満足度★★★★★
夜のしっとり感と子どもの騒がしさが並行して存在する、黄昏時のような、なんともいえない切なさが、舞台に充満していた
80年代戯曲を現代の若手演出家たちが、リーディング形式で行う公演。
「昭和」の匂いがきつい戯曲を、軽々と2011年に届けるセンスの良さを感じる。
そしてそれは、リーディング形式といいながらも、観客のイメージを広げ、これはこのままで演劇の公演と言っていいのではないかと思うほどであった。
ネタバレBOX
80年代の戯曲であるが、内容に盛り込まれているコトバの数々は、その時代においても、レトロ感たっぷりの内容であり、「昭和」の匂いがきつい(60〜70年代の昭和だから)。
それが、難なく、つまり、ひょいと簡単に現代に持ってきている、ということに、少々驚く。
つまり、レトロ昭和臭の強い作品を、あの品のある作・演出で見せてくれる、青☆組の吉田小夏さんが、いとも簡単に(簡単に見えるように)、観客の前に持ってきてくれている、ということは、さぞや凄まじいコトバとの格闘があったのではないかと思ったのだ。…この点については後で述べるが。
物語の構造は、前日観た『家、世の果ての……』と驚くほど共通点が多い。物語の中心が、虚構であることや、言葉遊びの過剰さ(こちらはダジャレに近いが)。
それに「未来」がキーワードとなっていることなど。
これが80年代戯曲の共通点なのか、と思った。
少々因縁めいた家族の物語。消失した自己。物語の登場人物たちの哀しさのようなものをストーリーには感じた。
私たちの足元の話でもあろう。ロマンすらある。
演出は、とてもリズムがよく、心地良さを感じた。
時空を超え、年齢の違う同じ登場人物が舞台に上がるというのは、青☆組では、観られる手法であるから、リーディング形式なのに、観ていて違和感なく、理解できた。ここの演出は、見事だと思った。シンプルなのに観客への浸透度が高い。
夜のしっとり感と子どもの騒がしさが並行して存在する、黄昏時のような、なんともいえない切なさが、舞台に充満していた。
そして、戯曲に埋め込まれた、数々の「コトバ」をきちんと観客に届けるうまさにはセンスを感じる。ユーモアもきちんとすくい上げているのだ。
グロテスクな情景にさえも、どこか子どものママゴトのような、乱暴さを残しつつも、単なるグロにならないあたりがセンスというものだ。
また、なにより役者がうまい。
のびのびとやっているのではないかと感じる。
観客の反応がいいこともあろうし、何より自分たちが楽しんでいのではないかと思うのだ。
最小限の動きや(と、言ってもリーディング形式というイメージからは、動きは多いが)、音楽、照明で、リーディング形式といいつつも、もうこれは、このままで、演劇の公演と言っていいのではないかと思うほどであった。
いいものを観たという印象。
これをわずか3回の稽古で仕上げた腕のよさを、演出家にも役者にも感じる。大拍手モノ。
そして、レトロ昭和臭の強い「コトバ」の数々と、吉田小夏さんの関係だが、知らない言葉が多いようで、一部は誰かから聞いたりしたようだが、「そういう言葉がある」「そういう人がいた」というレベルだったということを、ポストパフォーマンス・トークで知った。
これは少々拍子抜けした。なぜならば、「うーやーたー」(「ガチョーン」みたいなもの、と思っていたらしい)というかけ声も、「阿佐田哲也」にしても、物語と意味が絡まっているのだから。つまり、それを知らないままに「音」として演出したということらしいのだ。
それは、ちょっと残念な気もする。がしかし、よくよく考えてみると、逆にそれにとらわれなかったからこそ、やすやすと、そして軽々と、80年代戯曲を2011年に上演できた所以かもしれないなと思ってみたり。
そして、料金1,000円は安い!!
満足度★★★★
歌の力で『変身』を見せる
一体どのようなして、あの陰鬱な『変身』をオペラで見せるのか、ということが気になって出かけた。
歌の力は凄いと感じざるを得ない。台詞としての歌がいいのだ。
陰鬱は陰鬱なのだが、家族の、特に妹の気持ちが痛いほど伝わってくる。
家族を想う強い気持ちだ。
シンプルなセット・装置が、観客の脳内でうまく想像を膨らませ、見事な舞台となっていた。
特に、虫の脚に見立てた椅子の脚が、逆にグロテスクさを増していたと言っていいだろう。
ネタバレBOX
物語は、カフカの『変身』を語るところから始まる。
途中ではその設定は出てこないのだが、見方を変えれば、全部が彼の話す物語であるともとらえることもできる。
全体のストーリーはほぼ原作に忠実だと言っていいのではないだろうか。
主人公ザムザの苦悩と困惑、また、彼の家族の、やはり苦悩と困惑、さらに彼と彼の家族との関係が物語の中心になる。
物語は、あまりにも理不尽で不条理なものなのだが、それに対する家族たちの距離感が、軸になる。
すなわち、驚き、受け入れ、拒絶という道筋を辿っていく。
この理不尽で不条理な物語は、先日観た映画『ショージとタカオ』に重なってきた。ショージとタカオは、布川事件でえん罪を訴えている人たちであり、獄中で29年間、仮釈放されてから14年間戦っている。映画は彼らの14年間追ったドキュメンタリーだ。
『変身』の主人公ザムサの姿が、えん罪という、理不尽で不条理な状況に追い込まれたショージとタカオのように見えたのだ。
えん罪と訴えていたとしても、世間からは犯罪者にしか思ってもらえない。それは、気味の悪い虫に変身したのと同じで、世間からは拒絶されてしまう。本人にとって、その状況は逃れられないし、あまりにも理不尽である。
もちろん、家族にとってもそれは同じで、肩身の狭い思いをしてしまうのだ。
ショージとタカオは、家族や多くの支援者のもとで、再審請求をし、その判決を待っている。
一方、ザムザは、家族からも見放されてしまう。
これは辛い。やはり救いようがない物語ではある。
これは、私が感じた、あくまでも極個人的な『変身』の感想だ。
この舞台では、ラストに原作に追加されたシーンがあった。これがこんにゃく座からのメッセージなのだろう。
それは、貨車(汽車?)にぎゅうぎゅうに乗せられた人々がスモーク(ガス)の中に消えていくというものだ。
これは単に、去っていくザムザの家族を思わせるものだけではない。
中間部分に戦争の香りを振りまいていたこと、舞台がチェコであること、さらにユダヤ系だったカフカの出自を考え合わせると、先日観た舞台の『国民の映画』で語られていた、いわゆる「最終解決」のことを指しているようである。
原作にはないこの部分が、脚本家が込めたメッセージだったのかもしれない。
つまり、ある朝、虫になっていたという理不尽な状況を、社会からつくられ、命を奪われるという不条理がある、というなのだ。
満足度★★★★
お腹一杯だっ!
前説あたりから、期待は膨らんでいて、それの期待を裏切らず、緩急付けながら、怒濤のこどく物語は展開していく。
エネルギー炸裂、頭の血管が切れそうなキャラ続出で、非常に鬱陶しい(笑)。
だけど、それが、いい味。
単に馬鹿騒ぎだけでないからだ。
ネタバレBOX
前説のノリが良すぎて、この雰囲気で全体も進行するのか、と危ぶみつつも期待を膨らませていたら、なんとなくダウナーな舞台。
「?」と思っていたら、死神くんの登場だ。
これはシビれた。凄まじい。もう目が舞台に釘付け。
破壊力あるし、客いじりの、相手を寄せ付けないオーラが放出されていてツボ。マンガやこんにゃくゼリーを観客に渡すときに、さりげなく言っていた台詞が素晴らしい(「(こんにゃくゼリー)悪くないのにね」とか)。
全編、メインの台詞だけでなく、こうした微妙な台詞が散りばめられていて、それに触れるたびに「うへへへ」っと笑ってしまう。
当然、死神くんのキャラが、全体を牽引する「強キャラ」だと思っていたら、後から後から、濃いキャラが出てくる。
各パートごとに、例えば、旅館組、例えば、刑事組、にそれぞれ「軸となる強キャラ」がいるのだ。これはうまい配置だ。
また、彼ら、濃い「強キャラ」がぶつかっても、どちらかが引くことで、うまく成立していた。
物語全体は、強めのイメージながら、冒頭のマンガ・シーンとうまくつなげ、さらに、しんみり&切なシーンとのバランスがとてもいい塩梅で入っている。また、その「しんみり&切なシーン」も、とって付けたような感じではないため、物語にすんなり入っていける。
役者たちのキレがとてもいい、ここは笑うためのフリだ、と気がついている観客たちが、「そこそこ」って言ってしまう、いいタイミングで台詞を入れてくる。身体能力が高いというべきであろうか。
特に、コロンバイン先生と死神くんを演じていた、竹岡常吉さんのコロンバイン先生のときの丁寧さと、死神くんとの振り幅が見事だった。
また、コロンバイン先生の2人の子どもを演じた、加藤慎吾さんと岩崎恵さんの鬱々さはなかなか。ここがしっかりしてないと、せっかくの人情的な物語が成立しないからだ。それをうまく演じることで、この舞台は面白くなっていたと思う。
刑事役の最所ユウキさんと、旅館の主人役の今井孝祐さんの、アノ鬱陶しさは素晴らしい。もの凄く鬱陶しい(笑)。
あと、ときどき現れるメタ的な展開、刑事たちの芝居に対する想いや、作者をなじるシーンには、笑った。
にしても、コロンバイン先生の役名、ブラックすぎ。
そう言えば、前説で現れたケンタウロスは、まったく関係なかった。青い鳥も無闇で無意味、そんなところが好み。
青山雅士さん夫婦のその後が気になる。
開演直前と直後に流れていた「死神くん」の、なんとも言えぬテーマみたいな曲、もうちょっと聞きたかった。
満足度★★★★★
8割世界チームが一丸となって、満塁ホームランを打ったぞ!
