満足度★★★
演出の問題か?
なんとも言えぬ固さとともに平板に物語は進む。
ネタバレBOX
演出というものについて考えさせられた。
約2時間は興味を持って観たのだが、まったく平板のまま進む。
主人公がいてそこに人がやってきて会話して去る。そしてまた人が来て会話して…の単なる繰り返し。これは一体何だろう? と思ってしまった。
(まるで)役者が下手に見えてしまっている。盛り上がりのない話だとしてもこれはないなぁと思うのだ。
「初日か?」と思うような、固さ、台詞だけに集中しているような印象を受けてしまった。もちろん、「さすが」と思う役者さんもいたのだが。
ストーリーとしては、話が進むにつれて、主人公サイモン・ヘンチが、あまり好ましい人物ではないことが明らかになっていくのだが、そういうシニカルな展開なのに、もうひとつ面白さや(じわりとした)パンチに欠ける。
もっと、シニカルな笑いが生まれるような作品だと思うのだ。
当パンによれば、そもそも彼はせっかく手に入れたワークナーのレコードを聴きたいのに、次々に邪魔が入りなかなか聴くことができない、という設定らしいのだか、その、レコードが聴きたいという強い欲求が出てこないし、また、原題にかかわる留守番電話に彼が吹き込むというメッセージもカットされている。
このカットされたことなどをオリジナルのままにすることで、彼の目的や気持ちがもっときちんと出せたのではないだろうか。
約2時間あまり飽きることはなかったのだが、それほど楽しめたとは言えない。飽きなかったのはもともとのストーリーが持っているであろう面白さであり、楽しめなかったのは、演出のせいではなかっただろうか、と思っている。
満足度★★★★★
生命の循環、ミクロから無限大へ
陰陽と生死と動静、その繰り返し(あるいは循環)。
ネタバレBOX
天児牛大の圧倒的な美しさ。
そして、この強さはどこから来るのだろう。
古参の舞踏手たちの(ミニマムな)舞踏(身体)には、歳の重ね方が見事に現れている。
無駄のない少ない動きなのに、伝わるものを多く感じる。
素人の視線だが、若手の舞踏手たちの今のところの武器は若さではないか。彼らの舞踏の1つひとつの動きが、つながり、つまり「意味」が見えてくるようになればと思う。
毎回のことだが、カーテンコールが美しい。
その最後の暗転は、夕焼けが美しいと思うのと、夕暮れが切なく感じるのと似た感覚だ。
山海塾の「開演時に指定席を解除する(制度)」はなかなか理に適った方法だ。
開演時間になって中央・前方の席に空席があれば、係が積極的に脇の席の方を誘導するというもの。
当然遅れてくる客は後ろや脇になり、観客の視界を横切ることはない。以前は、移動してもよいというアナウンスの後に、観客が勝手に移動していたのだが、今回は係の人が手際よく移動を促していた。
このために開演が5分ぐらい押すが、それはまったく問題なし。
満足度★★★★★
もう、なんて言うか、アレである
やはり予想どおりの、神保町花月で観た『ムネリンピック』を彷彿とさせる展開と内容。「虚業」という演劇はわずか10分ほどで終了する。そして、その後に続くのは、悪夢のようなうねうねした世界。
それは、不条理という御旗を掲げての上演。
ネタバレBOX
『ムネリンピック』では、「虚」の旗印の下、公演が行われており、まさに「虚」の世界だった。今回も、その「虚」で、「虚業」なのである。
永野宗典さんの頭の中が、もう丸見えというか、そんな感じなのだ。
虚業=演劇で、自らの演劇に鋭く切り込む、というわけではないが、「破壊=ゼロからの出発」「死=破壊」の願望は今回も存在していた。
世の中は破壊させて無からまた始まるし、永野さんも死んで、またお茶の間シーンから始まる。サイクルというより、破壊と再生。
結局のところ、どこまでも「演劇」と心中するつもりであり、それにはどこか「やましさ」や「うしろめたさ」「恥ずかしさ」のような感情もない混ぜになっているのだろうか。そんな印象を強く受ける。
永野宗典という人を、自ら丸裸にしてしまったような舞台。メタがさらに入れ子になっていたりするのは、「役者」でいる(あるいは、ある)自分をどこか冷めた目で、他人のように見ていくという行為でもある。そして、それはどこか、恥ずかしさかからきているのかもしれない。
「つくりごと」の世界から自らを解き放とうとしながらも、結局は、その中にいることを自覚的に演じていて、答えがないのかもしれないし、あっても見ないフリをしているのかもしれない。
孫悟空がお釈迦様の手の中にいる、というのに近いイメージだ。お釈迦様が自分だったりするわけなのだが。
迷いの中にいて、もがいているのが「不条理」だと感じているのだろう。
次回もこんな展開で、こんなテーマになると思うのだが、20年後も「永野宗典不条理劇場」は続いているらしいので、まだまだ観ていきたい。そして、もがき続けてほしいと願う。
永野さんの普通笑いはうまいし、加藤啓さんがもの凄くいい、そして池浦さだ夢さんのキャラも捨てがたい。
満足度★★★
デボーチカとマルチックのガリバーに、トルチョク喰らわせてハラショーな感じに仕上がるのかと思っていたが
意外にすっきり見やすい。暴力的ではない暴力。
映像の派手さもカッコいいし、何より生演奏がハラショーなのだ。
ネタバレBOX
「観たい」で、「終演後の気持ちをどこに着地させてくれるかに期待」と書いたのだが、それは、例えばラストが、原作どおりだったにしても、あるいは映画のようだったにしても、それに意味をどう持たせるのか、がとても気になっていたのだ。
暴力がテーマで描かれている作品なので、今、この世界で、それがどう提供されるのか、に興味があったのだ。
タイトルに書いたように、ロシア語などがチャンポンの彼らのスラングで溢れている原作は、スピード感があるものの、読みにくい多くのスラングとの塩梅が物語を形作っていた。
今回の舞台は、原作のほうに寄りながらも、ビジュアルは明らかに映画のほうを選択している。さらに各エピソードは軽めに仕立ててある。つまり、喉ごしがいいというか。暴力が描き切れていない気がするのだ。何も残酷にしろ、血を飛び散らせろ、というのではなく、暴力とはどういうものであるのか、をしっかりと見せることが必要ではなかったか、ということなのである。
そして、それをどう伝えたいのか、である。
