アキラの観てきた!クチコミ一覧

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「時苦想パズル」

「時苦想パズル」

劇団テアトル・エコー

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2010/07/29 (木) ~ 2010/08/04 (水)公演終了

満足度★★★★★

安定感ある舞台で、安心して楽しめる
テアトル・エコー創作戯曲の入選佳作作品の上演ということで、なるほど、という脚本だったと思う。
若手を中心に据え、ベテラン勢がきちんと脇を固め、老舗劇団らしい安定感とともに楽しめた。それは、手堅い、とも言う。
笑いも随所にある、ある意味ちょっとビターなテイストもありの、コメディ約95分。

ネタバレBOX

証券マンの勇治がマンションに帰宅すると、妻と3歳になる娘の姿が見えない。不思議に思っていると、シャワーを浴びていた美樹が現れる。
互いに見知らぬ相手に驚き、この部屋は自分の部屋だと主張する。
会話の中で、両者とも28歳ということがわかる。
そこへ美樹の両親が戻って来る。
美樹の母親は、勇治の顔を見て驚く。それは、25年前に失踪した夫にうり二つだったからだ。
そして・・・。

そういう導入部から始まるストーリー。

約95分の上演時間だが、登場人物の名前や、勇治の設定など、ディティールがきちんとしているし、細かい部分まで気が利いている、よく練られている脚本だと思った。
やや、会話が2人だけになりがちではあるが。
会話の中から、いろいろな状況や過去の出来事などが浮かび上がるというのもうまい。
勇治の両親が夢で現れるときの、人形を使うあたりがちょっとシュールで面白いし、不気味さがあったりする。
熊倉一雄さんの演出も手堅く、とてもわかりやすい。

熊倉さんをはじめとする、脇を固めるベテラン勢の安定感が頼もしい。
全般にいい感じで笑えた。無理のないコメディ。
その中に、夫婦の愛情が浮かび上がってくるというのが、にくい構成だ。

結末は、もっと何かを期待したのだが、そこまでではなかった。ラストは物語の結末というよりは、オチ的な感じだった。
夫婦の話が浮かび上がってきたので、観客としては(私としては)もっと感動的な展開を期待してしまったのだ。

この脚本の作者は、当パンによると、「芝居をあきらめ家業の青果店に戻った作者が、リンゴ箱を机にコツコツと書き上げた」作品らしい。なんか泣かせる。リンゴ箱のくだりは創作にしても(笑)。
廃墟ブーム

廃墟ブーム

サイバー∴サイコロジック

ギャラリーLE DECO(東京都)

2010/07/28 (水) ~ 2010/08/01 (日)公演終了

満足度★★★

ハチャメチャな感じが好み
小ネタもいい感じに織り込まれているし、会場の使い方も楽しい。
ただし・・・。




(これから行く方は、劇場内のトイレ側の席に座ったほうがいいと思う。逆側だと見切れてしまうシーンがちょっとだけあるので)

ネタバレBOX

富山県にある、亡くなった父親の持つ建物に、その娘と友人たちがやって来る。建物は廃墟と化していた。娘は、父親が漁師を辞めて、何をそこでやっていたのかを探るために訪れたのだった。
父親は、この世にないモノを何でも作ることができるが、必ずスイッチのない機械を作ってしまう女性博士と、そろばんが得意な女性派遣社員の2人を雇い、そこで何かを作ろうとしていたのだ。
父親は、女性博士に、ある人を蘇らせ(笑)、計画を進めるのだった。
一方、娘は廃墟プロデューサーを雇い、廃墟の中を探り、ある事実を発見する。
そして・・・。

そんな感じのストーリーで、細かい説明はなしに、ハチャメチャな方向に進む感じもとてもいい(「そんなことできるの?」という質問に対して「だって○○(人名)だから」という強引な説明には笑った)。
また、小ネタがところどころに地雷のように隠してある。それはとても面白い。根底に流れるデタラメで、投げっぱなし感も好みだ。
そして、役者の登場するシーンがとても楽しい。ニタニタしてしまった。
だって、明らかにヘンな風体の人が客席にいるんだもの(笑)。
しかし、ヘンな風体の人じゃない役者の、まるで大きな声の独り言のような台詞と舞台への登場には、もう、面白くって(その役者のそばにいる観客の、困っちゃたなぁな顔がいい・笑)、これは楽しいと即座に思った。

ただ、それを見せるための演技が伴っていないような気がする。こういう人を演じてます的な、台詞回しと演技がちょっとなぁという感じ。
全体的にそうであったというよりは、レベルが伴っていない人が、全体のリズム感を壊していたのかもしれない(とてもいい感じの役者もいたので。例えば、娘役の白井肉丸さん、その友人の栗原香さんの、普通な感じ。そして、父親に雇われた博士を演じた、正木英恵さんの何を考えているのかわからない無軌道な感じなど)。

というより、ひょっとしたら役者よりも、これは演出のテンポみたいなものが悪いのかもしれない。だらっとした印象なのだ。これって、どうなんだろう。このテンポに合う人もいるのかもしれないけど。
LE DECOという会場は、小さいので、観客の顔もよく見える。途中で時計を見ていた人が何人かいたので、このテンポに合わない人がいたのは確かだと思う(あんなに狭い会場なのに、携帯の留守電(?)を聞いているらしい人がいたのには、驚いたが。そんなに退屈だった?)。作演の松澤さんも客席にずっといたから気がついたのではないだろうか、そんな会場の空気。

現在と過去がシンクロする演出はいいと思ったが、もっと鮮やかさがあれば、言うことはない(ラスト近くで、部屋から逃げようとするときにホームレスが呼び止めるところなど)。例えば、過去の出来事が行われているときに、娘たちはしゃがんだりしているけど、あれは、未来への盗聴器を聞いている、という風にきちんとすれば、同時に同じ場所に普通にいても違和感がなかったと思うのだ。

それと、いまどきプロジェクトXのパロディというのも、なんだかなぁ、という感じ。一周回って面白い・・・とはならなかった、私は。
最後の最後に、次週予告のナレーションが入るので、プロジェクトXパロディがそこだけならば、にたりとしたと思う。しかし、途中にも「地上の星」が流れる。その瞬間、こういうのって、つまんないなあと思ってしまったのだ。

ストーリーのオチは、トンデモな展開になるのだが、逆にしょぼいほうもアリな気もした。あの人を蘇らせての、しょぼいオチというのもいいのではないかと(今回のオチのほうが、「まさかこれでは?」と予測のつくほうだったので)。
まあ、このラストも、悪ふざけ感があり、嫌いではない。
あのラストの造形物の出現は、ブラックというより怖さがあるし。こういうセンスは買いだ。

とはいえ、この劇団は、根底に流れている「面白さ」があるので、いろんなものがもっとこなれてくれば、もっともっと面白くなっていくと思う。
それは楽しみでもある。

この日は、作演と役者がお題に従いトークをするというアフターイベントがあったが、これって、この劇団のファンじゃないと(役者とかに興味がないと)楽しめないような気がした。
それよりは、今上演した内容についてのトークのほうが楽しいのではないか。そんなことを思った。
お気に召すまま

お気に召すまま

子供のためのシェイクスピアカンパニー

あうるすぽっと(東京都)

2010/07/17 (土) ~ 2010/07/25 (日)公演終了

満足度★★★★

テンポがよく、とっても楽しい!
演出の手際がよく、簡素な舞台装置の中でスピーディに展開する。
わずか10名の役者なのに、舞台には大勢の登場人物がいた。
登場人物がすべて魅力的に見えてくる。

ネタバレBOX

そこここに、相撲問題などの時事ネタまでを放り込みつつの、シェイクスピア。

前半、話を広げていくので、どこに収束するのかと思えば、恋愛モノにどんどんシフトし、一気に大団円へと。
それは、それで心地よい。

役者がすべていい。目まぐるしく役を変わりつつも、きちんと演じ分けていて、キャラクターがはっきりしているので、とてもわかりやすい。

演出にダレるところがなく、スピーディに、スタイリッシュに見せてくれる。
シンプルな装置も無駄がない。

ラストの台詞も、エンディングの感じもいいなぁ。

ほかの演目も見たくなった。
[※25日(日)13:00追加公演決定!!] 脳内TRIPアルゴリズム!!

[※25日(日)13:00追加公演決定!!] 脳内TRIPアルゴリズム!!