あんまり野球とか興味ないので、「野球の知識が、ある程度ないと、本当の面白みがわかんなかったら、ちょっとヤだなあ」なんて思っていたけど、そんなことはまったくなかった。
どうやら、劇中の国分(こくぶ)ぐらいの知識でも十分楽しめたのではないだろうか。
はっきり言って、8割世界の最高傑作ができちゃったんじゃないかと思う
ネタバレBOX
前半はどこかの会議室のような場所、「このままここで会議していくだけなのか?」と思いきや、びっくりするような、センスのある展開で、球場になっていく。
このセンスには脱帽した。
さらに、このテンポに乗りつつ、試合が展開していく。もう楽しいとしか言いようがない。
とにかく、見やすい。誰が観ても、ついて行けるのではないかと思う。
それは、基本の構造がしっかりしているからだろう。
例えば、新人が入ってくるのだが、彼の役割はお芝居での決まり事のようなものてであり、設定を理解しやすくしてくれる。そして、彼の特徴がラストのオチにうまく、しかもわかりやすくつながっていく。
さらに、誰もが納得のいくラストであるし、メッセージもしっかりしている。
また、登場人物のキャラクターの足腰がしっかりしているので(ぐらつかない)、ストーリーに集中できるし、大人数がいる場面でも、もたつかないし、まとまりがいいのだ。
もちろん、役者たちのセンスがいいこともあるし、演出が巧みなのだ。
ただ、そうした基本構造がしっかりしていれば、すべての演劇が「面白く」なるわけてはないのだ。「面白く」するには、「センス」が必要だ。
そして、この舞台にはその「センス」が溢れていた。
前述したセット展開や試合の進行だけでなく、細かいところで、そのセンスが光っていた。
例えば、少々というか、かなりクセのある、高宮尚貴さん、小林守さんという2人の俳優を、うまいポジションで使い、物語へのいいアクセントとしていることは特筆に値すると思う。一見飛び道具なのだが、いい感じで引かせているあたりが絶妙なのだ。2人ともにラストへいい役回りを持っていくところも憎い。
例えば、高倉役の今野太郎さんに、ときどきボソッと言わせる台詞の塩梅とか。
例えば、舞台の上での立ち位置や、メインの出来事が起こっている場所とか。
例えば、「役者」とからめて、それへの想いを潜り込ませたりとか。
そんなところへの、細かいセンスの積み重ねが、舞台の上のストーリーを整理し、さらに流れをきちんと一方向に向けているのだ。
役者では、ふじさわ(武士沢)役の日高ゆいさんが、圧倒的にカッコよかったし、マネージャー役の奥山智恵野さんも、印象に残る。もちろん、この2人の女性は、そういう役柄なのだが、「きちんと言う」という姿勢が見事に現れていて、物語だけでなく、舞台そのものをピシッと締めていた。この2人がこの役であったからこそ、物語に1本筋が通った、と感じてしまうほどだった。
正直、すべての役者さんたちが、とてもい仕事をしていた。まさに舞台の上で演じている人が、その人そのもののように。
セルメニョ役の小林守さんは、結局ずるい感じ(笑)で、観客を煙に巻くなんていうオマケもいい。
何もかもがきちんと収束しない、ちょっとしたモヤモヤ(大きな疑問でなくてこれぐらいの、本編に関係ないモヤモヤ)は、帰宅しながら「じゃ、あの人はなんであんなことを」と思い出して「ということは…」なんて、いろいろ考えて電車の中でニヤついたりするのも、舞台(コメディ)観た後の、「お土産」だったりするのだ。
こういうセンスの良さも悪くない。
今回の舞台で、劇団としては、たぶん相当な手応えを感じているだろう。これによって、さらに劇団の方向性が確認できたのではないだろうか。間違ってなかったと。
したがって、これからは、観客の8割世界に対するハードルも一段と高くなったことは確かだと思う。
すでに10年ぐらいの歴史がある劇団のようなので、それがプレッシャーにならないとは思うのから、観客は後は公演ごとに安心してチケットを買うだけでいいのであろう……と思うのだか。
そうなってほしいのだ。
劇団の主宰、鈴木雄太さんが最初に挨拶していたが、ここはやはり、監督風のユニフォーム着用だったのではないだろうか(笑)。
それと、どうでもいいことだが、アンケートを書くともらえる「小林」はA4ぐらいのサイズでもいいんじゃないかな、文字小さく書いて。
満足度★★★★
ほとばしる、男のむっさい汗。熱っ苦しすぎるぜ男肉ファンタジー
男肉 du Soleilって、ダンスユニットだと聞いていたが、果たしてこれはダンスなのか??
まあ、そんなことどうでもいいじゃないか。
「ここにいるよ」ということを「ここにいるぜ」と、ちょっと強がってみせるのが、彼らのダンスなのだろう。
ネタバレBOX
劇的な日常がないと嘆く主人公が、死のうと思って入った樹海で、森の番人に出会う。
森の番人は、かつて自然を破壊する者として、自然に滅ぼされてしまった人類だったのだ。
森の番人は、ダンスで地球を再生しようと主人公に呼びかける。
主人公は、それに共鳴して、アマゾンだのサバンナだの、北極だのに出かけてダンスによって、自然を再生していくのだが、主人公も思い余って、かつて人類を滅ぼした自然と同じように、人類を滅亡させようと思い始めるのだった。
って、書いてくると、なんだか、エコをテーマにしたファンタジーのように見えるのだが、まあまあ、身体ひとつで、セットも装置もな〜んもない舞台だから、エコっていゃあ、エコかもしれない。が、しかし、ファンタジーではない。
だって、上半身裸の男たちが、汗だくで踊るんだから。いや、でも、それはファンタジーと呼ぶしかない。男肉ファンタジー。
ダンス公演として見ると、いろいろ言いたいこともある。ダンスって何? って話にもなるので、そこは避けるが、とにかくよく動く、それは身体の動きがいいということではなく、ただがむしゃらに手足を振り、身体を曲げ、伸ばしているということで、体力的に、ということでだ。半端ない運動量。
よくもこんなキャラ集めたな、といういうような男たちが、とにかくよく動くのだ。特に、2時間近い上演時間の中で、後半にいくほどそれが激しくなっていく。
本気で、全身全霊を込めて動く。後先なんて考えてないんだろう。そういう姿は、もう、バカバカしくって素敵だ。物語も、本気で自然と人間のことを考えているとは思えず、ど〜でもいい感じになってくる。そんなことど〜でもいいんだよな。
結局のところ、人前で、できれば裸で、動きたいんだよ、たぶん。
そういう衝動だけで成り立っているのではないだろうか。単なる初期衝動だけで。それは、感動しそうなものだけど、本気であればあるほど、面白いと思ってしまう。
取って付けたようなメッセージ的なものと、むさい男たちのファンタジーは、汗の臭いしか振り撒かず、本気で必死。
そんな中にあって、自分たちの中では、確実に何か生まれていくものがあるのだろう。
観客は、彼らの男肉ファンタジーを見守って、笑って、あるいは蔑んで、横を向いて、文句を言って、そのファンタジーに参加するのだ。
だから、そんなモノは見たくないし、付き合いたくもない、と思う観客がいるのも当然だろう。
しかし、それは、彼らにとっての快楽につながる。Mとかなんとか、そんな話ではない。(たぶん)不器用な男たちが、「ここにいることを見てほしい」「知ってほしい」というメッセージが、実際に舞台という華やかな場所で繰り広げられていること自体がファンタジーなのだから。
にしても、結構いい年齢の客演・ヨーロッパ企画・中川さん、あのステージでよく最後まで踊り切ったと思う。
しかも、このテンションで1日2公演ってのも凄すぎ。
団長って、フライヤーでふんどしになっているけど、公演でもちょっとだけ出てきた。やっぱりふんどし。裸になりたい人なんだろうか、たぶんそうだと思う。そうきっぱりと言い切っていいと思う。「ここにいる」を人一倍アピールしたいんだな、たぶん。
満足度★★★★
とっても楽しんだ
大変失礼な話だが、ミュージカルというだけで、さほど期待はしてなかった。
それはガッカリしたくないからだ。
しかし、そういう想いは杞憂だった。
楽しいのだ。ミュージカルなのだ!
