので、慌てた彼は、「ウソの賞金」話(実際には早い時期にその話が出てくる)をして参加者のテンションを上げる。
参加者は、本来自分が参加した目的や理由を無視しても、賞金欲しさに一生懸命、マナーハウスの住民になろうとする。
一方、ディレクターとしては、自分の思い通りになったのだが、「賞金」はウソだから、できれば1円も払いたくない。そこで今度は、逆に参加者の邪魔をし始めてしまう。
参加者とTV局側の両者の本来の目的がすり替わったまま、バトルが始まる。そこにデビット夫人などが絡んできたり、今回の話の中にあった、恋の話やそれぞれの想いなどが込められる。
なんてふうにしたならば、と思ったのだ。
五人姉妹
ミクニヤナイハラプロジェクト
吉祥寺シアター(東京都)
2009/06/25 (木) ~ 2009/06/28 (日)公演終了
満足度★★★★
準備公演が「黒」であれば、今回は「白」
ちょうど1年ぐらい前に、こまばアゴラ劇場で、『五人姉妹・準備公演』を観た。目が覚めるような舞台で、これを観たことで「小劇場は面白い」と気づき、今のように舞台にいそいそと出かけるきっかけになったと言ってもいい。
つまり、私にとって『五人姉妹』は、エポックメイキングな作品だったのだ。
だから、今回の『五人姉妹』は観るべき舞台であった
ネタバレBOX
準備公演が「黒」であれば、今回は「白」であった。
それは単純に舞台や衣装の基調となる色がそうであったことによる。
もちろん、なぜその色だったかということには、「色を選択した」理由だけではなく、「選択せざるを得なかった」理由もあるだろう。
しかし、そうは言っても、受ける印象は、当然大いに異なる。
光を吸収する黒は、五人姉妹の閉ざされた生活感覚のようなものが現れていたと思う。閉塞感とでも言うべきものだ。
「黒」中での彼女たち五人姉妹の動きは、身体にまとわりつくそれに抗うようで、力強く感じた。
対して今回の「白」は、一見華やかさがある。しかし、他の色がないことでの薄さや不安感もある。美しいのに薄いし(フワフワしたような)、不安もあるという姉妹の生活だ。
「白」の中で彼女たちは、それを振り切るために激しく動く。もっと言えば、白を汚したいという感覚かもしれない。
で、どちらの色がよかったというよりも、どちらも「アリ」だと思う。
ずるい回答かもしれないが、両方ともよかったのだからしょうがない。
また、準備公演は、高速の台詞だけではなく、言葉のもどかしさを相手に伝えようかとするような、激しい動きがストレートに伝わってきて、とても「身体的」(特に個人の)であり、観客の視線はそれに集中できた。
それに対して今回は、「物(装置・セット)」があることで、準備公演で見せてくれた「(個人個人の)身体性」を破壊していたように感じた。
もちろん、セットは動かすことができ、必要に応じて動きを見せるための空間が作られるのだが、そのセットを動かすことや、動きそのもので、「間」ができてしまい、(連続的で)身体的な動きを封じ込めてしまったように見えたのだ。
セットなどが意識せずに目に入ってしまうということもある。
セットや装置を動かすことを役者が行っているのであるのだから、セットを動かすことも、まるで役者の動きのように(ダンス的に?)見せてくれたのならば、まったくそれは違っていただろう(準備公演では机・椅子などを動かすのは、「軽い」という事実から身体的な動きは止められることはなかった)。
そうすれば、セットや装置がある意味もさらに明確になり、別の意味での身体性(動き)が浮かび上がったような気がするのだ。
ただし、今回はセットなどがあることで、それプラス、衣装、照明、映像、音楽が見事に一体となっており、「総合的」な美しさがあった。
「白」の持つ広がりもそれに加味したと思う。
そして、今回の目玉でもある、中原昌也氏の音楽と素晴らしい映像に載せて踊る姿は、とても美しく、ここだけでも観たかいがあった。
中原昌也氏の音楽は、暴力温泉芸者(古いか)のような破壊的なものではなく、抑制されて美しいノイズであったので、そのシーンはずっと観ていたいと思ったほどだ。
もっと全編に、あるいは断片的に音楽が使用されて、より過激な舞台となるものと勝手に思っていた者としては(後から考えれば、ポイントでうまく使用したと思うのだが)、観ているときには少々物足りない気分もあった。
激しい動きと高速台詞(そうじゃないところもあるが)は、身体的な芝居であり、言葉のダンスでもあると思えた。
高速の台詞は、ひょっとしたら言葉の力を(本気では)信じてないのではないだろうか、と思わせる。
それに付随する「動き」のほうが重要であるかのようだ(言葉と動きの主従関係は不明だか)。
ミクニヤナイハラプロジェクトは、ダンスから少し離れて芝居的な方向に進もうと足を踏み出したと思うのだが(たぶん)、思った以上にダンスの重力は強く、軸足はダンスに、ココロは芝居にあるとでも言うところかもしれない。
でも、それは、ダンスと芝居の中間にあるということではなく、どちらかも異端ともなるような位置、別の世界にあると言ってもいいと思う。
まだ、今回の『五人姉妹』と『青ノ鳥』しか観てない私だが、それはとても好きな世界だし、これからもそこには訪れたいと思うのだ。
ハルメリ
西村和宏(青年団演出部)+ウォーリー木下(sunday)企画
アトリエ春風舎(東京都)
2009/06/23 (火) ~ 2009/06/30 (火)公演終了
満足度★★★★
ハルメリっていう空気みたいなものを「読む」ということが日本的
「ハルメリ」というファッドな流行を軸に、現代の、というより、「ハルメリ現象」とも言えるような、日本人的な精神構造を描いた作品だった。
物語の構造・演出も面白く、楽しんで観劇できた。
ネタバレまた長くなりました・・・。
ネタバレBOX
冒頭のハルメリ・クラブを見て思ったのは、これって、例えば、渋谷のセンター街だったり、原宿の竹下通りだったりするのではないかということだ。
若いエネルギーに溢れているようだが、横一線に並ぶことで安心できる空間。最先端のようで、そうではなく、よく見ると、誰も前には出ていない横並びの関係=安心がそこにある。
「ハルメリ」とは、人より前に出ない、出る者は打たれるというような感覚であると言う。しかも、それは「負け犬」的でありながら、「冗談」であると言い切ってしまう。
横一線にあることで安心しているのだが、やはり本当は前に出たいし、目立ちもしたい。そんな自分を気持ちが恥ずかしいから、あるいはそうできないから、「冗談」と言うしかない状況がある。
それを「優しさ」なんていう「インチキ」で、聞こえのいい言葉で言い表してしまうことの欺瞞。そう言われたら返す言葉がないズルイ言葉によって、ハルメリは鎧を着る。