オッセルズ

シアター711(東京都)

2010/07/21 (水) ~ 2010/07/26 (月)公演終了

満足度★★★★

笑わせられちゃったよぉ
腰が砕けそうになるような笑いがあった。
ヘンなユルサみたいなものが支配する舞台なので、力抜いたらユルく笑えるのだ。
ゆるーいオムニバス的なエピソードの連なりで構成されていた。

ネタバレBOX

上演前のアナウンス(前説)から、なんか緩くくすぐられている感じ。でも「笑い」には遠い。
オープニングでは期待する気持ちが出てきたが、その後の展開では、「やっちっまたかなぁ」という一抹の不安がよぎる。
しかし、「不敬罪」的なエピソードから、ヘンな空気があたりを支配し出し、「寂聴」あたりでは、とても笑ってしまっていた。しつこい、とにかく、しつこく、これでもかっ! っていうほどの下ネタの、ゆるい(笑)畳み掛けには、ちょっと引きつつも、笑ってしまった(これは眉をしかめる向きも多いかも・笑)。M vs Kの戦いの歴史には大笑い(しつこいけど・笑)。
ホテルのドア前で愛(?)を叫ぶ的なエピソードも笑った。これはとにかく酷い話だ(笑)。
ホテルドア前でのエピソードとMのリーダーだった荒木昌代さん、同じくホテルドア前で、頭のおかしい(笑)男と不敬罪なエピソードを演じた渡辺毅さん、前田彩子さんの吹っ切れた演技が面白かった。また、社長の妻などを演じた中谷真由美さんの全体とはまた違う空気感は、ちょっと舞台を締まらせて、印象に残った。

全体的には雑然とした印象は否めないし、引っ張って引っ張って、かすったり、微妙な空気のまま終わってしまうというエピソードが多く、そのあたり、短編コントにあるような、スパっと終わる心地よさはないものの、とにかく笑ったのだ。
今思い出しても笑ってしまう。
ただし、ドラゴンボールに、まんま寄りかかったエピソードは、ドラゴンボールを知らないので、退屈だった。普通、そういうネタのときは、元ネタを知らない人でも「ああ、そういうことね」的な展開もあるのだが、単にキャラクターやワザの羅列なので、辛いのだ。

全体的に、意外とねっとりとして、1つのネタを延々やるというのが多い、という印象だ。それだけに、要所要所に締まったところがあれば、言うことないのだが、この空気感は出せないのかもしれない。でも、そういうところも欲しいというのが本音だ。

いろんな要素を散りばめながらも、なぜか投げっぱなしというのも、ずっと気になってしまう。例えば、バイクの人たち。てっきり後のエピソードに何らかの形でつながってくるのかと思った。お好み焼き屋の白日夢とつながっている、浜辺でのナンパエピソードも、白日夢とのつながりがあってもよさそうなのに、投げっぱなし。そうそう、宝箱のエピソードも、箱を持っているのに、まったく中身には触れない。

結局、そういう「かすらせ方」というか「いなし方」というか、「肩すかし方」が持ち味というか、面白みなのだろう。
しかし、そこまでをも面白い(後から、じんわり型で)と思うには、もうちょっとこちら側の鍛錬が必要なのかもしれない(笑)。
だけど、そういう「鍛錬」なしでも楽しませてほしいと思うのだ。

クオリティからして、星はちょっと甘いかもしれないが、笑いに行って、きちんと笑ったのと、次回も楽しみなので、これにした。
蟹

劇団桟敷童子

すみだパークスタジオ倉(そう) | THEATER-SO(東京都)

2010/07/16 (金) ~ 2010/08/01 (日)公演終了

満足度★★★★★

生きる、精一杯生きる
「待ってました」と大向こうから声がかかりそうなほどの、桟敷童子らしい物語と展開。
今回も(いい意味での)泥臭いセンチメンタリズムが溢れる。

そして、何よりも、役者の面構えと気迫がビンビンと伝わる。
それを観に来たと言ってもいいかもしれない。

約2時間。倉庫の会場なので、かなり暑くなるかと思っていたら、そうでもなかった(夜の回)。

ネタバレBOX

終戦直後、元海底炭鉱のあった寂れた集落に文雄と恒幸の2人の復員兵が帰って来る。そこには彼らが知っている者、彼らを知っている者はいなかった。

そこへ博多築港社に雇われたヤクザたちが現れ、自分たちのところの娼婦が襲われ、その犯人は、この集落に逃げてきたと言う。
集落の者は誰も心当たりはないのだが、娼婦たちの首実検の結果、復員兵の1人、文雄が犯人であると断定し、彼はやっていないと主張するも、ヤクザたちに連れて行かれる。

そんな中、集落に膳所婆が孤児を連れて戻ってきた。膳所婆は孤児を見つけると貧乏な集落に連れて帰って来るのだ。先の復員兵たちも実はこの膳所婆に連れられてきてここで育ったのだ。しかし、膳所婆は記憶がなくなっていて、2人ついても覚えていない。

ヤクザに連れて行かれた文雄は、リンチを受け、やっていない犯罪を認めてしまう。

その頃、集落には、被害者だったはずの標、千景、ミヒロの3人の娼婦が逃げて来る。彼女たちは、集落の人々に本当のことを話し始めるのだった・・・。

そんなストーリー。

今回も丸太を多様して組み上げられた舞台が、凄い存在感を見せてくれた。
一見、ごっつい作りなのだが、実は隅々まで気を遣い、よく出来ていると感心する。落とし穴やトロッコなど、大道具の力量もうかがえる。こんなセットを組み、水を大量に使える、いい会場を手に入れたなぁと思う。まさにベニサンピットなき後、桟敷童子にふさわしい会場だと思う。

その舞台の上では、役者たちが汗を流し、いい面構えと気迫を見せてくれる。
「そう! これこれ!」という感じだ。

特に、ボウボウを演じた板垣桃子さんと、標を演じた中井理恵さん、それに文雄を演じた池下重大さんは、本当にうまいなぁと思うのだ。膳所婆を演じたも鈴木めぐみさんは腰が大変だっただろうなぁと思ったり。
今回は、男2人が中心にあり、文雄と恒幸(松田賢二さん)のやり取りが熱いし、強い。いままでは、ひと目で弱者とわかる登場人物が、物語の中心に据えられていたような気がするのだが、今回は、見た目の弱者ということではなかった。
もっとも、ここには結局「強者」は出てこないのだか。

役者たちが、常に気を張っていて、立ち位置は当然のことながら、その姿勢までもきちんと制御され、「画」として成立させる細かい演出もいい。

全編博多弁(たぶん)で繰り広げられる物語は、(いい意味での)泥臭いセンチメンタリズムが溢れ、(いつもの)ウェットな感じが醸し出されていた。

文雄と恒幸は、故郷とも言える集落に帰ってきたものの、会いたかった膳所婆は、記憶を失っていた。しかし、彼ら2人は、「不味い」と言いながらも膳所婆の作ってくれたすいとんと芋の煮っ転がしを楽しみにしていた。カレーライスを「うまかった」と言う文雄の言葉などの、そんなエピソードが染みるし、だからこそ膳所婆のラストの台詞には泣けるのだ。
孤児役の外山博美さんの澄んだ歌声が荒んだ集落に響くのもいい(外山さんは、少年役からおばちゃん役まで、どんな役でもぴたっとくるのがいつも不思議だ・笑)。

今回は、ボウボウにより、笑いの要素がいろいろとあった。ベタすぎる笑いもありつつも、そのボウボウが単なる道化の役割でないあたりが、脚本がうまいと思う。

印象的なオープニング、そして歌、物語の展開とセンチメンタリズム、さらにスペクタクル的なラストという方程式は、ある意味、ワンパターンなのかもしれない。つまり、ストーリーの展開はわからなくても、行き着く先はなんとなく見えている。また、そういう状況の中で誰が死ぬのかが、「おきまり」的な感じと要素でもあり、その展開にやや強引すぎることもあるのだが、それに違和感はない。

なんとなくのパターンが見えてくるのだが、それでも「また観たい」と思ってしまうのはなぜなんだろうと思う。
もちろん、物語としての語り口のうまさは当然あるのだか、その理由の1番には、「人」の要素が挙げられるだろう。ドラマを越えた、「人の存在感」のようなものが、いつも桟敷童子の舞台にはあると思う。
それは、単純に「役者の姿と佇まい」と言ってもいいかもしれないし、物語の根底に流れる「人が生きること」と言ってもいいかもしれない。

今回、何度が語られる、「海の底の町に行くには、精一杯生きなくてはならない」という台詞が効いているのだ。

泥にまみれても、這いずり回っても、「生きていく」という強い意志が舞台から感じられる。それがいつも舞台の根底にある限り、私は「桟敷童子をまた観たい」と思い続けるだろう。

今回の『蟹』というタイトルから、ラストは大量の蟹が出てくるのかと思っていたら、そうではなく、そこだけはちょっと残念(笑)。
海底炭鉱の爆発により、人骨とともに海から蟹が現れたら(トロッコに少しだけ付いて出てきたが)、さらに意味が付加されて面白かったと思うのだ。

大量に降り注ぐ水や、プールになって張ってある水に、ずぶ濡れになって演じている様は、演じるほうも陶酔感があるのではないかと思ったりして。

細かいことだが、復員兵に米軍の軍服らしいものを着させている配慮もうまいなぁと思ってしまう。

直接の舞台の内容とは関係ないが、毎回のことだが、ここの客入れと客出しはとてもいい。
開演のギリギリまで、役者さんたちが総出で、客入れをしている。その声のかけ方も「いらっしゃいませ」だけでなく、気持ちを込めて迎えてくれているという意識が伝わるような言葉をかけてくれたりする。それだけで、本当にうれしくなるし、観劇の気持ちもさらに高まるのだ。
客出しも同じで、気持ち良く送ってくれる。こちらも「ありがとうございました」と頭を下げてしまうほどだ。
そんな気持ちにさせてくれる劇団だから、やっぱり、また観たくなるのかもしれない。
わが友ヒットラー

わが友ヒットラー

Project Natter

ザ・スズナリ(東京都)

2010/07/14 (水) ~ 2010/07/19 (月)公演終了

満足度★★★★

4人の役者による、濃厚な時間
三島由紀夫の原作通りに上演されていたようだ。
やや時代がかった台詞ながら、この原作が面白い。

休憩10分を含め、2時間30分の上演時間だが、それは長くない。
4人の俳優が、聞かせるし見せるのだ。

舞台の中だけでも、登場人物の関係と立場はわかるのだが、ネタバレ(つまり話のあらすじ)を厭わず、このあたりの時代について、あまり事実関係を知らないのであれば、「エルンスト・レーム 」(人物名)や「長いナイフの夜」などのキーワードで検索して、関係を頭に入れておくのもいいかもしれない。
もちろん、まっさらで舞台に望みたい方は、当日パンフのキャスト表にあるそれぞれの簡単な説明を読めば十分だと思う。

