フツーの生活
44 Produce Unit
紀伊國屋ホール(東京都)
2010/06/18 (金) ~ 2010/06/23 (水)公演終了
満足度★★★
「沖縄戦」のフツーの生活
いろんなものが盛り込まれていた。
それには意義もあろうが、やや単調となったことも否めない。
ネタバレBOX
「沖縄戦」と聞いて、即座に頭に浮かぶことがいくつかある。ガマ(洞窟)、沖縄住民と日本兵の関係、現地召集兵、米軍の対応、太平洋戦争における沖縄戦の位置付け、ガマ内での対立(赤ちゃんの泣き声)、ガマへの馬乗り攻撃、脱走兵、女子や少年の挺身隊、野戦病院と傷病兵の扱い、日本軍の転進、沖縄の方言とスパイ、などなど。
この舞台は、それをすべて盛り込んだと言ってもよいだろう。
それに、当時の教育や大陸での日本兵の様子、さらに天皇陛下のことなどもプラスされていた。
とにかく盛りだくさんである。しかし、いずれもが紋切り型である。「沖縄戦」と聞いたときからの、想像の範囲内と言ってもいいだろう。
劇中に「この出来事を後生に伝える」という意味の台詞があったが、沖縄戦を知らない若者には、それは一体どういう戦場だったのかを知るための1つの手かがりにはなる、という意味では、その存在意義はあったと思う。
そうでない観客にとっては、今1歩新鮮味に欠けてしまったように思える。
しかし、沖縄戦のことは、本や映画などでしか知らない私だが、舞台上で行われていることから触発されて、沖縄戦で起こったいろいろな出来事(あくまでも本や映画の中だけの内容だが)などを思い起こしてしまい、目頭が熱くなるシーンがいくつかあった。
それは、それを期待してつくられたシーンではなかったと思うのだが。
舞台は、ガマ(洞窟)の中で行われるので、ほぼ薄暗い中で行われていた。
沖縄の歌が随所で使われていて、そこだけに明るさがあった。
新納敏正さん演じるおしいさんが特に印象に残った。
44北川さんが演じる元兵隊は、自分の家族に対して、あんなにヒステリックになるのかな、というのが大きな疑問だった。ただ、沖縄戦・ガマ・赤ちゃんという図式の中で、日本兵だけを悪く描かないところに、ポイントがあったのかもしれないが、それにしても、である。
せっかく冒頭に「みんな家族のようなものだ」という台詞があるのだから、それを受けて、沖縄の優しい家族の姿を見せてほしかったと思う。内地からやって来た人たち(女性と軍曹)もそれに触れて・・というストーリーにしたならば、もう少し物語が広がり、心を打ったのではないかと思うのだ。
また、タイトルにある「フツーの生活」に、こだわった台詞がいくつかあったのだが、そこはもうひとつ大きな何かを与えてはくれなかった。
「国民は天皇陛下の子どもなんだから、親が子どもを・・云々」という台詞が後半、少し強い口調で、やや唐突に出てくる。なんとなくどこかで聞いたことあるような台詞だったし、「陛下が謝ってくださる」という台詞は、その意味と内容は違うものの、先日、井上ひさしさんの『夢の痂』を観たばかりなので、少し気になった。
今回の『フツーの生活』は、「戦中戦後三部作」ということなのだが、残る「宮崎編」「長崎編」も想定の範囲内なのだろうか、ちょっと気になる。
夢の痂(かさぶた)
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2010/06/03 (木) ~ 2010/06/20 (日)公演終了
満足度★★★★★
井上さんのメッセージがストレートに響く
「東京裁判三部作」の最後にふさわしい、素晴らしい音楽劇。
楽しい歌や笑いの中に、メッセージが光る。
ネタバレBOX
大本営の参謀・三宅が終戦直後、敗戦の責任を取って自害しようとするが助かってしまう。
その後、親戚の骨董屋の手伝いで屏風を、元大地主で、旧家の主人に売りに行くことになった。
売りに行った旧家には、30をすぎても嫁がない娘(国語文法の教師・絹子)がいる。彼女がお見合いを断っているのは、思いを寄せる男がいたのだが、戦争で失っていたことによる。
その旧家には、天皇の東北巡幸の際の宿泊場所になったとの内定が来る。
かつて大本営の参謀だったことから、天皇陛下のことをよく存じ上げているということで、絹子から、陛下をどのようにお迎えすればいいのかアドバイスをしてほしいと頼まれる。つまり、陛下をお迎えするための参謀になってくれと頼まれるのだ。
元参謀の三宅は、陛下に扮して予行練習を重ねていく。
実は、絹子は、陛下に一言申し上げたいことがあったのだ。
「東京裁判三部作」の中の最後の作品にあたるのだが、前2作とは異なり、直接的に東京裁判が出てくるわけではない。
しかし、東京裁判で裁かれる者(裁かれるはずの者)について、ラストの娘の訴えによって明らかになっていくのだ。
戦争の責任が誰にあるのか、という主張は、「陛下に一言謝ってほしい」という娘の願いに込められている。
責任があるから謝ってほしいということなのだ。しかし、それは、大元帥であった陛下に責任があるということだけを主張しているのではない。
一番上の者が謝れば、その下の者も、また、その下の者、そして、国民すべてが責任について考えることになっていくという主張と、陛下の一言が、国民にとっての救いになり、復興の原動力になる、という主張は重い。
東京裁判について国民の多くが無関心だったこともあるのだろう。
そして、国語文法の教師である娘・絹子が主張するのは、文法から読み解く日本語と日本人の特性だ。
例えば、「日本語には主語がなくても成り立つ」から「主語は隠れやすい」。そして隠れる場所は「そのときの状況」である。ということ。
また、8月15日より前は「本土決戦は日本人の使命である」と主張していたスローガンの中の「本土決戦」を、8月15日をすぎれば、「デモクラシー」と入れ替え「デモクラシーは日本人の使命である」をスローガンとしても通じてしまう。
日本語は名詞に「は」を付ければ簡単に主格になってしまう。つまり、その時々に一番強い言葉に「は」を入れてしまえば、りっぱなことを言っているように見えてしまうということ。
だから、戦中と戦後にまったく反対のことを主張していたとしても、それには誰も違和感を感じないということなのだ。
それらの中で、われわれが感じ取らなければならない「戦争の責任」。
「誰に責任がある」と戦犯を捜し、糾弾することではなく、戦争にかかわったすべての人に責任があるということからスタートすることの大切さ、つまり、そこからスタートすべきであったということを示しているととらえた。
そうしたことをきちんと済ませてこなかったこと、についての問い掛けや反省が、この舞台に込められているのではないだろうか。
「主語を隠してしまう」と言う、その気分と気持ちは今も日本人の中に続いている。
つまり、きちんと反省してこなかったことで、また、簡単に主語を状況や に隠してしまい、同じ過ちを繰り返していく可能性があるかもしれないということだ。
ラスト近く、絹子が陛下に扮している元参謀の三宅に問い掛け、三宅がそれに対して思わず答えてしまう展開は、笑いながらも、笑えないという、重さがある。
井上ひさしさんの、強いメッセージが台詞に乗り、見ている者の心にぐっとやって来る。
音楽劇という、一見優しいカタチをとりながら、その実とてもきつい真実を述べている、本当にいい作品だと思う。
全回ともにラストに共通する歌もよかった。しんみり。
君といつまでも
バジリコFバジオ
駅前劇場(東京都)
2010/06/17 (木) ~ 2010/06/21 (月)公演終了
満足度★★★★★
面白さの宝石箱やぁ〜〜! 不器用だけどねぇ
何と言ったらいいんだろう。
そう、
シアワセだなあ。
ボクはキミといるときが一番シアワセなんだ。
ボクは死ぬまでキミを離さないよ、いいだろ。
って、思わず「君といつまでも」by uozo kayama の歌中の台詞を言ってしまいたくなるぐらいに、シアワセ度が高く、私にとってのツボばかりが散りばめられているような舞台、というか劇団だ。
前説から始まって、ラストまでの約2時間は、楽しくってしかたない。ずっと見ていたい(前説も楽しいので、劇場にはぎりぎりではなく早めにどうぞ)。
ネタバレBOX
毎回フライヤーを飾る、一種独特の(翳りのあるというか特殊というか・・・)人形の造形と、それが動きしゃべるというだけで楽しいのだ。
また、どうでもいいような細かいディテールに溢れた、演出&演技には、笑みがとまらない。
例えば、オープニングで、焼き肉食べ放題の店に行ったカップルが話しているとき、身振り手振りで話す女性が、思わず手を前に出して、そこにある設定の焼き肉の鉄板に手が触れてしまったらしく、「アチチ」なんて言う、どーでもいいディテールなんかには見ほれてしまうのだ(ああ、この感じ伝わらないだろうなぁ・笑)。
物語は結構複雑。
初めてデートするカップルがいる。女性は、ホームレスに絡んでいたヤクザとケンカして約束の時間に遅れてしまう。そこで予定していた映画の前に食事に行くのだが、そこは焼き肉食べ放題の店であった。
そこで、男は、店の中の会話で、結婚詐欺の話、カッパの話を聞いてしまう。
カップルは、カッパのいるという川に出かけ、男はカッパを目にしてしまう。それを追っていくと、ホームレスのいる場所に出くわす。
一方、ホームレスを監視しているヤクザがいる。兄貴分は、映画の話に熱くなり、弟分はそれに付いていけない。