だから、老若男女に受け入れられるし、はやりもする。受け入れない者、本音を語ってしまう者は、はじかれる。
だから、コトの本質を見抜いてしまいそうになった男は抹殺されてしまったのだ。
でも、よく考えてみると、そういうハルメリ感覚は、実は、現代の「若者」特有のものではない。会社の中、いや社会の中でも横並びなら安心という感覚はある。日本人特有のものではないだろうか、そういう感覚は。しかし、一歩先んじたいという意識は「冗談」という糖衣をまとって、心の奥底に間違いなくある。
昔「ナンバーワンよりオンリーワン」なんて言葉が流行ったけれど、やっぱり(何かで)「ワン」にはなっておきたいのだ、本音は。
ファッドはすぐに消え、新たなファッドかファッションに取って変わられる運命にある。それを知りつつもやはり、横に並びたい、人と同じでいたい、「フツウ」でいたい、という感覚で、そこに参加してしまう。
それに心から「帰依」してしまう者もいれば、「装う」ことでしたたかに自分の位置を確保する者もいる。
横並びなのに、「ナンバーワン」を決めるTVの企画はそこをうまくついている。
それは、例えば、「エコ」という流行の中で、「この商品はエコです」ということを訴えるために、資源を無駄に浪費して宣伝する行為にも似ている。
純和風なハルメリの構造はここにもある。
さらに、ハルメリそのものを取り上げることで、視聴率や購読者を増やそうとするTVや雑誌、そのお膳立ての上でさらに自らをハルメリ商品として提供する、元主婦のコメンテーター、ハルメリ美女、アイドルたち。
そんなハルメリそのものの面白さだけでなく、それを取り巻く人々の思惑や商売を含めて「ハルメリ現象」として描いたところに、この舞台の面白さがあったと思う。
「ハルメリ」という設定も日本人的だし、それによって引き起こされる「ハルメリ現象」と言えるようなことも、まさに日本人的感覚なのだ。その二重構造が見事。
ただ、、その見せ方は、TVのワイドショーを揶揄したような展開だったが、現実のワイドショーが低迷している今、なんだか変な古さを感じでしまった。何かの流行によって、コメンテーターに祭り上げられてしまうことは、ずいぶん昔のワイドショー華やかなりし頃の出来事だし、2ch実況スレみたいなものも、なんとなく古さを感じてしまった(TVの2ch実況スレ的な演出は、あるようでなかったと思い、とても面白かった)。
「普遍的なテーマ」を「現代的な切り口」で見せたのか、あるいは逆に「現代的な見せ方」で「普遍的なテーマ」を浮かび上がらせたのかはわからないが、内容的にはとても興味深いものがあった。
「普遍的なテーマ」であるから、この戯曲は長く残るものであるのだが、逆に「今」を素材として扱っているために、この「今」だけでしか成り立たないもののようにも感じた。
ラスト近くで、唯一、傍観者的立場を固持していた女性記者と編集長の惨劇は、女性記者が仕事に生きることを選択にしたにもかかわらず、すでに仕事を辞めて専業主婦となっていた女性の成功と比べられることで(この女性と仕事と家庭という関係、2人の比較設定はどうなのかなぁ)引き起こされるのだが、この展開は、まるで考えるのをやめてしまったようで、イマイチ面白くない。
ハルメリ騒動に決別するのならばそういう方向で、取り込まれるならばそういう方向で、何と言うか、リアルな、というとちょっと違うが、今回のような血を見る、安直な方向だけにはしなかったほうがよいと思った。それまでが面白いだけに。
例えば「産まない」ことを選んだ女のように。
たぶん、ハルメリ的な気持ちがあるのは確かだけど、ハルメリ現象には乗ることがないだろう自分を彼女に投影して観ていると、強くそう思わざるを得ない。
そして、また、ファッドでしかない、新たなハルメリが続く。
実験シリーズその1『境界』 【緊急決定!追加公演!!】←これが最後のチャンスです。
劇団夢現舎
新高円寺アトラクターズ・スタヂオ(東京都)
2009/06/25 (木) ~ 2009/06/28 (日)公演終了
満足度★★★★
実験は、密かに続いていた
この公演の追加が決まったということで、15人しか観ることができないから、それはそうだろうなあ、と思っていたら、どうやら「単に公演を追加するということではない」らしいということを匂わせるメールが劇団から届いた。
「変容」というキーワードが漂う。
となれば気になるではないか、何がどう「変容」したのかが。
前回、レポート(平たく言えば「感想」ですね)を提出した段階で、今回の実験に関するお付き合いは一段落したと思っていたのだが、私や他の観客が書いたレポートや反応を参考にしつつ、実験は秘密裏に続けられていたのだ。
そして「変容」の確認をしに実験の行われている新高円寺へ向かった。
ネタバレBOX
この公演は、「境界」ということに関する「実験」という体で、行われている。
内容は、前回の「観てきた」に書いたとおりであり、「演劇」の「境界」が「こちら側」に染み出てくる感じが愉快だったのだ。
そこは、「楽しむ」というか、それに「付き合う」という精神が必要なのは言うまでもない。
だって、染み出して来るのを「観客然」として腕組みして眺めているだけではもったいないのだから。いわば「染み出し感」を味わう公演なのだ。
前回感じたのは、「観客」と「舞台」の「境界がなくなる部分」が一番面白く、観客は、飲み食い、携帯等なんでもアリの空間で、それを期待して、あるいは覚悟して訪れているのだから、それを活かさないテはないということだ。
それがもう一歩、舞台側が踏み出せずにいるということにもどかしさを感じていた。
さて、前置きがずいぶん長くなってしまったが(そうです、すみません、長いですがここまでが前置きです)、今回も、この「企み」に賛同して、手形のような木製チケットに麻ひも(これは絶対麻ひもが相応しいと思う)を通して首からぶら下げて会場を訪れた。
まあ、地下に降りる階段にも、有り体に言ってしまえば、無意味な(笑)張り紙などがしてあり、実に楽しい空気を醸し出している。
内容的には、前回観たものと一緒である。であるのだが、違っている。確かに「変容」しているのだ。
前回不満に感じていた「観客と舞台の境界がなくなる部分」は随所に意識的に盛り込まれており、観客の移動も促してくれる。本当に目の前で演技が始まるのだ。
しかし、それは「境界がなくなる」のではなく、よくよく考えると「境界を意識」させることが主眼にあるのだ。
とうやらそれを見誤っていた。他のエピソードと同様に「境界」を実験するということで、「境界を意識」させることが大切なのだ。