ネタバレBOX
劇場そのものが、「全国小学生漢字検定者大会」の会場という設定になっている。大会をテレビ中継するという体になっており、上演前のアナウンスは、テレビ中継の前説になりながら、観客は、拍手や声援の練習もさせられる。当然、ストーリーが進行しながら、観客は自然と拍手などをすることになる。こういう設定はうまいと思う。
さらに、この会場で決勝進出者が決定するということでもあり、役者たちは客席にいて漢字辞典などを読んでいる。その役者が座っているブロックがいつの間にかその選手の応援団となっていて、客いじりも少しある。
また、入口では「漢字検定に参加されますか?」と気さくに尋ねてくるのだが、うっかり「はい」と言わないでよかったことに後で気がつくのだ。
ストーリーは、漢字の書き取りを行いながら、それぞれのバックボーンが見えてくるというもの。最後に誰が優勝するのか、ということが軸になる。
とにかく、キャラが立っている人ばかり。まったく小学生には見えないのだが、そのキャラの立て方がわかりやすくてとてもいいのだ。
当たり前かもしれないが、それぞれのキャラに合った歌い方が堂に入っているし、うまい。みんなうまいのだ。舞台に立つプロとして当然なのかもしれないが、きちんと基礎を習得して出ているのがよくわかるうまさなのだ。
だから楽しいし、舞台に集中できる。
また、今回の舞台では観客が参加させられていた。入口で「漢字検定に参加されますか?」と聞かれて「はい」と気軽に答えた方の中から3名が舞台の上に挙げられて漢字を書かされるのだ。
「はい」って言わなくてよかったぁ、と心から思った一瞬であった。
たぶん難しい漢字を書かされて(役者たちはとても難し漢字を書かされていた)、早々に脱落する役が、観客の役だろうと思っていたら、1人は早めに、もう1人はもう少し引っ張られて、さらに最後の1人はなんとラストまで舞台上にいることになったのだ! もちろん「いち」とか「おんな」とか簡単な漢字を書かされて残されるハメになっていく。ここまでの観客参加は観たことがなかった。もう、これは卑怯だけど(笑)、面白がるしかないのだ。
後で当パンを観ると「キャスト」の欄に「お客様」とあった(笑)。
ストーリー的には、それほどの物語はないのだが、笑えるシーンがあり、いいところで歌が入り、それがいいので、楽しさが続く。
太田太志を演じた碓井英司さんの名前の通りの体型で、ちょっと乱暴そうなキャラがとてもいい味。彼の妹・太田小子役の青山みそのさんは、お兄さん想いで、シャイな感じがとてもよく出ていた。お二人とも実際はそんなキャラではないのだろうが、舞台の上ではそんな人にしか見えなかった。「ああ、うまいなあ」と思った。それと、大会の女性司会者・大場かおり役の守谷梨沙さんは、ちょっと元気が外れたキャラと歌のよさが印象的だった。太田兄妹の母も、歌のシーンしかなかったが、うまい人だと思った。後の人たちも、もちろんよかった。
ただし、ストーリー的には残念なところがあった。それは、各登場人物の心の中にあった葛藤や問題が解決されなかったことだ。「私は負け組」みたいな終わり方はあまりいい気持ちがしない。全体的に未消化すぎる。だって、登場人物は小学生なんだし、全体のトーンから言っても、少々脳天気なぐらいのハッピーさが溢れていてもよかったのではないだろうか。
例えば、太田太志が妹想いであることが、ラストあたりにもっとしっかりと浮き彫りなるぐらいはすべきだったと思うのだ。
それと、役者が全員舞台からはけた後に、伴奏のエレクトーンが突如として鳴り響いた。てっきりまた何かが始まるのかと思えば、エレクトーンの短い演奏があっただけ。これは蛇足ではないだろうか。見せ場ならば、舞台上でしかるべきとろこに入れるべきであるし、演奏も楽しんだので、あえてさらに見せ場なんてなくてもいいのではないかと思うのだ。例えば、カーテンコール風ならばよかったのに。
満足度★★★★
熱演でとてもいい感じ
コメディ・ミュージカルとのことだが、コメディについてはもう一歩、二歩。
しかし、歌もダンスも、レベルの差はあるものの、熱演。尻上がり的に良くなっていき、ミュージカルらしい盛り上がりもあった。
こういう若い劇団の舞台観るのはとっても楽しい。
ネタバレBOX
全体的な印象としては、次の点についてよく考えられていると思った。
1.観客の入場を少人数ずつにして、舞台(つまりこの演劇の設定である「オバケ屋敷」)を通し、客席に入れる、というもの。
2.歌がうまい者、ダンスがうまい者(あるいは、それぞれに自信のある者と言っていいかもしれない)を、それぞれのシーンに中心に配して、印象をよくする。
3.ストレートプレイのうまい者を客演で呼んで、物語の中心に据えることで、全体を締める。
このような戦略が考えられ、実行されていたと思う。
それぞれについて見て行くと、まず、「観客を舞台から通して客席に入れる」というのは、舞台の上=オバケ屋敷だったはずなので、入口に、本当の受付とは別の受付を設けて、役者が案内するというところまではよかったのだが、オバケ屋敷感に乏しいのが残念だった。どの観客も舞台の上よりも、自分が舞台の上にいることに気を取られ、客席のほうばかりを見ていたからだ。
ここは、簡単でもいいので、客席を見せない目隠しのような衝立でも立てて、学園祭のオバケ屋敷ぐらいの雰囲気を出すべきだったと思う。観客は「ああ、オバケ屋敷なんだ」と改めて思うぐらいでよいのだ。
次の「歌やダンスのうまい者が軸になる」というものは、ソロパートなどや中心となる役者が中央にいることでアピールできていたとは思うのだが、例えば、ダンスがうまい者と、そうではない者が同じ振り付けでなくてもいいのではないかと思うのだ。中心となる役者を引き立てるようなダンスなどでよかったように思う。もちろんそうしたシーンも用意されていたのだが、舞台のサイズ的にも、全員が踊るとやや窮屈に見えてしまっていた。
また、それぞれの曲の中でキメとなる動作ごとに、要所要所で全員が、ピシッとキマルだけで全体が締まって見えたのではないだろうか。
さらに、「芝居の軸となる役者を客演で入れる」については、歌はあまり…だったが(1カ所のみに起用したのはいい判断だったと思う)、主人公に据えただけの意味は十分にあったと思う。だた、もっと能力を発揮できるような展開になれば言うことなしだった。他の役者たちは、自分の台詞のないときの立ち姿がイマイチの者がいて、大人数で舞台上にあるシーンが多いだけに少々気になってしまった。
それぞれの企ての意図はわかるのだか、もう一歩のところで不発になっていたように思える。
また、コメディとしているのだが、さほど笑えるところはなく、「すべり笑い」のようなシーンを入れていたが、あれは笑いがあって始めて意味があるので、やらないほうがよいと思う。
ベタでいいので、90分モノならば、せめて3、4回でいいので、確実に笑いを取りに行く姿勢がほしいと思う。
と、上から目線でいろいろ書いてきたが、「これはいいな」と思うシーンもあった。それは、ミュージカルのお約束のような、対立している2つのテーマがそれぞれの楽曲(テーマ)で合唱していくというものだ。今回は、2つの軸(オバケ屋敷側、それを取り込もうとする遊園地側)だけでなく、間に挟まれた主人公のパートまでうまく入れ込んでいて、ここだけでも観たかいがあったと感じた。
舞台の内容とは関係ないのだが、受付の丁寧さも好印象だ。劇場を後にするときに、階段の降り際、振り返ると階段の隙間から丁度受付が見えるのだが、それに気がついた受付スタッフが、頭を下げてくれた。観に来てくれた友人たちとだけ話すのでなく、ほかの観客にも気を配る、こんなちょっとしたことだけでも、観客はいい気持ちになるのだ。
全体的に、もう少し垢抜けて、洗練されていけば、きっと面白い劇団になっていくのではないかと思う。それには、1人でも多くの観客に観てもらい、ボコボコにされたり、踏みつけられたり、あるいは持ち上げられたり、社交辞令を言われたり、本当に褒められたりしながら、鍛えていくしかないだろうと思う。ミュージカルをやっていくのにはいろいろ障害も多いだろうが、期待したい。
星は、盛り上がった歌のシーンと期待を込めての数である。
ちなみに、相鉄本多劇場は、始めて行ったけど、てっきり下北の本多劇場クラスのキャパかと思っていたら、100人クラスの小劇場だった。しかし、舞台の広さとか観客席の段差とかトイレの場所とか、使い勝手は良さそう。作り付け(?)の椅子には、座布団は必要不可欠ではあるが。
満足度★★★★★
三好十郎作品は、とても骨太で力強い
そして、その骨太で力強い作品を、黒澤世莉さんは同じように力ずくで押さえ込むのではなく、無理をせずに自分の側にたぐり寄せ、等身大の感覚で、細やかにセンス良く演出していた。
2時間30分の上演時間はまったく長く感じず、見入ってしまった。
ネタバレBOX
終戦からあまり時間を置かずに書かれた作品だという。以前に観た『その人を知らず』もそのすぐ後に書かれたらしい。
それを考えると、三好十郎はいかに凄い作家なのかがわかる(『浮標』も素晴らしかったし)。
とにかく、骨太で力強い。
ただ、この強さは、今だからこそ受け入れられるのかもしれないとも思う。
物語が成立しなくなった今だから、こうした力強い作品に魅力を感じるのかもしれない。
この力強い作品を、黒澤世莉さんは、作品と同じように力ずくで押さえ込むのではなく、無理をせず自分の等身大の感覚で、細やかにセンス良く演出していた。台詞の細かい重ね方や立ち位置、移動などがとてもいいのだ。そして、最初のほうのシーンにある「生活音」の生音が、とてもいいアクセントで舞台に響いていた。
台所の位置がよく、視線には気にならない程度の場所にある。
シンプルだけど、家の配置や玄関、畑の位置設定もいい。奥行きが増すのだ。
時間の変化を美しく見せる照明もよかった。
元教授のエピソードは(たぶん)当時も話題になったであろう、判事が配給のみで餓死した事件にヒントを得ているのではないだろうか。