また、同じようにホームレスを監視している探偵と助手がいる。探偵はホームレスの中にいる女性を見て驚く。
ホームレスたちの中に入ったカップルは、ホームレスたちと、「星影のワルツ」でダンスを踊る。
カップルの男は、このときカゼを引き、それが原因で2週間後に死んでしまう。えっ!? 死んでしまう?? そうなのだ、てっきり主人公かと思っていた男は死んでしまうのだ。
ここで、タイトルが出る。そう、ここまでが今回の舞台のオープニングなのだ。
これだけいろんな、エピソードを含んだ登場人物が現れ、物語が進んでいく。さらに進むに従って、児童書の挿絵描きとその同棲相手とその母、あるいは結婚詐欺師やキツネや、神などがそれぞれの意味を持って登場し、さらにエピソードを膨らませていく。
いろんな疑問が浮かび、果たしてどこにどう結びついていくのか、という想いを載せて物語はさらに進行する。
亡くなってしまった妹を想う兄弟、相手を失ってしまったカップルの女、駆け落ちしてきた同棲中の男女、記憶を失ってしまった父を想う娘など、人を想う気持ちが、不器用にしか表現できない人たちが、不器用ながらも、気持ちに素直になろうとする様子や、気持ちが動いていく様子も、笑いの中に、丁寧に込められている。
不器用さが心に響く。
それが「君といつまでも」なんだ、まったくもって。
単に面白ければいいじゃないか、ということだけだはない、作・演出の良さがそこにある。
ラストに行くに従い、それが、じーんとしてきたりするのだ。ラストの楽園のシーンなんかは、台詞がないのに(妹の足が治っていたりして)、本当にいいのだ。結局のところ、優しい。
急に全員が舞台に現れ、踊り、歌うシーンには、うかつにも(笑)感動してしまいそうだった。
そう、劇中で使われる音楽も効果的だった(不気味すぎるオープニング映像のときの曲は何ていう曲だろう?)。
結局、すべてのエピソードがカンフーアクション的な展開になっていくという強引さも、なかなか捨てがたい。ここには「なぜ?」なんて理由を差し挟む余地はない。とにかくそうなっちゃったから、そうなるのだ。いいなあ、この感じも。
6月243日なんていう設定もいいなあ。梅雨も6月も終わらないなんていう。
役者では、最初にカップルとして登場する男女(三枝貴志さん&辻沢綾香さん)の雰囲気が良かった。男の語り口と、女のホントは強いという設定の表現が。
そして、同棲中の女の母(木下実香さん)のどこか飄々とした演技(娘:古市海見子さんとの危ないギャグの応酬も忘れてはならない)、また、探偵助手(新井田沙亜梨さん)の独特のテンション(唯我独尊の台詞回し)、児童書の挿絵画家(武田諭)の神経質な様子の演技なども印象に残った。
それと人形と美術を担当している木下実香さん(あのお母さん役の方なんだ!!!)の功績は忘れてはならない(マックセットに付いて来るノリスケ人形がよく見えなかったのが残念)。
あの人形たちの携帯ストラップが、グッズとして販売されていたら、買うんじゃないかな、いや、私ということではなく、誰かが、たぶん。
サウイフモノニ・・・
劇団チョコレートケーキ
テアトルBONBON(東京都)
2010/06/16 (水) ~ 2010/06/20 (日)公演終了
満足度★★★★
エピソードの積み上げ方による、物語の構築が素晴らしい
ディティールを大切にして、台詞にきちんと意味を持たせ、それが活きてくることのうまさがある。
現在と、聞き取り調査の中でのエピソード(過去)の部分の切り分けと、組み合わせによる見せ方のうまさ。
それを演じた役者の力量も評価に値する。
ネタバレBOX
宮澤賢治『グスコーブドリの伝記』を下敷きにした物語。
自己犠牲がテーマである物語の、主人公の本当の姿を暴こうとするのは、同じように、父親が他人を救うことで悲しい想いをしてきた男。
しかし、本当の姿を暴く過程で、男の内面にある父の姿を浮かび上がらせていく。
その物語がとてもよく、深い味わいを残す。
役者たちは、簡単な扮装や所作でいくつもの登場人物を演じるだけでなく、同じ登場人物の別の年代をも演じる。
一見複雑になりそうだが、その組み合わせが、見事に効果を上げている。
回想シーンの積み重ねによって、物語は進んでいくのだが、それが単調にならずに、並行させたり、時代の前後を自在に動かすという演出が見事。
また、高低差のある舞台装置の使い方もうまい。
グスコーブドリの一番年長を演じた山崎雅史さんが一見、知的で冷たそうに見えつつも、ラストの人間的な吐露がとても効いていて、グスコーブドリの本当の姿を垣間見せていた。
また、クーボー博士(西尾友樹さん)の動きや台詞回しが、何を考えているのかわからない、天才肌の一種近寄りがたい雰囲気を見せているのもよかった。あのように接してきたら、混乱するであろう。
それに対して、ペンネン博士(菊池敏弘さん)のクールで理知的な雰囲気もよく、舞台が締まって見えた。
これだけ、物語がうねって行くのに、物語を進行されるだけでなく、台詞がきちんと機能していることも素晴らしい。
台詞で、物語の、より深みが増していくシーンが多かった。
印象に残っているだけでも、クーボー博士が神についてグスコーブドリをはじめとする若い科学者に問い掛けるところや、グスコーブドリが妹と再会したときに、妹がグスコーブドリに聞けなかった「私を捜しましたか」という台詞、また、ペンネン博士が、「自分たち科学者に恐怖する」というような台詞などがある。
それらは、痰に何かを直接的に訴えたり、答えを求めるのではないあたりがうまいのだ。
余談だが、グスコーブドリが新しいエネルギーを生む炉を止めに、中に入って行くというシークエンスは、ソ連原潜K-219の臨界事故の際に、原子炉の臨界を防ぐために犠牲になった水兵の話を思い出した。
『アタシが一番愛してる』
バナナ学園純情乙女組
ART THEATER かもめ座(東京都)
2010/06/15 (火) ~ 2010/06/20 (日)公演終了
脳内に作用し、酩酊・多幸感・幻覚などをもたらす
そのような薬物を「麻薬」と言う(引用:ウィキペディア)。
さらにウィキでは、こう続く。
「依存性や毒性が強く健康を害する恐れがある」。
そんな感じではなかっただろうか、この公演は。
で、一言で言ってしまえば「面白い」。
後から、じんわり来る面白さもある。
不安定なジェットコースターに乗るような体験でもある。
そして、うるさくて、けたたましくて、POPで、ハイテンションで、キッチュ。
極彩色の汚物をぶちまけたよう。綺麗で汚い。
大音響に頭クラクラ・・・はしないけど、初体験なので、最初はちょっと引いた(笑)。そして、随所で「ほほぅ」と笑いながら見た。
ネタバレBOX
オープニングはいいとしても、少し進んでも、何だかよくわからない。
どうやら、物語を観客に伝える意志はないとみた。
だって、叫ぶ台詞がずっと重なったり、大音響の音楽(後ろのスピーカーは不要だったのでは?)で台詞が聞き取れないし、会話のやりとりの間、客席に向かって別の誰かが話し掛けたりしてるんだから。
それならば、こちらもそうしよう。物語は追わない。断片的に掴むことができる単語とかを拾うだけにしよう。
どうやら、ミスコンの話らしい。どうやら、誰かが殺されたらしい。どうやら・・・。ま、そんな具合だ。
なのに、あっという間だったな、90分(ライブ含む)。
みんな暑っ苦しくて素晴らしい。
てっきり、ほぼバナナ学園純情乙女組の人たちが演じているのかと思っていたら、当パン見て驚いた。客演が多い。なのに、このハマリようは何?!
中毒性が強いとみた。感染性も強そう。
だって、ゲストの成島秀和さん(こゆび侍)が、ミニおはぎライブで、何かを吹っ切ったように、あるいは何かが取り憑いたように、歌い叫び、踊っていた。チェックのミニスカートで。
暑っ苦しい中に、1人だけ、リラックマを背負う少女(高柳美由己さん)がいた。彼女だけが救いであった。彼女のお陰で、こちらの精神の安定が図れたのではないだろうか。なんて。
それと、「菊池(?)」というネームを付けて、物語に微妙に絡むようで、絡まない浅川千絵さんは、強引なほど印象に残るのだった。目と表情の翳りの感じがいい。
怒濤の本編が終わり、怒濤のミニおはぎライブが始まる。こちらは、さらにハイテンションで、音量も1目盛アップしたよう。
このエネルギーはなんだろうか。けなげすぎて目頭が熱くなりそうだ。
歌い、叫び、踊る。
ひょっとしたら、これを90分間続けたほうが潔いのではないかと思った。
台詞を入れて演劇っぽくする意味はあるのだろうか、ということ。
歌の合間にちょっとだけ台詞がある程度でもいいのではないかと思ったり。
ただし、劇場を覆う、音の洪水に、ノイズ・ミュージックのようなカタルシスや完成度、さらに音を出すことへの強い欲求があれば、言うことないのだが、そのレベルにはまったく達していない。
とは言え、ここには肉体があるのが強み。しかも若い。
汗が飛ぶし、唾も飛ぶ。
演じるほうの気持ち良さが、最高であることは、その表情によってわかる。
それを少しだけでも、こちらも感じられたなら、よかったんだけど。
見るほうも体力勝負な感じなので、次回も見るか? と聞かれれば、「微妙」とだけ答えておく。
だけど、5年後はどうなっているのかは、非常に気になる。
気になるのでチェックは怠らないようにしたい。
そうそう、音悪すぎ。意図しているのかもしれないけど、できれば、音にはもっと注意を払ってほしいと思う。
だって、音楽大切なんでしょ?