つまり、今回のいろいろな役者側からの働きかけで「境界は十分に意識」されることになった。
ただし、それが今回の「変容」の全貌ではなかったのだ。いわばこれは「掴み」のような部分であり、本当の「変容」は、「2回目の観客」にしか与えられない、贅沢な「変容」なのだ。
それは、単にいくつかあるパートの内容を入れ替えたり、台詞を大幅に変えたりということではない。
微妙に台詞が少し変わっていたり、演じ方とか、表情とか立ち位置とか、ほんの少しずつ変化しているのだ。
それで何が変わったのかと言えば、それぞれのエピソードの、輪郭というか、コアになるところ、あるいは主張(言葉にするとちょっと大げさだけど、そんなようなもの)が、くっきりしてきているのだ。
例えば、前回、私が「ガッカリした」と書いた最初の実験(エピソード)の「鏡」が始まり、「あっ」と思ったのだ。「違うモノになっている」と。
基本構造も台詞も大きな変更はないはずなのに、明らかに違っているのだ。
同じような感覚は、それ以降随所に現れ、驚かせてくれた。
確かに、演劇は、ちょっとしたニュアンスで、例えば、台詞の言い回しだったり、視線だったりというもので、その表現が大きく変わるということは、頭では理解していたつもりだったのだが、それが目の前に具体的な形となっていることに驚いた。
もちろん、舞台の稽古は、そういうものの積み重ねなのだろうが、私が観たのは本番2つなのだから、当然、その重さが違う。
前回の公演が終了してから、今回の「追加公演」までの間に、どれぐらいの細かい作業が繰り返されていたのだろうかと思うと、やはり「(生)真面目な」劇団なんだな、と思わざるを得ない。
限定15名で、飲み物、お菓子、おつまみまで用意して、チケットも木製の手作りで、さらに感想を送るための切手付き返信封筒まで用意して、チラシも作って、どう考えても元が取れるとは思えない公演を打ち、さらに観客の反応をフィードバックさせてもう一度上演するという姿勢には言葉もない。
真摯さ、(生)真面目さと書いてきたが、もちろん修道僧のような禁欲からこれらが生まれているのではないだろう。たぶんその真摯さの中には、演じることの(見せることの)「快楽」もあるのだろう。
それがあるからこそ、観る側にも「快楽」が訪れるのだ。
そして、「変容する演劇の姿」の中に、演劇っていうモノの「奥深さ」・・・というと、つまらない言葉になってしまうけど・・・うーん、うまく言えないけど「不思議さ」みたいなものを見付けることができた。
2回同じ公演を観たことによる、これが最大の収穫であり、「実験」が「実験」たる所以の結論のような気がしてならない。2回観てよかった、ということだ。
失礼は言い方をあえてすれば、実際、舞台で行われていたコトよりも、この舞台(実験とも言う)全体が包括する世界(あるいは世界観)のほうが遙かに興味深く、面白いものであった。
で、一番気になるのは、今回の「追加公演」は最初から仕組まれていたものなのか、あるいは後から「これはもう一回やるべきだろ」と思って始めたのか、ということであり、また、後者ならば、どうしてそう思ったのかが知りたいところだ。
ちなみに今回はオレンジジュースを飲んだ。ピサは食べ忘れてしまった。
ボス・イン・ザ・スカイ
ヨーロッパ企画
青山円形劇場(東京都)
2009/06/17 (水) ~ 2009/06/28 (日)公演終了
満足度★★★★
ヨーロッパ企画って、そこに居るだけで、すでに楽しい空気を感じてしまう。
期待して観に行ったら、期待どおりだったという作品。
そのあたりが(たぶん)ヨーロッパ企画のセンスなのかもしれない。
円形劇場という形もうまく活用していたし。
(前回『ゴーレム』ではセットが凄いことになていたので、そっち方面でも期待していたが、意外と質素。ただし、意味はあるし観やすいのは確か)
話も演出も舞台装置もまとまりがきれい。
今年の年末にかけて予定されている映画や舞台も今から楽しみ。
そして、東京での客演もいろいろ予定されているようだ。
ネタバレBOX
SF的ともファンタジー的とも言えるような、ドラゴン退治を職業とする者たちの話なのだが、もうその前提は、何でも良くなっている。
ドラゴンが現れたのは給水塔らしき塔なのだが、これが鉄塔であれば、電気会社の職員でもよかったし、円形のコンビニでもよかったのだ。
とにかく、その仕事があることが「日常」であるから、その日常の、ある日を切り取って見せました、という感じがとてもいい。
それぞれの役割が安定していて、人が生きている。その人は、確かにそうしゃべりそうな雰囲気で、そうしゃべってくれるので、笑えるし楽しい。
まるで、メンバーがそこに居るだけで、そこに楽しさがあるようだ。
前作の『あんなに優しかったゴーレム』でも、ゴーレムがいることが日常で、その日常が描かれていたし。『昭和島ウォーカー』ではあんな展開になっても日常の延長線上にあったのだし。
「日常」となってしまったら、頭の上にドラゴンがいようとも(ま、グリーンドラゴンだから安心ってこともあるけど・笑)、まあ、あんな感じのふつーの会話だろうし、ドラゴンよりも「非日常」なロックフェスのほうが気になるに決まっているし。
だから、ラストもふつーにふわっとした感じで終わるのが適切なのだろう。
とは言うものの、ラストは『昭和島』ほどではないにしろ、『ゴーレム』レベルのふわっとさは欲しかった。
でも、ひょっとしたら、ヨーロッパ企画が目指しているのは、SF、ファンタジーの要素を使って展開する小津の世界だったりして。
ヨシザキ、カク語リキ
バジリコFバジオ
劇場MOMO(東京都)
2009/06/19 (金) ~ 2009/06/28 (日)公演終了
満足度★★★★
これだけバカバカしいと、むしろ爽やか
・・・ってことはないな。ない、ない。爽やかさは絶対にない。
予想もつかないバカバカしい展開に、見ている側は翻弄されるのみ。
思い切り戯画化されたキャラクターもいい。
人形とのコラボも楽しい。
そして、ヨシザキは最後にナニをカタルのか・・・は、やっぱりネタバレで。
ネタバレBOX
100円ショップの店長は、脱サラして移動飲食店を始めたいと思っている。そんなとき、妻の父がパンツを履かずに外に出て捕まってしまう。そして、子どもがネコだと言って貧乏神を連れてきたり、100円ショップで万引きされたり、店員のバイトがちゃらんぽらんだったり、万引き対策の特別装置を設置したり、10年前の中学生のときの回想に戻ったり、先生が生徒の遺体とともに逐電したり、三匹の魚が出たり、オホーツクの海に溺れたり、ハワイに行ったり、ヨシザキの野望が信長風だったり、ガンダムがカレーの中から出てきたり、メンチカツとコロッケを分ける仕事をしたり、牛丼太郎に落ちてきたり、パーティバレルが飛んできたり、刑務所に慰問に行ったり、ヨシザキが人生はなんたるかを語ってみせたりと、なんやかやで、月で東大でNASAで大団円(・・か?)を迎えるのであった。というのがあらすじだ。