それに関して、さらに気になるのは、「観たい」に書いた「終演後の気持ちをどこに着地させてくれるか」にかかわることだ。
結果、原作(小説)のラストを選択したのだけど、それがどうこうと言うより、それへの態度が気に入らない。つまり、冒頭から「原作はこうしなかった」「映画ではこうだった」などと言う台詞が入るのだ。ラストに至っても「原作どおりに終えた」とわざわざ言わせている。
確かに、ラストでは「それ(原作どおりにしたこと)は大人になったということだ」として、物語とうまく関連づけているように見せているのだが、納得のいくラストに仕上げられなかった演出家の言い訳にしか聞こえないのだ。つまり、そうした「原作では云々」という台詞がいちいち「言い訳」にしか聞こえないということなのだ。
なんでそんなことをわざわざ冒頭とラストに入れたのか? と思ってしまう。どうもそこに潔さのようなものが感じられない。「自分たち」はこの舞台を通じて「何を伝えたい」のかということが、疎かにされてしまった印象なのだ。
用意された原作を、そのとおりに作りました。それは「大人ですから」という感じ。
また、どうも、役者のナマな迫力や存在感に魅力をあまり感じなかったのも事実だ。いろんなものに振り回されている感じがしてしまった。
とは言え、映像やそれとの絡み方のセンスには、素晴らしいものがあった。そして、生演奏もよかった(音は悪すぎだが・バンドの位置の問題か?)。
満足度★★★★
ああ、うまいなあ
基本は、笑いあり、の短編集。
中には、スパッとした幕切れのものや、ちょっとした余韻やダークな印象を残すものもある。あえてぐだぐだな(笑)即興を入れるなど、構成が巧み、戯曲も役者もいい感じ。
幕間には、映像によって、劇団名誕生のエピソードが偽ドキュメントのように語られる。
冒頭から、劇団員から楽しさが溢れている様は、観ている側にとっても楽しいのだ。
役者たちの安定感とキャラクターの活かし方が観ていて安心できる。
公開読み合わせ
アル☆カンパニー『冬の旅』の公開読み合わせに行った。
戯曲を書く松田正隆さんと演出の高瀬久男さんを交えて川崎市アートセンターアルテリオ小劇場で行われた。
本当に初の読み合わせだということだ。
これが一体どのような舞台に仕上がっていくのか、とても興味がそそられた。
星は本公演を観てから改めて入れる。
ネタバレBOX
最初に簡単に読み合わせとはどのようなものなのか、平田さんから説明があり、実際に出来上がっているところまでを、平田満さんと井上加奈子さんが読んでいく。
その間、松田正隆さんも高瀬久男さん(なんだか台本に書き込みをしておられたが)も黙って聞いている。
読み合わせを終えた段階で、どのような印象を持ったかをお二人に聞いていた。
前回とその前は、家族旅行で旅館が舞台だったが、今回も旅行でホテルになりそうである。旅行好きのカンパニーということか(笑)。
読み合わせを聞く限り、長いモノローグと会話の組み合わせの演劇になりそうである。
なので、これをどうやって演出し、どう演じていくのかはとても興味がある。
しかも、どのように物語が進行していくのかも気になる。
読み合わせの時間は、ゆっくり読んで40分ぐらいだっただろうか。松田正隆さんによると「全体の5分の1」だそうだ。
それを聞き、平田さんは「そうすると、単純に計算して200分、約3時間になりますよね」と驚いていた。
しかし、どうやらそれほどの長さにはならないらしい。
満足度★★★★
どこかアングラの匂いがする独特の世界
バイオリンとピアノなどによる生演奏と一人芝居。
真冬のシンとした会場に響くバイオリンとピアノの演奏が心地良く、物語が淡々と紡がれていく。
ネタバレBOX
淫靡なイメージの赤い着物をまとい、バイオリン弾きの少女の出会いが語られる。物語とそれを演じる雰囲気は、どこかアングラの匂いがするのだが、会場は住宅地にある大きなお宅の一室。
その光景は、一見不釣り合いなのだが、お宅の一室という秘密めいた雰囲気は、逆にアングラ色を強めているのかもしれない。
夜の住宅の一室に、人々がひっそりとやって来て、赤い着物の少女が一心にバイオリンを弾く様子を、固唾をのんでじっと見つめているなんて、なんだかアングラっぽいではないか。
個人的には、もっと「芝居的」な要素が強いほうがよかったのではないかと思う。また、赤い着物は淫靡な雰囲気を醸し出しているのだが、もっと「陰り」や「エロス」のようなものが滲み出てくると、さらに物語に深みが増したのではないだろうか。どこか健康的な感じなのだ。
たぶんそれは、バイオリンを演奏するということがあるので、その演奏をきちんと聴かせるということのほうを、優先したためではないだろうか。演奏と演技の切り分けは、この舞台の場合は難しいので(設定がバイオリン弾きの少女なので)、その塩梅も難しいと思うのだか。
人形が奏でるカノンは、まさに人形のような演奏であり、その細かさがいいと思った。
映像の効果もなかなかなものであった。
ありそうでない公演であり、演奏と芝居のバランスや、他の役者との絡みなど、いろいろ試していくなど、もっと豊かな表現が現れてくるように思える。
とても面白い試みであり、今後への期待を含めた星の数にした。
満足度★★★★★
「今あそこにいるのは自分だ」と思ってしまうと、笑えなくなるのではなく、笑うしかなくなる
つい、と言うか、思わず笑ってしまうけど、ヒリヒリして笑えない、でも笑ってしまおうと思う、とても辛い(はずの)喜(悲)劇。
4人の役者さんたちが本当に素晴らしい。
「間」と「タイミング」と「愛想笑い」と。
ネタバレBOX
画家を目指していて、たぶんその才能らしきものがあった山田。そして、一種の時流に乗ったために脚光を浴び、天才と言われていた佐藤の2人の学生。さらに佐藤の恋人でそれほど才能はなかったが、絵を描いていた美紀。
彼らは数年後再会する。山田も美紀もすでに絵を描いていない。佐藤はまだ描いている。
山田や美紀の行動は、いかにもありがちだ。学生時分の無責任な状況では、自由に絵を描いていけたが、状況が変われば、あっさりとそれをやめてしまう。絵でも音楽でも何でも。それは非難されることではない。
しかし、今も続けている佐藤が現れることで山田の気持ちはざわつくのだが、佐藤の有様を見てしまうと続けたほうがよかったのかどうか疑問に思えてくる。