そして、絶対に万人向けでないことだけは確か。
「視野」
reset-N
アサヒ・アートスクエア(東京都)
2010/06/11 (金) ~ 2010/06/14 (月)公演終了
満足度★★★★
視野の先に広がる「虚」の空間
床に座る。
アートスクエアの天井は高い。
蛍光灯がいくつも縦に下げられている。
俳優の上の空間が広く空く。
ネタバレBOX
観客の視野には、俳優の上に広がる「空間」が「広がる」、というよりは、舞台が進行するにつれて「重くのしかかって」くる。
「虚」の重さ。
スラップスティックと劇団側が表現する、3つのエピソードが繰り広げられる。
(たぶん)何かに絶望している女たち。それに寄り添う男たち。
男たちは、女のことを理解しようと思っているというよりは、自分のことしか考えてないように思う。自己愛的な。
女と男には会話はあるが、コミュニケーションは断絶している。
そこへの「絶望」でもあろう。
3つのエピソードは、舞台の上に広がる「虚」の中に立ち上り、静かに消えていく。
交わることはない。
正直に告白すると、最初はクッションもあるし、好きなところに座れるのだから、通常の桟敷席とは異なり、足も伸ばせるし、なんて思っていたが、やはり、途中からお尻が痛くなってきた。静かすぎる空間なので、身体をあまりもぞもぞともできず、お尻と腰の苦痛は高まるばかり。
したがって、苦痛の中で、後半、台詞に集中できなかった。
(4つぐらいイス席も用意されていたが、さすがに上演中は移動はできないし)
それと、意図されていたとは言え、ライトの高さが辛い。目に直接光が入ってまぶしい。
観客の「視野」をコントロールしたいがために、床に座らせることを企画したのだと思うが、あの空間の広さで言えば、イスの高さがあったとしても同じだったのではないだろうか。
頭で考えすぎの結果が、苦痛なのではしょうがないのではないか。
苦痛も「込み」の演劇ならば、それはそれでアリだったかもしれないが、やっぱり苦痛はイヤだし、演技と台詞には集中したいものだ。
全体的にスタイリッシュ。
役者の雰囲気も、どこか胸を張って、鼻をツンと上にしたような感じさえ受ける。
女優の切羽詰まった演技は素晴らしいと思った。声を張らない緊張感があり、迫ってくるものがある。特に白い紙を持って佇む女の。
また、宗教に入り込みそうな男に向かって叫ぶ女の声はきつい。それがいい(この宗教のエピソードは好きだ)。
言葉をまるでだじゃれのように繰り返す女(これって、お笑いのジョイマンではないか、と思ってしまった)と男のエピソードがあったが、これにはまったく共感ができなかった。意味が不明すぎる。ラストの刃傷沙汰も、ありきたりでつまらない。というより思考を停止させているようにすら思えた。
こんなスタイリッシュなのに、出刃? なのだ。
まあ「殺意と一緒に用意した出刃」なのだろうが、どうも悪いギャグのようだ。
また、ライブハウスのように、飲み物と食べ物の用意がしてある。
ただし、あの舞台の雰囲気では、食べながらどころか、飲みながら見ることはできない。
食べたり飲んだりは、開演前に、あるいは終演後に、という意味であれば、床に座らせて飲み食いしろと言うのはどうかと思う。
野外の芝生の上ならばともかく、クッションがあるというものの、床に座って、おしゃれな食事なんてとる気がしない。
アイデアとしてはわかるのだが、実際の観客のことを考えているとは思えない。
飲食をさせるならば、イスと簡単でもいいので、机ぐらいは欲しい。
コンビニの前に座り込んで飲み食いする世代だけが観客ではないのだから。
「飲食」は「ホスピタリティ」の意図と、会場に「アサヒアートスクエア」を使うという縛り(たぶん)から来ていて、観客を「床に座らせ」、「絶望を見せたかった」という意図があったとは思えないし。
そして、この部分も含めて、演劇なのだから、きちんと神経を行き渡らせるべきだと思う。
意図と企画には賛同するが、話の結びと、苦痛には賛同できない。星を付けると限りなく3つに近い。
ただし、気になった劇団となったので、(ちょっと偉そうに言うと)やっぱり4つとした。
愛死に【ご来場ありがとうございました。】
FUKAIPRODUCE羽衣
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2010/06/12 (土) ~ 2010/06/22 (火)公演終了
満足度★★★★
ちょっと下品でエロくって、歌が心の柔らかいところを刺激するような妙ージカル
小劇場の良さって何だろう、と考えると、やっぱり、演じ手との距離の近さではないかと思う。
近いことで生まれる一体感と、近いからこそのウソのない真剣さが感じられることがある。
FUKAIPRODUCE羽衣 の舞台を観ると、なんか、そういう「小劇場の良さ」を味わえるように思える。
叫んでいるから熱いのではなく、真剣な姿勢が熱いとでも言うか、熱量の放出が気持ちいいのだ。
とにかく、ここで歌われる「歌」が好き。身体に合うんだなあこれが。
クセになる感じと言うか。
かつて、こまわりくんがチャンピオン誌上で「慣れれば美味しいくさやの干物」と叫んでいたのを思い出すというか、そんな感じ。
でも、好みが分かれるんだろうなぁ、この劇団。
ネタバレBOX
オープニングのロッキングチェアの軋む音、ギーギーなんていう音を声に出して、重なり合う、さらに1音1音区切って発する台詞それらが織りなすのは、音楽だった。
いわゆるポリリズム。
このあたりから、ヤラれるのだ。
導入の見事さ。続く物語への期待感。
6つのカップルが、それぞれを語る。
それは、端から見ると単なる「バカップル」で、「見てられない」ものだ。だって互いに互いしか見えていない世界を横から見ているのだから。
恋愛中の誰もが経験するような、端から見ると、バカで濃密な時間が繰り広げられる。ここは、お下品でちょっとエロい。
(だじゃれ攻撃には、苦笑つししも・笑)
6つの愛の形でもあり、6つの愛の段階でもあるように思える。
濃厚な舞台とは対照的に、中盤から突然、律儀(笑)でパンクなカップルが登場する。舞台の上で繰り広げられる痴態とは、まだ縁のない無垢な(笑)パンクカップル。
彼らは、夜の劇場に忍び込み、何も行われていない舞台にそれぞれのイマジネーションを投影するのだ。
この視点が入ることで、舞台の幅が広がったような印象を受ける。
つまり、とにかく主観的な恋愛事情が、観客という視線だけではなく、パンクカップルの視線により、さらに客観性を帯びてくる。
ただ、その客観性に、意味が欲しかった。つまり、作者からの客観性の意味づけが欲しかったと思う。それがあって、初めて「客観性」が完成したように思える。
ラストの海と死へのアプローチは、受ける印象が観客によって分かれるのではないだろうか。
1人で海に行く者、カップルで海に行って「どこか遠いところ」に行きたいというカップル。
そこで、パンクカップルの視線、つまり「舞台の上の虚構」に対する視線が効いてくるように思えた。
シェイクスピアじゃないけれど、「死? 眠り? それとも夢?」の世界へ行ったのではないだろうか、と思ったり。
残念なのは、叫ぶ歌の歌詞が聞き取れないところが随所にあったことだ。特に大切であろう個所が、熱っぽく叫ばれてしまっていたので、そこが聞き取れなかった。
せめて、当パンで、歌詞を付けてもいいんじゃないかと思う。歌詞は大切なのだから。
登場人物はすべてが濃い。ねっとりしている。そこがいい。
そして、全員が常にせり出した舞台の上にいる状態で、1カップルずつスポットを浴びるのだが、よく見ると、残りの5つのカップルも止まらず演技を続けている。薄暗がりの中にあって、細かくは見えないのだが、明らかに演技も表情もストップせずにフルスロットルの状態にある。
汗だく。
この感じは、詳細が見えなくても必ず観客に伝わる。これが、この姿勢が大切なんだ。
また、今回の舞台は、よくよく考えると、『朝霞と夕霞と夜のおやすみ』にその構造が似ている。似ているというよりは、そのまんまである。
オープニングの静かな入り方と、各カップルが順番に並列的に現れる様子。そして、『朝霞と・・・』のまどろむ中での歌に該当するのが、律儀なパンク風カップル。さらに『朝霞と・・・』では山に登り夕日が印象的だったが、今回は海に行き夕日が沈む。
まったく同じ構造なのだ。
でも、いい、それでもいいんだ。
よせあつめフェスタ
プロジェクトあまうめ
新宿シアター・ミラクル(東京都)
2010/06/13 (日) ~ 2010/06/13 (日)公演終了
満足度★★★★★
毎年6月13日は「あまうめの日#anaume」に
しちゃってもいいと思う。
日程を設定すると今回のような、お祭り的な感じは薄まるかもしれないけど、アイデアによっては、今回のようなイベント性と緊張感を演出できるイベントができるかもしれないと思ったり。それこそ、Twitterでアイデア募集したらいいかも。
と、思ってしまうほど、楽しいイベントであり、参加してよかったと思った。
Twitterで、シアターミラクルからの「つぶやき」で、次々状況が変化し、上演が実現化していく様は、単なる傍観者なのに、面白くって、スリリング。
上演前から楽しんでいた。
舞台が作り上げられる様子を、そばで見ている感じなのだ。
ネタバレBOX
6本の短編に+αの前説。
どれも面白い。6つの味わい。
短期間で、練習が1日のみということを横に置いても、なかなか良い出来で、どれも満遍なく楽しめた。
すっごく笑ったし。
初めて競演する役者たちと、初めて演じる他の劇団の脚本をもとに演じるのだから、役者たちの、いつもと違う頭と身体の使い方があったのではないかと思う。
そういう意味で、短期間ということだけではなく、彼らにとってもスリリングで刺激的なイベントではなかっただろうか。
そういう、根源的な、つまり、演じたい、という欲求と演じることの楽しさの再認識とでもいう、そんな喜びも、そこにあったように思える。
そんな場所に立ち会えたことのうれしさも、観客としてあるのだ。
1本目の「ツイッター」は、言ったもん勝ちの、ずるいオチで大笑い。
そして5本目の「あさはかな魂よ、慈悲深い雨となって彼女の髪を濡らせ」(作・櫻井智也(MCR))は、笑いとじんわり感のバランスが絶妙! 堀越涼さん(花組芝居)のロックな感じが印象に残る。
6本中4本は、関村俊介さん(あひるなんちゃら)の作によるものだろう。あひるなんちゃらで見ることができるような、独特の会話と不条理とも言えるような、ノイローゼ的な(笑)台詞が楽しい。
それが、あひるのテイストとはまた違った雰囲気で味わえるので、違う世界が観られるのだ。
とりあえず、観劇して数時間経つが、楽しかったことは身体に刻まれた。
今回のイベント的な舞台は、出会い頭的なモノではあったが、これが続かないだろうかと思ったのだ。
スリリングで刺激的な感じが。