うっかり「スラップスティック」なんて言ってしまいそうだが、そんな横文字のようなスマートさではない、ドタバタ感がとても愉快に感じた。・・・ひょっとしたら異論があるかもしれないが、この際、胸を張って言おう、私は愉快に感じたのだ。
キャラクターの濃さは、出演者すべてにあるのだが、特に中学生3人組と息子役の濃さは尋常ではない。悪い部分というか暗闇の部分というか、とにかく煮詰めていって、そんな部分だけを凝縮したような感じだ。
それは、フライヤーのイラストのテイストであり、要所要所に出てくる人形の造形にも似た、ひねくれて、ちょっと不気味さがあるようなキャラクターだ。
1人何役もこなしているだけに、「ここぞ」という役に関しては、どの役者も容赦なく役を「煮詰めて」くる(やりすぎ、とか、酷いという声も聞こえてきそうなほど)。先生の目に狂気が宿っていたりとか。それとコスプレとも言える衣装の用意や小道具の多さにも感心する。
だから、どの役者も間違いなく印象に刻み込まれているのだ。
小学生の息子が東大生になっても、NASAに入ってもずっと同じ演技というのには参った。その塩梅が素晴らしい。
原作ではどのような内容だったのかはわからないが、何の意味があるのかを考えずに、どうでもいいことを丁寧に描くところが好きだ。
例えば、息子が最初に登場し、「バッタをコーラで煮るのは、よさそうじゃない?」から「あっ生で食べちゃった」あたりのどーでもよさの爆発は私の心を鷲づかみにした・・・は言い過ぎだけど、よかったのだ。
また、牛丼太郎の牛丼やカレーにおまけが入っていたり、店員が店内で寝ていたりというのも、ほとんど必要ないエピソードなのに細かい。
100円ショップに350円の弁当があるというエピソードは、昨今の100円ショップの在り方に一石を投じるような・・・いや、それはない、けど楽しい。
ただ、移動販売用の車の絵を見せるところは、一瞬期待してしまうのだが、意外と中途半端で、見ているほうは笑う用意をしているのに笑えず困ってしまう。全体の弾け方から言うと、もう少しどうにかならなかったのだろうか。
人形の使い方は、アクセントになっていたと思う。人形だからできることがもっとあればいいと思ったし、人形劇の人形(その設定は2回もある)は、あえて逆に人が演じても、面倒だけど面白かったような気もする。
そして、タイトルにもある、ヨシザキが、人生の最後にしみじみと語るのは、人生の深淵なる教訓・・・というわけではまったくなく、単に「オナニーが人生で一番楽しいことに気がついた」というどーでもいいことなのだ。それに感動した店長が、生きることを決意するという、どーでもよさが素敵すぎる。
さらに、これは個人的で、どーでもいいことなのだが、役者がテンション高く話すシーンが多く、つばが見事に大量に飛んでいるのが、光の加減でキラキラとよく見えた。
役者の誰かが、保菌者であれば、間違いなく飛沫感染しているだろうなあ、と最前列に座りながら考えてしまったのだ。
鳥の飛ぶ高さ
青年団国際演劇交流プロジェクト
シアタートラム(東京都)
2009/06/20 (土) ~ 2009/06/28 (日)公演終了
満足度★★★★
2つが1つになる方法が重層的に描かれる
企業買収、虐殺、征服、結婚、公武合体、合唱・・・等々と、何かと何かをくっつけて1つにする方法が重層的に描かれていた。
その層の断面を見せてくれる舞台はさすがだと思った。
ただし、いささか消化不良。こちらのキャパに、というか語学力にも問題はあるのかもしれないのだが・・・。
ネタバレBOX
とにかく、1つになろうとする話がしつこく次々と現れる。
主軸は、フランスの会社が日本の便器会社を傘下に収めようとする話(2つの会社が片方に飲み込まれる)であり、日本神話の形を借りて描かれるのは、半島からの民族が土着の民族を征服する話(民族が他民族を飲み込む=国家が1つになっていく)、そして、ルワンダでの虐殺は、片方の部族を殲滅し、1つにしようとする話(2つの民族を1つだけにする)の3つ。
つまり、すべて「力(ちから)」によるものであり、対する相手は「対抗」するのだが、結果的に、1つめは「懐柔−容認」、2つめは「闘争−服従・浸透」、3つめは「排除−消滅」というところか。
そこに結婚(なぜだが異民族同士の結婚が3つも現れる)や、皇女和宮の公武合体(フランス人女性が強く惹かれるという設定も面白い)などという要素も加わる。
極めつけは、「私」という、この舞台の作者が現れ、自らが仲介となり、舞台と観客をなんとかくっつけようとすることだ。
合唱という声の合体まで使って。
とにかくあまりにも多くのものが次々と現れる。
問題は、その多さだけではなく、「言語」だ。
つまり、日本語で語られる台詞はいいのだが、フランス語の台詞は舞台上方の字幕に頼らざるを得ず、また、フランス語と日本語が交互に現れるところもあり、そのための視線の行き来が結構大変なのだ。
さらに場面展開も早い。
また、役者さんたちに気持ちの余裕がなかったように見えた。観ている側(というか私)に余裕がなかったせいでそう見えたのかもしれないが、もっと余裕があれば、笑えるシーンではきちんと笑えたような気がする。
大長編だったオリジナルを今回の長さにまとめた、ということからなのか、どうも一気呵成に進みすぎ、息抜きができない。
笑いのパートがそれにあたるのだが、それほど笑えないのだ。
唯一、合唱のパートはかなり面白く、笑顔で見入って息抜きにはなったのだが。
フランス企業が日本企業を買収するというエピソードは、今、この景況を考えると、テーマとしては、中途半端に古い印象は否めない。
会社法の改正で、外国企業による日本企業の子会社化が行いやすくなったと言っても(実際はそうでもないのらしいのだが)、どうしても10年ぐらい前の、日産のカルロスゴーン氏や日本長期信用銀行の外資売却、数年前(リーマンショック以前の)の海外からの大都市圏の不動産への投機的活動が思い出されるからだろう。
ま、その設定は、原作からの踏襲で、しょうがないのかもしれないけど。
子会社化(または買収)の手段として、日本企業内部の欲望をかき立てて、内部から切り崩し、さらに新製品の投入とマーケティングによって実績を上げ、企業価値を上げるという手法はうまいと思った。
ライブドア以降、敵対的な合併・買収には敏感になっている日本企業攻略としては、極めて適切かつ有効な方法だろう。
しかし、フランス人コンサルタントのなんと怪しいこと!