続けることは、(たぶん)みっともない。つまり、その世界で成功したのであればそんなことはないが、ただ続けているだけの姿は、みっともないと思っているのだろう。それは病魔に冒された佐藤が具体的に見せてくれる。
たぶん、それは本当に作者自身の姿とダブるのかもしれない。
まさにその役(続けている佐藤の役)を、作者自身が演じている。
病魔に冒されて、見た目も精神もボロボロになっているし、描き上げた絵も不気味で何だかわからない(昼間っから布団に入ってテレビを見ているような絵)。本人にしかわからないレベルながら、日常の辛さが全面に溢れているような絵だ。しかしその絵は、本人にとっては「完成」してはいない。キャンバスの上から次々に絵を描いていくという佐藤。それでは完成するはずもない。それは、自分の精神状態の行き着く先が見えていないということであり、まだ自分の本来の力が発揮できていないということなのだ。「続けていくこと」への迷路にある佐藤。
こういう言い方は失礼かもしれないのだが、今、インディーズでモノを創り上げようとしている人たち、例えば音楽をやっている人、例えば演劇をやっている人、そういう人々の多くは、本業は「音楽」「演劇」と言いながら、バイトで生活をしている。
そういう状況には、いろいろ理由があるだろう。いろいろ理由があるにせよ、それは本来の自分ではない、という思いがしているのは当然だ。「完成」してないと。
つまり、この舞台は、そうした人々への(作者自身へも)メッセージが込められているように感じた。
それは「続けることは、みっともないことである」というメッセージだ。そして「それでも続ける」というメッセージも同時にあるのだ。
と同時に、もちろん、モノを創ることを生業としている(としたい)人だけへのメッセージではないことは明らかだ。それは「夢」のようなものを持っていた(いる)人々にも同じメッセージを送っている。
すなわち、「続けることは、みっともない」そして「それでも続ける」ということ。
続けることをやめてしまった山田と美紀は、自分のことだ。そして「続けて、みっともない」のも自分のことだ。
つまり、「今、舞台の上にいるのは、この自分」なのだ。そう思ってしまうと笑えなくなるのではなく、逆に笑うしかなくなる。思い切り笑えるか、力なく笑うかの差はあるにせよ。
佐藤は、自分で編み出した変な石の投げ方を山田に伝授することで、なんかそういうことも伝えたかったというのは、深読みしすぎか。
山田を演じた松井さんの「普通さ」がいい。そして佐藤を演じた岩井さんは、凄すぎる。さらに美紀を演じた内田さんの(佐藤の恋人だったことの)哀しさ、コンビニの店員を演じた平原さんの重圧がとてもいいコントラストを描いていた。
彼らの作り上げる、なんとも言えぬ「間」と「(台詞などの)タイミング」の凄さを体感した。そして、知らず知らずのうちに、誰もがやってしまう「愛想笑い」と。
友だちとか男女間の微妙さもナイス。
シンプルな装置も効果的。
本当に素晴らしい作品だ。
満足度★★★★
人生を愛する
天気のいい午後のまどろみのような舞台。
シンプルな舞台装置。
ミクロからマクロへのつながりを自然に感じる。
ネタバレBOX
架空の町を描いた3幕構成の舞台。
1幕は「日常」だが、残りの2幕(「恋愛・結婚」「死」)もすべて「日常」である。
「人の営み」のすべては日常であり、自然の中にある。
そして、第3幕がすべてを物語る。
「生」と「死」は地続きで、と言うよりも、境がないようにも思える。
その根底には、輪廻転生の思想のようなアジア的なものがある印象さえ受ける。
繰り返し行われる日常と、「生」と「死」の繰り返し。
日常が演じられて、しんしんと雪が降り積もるように観客の心の中に物語を作り出す。
あくまでも「演じている」ということが、キーである。舞台監督が、架空の町の物語を舞台上の役者たちに演じさせているからだ。
この、舞台監督が全編顔を出し、ストーリーを語るという構造は、いわば、「役者=人間」「舞台監督=神」のようであり、宗教的な色合いを感じる。
「人の日常」の視点も神の視点だし。
「運命には逆らえないのが人間だ」という見方は皮肉すぎるか。
とてもシンプルな舞台装置で、効果音も若い役者さんたちが、自らの口で行う。
肉体が鍵盤を叩くことで音がするピアノの調べも、シンプルなのだが、深い味わいをもたらす。
つまり、「人」がそこにいることがすべてである。そこにあるのは、「人」の物語だ。
舞台監督役の小堺一機さんは、とても流暢。もちろんそれは悪くないのだが、なんとなく手際のいい司会者にしか見えなくなってきてしまった。何というか、舞台の上の人間たちへの「思い入れ」のようものが、今ひとつ感じられなかったような気がしてしまうのだ。
先日観た葛河思潮の『浮標(ブイ)』とほぼ同じ時期に書かれた戯曲であり、「生」「死」がキーワードになっているところに共通点があるのだが、こちらのほうにアジア的な印象を受けたのは不思議だ。
とは言え、観る順番が逆だったら(こちらが先だったら)、こちらはもっと楽しめたのかもしれない。
満足度★★★★★
強い!! 素晴らしく力強い舞台!! 演出家と役者が強い戯曲と格闘した姿がそこにある
約4時間(休憩2回)のアナウンスに身構えたが、決して長くはなかった。それだけ素晴らしい舞台だった。
戦中が舞台だが、その古さはまったく感じず、現代に力強く存在していた。
それは、戯曲の素晴らしさももちろんあるのだが、演出と役者の肉体が真正面から立ち向かった姿でもあった。
ネタバレBOX
千葉郊外の海岸にほど近い場所で、肺病の妻を看護しながら暮らす画家五郎。彼と妻を取り巻く人々の物語。時は戦争の足音が聞こえてくる頃。
作者、三好十郎氏夫婦のドキュメント的要素もある物語でもあるそうだ。
まず全員が舞台に立ち、長塚さんから簡単な挨拶があり、舞台の幕が開く。
全員が上下黒い衣装に身を包み、舞台の左右に着席する。
舞台の中央には砂場のような装置があり、砂が入っている。とてもシンプル。
役者は観客と同じに舞台中央で行われている芝居を凝視する。そして、自分の出番前には左右に去り、衣装を身にまとって現れる。
しかし、着席して観ているのは、単に出番を待っているのではなく、そのシーンごとにその人(つまり出番ではなく待機している人)の気配を残す効果がある。つまり、舞台の中央にいる人々にとって、去って行った人、あるいはその場にいない人の気配がどこか頭の片隅にでも残っている様子なのだ。
