スーサイドエルフ/インフレ世界 公演情報 The end of company ジエン社「スーサイドエルフ/インフレ世界」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    北アフリカでいろいろあって、3.11があって、青年団『バルカン動物園』観て、MU『変な穴』観て、私が客席にいて。そんなことがすべて1つの物語になっていくような感覚すら覚えた
    もうこれでジエン社は私の中で、大好きな劇団に一気に躍り出た。

    ついこの間観て、絶賛した同時多発会話劇の完成型的な『バルカン動物園』を一気に何万光年も昔に置いてきた感じ。
    いやもちろん、『バルカン動物園』がどうこうではないし、比較する意味もないのだが、とにかく、脳裏をよぎったのは、そんなことだった。

    こんなモン見せられたら、ちょっとだけ途方に暮れてしまうじゃないか。

    ネタバレBOX

    観ながら、すぐに大学生の頃の所属していたサークルの部室を思い出した。というより、一気にそこへ連れていかれた。
    私の大学時代は、すでに政治の季節は終焉を迎えていたが、自治会はセクトが実権を握っていたし、まれに内ゲバで死人が出たりもしていた。しかし、ノンポリな我々は、自分の頭の上のハエも追えないままで、「怖いね」ぐらいの感覚しか持ち合わせていなかった。それは「外」の出来事だったからだ。
    目下の問題は、自分のことであり、部室では結局自分のことしか語らず、他人の話なんてきちんと聴いていなかった。
    自分のことを思い詰めすぎて、静かに心を病んだ先輩や失踪した友人がいたが、それもひとつの風景だったような気さえする。

    まったくそんな光景が、舞台の上にあった。
    いっぱしのナニかを気取っているけど、甘ちゃんな感じな学生気分の延長のままのような憂鬱な日々。その憂鬱さ(苛立ち)は、彼らにとっては深刻だけど、他人の目からは甘い。自律してないから。芸術家気取りで、親のスネかじったりしながら。

    そして、彼らの世界の外側では、デモ隊と警官隊の衝突が激化しているが、それにはほとんど関心はない。やっぱり「怖いね」ぐらいの感覚なのだ。
    恋人がイエメンで拘束されている女のことも、「変なおばさん」という認識しかない。誰が撃たれてもその感覚はあまりない。本人にさえもない。
    つまり、「外の世界」とは、彼らのいる「安全」な勝手に占拠しているアトリエ的なその場所以外のことを指すだけではなく、「彼ら自身の外側」にあるすべてのものを意味している。

    あまり、「外」のことには関心はない。
    だから、会話も通じているようで、実は他人の言葉は、頭の上を滑っているだけ。打ってもどこにも響かない。しかし、自分のことだけは語り、知ってもらいたい、接続したいと必死にあがく。アートムなんていう破綻した地域通貨で「やさしさ」を求めたり、「〜の弟」という呼び名から、背伸びをして逃げ出したりしようとしている。
    特に、この場所に住むレイジは哀しい。ススギさんには無視をされ、イエメンでは(拘束している側の役)言葉がうまく通じない。

    この状況は、2011年ではなく、とてつもない昔に部室で見た光景なのだ。もちろん、自分の記憶に引きずり込んで観ることしかできないのだから、あまりにも個人的なものなのかもしれないのだが。

    そんな既視感のある舞台ではあったが、もちろん、舞台はというのは生もので、時代というか、その瞬間に起こったいろいろな出来事を記憶したまま、観客はやって来て、意識してもしなくても、そうした出来事(社会的な出来事だけではなく、極個人的な出来事も含めて)を舞台の上から届く情報と擦り合わせたり、照らし合わせたり、深読みしたりする。

    今回のジエン社の公演は、先に述べたように、人生のある時間帯に、ひょっとしたら誰が持ち得る感覚を再現しているのかもしれない。
    しかし、「今」という刹那の中においては、それは「今」存在する物語となり、それを我々は受け取っていく(あるいは「受け取ってしまう」)。
    これは演劇など、ライブな公演ならではの感覚だ。

    つまり、個人的ことを言えば、北アフリカでいろいろあって、3.11があって、同時多発会話劇の青年団『バルカン動物園』観て、虚無の穴がぽっかりと口を開けているのMU『変な穴』観て、私が客席にいて。そんなことがすべて1つの物語になっていくような感覚を覚えた。
    それは、恐怖でもあり、快楽でもある。
    予見とデジャブが、渾然となって客席の私に降り注いだ。

    冒頭に行われるモノポリーと劇中にしばしば登場する地域通貨アートム。このいかがわしさは、1千万円で売れたというリトグラフの「1千万円」と連呼される言葉や「1万円」で身体を売る女、「芸術はカネではない」と唾を飛ばし主張する男の言葉に見事に重なっていく。

    加速度的にカネの価値が目まぐるしく行き来し、それは膨大になり、インフレを起こす。そして、彼らの会話も、その言葉と交換される価値(関係性という価値)はほとんどなく、「言葉インフレ」を起こしている。台車一杯の言葉を尽くしても、人は(人の気持ち、心は)動くことはない。
    アートム10万とか1万円とかならば動くのに。
    この虚しさは、わかっているのに、やっぱり虚しい。

    中央と上手、下手の設定が興味深い。場所のみならず、時間や現実、妄想までが曖昧に存在している。そうしたものを飛び越えるのは、「ネット」ならではの感覚であろうが、実はそんなものが存在する前から我々はそれを頭の中でやっていた。
    客席との境も曖昧になりながら、舞台の上の物語が溢れ出す。

    それらが、台詞のきっかけで、「あざとく」もつながったり、人がイマジナリーラインともいうべき壁をやすやすと越えたりする。それはちょっと衝撃を与えてくれた。気持ちいい衝撃だ。

    だから、同時多発的な会話も当然だ。と言っても、ついこの間観て、絶賛した同時多発会話劇の完成型的な『バルカン動物園』とは同じところもあるが、違う使い方もしていたと感じた。台詞だけではない感覚の取り込み方であろうか。その感覚は、『バルカン動物園』を一気に何万光年も昔に置いてきた感じさえしてしまう。
    『バルカン動物園』を古典にして、『スーサイドエルフ/インフレ世界』はやって来た。しかし、『スーサイドエルフ/インフレ世界』は古典にならないような気がする。普遍性のある内容だ、と先に述べてきたが、その普遍性が不変ではないような気がするのだ。ただ「気がする」だけで理由も確信もない。

    ※ジエン社の「静かな演劇2.0(を目論む)」っていうのは、なんかカッコ悪い。何、それって、かつてあった何かのバージョン違いだっていうことを、わざわざ標榜しているの? って思うから。

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    2011/04/02 09:32

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