マーケティングというコトバの裏に隠れ、ブレストなんていう方法で煙幕を張り、出てきたコピーがアレで、しかも、それに対してもっともらしい理由をつけるあたりは、マーケティングによる販売や事業展開自体を揶揄しているように思えてならなかった。
それで、購買意欲が高まり、新製品の便器がじゃんじゃん売れるというのもなんともやるせない(もちろん、私もそういう消費者の1人として)。
そう考えると、最後にフランス人社長が、「私が欲しかったのは、人です」と言うのも大いに怪しい。完全なる眉唾ものだ。
なぜなら、彼らは日本人の思考(嗜好)もきちんとマーケティングしてあるはずで、ここは日本神話のエピソードを紹介するときに「征服した相手をも神として祭る」というあたりの、日本人的なメンタリティーを見事に掴んだ発言としか思えず、その言葉は、新・猿渡社の社員の心には響いていたようだが、舞台では空しく響いていたように感じたのだ。
ふうふうの神様
劇団桟敷童子
ザ・スズナリ(東京都)
2009/06/19 (金) ~ 2009/06/28 (日)公演終了
満足度★★★★
森にふうふうの神様がいた最後の時代
今回は「笑い」の要素がまぶしてあり、ちょっとだけ印象が違っていた。
その笑いがすべて当たりというわけではないのだが、いいアクセントにはなっていたと思う。
相変わらずの熱演、そしていつものような重苦しさもあり、伝奇モノ的な要素もありで、やっぱり桟敷童子だった。
毎回、驚くシカケがあるのだが、今回どんなシカケがあるのだろうという気持ちでついつい観てしまう。でも、スズナリではここまでだろう。
だけど、あの狭い舞台を立体的に、奥行きまで見せる技(美しいセット)は、やっぱり桟敷童子だ。
ネタバレBOX
客入れ時に、体操着姿の役者たち。「こんな話なのかな?」と思っていると・・・さすが、いつも掴みは見事。続くストーリーの重さが、まだ何なのかはわからないまでも、運動会の子どもたちの叫びに乗って伝わってくる。
設定が、70年代末〜80年代初頭頃の九州(北九州?)のどこかなのだが、たぶん、この地域におけるこの時期が、異界という存在が許される最後の時代だったのだろう。
かろうじて「神隠し」が違和感なく存在する、最後の時代。
ただし、その神隠しについても、古い伝承ではない。
神隠しに遭った人たちがいる異界では、楽しく運動会が行われていると言い伝えられていて、その神隠しに遭った人が戻ってくるように、家の軒先に吊るしてあるのは、玉入れの紅白の玉なのだ。
小学生の子どもが失踪してしまった夫婦が、妻の実家である村を訪れる。ここは、神隠しの村で、妻もかつて神隠しに遭ったという。1人戻ってくれば、1人が代わりに神隠しに遭う。妻は自分が異界に行く代わりに、神隠しに遭ったと思っている子どもを取り戻したいと考えていたのだ。
村には、何かが欠けている数家族が暮らしている。
そして、妙にけたたましく、馴れ馴れしい子どもたち。
「神隠しは最後の希望」というような台詞は、子どもを失った夫婦にとって、とても辛くて重い台詞だ。
村の真実と神様たちのことが明らかになってくるあたりから、重苦しさの加速度は増す。
そして、「なぜ、夫婦には村が見つからなかったのか」「子どもたちに一緒じゃないと村に行けなかったのか」が明らかになり、「なるほど!」と。
この話の収束の仕方が、好きなのだ。
この世と異界は紙一重であり、家族の関係も紙一重である、それが白日のもとに晒されていく。
しかし、信じるべきものがありそうな予感を与えてくれる、幕切れが鮮やか。
この感じが好きだから、桟敷童子が好きなんだ。
「神の介在しない(人間による)神隠し」として「戦争や革命」などが挙げられていたり、森が伐採されて、裸になっていく様に合わせて2人の子どもが寒がる、というエピソードがあるのだが、そこのあたりは、少し消化不良。
また、浮かばれない者(死者)たちが家族のように暮らす村は、執念・怨念のようなものが根底にある場所であり、この村と異界(神隠しで連れて行かれる場所)との関係は、村が異界への入口であるということがわかってくるのだが、そのあたりの設定とその収まりどころが、すっきりと整理がついていないように感じてしまった。
観ている側の受け取り方の問題なのかもしれないが。
さらに言うと、笑いの要素に「薄毛」が何度も使われていたのだが、結果、哀しい話につながるだけに、あそこまで何回も使わなくてもよかったのではないかと思うのだが。
そして、やはりオリジナルの歌もほしかった。
で、次回もとても楽しみなのだ。
鬱病のサムシンググレート
エビビモpro.
サンモールスタジオ(東京都)
2009/06/12 (金) ~ 2009/06/23 (火)公演終了
満足度★★★★
(健気な)ドタバタミュージカル+いろいろ入れてみました
なんだか、いろいろ入れました、という感じ。
悪い意味ではなく、この公演のために、後から後から湧いてくるイメージは出し惜しみしませんでした、と言えるような舞台内容。
一見、とても同じ舞台に入るわけがなさそうなものまでギュウギュウ詰めて、バラバラになってしまいそうなところを、力技というか、力ずくというか、あ、そうそうミュージカルという箍(タガ)でぎゅっと押さえました、というところか。
完成度が高いとは言えない。
でも好きだ、この感じ。だって、面白いんだもの。
・・・好みは別れるだろうなぁ。
人によっては「バラバラになってる」とか「テンション高すぎ」とか「ふざけすぎ」なんていう不快感を感じるかもね。
ネタバレBOX
売れない漫画家、麻生太郎が、神々のところに連れていかれて、いろんなことがあって、歌ったり踊ったりで、勇者が揃ったり、また歌ったり、ビール飲んだり、大喜利やったり、うどんを食べたり、というような話。
ただし、麻生太郎には、それほど主人公的役割があるわけではない。つまりいろんなことがありすぎるのだ。
軸となるストーリーは、実に単純だが、とにかくいろいろ仕掛けがある。
ハプニングを装ったり、ハプニングを期待したりという企ては、実に楽しい。
初音ミクと合唱したり、いきなりポストパフォーマンストークが間に挟まったりなんてことも平気で仕掛けてくる。
あきらかにミュージカルの枠(実はどんなものかは知らないが・・)を外れているように思える。そもそも歌でストーリーを繋いでいないようだし。
挑戦的とも、とてつもない悪ふざけともとれるるような作品なのだ。
メッセージがあるわけでもなさそうだし。
ただし、メインでないところでの各々の細かい動きや役割、生演奏に映像まで、実によく構成されていて、組み立てられていると思う。
それに対応する演じ手も、一見悪ふざけのようなことなのに、実に一生懸命(叫びすぎの声はいかがなものか、というところもあるのだが)。
途中から、登場人物中、唯一、きちんとした名前がなく、説明もない「エンジェル1号」の動きに気がついたのだが、彼女は、小道具係のように、マイクだったりいろんなものを用意したりしている。
そのひたむきな表情、例えば、脇にいて舞台の中央を見ているときや舞台の真ん中に出て、観客に見せる表情に健気さを見た。
この健気さの人たちが舞台に大勢いるのが、この劇団なのだろう。健気さは、頭の薄さや体型なんかとは関係なしだし。
もう少し大きな舞台で演じたほうがいいようにも感じた。
最後の最後に、ちょっと気を抜いてしまって、台詞がちゃんと聞き取れなかったのだが、観てきた方に確認したい。・・・これって夢オチ?
パパ、I LOVE YOU!