ネタバレBOX

ヒットラーが政権を完全に掌握するきっかけ(条件)となった、突撃隊等の粛正、いわゆる「長いナイフの夜」をめぐる舞台。

まるで夢見る詩人のように、軍人と軍隊を熱く語るレームとヒットラーは、今までナチスを大きくするまで一緒に戦ってきた友人なのだが、さらにそれを大きくするには、友人であるレームの存在が邪魔になってきた。
同様に、党内左派のシュトラッサーも、現在は隠棲状態にあるのだが、ヒットラーにとって邪魔な存在になっていた。

自分のために、それまで一緒にいた仲間を粛正するということで、ヒットラーはより大きくなっていった。レームたちの役割は終わったということだ。
そして、クルップ(と軍)は、それを望んでいたのだ。

それは、ヒットラーの分別が感情を上回った瞬間なのかもしれない。つまり、ヒットラーが人間(性)を失っていく分岐点だったとも言えないだろうか。

友人レームを粛正するときの苦悩があり、翌日も酷い顔をしていたヒットラーには、迷いながらもその瞬間までは、人の心があったのだが、自らの銃声の音にそれを裁ち切り、さらにラストの台詞で、より正当化していく。

集団が大きくなるとき(例えば、企業などが)には、そうした苦悩の選択が必要だと言うこともある。昔の仲間を切り、集団をより大きくしていくという決断だ。
しかし、それは、実は、自らを孤立させる方向に向けることになってしまうのだ。
結局、粛正を恐れ、イエスマンだけに取り囲まれ、良くない情報は一切耳に入らず、集団の行く末を危うくしてしまう。レームのように語り合える友もいなくなってしまう。
まさに、ヒットラーがそうだったように。

つまり、このときのヒットラーの選択は、党を大きくし、政権を取るというスタートではなく、自らと自らの党の崩壊のスタートだったと言えるだろう。

人間としてのヒットラーではなく、機能としてのヒットラーにクルップも軍も期待し、この後、一蓮托生の道を歩むことになるのだ。

レーム、シュトラッサー、クルップという、ヒットラーの周囲にありながら、それぞれの立場が異なる人物たちが、ヒットラーや他の人との微妙なバランスや距離感を感じつつ、自分の立場を明らかにしていくという原作が良く、俳優たちは、その微妙なニュアンスをも的確に見せてくれたと思う。

うまい俳優が4人で、濃厚な時間を創り上げる。
膨大で、過剰な台詞を、熱くやり取りする様が心地よい。
2時間30分の上映時間も長く感じなかったのだ。

幕切れもいい、そのときのヒットラーの台詞も効いている。

レームを演じた浅野雅博さんが印象に残る。ヒットラーを信じ、友情を大切にし、古くさいロマンチストで、過去を語る。友誼や無骨さといった前時代の遺物のような軍人がよく出ていたと思う。
若松武史さんも、独特の雰囲気を漂わせ、老獪というより、まだ脂ぎっているクルップを演じていた。

ただし、いくつか気になったことがある。

まず、ヒットラー役の笠木誠さんの独特の台詞回しだ。まんとなくまどろっこしいその台詞回しは、確かに印象には残るのだが、慣れるのに少々時間がかかった。また、一部イントネーションが危ういところがあったのも気になったところだ。

また、2幕の冒頭にクルップが軽快でコミカルに登場するのだが、あれはやり過ぎではなかろうか。私の目には、演出としては、悪ふざけと映った。場内には笑い声が起こっていたが、そんなことで笑いをとってどうするんだ、と思う。ほんのちょっとだけ軽快でよかったのではないだろうか。

さらに、1幕でヒットラーが演説しているときに(後ろ姿)、舞台の前で、別の登場人物たちのやり取りがあるのだが、そのときにヒットラーは演説をしているのだから、声は聞こえなくても、身振りぐらいは必要だっただのではないだろうか。それによって、例えば、歓声が上がり、前の2人のやり取りが妨げられるぐらいの感じがあってもよかったように思える(歓声云々について戯曲にはそういう指示はないが)。
ザ・キャラクター

ザ・キャラクター

NODA・MAP

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2010/06/20 (日) ~ 2010/08/08 (日)公演終了

満足度★★★★★

私たちは、忘れてしまう、私たちは、忘れないでいられるか
うまい人たちの「軽々さ」が素晴らしい。
舞台に引き込まれた。
そして、そこでは、私たち(人間)の「本質」のようなものが示されたように思えたのだ。

ネタバレBOX

あいかわらずの言葉のチョイスに、思わずにんまりしてしまう。
言葉遊びの中に紛れ込ませる意志。

群舞とも言えるような、人々の動きが、このテーマに重なっていく。
中でも、冨士山アネットの 長谷川寧さんのキレの良さが光る。

古田新太さん、橋爪功さんの、軽々と演じているように見えてしまうところが、素晴らしい。安心感もある。
それにつけても、宮沢りえさんの凄さはどうだろう。声に張りがあり、まっすぐ響く。

この舞台の中心となるエピソードは、これだけの年月がたたないと扱えなかったのか、と改めて思う。
しかし、そこには、救いもないし、総括すらもない。それは自分で考えろということなのか。

初めて、例の宗教団体を見たのは、スピリチュアルが流行っていて、宗教(特に新しい宗教)がちょっとしたトレンドだった頃の、深夜の討論番組だった。そのときTVから感じた私の印象は、「思ったよりも、ちゃんとしているじゃないか」だったのだ(!)。
舞台でも、同じように、ごく「普通」の書道教室があり、それが少しずつズレていくのだ。
そして、いつも入り口は「普通」。その恐ろしさがある。

人はエスカレートする。調子に乗るとも言う。祭り上げられると、言い直しも後戻りもできない。妄信的な「信者」がいればなおのことだ。どのような集団でも「妄信的な信者」の声は大きい。

大勢でいると「声の大きい者」に、つい従ってしまうというのは、日本人的なことではないだろうか(いや、日本人だけではない、少なくともヨーロッパでも先の世紀では同じようなことが起こっていたはずだ)。
「NO」どころか、単なる疑問でさえも差し挟むことができなくなっていく。「和」を乱さない人々なのだ、我々の多くは。

この舞台では、あの事件を中心に据えているのだが、より深読みをすると、日本人そのものの特性(人間そのものの特性)のようなものを暴いているのではないだろうか。

つまり、(たぶん)戦争に突き進んだ時代でも、それは「普通の顔」をしてやってきて、それを「「妄信する信者」の「大きな声」に、なんとなく従ってしまい、「NO」となかなか言えないまま、「後戻りできないところ」まで行ってしまったのではないだろうか。

チョウソンハさん演じるジャーナリストは、筆1本で世界を変えると言っていたのだが、簡単に「あちら側」に取り込まれてしまっていた。
これは戦争の時代のマスコミでもあり、今だって、マスコミの「声は大きい」。そして、我々は、たやすく「踊らされて」しまう。

それは、戦争などの、大きな出来事だけのことではなく、学校や会社でも似たようなことが起こっているのではないだろうか。

群舞に象徴されるような、個人ではない、大衆のようなモノ。それがいつのまにか、意見を一致させ、思い思いの動きを封じ込めていく。
どこで「NO」言うべきだったのか。いつ自分の気持ち、考えを伝えるべきだったのか。その中にあっては、気がつかないことでもある。

一点だけ気になったのは、この「書道教室」だった場所に集っていたのは、「心を病んだ人たち」だったのだが、それを起こしたのは、何もそういう人ではなく、「普通の人」だったのではないだろうか。
ただし、「変えたい」という欲求だけは共通していたのだと思う。そういう「変えたい気持ち」が原動力となり、さらに加速させるための燃料となっていくのだ。
つまり、それを起こしたのは、「普通の人だった」と強調することで、より大きなテーマが見えてくるように思えた。

この舞台では、「あの事件」を「忘れない」というよりは、自分たちは「そういう特性のある人間なのだ」ということを「忘れない」ことこそが大切であると示しているように思えた。

つまり、ラストに、薬品の入った袋を傘で刺すのは、自分なのかもしれないし、誰かに、そうさせるのが、大衆となった自分たちなのかもしれないということだ。
そういう状況を作り出すことに、警戒心を持て、と言っているように聞こえた。

だけど、いつも「忘れてしまう」のだ。
真夏の迷光とサイコ

真夏の迷光とサイコ

モダンスイマーズ

青山円形劇場(東京都)

2010/07/08 (木) ~ 2010/07/18 (日)公演終了

満足度★★★

もっと行けるはずの、深みにまでは到達してない感じ
円形劇場をうまく使い、引き込まれるところもあるが、(私の個人的な)大きな期待に対しては、もうひとつだったように思う。

ネタバレBOX

モダンスイマーズには、台詞同士から生まれるような、ねっとりした重さを期待していたのだが、そうでもなかった。

それは、ひつとには設定にあるのではないだろうか。
つまり、とてつもないお金持ちだという設定が、妙に現実感を伴わない。
それが「意図」として仕組まれていたとしても、最後にその「意図」にループして行かない感覚が残るのだ。

現実離れをした設定が悪いというのではない。その「現実離れ」をしたと感じる要素のどこかに、現実という場所へのアンカーのようなものがあれば、観客はそれを頼りに観るのではないだろうか。
現実離れをしていることを徹底して選んだのであれば、それを徹底してほしい気がする。それは、現実との「距離感」を大切にしながらで。
そのバランスが、どうもしっくりこなかった。

現実というキーワードで言えば、現実を見ることのできない姉弟の話であり、そこには「現実感」が希薄なのはわかる。
だけど、現実との「接点」が、使用人たちや出版社の人たちなのであろうが、その人たちには、やはり希薄な印象を受けてしまう。
下世話な話(エピソード)があるようでも、なんだか現実感が伴わないのだ。