その元教授の死を賭した主張には、迫力がある。つまり、「国民の1人として、1人分だけの責任がある」ということ。それは重い。誰に言われたわけでもなく、自分だけが負わせることのできる責任であり、罪なのだから。
武田泰淳の『ひかりごけ』を持ち出さないまでも、あの時代を生きてきた方たちは、それなりのことをくぐり抜けてきたはずである。それもまた重いし、別の意味での、責任に負い方ではないだろうか。
しかし、元教授は自らを枷にはめていく。家族がどんなに反対してもである。この姿は、『その人を知らず』の主人公にも重なって見えてきた。
ところが、元教授とその息子・誠(共産党員)の議論が激化してくると、様相が変わって見えてくる。高潔であった元教授の頑なな姿は、議論が何のための議論かわからなくなってくる。議論のための議論、議論を楽しんでいるように見えてくるのだ。
少々面倒な現実は、お手伝いとして暮らす女性に任せっきりにしてしまう(防空壕に逃れたりして)。つまり、現実から逃げていることが見えてくるのだ。
息子にしても戦争を反対していたが「自分たちの力が弱かったから止められなかった」というのは、次にもし同じことがあれば、そう言って逃げてしまうことを意味している。
さらに、息子が「今度の戦いは、再び戦わないための戦いだ」と言うのだが、それは「正義(大義ある)戦い」ということの理論であり、かつて、そしてこれからも起こっている戦争と本質的にまったく同じだということも露呈する。
つまりのところ、元教授(父)と息子は、この戦争から何も学んでいなかったということなのだ。また、いつでも戦争を起こし、そしてそれを積極的にではないにせよ、支持する側に回ってしまう可能性を秘めているということだ。
女性たちはそうではない。皆、地に足をつけて生きることをのみすべてとする。
元教授の妹・双葉は、父と兄の議論に「立派な考えを持った人たちが、国民から浮き上がってしまったことで戦争が起きた」と、鋭く指摘するのだが、彼らの耳には届いていない。自らの思想や主義にがんじがらめだからだ。
そして、ラストの刃傷騒動は、議論では結論がでなければ、実力行使も厭わないという、彼らの根底にある、まさに戦争そのものが出現したのにほかならない。
作者をして、終戦を迎えほっとしている中で、すでに次の戦争のきな臭さを感じとっていたのだろう。
それは、おそらく、戦後間もない頃に作家自身の嗅覚と肌感覚によって感じ取られていたことで、議論を尽くすことが戦争をなくすことにはならないという危惧かもしれないし、戦争はなくならないという諦念かもしれない。
元教授一家と一緒に暮らす人々、つまり、戦争に荷担したかもしれない国民と反対していたと主張する国民、戦争に積極的に参加して目的を見失った特攻兵、家族を失い身体を張って生きる女、戦争で傷ついた学生などなど、は、終戦直後の人々の縮図であろう。それを「家族」というキーワードにして、家族間のぶつかり合いと関係性という見方もできるかもしれないのだが、それよりは、もっとそれぞれの立場を代表するような、人物を表しているように感じた。初演の頃の観客にとっては、イヤになるほど身近な存在が舞台にいたのではないだろうか。
双葉を演じた高島玲さんが、優しくて芯の強い女性を好演していた。欣二の酒巻誉洋さんの若くて無謀さを装っている感じもよかった。浮浪者役の小川あつしさんは、大変だったのではないかと思う。てっきりラストに重要な台詞もしくは演技を担うのかと思っていたらそうではなかった。
満足度★★★★★
北アフリカでいろいろあって、3.11があって、青年団『バルカン動物園』観て、MU『変な穴』観て、私が客席にいて。そんなことがすべて1つの物語になっていくような感覚すら覚えた
もうこれでジエン社は私の中で、大好きな劇団に一気に躍り出た。
ついこの間観て、絶賛した同時多発会話劇の完成型的な『バルカン動物園』を一気に何万光年も昔に置いてきた感じ。
いやもちろん、『バルカン動物園』がどうこうではないし、比較する意味もないのだが、とにかく、脳裏をよぎったのは、そんなことだった。
こんなモン見せられたら、ちょっとだけ途方に暮れてしまうじゃないか。
ネタバレBOX
観ながら、すぐに大学生の頃の所属していたサークルの部室を思い出した。というより、一気にそこへ連れていかれた。
私の大学時代は、すでに政治の季節は終焉を迎えていたが、自治会はセクトが実権を握っていたし、まれに内ゲバで死人が出たりもしていた。しかし、ノンポリな我々は、自分の頭の上のハエも追えないままで、「怖いね」ぐらいの感覚しか持ち合わせていなかった。それは「外」の出来事だったからだ。
目下の問題は、自分のことであり、部室では結局自分のことしか語らず、他人の話なんてきちんと聴いていなかった。
自分のことを思い詰めすぎて、静かに心を病んだ先輩や失踪した友人がいたが、それもひとつの風景だったような気さえする。
まったくそんな光景が、舞台の上にあった。
いっぱしのナニかを気取っているけど、甘ちゃんな感じな学生気分の延長のままのような憂鬱な日々。その憂鬱さ(苛立ち)は、彼らにとっては深刻だけど、他人の目からは甘い。自律してないから。芸術家気取りで、親のスネかじったりしながら。
そして、彼らの世界の外側では、デモ隊と警官隊の衝突が激化しているが、それにはほとんど関心はない。やっぱり「怖いね」ぐらいの感覚なのだ。
恋人がイエメンで拘束されている女のことも、「変なおばさん」という認識しかない。誰が撃たれてもその感覚はあまりない。本人にさえもない。
つまり、「外の世界」とは、彼らのいる「安全」な勝手に占拠しているアトリエ的なその場所以外のことを指すだけではなく、「彼ら自身の外側」にあるすべてのものを意味している。
あまり、「外」のことには関心はない。
だから、会話も通じているようで、実は他人の言葉は、頭の上を滑っているだけ。打ってもどこにも響かない。しかし、自分のことだけは語り、知ってもらいたい、接続したいと必死にあがく。アートムなんていう破綻した地域通貨で「やさしさ」を求めたり、「〜の弟」という呼び名から、背伸びをして逃げ出したりしようとしている。
特に、この場所に住むレイジは哀しい。ススギさんには無視をされ、イエメンでは(拘束している側の役)言葉がうまく通じない。
この状況は、2011年ではなく、とてつもない昔に部室で見た光景なのだ。もちろん、自分の記憶に引きずり込んで観ることしかできないのだから、あまりにも個人的なものなのかもしれないのだが。
そんな既視感のある舞台ではあったが、もちろん、舞台はというのは生もので、時代というか、その瞬間に起こったいろいろな出来事を記憶したまま、観客はやって来て、意識してもしなくても、そうした出来事(社会的な出来事だけではなく、極個人的な出来事も含めて)を舞台の上から届く情報と擦り合わせたり、照らし合わせたり、深読みしたりする。
今回のジエン社の公演は、先に述べたように、人生のある時間帯に、ひょっとしたら誰が持ち得る感覚を再現しているのかもしれない。
しかし、「今」という刹那の中においては、それは「今」存在する物語となり、それを我々は受け取っていく(あるいは「受け取ってしまう」)。
これは演劇など、ライブな公演ならではの感覚だ。
つまり、個人的ことを言えば、北アフリカでいろいろあって、3.11があって、同時多発会話劇の青年団『バルカン動物園』観て、虚無の穴がぽっかりと口を開けているのMU『変な穴』観て、私が客席にいて。そんなことがすべて1つの物語になっていくような感覚を覚えた。
それは、恐怖でもあり、快楽でもある。
予見とデジャブが、渾然となって客席の私に降り注いだ。
冒頭に行われるモノポリーと劇中にしばしば登場する地域通貨アートム。このいかがわしさは、1千万円で売れたというリトグラフの「1千万円」と連呼される言葉や「1万円」で身体を売る女、「芸術はカネではない」と唾を飛ばし主張する男の言葉に見事に重なっていく。
加速度的にカネの価値が目まぐるしく行き来し、それは膨大になり、インフレを起こす。そして、彼らの会話も、その言葉と交換される価値(関係性という価値)はほとんどなく、「言葉インフレ」を起こしている。台車一杯の言葉を尽くしても、人は(人の気持ち、心は)動くことはない。
アートム10万とか1万円とかならば動くのに。
この虚しさは、わかっているのに、やっぱり虚しい。
中央と上手、下手の設定が興味深い。場所のみならず、時間や現実、妄想までが曖昧に存在している。そうしたものを飛び越えるのは、「ネット」ならではの感覚であろうが、実はそんなものが存在する前から我々はそれを頭の中でやっていた。
客席との境も曖昧になりながら、舞台の上の物語が溢れ出す。
それらが、台詞のきっかけで、「あざとく」もつながったり、人がイマジナリーラインともいうべき壁をやすやすと越えたりする。それはちょっと衝撃を与えてくれた。気持ちいい衝撃だ。
だから、同時多発的な会話も当然だ。と言っても、ついこの間観て、絶賛した同時多発会話劇の完成型的な『バルカン動物園』とは同じところもあるが、違う使い方もしていたと感じた。台詞だけではない感覚の取り込み方であろうか。その感覚は、『バルカン動物園』を一気に何万光年も昔に置いてきた感じさえしてしまう。
『バルカン動物園』を古典にして、『スーサイドエルフ/インフレ世界』はやって来た。しかし、『スーサイドエルフ/インフレ世界』は古典にならないような気がする。普遍性のある内容だ、と先に述べてきたが、その普遍性が不変ではないような気がするのだ。ただ「気がする」だけで理由も確信もない。
※ジエン社の「静かな演劇2.0(を目論む)」っていうのは、なんかカッコ悪い。何、それって、かつてあった何かのバージョン違いだっていうことを、わざわざ標榜しているの? って思うから。
満足度★★★★★
『変な穴(女)』今まで観たMUの中で一番笑った…が笑いの先には「穴」が
毎回「虚無」の穴がポッカリと舞台の上にあったMUだが、今回、虚しさの向こう側に、まさか笑いがあったとは!
