満足度★★★★
大笑いというわけではないのだが、なかなかいい空気感
「コメディユニット磯川家」の脚本・演出の保木本真也さんのユニットなので、てっきり磯川家っぽいドタバタなコメディなのかと思っていたら違っていた。
磯川家のイメージが違っていたら、ゴメン。
ネタバレBOX
※黄金のコメディフェスティバル2013のほうにも「観てきた」があり、こちらの劇団のところにもある。
後々の資料的な意味合いも考えて、こちらにも書くことにした。
内容は同じ。
なんとも言えない、気怠い空気感が漂う。
いかにもいそうなカップル。30代、これからどうしょうという不安の中にいる。
大好きチームの初日だったので、少々固さは感じられるものの、コロさんと久保真一郎さんの2人のやり取りがとてもいい。
お互いの微妙な距離感。女性側からの視点で描かれており、つかみどころのない男の気持ちを探り探りながらのコロさんのもどかしさがうまいのだ。
キノコ男爵からアワビ夫人の登場で、お下品でドタバタな展開になるかと思いきや、それほどでもなく、「子どもが出来た」という女のウソ(友人の報告を受けて)に、悲しくかかっていて、バカバカしい仮装に哀愁さえ感じた。
ラストは彼らカップルの設定にしては、出来すぎな展開かもしれないが、現実的な着地点、わずかな一歩がうまいと思った。
笑いは少ないけれど、好印象の1作。
それにしても、「絵本作家」=「演劇」ではないですよね?(笑)
満足度★★★★★
45分という微妙な長さをうまく活かせたオーソドックスな人情コメディ
「人情的」なところが嫌みにならず、なかなか良かった。
犬と串からの、いいトスをもらい、きちんと笑わせるところで笑いを取っていく姿勢が見えた。
ネタバレBOX
※黄金のコメディフェスティバル2013のほうにも「観てきた」があり、こちらの劇団のところにもある。
後々の資料的な意味合いも考えて、こちらにも書くことにした。
内容は同じ。
「寿司屋ネタ」は、この前の犬と串から、抜群のトスが上がったために、ラッキーパンチのようにオープニングをで観客を温めたのは、運が良かった。
お陰で、その後も観客は笑いやすくなっていた。
その後でも、犬と串の演劇の神様を持ってきて笑わせる貪欲さがいい。ラッキーな寿司屋ネタにさらに被せたことで、生さを感じる。
ストーリーは、娘の彼氏が父親に結婚の承諾を得るという、ありふれたシチュエーションではある(PMCにもあったし)。しかし、単にそこ1本に絞り込むことなく、父親が結婚の承諾を得るときのことや、母親が幽霊が現れるということろなどを、細かく説明しないでうまく盛り込んできたところが、結果的に話を膨らませていった。
つまり、父親が結婚の承諾を得た過去のシーンの再現や、幽霊の辻褄(例えば、なぜ彼だけに見えるのかなど)を見せなかったことで、話が散漫にならなかった。
8割世界のメンバーはいつもとおりに演じていて、いつもだったらハイテンション続きだと、ややうるさく、鬱陶しい感じさえすることもあるのだが、その鬱陶しさがストーリーとリンクしていたので、笑いとなっていた。
そういう中で、ともすればテンションが高いことで、舞台全体が浮つくところをアンカー的にきちんとつなぎとめていた、父親役の凪沢渋次さんと母親役の伊藤摩美さんが好演。彼らも他のメンバーと同様に「観客を笑わせよう」と攻めてきて、テンションを高くしすぎていたら、これだけのいい感じの舞台は生まれなかったと思う。
舞子さんの登場は、前回の作品で、死体役だった舞子さんの登場なのだとは思うのだが、それに何人が気がついたか。前回観ている人がどれだけいるのかということを考えると、そこの部分に乗っかるのはどうなんだろうか。
ただ、残念なのは、タイムをかけたときの、「コメディですよ〜」「面白いシーンなんですよ〜」的な、ぬるいBGM。コメディとか笑いのシーンでこういうタイプの音楽が鳴ると笑いが一瞬で萎えてしまう。ダンスシーンや要所要所には音楽はあってもいいが、あえて、というか逆に変な使い方としてそういう雰囲気を盛り上げる的な音楽の使い方もあるとは思うが、使い方によっては自信のなさを露呈してしまったり、逆効果になってしまうということを肝に銘じておいたほうがいいと思う。
満足度★★★
ウルトラ・ナンセンスと言う割には、予定調和な印象
ナンセンス度の切り込みを深く、1つひとつの要素については、もっともっと練って欲しかった。
所々は、笑ったけどね。
「黄金のコメディフェスティバル2013」で嬉しいチームとして参戦。
ネタバレBOX
※黄金のコメディフェスティバル2013のほうにも「観てきた」があり、こちらの劇団のところにもある。
後々の資料的な意味合いも考えて、こちらにも書くことにした。
内容は同じ。
ウルトラ・ナンセンスというだけあって、なかなかいい感じだったのだが、最初に変な妖精のようなブリーフ男が出てくるまでが長い。
そして、出てきてからも、パターンが同じすぎて長くて少し飽きた。
「言いたいだけ」という突っ込みをする妖精的なモノは、ブリーフに変な被り物で、背中に羽根的なものを付けているのだが、なんかどこか別の劇団でこんな変な妖精的なものが出てきたらありそう風体で(ホントにどこかであったかもしれない)、既視感アリな印象がツライ。
出オチ的で一瞬は「おっ」と思ったが、その後に変化も展開もほとんどなく、イイカゲンで、テキトーな感じにしたかったのだと思うのだが、その「イイカゲンで、テキトーな感じ」についてもっと掘り下げて面白くして欲しかった。さらにナンセンス度を上げていかないと、面白くまではなっていかないからだ。あまりにもすぐに思いつきそうな、イイカゲンで、テキトーな感じだったので。
後半、演劇の神様が出て来てからは、もう少しは面白くなってきたのだが、それでも「言いたいだけ」を言っているはずの台詞のバラエティが乏しく、さらにその内容的に「なるほど」思うほどの納得度は低かったように思う。
その「言いたいだけ」の台詞がキモであり、そこが面白くなっていかないとなかなか笑えない。それらしいシチュエーションもあるのだから。
全体的にわさわさした感じで、それが計算ずくでなく単にわさわさしているだけにしか見えず、ナンセンス度の切り込みが足りなく、不発に感じてしまった。
演劇的なアプローチの中にある「ナンセンス」にとどまっていて、あまりにも予定調和な内容だった。本公演とは違う、せっかくのチャンスなのだから、観客をぽかーんとさせるような、ウルトラ・ナンセンスにして欲しかった。
つまり、「言いたいだけ」の台詞で観客に近づきつつ、とてつもないナンセンスで観客を突き放す、そんなバランスとセンスが欲しかったのだ。
モラルさん登場は、すっごく笑ったけどね。
あと、この「観てきた」は、「ナンセンス」って言いたいだけかもしれない。
満足度★★★★
ウルトラ・ナンセンス・コメディ VS オーソドックス・コメディ
「嬉しいチーム/犬と串、8割世界」
ナンセンスな笑いは好物なのだが、今回の軍配はオーソドックスのほうに上げる。
ネタバレBOX
さきほど気づいたのだが、フェスの「観てきた」と当時に各劇団ごとの「観てきた」もある。
これってどうすればいいかな? と思ったのだが、後々の資料的な意味合いを考えると、劇団を検索したときにも、公演の感想が出てきたほうがいいと思ったので、両方に書くことにした。
内容はまったく同じ、になると思う。たぶん。
<犬と串『クイニーアマン~言いたいだけ~』>★★★
ウルトラ・ナンセンスというだけあって、なかなかいい感じだったのだが、最初に変な妖精のようなブリーフ男が出てくるまでが長い。
そして、出てきてからも、パターンが同じすぎて長くて少し飽きた。