とは言え、円形劇場使い方は面白いし、ドラムの生演奏はとてもよかった。

YOUさんの無機質な感じは、とてもこの舞台と合っていたと思うが、それは何かの「対比」によって際立ったのではないだろうか。そこは残念。
弟ではなくて。

YOUさんと他の出演者との、静かな台詞のバトルのようなものも欲しかったと思う。

ラストで、一見、前向きに見えても、つまり、姉は外に出ることを、弟は姉について行くことを決断しても、姉弟は、最後まで現実を見ることができなかったように思える。その感じはとてもいいと思った。
「人は簡単に変わることなんかできないんだよ」と言ってるようで。

全体的な出来はいいと思うのだが、個人的な期待値よりは低かったという感じだ。
だから、星はやや辛め。
用意していた「笑い」の部分がちょっと中途半端かも。
ダモイ

ダモイ

トム・プロジェクト

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2010/07/07 (水) ~ 2010/07/11 (日)公演終了

満足度★★★★★

静かに染みる
わずか3人の役者が、声高にならず、じっくりと見せてくれた。
事実をもとにした舞台だけに、計り知れない重さが残る。

ただし、重苦しいわけではなく、人間の強さや生きることの尊さを感じることができるのだ。

ネタバレBOX

シベリア抑留の話である。
戦後、兵士だけではなく、一般市民も含め、多数の方がシベリアに連行され、長期間に渡って収容所に入れられ、過酷な労働を強いられた事実をもとにしている。

舞台は、野上(新納敏正さん)のモノローグを中心に、収容所にいた多くの方に生きる力を与えて続けて、帰国の夢が叶わなかった満鉄職員の山本(下條アトムさん)のことが語られていく。
山本は、タイトルでもある「ダモイ(帰還)」を信じ、常に前向きで、周囲を明るくさせ、生きる力を与えるような人だった。
彼の生き様により、多くの収容所に暮らす人々が救われたのだ。

収容所の過酷な状況を声高に非難するのではなく、このような境遇にあっても、「生きる」ことを強く願い、「人間である」こと(あるいはいつかは、それを取り戻すこと)を忘れずにいた人々があったということを強く訴えてくる。

人間の強さや生きることの尊さを感じずにはいられない。
舞台自体も、そういう力強さがあったと思う。

最初は、山本のそういう姿勢に反感を覚えていた野上役の新納敏正さんが、徐々に彼に惹かれていく様子や、山本に寄り添う新見役の大出勉さんの姿がとてもいい。
山本を演じる下條アトムさんの控えめだが、うちに秘める強さを感じられる演技も素晴らしい。

登場人物はわずか3人なのだが、山本の収容所での位置づけや、彼らの後ろにいるであろう、多くの日本人収容者たちの姿が浮かぶようである。

切々と、舞台から語りかけるような3人の役者の演技は、見事であり、じんわりと心に染みてくる。

とかく、冬だけのシーンを想像しがちなシベリアにあって、四季があるこをきちんと見せてくれた。それはまた、彼らが抑留された期間がいかに長かったということにほかならない。

ラストへの展開は、事実を知っていても、涙を禁じえなかった。
8割世界番外公演『欲の整理術』×『ガハハで顎を痛めた日』

8割世界番外公演『欲の整理術』×『ガハハで顎を痛めた日』

8割世界【19日20日、愛媛公演!!】

ART THEATER かもめ座(東京都)

2010/07/07 (水) ~ 2010/07/11 (日)公演終了

満足度★★★★

30分+60分の2本立て
コメディ劇団の8割世界が、初めてコメディ以外の内容で、かつ、他団体の脚本で上演するということで、興味津々で出かけた。
結果、2本立てというのは、うまい構成だったと思う。リスク分散という意味でも。

ネタバレBOX

『欲の整理術』
正直、奇抜な設定、30分という上演時間なので、ぱぱっと始まって、ストンと終わるような、そんなオモシロ展開を期待させるのだが、結局、面白くはならなかった。
何に問題があるのだろうと考えると、まずはテンポではないかと思った。わずか30分の話であり、奇抜な設定なのだから、もっとスピーディに、かつ勢いで見せてほしかった。
役者の出入りも何回もあるのだが、30分なんだから出っぱなしでもよかったのではないだろうか。そして、登場人物たちは、(演出として)常に何かをしていれば、引っ込むこともないし、舞台に勢いも出たのではと思う。
例えば、文字を書いた紙を小道具にしているのだが、それが次々と、とんでもないぐらいに出てくるのであれば、それはそれで面白いと思うのだが、文字小道具で出てくるのは、せいぜいバリケード、火炎瓶、電話ぐらい。これじゃそんな設定にする意味があまりない。
登場人物たちは、その小道具の文字を書きながら、つまり自分の小道具を作りながら(あるいは他人の小道具を作りながら・火炎瓶ではそんなことが行われていたけど)、ものすごいテンションで見せてくれれば、文字を書いたり、登場人物が引っ込んだりすることもなかったのではないだろうか。
スピーディに進んで、火炎瓶の展開で、どどっと一気に終われば・・・。過剰さが足りないというか。個人的には、コメディ寄りではなく、もっと不条理寄りのほうが受け入れやすかった気がする。
実際は、ぼやっとした感じのままラストを迎えてしまったのだった。残念。


『ガハハで顎を痛めた日』
こちらは、役者がいい。個々の設定がつかみやすいということもあろうが、先生にいそうなタイプがうまく揃っていたと思う(それは「演技」という意味において、いそうなタイプに「見せていた」ということ)。
年齢的には無理があるはずの(笑)女子中学生の2人も、会話のやり取りとテンポがよく、雰囲気を出していた(お尻ボリボリ掻くような、細かい演技が効いていた)。
とにかく、7人の役者が全員いいのだ。

ちょっとした笑いが散りばめられているのもいい。

物語は、超がいくつも付くほどのポジティヴな内容だ。しかし、それでも「未来」というキーワードで観ると、ほっとする自分がいる。
これから先生になろうという人、それも社会経験があって、その上で先生になりたいという人の熱い、真摯な気持ちがストレートに表現されていた。

この前向きな感じに嫌みがないところが、うまさなのだろうと思う。
だから、後味もいい、希望のあるラストだったと思う。

ここに登場する先生たちは、前回観た8割世界『学生・生徒または未成年者は勝馬投票券を購入できません』の先生と比べると、現実味がある。
ここに立脚して、コメディを展開できれば、本公演のほうも、さらに面白くなるのではないかと思った。
最初から、コメディ風味満々で行われるよりも、意外性が生まれ、いい感じに笑えると思うのだ。
普通にうまい人たちが揃っているのだから、それをコメディにも十分に活かせるのではないかと思う。

今回の公演で、例えば、『ガハハ』のほうでは、笑いも少し起こっていたのだから、少し手を入れるだけで、コメディとしても成立したように思える(ちょっといい話のコメディとして)。そんなコメディは楽しいと思うのだ。
もちろん、これは個人的な感想にすぎないのだか。

まだ終わっていないけど、今回のこの試みには、たぶん、役者もスタッフも何か感じ取るところがあるのではないだろうか。偉そうな目線であえて言えば、そういう収穫があれば、今回の番外編は成功だったのではないかと思う。

それにしてもこの2本のタイトルは、タイトルだけ聞いてどちらがどちらの作品なのか? と聞かれてもわからないのではないかと思う。なぜこんなタイトルなのか、わかる方に教えてほしいと思うのだ。
Wannabe

Wannabe

柿喰う客

アトリエ春風舎(東京都)

2010/06/29 (火) ~ 2010/07/19 (月)公演終了

満足度★★★★

何を書いてもネタバレになりそうなので
とりあえずネタバレへ。

ネタバレBOX

まずは、この舞台に合わせて、exciteの力を借りて感想を英文にしてみよう。
単に、コピペして、<翻訳>のボタンを押しただけなので、正しい英文かどうかはわからないが(笑)。

The actor from three countries all over Japan-South Korea performs it.
Therefore, it was not actually so though had thought that passing each other of the difference etc. of the culture was shown to be interesting. It was a story that positive people were doing happily managed by starting make it for the girlfriend in a different country even if communications were taken so that there were very not all, and the word did not run neatly in addition.

Considerably, it was not such development though shut rapidly after [shichimi] (All official titles were the real names or aliases from the real name) appeared the stage, and thought that something started here though continued heart-warming atmosphere either. [De] and that. [Yurika] that appears next blows in an eerie wind, and it rushes into last the ghost story story when thinking (Was this a little cramped?).

Footsteps named [dotadota] of last are impressive. This feeling is good.
And, though this development does.
I think it was interesting though it was a work of only about 60 minutes.

Moreover, most was unexpectedly safe though had not imagined with whole volume English surely. [Hiyo] and what?、Is the western-style painting seeing OK without the title?It seemed inadvertently to misunderstand it. ) ..doing however it when misunderstanding it apparently.. ..it is.. ..(.. ..laugh..
It might be easy for me to have understood according to the after toque because broken of that was excellent, broken do English, and existed in the extension of having learnt that most Japanese are the junior high schools and the high schools because inside residence wrote the scenario in English.

The scene that meant, existed more as the Japanese spoke in Japanese mutually, was talking by the mother tongue mutually indeed (Laugh) by Chinese or the South Korean, and confused the spectator (Japanese spectator) was, and thought that it might have been able to share a mysterious experience of union between these foreign countries.

Which person is person in the country where is happy not to understand until the mother tongue is spoken ..it.. ..bringing together [to]...
Therefore, it thinks whether even only whole volume English was really interesting.

Then, seeming the happiness of the people who were performing it anyway remained in the impression.
Especially, the after toque :.