満州事変が起こり、戦争がこれから日常化しつつある時代が舞台である。商品も統制が始まり、画壇も各団体が1つにまとめられ、統制の対象となろうとしている。
「死」が近い時代だったと言っていいだろう。
その中で、死の病とも言える結核に冒されてしまった妻を看病する五郎にとっては、さらに死が身近なものになっている。
どうしても避けたい妻の死に対して、五郎はやり切れなさを周囲に感情も露わにぶつけてしまう。そうした感情の高まりが、相手も自分も傷つけてしまう。
五郎には、絵を描くという使命がある。しかし、筆が手に付かない。妻のことも、もちろんあるのだが、時代のそうした不安、自由が真綿で首を絞めるようになくなっていく不安が彼の手を動かそうとしないのではないか。
五郎は、妻の存在が「周囲の空気まで、自分のものにしないと承知しないのだ」と言うのだが、これは妻が発する「死」の存在の重さ、同時に「生」の存在の重さでもあろう。
「死」の存在の重さとは、時代の空気感でもあり、その息苦しさを感じているであろうし、「生」の存在の重さとは、「生きたい」という、妻を含めた人々の願いであろう。
その両方の重さ、存在が五郎を苦しめる。
これから戦地に征く、親友の赤井と妻の2人が五郎の前にいるときには、「死」が間近にある2人の前にいる。そして、そこに妊娠したと告げる赤井の妻の存在は、「生」を強く感じるのだ。
「死」の赤井から「生」の赤井の妻を託された五郎は、まさにその2つの狭間にある。
五郎は、中盤に出てくる、やや荒れ気味の波間に浮かぶ「赤い浮標」のごとく、波に揉まれて大きく動揺している。
そのため精神は疲れ、言いたくないことや、言ってはいけないことを感情の趣くままに吐き出してしまう。
その感情の上下は激しいものであり、周囲や自分を傷つけてしまう。
親友赤井の存在もポイントになる。彼は軍人となり、小説家になることを諦めてしまった(もちろん本心ではなく、小説を五郎に託していくのだから)。それは、妻をよろしくと託したように、自分の「創作への想い」も五郎に託したのではないだろうか。戦地に征くことで自ら「諦めたこと」にしてしまったのだから。五郎の絵を誰よりも認めている赤井だからこそ、強く彼にそれを託して戦地に向かうのだろう。
それは、彼が必ず受け止めなくてはならない重責である。
五郎が、赤井の妻の妊娠とともに託されたのは、「生」とそれに結びつく「創造」だったのだ。
五郎は、砂浜に行き、それを強く感じ受け止めたのだ。
五郎夫妻の面倒をみる小母さんや、妻の母、妹、弟、出番が少ないものの、彼の友人の1人でもある高利貸しの男、また、善人の塊のような大家さんなど、彼を取り巻く人々が、あるときは彼を支え、あるときは彼を(意図せざるものもあるが)責め、彼を形作っていく。
ラストは、オープニングの黒ずくめとは異なり、全員が劇中の衣装になっている。しかも、劇中ではまだオープニングの「黒」を残していたのだが、ラストは完全に着替えて全員が登場しているのだ。
これは、上演を終えて、三好十郎の『浮標(ブイ)』を、出演者全員が体験し、つかんだという、高らかなる宣言であるととった。
五郎を演じた田中哲司さんは、この長丁場の中、緊張感を常に振りまき、感情を高ぶらせたりする演技は素晴らしいものであった。妻(美緒)の藤谷美紀さんの、病弱ながら強い意志が芯にある様子は胸に迫った。彼らの世話をする小母さん役の佐藤直子さんの明るさと「生」が印象的であった。
また、美緒の母親役のお貞の娘を想う気持ちと、息子を想う気持ちの狭間にある微妙な様子(つい口をついて出てしまう)がよく、息子の利夫役の遠山悠介さんの空気の読めないぼっちゃんぶり、医者の娘、京子の背伸びしたいお嬢さんぶり、さらに出番が少ないが、大家の裏天さんを演じた深見大輔さんの人の良さが、鮮やかに印象に残る。五郎の親友、赤井を演じた大森南朋さんの戦地(死地)に赴くときに「さっぱりした気分」と言い切りながら、彼の妻が妊娠したことを告げられてからの直接的には表さない気持ちの動揺もよかった。
舞台は戦中の話であり、今はもう聞かれないような台詞回しもある。しかし、その内容、中心は、まったく古びていない。戯曲の持つ、本当の強さ、骨太さというものを強く感じた。
かつて観た、東京デスロックの『その人を知らず』も同じ三好十郎さんの戯曲だったが、そのときにも同様のことを感じた。
強い戯曲に立ち向かえるのは、それをうまく立ち回って処理できるという能力ではなく、やはり強さが必要なのではないだろうか。若さと言ってもいいかもしれない。そうした強さ、若さをもって立ち向かえば、たとえ昔の戯曲であったとしても、現在に上演することに意味(理由、意義、単に存在させることでもいい)を持たせることができるのではないか、ということを強く感じたのであった。
蛇足ながら、神奈川芸術劇場(KAAT)はとても素晴らしい会場であった。こうした会場ができたことをうれしく思った。
満足度★★★★★
あの「場所」を去りがたい気持ちが強く残った
観客参加型ということで、やはりドキドキしていた。
春風舎の入口から学生服の案内係の人が立っていて「おはよう」と声を掛けてくる。受付でも、まるで同級生のような口調で「おはよう」と。
なんとなく、「いらっしゃいませ、ご主人様」的なお出迎えのような印象を持ってしまった。いや、まあ、実年齢と制服の微妙な調和が(笑)。
極々個人的なことながら、いつもより、ちょっと後を引く観劇後。
ネタバレBOX
客席に入るとそこは見事に教室であった。
なるほど、サイズ的にも教室なのだ。
そして、クラスメイトらしき人々が、やはり気軽に「おはよう」と声を掛けてくれる。
そこで、はたと困った。つまり、この「芝居」にどこまで乗っていくべきなのだろうか、ということだ。
「観劇をしに来た」のだから。もちろん観客参加型なのだから、「観劇を体験しに来た」ということなのだが、「芝居をしに来た」わけではないのだ。「学生を演じている役者さん」たちのことは、「学生である」と認識することはたやすいのだが、自分は学生にはなれない。演じなければなれないからだ。
「演じる」ということは、「観る人」を意識しなくてはいけないということで、それは「他の観客」と「役者」と「自分」になってしまうのだ。