加藤健一事務所
本多劇場(東京都)
2009/06/03 (水) ~ 2009/06/14 (日)公演終了
満足度★★★★★
極上コメディの、笑いのグルーヴに包まれて、とっても幸せ
加藤健一事務所のコメディは数回だけ観たことがある。いずれも「ハズレなし」であった。
そして、tetorapackさんの「観てきた!」のタイトルだけを見て、いてもたってもいられず、本多劇場へ。
まさに「最高」「極上」のコメディがそこにあった。
星の数が5つでは足りないという気持ちもよくわかった。
たぶん同じ脚本で別の劇団がやっても、これだけの満足度の高い舞台と笑いは生まれないのだろうと、強く思わせるだけの凄さが溢れていた。
台詞がどうとか、間がどうとかという部分的な要素だけでは推し量ることのできない、脚本、演出、役者のすべてが見事に相乗効果となって、とてつもない一瞬を生み出してしまったのだ。
そして、その場所に居合わせた幸せを感じたのだ。
ネタバレBOX
物語がリアルタイムで進む感じがとてもいい。時間がジリジリと迫ってくる様子が舞台上の時計の動きでわかり、主人公とともにイライラジリジリするというのがなんとも言えずいいのだ。
非常に些細なことではあるが、途中に休憩が挟まれるのだが、リアルタイムさが命の舞台なので、そのまま突っ走ってもよかったような気がする(年齢の高い観客もいるので、しょうがないのかもしれないど)。
切れ目の部分は、『レンド・ミー・ア・テナー』のときは公演の前後だったと思ったので、今回もてっきり講演の前後になるのかと思ってた。
シャットダウン
ファルスシアター
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2009/06/10 (水) ~ 2009/06/14 (日)公演終了
満足度★★★
いろいろ言っても、結局笑った私が負け(笑)
内容的に深くなりそうだったり、設定からいろんなことが引き出せそうな雰囲気もあるのだが、それには深入りしない。
ただ、笑わせることのみに集中するだけ。
あんまり笑えないコメディもある中、笑えるだけでも儲けモノなのかもしれない。
ネタバレBOX
人間1人につき1体ずつ、アンドロイドが配給されることになった近未来の話。
人間とアンドロイドの関係は? というスタートのようだったので、「これは、人間に限りなく近いアンドロイドの悲哀とか、人間とは何ぞやとか、生命への考察なんかが、笑いの中で、最終的に落としどころになるのでは」なんて思っていたのだが実はそんなことはまったく関係なかった。
人間とパートナーのアンドロイドが定期検診に訪れている病院の待合室が舞台であり、二股かけている人間やアンドロイド女や、惚れやすいアンドロイド、恋人がいない男女の勘違いなど、恋愛関係のドタバタコメディが繰り広げられるのだ。
つまり、深淵で深刻な場面は一切訪れず、とにかく笑いに徹するのみの舞台。
恋愛コメディに、アンドロイドという要素が加わることで、もう少し複雑っぽくなっただけ。アンドロイドは人間に恋してはいけないとか。
アンドロイドはそのためのお膳立てであった。
ちなみに、アンドロイドは人間が作ったものであり、どんなに進化しても、人間は常にその先にいるので、その差は埋まらない、というのが、この舞台での世界観ということらしい。ちょっと拍子抜けしてしまった。
三兄弟を1人が演じたり、コメディでの定番の、顔合わせてはいけない者同士を合わせないようにしたり、勘違いが交錯したりと、実にわかりやすく笑いがまぶしてある。
ただ、映画の主題歌や曲を使った笑いがいつくかあり、中でもターミネーター4は何度も台詞にも音楽も使われているのだが、それらへの寄りかかり方はいかがなものだろうか。個人的には好きではない笑いだ。
ラストは、1人を全員で突っ込むという、昭和のコント臭の強いオチまである。
えっ? これで終わっちゃうの? というエンディング。
突っ込みどころはいろいろあるものの、結果的には、不覚にも笑ってしまった。
大笑いはなかったものの、いい感じに全編笑ってしまった私の完敗である(いや、勝ち負けなんてないんだけれど・笑)。体調が万全だったからとか、観客の空気感が良かったとか(笑)。
でもって、話はよく出来ていて結構面白いのは確か。
しかし、アンドロイドが人間1人につき1体ずつ配給される法律が成立したから、という説明だけで、なぜそんなことになったのかはまったく触れず、そういう設定はないがしろのままでいいのかな? とも思った。
普通はその設定を利用して笑いのネタにするんじゃないのだろうか。
実験シリーズその1 『境界』 【追加公演決定】~これが最後のチャンスです~
劇団夢現舎
新高円寺アトラクターズ・スタヂオ(東京都)
2009/06/05 (金) ~ 2009/06/28 (日)公演終了
満足度★★★★
演劇はどこから始まるのだろう。つまり、その「境界」どこにあるのだろう?
観劇は、ふつうは客電が落ちて、幕が開いたりしてから始まることが多い。
ところが、今回のこの観劇(舞台)は、チケットが届いたところから始まっていた。
そういう意味での「境界」と「実験」を意識させる企てに、思わずにやりとした。
・・・いつもの通り。詳しくはネタバレにだらだら(恐ろしく長く)書いてます。
ネタバレBOX
チケットはなぜか大きな封筒で届いた。
「?」と思い、開封すると、なんと今回の舞台の企画書(!)と小さな手形のような木製の手作りのチケットが入っていたのだ。わざわざ私の名前まで入れて。
私は、とても愉快になったので、その労力に敬意を表して、チケットに麻紐を通して、首からぶら下げて会場を訪れた。
さらに希望すれば、前日に役者から電話までしてもらえると言う。私はスケジュールが不明確だったので希望しなかったのだが、前日にはメールが届いていた。
そして当日、チケットをぶら下げていたのだが、劇場はうっかり通り過ぎてしまった。なぜなら、白衣風の男が学習塾らしき建物の前に立っていたので、ここは当然違うだろうと思ったからだ。
これが、この奇妙な「境界」に踏み入れてしまった第一歩だったのかもしれない。
あとでわかることなのだが、舞台に立つ役者たちが観客を直接迎え入れていたのだ。やっぱり「境界」という舞台はすでに始まっていた。
なんでもOKの客席という設定も、観客&客席という空間の「境界」を意識させるのには十分だった。
「境界」について「実験」と称して行われるいくつかのエピソードは、それほど意外性もなく、特に最初のいくつかは、ちょっとガッカリした(例えば、鏡とか出所とか・・)。
とにかく気になったのは、そこここに、どことなく昭和レトロ的な匂いがするところなのだ。というか、なんとなく微妙なところがあるのだ。
例えば、「エレベーター」の話で、「シンドラー製」みたいな台詞が入るのだが、「今それを言う?」と思ってしまう。古くもないけど、新しくもない微妙な台詞。それを言うのはかまわないのだが、それに対してのフォローのひとひねりが足りない気がする。
「出所」のところでの「シャバ」から「ジャバダバシャバダバー」と歌うのには苦笑しか出なかったし、同じく出所のところの「政治家・・・」と言葉を濁すのも同様だ。
また、「男と女」のところでは、間にマットを敷いてそこを前転、後転、飛び込み前転などが繰り広げられるという、とてもナイスな展開があるにもかかわらず、締めの音楽が野坂の「黒の舟歌」(「男と女の間には〜」というアノ歌)が流れるのには、「残念」の言葉しか脳裏に浮かばなかった。「ベタすぎて、それはないよな〜」と思ってしまったのだ。・・・ま、若い観客には新鮮さがあるのかもしれないけど。
こうした匂いが、確信犯的に行われているのかどうかはわからないのだが、確信犯的な使い方ならば、なんとかフォローみたいなものがあったり、徹底してそのセンで責めてくれれば、言うことなかったのだ。
ひょっとしたら、この劇団はある意味「真面目」すぎるのかもしれない。真面目すぎる展開なのか?