日韓中の3つの国からの役者が演じる。
だから、もう、文化の違いとか、なんか、そんな感じのすれ違いを面白く見せてくれるのかと思っていたら、そんな感じではなかった。それなりにコミュニケーションをとっていて、言葉がきちんと通じなくても、異なる国のガールフレンドまでつくろうとするぐらいに、前向きな人たちで、なんとか楽しくやっているという話だった。

結構、ほのぼのした雰囲気が続くのだが、シチミ(全員の役名は、本名または本名からの呼び名のようだった)が登場してから、急激に舞台が締まり、ここから何かが始まるのか、と思っていたが、そういう展開でもなかった。で、あれ? と思っていたら、次に登場したユリカが、不気味な風を舞台に吹かせて、怪談話的なラストに突入する(これは、少々わかりにくかったかも)。

ラストのどたどたという靴音が印象的だ。この感じはいい。
そして、この展開は、さすが! 

わずか60分ぐらいの作品だったけど、面白かったなぁと思う。

また、まさか、ほとんど全編英語とは思ってもみなかったが、意外と大丈夫だった。ひよっとしたら、何?、字幕なしで洋画とか観るのもOKということか? と、つい勘違いしそうだった。だけどそれはどうやら勘違いだったらしい(笑)。
アフタートークによれば、中屋敷さんが英語で脚本を書いたので、結構なブロークンイングリッシュということであり、そのブロークンさは、ほとんどの日本人が中学・高校と習ってきたことの延長にあったので、自分にとっても理解しやすかったのかもしれない。

日本人同士が日本語で話すように、もっと意味ありげに(笑ったりして)、中国人同士、あるいは韓国人同士が母国語で話し合っていて、観客(日本人の観客)を混乱させるシーンがあったりすると、この異国間の合体という、不思議な体験を共有できたのかもしれないと思ったりした。

どの人がどこの国の人なのかは、母国語を話すまでわからないので、それもちよっと楽しいのだ。
だから、本当に全編英語だけでも面白かったかも、と思ったり。

それにつけても、演じている人たちが、とにかく楽しそうだったのが、印象に残った。
特にアフタートークが。
東京ノート

東京ノート

BeSeTo演劇祭

新国立劇場 特設会場(東京都)

2010/07/02 (金) ~ 2010/07/17 (土)公演終了

満足度★★★★★

【日中韓3カ国語版】面白かったなぁ
会場である新国立劇場中ホール前の階段がうまく使われていた。
日中韓3カ国語版のほうには、それに伴う、ちょっした工夫や変化があった。
この機会を逃したらもうないだろうし。

約2時間、字幕あり。

ネタバレBOX

ヨーロッパでは戦争が泥沼のようになっており、日本にもその陰が届いてきそうな頃の、アジアからの観光客が多くなるであろう、近未来の東京にある美術館ロビーでの話。

物語は、美術館のロビーで交わされる、日常の夫婦だったり、恋人だったりの、会話。
しかし、時代の不安は、一見普通の生活をしている人々の胸にも、なんとなく陰を落としているようだ。それは、夫婦間の揉め事の芽であったとしても、そんな感じを受けた。
時代の空気は、確実に伝染するというところか。
また、戦争は、会話の端々に姿をちらつかせる。
不安定になりがちな、夫婦や恋人たちの関係にも。

今回の、韓国と中国の俳優さんに、それぞれの言葉で会話させるという試みは成功だったと思う。

アジアの観光客が増えつつある現代から、やや未来の話なので、その状況が、またリアルな印象を放つ。
ヨーロッパから避難してきた西洋名画が日本の美術館に集まって、展示されるとすれば、当然アジア近隣諸国からも見に来るであろうし。
その設定によって、少しだけ台詞が変わったりしていて、また、外国の人との絡みの部分の変化なども楽しめた。

一見何気ない会話だが、その積み重ねで、いろんな人々のいろんな想いが浮かんでくるのは素晴らしいと思う。
それぞれの背景まで見えてくる。
さらに、こちらの版では、登場人物が日本人だけでないことから、(世界観など)視点の広がりを感じることができるのだ。
やはり名作だ。

今回の会場は、新国立劇場の特設舞台ということで、中ホール前の階段部分を使ったので、セットでは出すことのできない、重量感や奥行き(階段がずっと後ろに続いている)、さらに声が響く様子まで、とてもよい効果を上げていた。
したがって、階段の上から人が降りてきたり、という姿や音がとてもいいのだ。
今回は、そのためのエキストラも配されていた。
また、階段の途中や、ロビーの脇にオブジェを配するセンスも良かった。

役者は、長女・由美を演じた松田弘子さんが、頑張り屋の長女という役割を果たしながら、そのため自分も哀しみのようなものを胸に秘めていつつも、好恵に接している演技がとても印象に残った。
次男の妻・好恵を演じていた能島瑞穂さんは、壊れてしまいそうな危うい雰囲気を醸し出していてよかった(なんとなくこういう、耐える女性の役が多いような気がするが気のせいだろうか)。

日本人女子大生を演じていたペ・ジンファさんは、時折日本語のイントネーションが違うので、韓国の人のままで、この物語に当てはめてもよかったような気がする(元家庭教師に対する気持ちを、無言で見せるところは、素晴らしいと思ったが)。

また、中国人カップルには「夜間飛行」から「やかんか飛んでいる」というだじゃれのような台詞があるのだが、これって、日本語の台詞として成立していると思うのだが、中国語はどうなっていたのだろうと思った(字幕は「やかん」のままだったけど)。

ラストの由美と好恵の、2人の泣き笑いのようなにらめっこは、最後の最後に、由美が好恵を、もっと見てやるぞ、という意志をみせて、手を双眼鏡のようにして見るというシーンがとてもよかったと思う。
この展開には、場所がら暗転ができないという理由も、ひょっとしたらあったのかもしれないが、にらっめっこしながら終わるというよりも、もっと由美の気持ちが表れているようで、私は好きな終わり方だと思ったのだ。

青年団版との見比べもしてみたかった。

また、残念なことに空席がそれなりにあった。
初めから単独チケットを販売したほうがよかったのではないだろうか。
幸福オンザ道路

幸福オンザ道路

ミクニヤナイハラプロジェクト

STスポット(神奈川県)

2010/07/02 (金) ~ 2010/07/11 (日)公演終了

満足度★★★★

あいかわらずの運動量と台詞が面白いぞっ
やっぱりと言うか、「なんてヘンテコで、なんて面白いんだろう」と思う。
(ヘンテコとは「いい意味で」です(笑))

とてもつない運動量と高速台詞が、STスポットっという、小さな場所で、一気に溢れてくる。言葉が言葉が。

ミクニヤナイハラプロジェクトは、やっぱり面白い。

ネタバレBOX

朗読会をカフェで行おうとしている男が、道に倒れていた男を家に連れてくる。外科医の妻はそれが許せない。
また、そこへカフェの店長が、朗読会の練習のために訪れる。

一方、昔、7人が同時にビルから飛び降りる事件が起こった。
その検死を当時インターンだった医者たちが行い、自殺であると判断するも、7人の自殺者のうちの1人は殺人と警察は断定し、当時高校生だった男が逮捕される。
しかし、それは無実の罪であっことが15年後にわかり、犯人とされていた高校生は逮捕から15年たち、刑務所から釈放される。

そして、家に連れたきた男は、自分の名前を名乗り、12歳だと言い張る。しかも、彼は常に拳銃を手にしている。しかし、その拳銃は誰にも見えない。

男の名前を聞いた、外科医の妻の友人の女医たち(昔、インターンだった頃に、7人の自殺者たちを検死した医者)は、その男の言うことに異常に反応する。
そして・・・。

そんなストーリーである。

確かに「サスペンスドラマ」的だ。
ただし、それは、じっくりと見せていくのではない。

役者が登場したとたんに、スイッチが入ったように、見事に弾けて、テンションが一気に上がる。ゆっくりなんて待っていられない。
とにかく、走って、壁を押して、また走る。タンバリンだって叩くし、ギターだって弾く。
観客はいきなりジェットコースターに乗せられた気分。
ちょっと、にやっとしてしまうぐらいの面白い台詞もあったりして。

あれよあれよという間に、いくつかのピースがつながっていく。

どうやら、全員が走り回るのは「不安」から、そして、全員がタンバリンを激しく叩くのも「不安」からなのだろう。
引きつるように、一気にたたみ掛ける台詞も「不安」からなのだろう。

台詞が溢れすぎて、壁にまでポロポロと溢れていく演出が面白い。
台詞の中の本質が文字で示される。

科学の話ではなく、「自分が誰なのか」という「不安」に苛まれている人たちの物語のようだ。
なんとなく、この科学との感じは『青ノ鳥』を連想させる。

カフェのオーナーとそのウエイトレスも、それぞれの自分に対する不確かさが、様子をおかしくしているし、12歳と名乗る男が現れてからの、女医たちの混乱ぶりは、自らの存在を不安に陥れられてしまったようだ。

最初からしきりに、走っては「壁を押す」を繰り返す出演者たち。
その動きは、目を離すと、まるで壁が自分たちを押しつぶすのではないか、と神経質になっているようで、見ていて、息苦しくなってきた。狭い空間なのでなおのこと。

「壁」に押しつぶされないように、走り、叫ぶ。

約60分の上映時間は、あっという間だった。
一応、ピースは結びついたのだが、物語としては、その緒についたばかりの印象だ。もう1つ、深いところに連れて行ってくれて、「幸福オンザ道路」が完成するのではないかと思った。

女医を演じた3人の女性(すみません、黒岩さん以外、役者の顔と名前が一致しません)がとても印象に残った。

そう、この舞台、あひるなんちゃらの黒岩さんが出演するということをフライヤーで見て少し驚いた。だって、あひるでは、こんなに運動量がなく、やや冷めた感じで突っ込み、やや冷めた感じでノイローゼな人を演じているイメージだったから。しかし、アノ独特の冷めたような表情で、激しく動き、そして、台詞を言うのは、とてもこの舞台にフィットしていて、その「普段と違うところ」と「普段と同じところ」のバランスが少しツボだった。