「言いたいだけ」という突っ込みをする妖精的なモノは、ブリーフに変な被り物で、背中に羽根的なものを付けているのだが、なんかどこか別の劇団でこんな変な妖精的なものが出てきたらありそう風体で(ホントにどこかであったかもしれない)、既視感アリな印象がツライ。
この妖精的なものは、出オチ的で一瞬は「おっ」と思ったが、その後に変化も展開もほとんどなく、少し退屈。ブリーフ脱ぐのもありがちでつまらない。
たぶん、この造形は、イイカゲンで、テキトーな感じにしたかったのだと思うのだが、その「イイカゲンで、テキトーな感じ」についてもっと掘り下げて面白くして欲しかった。あまりにもすぐに思いつきそうな、イイカゲンで、テキトーな感じだったので。
後半、演劇の神様が出て来てからは、もう少しは面白くなってきたのだが、それでも「言いたいだけ」を言っているはずの台詞のバラエティが乏しく、さらにその内容的に「なるほど」思うほどの納得度は低かったように思う。
その「言いたいだけ」の台詞がキモであり、そこが面白くなっていかないとなかなか笑えない。それらしいシチュエーションもあるのだから。
全体的にわさわさした感じで、それが計算ずくでなく単にわさわさしているだけにしか見えず、ナンセンス度の切り込みが足りなく、不発に感じてしまった。
演劇的なアプローチの中にある「ナンセンス」にとどまっていて、あまりにも予定調和な内容だった。
このフェスは、本公演とは違う、せっかくのチャンスなのだから、観客をぽかーんとさせるような、ウルトラ・ナンセンスにして欲しかった。
つまり、「言いたいだけ」の台詞で観客に近づきつつ、とてつもないナンセンスで観客を突き放す、そんなバランスとセンスが欲しかったのだ。
モラルさん登場は、すっごく笑ったけどね。
あと、この「観てきた」は、「ナンセンス」っていいたいだけかもしれない。
<8割世界『狸のムコ入り』>★★★★★
オーソドックスな人情コメディ。
きちんと笑わせるところで笑いを取っていく姿勢が見えた。
「寿司屋ネタ」は、この前の犬と串から、抜群のトスが上がったために、ラッキーパンチのようにオープニングで観客を温めることができたのは、運が良かった。
お陰で、その後も観客は笑いやすくなっていた。
その後でも、犬と串の「演劇の神様」を持ってきて笑わせる貪欲さがいい。ラッキーな寿司屋ネタにさらに被せたことで、演劇の生(ナマ)さを感じさせる。
8割世界は、後輩の犬と串に感謝しないと(笑)。
ストーリーは、娘の彼氏が父親に結婚の承諾を得るという、ありふれたシチュエーションではある(PMCにもあったし)。しかし、単にそこ1本に絞り込むことなく、父親が結婚の承諾を得るときのことや、母親が幽霊が現れるということろなどを、細かく説明しないでうまく盛り込んできたところが、結果的に話を膨らませていった。
つまり、父親が結婚の承諾を得た過去のシーンの再現や、幽霊の辻褄(例えば、なぜ彼だけに見えるのかなど)を見せなかった、くどくどと説明しなかったことで、話が散漫にならずに、ストーリーに膨らみを持たせた。
8割世界のメンバーはいつもどおりに演じていて、いつもだったらハイテンション続きだと、ややうるさく、鬱陶しい感じさえすることもあるのだが、その鬱陶しさがストーリーとリンクしていて、うまく笑い結びついていた。
そういう中で、ともすればテンションが高いことで、舞台全体が浮つくところをアンカー的にきちんとつなぎとめていた、父親役の凪沢渋次さんと母親役の伊藤摩美さんが好演。彼らも他のメンバーと同様に「観客を笑わせよう」と攻めてきて、テンションを高くしすぎていたら、これだけのいい感じの舞台は生まれなかったと思う。
舞子さんの登場は、前回の作品で、死体役だった舞子さんの登場なのだとは思うのだが、それに何人が気がついたか。前回観ている人がどれだけいるのかということを考えると、そこの部分に乗っかるのはどうなんだろうか。
ただ、残念なのは、タイムをかけたときの、「コメディですよ〜」「面白いシーンなんですよ〜」的な、ぬるいBGM。コメディとか笑いのシーンでこういうタイプの音楽が鳴ると笑いが一瞬で萎えてしまう。ダンスシーンや要所要所には音楽はあってもいいが、あえて、というか逆に変な使い方としてそういう雰囲気を盛り上げる的な音楽の使い方もあるとは思うが、使い方によっては自信のなさを露呈してしまったり、逆効果になってしまうということを肝に銘じておいたほうがいいと思う。
満足度★★★★★
だって、アレですよね、
こういういろんな団体が集まって、十分とは言えない時間でいろいろやるやつって、なんていうか、ぶっちゃけ名詞代わりというか、本公演の6割ぐらいの感じになるやつですよね。
って、思っていたら、いい意味で裏切られた。
あ、「大好きチーム/保木本真也がプロデュース、ポップンマッシュルームチキン野郎」です。
ネタバレBOX
見たのは「大好きチーム/保木本真也がプロデュース、ポップンマッシュルームチキン野郎」。
偶然だと思うが、両方とも、カップルの愛情を描いていた。
アプローチも内容も違うのだが、45分という短い上演時間の中に、ギュッと詰まっていた。
<保木本真也がプロデュース『emiko』>★★★★
「コメディユニット磯川家」の脚本・演出の保木本真也さんのユニットなので、てっきり磯川家っぽいドタバタなコメディなのかと思っていたら違っていた。
なんとも言えない、気怠い空気感が漂う。
いかにもいそうなカップル。30代、これからどうしょうという不安の中にいる。
大好きチームの初日だったので、少々固さは感じられるものの、コロさんと久保真一郎さんの2人のやり取りがとてもいい。
お互いの微妙な距離感。女性側からの視点で描かれており、つかみどころのない男の気持ちを探り探りながらのコロさんのもどかしさがうまいのだ。
キノコ男爵からアワビ夫人の登場で、お下品でドタバタな展開になるかと思いきや、それほどでもなく、「子どもが出来た」という女のウソ(友人の報告を受けて)に、悲しくかかっていて、バカバカしい仮装に哀愁さえ感じた。
ラストは彼らカップルの設定にしては、出来すぎな展開かもしれないが、現実的な着地点、わずかな一歩がうまいと思った。
笑いは少ないけれど、好印象の1作。
それにしても、「絵本作家」=「演劇」ではないですよね?(笑)
<ポップンマッシュルームチキン野郎『死が二人を分かつまで、愛し続けると誓います』>★★★★★
いつものPMCであれば、お下品でアブナイ笑いでグイグイと行き、最後は、ほろりとさせたりするのだが、今回は、お下品でアブナイ笑いのパートは、ぎゅっと凝縮されており、タイトルどおりの「ちょっといいハナシ」が全面にグイと出ていた印象。
……「純愛」的な、そんなやつですね。
とは言え、体のあちこちから血を流している幽霊たちが舞台の上にいたりするのだけれど。
もともと、PMCの舞台には、芯となる部分には、こうした例えば愛情だったりがあるのだが、どうしてもキッツイ笑いのほうに意識がいきがちで、そういう芯の部分が、やや取って付けたように見えてしまっていることもあった。
しかし、今回は、その両者のバランスがいい。
また、物語の軸となる夫婦の関係をことさら煽るわけでもなく、かといって中途半端でもない、いい塩梅で描いているのだ。
そして、お下品だったりアブナイ笑いのパートは、職人芸のようにきっちりと責めてくる。
これはいつものPMCの舞台でも同じなのだが、今回はそれほど出番が多くない俳優もいる中で、悪目立ちをせずに、きちんと自分を前に出し、笑いを確実に取り、脇に去っていくのが見事で、ホントに職人芸のようだったのだ。
役者も演出の呼吸がわかっている、そんな印象だ。
オープニングで「彼らは何してるんだろう?」の引っ張り方から、ストーリーを展開させるテンポの見事さ。