しかし、笑いの向こうの「穴」の中で、作者のハセガワアユムは、にんまりと笑っていたような気がする。
ネタバレBOX
MUを観出したのは最近なので、それほど多くの作品を観ているわけではないのだが、初めて観たときから強く感じていたのは、作者の持つ「虚無(感)」だ。
それと、むやみに徒党を組む(群れる)ことへの嫌悪感のようなもの。
「虚無」はいつも舞台の上にポッカリと空いていて、そこを通る風がスースーしていた。そして、MUのちょっと気の利いた短編のようなまとまりある舞台が、さらにスースー感をアップしていたような気がする。
で、今回は、笑った。これはコメディだ。
しかし、ご主人様である小松は「穴」が空いていると言う。それを埋めるために、金に物を言わせて集めたドレーたちに、虚しいことをやらせて、埋めようとしている。
この薄ら寒い設定は、もう「虚しい」。誰もが穴を埋めることも、それが長続きしないことさえもわかっていながらやっている、すでに破綻している「虚しさ」である。
小松はあがいている。ドレーたちもあがいている。あがいているから、実は「虚無」には達していない。すべてを知ってしまって、諦念のような境地に達したときにやって来る「虚」の世界には達していないのだ。
まだこの時点では。
しかし、小松は、ラストに万引き商品の入った段ボール風呂に漬かりながら、安堵するのだ。ここに彼の穴がしっかりと本当の姿を現し、すべてを知ってしまったような境地に達してしまう。彼の居場所がここにあった。それは彼の「穴」の中。
小松の追い詰められ方、というか道程は素晴らしいと思った。なんといいラストだと。
「虚しさ」の向こう側に笑いがあり、その向こう側には「虚しさ」があるという構図は、とても酷い(笑)。クラインの壺のような構造をしている。
だから、作者のハセガワアユムさんは、観客がすくすく笑っている、このラストを観ながら(書きながら)、かなりにんまりしているのではないかと思ってしまうのだ。「みんな笑っているよな」って確認しながら、にんまりと。
ハセガワアユムさんにとって、意識しているのか無意識なのかはわからないのだが、毎回テーマは同じで、今回は笑いが増量されていただけで、いつもと同じMUだったというわけなのだ。
笑いながら、穴に落ちていくという「虚しさ」は素晴らしい。恐怖すら感じてしまう。それに気がついているのは(たぶん)作者本人だけ。だから、「にんまり」。
…ここは小松と同様の視線かも。
もう少し書くと、ドレーたちの変な一体感は自然であった。いつもならばもっとその一体感(徒党)に嫌悪しているはずなのに、と思ったのだが、ここにも仕掛けがあった。
それは、「作者ハセガワアユムの視点」がどこにあるかということだ。それがどこにあったかと言えば、ドレー5号の杉木にあった。これに気がつくと、全体がはっきりしてくる。
つまり、ドレー5号の杉木は、それまで小松のもとにいた4人のドレーたちの馴れ合いを非難・否定する。これはまさに徒党を組むことへの嫌悪感にほかならず、ハセガワアユムの心情が映し出されている。そして観客はその心情には共感できない。ドレー5号の杉木は「異端者」的な扱いとなり、「異物感」として舞台の上に佇むのだ。これは大きなポイントだ。誰にでも理解できるはずはない、と作者ハセガワアユムは考えているのかもしれない。
さらに、小松をラストに突き抜けさせるのも、ドレー5号の杉木であった。彼女は、小松がラストに舞台に現れるまで、万引き商品の入った段ボール風呂に漬かっており、さらに小松を追い込み、自分の入っていた段ボール風呂に導くという役目を負っているのだ。彼女がいる場所が「穴」の中である。
ドレー5号の杉木の存在がハセガワアユムであったというわけなのだ。
全体的にちょっとたどたどしさがあったのだが、台詞などがいいタイミングで入り、とてもいい笑いを生んでいたと思う。
そして、女性陣のオーバーサーティぶりがとても自然で良かった。これは大切なポイントであったと思う。
音楽の出し方が、独特で、きちんとした劇場なのに、あえて舞台の上のGDプレイヤーを役者やハセガワアユムさん本人が使うというのが、虚構とのラインがギリギリな感じでとても興味深かった。
日程的に他の2本を観ることはできないのだが、今回に関して言えば、『変な穴(男)』は是非とも観たかった! と公演が始まって数十分で本気で思ったのだった。悔しい。
満足度★★★★★
自律したいくつかのエレメントが「対位法」のように存在し、そしてそれらが彫刻の粘土ように、物語を形作る
豪華なキャスト、作・演出である。
彼らがたっぷりとその存在感を見せてくれる。
作の渡辺えりをして「この戯曲を書くために私は生まれてきたのではないか?」とまで言わしめた高村光太郎の物語。
ネタバレBOX
戦後、岩手に移り住んだ高村光太郎の物語。
光太郎(金内喜久夫)は、小さな小屋を建て、彫刻をしながら暮らしている。
妻、智恵子の面影は忘れがたく、また、戦中書いた詩が戦意高揚のためのものととらえられ、その詩によって多くの若者を戦地に赴かせてしまったという自責の念がある。
彼を迎え入れた岩手の人々は先生、先生と慕ってくれる。しかし、光太郎の詩によって戦地へ行き命を落とした若者の母は光太郎をなじる。
光太郎のところには、彼のファンである若者も訪れたりもしている。
また、光太郎の詩によって生きてきたという若者もやって来る。この青年は、当パンによると、渡辺えりさんのお父様が戦中生きてこられたのは、光太郎の詩によるものである、というエピソードと重なるのだろう。
そんな光太郎のもとに、妻、智恵子と1字違いの女、長沼千代子(もたいまさこ)が現れる。彼女は光太郎が上がったことのある吉原の女であった。彼女は光太郎が自分を愛していると思い込んでいる。
光太郎は、千代子の語る自分の半生を智恵子の幻影を見ながら振り返るのだった。
冒頭から光太郎が彫刻しているのは、のちに十和田湖に立つ「乙女の像」だ。これは、妻、智恵子の姿を残したいと考え、「理想の智恵子」と「現実の智恵子」が向かい合うものとなる。
この2つの対比(対立ではない)が、この物語の全体を形作っていく。それは、劇中で語られる、光太郎が好きなバッハのブランデンブルグ協奏曲の「対位法」によく似た構造ではなかったろうか。すなわち、独立した複数の旋律が対決することなく、調和して美しい1つの旋律となるというものである。
舞台の中では、生と死、男と女、現実と理想、実像と幻、本物と偽物、自律と自律、そして、光太郎と智恵子という関係が、それぞれ自律しつつ、どちらが正解であるということではなく、互いを補完し、互いの存在を認め、互いを高めながら1つの旋律(物語)を奏でているのだ。
そしてそれらの自律した旋律は、また他の旋律と調和し、複雑に絡み合い、光太郎を形作っていく。これはこの物語自体の構造でもあり、さらに光太郎が取り組んでいる「彫刻」にも似た感覚ではないだろうか。彼が父、光雲から、あるいは留学先のボーグラムやロダンから学んだ彫刻は、まさにそういうものであった。
その意味において、彼の留学時代のエピソードは、彼の記憶の中ではなく、千代子の中にあるものであり、すなわち、光太郎が千代子に話して聞かせたものの再現であるということが、他者による再現という意味で、彫刻と作家とモデルの関係のようで面白い。
また、タイトルの『月にぬれた手』は、光太郎の詩のタイトルからきている。「わたしの手は重たいから さうたやすくはひるがへらない」とする光太郎の心情が舞台の根底に流れている。それが光太郎の苦悩であり、生き様でもある。
役者がいろいろな役に変化していく様は見事であった。演出の巧みさで、悪夢のようであったり、一瞬の白日夢のようであったりした。
とにかく、役者がいい。
うまい人たちがたっぷりと見せてくれる。
それは、作家と演出家が役者を信頼し、多くのものを託しているからではないだろうか。
それぞれが、自分の持ち味、存在感を十二分に活かせるような、とてもいい台詞をたっぷりと見せ、聞かせてくれる。
特に、光太郎を演じた 金内喜久夫さんの堂々した姿とその苦悩は見事であった(彼の胸のポケットには、今回の震災で亡くなった方の名簿が入っていたという)。また、大人計画やテレビでしか見たことのなかった平岩紙さんの、智恵子になったときの姿には驚いた。ホントに素晴らしいのだ。
ただ、全体のレベルが高かっただけに、そのレベルに達していない役者もいて、少々残念な姿を晒していた。
岩手が舞台であったこと、そして客席には空席があったこと、このことでこの舞台は忘れられないものになるのかもしれない。
満足度★★★★★
会話の重なり合いで編み上がる物語
平田オリザ氏の書いたいつくかの作品が重層的に構成されており、多数の登場人物が同時に舞台にいる設定においての、会話劇のひとつの完成型を観たような気がする。
ネタバレBOX
無責任な「カガクするココロ」=「好奇心」の積み重ねで「今」の世界があると感じた『カガクするココロ』、そして、その続編にあたり、ヒトとサルの平行線が研究室の中にどこまでも続く『北限の猿』、さらに王立フランドル劇場(KVS)&トランスカンカナルが上演し、人の他の生物(サルを中心に)との関係を描いた『森の奥』など、平田作品に散りばめられていた、いくつかのエッセンスが巧みに構成され、さらに「人間」について、科学が進歩していく中であっても、根本にある「愚かさ」のようなものを浮き彫りにしていた。
これら(あとは『東京ノート』)の作品を観たことがあれば、より一層楽しめるのではないかと思う。
「人間の愚かさ」とは何か? それは、自らの好奇心によって、自らを知らず知らずのうちに滅ぼしていくという行為だ。
ダイナマイトや原子力の発明もそうだが、遺伝子操作や人体への探求は、人類のためという言葉によって正当化され、進められる。
人類の病気を治すために、モルモットやサルを犠牲にする。それは、劇中の台詞によって明らかになるように、モルモットは犠牲にしてもよいのか、ではサルではどうなのか。今研究材料となっているニホンザルの次は、より人間に近い、チンパンジーに、そしてさらに人間に近くなるボノボに進んでいく。しかし、クローンだからという声に対しては、「じゃクローン人間でやればいいじゃないの」という挑発的で過激な台詞にもあったように、行き着く先は、人間を犠牲にする研究かもしれないのだ。
