桜の園 公演情報 時間堂「桜の園」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    クロサワ・マジック
    って言っていいのでは。

    上映時間55分の『桜の園』。

    そう言えば、『風とともに去りぬ』のスカーレットとラネーフスカヤって、境遇が似ているかも。

    ネタバレBOX

    黒澤世莉さんという演出家の演出は、個人的にとても信頼を置いている。
    「その人ならでは」の「演出家臭」と言うか、「俺だよ、俺」というような自己顕示をプンプンと振り撒く演出家もいるが、彼はそういうタイプではない。

    いつも端正で丁寧に、戯曲と役者(登場人物)をきちんと見せてくれる。「作品」を全面に出してくると言ってもいてかもしれない。
    その作品に一番マッチした方法で見せてくれるのだが、観客にそういった「技」を感じさせず、作品に没頭させるうまさがあると思う。

    で、『桜の園』。
    この作品は、時間堂でそのまま上演したとしても、面白いものが観られたと思うのだが、どうやら事前情報によれば、1時間以内でチェーホフの『桜の園』を上演するという。
    時間という要素は大きい。したがって、どうやって見せてくれるのか興味津々だった。

    劇場内に入ると前方の座席に、紙で作ったゼッケンのようなものが掛けてあった。
    それぞれに『桜の園』の登場人物の名前が書いてある(女優が演じる3役を除き)。
    その席に座った人は、そのゼッケンを付け、観劇するという。
    もちろん、観客本人がやってもいいという同意のもとに行われた。

    ゼッケンを付けた観客は、その登場人物であり、役者がその登場人物(観客)に話し掛けるということになる。
    ただし、観客には台詞や演技の必要はもちろんなく、リアクションも求めないという。
    3人の女優が、それぞれラネーフスカヤ、ワーリャ、アーニャを演じ、それ以外の登場人物は観客となる。

    なるほど、なんとなく「意図」というか、どうやって55分にまとめるのかの一端が見えてきた。

    観客に設定されている登場人物の台詞は、効果を担当しているスタッフが手を叩くことで表現される。
    したがって、例えば、女優が演じるラネーフスカヤが、フィールスに話し掛けとする。フィールスは観客に設定されている登場人物なので、返しの台詞はなく、その代わりにスタッフが手を1回叩く。それでフィールスの台詞となる。したがって、フィールスの台詞は一瞬であり、その手を叩いたこと(台詞の返し)を受けてラネーフスカヤは、フィールスとの会話を続ける。
    結果としてとてもスピーディな展開となる。

    つまり、舞台の上ではラネーフスカヤ、ワーリャ、アーニャの台詞しか聞こえず、それだけで芝居は進行するのだ。

    『桜の園』という戯曲には、「喜劇 四幕」というサブタイトルが付いていることは有名だ。
    先日も、そこをクローズアップして三谷幸喜さんがこの戯曲を上演した。
    台詞や演技をプラスして、「笑い」を作っていた。
    それには、非常に違和感を覚えた。それは「足している」からだ。
    それじゃ意味ないよなあ、と思った。

    時間堂の『桜の園』はどうだったのだろうか。
    実は、早い時期からクスクス笑いが起きていた。
    観客がもっと多かったら、大爆笑になったシーンもあっただろう。
    全編、そんなクスクス感が充満していたのだ。

    それはなぜか。
    それは、3人の女優以外の登場人物を観客が担っているからなのだ。
    観客は黙ったまま、面と向かった女優さんたちに、一方的にいろんなことを言われてしまう、という状況が生まれてくることになるからだ。

    その観客と台詞とのギャップ、女優さんに面と向かって話し掛けられれば、つい頷いていまうような感覚、そんなお芝居と観客が接する一瞬が、とても面白いことになっているのだ。オリジナルの台詞は変えずに。

    もちろんそこが、チェーホフが「喜劇」と書いたポイントではないのだが、『桜の園』の世界の中に入ったら「あれ、面白いんじゃないか」と思わせる不思議な一瞬が起こっていたと思う。

    これは、演出的にも意図されていたことだと思う。

    単なる「客いじり」の1つのパターンじゃないか、と言う人もいるかもしれないが、それだけではない感覚がそこにはあったと思う。
    『桜の園』に触れた感じ、とでも言うような感覚だ。

    スピーディな展開と、特に直江里美さんが演じていた女地主のラネーフスカヤが、若々しくて軽やか明るいので、桜は咲いているが、凍てつくようなロシアでの物語感が消え、もっと身近になった印象がある。
    言ってしまえば、陽気なアメリカのホームドラマの一場面のような感じなのだ。

    それは、執事だの、老僕だの、商人だのと言った、重々しく台詞回しをしがちな登場人物が姿を現さない(役者が演じない)ことからも起こってきたのだろうと思うのだ。

    ただし、桜の木を伐採しているような音を、薪のようなモノを叩いて出していて、それがことのほか、強く響いていて、彼女たちの境遇を忘れさせないようにしていたのも印象的。

    ワーリャとアーニャの配役も絶妙だった。ワーリャ役の阿波屋鮎美さんのすこしおっとりした姉感と、アーニャの若さ&観客を台詞によっては、正面で見つめる目力が印象に残る。

    最初に、「『桜の園』を1時間ぐらいでどうやって見せるのだろうか」ということに一番の興味があったと書いたが、確かに1時間ぐらいに作品は縮められたが、実は、観客が観たのは、単に『桜の園』を短くするためだけの演出ではなく、ラネーフスカヤの気持ちのコアの部分を見せ(独白の台詞が浮かび上がってくる)、さらに観客に作品を身近に感じさせ、くすくす笑いを起こさせることになっていたのだ。

    うまい。

    オリジナルのラストは老僕のフィールスがぶつぶつ言って幕となって、観客は少々暗い気持ちになるのだが、今回は役者が演じるフィールスがいないので、彼の台詞はもちろんなく、ラネーフスカヤが爽やかに去っていくシーンで終わる。

    フィールスのシーンがないことで、ラネーフスカヤとその娘たちが、ドアを開け、新しい世界へ希望を持って踏み出していくような印象を与えた。
    それは、『風とともに去りぬ』のラストのような印象なのだ。
    そう言えば、『風とともに去りぬ』のスカーレットとラネーフスカヤって、境遇が似ているかも。

    東京公演は1日だけだったのがもったいないと思った。

    もし、再演があるのならば、大学生のペーチャが観客的には儲け役だった、とだけ書いておく。

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    2013/08/05 07:04

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