そして、とんでもなく多い登場人物のコントロールのうまさもある。冒頭も3人姉妹にするとか、幽霊もすでに一杯なのに、原始人の奥さんやマンモスも登場させるとか、それなのに破綻しないし、短い時間なのに無理を感じさせない。
しかも、細かいところまで神経が行き届いているなと感じさせる。
ラストの、長女の相手の立ち位置とか笑った。
今回もお下品でアブナイ笑いは面白かった。大笑いするのが憚れるぐらい。
黒人兵との出会いとか。
満足度★★★★★
「生きる」ということ、すなわち、「走る」こと、「走り続ける」こと。
100の言葉をつなげても、この作品から受けた印象・体験は語ることができない。
演劇でしか表現できない手法で、「戦争」を、そして「生きる」ということを語りかけてくる。
いや、語りかけるという生やさしいものではなく、両肩をつかまれ、ガクガクを揺さぶられるように、訴えてくる。
そして、「戦争は悲惨だ、残酷だ」というメッセージにとどまらず、さらにもう一歩、その先へ、現代に生きる者たちへ、「生きる」ことのメッセージを送っていたと感じた。
ネタバレBOX
この作品は、いわゆるストレートプレイの演劇とは違い、独特な演出で作品を見せる。
例えば、過剰な繰り返し、例えば、同じシーンをアングルを変えたり、例えば、回想シーンとは別の、時間を前後させる方法や、時間や空間のレイヤーを重ねていく手法など。
時間や空間のレイヤーを重ねていく手法では、オリジナルの戦争・沖縄戦に巻き込まれた少女たちを描くだけでなく、現代にまで広げていく効果もあったと思う。
これについては、先のほうで書く。
いろんな手法を使うのだが、それによって単にスタイリッシュな印象の中に物語を閉じ込めてしまうのではなく、逆に、ストーリー、テーマ、そして登場人物たちの鮮明にさせていく。
冒頭、女子高生たちの日常を、同じシーンの繰り返しの中で描いていく。
繰り返すことで、リズムが生まれ、弾けるような会話と若さが溢れて見える。
それは、生きていることを実感させる。
毎日同じような日々が繰り返されていくことと、実はそれこそが、愛おしい毎日であったということの確認でもある。
そして、それがやがて訪れる非劇を際立てていく。
さらに、先生の「教師として……」の台詞、生徒たちのそれぞれの台詞や、人物紹介が後半に効いてくる。
物語の内容(原作の内容)を知っているだけに、最初のシーンから、ぐっと重いモノ感じていた。
「生きていたい」と叫ぶ、最初のほうのシーンですぐにクライマックスがやってきた。
しかし、これはあくまでも序盤であり、同じ台詞をスポットを浴びて同じように叫ぶシーンがラストにも訪れるのだが、当然、まったく感じ方が違ってくる。
物語が進んでいくことで、役者がどんどん登場人物になっていくからだ。
それは、この作品に限らず、どんな演劇や映画でもあることなのだが、先にも書いたように、回想シーンとは違う感覚で、時間が前後しながらエピソードを挟み込んでいくことの効果も大きい。
そのことで、例えば、「猫のももが死んだときに涙が出なかった」という台詞、例えば、「どんな人だったか思い出せない」という台詞などが、別のシーンに現れ消えて行くことで、より「意味」が出てくる。同じ台詞の繰り返しなので、実際はわずかな台詞と登場人物の情報のはずなのに、「知っている」感覚が生まれ、より身近である感情も生まれてくる。
同じような衣装の少女たちに、それぞれの「顔」が見えてくる。
このあたりは、こうした戦争モノのストーリーの常套手段でもあるのだが、そういうあざとさは感じなかった。
のめり込んで観ていたからだろうか。
別の時間や場所のシーンを重ねることは、単に戦争に巻き込まれる前の楽しいエピソードと、沖縄戦での悲惨な状況、残酷さをクローズアップさせるだけに機能しているわけではない。
現在のどこかの中高一貫の女子高生たちの日常と、沖縄戦で学徒隊として兵士の看護をしている女学生たちが、時空を超えて、クロスしていく。彼女たちの台詞は、すべて現代のそれのままということもある。
ここは、過去・歴史が単なる点として存在しているのではなく、「現在と地続き」であるということを強く印象づけ、さらに「生きる」ということを軸に、現代に生きる若者たちの「生きる」をも炙り出していたように思う。
つまり、ラスト近くで円陣になって自決しようとする少女たちが発する言葉「それだったら死んだほうがまし」(正確な台詞ではないが)は、今の世界でも自ら命を絶とうとする人の言葉に重なるのではないだろうか。それは、「生きたい」「生きたい」「生きたい」と叫ぶサン、「生きたいと思うことはいけないのか」という台詞、そうした思いがありながらも自ら命を絶つ人の姿と重なる。生きにくさのある世界。
沖縄戦の中で、「生きたい」と強く願った少女たちは、その意思に反して銃弾に倒れたり、病死したり、自決の道を選んだりする。現代の日本でも、「生きたい」と強く思っていても、何らかの障害で自らの命を絶ってしまうこともある。それは両方とも「意思に反して」なのではないか。追い詰められ、意思に反してそういう道を「選ぶしかなかった」人たち。
戦争中と現代では違うではないか、と思う人もいるとは思うのだが、当の本人にとってはその重さは変わりないと思う。
したがって、最初からずっと発せられる「ここはどこなのか」「いつの時代なのか」にこれらがリンクしてくるのだ。
「戦争は悲惨である」、もちろんそうだ。
しかし、この作品ではもう一歩踏み込んで「生きる」ということに焦点を当てたのではないだろうか。
「生きる」ということは理屈ではなく、「生きる」ということなのだ、ということ。
うまい言葉は見つからないが、「意味」じゃなくて「意思」なんだということではないかと思う。すなわち、「走る」こと、「走り続ける」こと。
ラストで学徒兵の少女たちが沖縄の南の海岸を目指して走る姿は、「生きる」ことに向かって走っている姿であり、映像で延々と続く道、沖縄の風景、青い空は、残酷に見えてくる。
しかし、「走らなくては辿りつかない場所」が「生きる」という場所だということなのだろう。
「生きるために走る」。しかし、それが叶うかどうかの確約はない。
だけど、走る。立ち止まらずに走る。あまり考えすぎずに走る。
それが「生きる」ということなのだ。
すなわち、「生きる」ということは、「走る」こと、「走り続ける」ことだ。
タイトルについて少し触れると、「繭」が、少女たちを守る、学校、ガマと象徴的に使われ、主人公のサンをいつも守る同級生の名も「繭」になっていた。
原作では、同級生の繭の秘密と、「繭」の意味にこの舞台とは少し別の意味合いも持たせていたと思うのだが(男は「白い影」も含めて。舞台ではラスト近くで繭は「ボク」と言っていた)、この舞台では「繭」の意味をさらに効果的にとらえ、「生きる」という決意で「繭」から脱皮していく少女を表現していたように思えた。
劇中で使われていた今日マチ子さんのイラストはこのための描き下ろしだった。
ロビーに原画が展示してあり、それを1つひとつ観ていくと、舞台が蘇った。
繭のように白くて丸い当パンもいい感じ。
歌のシーン(ギターを使うところ)もグッときた。
これは、まったく別次元の話だが、劇中で何かの幼虫が嬲り殺されていたように見えた(映像)。表現の手段としてそれは「アリかナシか」と言えば、私は「ナシ」だと思う。特にこういうテーマの作品だけに、ショッキングは、観客の脳内にわき上がるほうが大切ではないかと思うからだ。
これは面白い!
昨年度の高校演劇全国大会で最優秀受賞した作品ということで、とても観たかった。
しのぶさんの「お薦め舞台」情報で知って、観ることができた。
しのぶさんには感謝!