サルなどの類人猿は、地球の生命の歴史から見れば、わずかの時間差で分岐した「人類の仲間」である。どこまでが「人間」で。どこまでが「許される範囲」なのかが、語られる。
つまり、「今、ここにネアンデネタール人がいたらどうするのか」という問いに対しては、誰も答えることはできない。
人間のために犠牲になることが「許される」存在というのは、もちろん人間のおごりであろう。しかし、その一方で、人間の好奇心(カガクするココロ)は留まるところを知らないし、それによって救われてきた命も多いのだ。
また、サルとの対比で「人間とは」という命題を掲げるのとは別のアプローチで、どこまでが「人間」なのかが語られる。
それは、脳だけで「生きている」と言われている、脳科学者の存在だ。
例えば、人工心臓などの臓器を付けている人は、もちろん「人間」である。しかし、脳以外のすべての臓器を人工物に取り替えてしまった人は「人間」なのか、ということだ。
さらに言えば、その脳さえも人工物に取り替えてしまったとしたら…。
また、身体は損傷がないのだが、脳の機能を失ってしまった人に、脳には損傷がないのだが、身体の機能を失ってしまった人の脳を移植したときには、その人は「誰」なのかという議論にも達する(これは、ひょっとこ乱舞『旅がはてしない』で「私」とは、どこからどこまでなのか? 「私という存在」はどこにあるのかということを別の角度からさらに掘り下げていた)。
つまり、人と他の生物との「関係」(生態系)、人そのものの「存在」という2つのアプローチから、人の「(哀しい)愚かさ」が語られるのがこの作品なのだ。
その「哀しい愚かさ」の最先端にいるのが、舞台の上にいる研究員たちであり、彼らがそれを体現していると言っていい。
彼らの置かれている近未来では、ヨーロッパで戦いがあり、今も泥沼のように続いている(『東京ノート』と同じシチュエーション)。
にもかかわらず、恒常化していることから、戦地から離れている日本では、感覚の麻痺と他人事のように、普通の日々が続いている。
しかし、彼らの心情には不安感が影を落としていると言っていいだろう(まるで、震災被害のない場所に暮らすわれわれのように)。
戦争への不安感だけでなく、自分のこと、家族のこと、恋人のことなど、諸々がある。
こうした休憩室で行われている会話は、「動物園」における、例えば「サル」の檻の中を見ているようだ、という皮肉と、まるで「人種」の違いのような各専門分野の研究員や学生たち、そして、彼らによる答えのない討論、例えば、自分の子どもが自閉症で、それを解明し治療するために、ノックアウト・モンキーを作り命を奪いながら実験を重ねる研究者とサルを研究している研究者とが、根源的にわかり合えない様の行き着く先に何があるのかということがある。それはまさに、戦争というものがそれにあたるのではないだろうか。つまり、ここの場所は、しばしば「人種のるつぼ」「火薬庫」の冠を付けられる「バルカン(半島)」であり「動物園」なのである。
『カガクするココロ』や『北限の猿』のように、とてもシニカルなタイトルが付けられているのだ。
普通の会話が止めどなく交わされているのだが、その会話は一見、単につながりのない会話なのだが、会話と会話の芯の部分での共鳴があり、きちんと観客に響いてくるのだ。
例えば、舞台の上手が話されていることと、下手で行われている教育実習の演習の様子が、微妙なラインでリンクして、まるでひとつの会話のように、メッセージを伝えてくる。
それが、各会話や言葉が直接重なるという安易な方法ではなく、時間差や場所の違いによって、あらゆるところに出現してくる巧みさがある。
観客は聞こえてくる会話をそのまま聞き、それらがいくつかのキーワードや内容によって、関連性を見出し、さらに物語として編み上がるのを脳の中で感じていく。
このときの状態は、この舞台にしかできないテクニックであり、1つひとつの会話を完全に聞き取ることができなくとも、大切な台詞はきちんと届くようになっているところが、素晴らしい。
つまり、一見、まとまりのない会話が同時多発的に起こっているように見え、その実、それらは1本の会話劇としての体を成していくことに気がつき、驚くのである。
これは登場人物の多さが邪魔にならず、そして、台詞で直接的なメッセージを伝えるのではない、アプローチとして有効であろうと思う。
そして、このアプローチは、誰もができることではないだろう。
したがって、改めて、平田オリザ氏の凄さを感じざるを得ないのだ。
満足度★★★★★
作品としての美しさに震えた
『5seconds』に続く、パラドックス定数2人芝居の2本目。
会場も『5seconds』と同じ。
そして、『5seconds』とは趣の異なる、やはり濃厚な時間が流れる。
ネタバレBOX
第2次世界大戦末期のドイツにある収容所が舞台。
あるユダヤ人の囚人が後ろ手に縛られ、目隠しをされて、将校に部屋に連れられて来る。
将校は、彼の縛めを解き、机の上のチェスを打つように促す。
囚人はそれに応じる。
この囚人はかつて大学で教鞭をとっていた数学者であった。
ドイツ人将校と数学者である囚人が織り成す濃厚な物語が幕を開ける。
前作『5seconds』と同様に舞台は会場の中央に設えられ、観客はそれを取り巻くように観劇する。『5seconds』と異なるのは会場が薄暗いということ。
照明が薄暗いので、『5seconds』よりも集中できたような気がする。
その衆人環視の中で、前作同様の濃厚な舞台が進行する。
前作同様と言っても、もちろんその趣は大きく異なる。
将校が囚人に対する無言は、観客にも注がれ、まるで、観客の心を手玉に取るようでもあった。「間(無言)」がとても巧みに(特に冒頭から)仕掛けられ、じっくりと物語は進行する。
進行するにつれて、じんわりと「内なるテンション」が上がっていく様は、見事としか言いようがない。
観客も舞台の上と同様に気持ちが高揚していくのだ。
孤独な数学者同士の、捻れた友情、友情というよりはもっと強い絆で結ばれている。孤独ということを認めていても、やはり互いを、どんなことをしてでも捜し見つけ出したい。それは、仲間を裏切っても、自分の生命や特権が危険に晒されてもだ。
彼らの孤独に向き合う強さの裏にある怖さが、彼らを突き動かし、強い絆を求めていくのは、人が本来持っている姿だ。
つまり、彼らの姿は、戦中における支配者と被支配者という特殊な関係のみに出現するのではなく、誰の心の中にもある。
もっと平たく言えば、人は、やはり1人ではいたくないということなのだ。
つまり、彼らが口にする「数学」は、「絆」のための「方便」であるともとらえられる。
孤独を覚悟した身にとっては、そういう方便が必要ということでもある。
確固たる「方便」を持っているならば、人は孤独から逃げ去ることもできるのかもしれない。
劇中の、チェスとその駒、そしてニックネーム、制服の黒。さらに各々の兄弟の顛末、コンピューターの予感とエニグマ、数学の手法等々、各所に散りばめられたエレメンツがそれぞれうまく光り、そして結ばれていく。唸るしかない脚本。
また、両側から観客が観るということを前提に作り込まれた演出の巧みさ。立ち位置や顔の向きにより、観客には片方向から観ているという印象を与えない。
さらに言えば、後方の席は、前方に比べより見切れてしまいがちなのだが、床に落ちる影や人の気配によって、演技を見せていくというのも憎い方法だと思う。
薄暗闇で、多方向から観せるということが、この舞台においては、正解であるとした演出のうまさだろう。
将校を演じた西原誠吾さんの、感情を内に潜めながら、冷徹さを装う姿が良い。また、囚人を演じた植村宏司さんの、卑屈な口調の中の、ねちっこい強さと数学への取り込まれ方の表現が素晴らしい。つまり、どちらも好演だったのだ。
ただし(こういう言い方はあまり適切ではないのかもしれないが)、作がうますぎて、すべてが見事に結ばれていくのが、逆にキズにさえ見えてしまう。つまり、それほどきれいな球体が出来上がっているように思えてしまうのだ。
もちろん、それは単なる難癖であろうし、普通に考えれば、そのまとまり方は真っ当だと思うのだが。
また、エンディングにいく従い将校の感情の蓋がふいに開いてくるのだが、感情が溜まっていく様子と、蓋を開けてしまうキッカケをもう少し丁寧に見せてほしかったと思う。
さらに、将校(少佐クラス)が着ているナチスの黒服は、ひとつのアイコンとしての役割を果たしているのだが、そうであったのならば、囚人服は縞模様にしてもよかったのではないかと思う。個人的には、45年頃の設定なので、黒服ではないほうがいい感じもしたのだが。あと囚人の数学者は丸坊主だったら…無理か。
今回も早期に前売券購入した人に、ちよっとしたお土産がありました。
満足度★★★★
灰から一転、生命の色彩
久しぶりの大駱駝艦・天賦典式。
ポジティヴで力強い。
ネタバレBOX
開演前の力強い麿赤兒氏のメッセージから公演はスタートした。
メッセージ:http://www.dairakudakan.com/
現在から未来への予見だったのか、灰から一転、生命の色彩がラストに広がる。
灰は単なる燃えかすではなく、その内部に炎を隠している。ひとたび酸素を送り込めばまた炎が上がる。
灰は終わりではなく、始まりに通じるものである。
この現実に起こった未曾有の惨事を前に、そうしたメッセージを受け取った気がするのだ。
力強く、ポジティヴな「をどり」の中に。
全編で語られるのは、再生だった。
まず、すべては、いったん灰に還るのだ、というような意気込みをも感じる。
自らの行いを破壊するようなアプローチがそれを支える。
今回の天賦典式では、まるでコンテンポラリー・ダンスを彷彿とさせるシーンもあるのだ。そして、大いに声を上げて「をどる」。
また、録音だが、台詞のような音が入るシーンさえある。
濃厚で重い中に、あまりにも普通なしゃべりが、普通のトーンで響くのだ。
これは凄いと思った。
つまり、いったん今までの「をどり」を灰に還していく作業ではないのか。
今までの「をどり」を否定するということではなく、いったん原初に戻していくという行為ではないかと思った。
声を上げて踊るということが、踊るということの原点にあるのではないかということ。