もちろん、今回1回だけという良さもあるのだが、今のお祭り気分の余韻で言ってしまうと、「毎年6月13日はあまうめの日」にしちゃえ、と言いたい。
今回のような緊張感が醸し出されるとは思えないが、アイデアによっては、何か同じようなイベントができるのではないかと思うのだ。
それこそ、今回、Twitterで役者やスタッフを集めて、集客の大部分をTwitterで担ったように、アイデアもTwitterで集めたりは可能ではないかと思うのだ。
ついでに言うと、当パンに自分のユーザー名を発見して、ちょっとうれしい。
サウンド・オブ・ミュージック
劇団四季
四季劇場 [秋](東京都)
2010/04/11 (日) ~ 2011/03/12 (土)公演終了
満足度★★★★
おなじみの歌に彩られて楽しいミュージカル
とてもわかりやすく、丁寧に物語は進行する。
とにかくどの歌も楽しいし、聞いていてうきうきする。
もちろん、オリジナルの持つクオリティもあるのだが、見事に見せてくれた、演出や俳優たちの力量もあるのだろう。
暗い時代へ向かう頃の話だが、前向きなエネルギーに溢れ、見てるいる者の気持ちも前向きにする、良質なミュージカルだ。
さすが四季と言ってしまう。
ただ、残念なのは、登場人物の誰にも魅力を感じなかったことだ。
せめて、主人公のマリアにもっと焦点を当て、彼女の前向きなエネルギーの源のようなものを感じさせてくれれば言うことはなかったと思う(トラップ家の子どもたちと初めて出会い、子どもたちの心をつかむあたりの演出はうまいと思ったが)。
ほかの四季の舞台も観たくなってしまった。
どうでもいいことだけど、突撃隊員の制服は黒ではない。
テンペスト
劇団俳小
シアターグリーン BASE THEATER(東京都)
2010/06/05 (土) ~ 2010/06/13 (日)公演終了
満足度★★★★
シェイクスピアは面白い
シアターグリーン・ベースシアターという小さなサイズにうまくマッチした演出で、シンプルに、そして軽く物語を見せてくれた。重厚だったり、格式張ったりしていないが、これはこれでアリではないかと思った。つまり、大げさでないところがいいと思ったのだ。
テンペストという、オリジナルの物語は面白いと思う。それだけに下手に演じて演出されると、とても退屈になってしまうのだが、今回はそんなことはなかった。
饒舌な演劇なのに、その饒舌臭さをあまり感じず、約2時間の舞台は飽きることはなかった。
ネタバレBOX
まず配役が面白い。ここにはアイデアがあった。
ナポリ王・アロンゾー(堀越健次さん)、その弟・セバスチャン(松永陽三さん)、そして、プロスペローの弟で、現ミラノ大公・アントーニオ(山田喜久男さん)という位の高い役と、賄い方・ステファノー、道化・トリンキュロー、さらに奴隷のキャリバンという下層の役をそれぞれ同じ役者が演じるのだ。
したがって、彼らは、王侯貴族の役と庶民奴隷の役をシーンごとに演じ分けるのだ。
まさに、人の裏表(当日パンフで彼らの写真がネガとポジになっていて、それを如実に表している)。
王たちは、威厳を保っているように見えるが、かつてプロスペローを追放したり、また、今のナポリ王の地位を奪おうしていたりと、一皮剥けば、醜い姿がそこにある。
一方、ステファノーたちは、自分の欲望の趣くままに、滑稽に行動する。
そんな2役を楽しそうに演じているのだ。その様子は見ていて楽しいし。巧みな演出だと思った。
イタリアの仮面劇のようにキャラクターがしっかりした、軽くて喜劇的な匂いをそこに感じた、というのは言いすぎだろうか。
途中で、衣装替えの様子を舞台で演じさせるという趣向や、ステファノーたちに、アロンゾーたちが着ていた衣装によく似たボロの衣装を着せるというのは、彼らが2役を演じている意味と意図を、きちんと示しており、とても面白いと思った。
セットはシンプル。嵐のときに雲らしきものをバックに投影したり、日食のような照明を照らしたりするところはあるものの、ほとんどは灰色の壁であった。ただし、これは、全体の印象が重くなりがちなので、白のほうがいいと思ったのだが。
床は格子状になっていて、ところどころに棒を差し込めるようになっていたり、枠が現れたりするようになっていた。実にシンプルだが、単に棒を置いたり、枠を舞台袖から持ってくるよりも効果的だと思った。
また、道具も衣装も最小限で実にシンプルにしてあり、最小限のものでイマジネーションを膨らませるようにしてあった(妖精たちによる怪鳥が現れるシーンなどはまさにそう)。
単なる棒にしても、妖精の力を見せたり、王たちへの戒め(魔法にかかった状態等)だったりと、効果的に使われるのだ。
シンプルなのだが、演出が手際よく、舞台の空間を無駄なく使い、さらにシンボル的に見せるカタチを役者たちの身体によって作り、それが全体の中でうまくアクセントとなり、リズムを作っていた。
音楽は、役者が鍵盤ハーモニカや太鼓、鈴、トライアングルで生演奏し、歌う。演奏と歌は土着的、あるいは牧歌的な雰囲気を漂わせ、一行が流れ着いた島の様子や妖精などというモノの雰囲気をうまく表していたと思う。この雰囲気はとても好きだ。
物語中盤で、ナポリ王の息子とプロスペローの娘が恋仲になるのだが、恋に落ちた2人の、なんとも言えない、(他人から見た)馬鹿さ加減がとてもいい。大げさで歯の浮くような台詞には笑いが起こる。
先にも書いたが、年配チーム(失礼・笑)の2役の切り替えはさすがだった。酔っぱらいや下卑た様子が、王になるととたんにしゃっきりし、別人のようになる様子がうまいのだ。
演じることの楽しさのようなものまで感じるほど、嬉々として(特に、酔っぱらいや奴隷など演じるときのほうは、のびのびとして)演じているように見えた。
妖精役エアリエル(村松立寛さん)も全体のいいアクセントになっていたと思うし、大役をうまくこなしていたと思う。
シェイクスピアって面白いなぁ、と再確認したような舞台だった。
恋女房達
青☆組
アトリエ春風舎(東京都)
2010/06/03 (木) ~ 2010/06/08 (火)公演終了
満足度★★★★★
心にすっと入り、じんわりと広がっていくような良さ
あいかわらず、台詞と、その間と、そのトーンが絶妙である。
ちょっとした短い会話から、その人やその人との関係が、すっと浮かび上がる様は見事だ。
ネタバレBOX
ちょっとした視点の変化から、物事の有様や本質のようなものを眺めてみることが、青☆組の得意とするところではないだろうか。
その視点の変化は、以前の『花とアスファルト』にあった「団地に熊が住む」という設定のように、今回の「恋女房」での、ちょっとあり得ないものから、「末永い夜」のように、痴呆の母親が感じている歳からの視点が交錯するようなものまである。
また、その設定がジャンプしても、足下はきちんと現実と地続きにある。人と人との関係や繋がりなどが現実の中にある。だから、単なる絵空事や、中途半端なSFやファンタジーになってしまわない。
そして、その根底には、どこか温かさがある。それはたとえ「押しかけ女房」のような怖い話であったとしてもだ。つまり、怖い思いをした女の心には、恐怖以外のものが残ったように思えるからだ。
青☆組の良さは、「人(というもの)を信じている」ということ、あるいは「そういう人が絶対にいることを信じている」ということではないだろうか。そんな感じがする。
いつも青☆組を観た後の感想に「品の良さ」のようなことを、私は書くのだが、結局のところ、「品」とはそうした人と人との関係の表れのようなのもかもしれないと思うのだ。
「恋女房」
保険外交員の男と同じ視線で???を頭に浮かべながら物語が進む。無理にこじつけや説明がないところがいい。ちょっとブラックな味わい。
「燃えないゴミ」
コミカルな中に、やはりブラックなテイストが。
「スープの味」
2つに分けたところが秀逸。前半に子どもっぽくだだをこねていただけの男に見えていたのが、後半では、切なさ溢れる展開に。
「押しかけ女房」
雨の設定が効いている。こういう細かいディテールの選択が、短編なのに物語を深く見せてくれる。カギのキーワードからの、ぞっとする展開が見事だし、単なる恐怖話にしないための、ラストのモノローグが切ない。これって、同世代で同じような境遇の女性(1人暮らしの女性という意味で、不倫は別として)から見ると、切実なものがあるのではないかと思った。吉田小夏さんの気持ちが込められているのかな。
「赤い糸」
ほのぼの話。メルヘンっぽくあるが、これは、赤い糸なんてものは存在しないので、本当のところ、運命の赤い糸伝説を自分で演出し、今付き合っている男にそれを信じさせ、結婚を決断させた女の話なのかもしれない。つまり、男だけでなく、「物語だから赤い糸はあり得る前提で観ていた」観客もうまく騙したのかもしれない。
「末永い夜」
親戚間の会話がうまい。何気ない会話なのに、関係が見えてくる。母親が痴呆で、昔の時代にいることを若い女性に演じさせることのうまさは、演劇ならではの演出であり、観客の頭を少し揺さぶってくれて気持ちいい。ラストの一言が活きてきて、深い味わいと余韻が残る。
短編というと、どうもオトシバナシ的な展開になりがちなものだが、すべてを下手にオチを付けてオチのための物語にしなかったところが、うまいと思う。
短編映画でも短編小説でも、直接的には描かれていない前後の繋がりがうっすらと見えてくるものがいい作品だと思う。
そういう意味において、この短編たちは、単にストーリーを追って、面白い、おかしいというだけでない、深みや余韻を楽しめるものになっていた。
青☆組と吉田小夏さんの作品を数本を拝見して感じるのは、男女の役割が、ちょっとノスタルジー的な彩りがあることだ。
それは、吉田小夏さんの実体験というよりは、根底に持っている昭和へのあこがれなのか、または彼女のご両親から受け取ったもの(愛情とか)に対する尊敬の念なのかな、と思う。
それがアナクロになったり、パロディになったりしないのは、創作の巧みさだけでなく、やはり「品」とか「姿勢」とかのようなものなのではないかと思うのだ。
私の観劇した回は、あの会場で立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。次回は、もう少し大きな会場で、ということになるのだろうか。
すでに次回も楽しみになっている。
家の内臓【作・演出 前田司郎】
アル☆カンパニー
川崎市アートセンター アルテリオ小劇場(神奈川県)
2010/06/04 (金) ~ 2010/06/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
「アレだから」的な前田ワールドが、うだうだと炸裂していた
「家族」「温泉旅行」というキーワードが前回と共通していたが、前田さんの手によるものだから、違うものになるだろうと期待して観に行った。
やはり違っていた。前回はハードな内容で、シンプルで簡略化された舞台装置がそれを引き立てていた。