ネタバレBOX
劇場内に入ると30人ぐらいの部員が、声を出し身体を動かしウォーミングアップのようなことをやっていた。
それもパフォーマンスとして。
その姿が活き活きしていて、明るくってまぶしい(笑)。
こんなに動いてから本番に入るのか? と思ったけど、よくよく考えれば高校生なので、こちらとは体力が違う。大丈夫なんだろう。
ストーリーは、タイトルそのままで、弱小高校野球部の部員がイタコとなって、昔の大投手だった沢村を降臨させて試合を勝ち進むが……というもの。
正直言って、滑舌というか、発音が悪く台詞が聞き取れない人もいるのだが、全体のパワーが気持ちいい。
落ちないテンポもいい。
役の切り替えや、舞台での見せ方もうまい。……まあ、演出は、渡辺源四郎商店の畑澤聖悟さんということもあるけれど。
その期待にきちんと応えていたと思う。例えば、大勢が行き交うシーンや野球のシーンも、一人ひとりに神経が行き届いていて、きれいなアンサンブルとなっていた。
背景や効果音、BGMなども部員が身体や口を使って行うのだが、それもいい塩梅。細かいニュアンスの付け方もうまい。
いい感じで笑わせて、ラストでほろっとさせる。
あっという間の60分。
面白かった。
ただ、残念なのは、関係者らしき人の大きな声での内輪笑い。
それほど面白くない台詞や、人が出てきただけで、会場に響きわたる声で大爆笑していた。
これって、会場を盛り立てようとわざとしているのだろうけど、気になって、舞台に集中できないばかりでなく、気分が悪い。
そんなに、わざとらしい馬鹿笑いしなくても十分に面白いのに。このスタッフはこの作品に自信がないのかな。
満足度★★★★★
クロサワ・マジック
って言っていいのでは。
上映時間55分の『桜の園』。
そう言えば、『風とともに去りぬ』のスカーレットとラネーフスカヤって、境遇が似ているかも。
ネタバレBOX
黒澤世莉さんという演出家の演出は、個人的にとても信頼を置いている。
「その人ならでは」の「演出家臭」と言うか、「俺だよ、俺」というような自己顕示をプンプンと振り撒く演出家もいるが、彼はそういうタイプではない。
いつも端正で丁寧に、戯曲と役者(登場人物)をきちんと見せてくれる。「作品」を全面に出してくると言ってもいてかもしれない。
その作品に一番マッチした方法で見せてくれるのだが、観客にそういった「技」を感じさせず、作品に没頭させるうまさがあると思う。
で、『桜の園』。
この作品は、時間堂でそのまま上演したとしても、面白いものが観られたと思うのだが、どうやら事前情報によれば、1時間以内でチェーホフの『桜の園』を上演するという。
時間という要素は大きい。したがって、どうやって見せてくれるのか興味津々だった。
劇場内に入ると前方の座席に、紙で作ったゼッケンのようなものが掛けてあった。
それぞれに『桜の園』の登場人物の名前が書いてある(女優が演じる3役を除き)。
その席に座った人は、そのゼッケンを付け、観劇するという。
もちろん、観客本人がやってもいいという同意のもとに行われた。
ゼッケンを付けた観客は、その登場人物であり、役者がその登場人物(観客)に話し掛けるということになる。
ただし、観客には台詞や演技の必要はもちろんなく、リアクションも求めないという。
3人の女優が、それぞれラネーフスカヤ、ワーリャ、アーニャを演じ、それ以外の登場人物は観客となる。
なるほど、なんとなく「意図」というか、どうやって55分にまとめるのかの一端が見えてきた。
観客に設定されている登場人物の台詞は、効果を担当しているスタッフが手を叩くことで表現される。
したがって、例えば、女優が演じるラネーフスカヤが、フィールスに話し掛けとする。フィールスは観客に設定されている登場人物なので、返しの台詞はなく、その代わりにスタッフが手を1回叩く。それでフィールスの台詞となる。したがって、フィールスの台詞は一瞬であり、その手を叩いたこと(台詞の返し)を受けてラネーフスカヤは、フィールスとの会話を続ける。
結果としてとてもスピーディな展開となる。
つまり、舞台の上ではラネーフスカヤ、ワーリャ、アーニャの台詞しか聞こえず、それだけで芝居は進行するのだ。
『桜の園』という戯曲には、「喜劇 四幕」というサブタイトルが付いていることは有名だ。
先日も、そこをクローズアップして三谷幸喜さんがこの戯曲を上演した。
台詞や演技をプラスして、「笑い」を作っていた。
それには、非常に違和感を覚えた。それは「足している」からだ。
それじゃ意味ないよなあ、と思った。
時間堂の『桜の園』はどうだったのだろうか。
実は、早い時期からクスクス笑いが起きていた。
観客がもっと多かったら、大爆笑になったシーンもあっただろう。
全編、そんなクスクス感が充満していたのだ。
それはなぜか。
それは、3人の女優以外の登場人物を観客が担っているからなのだ。
観客は黙ったまま、面と向かった女優さんたちに、一方的にいろんなことを言われてしまう、という状況が生まれてくることになるからだ。
その観客と台詞とのギャップ、女優さんに面と向かって話し掛けられれば、つい頷いていまうような感覚、そんなお芝居と観客が接する一瞬が、とても面白いことになっているのだ。オリジナルの台詞は変えずに。
もちろんそこが、チェーホフが「喜劇」と書いたポイントではないのだが、『桜の園』の世界の中に入ったら「あれ、面白いんじゃないか」と思わせる不思議な一瞬が起こっていたと思う。
これは、演出的にも意図されていたことだと思う。
単なる「客いじり」の1つのパターンじゃないか、と言う人もいるかもしれないが、それだけではない感覚がそこにはあったと思う。
『桜の園』に触れた感じ、とでも言うような感覚だ。
スピーディな展開と、特に直江里美さんが演じていた女地主のラネーフスカヤが、若々しくて軽やか明るいので、桜は咲いているが、凍てつくようなロシアでの物語感が消え、もっと身近になった印象がある。
言ってしまえば、陽気なアメリカのホームドラマの一場面のような感じなのだ。
それは、執事だの、老僕だの、商人だのと言った、重々しく台詞回しをしがちな登場人物が姿を現さない(役者が演じない)ことからも起こってきたのだろうと思うのだ。
ただし、桜の木を伐採しているような音を、薪のようなモノを叩いて出していて、それがことのほか、強く響いていて、彼女たちの境遇を忘れさせないようにしていたのも印象的。
ワーリャとアーニャの配役も絶妙だった。ワーリャ役の阿波屋鮎美さんのすこしおっとりした姉感と、アーニャの若さ&観客を台詞によっては、正面で見つめる目力が印象に残る。
最初に、「『桜の園』を1時間ぐらいでどうやって見せるのだろうか」ということに一番の興味があったと書いたが、確かに1時間ぐらいに作品は縮められたが、実は、観客が観たのは、単に『桜の園』を短くするためだけの演出ではなく、ラネーフスカヤの気持ちのコアの部分を見せ(独白の台詞が浮かび上がってくる)、さらに観客に作品を身近に感じさせ、くすくす笑いを起こさせることになっていたのだ。
うまい。
オリジナルのラストは老僕のフィールスがぶつぶつ言って幕となって、観客は少々暗い気持ちになるのだが、今回は役者が演じるフィールスがいないので、彼の台詞はもちろんなく、ラネーフスカヤが爽やかに去っていくシーンで終わる。
フィールスのシーンがないことで、ラネーフスカヤとその娘たちが、ドアを開け、新しい世界へ希望を持って踏み出していくような印象を与えた。
それは、『風とともに去りぬ』のラストのような印象なのだ。
そう言えば、『風とともに去りぬ』のスカーレットとラネーフスカヤって、境遇が似ているかも。
東京公演は1日だけだったのがもったいないと思った。
もし、再演があるのならば、大学生のペーチャが観客的には儲け役だった、とだけ書いておく。
満足度★★★★
こってりと面白い、鶴屋南北の名作
主君の仇を討つ『忠臣蔵』の裏ストーリーという設定で、さらに「仇を討つ」(と復讐)が、キーワードとなる怪談話。
染五郎が民谷伊右衛門を演じ、菊之助がお岩を含め3人を演じる。
ネタバレBOX
染五郎が民谷伊右衛門を演じ、菊之助がお岩を含め3人を演じる。
お岩と無理矢理実家に連れ戻され、お岩の父親を説得してよりを戻そうとする伊右衛門だったはずなのに、産後の肥立ちが悪いぐらいでお岩対して冷たい態度をなぜとるのか、というところがイマイチ伝わってこない。