これで、あひるのほうも少し変わったりしたら・・・んなことはないか(笑)。
エネミイ

エネミイ

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2010/07/01 (木) ~ 2010/07/18 (日)公演終了

満足度★★★★

「敵」はどこにいる?
とてもわかりやすいストレートな物語。
笑いも少し散りばめられ、丁寧に物語が語られる。
もちろん、役者たちの雰囲気もとてもいい。
ぐっと引き込まれる台詞もある。

休憩を入れて2時間35分の上演時間は決して長くなかった。

ネタバレBOX

蓬莱竜太さんの作なので、勝手にちょっとキツイ話かな、と思っていたら、そうでもなく、とてもいい家族の話だった。
登場人物は、やや類型的かもしれないが。

40年前の友人だと言う2人男が、会う約束をしていた、その家の父親に会いに訪れる。この家の父は、大企業で定年退職していて、特に趣味もなくぶらぶらしている。近々自分へのご褒美でヨーロッパ旅行をするつもりだ。ただし、家族は誰も一緒に行かず、1人だけの予定である。
家には、フラメンコを趣味にしている母と、派遣切りで現在コンビニでバイト中の30代の息子、仕事と婚活中の、やはり30代の娘がいる。

父は、なぜか尋ねてきた2人の知り合いに会いたくなかった様子。
2人は、来週成田で行われる収穫祭に出るという用事もあり、その日まで3日間、この家に泊まることになる。

この2人は、かつて学生だった頃に、この家の父と学生運動をしていたのだが、父のほうは、途中で運動を辞めたのだった。そのときに、40年後に お互いがどうなっているのかを確かめ合おうと言ったのだった。
そして、農業をしながらも、現在も活動家である2人が訪れたのは、その40年後だったのだ。

2人の活動家とこの家の父には、自分が過ごしてきた40年間という時間がある。その時間の殻の中にいて、その外にいるのは「敵」であると思おうとしている。つまり、自分の今までの世界だけは絶対に壊したくないのだ。

この家の息子は、自分の気持ちを素直になかなか伝えられない。不器用で優しいところもあるが、それは自らは「敵」を作りたくないという自己防衛本能が働いているためであろう。
結局、自分以外は「敵」と認識しているのかもしれない。

だから、敵との戦い方も異なる。
活動家の2人は「戦え」と言う。途中で転向した父親は、そういう気持ちにはなれないし、息子にもそう言わない。息子は初めからそんな気もない。

自分の中にある見えない「敵」を相手に見てしまい、なかなか気持ちが通じ合わない男たち。

しかし、女は違う、この家の母親は、後半からぐんぐんその存在感を示し、最後には、彼女の娘をして「この人にはかなわない」と言わしめる行動に出る。
その娘も母親の血をまっすぐに引き継いでいる。
女は強し、未来に向かって生きているのだ。

そして、彼女たちがいるこの家族は、とてもいい家族なのだ。

息子の激白で、男たちは、息子もやはり自分の「敵」と懸命に向かい合っているのだということに、ちょっとだけ気づく。
一見違うようでも、抱えている「敵」は、本当は同じだ、ということを。

しかし、女(特に母親)からは、ここにいる男たちには、何もいがみ合うことがない、同じことなのだ、ということが、きちんと見えている。

たぶん、息子以外の男たちは、それに気がついたとしても、自分の考え方は今から変えられるものではない。
だけど、「受け入れる」ことはできるのだ、という、いくつかのピースが散りばめられていた(娘の婚活のことなど)のが良かった。

「受け入れる」ことができると「敵」の要素は薄まっていく。

また、ラストに、父と息子が、すこしだけ胸を開き(受け入れ合おうとする気持ち)、やや未来に顔を向けるところが、無理がなく、とてもいいのだ。

蛇足だが、息子の友人・山田の本業には笑ってしまった。
元気で行こう絶望するな、では失敬。

元気で行こう絶望するな、では失敬。

パラドックス定数

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2010/06/25 (金) ~ 2010/07/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

どこかの暗闇に忘れてきてしまったコトたちが、(個人的にも)鼻の奥がつーんとなりながら蘇る
かつて、そういう年齢を過ごした者としての共感と、大切な記憶と、探られたくない記憶が交錯する。

ホントに、とてもいい舞台だった。

ネタバレBOX

何ごとが始まるのか? というオープニングから、引き込まれた。
よく考えれば、実際の高校生とダブルスコア近く年齢が離れている役者が、高校生を演じているのだが、どう見ても高校生にしか見えず、とてもいい(あの年代でしか出せないような)エネルギーを発していた。

そのエネルギーは、自己意識過剰のなせるワザで、例えば、「相手をいじめないと、優しい言葉がかけられず、人とつながることができなかった」りしてしまうのだ。
そのエネルギー(負のエネルギー含む)は、もてあまして、顔にニキビとかできてしまったりする。そんなエネルギーを舞台から感じたと言っても言い過ぎではないだろう。

それぞれは、知らず知らずのうち、「闇」のようなものを抱えている。
「闇」と言うほど大層なものではないとしても、「不安」という言葉では言い表すことのできない「モノ」が、鬱々と心にあり、それを「友だち」に知られたくないという、自意識と、無意識がとても困った状態を生み出してしまう。

これって、よくわかる。
たしかに、あの頃はそんな感じだった。

「太宰治は永遠の高校生」なんて言う、フライヤーにある言葉は、「なるほど」と思い当たったりする。
でも、太宰にはなれないのだ、みんな普通の高校生だもの(あるいは「だったもの」)。

そうした「闇」のようなものを内包した男子高校生たちの前には、「森」がある。「誰かに見てもらっていないと、森に飲み込まれてしまう」という都市伝説的な設定には、泣けてくる。

そんな伝説は、これぐらいの年代の妄想から生まれたものなのだろう。
「内なるモノ」を「外」に求めるというのは、最もわかりやすい反応だ。

「森」という共同幻想により、彼らの自意識は保たれているのかもしれない。
この設定は、ホントにうまい!
これが現実と、フィクションの狭間にあって、見事に物語を成立させているのだ。

記憶の隙間に落ちていた、いろいろなコトが、ふと浮かび上がったり、忘れてしまっていた記憶が、蘇ったりする。
私も誰もが、みんな「森」の中に置いてきてしまったモノが、たくさんあることに気がつく、
この舞台では、忘れられてしまったクラスメイトのように。
そう、まさに忘れてしまったクラスメイトは、「森」の中に忘れてきてしまったのだ。そんな記憶は、誰にでもあるのだろう。
そういう、ちょっと柔らかい部分を刺激してくる舞台でもある。

登場人物は、男子高校生20名。
だけど、20名という単位ではなく、そこにいるのは、1名1名1名・・・・の20名だ。どの役者も、鮮やかな印象を、きちんと残している。

これは、役者だけでなく、脚本も演出も素晴らしいとしか言いようがない。
私は、『東京裁判』しか観ていないのだが、あちらは、凝縮された空間で、火花を散らしていたが、今回は、大きな空間を見事に使い切って、エネルギーを発散し、集中をもさせていた。
シンプルなイスだけのセットも効果的だし、廊下のようなつながりのセットもうまいと思った。

また、実年齢に近い36歳への転換(なぜか全員メガネ・笑)もよかったし、演劇をやっている2人という設定も、ちょっと泣けてくる。
高校生までの18年間、そしてそれからの18年間その時間軸の持たせ方がナイスなのだ。
「おめでとう」「ありがとう」のラストの台詞が憎い。
「黄金の時代はこないかもしれない」なんていう台詞もあったけど、いつだって黄金の時代だったし、これからもきっとあるんだろうと、個人的には思うのだ。

何も考えずに、手放しの、輝く未来を期待するのではなく、過去のしがらみと、記憶が重なって、ラストに「未来へ」と、少しだけ橋渡しをしていくところが、またとてもいいのだ(タイトルがその意味ではストレート!)。

これは、ひょっとして個人的な感覚かもしれないのだが、男子の友だち関係って、こんな濃度だったのだろうか、と思った。もっと、表面上はあっさりしていたような気がする。多少のドロドロ感もあったとしても、意外とさらりとしていたような気がする。相手のことなんか考える余裕もなかったということもあろうが(そして無関心でもあった)。

そういう意味で、この舞台は、「女子校版」もあり得るのではないかと思った。

パラドックス定数、これからも目が離せなくなった。
浦島氏の教訓 公演終了 ご来場御礼

浦島氏の教訓 公演終了 ご来場御礼

殿様ランチ

サンモールスタジオ(東京都)

2010/06/23 (水) ~ 2010/07/04 (日)公演終了

満足度★★★★

くすくす笑いをしながら、台詞を楽しむ
よく組み上がっている話。
役者もいい雰囲気。

どうなるんだろう、と楽しむ。

そして、「亀は甲羅を脱ぐのかどうか」を、帰宅してから、真っ先にネットで調べることになったのだ。

ネタバレBOX

話の中心にある張り込みは、実はそれほど重要ではなかったのではないだろうか。実のところ、まったく膠着したままで、何事も起こらない彼らを取り巻く、さまざまな人々のほうに、ちょっとしたドラマがある。

例えば、本筋とは関係ないと思っていた、若い刑事の十勝が、ラスト近くに見せる、何ごとかが起こりそうな予感をさせる雰囲気や、クリーニング店の店長と従業員の恋物語、さらに、大村の頭髪や上司との関係など、周囲では物語が進行しているという皮肉的な話が効いている。
(大村は、植毛お試し期間が過ぎて、もとに戻るのだが、で、あれば、もっと・・・な頭のほうがよかったような気がする。あれだとちょっと中途半端かな。でもかえってリアルか)