今回は、リアルな温泉宿内で、カバンやふとんやいろいろなものがある。それに包まれた話には、温かさがあった。
めんどくさいけど、楽しい感じ。
わかるなあ、その感じ、と思う。
ネタバレBOX
深夜で、ちょっとアルコールが入った状態のテンションが見事。
言葉の絡み方がとてもいい。
空気感までうまく作り込まれている。
出演者がとにかくいい。
「ほら、あれ」とかの言葉も、逆に平田さんの年齢だからよけいに活きてくる。歳取ると言葉でないことって多いし、深夜だし、眠いし。
五反田団があと10年、20年たったときにも、こういう雰囲気になっていくのだろうなあと。
とても眠い様子がまたいい。わかるその感じ、の演技が秀逸。
細かい動きや位置、姿勢までもきちんとコントロールされ、それが自然の形に見えてくるあたりがうますぎる。
夫婦も親子も会社も、そして劇団もみんな家族。
夫婦はもともと家族ではないのだが、ある日突然家族になる。
そして突然また他人に戻る。
親子は、生まれたときから家族になって、両親が別れても、子どもが嫁いで名字が変わっても家族として続く。
社員も長く一緒にいると、まるで家族のような関係になることもある。
同じ職場にいたり、特に零細・中小企業ならば、そういう関係になる可能性は高い。
別れて家族でなくなった元夫婦や親子が、同じ会社でまた家族になっていく(る)というねじれた関係性が面白い。「家族だ」と宣言しなくても成立する家族。たぶんそれは純日本的な感覚ではないだろうか。
温泉旅館で、川の字に布団を敷き、うだうだするのがとても似合う日本の家族だ。
何気ない会話と、1時間ちょっとの時間の中で、「家族」というテーマが見事に結実していたように思えた。
とてもいい舞台だった。
しかし、「家の内臓」≒「家の内装」だったとは(みんなが勤めている会社が内装業・笑)。
『SHIBAHAMA』 遂に本日千秋楽!!!当日券出ます!!ぜひぜひおこしください。
快快
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2010/06/03 (木) ~ 2010/06/13 (日)公演終了
満足度★★★
真面目な人たちの真剣勝負なお楽しみ会
これは、全身で楽しもうとする能動的な態度で臨まないと楽しめない。
そういう「意志」を継続させないと、楽しめないかもしれない。
気を抜いて観ると「飽きる」ところもある。
ぶつ切り的な感じだからだろうか。
全体的な印象としては、「ああ、やってる人たちは楽しいんだろうなあ」というもので、「お楽しみ会」的な印象を受けてしまう。ただし、それがちょっとうらやましかったりもする。
出たいわけじゃないけど。
ネタバレBOX
全体的に言うと「楽しかった」のだが、確実に飽きてしまうところもあり。
特に最初のステインアライブが流れるところは、なんだかつまらない。すぐ飽きた。
とは言え、その後は持ち直し、面白いことが次々と。
しかし、こちらが気を抜くと、あっという間に「飽きて」くる。
「出し物」1個1個が、ポツン、ポツンとあるからで、その繋がりと、言葉による紹介の手際がイマイチのような気がする(そこのあたりがお楽しみ会的な)。
もちろんうまく繋いでいるところもあるのだが、音楽と台詞のサンプリングが全体的なトーンを形作っているのだから、それをノリシロにしてもっとうまくウェーブのように全体をコントロールできたのではないだろうか。
音楽に乗せたり、台詞のサンプリングを流したり、個所に仕込まれたスイッチを触ることで音が出たりという、音によるグルーヴが試みられていたが、どうもそれがグルーヴにはなっていないように思えた。
もちろん、ちょっとした瞬間に気持ちよさが現れてくるところもあったが、動きの音感が、イマイチ、「手順」のように聞こえて(見えて)しまい、「波」や「うねり」になっていかないのだ。これは練習しても身につかないのかもしれないのだが、そこに「飽き」が来てしまう原因があるように思えた。
また、首を絞めて落としたり、の後のスタンガンのくだりとか、本気ボクシングとかは、身体を張っていたりしたやつは(ホントに落ちたか、スタンガンを当てたのかは別にして)、演じる側のリスクと見合うだけの面白さはなかったように思える。もちろん、ボクシングなどは面白かったのだけど、その面白さは、例えば、会場全体を使ったTVゲームほどの一体感や面白さまでには到達しなかったと思う。
身体を張ったあれらは、やってる本人の充実感はあるのだろうけど、どちらかと言うと、他の出し物のようなぐだくだしり、どうでもいい感じのほうが、よかったように思えるのだ。
リアルに何かが行われるよりも、どうでもいいことが、リアルさなしに行われたほうが面白かったし、全体的なトーンも合っていたように思える。
ただし、ボクシングのときに周囲を固める出演者やスタッフたちの、ただならぬ目つきだけは、見応えがあった。が、それも結局のところ全体のトーンを壊していたように思えた。
全体的な印象としては、かなり本気モードで行われており、口調とか様子とは別に、観客の容赦ない視線があるだけに、真剣そのものだったように思えた。
「真剣そのものに見えた」ことはプラスに働いていたかどうかは別として。
一見楽しそうに見えているんだけど。
今回のゲストは、歌の郷拓郎さんとアイドルユニットのフルーツ☆パンチだった。
歌は、全体的に浮き足立っていた中で歌われたのであまり集中して聞くことができず、よさげな歌だっただけに、きちんと聞きたかったような気がした。
アイドルさんたちは、とってもかわいいんで、これはちょっと得した気分。
毎回ゲストが変わるということは、当然内容も微妙に変わるということで、その融合具合、接触具合によってはとてつもなく面白い日もあるのかもしれないし、ないのかもしれない。
ついでに言えば、芝浜という作り話の虚構とアイドルという虚構のぶつかりが見えたら言うことはなかったように思えた。日替わりゲストなので無理だけど。
なぜ「芝浜」なのか、というところは、私の中では解決しなかった。理由なんてないのかもしれないが。
あえて言えば、芝浜という落語の作り話は、落語家の手によって、観客のイマジネーションの中に生きてくる。今回の舞台は、フィクションとノンフィクションとの狭間にあって、ウソとして見せたり、ホントとして見せたりというあたりが「芝浜」だったのかもしれない。
フィールドワークのエピソードとしての合法○○ッグや、スタンガンの使用など、そのあたりの見せ方が、狭間にあった。
いろんな法的な感じにしても狭間にあったかもしれないし。
全身全霊を込めて、てきとうさを醸し出していたり、バカバカしかったり、悪のりしすぎたりしていたら、もっと楽しめたような気がする。
取り組む姿勢が真面目すぎなのかもしれない。例えば、監視カメラの映像は意味ありげだし、その映像が監視カメラのものであると説明したり、サゲがアゲっていうオチも、最初にサゲの言葉を説明したりするし。真面目なのは結構なのだが、その真面目さが見えてしまうところが問題なのかもしれない。
こんな雰囲気だったら、観客も舞台の周辺をぶらぶらさせたり(一定の範囲内で)、あるいは舞台のところに入れて、一緒に踊ったりさせてもよかったように思える。そういう「演出的な危険」や「ハプニング」まで取り込んだほうが刺激的だったのではないだろうか。
奥の通路(トイレ側)の壁にこの宇宙がビッグバンによって始まってから芝浜を演じるまでの略歴の展示があったが、気がつかなかった人も多いのではなかったかもしれない。
グッズを入り口付近で販売していたが、サボテンのアレとか販売していたら面白かったような気もする。無理だけど(笑)。
まあ、あまり考えずに、観て、いや見て、はは、とか、ふふ、とか思っていればよかったのだろう。いや考えすぎてもよかったかもしれない。
しかし、見終わってから、劇場を出た後の虚しさは何だったのだろうか。
クセナキスキス
The end of company ジエン社
d-倉庫(東京都)
2010/06/03 (木) ~ 2010/06/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
クセナキスの不安と苛立ち
クセナキスの曲を、少し大きめのボリュームで聴きながら劇場にやって来た。
舞台で話される「音楽家の高橋さん」の妹のアキさんの演奏によるCDだ。
舞台の幕が開く。
そこには、とんでもない台詞のアンサンブルが聞こえていた。
あえて、クセナキスと比べる必要もないのだが、その緊張感の濃度は等しい。
台詞が、きつい。
研ぎ澄まされた鋭い台詞の音色。
素晴らしい舞台。
ネタバレBOX
100年に一度の東海大地震のすこし後、市民の一部はまだ体育館などに避難している状況。
丘の上にある、開設前のデイサービス。ある宗教団体が運営する予定。
しかし、中心となるケアマネージャーの急死等で、認可がおりる可能性はまったくなく、開設は無理だろうということだ。
しかし、そこで働くスタッフは、準備を進めている。
無理を知っていたり、知らなかったり。
この場所に人が集まったところで、余震により道路が塞がり、ここは孤立してしまう。
集まった人の中には、開設に携わる医師がいる。彼は医療事故により、自分は殺人を犯したと責め、その遺族の女性を、この場所に誘拐してきている。
誘拐された女性は、一日中、音楽を聴き、PCの前にいる。逃げることはしない。ただ、この場所に訪れると思っている(あるいは思っていない)、音楽家の高橋さんを待っている(あるいは待っていない)。高橋さんは、クセナキスの理解者だ。
老人という設定の女性が開設前のこの場所で暮らす。身体に障害があり、どうやら認知症の兆しもあるようだ(もしくは、その設定を全うしている)。
様子のおかしい兄を連れにやってきた、医師の妹。介護用品の営業マン。スタッフの女性の恋人。開設前の空いている場所でバンドの練習をする3人。ここで暮らす女性の元恋人である市役所の職員。
とにかく、全員が何かへの閉塞感を抱えている。閉塞感からくる不安が、苛立ちを醸成する。その苛立ちや不安が舞台の上で充満している。
その源泉がどこにあるのかが、わかっていてもどうしようもない。
とにかく、全員が苛立っている。
大地震の後での疲れや不安が彼らをさらに苛立てている。
文字通り足下の揺れ、立っているところの不安定さは、彼ら全員に共通する。
また、ここへの唯一の道が塞がれ、孤立してしまったという様子も彼らの姿に重なってくる。
ここから出るには、救援隊が必要だと言う。また、自分で帰ることができると主張する者もいる。あるいは、ひょいと簡単に麓と行き来する者もいる。
ここにいる者は、外からの助けを求めている。自らの力ではこの閉塞感を突破できないと感じている。
「独り言」と言いながらも、SOSを発信している(救助を求めている)。SOSの声は届いているが、言葉は届いていない。もちろんそれがSOSであることはわかるが、誰もが自分のことだけで手一杯で、手をさしのべることはできない。