そのあたりのジレンマが、最後まで解消されずに、もぞもぞしてしまった。
さて、ストーリーは、いろんな出来事が起こるある日の1時限目。そこで高校生たちがわさわさするというものだ。
そのわさわさに自分も入っている。
質問を振られたり、巧みに台詞を言わされたりするのだが、それはやはり緊張感がある。でも、楽しい。実際に振られて発言したり、台詞を言う機会もあった。ウケを狙いすぎて(と言うより、もう振られないだろうとタカをくくっていたら、不意に振られて、あらぬことを口走ってしまった)、先生役の方を少し固まらせてしまったりした。冷や汗だった。
とにかく、とても楽しい時間だったのだ。
で、実は観劇の間の楽しさはもちろんあるのだが、その後、春風舎を出てからの、無言で帰る道筋がまさに「家に帰るまでが学校」だったわけなのだ。
まずは、その場を去りがたい気持ちが強く、後ろ髪を引かれる思いで、会場を後にしたのだ。
(ここからは、さらに個人的すぎる感想)
そして、自分の高校生活を思い出すのだ。
充実していたと感じていた高校生活は、実は楽しくなかったのではないか、と年を経るごとに気がついている自分がそこにいる。
今、舞台で観た、定番のようなアノ感じ。こんな役割の生徒がいて、こんな役割の生徒もいる、というような雰囲気。そういう定番も悪くないなと思ってくるのだ。
当時は、すべてにしらけていた。熱さはカッコ悪さだった。
そう思うと、実は何も楽しんでいなかったのではないか、と思ってしまうわけだ。
考えてみると公演なのだから、もう一度体験することは可能である。そうすればもっと本気に芝居に入り、もっと面白いことを言ったり、もっといいタイミングと口調で台詞を言えたりする可能性が高まる。
これって、人生をもう一度やれることなんじゃないかと思ったりする。どう話が進むか知っているところにもう一度入って、あのときできなかったことをうまく立ち回るということができるということ。
禁断のリピート(笑)。眠れない夜に布団の中でうじうじ考えていたような、「あのときこうしていれば」が解消されるように、人生がもう一度体験できるじゃないか(笑)。
エンディングのタイトルロールのアイデアはグッド!
満足度★★★★★
啄木の叫び
とにかく「うまい」。
展開も構成もいいのだ。
わずか3人だけの舞台なのに、目は3時間舞台に釘付けになってしまった。
三谷幸喜さすが! と言っていい。
ネタバレBOX
啄木が愛人の前から姿を消したある温泉宿の1日が物語の中心になっており、それを啄木の死後、愛人と啄木の友人が振り返るという、ややミステリー的要素のあるストーリー。
前半にトミの口からその日の出来事が語られ、休憩後にテツが同じ日の出来事を語るという構成である。いや、そういう2部構成だと思ったのだが、そうではなかった。なんと言っても、その後の展開が素晴らしいのだ。
単に2人の、それぞれの主観の違いからい出来事を多面的にとらえるというだけではなく、2辺にもう1辺を加えることで、立体に立ち上がっていくように、物語の本当の姿が立ち上がっていくという構成が素晴らしいのだ。
2辺とはトミとテツであり、もう1辺とは啄木である。
それまで「啄木」のタイトルがあるものの、啄木はどこか他人行儀で物語の中心にいるようでいない。どちらかと言うと、トミが中心のように感じていたのだ(前半がトミの記憶なのでよけいに)。
ところが、ラストへ進みながら、啄木が中心にすくっと立ち上がり、この舞台が見事に啄木の物語になっていくのだ。
啄木の「悪」への憧れと、「悪」になり切れない中途半端さ。モノを作り上げていくということへの苦悩と、自らが描いた虚像の枠に自らをはめようとして失敗していく様とが共鳴していく。そして、彼を取り巻いていた、彼への「愛」の姿たちに触れたときのおののき。
そう言ったもものが、徐々に顔を見せてくるのだ。
これには唸った。
ホントに凄いと思う。
2人にとって啄木とは何者だったのか、そして、啄木は彼らに何を期待し、何を得たのか、本当に素晴らしい舞台だったと思う。
テツ役の中村勘太郎さんの激するときの、モロ歌舞伎口調は、ある程度意図されていたのだろう。啄木役の藤原竜也さんの前半の抑え気味さは、後半のジャンプのためだったと思われる。その塩梅が見事。後半の振り絞るような、言葉にならないやり切れなさの全身表現が素晴らしいと思った。また、今回、初舞台のトミ役の吹石一恵さんは、固さはあるものの、この重責を見事に務めていたと思う。
存在と肉体だけが舞台にあるようなシンプルな、逃げ場のない舞台で、3人の役者が絡み合い、ぶつかり合い、調和して、見事にそれを為し得ていたということがとにかく素晴らしいと思った。
シンプルなセットの使い方もうまいし、ちょっとした遊び的な要素の入れ方もうまいと思った(ミカンの瞬間移動、前後の座敷の入れ替え等々)。
満足度★★★★
なんだよ、これっ!?
一言で言えば、「過積載の2トントラックが、疾走しながらエントロピーを雪だるま式に増大させている」感じとでも言うか。一言じゃないけど…。
それは、ある意味「酷く」て、「凄い」としか言いようがない。
端で見ていてハラハラしてしまう。
あんなに積んで大丈夫なの? あんなに飛ばして大丈夫なの? って。
ネタバレBOX
とにかく過剰、作者が違うのだが、前々作『ハチクロニクル』で感じた、むやみな情報量の多さには驚かされる。と言うか、まったく「閉口」してしまう(笑)。
観客は間違いなく、大消化不良を起こしている。単なる消化不良ではなく、「大消化不良」だ。
胃薬ぐらいでは絶対に治らない。つまり、ちょっと紐解いてみせる程度では、消化仕切れないのだ。
もう、調子に乗って、カツ丼のカツを30枚ぐらい乗っけてみました的な特盛り感。
ゲップ。
もう30枚の時点でお得感はない。その過剰な、どうでもいい設定(地検兄弟とか)プラス台詞を、これまたなんとも言えない、お腹一杯になる熱い演技で盛り上げてくるのだ。
30枚特盛りカツ丼に、バケツで豚汁付けました的な大サービスだ。
ゲップ。
2時間近い上演時間をその情報量で熱演なのだから、観ているほうは拷問に近い。というか拷問だ(あ、人によってはね)。
でも、飽きない。引き込まれてしまう。
力業。というか力技か。
力の兄と技の弟。えっ、それじゃ「リーマン兄弟」そのものじゃないか!