犯人もまったく別の場所で逮捕されてしまうし。

ここには無理をすれば「浦島」的な要素が隠れている。
つまり、竜宮城である張り込み現場では、時間は止まったままのようなのだが、その周囲の現実では、いろいろなことが進行しているということだ。

張り込みを終えて、彼らが現実に戻るときには、どんな玉手箱が待っているのだろうか。
それは、例えば、ただ事ではない様子の十勝の表情からうかがえる、イヤな出来事だったりするのだろう。

まあ、あとは、十勝が吹き込まれた「助けてあげても、いいことだけが起こるわけではない」という言葉のとおり、助けてもないクリーニング店長に「恩返し」というか、お礼参り的な展開というものも考えられる(「何か見返りがあったのか」と店長に聞いたことを上司に告げ口されたので)。

さらに、クリーニング店の店員の「玉手箱を渡した乙姫の気持ちがわかる」と言った、ちょっと恐ろしい言葉もかかっているのだろうか(帰るんだったら、酷い目に遭わせるかもしれないと)。

まあ「教訓」という意味は、それほど深く考えなくてもいいのだろう。だって、もともとフライヤー等の説明にも「教訓はあるのだろうか」なんて書いてあるし。
「教訓」なんてなく、「助けたら恩返し」されるということと、理由のわからない「玉手箱」というブラックボックスのみを現代に残しているのだろう。
そんなフレーバーが散りばめられていたのだ。

細かい台詞がなかなか面白い。クリーニング店での会話の、染み抜きや亀の様子にかけた下ネタちっくな会話や、方言と標準語、そして、それによる女性刑事の反撃。
それに合わせての、ちょっとした表情などの演技も巧みだ。

また、店長が携帯でする会話から、不倫を想像するのだが、同居しているのは、実は母親だということが後でわかる。こういうシカケが実に楽しい。
澤木がかつて、山下のせいで足を怪我してしまうのだが(それも誤射されて)、それについても、「だって急に出てくるんだもの」であっさりと流すあたりも面白い。換気扇のヒモが取れちゃうとか。
こんな、ちょっとしたくすぐりが山盛りなのである。
それに気がつけば、くすくす、としてしまう。

現場のリーダー山下を演じた服部弘敏さんの、独特でひょうひょうとした感じがよかったし、別のルートから犯人を追っている鍋島を演じた板垣雄亮さんの不気味で、恫喝チックな刑事もなかなかだった。

ただし、いくつかのエピソードが、最終的にうまい具合に絡まっていかない感があり、もうひとつすっきりしないのが少々残念(ま、絡まりあっていかず、玉手箱も開けることのない、っていう話なんだけど)。

それにつけても、殿様ランチは今回で3回目だが、いつもなんか暗い陰がちょっとだけある(ガンで死ぬ話だったり、劇中劇ながら無慈悲に殺されたりとか、今回は十勝刑事だ)。

そして、亀はどうやら甲羅を脱ぐことはできないらしい。
水×ブリキの町で彼女は海を見つけられたか【ご来場ありがとうございました!!】

水×ブリキの町で彼女は海を見つけられたか【ご来場ありがとうございました!!】

アマヤドリ

吉祥寺シアター(東京都)

2010/06/25 (金) ~ 2010/07/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

『ブリキの町〜』ひょっとこ乱舞は、ついに「笑い」も手に入れてしまったのか?
私は、この最近の数作から(プラスチックレモンから)しか観ていないのだが、ひょっとこ乱舞は、その「ひょっとこ」などという一見ひょうきんな劇団名の印象とは、やや異なり、ある意味ハードな佇まいに、センチメンタリズムを内在している舞台を行っていると感じていた。
しかし、今回は、ついに「笑い」をも手に入れてしまった。

今回も、フォーメーションとも言えるような役者の動きが美しい。
物語を牽引する力も強い。

もう1本の『水』との関係も意味深。

ネタバレBOX

リリー(KEKEさん)が想像するブリキの町の設定のようなものを、ノゾム(平館広大さん)が勝手に公開し、それを見ず知らずの人が広げていく。
ブリキの町は、この町かもしれないし、そうではないかもしれない。
物語は、人の手を経て、どんどん溢れ出してくる。

もう1本の『水』のように、恋愛も語られるのだが、『水』ほど重くはない。軽みがある。ただし、『水』は、人の中に深く入っていくような物語だったのだが、こちらは、広がっていくような印象を受けた。

しかし、広がっていくと言っても、世界の外に広がっていくのではなく、インナー部分への広がりである。

頭の中で考えたブリキの町は、いろんな人の頭の中を通して広がっていくのだが、それはあくまでも「頭の中」であり、さらに言えば、最初に「0から1」を創り上げたリリーの手のひらの中に存在した宇宙だった。

だから、いつでもリリーはこの物語を収束できるし、破壊することもできる。

そして、さらに言えば、「自分の意志でそうした」と言うリリーの潜在意識の中にラクの物語が静かに吹き込まれ、それの中に存在したのかもしれない。

そうした、物語 in 物語 in 物語 in ・・・・という、入れ子状態がまるで続くように。

物語の構造だけでなく、ラストの、「雨の最初の一滴が目の粘膜に落ちていき身体の海に広がっていく」ような展開は、極小の中への無限の広がりをも感じさせる。
そして、このセンチメンタリズムとも言える展開に、気がつくとやられていた。
この感じが好きだから、ひょっとこ乱舞が好きなのかもしれないとも思ったり。

今回に限らず、ひょっとこの舞台は、必ずと言っていいほど、ファーストシーンにフィードバックしていく。今回も2重にフィードバックして、閉じていった。
この形式は、今回は特に活きているのではないかとも思った。

フィードバックしていく形式は、クセみたいなものかもしれないが、ファーストシーンとラストシーンが、くるっと向かい合って、閉じていくラストは、美しいと思ってしまう。

また、深読みすれば、「0から1」を創るのは、「大変ではないか」とノゾムが言う。それは、作・演の広田さんのホンネの言葉ではないだろうか。そして「それを5とか10」にしていくのは、役者やスタッフなのだろう。
あるいは、「0から1」にしていくのは劇団で、それを「5や10にする」のは、観客なのかもしれない。

すべてを閉じて、あるいは破壊することができるのは、創造者(たち)だけかもしれないのだが、そう思っていても、実のところ、「何かに」そうさせられているということがあると、(広田さんは)考えているのではないか、とも思った。

とにかく、今回も台詞がいい。まるで強いエンジンを積んだ前輪駆動車のように、観客をぐいぐいひっぱっていく。
それも力業ではなく、「笑い」という潤滑油が見事に効いているので、ぐいぐいいくのだ。

『水』でも笑いが起こったのだが、私は最近の数本しか観ていないものの、これまでこんなに「笑い」が起こったひょっとこ乱舞の舞台はあったのだろうか。

最近の数本では、いくつかのピースに細かく分かれた物語が、みるみる見事なフォーメーションで構築されていく様が、気持ち良かったのだが、今回の「笑い」という新たな武器も素晴らしい。すぅーっと入ってきやすいのだ。

エコ役の笠井里美さんがとにかく素晴らしい。あっけらかんとして、どこかに突き抜けていくような感じが、舞台の雰囲気を醸し出していた。その突き抜け方が、どこかけなげにさえ思えてくる。
そしての、555(伊藤今人さん)の「間」がいいのだ。さらに、ガラム(板橋駿谷さん・当パン名前誤植では)との絡みがナイス!
彼らが物語の足場をきちんと構築していたのではないだろうか。それは、「現実」という足場である。

また、ラスト近くのラク(松下仁さん)の独白は、ひょっとこ乱舞ならではの熱を帯び、物語を幕引きに見事に導いた。

「笑い」を手に入れたひょっとこ乱舞は、今後、どういう方向に進んでいくのか、とても楽しみだ。
水×ブリキの町で彼女は海を見つけられたか【ご来場ありがとうございました!!】

水×ブリキの町で彼女は海を見つけられたか【ご来場ありがとうございました!!】

アマヤドリ

吉祥寺シアター(東京都)

2010/06/25 (金) ~ 2010/07/04 (日)公演終了

満足度★★★★

『水』水が溢れ出すように
台詞の構成、タイミング、間、とにかく、それがスリリング。
そのスリリングな台詞の中で語られるのは、不器用な人間関係。
男女であったり、親子であったり。

独特の場面展開、テンポも素敵だ。

ネタバレBOX

子ども頃、溺れた記憶があるシトラ。

シトラと母の間には、いつも水がある。
シトラは、水底に沈みながら、水面の上にある母の姿を見ている。母は、沈んでいく我が子シトラを何もせず(できずに)眺めている。
そういう親子の関係が、今も続いている。

また、犯罪を公務員として行っているクスノキと、お笑いライブで知り合ったアヤメという2人がいる。
彼らの関係は、チタンカーメンズというお笑いユニットのファンであるということから始まった。
しかし、それへの想いには、微妙な差が生じてくる。
互いに互いが好きであることは間違いないのだが、その「差」が「亀裂」を生む。

シトラは、ヒソップという男性と、クスノキたちを通じて知り合い、結婚をする。しかし、シトラは、水を飲むと湖になってしまう奇病にかかってしまう。
水が飲めない奇病のシトラが、湖になってしまう。湖になってしまうと、その湖に溺れて命を失ってしまうというのだ。水をめぐるシトラの設定は哀しい。
そして、シトラが奇病にかかってしまうことから、夫であるヒソップに辛くあたるところ(あたるしかできないところ)が、観ている者の気持ちをヒリヒリさせる。ヒソップも変わってくるのだ。