唯一、ここに暮らす女性だけが、手をさしのべようとするのだが、苛立つ者には、その手は見えていない。
というよりは、「助けてほしいあなた」からだけの救助を求めているのかもしれない。
声を荒げることはほとんどないのだが、言葉がきつい。
相手にダメージを与えることを期待しての、一言がきつい。
特に女性から発せられる一言が、ドスが効いていて背筋が凍る。
そんな風には言われたくないという空気をまとった言葉は、きつい。
救いは当然なく、自らの中で納得するしかない。
崖崩れによる、現実の孤立は、救助隊によって解消されていく。しかし、彼らの孤立は解決しない。
元医師は、コミュニケーションがうまくなかったと、過去を振り返るのだが、ちゃんとしていれば、と振り返るだけで前は見えていない。
ラストで、ガラスに映った自分の姿だけは確認するのだが、結局、人とのコミュニケーションは断絶したままで、向かい合う2人の声は、会話とはならず、自分だけに向けられている。
最初から最後まで、PCに向かい、ヘッドフォンで音楽を聴いている女性キスメは、ヘッドフォンの外で起こっていることは、聞こえるのだが、聞こえないことにしていた。
それは、実際にはすべての登場人物の姿であり、人のことは聞こえない。聞いてもわからない。クセナキスの音楽は聞こえてもわからないように。
キスメが待つ高橋さんと、同一の人物とは思えない高橋さんがやってくることで、彼女はひょっとしたら孤立から抜け出せるのかもしれない。高橋さんが本物だった場合は、彼が救援隊になるからだ。
キスメという名前はHNなのだが、KISSMEからきているという指摘は切ない。
クセナキスという作曲家は、高橋悠治という弟子であり、音楽家である人によって、特に晩年は、世界とつながっていたらしい。
クセナキスは晩年、アルツハイマー病に冒されていたと言う。アーチストにとって、自分の作品を世界に伝えられないというのは、どれほど辛いものだったのだろうか。
クセナキスの苛立ちと不安は、登場人物たちの不安でもある。
翻訳者や仲立ちをしてくれる救援隊は、彼らにいるのだろうか。
そういう不安や苛立ちと、外からの「手」は、誰しもが持つであろう願望でもある(あるいはあったはずである)。
ある時期の誰でもが経験するような気持ちだけに、見ていて辛すぎる舞台でもあった。
出演者の台詞のアンサンブルがとにかく素晴らしい。
息をのむ。
久々に凄い舞台を観た。
いろんな人に観てもらいたいと本気で思った、(たぶん)初めての劇団ではないだろうか。
ジエン社はこれから注目していこうと思う。
再び、クセナキスを聴きながら帰路につくしかない。
おまけ:劇中で出てくるクセナキスのシナファイ@ユーチューブ。
http://www.youtube.com/watch?v=9pBMxp8EJFA
エビパラビモパラート
インパラプレパラート
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2010/06/03 (木) ~ 2010/06/06 (日)公演終了
満足度★★★
パワーは凄いんだけどねー・・・なんか憎めなんいだよねー。
予想通り、がちゃがちゃした感じ。
うまく言えないけど、そんな感じなのだ。
悪く言えば「雑」とも言えるかもしれない。
そんな印象さえ受けてしまう。
けど、憎めない。
なぜだろう?
ネタバレBOX
周囲から孤立した孤島での話。
王が亡くなり、跡継ぎの争いが起ころうとしている。耳が聞こえない王子と引きこもりの王女の2人がその後継者争いに祭り上げられる。
この国には、ニートの若者たちがいた。彼らは、親の金をくすねては仕事もせずぶらぶらしていた。ところが、ある日、彼らは家を追い出され。しかたなく仕事に就こうかと思うのだが、学歴も資格もない。そこで、履歴書に書けるような何かを成し遂げようとして、島にある誰も登ったことのない山に登る。
苦労してたどり着いた頂上には、不思議な塔があり、その周囲には不思議なモノが埋まっていた。彼らはそれを地上に持ち帰る。
彼らが持ち帰ったものは「楽器」だった。
実はこの島には音楽が一切なかった。それは、この島は、音楽を捨てた人たちがたどりついた場所であり、楽器は山に封印をしていたのだ。
ニートたちは楽器を奏でることを知り、周囲の人々を明るくする。
その演奏を偶然聞いた引きこもりだった王女は、彼らの仲間に入り、彼らを城に呼び寄せる。
彼らは国民に受け入れられ、徐々にスケジュールがハードになっていく。そんな中、彼らは、これからの活動について意見が分かれ、仲間割れをしてしまう。
城の中では、王女の医師が王女をけしかけ、別の国を作ろうとするのだ。それに対抗して、王子たちは軍を率いて王女たちと戦いを始める。この戦いは、王子の教育係オクタビアによって仕組まれたものだった。
ニートたちは、2つに分かれ、それぞれの軍隊を鼓舞するために、音楽を奏でる。
ニートたちの奏でる音楽に導かれ、王女の軍と王子の軍は一進一退を繰り返す。
そんな中、さらに新たに民衆たちが立ち上がり、王子と王女の軍に戦をしかけてきた。実は、これもオクタビアに仕組まれた陰謀だったのだ。
そんな物語。
ミュージカルというほどではないのだが、歌が随所にある。
導入部の歌は、物語の始まりとして期待を高めたのだが、どうもソロパートがいけない。それはないだろう、と思うほど下手なソロが出てくる。
役者が演奏するのは、愛嬌としても、この歌は辛い。
合唱はとてもいい雰囲気なのに。
(これは想像なのだが、歌がうまくなかったのは、つまり音程を外していたのは、歌のときだけマイクを使っていたので、自分の歌声や演奏の「返し」が悪くて、それらがよく聞こえずに音程をつかめなかったという技術的な問題ではなかったのか、と思っている)
ただ、全体のパワーはある。
気合いが入っているのだろう。
しかし、そのテンションの高さは、休憩込みで2時間半の舞台で続けられると厳しいものがある。
物語は、ニートが中心になっていくのだと思っていたら、王女がどうやら中心にあるらしい。
彼女は、戦場での命のやり取りを見て、「ただいま」と家族に言うために、生きて帰ってくれ、と兵士たちに言う。
言うのだが、それは???である。戦争していて、敵は殺すわけだから、自分たちの仲間は無事でいてくれ、ということなのだろうか。
もちろん、ラストには、戦いをやめさせようと、ニートたちと一緒に音楽を奏でるのだが。
もっと全体的な視野に立つべきではなかったのか、それが感じられないので、どうも物語がしっくりこない。
また、王子は耳の聞こえない設定で、ラストに音楽の持つ力を自らの心臓の鼓動とともに感じることができたのだか、その力に畏怖してのか、あるいは理解できなかったのか、周囲に死をもたらしてしまう。
これはどういうことなのか、音の聞こえない者には、音楽は理解できないということなのか。ここは大切なのだから、説明不足すぎないだろうか。
キーマンとして、物語には、音楽を伝える男がいる。あるときは小鳥にまたあるときは猿に姿を変え現れニートたちに音楽を伝え、導く。彼は、自分の愛した女が音楽をやめてしまったことを残念に思っていて、ニートたちを通じて、またこの世界に音楽を伝えようとするのだが、彼の気持ちがもうひとつこちらに伝わってこない。
それは、結局彼は何をしたかったのか、ニートたちに何をさせたかったのかがわからないからだ。
普通こういう話の展開であれば、ラストにニートたちの音楽が島全体に流れ、戦場と化した島に平和が訪れるとなるはずだが(実際にこの舞台でも島全体を震わせるほどに音楽が響き渡のだ)、そうならない。戦いは終わらない。
ニートたちは、音楽を奏でながら、ただ死んでいくのみ。ヒーローに祭り上げられて、利用されて、捨てられて死んでいく。
王子・王女・民衆と3つに分かれたままで、世界も変わらない。
音楽というものが、民衆の感情を左右し、戦争にさえ荷担することができるのに、結局、音楽では何も変えることができなかった、というオチになる。
ある意味衝撃的だ。
王子の軍、王女の軍、そして民衆の軍は、結局、ニートたちが命と引き替えに音楽を奏でても、何も変わらず、対立し、小競り合いを続けているというエピローグの虚しさは、ちょっと秀逸なんではないか、とさえ思ってしまった。
しかし、そのラストを迎え、彼らを通じてこの世界に音楽を伝えた男は、それをどう考えたのか、どうとらえたのか、がわからない。
これが彼の望んでいた世界なのか。
ここに、作者の意図が込められるべきではなかったのかと思う。観客に伝わるように。
「音楽は、人の心を揺さぶり、扇動するが、何も変えることはできない」という、そんなメッセージなのか。
であれば、それはそれで凄いかもしれない。
そう考えながら、ミュージカルを行っているのだから。
物語の中心にいる若者たちがニートである意味も考えてみると、確かに自分が本気でやりたいことを見つけて打ち込むことができれば、的な展開ではあるのだが、教訓としては物足りなく、物語の必然性にも足りないように感じてしまった。
ニートの若者、音楽、人の心、その3つの軸が、きちんと整理されて提示されなければ、どれもが、ありきたりで普通に見えてしまうのだろう。
ついでに言ってしまえば、自分の命と引き替えに他人を守るという、ヒロイズムが後半の戦いの中で溢れていたが、それが意外と普通で、安直なつくりになっていたように思えてしまった。もっと言ってしまえば、薄っぺらいというか。
それが感動的に感じられればよかったんだけどね。
ということで、全体的にがちゃがちゃした印象を持ってしまった今回の舞台だが、それでもなぜか憎めないところがある。
結局は、「人」なんだと思う。よくわからないが、舞台にいる生身の人から感じる何かが、「良さ」のようなものを醸し出しているのだと思う。
人の感じる好き嫌いというものは、実に不思議なものである(笑)。第一印象が良かったということなのかもしれないけど。
それと、飽きずに見ることだけはできた。これは貴重なことでもでもある。
役者では、前回、天使の役で妙な存在感を感じた、でく田ともみさんが、今回もピノコ他を演じ、妙に存在感を示していた。底抜けとも見える明るさみたいなものを感じるのだ。
それと、ソナチネ役の内山ちひろさんも、全体的に浮き足立っていた登場人物の中で、しっかりと地に足をつけていて印象に残った。
他の登場人物も、確かに熱演ではあった。
大勢の登場人物を交通整理する手腕もなかなかだったかもしれない。
劇場の帰り際に、若者たちの会話が耳に入ってきた。「結局、ニートでも、いいということなんだな(笑)」「親から金をくすねてもいいってことか(笑)」。うん、そういう内容だった(かもしれない・笑)。
露出狂
柿喰う客
王子小劇場(東京都)
2010/05/19 (水) ~ 2010/05/31 (月)公演終了
満足度★★★★★
<乱痴気>シャッフル恐るべし!