しかし、退屈だとかつまらないという感覚はなく、結構楽しんだのだ。
一番面白かったのは、観客との「境界」がなくなった(客いじりとも言う)部分だった。
いいちこを注ぎにきたり、ピザのくだりなどだ。
たぶん、15人という少ない人数で役者に密接に向かい合うということから、こんなことを想像してきたからかもしれない。
というより、せっかくの、この接近性を活かさないテはないのだから。
その「境界」は、客席と舞台との間にある格子が示していたようだ。それが上がることで、舞台が少しだけ、こちら側にしみ出してくる。
「境界」という意味では、「眼鏡も一種の境界?」(実験を演じているとき以外全員が眼鏡を掛けている)という台詞を受けて、ラストは、観客との境界がどうなっているのかを含めて、眼鏡を掛けているのか、いないのかをはっきりさせて欲しかった(まちまちだったので)。
とは、いうものの、先に書いた観客との「境界」であった格子が元の位置に降りてくるときには、驚くべきことに、役者全員が格子のこちら側にいるのだ、つまり観客側に。
そして、観客にお尻を見せる形で舞台側に挨拶をする。
それはとても象徴的なラストシーンではないだろうか。
さらに、舞台での演技が終わり、客電が点いたところで、役者の皆さんが、ピザを勧めたり、ドリンクを注いでくれたり、お手拭きを持ってきてくれたりする。
これが本当に舞台と観客の「境界」が消えた瞬間である。
演劇そのものの「企て」として、「観客との境界を消すこと」を意識した上での、今回の「境界」という舞台を選択したのかどうかはわからないが、劇団の観客への真っ直ぐな想いは、確かに「境界を消しつつ」あった。
最後に、個人の名前が入った封筒を渡され、「実験のレポート」という名の「感想」を送ってくださいと、切手付きの返信封筒まで渡された私たちは、このレポートを書いて提出するまでも、今回の「舞台」の中なのだろう。
会場を出て、今体験した出来事を反芻しながら帰宅するのだが、そのときにこりっちに書くことが楽しくてしょうがない私は、やはり星の数を考えてしまう。
舞台の上で行われていたことだけを考えると、星3つかな、と正直思った。
しかし、飲んだリンゴジュースやピザの味を思い出してもう1つ増やすことにした(ある意味本当で、ある意味冗談)。
ホンネで言えば、その味に込められた、この劇団の真摯な、生真面目ともいえる姿、すぐ目の前で演じる役者のまなざしに打たれている自分がいたのだ。
そして、「境界」について演じている舞台の「境界」そのものが拡大して、観客をも包み込むという様は、愉快としか言いようがなかったのだ。
だって、木製の手形チケットの上に付いていた玉が割れてしまっていたのに気がついた受付の方は、「割れてしまっているようなので、お取り替えします」とまで言ってくれたのだから。チケットは、入場すれば終わりのはずなのに「修理」しようとしてくれるのだからね(ちなみに割れていたように見えた玉は、私がボンドですでに修理していた・笑)。この不思議な感覚は、今回のコンセプトが劇団の根底に流れるコンセプトとマッチしていたのだろう。
どうでもいいことだけど、お菓子や飲み物の用意をして待っているということに、童話の『泣いた赤鬼』を思い出してしまった。それって、鬼と人間の境界を越えて、人間と仲良くなりたい鬼の、泣けちゃう話なんだよね。
こころ
726
OFF OFFシアター(東京都)
2009/06/05 (金) ~ 2009/06/09 (火)公演終了
満足度★★★★★
品の良い「こころ」
吉田小夏さんの脚本だから観に行ったのだが、その期待通りの素晴らしい舞台だった。
もちろん、演出や役者の力量もあるのだが、「こころ」を見事にまとめあげていた。
726の2人の青年の、青年らしい輝きと陰り(単純に若さとも言うかもしれない)が見事に前に出ていたのが好印象。
私がわざわざ言うことではないのかもしれないが、726のとても素敵なスタートになった作品だと思う。
ネタバレBOX
観ていて強く感じたのは、吉田小夏さん(青☆組)の「雨と猫といくつかの嘘」を観たときに感じた「品の良さ」がこの舞台にもあったことだ。
時代設定ともマッチしており、役者の見事な演技とも相まってとてもいい空気感が醸し出されていた。
なにより、所作が美しい。湯のみから口を離した後に、そっと拭うなんていう所作がいいのだ。
数役を演じ分けたり、時間や場所が瞬時に移動するという見せ方がとてもスマートで美しい。役者は大変だったのではないだろうか。
つまり瞬時に、その人の置かれている状況が変わり、気持ちまでも変化しなくてはならないだけでなく、演じている人そのものも変わるのだから。
その切り替えの難しさを舞台の上で、すべての役者が見事にこなしていたのは素晴らしい。
まったく、無駄がひとつもない舞台だったと言っていいだろう。
また、例えば二役の持たせ方(例えば、私と先生の若い頃とか)が実にストーリーともマッチしていていいのだ。
ラスト近くの3人の死が重なる様も見事としかいいようがない。
ただし、あえて言えば「(明治という時代と)殉死する」という台詞が大切に使われていたのだが、やはりピンとこなかった。
もちろん大切な台詞であり、使いたかったのだとは思うが、それを使うのであれば、今、この時代の、こ言葉の意味するところ、指し示すものを感じさせてくれれば、言うことはなかった。
ちなみに私は630。
賭博師・梟 ―Fukuroh
劇団俳小
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2009/06/03 (水) ~ 2009/06/07 (日)公演終了
満足度★★★★
日活アクションならば、小林旭と宍戸錠の競演かな
まるで青年劇画誌のようなフライヤーのイラストに、「これは泥臭そうな舞台だな」と思いつつ、劇場へ。
終戦から2年後の函館が舞台なのだが、とにかくいろいろ詰め込んだという印象。そして、熱さが泥臭い。
それが、その時代設定と話の中央にある賭博に見事マッチしている。
麻雀の卓上で繰り広げられる賭博なのだが、その見せ方がうまい。そして、2階建てのセットの使い方もうまい。
年齢層が高そうな観客で一杯だったが、皆満足げだったのが印象的。客席の熱さも観劇にはいいスパイスということなのだろう。
昭和の香りがする古くささも含めていい味だった。・・・大げさすぎる感じもね。
ネタバレBOX
熱っぽく争われる賭博が単純でいい、てっきりそういう賭博があるのかと思えば、オリジナルのものだと言う。
丁半博打よりは駆け引きがありそうで、花札賭博よりは単純でわかりやすい。
劇中で記者に説明するという体で、その賭博の深さなどを観客に説明するというのは、よくあるパターンだが、架空の賭博が本物のように立ち上がってくるのは、作者さいふうめい氏の培ってきたものの現れなのだろう。
それにしても、時代と場所の設定からくる、ガンガン寺(ハリストス教会)、女郎屋、ヒロポン、戦争(函館大空襲、特攻、戦場)、アイヌ、さらに幕末の五稜郭の戦いと土方歳三までも詰め込んだのには脱帽だ。少々無理はあるが、いい感じではある。
この雰囲気、男臭さは、何かと似ていると思ったのだが、それは日活アクションだ。
ラバが小林旭で、フクロウが宍戸錠、そして2人が取り合う女を浅丘ルリ子が演じる感じなのだ(違うかな)。
もちろん、そのときには、この舞台とは異なり、賭場に現れる小林旭はギター片手に歌いながらだし、後半には、他の女郎屋との撃ち合いがあるのだが・・・。