もともと伊右衛門が悪い男だということはわかるのだから、いかにも見た目はいいが悪い男であるように、最初から演じてほしかった。
したがって、伊右衛門を見初めた隣家の伊藤家の策略を、これ幸いと乗ってみせる悪ぶりも、もっとほしい。
染五郎の伊右衛門が、さらにどす黒く見えてこないのが残念。
名台詞「首が飛んでも動いてみせるわ」は、力が入り、いいなとは思ったのだが、全編このエネルギーを悪いエネルギーとして見せてくれていたら言うことはなかった。
もちろん、お岩を立てるという意味もあろうが、伊右衛門がくっきりしないとお岩も引き立たない。
対して、お岩を演じた菊之助は良かった。毒と知らずに薬を飲む場面は、鳴り物はまったくなく、白湯を取りに行き、大切な薬を大事そうに丁寧に飲むという一連の仕草は、無音で長い場面にもかかわらず、観客は固唾を飲んで見ていた。
それほど見事だった。
毒を飲まされた後の髪をすく場面もよかったし、控え目な貞淑さもよく、伊右衛門の非道さがくっきりして見えた。子どもを思う母親の心情もいい。
また、菊之助が三役演じるうちのひとつ、佐藤与茂七のすっとした感じもなかなかだ。
出番は少ないものの、直助権兵衛を演じた松緑の台詞のタイミングの良さは気持ちが良かった。
戸板返し、仏壇返し、幽霊の宙乗り、菊之助の早変わりなど、見せ場が多く4時間超がまったくだれない。
幽霊が出てきてから、もっとこってりと怖がらせるのかと思ったが、思ったほどでもなかった。
歌舞伎座では30年ぶりに演じられるという、大詰の「滝野川蛍狩の場」は幻想的で、「本所砂村隠亡堀の場」と「本所蛇山庵室の場」という、お岩が祟るシーンの間にあり、とてもいいクッションになっていたと思う。これはやはりあったほうがいい場ではないだろうか。
満足度★★★★★
「結婚っていいな」と思わせるような作品
岸田國士の戯曲『紙風船』を同じ役者を使い、演出家を変えて上演する企画の第2弾。
今回の演出家は、範宙遊泳の山本卓卓さん。
1時間に満たない作品だけど、十分楽しめた。
ネタバレBOX
まず、劇場内に入り、セットの雰囲気が楽しい。
模造紙のような白い紙を使って、椅子を包んで「イス」と書いてあったり、壁にドアを作ってあって「寝室」、役者の控え室のドアには「バスルーム」、正面の壁には「カーテン」「窓」、さらにトイレのドアには「冷蔵庫」と書いてあり、中に入ると「コーラ」と書いてある空きビンが置いてある。
妻は、カーテンを開け、「服」と書いてある紙を干す。
梁には「梁」、剥き出しのパイプには「水の音」、線路側の壁には「電車の音」、キッチンには「しゃもじ」と書いてあるしゃもじ、剥き出しのベニヤ板には「ベニヤ板」、そして、板付きで机に座る妻の手には「いんげん」と書いてある紙があり、まるでインゲンの筋を取っているように紙をむしっている。
この「いんげん」には笑った。
どうやら新築の家らしいし、さらに結婚1年目の夫婦の状況を表しているようなセットだ。まだ手垢が付いていないというか。
これから2人で、色づけしていくというか。
たぶんそんな感じ。
1歩踏み込んだ解釈をすれば、イスに「イス」と書いてあるように、夫婦には「夫」「妻」という新品のレッテルが貼ってあり、そうすることでその「役割」を「演じている」ような感覚が少し残っている、そんな微妙な時期の、夫婦。
公演が始まるまで、どこに何があるのか、いろいろと探しながらいるのも面白い。
『紙風船』をきちんと現代にトレースした作品だった。
中途半端にではなく。
オリジナルの『紙風船』は、やはり昔の作品であり、そのままの台詞でももちろん結婚1年目の夫婦の様子をうかがい知ることはできるのだが、現代の観客にとっては、ある程度の「脳内変換」は必要だった。
しかし、この山本卓卓・演出作品の「翻訳」具合が素晴らしい。
手元にオリジナルの戯曲を持って観劇し、各台詞ごとに比べてみたいと思ったほど。
とは言っても、「台詞の言い回しや語句」を「現代のもの」に、単に置き換えて、観客にわかりやすくしただけというのではなく、本来この作品の持っている空気感、結婚1年目の日曜日の感じ、までを含めて、きちんと現代に「移し替え」「翻訳」していたと言っていいだろう。
そこでは原作をないがしろにせずに、『紙風船』という作品として成立させている。無理矢理に自分のほうへ持ってきたというわけでもない、その塩梅とセンス、技術には脱帽だ。
品の良さすら感じてしまう。
結婚1年目の夫婦の、なんとなくな倦怠感。新婚というほどでもないが、多少の初々しさもありつつの、「慣れ」な感じ。
妻の求める結婚像と、夫がすでに感じている結婚観の微妙なズレ。
それは、いいとか悪いとかではなく、最初からあったものだったが、「愛」みたいなもので隠されていたり、勘違いしていることで見えなかったもの。
それが、生活をともにすることで、お互いの間にあった、美しい勘違いのというベールが少し薄くなってきた、というところではないだろうか。
ただし、1年目なので、キャッキャ感みたいな、他人から見れば、「あ〜あ」的ななんともな、まあ「微笑ましい」状態もあり、鎌倉のくだりは、オリジナルの戯曲よりも鮮明に出ていたのではないかと思う。
妻役の黒岩三佳さんの台詞回しがなかなか秀逸で、子どもっぽい夫に対して、やや冷めたというかクールな雰囲気なのだが、その根底にある眼差しに愛情を感じる。
自分を直接的に押し出すことはしないが、夫に「察してもらう」ようにしむける台詞のニュアンスが伝わってくる。
夫役の武谷公雄さんの、汗だくな一生懸命さは、夫である人(あるいはあった人・笑)には、経験があるのではないだろうか。どんなに亭主関白であったとしても、なんとか妻には嫌われたくないというか、気を遣ってしまうというか、そういう「健気さ」(笑)を感じてしまった。
そいうは言っても、それは妻にはなかなか伝わらないだろうな、というのも実感的だ(笑)。
なんともいい感じの、結婚1年目夫婦の、何も起きない普通の、ある日曜日が、見事に切り取られて舞台の上にあったのではないかと思う。
そして「紙風船」。
このマンションのような家で、それをどうやって出すのかと思っていたら、びっくりな展開。
下手すると『クロユリ団地』(笑)なホラー感がしてしまうが、そのあとの展開がうまい。
ここでも1年目夫婦のキャッキャ感で観客の頭の上の「?」を吹き飛ばしてくれる。
ラストに「挨拶しよう」で、舞台の空気のまま観客席に向き合うというのは、虚構感を強調しすぎてどうかなとは思ったが、ひょっとしたら「終われなかった」のかなと思ったり。続きすぎて。
山本卓卓さんが、独身なのか結婚しているのかは知らないけど、戯曲が本来持っている、そういう夫婦の間の機微をきちんと描き、さらに役者2人が、それを理解して表現してみせてくれた。
本当に面白かった。
「ああ、結婚っていいな」と思ってしまう作品だったのではないだろうか。たとえ、今、夫婦の状況がどんな状態にあったとしても、「あの頃」を思い出させるような作品。
だから、シングルの人が観ると、ひょっとしたら「結婚したくなる」ような、そんな作品だったのではないだろうかと思った。
満足度★★★★★
狂ってる
洗練されていない狂気。
鈍い包丁。
気持ち悪い。
観客は脱力した笑いをするだけ。
前にも似たようなこと書いたと思うけど、「ナカゴーの舞台は酷い」と思う。
ネタバレBOX
ナカゴーの凄さは、何も恐れていないことだ。
これだけ人が演劇するために集まっていると、「これって、どうなんだろう……」というストッパーがどこかで働きそうな感じもするのだけど、それがないようにしか見えない。
「宗教か?」「宗教なのか?」と思ってしまうほど、普通に見えている、劇団の「狂気密度」は高い。これを演劇の公演として打つ、という行為そのものに対してもそれを感じるほど。
ほぼこんな内容を毎回やっているのだから。
自信はあるのだろう。それがどこから来るのかはわからない。
とにかく、数多くの本数の公演を行っているのは確か。
アナウンスが遅くて、それに付いていけないほど。
狂気の暴走。純文学の臭い。
露悪趣味ではなく、自らの狂気を吐露しているようだ。
……闇。
切り立った崖っぷちに立っているような、刹那の怖さを秘めた舞台。
一歩間違えば、ただの「酷い舞台」にしか見えなくなってしまうから。
その線引きは難しい。
観客だけが唯一それを判断できる。
ただの酷い舞台との差は何であろうか。