そして、そういう「をどり」を通じて、人が辿ってきた「灰」への道を示す。人は自らを灰にしていく存在であるということなのかもしれない。
ユーモアを交えつつ、ラストの生命の色彩に物語はつながっていく。
それは再生の旗印であり、今、観客が一番望んでいることでもある。
また、毎回のことながら、オリエンタルな音色をスパイスにした音楽もいい。
そう言えば、姿が見えなかった、八重樫さんとか南条さんとか退団したのだろうか。気にかかる。
満足度★★★★
匂い立つような青春モノ
面白かった。
それぞれのキャラの立ち具合、物語の展開などすべてが。
ネタバレBOX
物語を見せていくというスタイルがとても心地良い。
それぞれのキャラと役割はお決まりの感じはあるものの、それぞれのキャラクターがしっかり立ち、とてもいい味を出している。
ある時期にある若者の挫折と成長とでも言うか。
境遇に立ち向かう、松田リカの凜とした印象がとても良い。昭和的なカッコ良さ。
今まで観たモダンスイマーズのように、重くてヘヴィすぎるという印象はない。
青春モノの印象。それも昭和の香りがプンプンする。
例えば、70年代頃の劇画やATG映画を彷彿とさせるのだ。
そして、全編に流れる方言の台詞が効いている。
しっかりと、地に足が付いている雰囲気がする。
それを役者たちが、見事に支えている。
満足度★★★
観客を楽しませるために汗だく
1カ月に2日、シアターグリーンの空いている日を使う「とびとびロングラン」なる方法で、同じ演目を長期間上演している。
内容は、シェイクスピア全37作品を、3人が90分で見せるというもの。
ネタバレBOX
とにかく観客を楽しませることだけを必死に行う。思ったよりも客いじりがあり、あまりにもベタでしつこいけど笑ってしまう。中には不快に感じる人もいるかもしれない。実際にいじられていた人で休憩時間に帰ってしまった人もいたので。
しかし、大笑いする場面も多い。
どうやって、シェイクスピア全37作品を、3人が90分で見せるのかは、ネタバレ中のネタバレなので書かないが、まあ、笑ってしまうのだ。
上演時間は90分だが、なぜか休憩が入る。3人が90分連続して上演するのがキツいためなのかもしれない。
休憩時には、ロビーで飲み物の販売もある。
そして、パンフは3人のサイン付きで200円。
これって、楽しめる人にとっては、ネタバレであっても、また見ても楽しめるのではないだろうか。
1カ月に2日、シアターグリーンの3つの劇場のうち、空いている日を使う「とびとびロングラン」という公演方法は、劇場側にとってもメリットがあり、面白い企画ではないだろうか。
満足度★★★★
意外と(笑)スマートなコメディ
意外に、と言ってはアレだけど、関西の劇団という前情報からしても、スマートな演出。ベタベッタに笑いを取りに来ない。草食系コメディか(笑)。
ストーリーの展開(設定)の意外性があまりにも意外すぎるのだけど、面白いことは確か。
ネタバレBOX
畑ではなく工場でレタスを作っている時代。
そのレタス工場にあるレクリエーション部が舞台。
レタス工場で働く人たちを楽しませるという目的で、レクリエーション部は存在する。楽しませると言っても、消毒用のシュコシュコ(ポンプのやつ)に、赤いシールを貼るか青いシールを貼るかなどを時間をかけて決めるという程度のことをしている。
そのレクリエーション部の天敵ともいえる、マスゾーさんが退職するということで、お別れ会をどのように執り行うかを決めようとする。レクリエーション部としては、やらない方向だったのだが、新人の意見により、「カタチだけ」行うことになった。
しかし、天敵だと思っていたマスゾーさんは、単にシャイで言葉が少ないだけで、善意の人だったことに部員たちは気づき、マスソーさんを気持ちよく送りだそうと考える。
ところが、レクリエーション部には、テロリストや横領して逃げてきたなどの噂がある者がおり、新人の挙動もおかしい。
そんな中、マスゾーさんのお別れ会が行われようとするのだった。
そして、マスゾーさんの正体(?)や工場のことが明らかになってくるのだが…。
そんなストーリー。
ここまで書くと、なるほど工場の中の人間模様なのか、と思うのだが、もちろんそうなのだが、マスゾーさんが登場(?)してからは、一気に予想外の展開(設定)となっていく。「ええ??」と思ってしまった。
なぜそんなストーリーに展開を? という感じだ。
別に悪い意味ではないが、展開(設定)の意外性があまりにも意外すぎというところか。
役者たちは皆、安定感があり、キャラの立て方もいい。
キャラの立て方がドギツくないのだ。
そのあたりにスマートな印象を受ける。
ありそうな工場の物語という人物設定から、変なねじれ感がたまらない。
また、衣装=つなぎ、舞台装置=パイプ椅子は、レギュレーションらしく、今回の舞台に関して言えば、つなぎは作業着であったし、パイプ椅子はほとんどの場面では日常的なパイプ椅子として使われてきた。パイプ椅子を使って、例えば工場の装置を表現したりしていたのだが、それもあくまで部屋にあるパイプ椅子を使って説明するという具合に、パイプ椅子なのである。
音楽やシーンのつなぎに使われるのは、役者たちのボイスパーカッションのようもの。この雰囲気もちょっとオシャレ。
また、台詞に関西弁が使われていないとこも、スマートさにつながっているように思える(これは関西弁に失礼か・笑)。
関西弁であったほうが、最後の展開の意外性がまた面白くなったような気もするのだが、それはこちらの勝手な思い込みかもしれない(関西弁は聞くだけで面白いという先入観か・笑)。
ストーリー的には面白いと思う。それは、バカバカしくもドタバタな展開なはずなのだが、さらりといってしまう。もっとアクとかフックのようなものが欲しいと思った。グイグイ引っ張っていくような力強さというか、そんなものだ。
ひょっとしたら、役者がさらりと、うまく演じてスマートすぎるのかもしれない。
もちろんそのスマートさは好感度が高いので、ギタギタしたギャグやキャラは入れてほしくはない。さらりとした日常感にあり得ない設定が重なっていくという感じになれば言うことはないのだ。
そのあたりのバランスが難しいところではあるのだが。
(これはひよっとして失礼な比較なのかもしれないが、SFっぽいコメディをやった劇団衛星やヨーロッパ企画をなんとなく彷彿させるのだ)
あるいは、今回の公演ではキーワートになりそうな、「タカチだけ」がうまく昇華できたりしてもよかったのかもしれない。
関西からというアウェイ感からか(東京の劇団だとお友だちとか、お友だちのお友だちとかが来てくれたりするのでは?)、客席で空席が目立っていた。これはもったいない。
さらに、今回の地震で残りの東京公演を中止とした。もちろんそれにはいろいろな考え方もあろうが、観客の安全等を考慮した英断と言えるだろう。
劇団側も残念な想いで関西に戻ったのだろうが、秋にはまた東京で公演があると言う。是非頑張ってほしいと思う。
満足度★★★
NORISAWA『KOUSKY 2011 SENGAWA』
チェコの人形劇団、と言ってもパフォーマーは1人で、なんと日本人。
チェコ在住とのこと。
人形と一緒に自分もパフォーマンスを行う。
ネタバレBOX
「人魚姫」「3匹の子豚」などの童話や、オリジナルの物語など、数編を、人形ともに1人で演じる(「3匹の子豚」だと子豚たちは人形で、狼は本人が演じる)。
童話の場合は、「3匹の子豚」のようにストーリーをそのまま演じたり、「人魚姫」のように、台詞なしで人魚姫の物語を詩情豊かに見せたりする。または「うさぎとカメ」のように、オリジナル色をプラスして楽しませたりする。
そこには、観客(特に子どもたち)がくすくす笑ったり楽しんだりする姿が想像できるし、例えば「人魚姫」の物語を知らない子どもたちは、イマジネーションで人魚姫の物語を頭に描くのだろう。
もちろん、大人には大人の楽しみ方があり、ちょっとしたユーモア、それも陰りがあるようなユーモアに、くすくすしてしまうのだ。ちょっとだけチェコの印象がそこにあったりする。
さらに人形ではなく、影絵を使った作品もある。
赤いセロファンをその場で切り、赤ずきんちゃんを作り、OHPの上で見事な赤ずきんちゃんのストーリーを見せてくれる。
このアイデアが秀逸だ。
こんなのまったく見たとがない。
生演奏ならぬ、生アニメとでも言おうか。
もっと見ていたと思った。
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今回の人形演劇祭の会場で、百鬼どんどろの岡本芳一さんの写真がロビーに飾ってあった。それによって昨年秋に岡本さんは永眠されたことを知った。
岡本さんのご冥福をお祈りします。
満足度★★★★★
実話をもとに構成された、緊張感溢れる舞台
見始めたのが最近なので、まだ数本しか観ていないのだが、パラドックス定数にはいくつかの顔があると思う。
そのうちのひとつに「史実(実話)をもとにして、物語を構成する」というものがある。『東京裁判』がそれだ。
今回の『5seconds』は、まさにそれであり、日航機羽田沖墜落事故がその題材となっていた。
2人芝居。1時間40分。まったくダレることのない、緊張感溢れる舞台だった。
ネタバレBOX
日航機羽田沖墜落事故は、いくつかの流行語が産まれたように、マスコミに大きく取り上げられ、騒がれた事件である。
それを、パラドックス定数の視点から観客に見せてくれた。
事件後、事件の性格から機長の名前は伏せられたが、ここではきちんと実名にしている。
舞台は警察病院の1室で、数日にわたり、羽田沖に墜落した日航機の機長が、弁護士に接見を受けるという設定。
机には電話1台。2人は向かい合って座る。
観客はそれを取り巻くように2人を見つめる。
弁護士は当時、機長には責任能力がなかったとして無罪にしたいと考えている。
機長には心身症がある。しかし、その病気では無罪とすることはできない。
機長は猜疑心の塊となって、弁護士に対峙する。
弁護士は機長のことを、そしてなによりも事件の真相を知りたいと思うのだが、機長は心を開かない。
機長の言葉には不穏な空気が混じりはじめる。明らかにおかしい。
事件の真相は? 「5秒間」に何が起こったのか? そして、墜落させるとき、機長は何を思って操縦桿を握っていたのか?