今回の物語は、「情報」の多さと、その渦中にある人々の生活が描かれていたが、軸がまさに、タイトル通りで、リーマン兄弟の兄、弟、そして兄の? 弟の? 嫁の物語が並行して疾走するのだ。
交わっているようで、実は交わっておらず、それぞれの内部で自己完結している。コミュニケーションが見事に断絶している世界。
会話をしているのだが、すべてを取り巻く情報量に埋もれていく、コミュニケーションなのだ。
そして、内側にも何もなく、「確かな存在」は腕立て伏せのような肉体疲労の中にしかあり得ない。しかも、それすら他人任せで自らは行おうとはしない。
どこにも出口はなく、いや出口という概念すら存在していない。しりとりが「永遠」で終わってしまうしかない世界だ。
まさに、舞台を観てわれわれが感じていることでもある。
実際に、そういう世界、つまり、その情報を取捨選択して、それなりの回答みたいなものを、なんとか出しながら生きているのがわれわれだ。
「だからどうした!」と言ってしまう。
でもそうなんだ。
自ら名乗る「哲学的なコメディ」という言葉に強く縛られすぎたのか、そうとしか言えなくなったのか、まったく観客には歩み寄ろうとはしない。
単に「ツッコミ」がいないというところが、構造的なポイントなのだろう。
とにかく、ほとんど笑わなかった(ニヤニヤはしつつも)のだが、絶対に次も観たいと思ってしまうのだ。
「え? なんで?」と思われるだろうが、それだけの「毒」があるということなのだ。もうなんだか、むやみさと、過剰さがたまらないのだ。
「鋼鉄村松」素敵すぎる。
つまり、過剰な「思い込み」と「意気込み」とある種の「勘違い」が素敵すぎるのだ。
だって、それらを「劇団」として「共有」しているんだから。それぞれの頭の中での「共有」であり、それらは、やはり大量の情報から取捨選択して、それぞれが回答らしきものを導き出した上で、「演じたり」して、「作品」として仕立てているのだから。
申し訳ないが、多くの観客に支持されることはあまりないかもしれない(失礼!)。…私が書くより前の評価の高さ(星の多さ)が信じられないんだな(笑)。
でも、特盛りにチャレンジしたい観客は存在するのだ。
こんな劇団が存在して、公演を打って、観客が入っているって、素晴らしいじゃないかと思う。
にしても、「犬」はお決まりなのだろうか?
『ハチクロニクル』も出てた。着ぐるみのリサイクル的な?
満足度★★★★★
台詞のやり取りが気持ちいい!
スピード&リズム感と役者のうまさが光る。
そして、設定がナイス!
ネタバレBOX
パンクバンドをやっている、もう若くない3人とその恋人たちとの物語。
なんだかパンクバンドの3人より、もっとパンクな恋人たちがいる。
生き方がパンクっぽかったり、うるさかったり、奇天烈すぎたりと。
だけど、よくよく考えるとその中に「普遍的な恋愛」が見えてくるのだ。相手のことを強く想いすぎて、自分がコントロールできなくなったり、コミュニケーションがうまくとれなかったり、相手のことがわからなくなったり、そんなことは、誰でも経験したことがあるだろう。
恋愛の入り口だったり、中だるみだったり、終焉だったり。
そんなお互いのやり取りと、気持ちのシーソー的な動きを繰り返しながら、恋愛は進んでいくのだ。
例えば、近藤美月さん演じる中川の彼女の行動は、最初は面白いと思いつつも、次第にエスカレートしていく様は、理解できるものではなかったのだが、2人の関係がとてもいいことを見ると(手をつないだり)、これは彼女なりの彼とのコミュニケーションの取り方なのではないかと思ってくるのだ。
パンクな彼氏に、ある意味合わせて、自分に興味を持ってもらいたい一心で行っていることではないだろうか。
そういう意味では健気すぎるぐらいのことなのだ。
言うまでもなく、失礼ながら、パンクなバントのベースを担当している有川役の有川マコトさんがカッコよく見えてしまうのも恋愛マジックであろう。
声が聞こえなくなる、言葉を翻訳する、なんていうのは、まさに恋愛の比喩だしね。
櫻井智也さん演じる櫻井の彼女に対する想いが、他人(他の男性2人)にはイマイチ伝わらないことなどとも併せて考えると、そうした「恋愛中の行動」とは、得てして他人から見れば、奇異そのものではないのだろうか。
自分であってもあとから考えると、赤面以外の何ものでもないことを、平然とやってのけるのが、恋愛の面白さでもある。
そうした恋愛模様をやや肥大化させつつも、哀愁さえ感じさせる極端さが、とても染みるのだ。
それは、女だけでなく、男においても、滑稽であり、哀愁なのだ。
そうしたドラマが、とてもいいスピード感で進んでいく。
台詞の畳み掛けは、役者のうまさと演出の手際の良さからくるのだろう。
後半から中川役の中川智明さんが参加したということなのだが、もう、この役は彼しか考えられない、という感じに見えていた。
近藤美月さんの痛い役は、上にも書いたように、「健気さ」を感じたところから、痛々しさが見えてきて、「ああ恋愛なんだな」と思えてきた。
石澤美和さんの、独特の間のうまさ、見えているキャラクター以上の面白さがたまらない。
あずきさんを演じた小椋あずきさんの、一直線さは、実は恋愛時期にはありがちで、怖さもありつつ、ぐっとくるものがあった。
情報量が多い、過剰とも言える台詞は、なかなか気が利いていて、笑った。「パンクジャンケン」なんていう、センスの良さも光っていた。
ああ、そうそう「パンクバンド」っていう設定がいいなあ。
暗転の音楽も気が利いている。
満足度★★★★
スレスレでギリギリなところを攻めてきた
「オムニバス形式で贈る」「珠玉の短編たち」云々という宣伝文句に、すっかりしてやられた。
うまいじゃないか、このつくり、と思う。
ネタバレBOX
オープニングと最初の短編を観て、てっきりこの感じの、つまり、TVネタなんかのパロディ的なものが続くのかと思っていた。
そして、次の短編、そして…と続く中で、「これは一体何のパロディ?」と思ったところで、ナレーションである。
うまい!