ナカゴーは洗練されているわけではない。
逆に「洗練されてない感」が、たまらない。
洗練されてないから、いいわけではもちろんない。
そのスタイルがナカゴーの「今」を表現するには一番いい方法なのだろう。
いかにも「うまい」人が「うまい風」に演じて、演出もそんなオシャレとなってしまうと、ナカゴーの「今」は失われてしまうのではないか。というか、「普通」になってしまう。
観たあとに、「酷い」とか「狂ってる」とかしか言えない、ナカゴーの舞台は、彼らが持っている、言葉では表すことのできない「何か」を確実に表現していると思う。
彼らが今感じていることを。
観客は、「言葉にできない何か」を「舞台」に求めている。
それはここにあるんだろうけど、それも言葉にできないので、観客は、「ああ」とか「うう」とか言うしかない。
あるいは、「面白い」とか「狂っている」とか言うかもしれない。
そう思える人だけが、また気持ちの悪いナカゴーの舞台を、嬉々として観るのだろう。
結局、ここではナカゴーの良さはまったく伝えられないのだけど。
今回は、2本立ての形式をとっているが、2つはナレーションが語る「祖母」の、2つのエピソードとなっている。
<アーサー記念公園の一角>
育児で心が不安定な妻と、その夫が、妻の旧友を公園で待っている。
そこへ旧友が遅れて現れて…という話。
妻の友人役・川上友里さんが現れてからの、舞台の収まり方がいい。
「収まり方」と書いたが、一般的な収まり方ではなく、カナゴーの世界観での収まり方だ。
妻の気持ちが癒されているが、不安・不穏な空気が底辺に流れていることを感じるような、川上友里さんの空気の作り方がうまい。
嫌なノイズが、ほんの小さな音だけど、ずっと響いているような感覚だ。
本当に涙ぐんだりしていて。
<牛泥棒>
父親の通夜に集まった3姉妹。
なんとなくありがちな設定から、何も変なことはないよ、という顔をしながらの、ねじ曲がった展開。
義理の兄の非道ぶりはなかなかだが、全員がおかしい。
「すこしずれた」なんていう言い方をすることがあるが、少しではなく、完全にずれている。気持ちの悪い人たち。
普通に台詞を重ねていくから、観客はそういうものだと思って観ているのだが、悪夢のような展開。
ハンマーの登場で(最初からハンマーが出てきたので、もしや……と思っていた人は多いのでは)、『黛さん、現る!』だったか、ハンマーを振り回していつまでも延々と続く、あの感じの再現かと思っていたら、そうではなかった。意外とあっさり。
爆死した蒼井優(!)がフラガールで現れるあたりは、ツボ。というか鳥肌モノだった(すみません、それは言い過ぎでした)。
蒼井優の首(たぶん)を、牛の剥製のように飾るという(マイムで)、くだりもなかなか。
ぐちゃぐちゃになっていく舞台の上の様子に、ホントに「酷いなー」と思った。
観客は脱力した笑いをするだけ。
ただし、長女の催眠が解けてからの大殺戮なラストの展開は、普通すぎたような気がした。
蒼井優の首を掛けて、フラガールが出て終わりでもよかったと思う。
……蒼井優の登場は、『黛さん…』のダンレイ登場で味をしめたのでは(笑)。
長女の夫役の金山寿甲さん非道ぶりは見事。高畑遊さんの蒼井優には笑った。次女役の清水葉月さんのなんともな表情がこの舞台の、なんともな感じをよく表していたと思う。
2本とも、気持ちの悪い作品で、気持ちの悪い笑いを起こしていた。
笑いは意図しているのだろうけど、気持ちは悪い。
タイトルはイカしている。
満足度★★★★★
小玉久仁子ファンはゼッタイに観たほうがいい!
って、ファンならそんなこと言われなくても観るよね。
ネタバレBOX
前作『クリエイタアズハイ』での、ゆるキャラ役が記憶に新しい、ホチキスの看板俳優の一人、小玉久仁子さんの一人芝居。
以下タイトルは覚えてないので、そんな感じのものを書いた。
<ウエディングドレスの女>
照明が点くと、小玉久仁子さんがウエディングドレスで舞台にいる。
ウエディングドレスなのに、結婚式の司会だと言う。
なぜ彼女がウエディングドレスなのかは、徐々にわかってくる。
コメディタッチの作品。
幕切れは少しわかりにくかったのでは?
最後にダイナマイトを手にしていたということを、もっと印象づけたほうがよかったのではないだろうか。
全体的には、やや想定内の展開だけど笑った。
これはいい滑り出しだ。
<似顔絵>
警察の取調室。
警察の制服姿の小玉久仁子さんが、連続放火魔の目撃者であり、放火魔が火を点けた家から女性を助けた男に、犯人の特徴を聞きながら似顔絵を描いている。
スケッチブックを使った漫談風な部分があったので、てっきりそっち方向で責めていくと思っていると、その女性警官が、思わぬコトを口走り始める。
なにしろ戯曲がうまい。途中からの展開に大笑い。
それをグイグイ押してくる小玉さんのうまさもある。
観客は、そのグイグイのストーリーに、グイグイと引きずり回される。
<長い略歴>
小玉久仁子さんが、まずは自分の名前から自己紹介を始めるのだが、観客が「???」となっている間に、気がつくと一気に江戸時代に飛んでいる。そしてあれよあれよという間に……。
これはなかなかの物語。
感動的であり、先の2本のコメディタッチのものとは異なる。
わずか数十分で、女性がつなぐ命の歴史、血のつながり、を見せてくれた。
手ぬぐいのような、ちょっとした小道具で、一瞬に登場人物を変える演出のスピーディさ、それを見事に演じ切っていた。細かいところが実に丁寧だ。
ラストが、この芝居の最初の自己紹介に、ぴたりとつながる。
その、つながる一瞬、自分の名前の漢字を読み上げる、タイミングやテンポ、すべてが完璧だったと思う。
その一瞬は鳥肌モノ。
<ウルトラ母>
『クリエイタアズハイ』を彷彿とさせるキャラもの。
怪獣退治をするスーパーマン的な母。
この前に「母」(女性)でつなぐ、個人の歴史を見せたにもかかわらず、母がラストの大破壊。
「ったく、もー」と思ってしまった(笑)。
まあ、観客笑顔のラストで短さがいい。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
芝居が始まる前(観客は、芝居が始まったと思っていた)に、小玉さんご本人からの、前説・注意事項があったのだが、芝居めいていて、なかなか楽しめた。
また、各パートの間は、壁に文字を投射し、「連続・幕間小説」なるものが行われたが、芝居とはまた違う雰囲気の内容で、これも面白かった。
内容のうまさで、芝居を壊すことなく、音楽でつなくよりもいいアイデアだと思った。こうした場合、よくあるのが音楽でつなぐ手法だが、音楽だと、その間に観客が素に戻ってしまうので(わざとそれを意図する舞台もあるだろうが)、そうならないように、うまく気持ちを維持させくれた。
作・演は、ホチキスでも作・演をしている、米山和仁さん。
彼は、小玉さんと高校時代からずっと一緒だったらしい。
ホチキスでもずっと一緒なので、彼女のことを良く知っているのだろう。
その米山さんが、小玉さんの良さを200%見せてくれたと言っていい。
ホチキスの本公演での演技とは、少し違った角度でも小玉さんの力量を見せてくれて、小玉ファンでなくても十二分に満足のいく内容であったと思う。
初日ということもあり、小玉さんは、やや緊張気味だったが、回を重ねることでどんどんよくなっていくだろう。
しかし、小玉久仁子という女優さんは、やっぱりうまい人なんだな、と改めて感じさせてくれた企画だった。
月刊と言いながらも毎月やるわけではなさそうだが(?どうなんだろうか?)、このレベルならば、次回も楽しみだ。
次は一人芝居だけでなく、二人芝居なんていうのも面白いかもしれない。
初日は、ダブルコールとなった。そんなことは小劇場ではなかなかない。しかも短編だし、一人芝居だし。
それだけ面白かったということなのだ。
満足度★★
ん〜〜〜
いや、確かに笑っちゃったところもあったけど。
あったけどね……。
ネタバレBOX
なるほど、「あとに何も残らないコント」に徹しているんだろう。
今回もそういう内容だった。
クスクス笑いや、苦笑い、ためらいながらの笑いなどが……。
しかし、「進撃の巨人」「村上春樹」「長渕剛」「柳沢慎吾」「テニスの王子様」などのパロディや、それをもじったものなどが多く、もっと何かないのかな、と思わずにはいられなかった。