キャストをシャッフルするという狂気とも言える企画「乱痴気」の回を観た。
私は役者ではないので、よくはわからないが、公演の途中でキャストを全部シャッフルして演じなくてはならないというのは、大変なのではないかと思う。
もちろん、役者さんたちは、自分の台詞だけ覚えているのではないだろうけど、覚えているのと、実際に台詞とて演技しつつ声を発するのとでは大いに違うと思うのだ。
それが、もちろん、ちよっと噛んだり、間違えたりはあるものの、その対応までも面白くして見せるという、根性はすさまじいものがあると思う。
シャッフルが大阪を含めて3回あるということだが、それぞれもまたシャッフルするという、それには、やっぱり唸ってしまう。
ネタバレBOX
とにかく、パワーが溢れていた。
確かにこの劇場のサイズはそれほど大きくないのだが、女優十数名がずらりと、腰を落として構えの姿勢で並ぶ姿は壮観であった。
さらに彼女たちのパワーは、舞台から溢れて、発せられるパワーの量はとんでもないものだった。舞台の全体の調和を考えながらも、前に出てやろうとするどん欲さとでもいうのか、観客を楽しませてやろうという意気込みなのか、全編パワーが凄い。
そのパワーは、電力に換算すると、東京スカイツリーで賑わう墨田区で使用する1.5時間分ぐらいの消費量に相当するのではないかと思ったほどだ(このたとえ、特に意味はない)。
ほぼ全員が常に観客のほうを向き、体を構えて台詞を叫ぶ姿は、正面の観客にストレートにエネルギーが届けられていた。その様は、いにしえの小劇場のようでもあった。
部活とか、サークルとか、人が集まる集団にはありがちな、人と人との交流をテーマに、お下品で、極端で、ちょっと心のヒダをくすぐるようで、過激で、センチメンタルなスパイスもあっての、なんかそんな物語が繰り広げられる。
だけと、「出会ったのは別れるため」的な台詞が最後のほうにあるのだが、正直、もうそんなストーリー的なことはどうでもいい感じだ。
物語は、ストーリーだけで成り立っているわけではなく、そこに登場する登場人物の造形とともに形作られていくということを、改めて感じさせてくれた。
役者は、メインとなる1期生がやはり印象に残る。全員のキャラクターがとにかくわかりやすいし、楽しい(ヨーロッパ企画からの客演がヨーロッパからの帰国子女という設定も含め)。韓国風キャラは少々卑怯(笑)すぎて面白いし。
観ていて、この役はこの人にぴったりで、ほかの人など考えられない、なんてことまで思ってしまうほどだ。今回限りのシャッフルキャストなのに。
そして公演後、配役表を見てまたびっくり。この役を今やっていた人が、オリジナルでは、性格の大きく違うこの役を、また、逆にこの役は、オリジナルでは、今この役をやっていた人がやるんだ、なんてことを知り驚くのだ。
シャッフル恐るべし、となるのだ。
こうなると、オリジナルのほうは必見なのだが、日程が合わず、残念。
再演してほしいと心から願うのであった。
そして、これから5年、10年たってもこんな風にやっていてほしいとも思ったのだ。
空気ノ機械ノ尾ッポvol.15~キカイ~
空気ノ機械ノ尾ッポ
シアターブラッツ(東京都)
2010/05/27 (木) ~ 2010/05/30 (日)公演終了
満足度★★★
不思議な空気がベンチのあたりに流れていた
全体の構成(照明等を含む)のフォーメーションはとてもいい。
惹き付けるものは確実にあると思う。
だけど、心から楽しめたかと言われると・・・。
ネタバレBOX
役者さんたちの、特に中心にいた2名の技量はそれなりにあると思う。
台詞のやりとりだけで、見入ってしまう。
金髪の人の「間」がいい。相手の会話から、自分が台詞を発する間やトーンがうまいなと思った。また、ソファーを推していた女性も印象に残った。
しかし、いかんせん、物語が面白くない。それは、オチだとか起承転結だとか、ハッピーエンドだとか、訴えたいことだとかのようなこととは関係ない、物語性だ。つまり、演劇として、観客を楽しませるためのガイドのようなものとしての物語。ただそこにあることを、ストレートに見せるだけにしても、物語性に乏しいと感じた。
どうでもいいことを話している2人のやり取りの、会話の内容が問題なのではなく、この演劇で、観客の私を、もっとどこかに連れて行ってほしかったということだ。
例えば、ベンチが船のごとく走り出すという展開があるのだが、この展開も意外と同じパターンの繰り返しで、物語が重なっていかない。
もとのベンチというところに戻るにしても、もっとトリップさせてほしかったと思う。
その、イマジネーションのジャンプ率のようなものが大きければ大きいほど、もとに戻る、冷静になる、という展開も活きてきたのではないだろうか。
また、最初にたくさんの人々が行き交うシーンがあるのだが、もっと丁寧に計算して登場させるべきではなかったのだろうか。
せわしい中にも、シャボン玉やゲームなどをしている人を交えているのだから、その人ごとのリズムや呼吸で登場させるべきだはなかっただろうか。
それがすべて同じトーンに見えてしまった。
さらに、ここが一番気になったのだが、中心にいる2人の声がでかい。
全編同じトーンで会話しているようだ。
もちろん、引いたり押したりということで、トーンは多少変わっているところもあるのだが、全体の印象としては、怒鳴り合っているようにしか見えなかった。
特に貧血でベンチに座っている設定の男は、いきなりあんなテンションで話すことはできないはずだ。
もう一方の男がテンション高く話しかけてきて、それを少々鬱陶しいと思いながらも、もう少し弱々しく対応したほうがしっくりきたと思う。
また、「殺人鬼」なんていうキーワードが出てきて、それだけなぜか姿を見せるのだが、その意味はあったのだろうか。後半でまたその話題になるのだが、特に意味はないのだ。
ベンチだけの設定なのに、前後や左右への動きや、ベンチの座り方、照明の当て方など、表現の方法や、構成・展開は、かなり面白いものがあるだけに、とにかく、もっと物語としての面白みがあったらなぁというのが、本音である。
ベンチを介して初めて出会った者が、些細なことを議論しつつも、特に何も起きずに別れる、というストーリーにしても、もっと豊かな物語が描けたと思うのだ。
あれだけの表現方法(演出)を持っているのだから、可能だと思う。
あとは、少し笑いがほしかった。
間がいいので、それは無理なことではないと思う。
それらが揃えば、相当面白くて独自の世界を構築できるのではないかと思った。
だから今後に期待はできる。
劇団とは、関係ないのことなのだが、この劇場の椅子(のようなもの)は悪すぎる。座面の高さが低すぎて、お尻も腰も痛くなる。なんでこんなに低くしているのかまったく意味がわからない。できればこの劇場での公演は観たくないと常々思っている。客いじりで、ソファーのことを観客に尋ねるシーンがあったので、もし私が指名されたら、「ベンチでもソファーでも、どっちでもいいから、この席と変えてくれ」と言おうと思っていた(笑)。
寸劇役者に花道を
LIVES(ライヴズ)
笹塚ファクトリー(東京都)
2010/05/20 (木) ~ 2010/05/23 (日)公演終了
満足度★★★★
哀愁の中に笑いが紛れ込む
なんだかいつも哀愁を感じてしまうLIVES。
今回は、すべてがタイトルにある「花道を」ということで、有終の美を飾るような話が5本。
ただし、単に終わりではなく、次に何かが来る予感も最後に必ずやって来る。
ネタバレBOX
器用じゃない普通の「人」の生活のターニングポイントが、にじみ出る哀愁とおかしさに彩られてじんわり現れてくるところがいい。
「おじさん」たちを演じさせたら、このLIVESの右に出る劇団はないだろう。
しかも、もれなく哀愁付きで。
特におじさんメタルバンドの話がツボだった。
いわゆるジャバメタ最盛期にいたバンドやそのメンバーは現役で残っている人が多いので、そんな人たちにダブって見えてきたり。
今もロン毛だったり、短くしていたり、薄くなっていたり、シャープな体だったり、お腹が出ていたり、別人のような2倍増になっていたり。
でも続けている。そんな姿がダブるのだ。
スナックの最後の営業は、おじさんたちの話よりも、バイタリティを感じた。女は強しというところか。
ボクシングの話は、名作『Dear My Hero』のあらすじ版のようだった。あまり成績を残せなかったボクサー最後の試合に気を遣うジムの人々、かつての同期の男、ボクサーの彼女(だった人)、そして、ガウンのエピソードまで。なぜここまで同じ話をここに入れたのかは不明だが、笑ってしまった。これが原型ということなのだろうか。
ラストの話は、ちょっとあざとい感じがしたが(女の子が看護師になるところまでのすべてが)、まあOKだろう。・・・って何様のつもりか(笑)。笑いがきちんと織り込んであるし。
PARTYせよ
東京おいっす!