さらに、そのナレーションに「ん??」と思ったとたんに、本来の物語が浮かび上がってくる。
これには正直やられた。
かなり危険とも言えるような、ギリギリなところに踏み込んだ印象だ。
ひとつ間違えば、ボロボロになりそうだ。
いや、舞台の上はすでにボロボロなのだから、観客の意識がうまくマッチしてくれないと、予定している面白さに到達できない。
凄い意思決定というか、賭であると思う。
こういう方法に対処できる観客であろうことを、想定してつくらないとできないことではないだろうか。つまり、観客を信頼しての舞台であったと思うのだ。
そう考えると、「オムニバス形式で贈る」「珠玉の短編たち」宣伝文句も、観客を騙すための企みのひとつであり、最初のほうの短編も、観客を惑わして、後半の本筋にもっていくための、「劇中劇」であったと思えてくる。
と言うか、そうではなかったのか。
つまり、この舞台は、「オムニバス」でも「短編」でもない、「長編」の1つの舞台だったということなのだ。
にしても、無理矢理の台詞も楽しいし、下手な演技も「うまい」と思う。チープなセット(木)も素敵だ。
「このヨーロッパ」と言ってつかみかかるのには、大笑いした。
満足度★★★★★
シンプル! そして強い
柿喰う客、結束強しの印象。
なにしろ楽しそうなのだ。
役者が活き活きしている。
スポーツ観ているような爽快感さえあるんだよ。
ネタバレBOX
家族loveな中屋敷さんが、役者に、あるいは役者の肉体にすべてを託したとも言える、芯の強い原点回帰的作品ではなかっただろうか。
舞台装置も衣装シンプル。新年らしき賑々しさもある。
いろんなものをそぎ落として無駄がないし、求心力によって、触れるぐらいの存在感がそこにある、という感じすらする。
役者の身体ひとつに、物語を集約させていったようだ。
台詞中のしょーもない(笑)言葉遊びも素敵だ。グイグイくるテンポも最高!
とにかく、登場人物の配置&移動&動きがやっぱり面白い。シンプルな舞台だから相当計算されているのだろう。
そして、七味まゆ味さんの身体のキレは素晴らしい。コロさんのどーんとした感じもいい。村上誠基さんのなんとも言えぬぼっちゃん感もなかなかだ。
最後に新春を祝しての、三本締めで人を喰った感じもナイス!
満足度★★★★★
苦みと痛みが残る
前回の3本立て『窮する鼠』内の1本『リグラー』のヒリヒリ感がさらにアップした、ヒリヒリ系舞台。
ボクシングのコンビネーションのごとく繰り出されるパンチが痛い。会社勤めしたことのある人にとっては、なかなか効くのではないだろうか。
ネタバレBOX
役所内にいる内通者から、入札情報を買い取り、自社に有利にしていたことを長年やっていた建設業者内での物語(台詞で「談合」と言ってたけど、違うよな? 昨今流行りの「公務員の機密漏洩」かな)。
会社ぐるみの不正vs正義感の新人(今回の場合は異動によるもの)という図式のストーリーは、よくあると言えばよくある。最近でもNHKでやってたりした。
ただし、違うのは、「正義」と振りかざす側の「甘さ」や、彼を取り巻く環境があまりにも過酷であることだ。
やんわりと真綿で首を絞めるような、とはほど遠い激しいパワハラで「国立」くんを締め上げていく。
締め上げる側も、自らが「奴隷」であるという自覚がはっきりあるところが、観ていて辛いところでもある。
そうしたストーリーを形作っている要素の深みが素晴らしいと思う。
なぜならば、ありきたりとも言えてしまうストーリーでありながら、観客をここまで引き込ませ、かつ、共感させてしまう舞台であるからだ。
単にありきたりのストーリーを熱演で見せただけであれば、こうした感覚は生まれないだろうと思う。
締め上げ側の「生活」が見えてこないのが、やや弱い気もするが、よくよく考えると、生活を見せて「本当はいい人なのに」という要素がないのも、よかったのかもしれない。
「会社員」であることが、会社にいるときの彼らの「すべて」であるからだ。
それにしても、この劇団、イヤな人を演じさせると、日本一の劇団かもしれない(笑)。イヤな人の深みがいい。演出家だけでなく、俳優たちもそのイヤなところのツボを理解しているということだろう。
営業スタッフでいる三橋も、やや固めなOLさんのはずなのだが、その底にある必死さのようなものが、ヒシヒシと伝わりちょっとしたイヤな感を出しているし、ストーカーされるOLの野村のやや媚びた感じも好感度があるとは言えない。と言うか、そう見えてくるのだ。
とにかく、全員の余裕のなさがたまらない。
余裕がない景況が、この会社をこういう企業風土に変貌させてしまったのだろう。
今、こういう会社は多いのではないだろうか。不正をしていなくても、どこかギスギスしていて、人間関係にも、個人的にも余裕のない会社が。
会社勤めをしたことがある人にとっては、見たくない、考えたくないことを見せつけられたような印象がある。
犠牲になる富島の行動は明らかに「甘い」し「迂闊」すぎるのだが、「だったらどうする?」「どうすればよかった?」という言葉に対しては、うまい回答はなさそうである。
他人事のように批判するのは簡単だが、いざ自分のことになったら、どうなんだ、ということだ。つまり、「自分だったら…」と考えさせられてしまうのだ。
富島の行動をそうしたことにして、観客に答えのない疑問を投げかけるという、もう一段先を見通したであろう脚本と演出がうまいということであろう。
ちなみに、この案件は、たぶん100%労災を勝ち取れるのではないかと思う。弁護士がいくら失敗した経験があると言っても、及び腰なのはどうなのかな、と思った。
課長を演じた吉田テツタさん、課長代理を演じた大塚秀記さんの、ストレートなパワハラがたまらない。会社の不正にどっぷり漬かっているから、富島の行動が理解できないのだ、ということを観客に見事に伝えていた。だからこそ、観客はどうすればいいのかわからなくなるのだ。
人事部の竹下を演じた橋本恵一郎さんの、目がひくついている感じの気持ち悪さが印象に残る。また、会社の事務をしている三橋を演じた菊池未来さんの、あるある感としたたかさも印象に残る。
富島の妻を演じた蒻崎今日子さんの、徐々に余裕がなくなっていきつつ、ラストで夫のことと自分のことを振り返り、後悔のようななんとも言えぬ雰囲気のうまさは、この舞台を締めくくるにはふさわしいと思った。「ああ、なんてことをしてしまった」と言うような、余計な吐露をさせないうまさ、それを彼女に託した演出のうまさだろう。