どこにでもあるような、人間関係に、ちょっだけヒビが入る。
そして、そこから水が溢れ出すように、気持ちが溢れ出してくる。

そして、運命は、きまぐれ。きまぐれからくる無慈悲。
運命は、奇病であり、ネコでもある。

全編あふれる、不器用な人間たちを演じている役者がうまい。

ひょっとこ乱舞独特の、手を振るようにして、まるでそれで拍子をとるように、とつとつと、自分の気持ちを話す様が、もどかしくもあり、そのリズム感に一種の気持ち良ささえも感じる。

特に、ヒソップの話し方がクスノキに似ていると指摘されたあたりから、クスノキが不器用に手を動かしながら、話す様子に、ヒソップがヒートアップして似てくるあたりは凄い。

アヤメを演じた中村早苗さんの自意識過剰さを、台詞と演技でぽぽーんと表現したうまさ、ヒソップを演じた西川康太郎さんの様子が変わっていくという演技、さらに、クスノキを演じた永島敬三さんの追い詰められた雰囲気、シトラを演じた根岸絵美さんの病気にかかったことによる気持ちの露呈などの演技が印象に残った。もちろん、ほかの俳優も素晴らしかった。

シトラ夫婦が飼う、ヒバリとホトトギスが卵を産むが、それは無精卵だから孵らないと言う。それは、この物語の人間関係を暗示しているのだろうか。
そして、卵は孵ることはないのだろうか。

物語が進行していくごとに、げろふき屋とか、お笑いコンビの大臣とか、犯罪を犯すことが仕事の公務員とか、湖になる奇病などという、徐々に虚構の要素が色濃くなっていきながら、さらに、マイクから人が出てきて、球に人を閉じ込めるという展開へと進んでいく。
この、がらりと世界を変えていったり、最初から虚構の中に観客を放り込むということをしないあたりの、塩梅と言うのか、そういう構成が素晴らしいと思う。

そして、ラストのヒソップとシトラが、もう一度出会う場面は、美しくて感動的である。動かなくなるヒバリ、崩れゆく住まいの姿とともに。

冒頭に語られる「ハッピーエンド」を作るのには、こうした「メルヘン」という装置が必要だったのだろう。現実では、それはなし得ないということなのかもしれない。

今回は、少し前の作品の再演ということだが、『プラスチックレモン』から観ている私としては、最近の緻密で、あるいは緻密すぎるぐらいの構築感は感じなかったものの、やっぱり、ひょっと乱舞だ、という印象とともに、やっぱりひょっとこ乱舞は面白いと感じざるを得なかった。

そして、もう1本の新作も楽しみだ。
荒野の三猿

荒野の三猿

劇団 EASTONES

駅前劇場(東京都)

2010/06/23 (水) ~ 2010/06/30 (水)公演終了

満足度★★★★

オープニングとテーマ曲でつかみはバッチリ
ストーリーは単純明快。
ちょっとカッコつけたりしても、笑いもまぶしてある時代劇エンターテイメント

ネタバレBOX

マカロニウエスタンというのは、イタリア製の西部劇のことだ。
マカロニウエスタンが、人気が出たのは、クリント・イーストウッド主演の『荒野の用心棒』からではないだろうか。
この映画は黒澤明監督の『用心棒』の設定を西部劇に持ち込んだものであり、今回の舞台は、マカロニ時代劇ということなので、逆輸入の感がある、と思って観た。

三猿の印象的な登場とともに、昭和歌謡的で、どことなくマカロニ風味のテーマ曲が流れる。
これが、いい感じ(できれば、この雰囲気で一気に行ってほしかったのだが)。

要所要所で流れる効果音楽も、いかにもマカロニ風味。

主人公の三猿は、自分たちの身体を不自由にし、親と慕っていた人を殺されたことへの復讐劇。
これもマカロニテイスト。

そして、汚れのきつい三猿の衣装もマカロニ風味。

これだけの要素が揃っているのだが、もうひとつテンポが良くないところがあった。つまり、停滞してしまう個所があるように感じてしまったのだ。

もちろん、すべてテンポ良く進めばいいということではないのだが、じっくりと見せるところと、テンポ良く見せるところの切り分けがもっと鮮やかだったら言うことはなかったのに、と思う。

殺陣は、上手い下手が、どうしても出てしまう。もちろん、あまり広い舞台ではないので、あの舞台をあれだけ動いて、殺陣をするということが大変だというのはよくわかるのだが。

三猿を演じた、石田さん、富永さん、あもさんの3人の殺陣はさすがだと思った。それぞれ趣向の違う刀を持って、それを一番カッコ良く見せる殺陣が見事だった。

また、おえんを演じた吉浜さんの身のこなしがいい。ダンスも含め、身体にキレがあるのだ。宿屋の女将を演じた堂免一るこさんの堂に入った女将が、いい間合いで入ってくるので、舞台が締まったように思えた。

そして、岡っ引きの親分の塩沢ユーキさんは、時代劇の二枚目風の姿とカタチが良く、その手下の又八(岡本正仁さん)の濃さも良かったと思う。

さらに、白鷺新三郎を演じた徳留英人さんの、悪っぷりが、イヤになるほど良かった。この存在がなかったら、物語はもっと平板になってしまったのではないでろうか。ラストの、親の話で見せる、一瞬のスキのような見せ方もうまいと思った。

マカロニ的な要素は多々あったが、マカロニにこだわるのならば、善悪のバランスが微妙だったり、悪のほうに憎めなさ的な要素も欲しかった気がする(そういう役回りの手下がいたが、そういう効果は出ていなかった)。
三猿が仲良すぎるのもマカロニ風味ではないような。つまり、いつもは悪態をついたりしながら、仲が悪そうに見えて、いざというときは! という関係のほうが良かった気がするのだ。

マカロニに、それほどこだわらないで観るとしても、主人公の三猿と女性たちが、子どもの頃にされた、酷い仕打ちの部分を、もっと具体的に見せてくれたほうが、復讐劇の様相に拍車を掛けることができただろうし、物語の膨らみが出たのではないだろうか。

ストーリーは単純すぎたかな。

また、殺陣の回数は多いのだが、あまりに単調すぎるのではないだろうか。例えば、『用心棒』のときの出刃包丁だったり、『続・荒野の用心棒』のときの棺桶からのガトリング銃だったりという、見せ場やアイデアが欲しかった。
さらに、カンカラ的な、殺陣のときの笑いももう少し欲しかった。
・・・あれも欲しい、これも欲しい、と欲張りすぎだけど、それだけ面白く観たということでもあろう。

いずれにしても、殺陣を入れて、笑いの要素も少しあり、エンターテイメントとしての時代劇を見せてくれる劇団としては貴重な存在だ。もっと面白くなっていくような気もするし、それを期待したいと思う。
次回は次郎長モノだそうだ、この雰囲気ならば、期待できるような気がする。
電車は血で走る(再演)

電車は血で走る(再演)

劇団鹿殺し

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2010/06/18 (金) ~ 2010/07/04 (日)公演終了

満足度★★★★★

ロックで、切ない叙情派
音楽は低音を響かせるロック。
派手な衣装と、生演奏。

だけど、そこで語られるのは、人と人のつながりの、切なさが溢れるストレートな物語。

初めて鹿殺しを観たけれど、なんか、こう、ぐぐっとくるところがあるんだな。

ネタバレBOX

電車は、郷愁を誘う。
私は、鉄っちゃんではないのだが、やはり、どこかへ、ガタンゴトンという音とともに揺られて行くというところに、哀愁も郷愁も感じる。

亡くなった親方が運転する宝電鉄の電車に揺られ、鉄彦は、昔の小学生のままの姿で帰ってくる。
昔の仲間たちは、すでに成人し、大工として働いている。そして、続けていた演劇を辞めようとしている。

ただし、昔の仲間たち、と思っているのは、鉄彦だけで、実は、その仲間たちからは、昔は疎まれた存在であった。
そんな切ない、片思いのような関係が、昔の記憶とともに、蘇り、成人していた仲間が感じていた「後ろめたさ」に気がついていく。

そして、演劇と劇団というキーワードは、イヤでも、それを演じている鹿殺しと、オーパラップしていく。演劇・劇団に対する想いが、この舞台にある。「劇場をつくろう」という歌とともに。

さらに、物語は、宝塚ということから、福知山線の痛ましい事故を思い出してしまう。その事故の扱い方には、異論もあるだろう。しかし、いろんな想いを乗せて電車は走り、その人たちの命を運んでいて、さらにその人たちを取り巻くたくさんの人々の記憶や想いも乗せているということが、ひしひしと伝わる。

楽団の電車は、金管楽器が中心で、その音色は、哀愁がある。歩き方にも注意が払われていて、それがとてもいい。
楽団のメンバーは全員、どこかを怪我していて、包帯等をしているのは、あの事故の列車だったからなのだろうか。

楽しいのに、切ない、そんな列車だ。

人と人との関係は、鉄彦を襲った不慮の事故だけでなく、意外と簡単に切れてしまうことがある。それは、劇団に集まった人たちも同じで、運命で集まったように思えても、ある日突然関係が断ち切れてしまうこともあるのだ。それがまた結びつくこともあろのだが、人と人との関係は、そんな危うさの上に成り立っているのだ。

鉄彦を演じたチョビさんが圧倒的に印象に残る。
「○○やんか〜」という口調で、例えば、犬に話し掛ける言葉までも、哀しく聞こえてしまう(この口調は好きだ)。

鉄彦が戻ってしまう電車を阻み、仲間の御輿電車で幕となるのは、とても美しいと思った。

ただ、歌、特にソロパートのところは、もっとロック調(ジャパメタ調、あるいはロック歌謡調)だったら言うことはなかったのだが。

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