「劇」小劇場(東京都)
2010/05/25 (火) ~ 2010/06/01 (火)公演終了
満足度★★★★
単純明快で面白い
腹を抱えて大爆笑なんてものはないものの、いい感じに笑えて楽しかった。
基本、オフビートな感じも好きだ。
(一部激高する人もいるにはいたが)
肩が凝らずに、仕事終わりにとか、休日の午後なんかに、軽く観るのには悪くないと思う。
何か刺激的なモノを求める向きには不向きかもしれないが。
この劇団の持っている空気感のようなものが好きなのかもしれない。
ネタバレBOX
小学校の教師・小瀬とベリーダンスのインストラクター・美緒の夫婦が、新築の家のテラスでパーティを開こうとしている。
今日は、花火大会があり、ベリーダンスの教え子のノゾミと、教師の後輩・鈴木を引き合わせようという意図もある。
隣の家ではお通夜の真っ最中。
小瀬夫婦が新居に初めて入居するときに、隣の人が玄関で倒れていたのを発見したのだが、そのまま帰らぬ人となってしまった。
隣家とはその程度の付き合いである。
実は、小瀬は今回パーティに呼んだノゾミと不倫関係にある。ノゾミは今回のパーティが自分と鈴木のお見合いのようなものであることは知らされておらず、それを知って激怒する。
そんな中に、隣の喪主・三宅から頼まれて女性を預かることになる。その女性・裕子は、三宅の愛人であり、三宅の態度に怒っている。
また、新居を点検という口実で、小瀬の妻・美緒の昔の同級生の設計士・伊吹が訪れる。実は、美緒は伊吹と1度だけ過ちを犯してしまっていた。
さらに美緒は妊娠しており、子どもが夫の子なのか、伊吹の子なのかがわからない。
そんな3組の不倫関係に、パーティの料理を無料で作るという怪しい男や、小瀬夫婦の知り合いで、新婚旅行から帰ってきたばかりの夫婦が絡んでくる。
そんな物語。
大笑いするわけではないが、オフビートな感じで、笑いをまぶしながら物語が進行
していく。
とにかく、男性登場人物のキャラクターが面白い。
無理して変なことをしているのではないのだが、追い詰められたり、初めから空気が読めない男だったりと、その対処方法や表現がいいのだ。
やや、変な人も出てくるのだが、いそうな人をちょっとデフォルメした程度(ちょっとでなくて、かなりかもしれないが)で、いそうな人とありそうな対応と態度というところがいい。
それがベースにあるので、それはないだろうという状況も、受け入れやすいかもしれない(三宅の愛人・裕子の態度は常軌を逸しているが、怒りが頂点に達しているから、ともとれなくはなかったし)。
結局、どの男もダメにヤツばかりで、それに付き合わされ、振り回される女性たちがかわいそうに思えてくる。
たぶん、女性の視線から見ると、男たちのいい加減さは、激怒モノかもしれない。
ただ、そうなることを知っていながら一緒にいてしまった女なのだ、ということもあるにはある。
そういう意味では、愛人2人と、妻のとった選択は合点がいくのだが、残念ながら、また同じ轍を踏むように思えてならないのだ。
唯一、問題のなさそうな新婚の2人も、勘違い男とそれに酔っている妻という構図は、他のカップルとそんなに違いはなく、新婚時期をすぎたらどうなることやら、という感じもする。
今回の舞台では、不倫や愛人の話題をふられて、窮するということが笑いに結びついていたが、「ここにいてはまずい人」とか「顔を合わせてはいけない人」という設定も可能だったと思うので、そうした設定による緊迫感が出れば、さらに笑いも生まれ、言うことはなかったと思う。
それにつけても、前回『シャッフル・ルーム』も不倫的な話だったが、今回もそんな話である。
この劇団は、どこまで、不倫問題が好きなのか、なんて思ったりもする(笑)。
単純に、困った状況に陥りやすく、それが笑いに結びつきやすいので、こうしたテーマ選んでいるのだと思うのだが・・・。ま、安直な感じもしないでもないが、それでもいいとしよう。
ただし、次回も同じ、愛人&不倫話だった場合は・・・本当に不倫話が好きなんだなあ、思いつつも、アタマを1回ぐらいどついてもいいのではないかと思ったり(笑)。
『あぁ、自殺生活』 ~ ありがとうございました。次回は下北沢楽園にて6/1(金)&6/20(日)に上演致します。
劇団夢現舎
新高円寺アトラクターズ・スタヂオ(東京都)
2010/05/13 (木) ~ 2010/05/26 (水)公演終了
満足度★★
【前期】うーん・・・・。
正直途中で飽きた。
先の見えない不毛で中途半端な会話が延々続く。
彼らの紋切り型の応酬は、面白くない。
紋切り型すぎてコメディでもシュールでもない。
意外性もなく、ほとんど笑えない(わずかに笑ったところもあったが)。
メインとなる2人の会話が前にも後ろにも上にも進まず、足踏みをしているよう。
ネタバレBOX
会場ではそれなりに笑い声が起こっていたし、ここでの評価も高いので、面白いと思う人もいたのだろうから、「私にとって」は「面白くなかった」が正確な表現かもしれない。
だけど、「頼道くん」っていう名前だけで笑えないでしょう。そんなに何回も(名前の由来のところでは笑ってしまったけども)。
周囲に笑い声があるだけに、座っているのが辛かった。ただし、何よりも、どういう結びになるのかだけは興味があった。
だから、一応ラストまで、と思っていたが、ラストも想像の範囲内であったし、何かを与えてくれるわけでもない。自殺願望男が残されて、電車に向かっていくところで暗転。彼がどうしたかをぼかして終わり。これじゃなあ。
いっそ、誰も寄せ付けないような完全な不条理劇に徹したものか、(笑えない)コメディであったのなら、どんなによかったことか。
ゴドーならぬ「自殺を待ちながら」という(基本)2人劇の。
途中で駅員が出てくるが、あれは、けたたましいホイッスル音で眠気を覚ますだけで、物語に変化を与えない。
単に、行き詰まった状態を打破する解決策がなかったから、安易に外から新たな登場人物を持ってきたようにしか見えない。もったいない。
ここで、もう1人面倒なキャラクターとして駅員が現れたのならば、面白い展開になったかもしれない。
足踏み状態が少しは開けたのかもしれないし。
2人の会話はキャラクターが一定しているようで、焦点が定まらず、特に自殺志願の男は本当に死にたいと思っているのかどうかさえもあやふやだ。
本当に死にたいと思っていないことが、会話で炙り出されるのならば意味はあるのだが、そうでもない。
第一、なぜ彼は自殺を止めた男の話に耳を傾けて、さらに、そこに居続けるのかがわからない。
立ち去ろうとしない理由と留まる理由が希薄すぎる。
自殺願望の男と、それを止める男という関係(力関係等々)が、徐々に止めた男の本音が現れてくることで、彼らの関係が気がつくと逆転していく、というようなメビウスの輪のような状況にしたかったのではないかと思うのだが、もしそうであれば、それは成功したとは思えない。
単に、止めた男も自殺願望があったことがわかるだけ。しかも、彼のそれは、あまり本気ではなさそう。
つまり、2人の演技がずっと同じだからだ。声のトーンとか動きとか何か方法があったのではないだろうか。
唐突に「あなたがいないと生きていけない」とか「あなたがいないと自殺できない」と言われてもなあ、だ。
会話が中途半端な感じがする。もっと徹底して、観ている者を苛つかせたり、挑発するか、もっと不毛な会話で混乱させるかしてほしかった。
延々続く会話の積み重ねで何かが現れてくると思っていたが、何も現れず、解決らしきものもない。
解決とは、物語の結論的な意味であり、自殺願望男をどうこうしようではない。
結局、自殺というものに対する作者の意見のようなものが明確には示されていないように思えた。もちろん、それを観客にゆだねるという姿勢があるわけでもない。
「自殺力」「自殺道」という、いいキーワードが出てくるのだから、そこをもっと徹底して、(無理矢理でも、こじつけでもいいから)体系立てた上で、登場人物に語らせてほしかった。そこへのアプローチがイマイチ弱いのではなかろうか。
エピソードだけは多いのだが、少々蘊蓄がすぎる印象。
結局、お芝居お芝居した口調と、現実では口にしないようなお芝居的な台詞、さらに歩く、止まる、振り返るなどの動作もいちいち手順通りで進めてます、のように徐々に見えてきてしまい。それが鼻についてしまった。
それを「あえて」そうしているのならば、意味があるのかもしれないが、そうとは思えない。
今回もスタッフや役者さんたちの客入れや客出し、後のフォローまで劇団の対応は、ホスピタリティが溢れるものだっただけに、こんな感想を書くのは申し訳ないような気もするのだが、合わないものはしょうがない。
そう「合わない」のだ。そういうことにしよう。
入場券が切符型でハサミを入れるところまでは(つまり幕開き前までは)、面白かったんだけどなあ。