明るい室内で観客は役者2人を取り巻いている。
つまり、観客同士の顔もわかる。
また、内容も内容なので、緊張感は凄まじい。
正直、身体をちょっと動かすのにも緊張してしまうほど。だから、ポップコーン片手に観劇なんてまったくできない(いや、普通の演劇でもダメだけど・笑)。
しかし、役者の後ろにいる観客の顔さえ消えてしまうような瞬間があるほど、集中して観てしまう。
単なる緊張感ではない、緊張感の作り込み方がうまい劇団だ。
この設定は、この舞台では成功していると言っていいだろう。役者2人に観客の緊張感が注がれ、それが観客にフィードバックしてくることで、さらに芝居としての緊張感が高まる。もちろん緊張させることだけが舞台の主眼ではないのだか。
そして、いいタイミングで緩和もある。役者が舞台からはけ、脇に行くというところがあるのだ。時間の経過を表しているのだが、それはとてもいいインターミッションとなっていた(観客は、ほっと息を吐いたりするのだ・笑)。
ほとんどの座席では、役者の一方の顔しか見ることができない。
時間の経過ごとに席を入れ替わってくれればいいなと思っていたのだが(両方の表情が見られるので)、ラストのシーンでそれをやってくれた。
さすが! と思った。観客のことをきちんと考えて演出をしているということだ。こういうセンスがいいのだ。
2人の役者は、その役柄として冷静な弁護士(井内勇希さん)、感情の起伏がある機長(小野ゆたかさん)のコントラストが良く、やはり2人の表情が見られるのはとてもいい。
2人の会話は最初から機長がイニシアチブを取っており、後半になるごとに、それに弁護士も巻き込まれていくという細かさがなかなか。
この舞台環境では、役者も逃げ場がない。その中で、これだけのクオリティで演技を続けるというのはどれほど大変なことか、想像を絶する。
しかし、2人はそれを見事にこなしていた。大拍手モノだ。
そして、ラストシークエンスの展開はとにかく素晴らしい。350便の墜落までの様子を、順を追って追体験させていく。もうゾクゾクする。畳み掛ける感じ、そしてラスト。
ある意味、事件の真相に大胆な仮説が繰り広げられ、刺激的である。
史実(実話)と虚構(解釈)のバランスが絶妙な瞬間であったと思う。
個人的には、機長はもっと淡々としていて、感情があまり表面に現れていないほうが、ラストの展開がさらに衝撃的に感じたのではないだろうかと思う。
つまり、今回の設定とは逆に、熱血弁護士と冷静な機長の対峙ということだ。
さらに言うと、もう1歩突っ込んでほしかったなとも思う。もちろん、それはとても素晴らしい舞台だったからこそ、もっと、もっとと思ってしまうからだ。
全員にかどうかはわからないが、入場のときに「うどんですかい」シリーズのカップ麺(小)のプレゼントがあった(日航だから)。チケットも搭乗券風。しかし、350便は墜落したんだよなあ(笑)。
そして、今回の企画のもう1本への期待が、もの凄く高まっている。
満足度★★★★★
ネズミの足音。そして「駆除せよ」と声がする。
このテーマに挑戦し、かつ、そこにきちんと笑いを盛り込んだという技量とセンスに脱帽する。
役者もいい。
ネタバレBOX
こうした重いテーマにかわらず、笑いを交えきちんと見せていくというセンスは素晴らしいと思う。前半も、物語が重たくなり出す後半においても、うまい配分で笑いを交えながら、物語は進行する。
そこに市井の人々の視線が入っているから、笑いが嫌みになってこない。
その視線とは、私たちの視線であり、私の視線である。
事件とは、当事者でない限り、どこまでも他人事な大変な出来事であり、言わば「ワイドショー」的なネタでもある。
もちろん、犯罪被害者やその家族のことを思い胸を痛めたりすることも、当然あるのだが、やはり自分のことではなく、無責任なまま、ギャグにして笑ったりしてしまう。
その市井の視線を、いかにも町にいそうな人々を登場させ、その人を見ることで、観客は自分たちの立ち位置を意識してしまうのだ。
「ああ、あそこで笑っているのは私だ」「あそこで、噂を面白そうに垂れ流しているのは私だ」と。
だから、そばで関係者がどういう想いでその会話を聞いているのかが、わかってしまう、この舞台を観ることは、第三者の視線になって、自分のことを見ていることになる。
しかし、そういう姿を反省せよ、ということがこの舞台の目的ではない。
天井にいるはずの「ネズミ」の姿に、不安を感じ、さらに嫌悪し、駆除しようとする心は誰にでもある。
ネズミは、そうした心の象徴であり、ネズミの足音は、実態のない、街中の噂や風評やマスコミの垂れ流す情報という名のゴシップなのだ。
それに踊らされ「駆除せよ」と自らを煽ってしまう。
姉と妹が対立する形で語られるテーマについては、裁判の結果としての決着を一応みる。そして、姉には新たな命が授かり、妹は電車に乗れるようになったという、未来が見えるようなラストで終わる。
しかし、そこで交わされていた論議が終わったわけではない。
判決が死刑ということであれば、そのことにまた向き合う日もくるであろう。さらに、ひとたび別の事件のことをニュースなどで見聞きするときには、彼女たちも、やはり劇中に登場する噂好きのおばちゃんと何ら変わりないのかもしれない。
誰が作って煽ったかわからない「世論」に駆り立てられ、無責任なことを言ってしまうのかもしれない。私たち観客と同じに。
ネズミは天井裏にはいないはずのに、足音だけがまた響く。自分の目で確かめることはしない。つまり、音だけで判断し、それだけでいるはずのないネズミを駆除せよと言う。
それは、季節は、夏から冬になっているのだが、セミの声が鳴り響く、夏の、あの、姉妹が言い争った時間に舞い戻っているのと同じということなのだ。
この「ネズミがいる気配」というものは、現在行われている裁判員制度にも大きくかかわることではないだろうか。すなわち、世論というネズミの足音が騒がしくなれば、裁判員はそれに右往左往されることになっていくのだ。
これから誰もが裁判員になって、「人を裁く」、ときには「死刑を下す」ことがあるであろう。ゆえにその「気配」に対する心構えが、誰にとっても必要ではないのか。
つまり、「きちんと自分の目で見、耳で聞き、判断せよ」「そうした自覚を持て」ということなのだ。
舞台では姉と妹の両者側の立場について、きちんと描かれる。それはどちらが正しいとか間違いであるとかではない。
感情と理性(倫理)と、という2軸でもない。
姉とその父の生き方、妹の過去などがうまくバックボーンになっているので、その対立も自然に感じる。そこの設定と導入はうまい。
弟とそのバンド仲間の設定も、下手をすると、単に笑わせるだけのキャラクターになりそうなところを、きちんと締めていて、しっくりとはまる。
とにかくキャラクターの設定が各々うまい。すぐそばにいそうな人々をちょっとだけデフォルメして描いている。それを演じる役者たちがまた素晴らしくいいのだ。
姉役・南ナツキを演じたザンヨウコさんの、腰の据わった貫禄とも言える演技は、舞台全体をきちんと締めていた。パートの土屋を演じた松本寛子さんは、本当にうまい。ナツキに対する愛情のある接し方と、物語の進行とともに浮かび上がる不安を、いかにもいそうなおばさん(失礼・笑)として見事に演じていた。
富永を演じた山内奈々さんの、おばちゃんぷりはさらに凄い。もう怖いモノなしで突っ走る。ややデフォルメされたキャラクターを難なくこなす。とても味がある。
トモゾウを演じた高見靖二さんの、きれいなキレ方のうまさ、ハジメの鬱々とした様子(ワカナとのデートでのそれが少し緩む感じも含め)が印象に残る。
また、ハルアキとサトルは少々卑怯な設定(笑)ではあるが、出しゃばりすぎず、いい立ち位置をキープしていたと思う。
2パターンのキャストで公演は行われているのだが、Bキャストの出来がこれだけのレベルであるとすると、Aキャストのほうは? と興味がわく。しかし、日程的にもう無理なので、残念。
この日のアフタートークは、社民党の保坂展人さん。死刑廃止を推進する議員連盟という立場からの登場した(氏は今は議員ではないが)。時間は長くなって、後半の質問コーナーでは死刑についての討論へ発展しそうだったが、時間切れとなった。その中で、印象に残ることは2つあった。
ひとつは、死刑廃止を推進する議員連盟の現会長・亀井静香氏がなぜ死刑廃止に賛成しているかということ。彼は警察庁時代にあることで逮捕された経験があるという。そのときの取り調べで、これならばえん罪もあり得ると思ったということから、死刑に反対する立場になったと言うこと。
もうひとつは、死刑廃止を推進する議員連盟は、かつて大所帯だったのだが、いわゆるオウム事件後、「死刑やむなし」という声が高まり大量に脱退する人が増えたということだ。