オリジナリティがどうこうではなく、そういうすでにあるモノばかりに頼らない、「バカバカしいモノ」を見たいと思うのだ。その中にそういうものがエッセンスとして入るのいいとは思うのだが。
例えば、「ビーフンおじさん」は、竹中直人が以前やってた「ナンおじさん」だし…。
そして、いかにも「アブナイネタ」的な「CRパチンコ原子力発電」「身障者ネタ」も、「アブナイでしょ?」のアピールすぎて、なんだかなー、の印象。「CRパチンコ原子力発電」はそんなに意外性ないしね。
展開は、「シュールでござい」とぱかりの、シュールっぽい不条理な展開もいささか鼻につく。
まあ、「そういう人は見なければいい」と言われるだろうから、それには「そうですね」と言うしかない。
確かに「笑えればいい」のかもしれないけど、全体的に何かのボツネタを見ているようで、もうひとつ楽しめない。
まあ、不覚にも(笑)、笑っちゃったところも、あるにはあるのだけども。
村上春樹とか。
生演奏とフライヤーはよかった。
満足度★★★
毛色の違う短編3本立て
いずれも同じ作者の原作を舞台化したものらしい。
原作は未読なので、そもそもの、原作自体の構造・ストーリーについて触れることになるかもしれないが、それはわからないので、すべて舞台の感想として書く。
ネタバレBOX
<ゴースト 〜四畳半の幻〜>
つかみはOKな感じの賑やか、というよりはドタバタな喜劇風味。ほとんど笑えなかったけど。
ありがちで想像の範囲内のオチだったので、途中のやり取りをもっと楽しみたかった。
途中の展開も、最初の意外性(外国人の住まい)というところから一歩も出ないまま、しかも外国人であるということの設定をそれほど活かすことなく、これまた想像の範囲内の展開で進む。
外国人という設定(本当に外国人の方が出演していた)ならば、無理に日本語で話すのではなく、彼の母国語ですべて台詞を言わせたほうが、幽霊とのコミュニケーション・ギャップが出て面白くなったと思う。
もしそうであれば、ありきたりの展開とオチも印象が変わったのではないだろうか。
オチは、スパッと気持ち良く終わらなかったところに、演出的には今一歩を感じてしまった。
<がんばれ美香子「なにそのタイトルやめてよ」>
今回の公演タイトルになっている作品。
テンポいいし、主人公の美香子が元気でぐいぐいストーリーを引っ張る感じがいい。
一生懸命で健気なんだけど、ダメなんだろうなぁ、と思えてくる。
ラストが、まさかの夢オチ(!!)なのには、あまりのことに愕然とした。
いくらなんでもそれはないだろうって。
美香子の現在の恋愛などが、小学校のときの事件からずっと影響を受けているということになっているようだが、過去と現在がまったくつながらない。小学生のときの出来事がトラウマになって、というようにはまったく見えないからだ。
しかも、まったく解決するわけでもなく、「がんばって!」「うん、がんばる!」だけなのだ。これはあまりにも……。
また、ラストか途中で明かされるのかと思っていたのだが、美香子が話している相手(「ト書き」だったか「地の文」だったか)がなぜ彼女の前に現れたのかが釈然としない。
例えば、彼女が演劇をやってるとか、小説家志望とかそういうことはなく、強いて言えば、小学生のときの出来事に推理小説が絡んでいるぐらいなのだ。
そこからの設定ならば、それらしくすべきであろう。
そうでなければ、彼女にわざわざ「ト書き」だか「地の文」だかが表れる必然性はない。
「夢オチ」ならば、どうにでもなるのだから、観客を「えっ!」と思わせるぐらいにしてほしかった。
そして、夢オチならば、夢オチであったとしても、納得のオトシ方にしたほしかった。
何でもできる、演劇なのだから、もっと発想を飛ばしてほしい。
暗転後の主人公の台詞は蛇足。
主人公の美香子を演じた野中沙織さんは熱演だった。ただ、少々幼すぎる反応と、あの衣装はどうかと思うのだが、これは演出の責任だろう。
<それでも彼女を愛せますか?>
どんどん話がひっくり返っていくような感覚が面白いと思った。しかし、これもラストがありきたり。主人公が、今度こそは新たに女性と付き合うと見せて……、というのは、あまりにも容易で、ストーリーの展開からもストレートすぎて驚きもない。こういうストーリーならば、せめてラストは意外性で驚かせてほしい。
また、途中から、説明ばかりが延々と続き、少しうんざりしてきた。
「今後開発するロボットの云々……」と今回の実験とのつながりがわからない。人間ではないものに恋愛感情が持てるか、がロボット開発とどう関係するかが、ピンとこないのだ。
さらに「政府の上のほうの」みたいな設定話もまったく必要なく(それがあることでストーリーの深みが出るわけでもなく、何かの伏線というほどのものでもない)、単に説明が長くなっただけで不要だったと思う。
しかし、それらをわからせるために説明がさらに必要というのではなく、つまり、例えば、ロボットの開発なんてどうでもよく、「存在しない人間に恋愛感情が持てるかの実験」だった、としてもよかったのだはないだろうか。「人は何によって構成されているのかの実験」でもいいだろう。
そのほうが単純なオトシ話ではない、深みが出たと思うのだが、どうだろう。
<全般的に>
オチも展開も原作のとおりであるのならば、原作の選定に問題があるのではないだろうか。短編だからわかりやすいものを、という理由で選んだのならば、観客を甘く見過ぎていると言わざるを得ない。
もっと切り込んでほしかった。
そして、演出に切れ味がない。短編で、こうしたオトシ話的なものであれば、もっとも切れ味のいいラストを演出すべきであろう。どれもぼんやりとした形で終わってしまう。
正直言って、役者もこれからという人が多いが、熱意は感じられた。前のめりな感じが見てて心地良い。問題は、戯曲と演出。
細かいことだが、当日パンフにそれぞれのタイトルがない、「第1話」「第2話」となっているだけ、タイトルは入れたほうがいいのでは。
演劇の短編は観客としては取っつきやすいが、役者の力量、戯曲と演出の出来不出来があからさまに出てきてしまうので、よほどの出来でない限り、観客からの評価は厳しいものとなってしまう。したがって、本公演でしっかりと観客がついてきていると感じてから、の公演でもよかったのではないだろうか。本公演とのイメージでのつながり具合やギャップを楽しめるからだ。
今後に期待したい。
満足度★★★★★
東京ヴォードヴィルショーの新たな一面を見たようだ
東京ヴォードヴィルショーにとって、初永井愛(作)&初鈴木裕美(演)。
ネタバレBOX
東京ヴォードヴィルショーにとって、初永井愛&初鈴木裕美。
1946年、東京に住む神主一家とそれを取り巻く人々を描いた作品。
軍国主義から民主主義への転換期に、翻弄されながらも逞しく生きる人々。
そう書くとありきたりかもしれないが、いろいろな要素が重層的に重なり、善悪という単純な二極ではない日本人的な姿がそこにある。
説明しすぎない永井愛さんの戯曲がいいのだと思う。
観客のことを思って、戦後間もない頃のあれこれについては、体験者やそれについて知識を持ってないとわかるはずがないから、どこまで説明したらいいのかが微妙だし、キリがない。
例えば、東宝争議のことや2.1ゼネストのことは、物語では大切なことなのだが、それを延々と説明されても、全体のリズムが壊れてしまうのだ。だからだからこれぐらいが丁度いい。
驚いたのは、役者さんたちの演技。
東京ヴォードヴィルショーは、それなりに見続けているのだが、例えば、こんな石井愃一さんや、たかはし等さん、まいど豊さんは見たことないんじゃないか、と思ったこと。
佐藤B作さんも違う。
一見同じなようで、違うのだ。
いつも脇を固める石井愃一さんたちは、ガッと出て、とにかく強い印象を、笑いとともに残す(残そうとする)のだが、今回はそれがない。自分が前に出て爪痕を残そうというアクの強さが引っ込んだ印象なのだ。
「この人たちって、こんなにいい役者さんたちだったんだ」と改めて思うほど、その人の良さが引き出されていた。
B作さんも同じで、「間」が違う。いつもの独特の間ではない。
それによって、現れてくる情感も多いに違うのだ。
ここまで長いこと演じてきて、イメージも出来上がっている役者さんたちの、新たな良さを十二分に引き出していたと言っていいのではないだろうか。
「演出家の力って大きいんだな」と改めて思った。
