投げられやすい石 公演情報 ハイバイ「投げられやすい石」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    「今あそこにいるのは自分だ」と思ってしまうと、笑えなくなるのではなく、笑うしかなくなる
    つい、と言うか、思わず笑ってしまうけど、ヒリヒリして笑えない、でも笑ってしまおうと思う、とても辛い(はずの)喜(悲)劇。
    4人の役者さんたちが本当に素晴らしい。
    「間」と「タイミング」と「愛想笑い」と。

    ネタバレBOX

    画家を目指していて、たぶんその才能らしきものがあった山田。そして、一種の時流に乗ったために脚光を浴び、天才と言われていた佐藤の2人の学生。さらに佐藤の恋人でそれほど才能はなかったが、絵を描いていた美紀。
    彼らは数年後再会する。山田も美紀もすでに絵を描いていない。佐藤はまだ描いている。

    山田や美紀の行動は、いかにもありがちだ。学生時分の無責任な状況では、自由に絵を描いていけたが、状況が変われば、あっさりとそれをやめてしまう。絵でも音楽でも何でも。それは非難されることではない。
    しかし、今も続けている佐藤が現れることで山田の気持ちはざわつくのだが、佐藤の有様を見てしまうと続けたほうがよかったのかどうか疑問に思えてくる。

    続けることは、(たぶん)みっともない。つまり、その世界で成功したのであればそんなことはないが、ただ続けているだけの姿は、みっともないと思っているのだろう。それは病魔に冒された佐藤が具体的に見せてくれる。
    たぶん、それは本当に作者自身の姿とダブるのかもしれない。
    まさにその役(続けている佐藤の役)を、作者自身が演じている。

    病魔に冒されて、見た目も精神もボロボロになっているし、描き上げた絵も不気味で何だかわからない(昼間っから布団に入ってテレビを見ているような絵)。本人にしかわからないレベルながら、日常の辛さが全面に溢れているような絵だ。しかしその絵は、本人にとっては「完成」してはいない。キャンバスの上から次々に絵を描いていくという佐藤。それでは完成するはずもない。それは、自分の精神状態の行き着く先が見えていないということであり、まだ自分の本来の力が発揮できていないということなのだ。「続けていくこと」への迷路にある佐藤。

    こういう言い方は失礼かもしれないのだが、今、インディーズでモノを創り上げようとしている人たち、例えば音楽をやっている人、例えば演劇をやっている人、そういう人々の多くは、本業は「音楽」「演劇」と言いながら、バイトで生活をしている。
    そういう状況には、いろいろ理由があるだろう。いろいろ理由があるにせよ、それは本来の自分ではない、という思いがしているのは当然だ。「完成」してないと。
    つまり、この舞台は、そうした人々への(作者自身へも)メッセージが込められているように感じた。
    それは「続けることは、みっともないことである」というメッセージだ。そして「それでも続ける」というメッセージも同時にあるのだ。

    と同時に、もちろん、モノを創ることを生業としている(としたい)人だけへのメッセージではないことは明らかだ。それは「夢」のようなものを持っていた(いる)人々にも同じメッセージを送っている。
    すなわち、「続けることは、みっともない」そして「それでも続ける」ということ。

    続けることをやめてしまった山田と美紀は、自分のことだ。そして「続けて、みっともない」のも自分のことだ。
    つまり、「今、舞台の上にいるのは、この自分」なのだ。そう思ってしまうと笑えなくなるのではなく、逆に笑うしかなくなる。思い切り笑えるか、力なく笑うかの差はあるにせよ。

    佐藤は、自分で編み出した変な石の投げ方を山田に伝授することで、なんかそういうことも伝えたかったというのは、深読みしすぎか。

    山田を演じた松井さんの「普通さ」がいい。そして佐藤を演じた岩井さんは、凄すぎる。さらに美紀を演じた内田さんの(佐藤の恋人だったことの)哀しさ、コンビニの店員を演じた平原さんの重圧がとてもいいコントラストを描いていた。
    彼らの作り上げる、なんとも言えぬ「間」と「(台詞などの)タイミング」の凄さを体感した。そして、知らず知らずのうちに、誰もがやってしまう「愛想笑い」と。
    友だちとか男女間の微妙さもナイス。

    シンプルな装置も効果的。

    本当に素晴らしい作品だ。

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    2011/01/22 06:30

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