しかし、主役の2人(フクロウ、ラバ)は、老獪な賭博師たちに見えたのだが、特攻の生き残り、兵隊として戦地に行ったということを考えると、20代半ばぐらいの設定なのだ。ところが実際はその倍以上の(?)年齢の方が演じていたので、若者の熱さを演じるためか、それが少々(かなり?)大げさな演技に見えてしまっていた。
全体的には、演技はどうかなぁ・・と思ってしまうところは多々あったのだが、熱いレトロ感が楽しかったのでよかった。
このパターンが3年続くとのことだが、この感じを期待したい。
リアル・ラスベガス
とくお組
赤坂RED/THEATER(東京都)
2009/06/03 (水) ~ 2009/06/07 (日)公演終了
満足度★★★★
電話で5文字で伝えるならば「オモシロイ」
前回『クッキング! Vol.01』では瞬発力に爆笑、前々回『宇宙ロケットえんぴつ』では、その綿密さに大笑いだったので、今回はハードルが上がり期待も高まった。
しかし、それと比べるとそこまでではなかったような気がする。
ただし、スマートで面白くって笑ったのは確かだ。
なんと言っても、とくお組独自とも言える「間」がいい。それは、笑いが生まれる「間」だ。
また、それぞれのキャラクターもあいかわらずいい味で、今回もうまく引き出されている。
ネタバレBOX
一番最初に感じたのは、そもそもの設定が不可思議なものであるにもかかわらず、登場人物たちがあっさりと信じてしまい、その設定の中に入ってしまうのは、どうなのかな? ということだ。
早く本題に入りたいという気持ちはわかるのだが、その葛藤とともに信じざるを得ない何かを絡めつつ、進めてほしかった。
つまり、もうひとひねりほしかったのだ。
また、今回は、映像の使い方がとても面白かった。現実の電車内や羽田空港のロケがいい雰囲気でとても効果が上がっている。
ただし、その映像の配分が多すぎる気がした。せっかくそこに役者がいるのだから、映像は最小限にしてもよかったのではないだろうか。
例えば、ラストのほうの羽田空港のシーンが映像で繰り広げられるのだが、あれは、舞台の上で演じてもよかったのではないだろうか。
カジノのシーンで女優が、ラウンドガールよろしく、文字をフリップで見せるところがあるのだが、あの要領で「羽田空港」と書いたフリップを見せれば、その場所は羽田空港になるのだから(羽田に向かう電車だけは映像で見せて、その間セットチェンジして・・)。
また、今回は、かなり広い舞台だったのだが、なぜに「机の上」で繰り広げられる「トランプのブラックジャック」なの? と思ってしまった。
セットも2階建てにはなっていたのだが、それがあまり活かせてなかったような気がする。
偶然だが、とくお組の翌日に劇団俳小の「梟」という舞台を見たのだが、これは、麻雀卓の上で行われる賭博がメインの話であり、劇場のサイズも似ていて、さらにセットは2階建てだったのだが、この俳小の賭博の見せ方や、セットの使い方がうまかっただけに、少々残念という感じがしてしまう。
さらに電話で最後に5文字だけ話すことができるというのは、3人目がオチとわかっているだけに、もっと予想外のことを言ってほしかった。
でも、面白いんだよなあ、とくお組。次も楽しみ。
花のゆりかご、星の雨
時間堂
ギャラリーLE DECO(東京都)
2009/06/02 (火) ~ 2009/06/14 (日)公演終了
満足度★★★★
命と時とモノが危うくも繋がり、危うくも続く
たぶん作者が言うところの「ふつう」の感じで、まったく無理なく舞台は進行する。
無理なはずの内容も、「ふつう」に見えてしまう。
そういうマジックが、やさしくやって来る。
ネタバレBOX
アンティークショップが舞台。取り置きの商品を女性が受け取りにくるのだが、手違いで別の人に売られてしまう。その商品(彫刻のあるソムリエナイフ)を巡る、母娘三代の途切れそうだった命の繋がり、親子の繋がりが、危うくも繋がっていく様子を丁寧に見せていく。
たとえ血が繋がっていても、いったん途切れてしまえば、おしまいになってしまう。それを繋げていくには、タイミングとどちらからかの働きかけが必要なのだ。しかし、それはわかっていても実際にはなかなか動けない。特に肉親だからこそ。
前半のアンティークショップでは、いろいろなエピソードが多く盛り込まれている。このままこんな感じで進むのかと思い始めた中盤から、ぐるっと話が展開する。
なるほど、前半の日常をきちんと描いたというのは、この後半の、三世代を遡るという非日常的な内容を、あまり突拍子もないことに見せないためだったのか。
実際、劇中でもスピリチュアルと言っていた展開だったのに、さほど違和感を感じなかった。
ふつうと地続きの非日常。
「ふつうの、すごい演劇」というのはこういうことなのか。
それは、前半の日常を描いたことだけではなく、扇子をコップや傘に見立てたり、暖簾や、ショーケースや修理している椅子まで、実際のモノ自体を使っても問題なさそうなものまで、すべてモノがない状態で演じるという演出によることも大きくかかわっているのだろう。特に花柄や破けた黒い布の使い方とイメージのさせ方はいいな!
こうした観客へのイメージの委ね方で、「ふつう」さは補強され、またさらに、観客としてはそれをしっかりと受け止めようと、より舞台に集中するという効果もあるのだろう。
効果音と音楽は役者がその場で作るのだが、その音と、無音の舞台の中に響く、外の自動車や山手線の走行音は、劇中のアンティークショップがある、街中をイメージするようで逆に生きた効果音だったように思える。花屋のシーンでも同様。
母と娘の確執は、具体的にはどんなものだったのかは示さないが、母親を「あの人」と呼んでいた娘が、母になり、その娘から、やはり「あの人」と呼ばれているのは哀しい。
ただ、同性の親子であること(特に女性同士)による、ドロっとした関係みたいなものがなく、意外のさらっとしていたし、最後の納得も実にあっさりした印象だ。
これは勝手な思い込みなのだが、女性の書き手が同じ内容を書けば、「母娘」の関係だけに、誰かの何かを犠牲にしても、痕が残るような何かがあったのではないかと思った。
であれば、作者が自分目線で、つまり、息子と母親の愛憎目線で描いたら、まったく別の世界が拓けたような気がするのだが、そういう、一見、赤裸々な感じは作者自身の好みではないのだろうなぁとも思った。全体の雰囲気とも違ってきそうだし。
客として店を訪れた女性は、自分の母や祖母の、途切れてしまいそうな縁や命が、危うくも繋がっていく大切な場面に立ち会う。そこにはいつも自分が取り戻したソムリエナイフがあった。しかしそれを見た女性が、自らはそれに頼らず自分のみで向かうという決意には力強さを感じた。
ナイフという、モノを切り離す道具が、結果、人をつないだり、つなぎ止めるような場面の需要な要素となっているスパイスの効かせ方は、なるほどと思いつつも、よく考えると、劇中のソムリエナイフは、モノを切り離すというより、ワインを開けて、人が集うという意味もありそうなだけに、おしゃれすぎるかも(笑)。
ソムリエナイフだから、ワインを開けてしまえば、飲まざるを得ない(前に進まざるを得ない)という状況になるということもかけているのだろうか。ていうか、考えすぎか。
アンティークショップの主人とその妻の関係と、また命の繋がりがさらに続くといのも、とても好ましいと感じた。
ラストの歌には、単純に思わず涙してしまいそうになった。
ちなみに、劇中で飲まれる紅茶どんな味なのか気になったのだが、実際に劇場内で飲める。結構強烈な香りと味わい。300円也。
前半は、紅茶の香り、後半は花の香りがするといいのにと、紅茶を飲みながら思った。ま、実際には無理だと思うけど。