ただし、B作さんの設定は、20代ぐらいのはずなので、少々苦しいかな(笑)。
三谷幸喜さん作の笑い一辺倒な作品もいいのだが、今回のような、笑いと涙な感じも好きだ。
・・・意外かもしれないが、東京ヴォードヴィルショーって、今までしんみりとさせるものはあったが、泣けるような話はあまりないんだな。
満足度★★★★
初演も観たが、この再演も観たくなった
やっぱ面白い。
ネタバレBOX
LIVESは、おっちゃんたちが必死にあがく姿を描く。
今回は、売れない役者たちが、仮面ライダーの映画撮影で、戦闘員を演じる。
彼らが必死にもがく姿が、役と実際が少し重なり、ほんの小さな明かりと悲哀、そして笑いが生まれる。
初演に比べて少し盛り込んだようで、感情が伝わりやすくなった反面、少し長くなった印象もある。
にしても、役者たちの哀愁感がなんとも言えない。
基本、いい人しか出てこないというのも、なんかいい。
満足度★★★★★
「初」レミゼ
一度は観ておかないと、ということで。
ネタバレBOX
全編、台詞が歌のミュージカル。
ストーリーが面白いし、よくこれを手際よくまとめたな、と思う。
面白い。そして、お腹一杯。
でもまた観てもいいなと思う。そんなミュージカル。
「レミゼ」ファンの人の言によると、「新演出」は単なるキャッチコピーではないらしい。
新演出でスピーディになったそうだ(20分ぐらい短縮?)。
映像、セットの転換、ライティング、早替えなどが効果的。
帝国劇場っていいな。椅子の感じも好きだし、劇場にプチ・ゴージャス感があり、「お芝居観に来たざーます」みたいな感じも捨てがたい。
ここのそばの日生劇場も同じ理由で好きだ。
どちらもチケット代高いのでなかなか行けないけど。
満足度★★★★
『千両みかん』『屋上庭園』:アマヤドリ風味の2本立て
『千両みかん』と『屋上庭園』との2本立て。
『千両みかん』は落語、『屋上庭園』は岸田國士の作なので、なんとなく古典なイメージの2本なのだが、どちらもアマヤドリ風味がよく出ていたと思う。
ネタバレBOX
『千両みかん』
普通に落語を原作として、2人役者が演じるのかと思っていたら、その想像とは違っていた。
もちろん2人の役者が演じるというのは、そのとおりなのだが、イメージ的には、「2人で落語をやっている」という感じなのだ。
どいういうことかと言えば、例えば、2人の会話だが、会話中の目線が合うことはほとんどない。また、演じる役がコロコロと入れ替わる。さらに演技がオーバーだったり、普通の表現ではなかったりもする(お互いの背中に座ったり、担いで歩いたりなど)。
落語は一人で演じるものだから、会話の目線が合うはずもなく、役もコロコロ変わるのは当然。
「立体的な2人落語」を観ているようだったのだ。
しかも落語のように「マクラ」まで用意してあって、それには思わずニヤついてしまった。マクラがもう少し滑稽だったり、軽妙だったりしたら言うことないのに、と。
マクラからきれいに入るのではなく、マクラはマクラで、唐突に「大変です若旦那が…」で入っても落語らしいとは思うのだけど。
中村早香さんの、軽妙な動きと明るい発声は、落語の楽しさを体現しているようで、とてもよかった。本公演でも、あの独特の通る声は印象的なのだが、活き活きしていて、観ているほうも楽しくなってくる。
『屋上庭園』
どう見せるのか、興味津々だったが、面白い。
最初、冒頭数分を見せ方を変えて3回演じる。「ん?」と思ったのだが、ストーリーの展開によりその意味が見えてきた。
(勝手な解釈だが)それは、会いたくない昔の友人に、数年ぶりにばったりと出会ってしまった、戸惑いや、会話が成立するのまでの、心の揺れのようなものを表現していたののではないだろうか。相手にうまくチューニングするというか、そんなイメージだ。
つまり、観客が観ているのは、(主に)主人公である並木の心の様子、心象・心情なのだ。
平均台のような不安定な台の上に立つイメージ、足がぶるぶると震えるような中腰、さらに、早く妻が買い物から帰ってこないかと気を揉んでいるのにもかかわらず、妻たちは、スローモーションのように並木たちの周囲を歩き回ったりする、そうした演出は、すべて並木の内面を表現しているようなのだ。
そうした演出で、主人公・並木に、つい感情移入してしまう。
また、誰しも、会いたくないタイミング、今会いたくない人はあるだろう。ましてや「今何してる?」なんて聞いてほしくないタイミングや時期、相手など、はあるのではないだろうか。
そういう、「そっとしておいてほしい心」を、並木を通して見事に描いていた。
妻の「段々といい友人が少なくなっていく…」なんて台詞はキツイ。
しかし、並木は妻がいて救われているという点が、この戯曲のいい部分ではあるのだが。
並木を演じた糸山和則さんの、ねじくれた、ほの暗い感じがとてもいい。
ヒリヒリ感の共感がある。
……確か主宰で演出の広田さんは、結構な高学歴と聞いている。彼は、大学の同期にばったり会ったりして、並木が「まだ書いてるのか?」と聞かれたように、「まだ演劇やってるの?」とか「今何やってるの?」とか聞かれるときに、並木のように感じてしまうことはないのだろろうか、なんて余計なことも思ってしまったり……。余計ですね(笑)。
満足度★★★★
第三部 「御存 鈴ヶ森」「歌舞伎十八番の内助六由縁江戸桜」
杮葺落の3カ月公演も6月で最後。
ネタバレBOX
第三部
「御存 鈴ヶ森」
真っ暗闇の鈴ヶ森での大立ち回り。腕や足を切り落としたり、顔や鼻、尻を削いだりと、なかなかポップにスプラッター。
幡随院長兵衛役の幸四郎さん、少しお疲れだったかな。
「歌舞伎十八番の内助六由縁江戸桜」
前半は、花魁、傾城の衣装の艶やかさを楽しむ。中盤は、滑稽さで笑わせて、ラストへ。
市川團十郎さんが演じるはずだった助六を息子の海老蔵さんが演じる(サブタイトルに「十二世市川團十郎に捧ぐ」とある)。
観客の多くが、海老蔵さんの登場を相当楽しみにしていたのが、客席のなんとも言えぬ期待感のざわめきでわかる。
海老蔵さんは大きく見え、声もいいのだが、いまひとつ、ふたつ重さがない。それはしょうがないけど。
吉右衛門さん、三津五郎さん、菊之助さんが楽しそうに脇を固めていて、つい彼らと比べてしまうと、まだまだこれからという印象。
吉右衛門さんとのやり取りは、どちらが主人公だかわからないほどだったが。
三津五郎さんは、「じぇじぇ」「今でしょ」などの流行り言葉や、市川團十郎さんのことや海老蔵さんの息子誕生のことなどを盛り込んで。動きも軽妙で、観客を大いに沸かせた。
満足度★★★
あくまで「宝塚版」の『モンテ・クリスト伯』
やっぱり宝塚は、面白いけど。
ネタバレBOX
原作としている『モンテ・クリスト伯』とは似たような話であって、別物と考えたほうがいいかもしれない。原作を読んでいくと人間関係で混乱するかもしれない。それぐらい違う。なぜそういう設定に変更したのかはよくわからないが、とにかくわかりやすくしたのだろう。
しかし、その分、テーマははっきりさせている。
テンポよく、一瞬ともダレるところはない。
ストーリーの展開上、避けて通ることのできない細かい設定等の説明を、この物語を演劇として上演しようとする、現代の学生と先生が現れるという設定に担わせる。
それによって、大長編のストーリーはサクサクと進む、それはいいとしても、そのせいで、舞台上の物語が作り物っぽくなってしまう気がする。
また、現代の学生と先生のパートが、舞台上で行われている物語とどうリンクしていくのか、あるいはどう決着するのかと思っていたら、それをやりっ放しで、いつの間にか彼らは消えていた……。
それだったら、そんな中途半端な設定にしないで、誰かをナレーション的な役割にしただけで十分だったのではないかと思うのだが。
また、ミュージカル・プレイと銘打っている割には、歌が少なかった。
主人公エドモン・ダンテスを演じる凰稀かなめさんは、八頭身どころか九頭ぐらいのスタイル。
悪役3人組もカッコいい。男性があのように演じたら苦笑してしまいそうだが、宝塚だとカッコいいのだ。
やっぱり宝塚は面白いと言ってしまう。
第2部のレビューは、冒頭にずらっと並び立つシーンは鳥肌モノだった。
宝塚の99年という歴史を振り返る内容だが、大昔の作家先生の紹介をされても、観客の多くはピンとこないのではないだろうか。
それよりも作品中心の紹介にしたほうがよかったのではないかと思うのだが。