次回は、苦い観劇後の味を舌に残した『明けない夜・完全版』(シアタートラム)ということ。かつて、本編+外伝の2本立てで行われていたものが、ついに1本になるということらしい。これには期待したい。
満足度★★★★★
「嫌な世界」は紙一重
『ケモノミチ』でも感じた世界が広がっていた。
「日常」と「人間関係」。
崩壊の序曲。
ネタバレBOX
濃厚で、どこにでもあるようで、実は現代では崩壊してしまっている人間関係。
あそこの誰がどうしたとか、もう、近所のみんなが自分のいろんなことを知っていて、他人なのに、親戚以上のつながりがある社会。それは、もう現実には見ることのできない、下町的な人間関係である。
無縁社会の今となっては、素晴らしい社会だったのかもしれないが、その鬱陶しさに気がついてしまえば、その中にいることは地獄でもある。
つまり、「嫌な世界」と「素晴らしい世界」は表裏一体にある。
「それ」に気がつかなければ、素晴らしく、気がついてしまえば嫌な世界にもなってしまう。
「隣の芝生は青い」症候群とでも言おうか。
まるで、もうダメそう(たぶん)な地球よりも、火星のほうが素晴らしいと思ってしまうのにも似ている。
息子の坊豆くんから見ると、周りの大人すべてが家族のようで、家族ではなく、単に鬱陶しいつながりでしかないのだから。
だから、「お兄ちゃんが多くていいわね」なんて言われると、爆発させたくもなってしまう。
火星に移住が始まっていても、そんなムラ社会はどこかに存在する。ムラの外から入ってくると、居心地は悪い。担任や母親の浮気相手はまさにそう。まったく馴染めないのは当然。
しかし、天涯孤独な壊し屋・七海にとっては、ちょっと惹かれたりすることもあるのだろう。無縁社会の真っ直中にいるのだから。
坊豆は、今いる息苦しい世界を、爆弾で吹っ飛ばしてしまいたいと思っている。実際に爆弾を作っている入間は、爆弾では壊せないことを知っているから、爆発しない爆弾を作り悶々としている。
だけど、(たぶん)少し未来の話なのだが、観客は知っているのだ。そんな人間関係なんて、爆弾じゃくても簡単にバラバラになってしまうことを。
工場の破産や母親の浮気による両親の離婚は、もうすぐそこまでやって来ている。そうでなくても、そんなムラ社会は、年とともに崩壊するしかないのだ。人間関係を築く「人」が減っていくし、子どもだって、坊豆1人しかいないのだから。
それにしても、サンモール・スタジオという会場で、あれだけ大がかりなセット展開をできるというのには、驚きだ。本当に素晴らしい。
そして、どこまでもぼんくらな男性たちに対して、女性たちの、諦念とも言えるような察し方の雰囲気は素晴らしい。どの女性も、それで魅力的に見えていた。
中でも、七海を演じた永井幸子さんの、「あえて、イヤなことを言います」的な台詞回しは、誰にでもあることなので、ヒリヒリときたし、小島の妻を演じた深澤千有紀さんの「おばちゃんぶり」は素晴らしい。ラストの去り際で見せる台詞もとても効いていた。それは、唯一とも言っていい一筋の光だった。
さらに、工場の従業員を演じていた伊藤総子さんの、哀しみ溢れる姿は印象に残った。理髪店の兄を演じた岡山誠さんは、持ち味のキャラクター以上の鬱陶しさがナイスだった。
満足度★★★★★
楽しい! 大笑い!
「歌う」こと、つまり「ミュージカル」であるということに対するストレスはまったくない。
そのままを受け入れて楽しめる。
…つまり、歌が入ると「…。」となったり、ヒヤヒヤしたりするミュージカルが、世の中にはあるということなのだ。
人種、性、宗教などの際どいネタ満載だけど、全編笑いっぱなし。
パペットの雰囲気もストーリーにマッチしているし、なにせ、役者たちが芸達者。
これは、観て良かった。
満足度★★★
ぐつぐつ煮えてましたね
舞台の上が。
なかなか熱い「かんとだき」、いや、舞台だった。
まさに浪速の人情喜劇。
熱い心を持った人たちが、熱く、熱っ苦しいほどの情熱を振りまいていた。
ネタバレBOX
冒頭から力業で引っ張っていかけれたという感じで、あれよあれよで、笑ってほろりとさせて。
「大事な人のために、死ぬことができるか(死ぬほどの苦労を厭わないか)」というテーマ(ちょっと、きな臭い感じがしないでもないが)で、戦争帰りのヤクザたちが、戦場で果たせなかった想いを、通天閣という大阪の象徴の復活にかけて奔走するストーリー。
これ1本でぐいぐい進めたほうがよかったのではないだろうか。
サブストーリーとして、現代の秋葉原オタク文化とその仲間たちの絆を描いていくるのだが、これが、単にコスプレをしたかったのできないかという内容。
オタク大会の様子も、別に後への伏線になるわけでもないし、特に面白いわけでもない。
ラストにこの戦後間もない頃の大阪のストーリーと、現代アキバのストーリーがわずかに重なるのだが、それは「重なる」というよりは「カスル」程度の印象。
「人の絆」的なテーマがあって、それを現代のオタクたちにあてはめて見せていきたいのはわかるのだが、それを強く主張するのは、メイドカフェの店長のほうなのだ。
だから、てっきり通天閣のほうに出てきた花子との関係は店長のほうにあるのかと思っていた。花子が体験したスピリッツを受け継いでいたと。というより、店長の歳の話がしつこく出てきたので、ひよっとして、店長は花子? なんて思ったりもしたのだが、違っていた。オタク青年のほうに、花子はつながりがあったということになっていた。
これはすっきりしない。メイドカフェの店長の位置づけがだ。
もし、オタク青年のほうのつながりにするのであれば、もっと執拗に友人とのつながりを持とうとしたりしたほうがよいのではないだろうか。
わざわざ2つのストーリーを走らせる意味のようなものをあまり感じなかったのだ。
ストーリーを別々に走らせるのではなく、せっかくの舞台なのだから、もっとうまく重ね合わせたりなど、いろいろなことができたのではないだろうか。
そこが少し残念ではある。
ついでに書いてしまうと、メイドカフェの店長の大股開きは、あまり楽しくない。お上品にやれ、というのではなく、面白くやってほしいのだ。つまり、笑わせてほしい。店長のキャラクターがわかりにくくなってしまうし。
とは言え、ネコ脱出はとても気に入った。
まさに、「かんとだき」のように、いろんな具であるキャラクターが濃くいい味を出していて、楽しいのだ。
また観たいと思った。